散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

織田信長・天下静謐論・わかりにくさ・徒然感想

2019年06月27日 | 織田信長
「織田信長天下静謐論」というのは金子拓氏が主張しているもので、同系列には神田千里氏や松下浩氏がいます。

「天皇から足利将軍に委任された京都を中心とする五畿内の天下を静謐に保つことを理想とし、天下の外にいる大名とはゆるやかな連合を目指していた、将軍追放後は天皇から信長本人が委任されたという形をとった」とされます。

本郷和人氏は神田氏の名を挙げて「資料の裏を読む作業がない」と批判しています。ちなみに本郷氏は金子氏とは同じ東京大学史料編纂所の同僚です。本郷さんが教授、金子さんが准教授。

なんで金子氏の意見は読みにくいのだろうと考えてみると「ちょっと常識で考えればおかしい」ことが多いわけです。信長の「高邁な理想」と書かれている「天下静謐」ですが、信長が生まれた時、将軍はすでに京都を離れて朽木谷あたりに逃げている事が多く、「畿内を将軍がおさめ、大名とゆるやかな連合を組む」なんて「理想とも言えない非現実的なあり方」だったわけです。

非現実だから「高邁な理想」なんでしょうが、信長がよほど観念的な非現実的夢想家じゃない限り成立しません。

ところが信長公記の記述をみると「大蛇がいないことを確認するため池の水を抜いた」とか「実証的な人物」であることを証明することが色々記載されているわけです。

革命家とか天才という評価を否定しようとすることはいいのです。でも小和田氏がやっているように「ここは革新的」「ここは前例主義」「ここは独創」「ここはオリジナルじゃない」とバランスよくやってほしいと思います。

で、なんで読みにくいかというと「形を変えた皇国史観」だからかなと思います。読みやすいという人がいる理由もそれで分かります。

金子氏のいう「天下」とはかなり抽象的な概念です。天皇・朝廷・将軍の上に「天下概念」があるわけです。天皇・将軍も天下の一部だから「信長は時には将軍や天皇を叱責した」とされます。

天皇すら越えているのですが、それはあくまで京都五畿内ともされます。「国体の護持」の国体みたいです。天皇といえど「天下静謐に背いたらいけない」らしいのです。

非常に観念的な概念で、わかりにくいのです。読めば読むほど矛盾が多く、わからなくなります。

金ヶ崎の戦い・本郷和人氏の素朴な疑問・信長が特別じゃなければ「天下統一」はないでしょ?

2019年06月27日 | 織田信長
本郷和人氏は書いています。産経の歴史ナナメ読みです。

いま学界の主流は「織田信長は、特別な戦国大名では『ない』」という評価です。それはおかしい、信長が特別じゃなければ「天下統一」はないでしょ? と反論すると、いや、彼にとっての「天下」とは近畿地方を意味するんだ、とくる。いやいや、天下が日本全体を指している用例は鎌倉時代から普通にあるじゃないか、と反論しても、戦国時代に限れば、天下=畿内ですよ、と返される。まあ、信長株はどう見ても下落しているわけですね。学界のつまはじきであるぼくは、それはおかしいでしょう、と言い続けています。分裂していた日本が一つにまとまる、という大きな変化に、ともかくも注目しようよ。その動きの中心にいた信長が、「特別でない」はずはないでしょ? と。

引用終わり。

学問的反論じゃなくて「素朴な疑問」です。信長は特別な大名ではないという人は、実に細かく資料や先行研究(同じ意見の)を引用して論を構成しますが、どうにも「最初に結論ありき」なわけです。

天正11年1568年に義昭を戴いて上洛した信長は、その一年半後には朝倉攻めをして失敗します。金ヶ崎の戦いで有名ないくさです。浅井長政が裏切った戦いです。

天下静謐論というものがあります。金子拓氏などが主張して賛同者もいます。それによると信長は「中世的要素を濃厚に残した人物」で、「天皇から足利将軍に委任された京都を中心とする五畿内の天下を静謐に保つことを理想とし、天下の外にいる大名とはゆるやかな連合を目指していた」とされます。

すると、この朝倉攻めは色々おかしいわけです。中世的要素を残していたことは否定しませんが、ひたすら天下静謐というのはおかしい。

・朝倉攻めに対する足利義昭の命令はあったのか。勅許はどうなのかが気になるところです。

これについては「若狭の武藤を討てという義昭の命令があった」とされますが、それは毛利元就あての信長の書状や朱印状で「信長が言っているだけ」の話です。

仮に若桜攻めの命令があったとしても、若狭の武藤はあっという間に降伏したのに、どうして「五畿内」にはおらず、「上洛しなかっただけで特に畿内の静謐を犯そうとしていない朝倉」に攻め入ったのでしょう。

さらに何故足利義昭が先頭にいないのでしょう。先頭じゃなくても出陣していてもいいはずですが、そのような証拠はありません。姉川の合戦でも義昭は出陣していません。

むろん金子氏や神田千里氏は「その理由」を一応は書いています。

「武藤攻めが労せず終わったため、(武藤の背後にいる朝倉を攻めるため・わたしの注)余力を持って越前に攻め入った。そう考えたほうがいいだろう」「不器用すぎる天下人」

なるほど、余力ね。

足利義昭の命令があったというのは信長が自ら出した手紙や朱印状でしか確認できないことですが、もし義昭の命令書があったなら、それを堂々と「浅井長政に」示すのが普通でしょう。
そうすれば浅井は従うか、積極的に従わないまでも邪魔はしない可能性がある。

信長が将軍の命令と書くのは当然で、命令はなかったが勝手にやったと書くわけがありません。実際若狭攻めの許可ぐらいは受けていたでしょう。しかし朝倉は話が違います。「余力で」なんて簡単に書かれても困ります。

まあ色々おかしいのですが、一種の流行があって、こういう無理な論理も受容されているようです。

今の所、公然と反論しているのは金子氏の同僚というか上司の本郷和人氏、反論というか「おかしいよ」ぐらい。それと白峰旬氏。論文をPDFで公表しているので分かります。イエズス会の報告書を用いて異議を唱えています。

松下浩「織田信長その虚像と実像」・信長の敵はみんな朝敵という暴論

2019年06月26日 | 織田信長
松下浩「織田信長その虚像と実像」

内容は「虚像と虚像」というべきものです。

151ページ

1、信長は将軍からの委任を受けて天皇の平和を実現するために、天皇の敵を敵を倒すために戦いを繰り広げているのである。
2、信長にとって天下統一とは天皇のもとに信長自身を執政者とする政権を確立することにあった。
3、天皇制を打倒して自らが名実ともに権力の頂点に上り詰めるような国家を構想することは論理的にありえない。

1、信長は楠木正成なんでしょうか。そうすると浅井・朝倉・本願寺・延暦寺・武田信玄などは全部「朝敵」ということになります。
延暦寺の当時の主は正親町天皇の弟で、延暦寺の寺領を返せという綸旨が信長にあったのですが「無視」しています。

2、天皇のもとにの具体的意味が分かりません。

3、天皇権威を利用しているのですから、打倒なんかしません。徳川幕府を見れば分かります。表向きは尊重、でも法度を出して朝廷権力を削いでいきます。

こういうこと、本気で書いているのでしょうか。怖いという感じすらします。

平山優氏のツイッターを見て、我が身を思う・批判は品よく

2019年06月26日 | 平山優
平山優氏は、TVで拝見する限り常識人という感じでした。

ところがツイッターを見ると、極めて戦闘的です。

最近、わたしは歴史小説を読まず、論文系ばかり読んでいます。でも変なのが多い。論理が通らなかったり、学会の動向への忖度が見え過ぎたり。逆に戦闘的意識が見え過ぎたり。

で、どうせわたしの意見なぞ少数の方しか読まないことをいいことに、筆者を批判ばかりしています。

口汚く罵ったのは、呉座さんに対して「面を洗って出直してください」と書いたブログぐらいでしょうか。

期待していたのに、論理展開がおかしく、また資料の名を間違えるという致命的なミスもしていて、腹が立ったのです。

批判は生産性がない行為か、あるいはきちんと読んだ証拠としての意味ぐらいあるのかと考えていました。

で、平山優氏のツイッターを見たら、とにかく戦闘的です。藤本正行氏とかそのファン、またいじわるな先輩学者に対して戦闘的。そして大河ドラマ「いだてん」を異常に賛美する。

今は定時制の高校教師みたいです。わかります。忙しいのです。採点とかあるし。

その上、本業というか著作があるわけです。あのぐらいのエネルギーがないとできないのかも。

みんなストレスフルだなと思いました。わたしなんぞ「まだまし」と思ったので、今後も論文系の学者さんたちへの批判は書くつもりです。なるべく品を守って。

本能寺の変・明智光秀の「新発見とされた」手紙・幕府再興と結びつかない

2019年06月26日 | 本能寺の変
2017年の9月にニュースが流れました。明智光秀の手紙が新発見され、幕府再興の狙いが見えてきたというものです。実は新発見ではありません。直筆だと藤田達夫さんが「鑑定した」というだけです。でこれを受けて

☆藤田達生氏が示した材料から幕府再興の狙いという結論に結びつかないのは、論理的にものを考える能力があればありえないことは分かるはずだ。

という意見が出ました。これで終わりでもいいのですが、本文と訳文を載せます。ちなみにわたしは藤田達夫さんの学説まで全面否定しているわけではありません。

なおもって、急度御入洛義御馳走肝要に候、委細上意として、仰せ出さるべく候条、巨細にあたわず候、
仰せのごとく未だ申し通ぜず候処に、上意馳走申し付けらるるにつきては、示し給い快然に候、然して御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、其の意を得られ、御馳走肝要に候事、
1、其の国の儀、御入魂あるべきの旨、珍重に候、いよいよ其の意を得られ、申し談ずべく候事、
1、高野・根来・そこもとの衆相談ぜられ、泉・河表に至って御出勢もっともに候、知行の等の儀、年寄国を以て申し談じ、後々まで互いに入魂遁れ難き様、相談ずべき事、
1、江州・濃州ことごとく平均に申し付け、覚悟に任せ候、お気遣いあるまじく候、なお使者申すべく候、恐々謹言

くれぐれも貴人のご入洛の為、お働きなさることが肝要です。こまかいことは上意としてご命令があるでしょうから、私のほうからは申し上げられません。
仰せのように今まで音信がありませんでしたが、上意命令を受けたこと、お知らせいただき、ありがとうございます。
京都にお入りになれること、すでに承知しております。
土橋様もその為、お働きくださいますようお願いいたします。
1) 雑賀衆がわが軍にお味方していただけることありがたく存じます。今後ともよろしくお願いいたします。もろもろご相談させてください。
1) 高野衆、根来衆、雑賀衆が揃って、大阪方面へ出兵することは大変ありがたく存じます。恩賞については、我がほうの重臣と話し合い、のちのちまで良好な関係が継続できるようご相談させてください。
1) 家臣らに、滋賀県と岐阜県南部までをことごとく平定するよう命じ、すでに完了しておりますので、ご心配には及びません。詳細は使者がお話いたします。

・光秀と相手土橋が音信を交わすのは初めて。少なくとも光秀からは初めて。
・将軍の帰京の願いは知っている。よく分かっている。
・よく分かっているから、お味方を願いたい。
・上洛のことについてはご上意があるだろうから、私からは申し上げない。

つまり「貴人(義昭か)に上洛の意思があって命令していることは知っている。具体的には自分からは何も言わない。とにかく自分は上意を知っているので、お味方願いたい」という内容です。
新発見でもなんでもなく、原本らしきものが新発見ということで既知の資料です。
どう読んでも、義昭?が上洛したくて上洛の命令をしていることは知っている。自分も努力する。とにかく安心してお味方願いたい。
これ以上の内容は読み取れないわけです。「自分も努力する」は拡大解釈でそんなことも言ってないようにも読めます。

「貴人のことは貴人から命令があるだろう」と言っているこの手紙から、「私は幕府を再興するために本能寺を起こしました」なんて内容を読み取ることは絶対にできないわけです。
貴人が誰かも明快ではありません。

「幕府再興と関係がある資料だ」「義昭と光秀に連絡関係があった」と読み取るのは無理があると思います。

例えば次の有名な手紙・細川幽斎宛

1 信長父子の死を痛んで髪を切られた由、 私も一時 は腹が立ちましたが、考えて見れば無理もない事と了解いたしました。この上は私にお味方され、大身の大名になられるようお願いいたします。
1 領地の事は、内々攝州(兵庫県)をと考えておのぼり をお待ちします。但馬・若狭の事はご相談致しましょう。
1 この度の思い立ちは、他念はありません。50日100日の内には近国も平定できると思いますので、 娘婿の忠興等を取りたてて自分は引退して、十五郎(光秀の長男)・与一郎(細川忠興)等に譲る予定です。詳しい事は両人に伝えます。

「義昭」の「よの字」も出てはきません。「息子と細川忠興に権力を譲って引退する」と言っているわけです。

「一次資料なんてこんなもの」とは言いませんが、「相手に合わせて自分に利があるように書いている」わけです。

さっき、神田千里さんの本を読んでいたら「信長は天正元年に義昭の居場所が分かったら、義昭のことは、大名で相談して物事を決める。毛利はお味方願いたい」と毛利に書いている。だから「将軍の帰京を認める可能性があったし、天下のことは合議で決めようとしていた」とか書いてあって驚きました。天正元年ならまだ本願寺もいます。敵は多いのです。誰が「将軍を追放してやった。あいつは許さない。毛利も将軍の味方をするな。したら攻めてぶっ潰すぞ」なんて書くでしょうか。

信長は天下支配を狙っていたと言えるのかという持論の補強のため、あえて「裏を読まないで誤読というか、そのまんま真実だと」しているわけです。

大名同士の手紙なんて「裏やウソがある」のが常識で、「持論の補強の為、あえてそれを読まない」というのは、実に不真面目な研究姿勢です。

本能寺四国説は要因の一つに過ぎない・計画性のない明智光秀・本能寺の変は突発的出来事

2019年06月26日 | 織田信長
わけあって同じ文章を違う題名で2つ挙げていることをお詫びします。内容は同じです。

藤田達生「資料でよむ戦国史・明智光秀」は「論理が飛躍しすぎてついていけない本」だとわたしは思います。

1、光秀と家臣である斎藤利三は四国の長曾我部と関係が深かった。
2、光秀たち(これを光秀派閥というそうです)は、長曾我部氏を介して(介してって何?)、西国支配への影響力を行使しようとしていた。(どうやら長曾我部・毛利→毛利にいた義昭ラインというのがあるという前提みたいです)
3、とにかく光秀派閥は四国の長曾我部と関係が深かった。しかも長宗我部元親の正室は斎藤利三の妹(異母?)なので特に関係が深かった。
4、最初信長は長曾我部は殲滅しないつもりだった。光秀派閥は長曾我部とともに四国に勢力を伸ばし、西国へ影響力を行使しようとした。
5、ところが「子供たちへの土地分配=相続問題」に悩んでいた信長?は、四国を殲滅しようとした。
6、そこで光秀派閥は本能寺の変を起こした。「四国討伐」が決まったとしても、光秀が担当するなら「まだ良かった」が?、四国征伐は織田信孝・丹羽長秀の担当となった。全国平定が終わったら光秀派閥は遠国にとばされる。(四国も遠国では?)これではもう織田信長を討つより光秀派閥には進む道がなかった。(なぜ?)それを主導したのは石谷家文章を読む限り、光秀というよりむしろ斎藤利三だ。つまり「光秀派閥だ」。だから「単独犯行説」も「直前に光秀が謀反を利三に打ち明けた」という説も、まったく成り立たなくなったのだ。(そんなことはない、利三にさえ言わなかったほうが自然)
7、今までもこのことを筆者は指摘してきた。しかし江戸時代に書かれた資料(2次資料)を基にしたので検討されることが少なかった。ところが新しく石谷家文章という「1次資料」が2014年に公開された。これを読めば、「四国説」が「検討に値するものである」ことは明らか。光秀派閥が本能寺の変を起こしたのだ。織田家は血みどろの「派閥抗争の場」だったのだ。だから偶然ではなく、本能寺の変は派閥抗争の必然の結果なのだ。(どうして必然という言葉がでてくる?)

たぶん、7割程度は藤田さんの書いていることを「それなりに藤田さんの言う通りにまとめている」と思うのですが、このようにまとめても、何言いたいのかあまり正しくは理解できません。

取次としての面目を潰されたということと、「だから本能寺の変を起こすしかなかった」ということが、すんなりツナガルとは到底思えないからです。

☆四国政策の変換を一因として認めるとしても、あくまで突発的な出来事だったというのが真相だと思います。

石谷家文書とやらも、私の知る限り、本能寺に直接関わるような記述はありません。

さらに長宗我部元親の妻は、家来である斎藤利三の「親戚」に過ぎません。遠いのです。利三の兄貴の義理の弟の娘が元親婦人。家臣の遠い親戚の為に家の存亡を賭けるとも思えません。
ちなみに長宗我部元親の嫡男は信親、その信親の妻は斎藤利三の「めい」です。こっちはやや近い。

そもそも「四国征伐回避」という事態になったのは「たまたま」です。

織田信忠が京都にいて、しかも「たまたま逃げないで」戦ってくれて、死んでくれた。織田有楽も一緒にいましたが逃げています。信忠にも逃げるチャンスはありました。信忠は既に織田家家督でしたから、彼が生き延びていれば長宗我部なんか守っている場合ではありません。ただしなるほど四国派遣は信忠が生きていても一旦中止はされたでしょう。私が言いたいのは信忠が生きていたら「織田家の方針は変わらない」可能性が高いということです。信忠は武田攻めでわかるように、血気盛んな武者です。親父が「ゆっくりでいい」と言っているのに、無視して速攻をかけ、武田を滅ぼしました。戦闘的。いずれは四国征伐です。

さらに大事なのは、四国派遣軍である織田信孝の兵が逃げたことです。「逃げると予想できるわけない」のです。

光秀にとっては「渡海して長宗我部と戦っていてくれたほうが都合がいい」わけです。織田信孝と丹羽長秀が摂津の大名を集め光秀に向かってきたら、秀吉の大返しを待たずして光秀軍は弱体化します。そこに越前から柴田勝家が帰ってきたら、戦いようもありません。

四国派遣軍が消えたことで、光秀はやや延命をしました。

摂津に織田信孝と丹羽長秀が大兵力を抱えていたことは、いつも何故か「無視」されます。前述のように「むしろ四国派遣が始まっていたほうが」光秀にとっては幸いだったはずです。四国征伐を止めても、その四国派遣軍が光秀に向かってきたらどうするのでしょう。

光秀は兵が逃げること読んでいた?本能寺後の大名の動きをことごとくはずした光秀が、この事態だけを読んでいたというのは都合の良すぎる解釈です。

光秀が「明智家は滅んでもいい。とにかく面目を潰されたことが我慢ならない。四国征伐さえ止めれば、自分は死んでもいい。四国派遣軍は自分が迎え撃つ」と考えていたなら成り立ちますが、それはつまり「暴発説」ということで、特に新説というほどのこともありません。あくまで本能寺は偶発的というか突発的な出来事でした。光秀にはいくつかの動機、機会があれば討ってやろうという動機はあったと思いますが、四国もいくつか考えられる動機のたった一つに過ぎない。動機なんかないという見方もできます。状況をみて突然その気になった。つまりたまたまあの機会にチャンスが巡ってきたので突発的に行動したとも言える。それぐらいずさんです。だから織田信孝の四国派遣軍も頭に入っていないし、信忠の存在すら当初は重視していなかったのです。信忠のいる妙覚寺はきちんと包囲されておらず、だからそこ二条新御所に移動できました。きちんと計算された計画ではなく、暴発・偶発・突発。だから数日の天下で終わりました。

「長篠の戦い」・「鉄砲三千挺の三段撃ち」・「藤本正行氏の悲惨な戦い」

2019年06月25日 | 織田信長
藤本正行氏、「長篠の戦い・信長の勝因・勝頼の敗因」(歴史新書y)を読んでみました。「勝頼側の敗因は情勢分析の失敗であり、信長の勝因は、鉄砲だけでなく、総合的な戦力差を利用した作戦勝ちだった」という説明が、表紙裏についています。

難しくはないのです。でも最初「何が言いたいのか」が分かりませんでした。

何故かというと、

藤本氏は
1、信長が多数(千挺以上の鉄砲)を使って、武田を敗ったことを否定していない。
2、長篠の戦いの結果、武田家の名将が多く死んだこと。その原因が鉄砲であったことも否定していない。

のです。つまり「長篠の戦いにおいて、信長徳川軍が多数の鉄砲を投入し、その結果、武田は敗れた」と言っているわけです。無論鉄砲だけでなく「柵」とか「弓矢」の効果も認めています。「鉄砲だけで勝ったのではなく、追撃戦においても多くの敵の首を奪った」と書いてもいます。

でも、鉄砲が大きな力を発揮したこと自体は否定しません。なぜなら氏が信奉する「信長公記」にそう書いてあるからです。

にもかかわらず「鉄砲三千挺の三段撃ち」ということになると、言葉を尽くして「否定」します。「鉄砲三千挺の三段撃ち」という「信仰を持った人がいる」とまで書きます。

つまり本書を通じて「三千挺という数字」と「三段撃ちという戦術」を「ひたすら否定」するのです。
61ページには不思議な記述もあります。「(織田側が)一人でも撃たれれば、それだけで通説のような千人ずつの交代射撃を連続して行うことが不可能になるわけだ」という記述です。
?????。つまり1000人が999人になるから、「千人ずつの交代射撃は不可能」という理屈なのでしょうか。そんな馬鹿な。(私は三千挺支持者ではありませんが)

何故に「そこ」をそこまで否定する必要があろうかと私などは思います。旧日本陸軍参謀部の「日本戦史」が憎いのか。大河ドラマの「演出」が憎いのか。例によって「通説」の源泉として「司馬遼太郎氏」の名前をさりげなく挙げています。結局そこか、という感じがします。

まあ「ライフワークだから執念をもってやっている」わけで、そこは理解できるのですが、、、。

さて、最近の「いろんな学者の見方」を「なんとなくまとめてみると」、こうなると思います。

1、信長は「千挺ばかりの鉄砲」(信長公記)+予備の鉄砲隊を用意していた。まあ1500挺ばかりであろう。

2、三段撃ちは「最初の1クールだけは、350挺×3段撃ちで成立する」が、その後は各自が自分のタイミングで撃った。玉込めの時間差を考えると、自然とそうなる。つまり、戦闘を通して、ほとんどの時間は、各自が「自分のタイミングで撃っていた」。

3、それでも1500挺の鉄砲があれば、100~200発程度の弾丸が絶えずとびかっていた。

4、武田も鉄砲隊は用意していたが、玉と火薬が不足しており、撃ち続けることはできなかった。ので、「突進」した。で、鉄砲でやられてしまった。ちなみに関西では騎馬武将は「下りて戦う」が、関東では「馬上のまま戦う」ことも多かった。騎馬隊はないとしても、騎馬で戦う武将はいた。

5、追撃戦もあった。武田は追撃戦において多数の死者を出した。全員が鉄砲で死んだわけではない。

となるでしょう。「この程度の理解でいいのでは」と思うのです。「完全に史実を確定する」ことは不可能です。

ただし「鉄砲三千挺の三段撃ち」を小説家や大河ドラマが採用するのは「自由」でしょう。なぜならフィクションだからです。三千挺の三段撃ちを描いても、それで「死ぬほど迷惑を受ける人」はあまりいないはずです。

そもそも、藤本氏は「鉄砲三千挺の三段撃ち」を「信仰のように信じている人が沢山いる」と思っているらしいのですが、ほとんどの日本人は「長篠の戦いのことなんか考えてもいない」わけです。

藤本氏のやっていることは「不毛」とまでは言いませんが「悲惨な戦い」(なぎらけんいち)のような気がします。藤本氏自身「数は実はわからない」と書いています。信長公記には「千挺ばかり」とあるが、予備の鉄砲数が「わからない」ので「わからない」わけです。

だったら3000挺かも知れません。それを「各自が自分のタイミングで撃つ」としたら、「三段撃ちに似たような状況になるかも」しれません。

私は鉄砲三千挺の三段撃ちという「整然とした戦術はなかった」と思います。でも「沢山の鉄砲と玉と火薬を用意して、敵の名将を沢山倒した」わけです。で「追撃戦が可能になって」、そこでも槍刀弓で多くの敵を倒した。

それぐらいでいいのでは、それ以上にこだわるべき問題ではないのでは、と思えてなりません。

藤本氏が「歴史家ではなく小説家である司馬遼太郎氏」と「フィクションである大河ドラマ」によって、「間違った戦国史観を多くの国民が持ってしまった」ことに「憤激」しているのは分かるのですが、、、、。

私も大河ドラマが「露骨に史実と違うことを描く」ことに不快を感じることはあります。しかしそれは「西郷どん」のような近代史の場合です。戦国史においては、ある程度フィクションが入るのは当然ですし、「演出の面白さ」を考えるのも、視聴率との関係を考えると、仕方ないことだと思います。そもそも資料が少なくて「史実の完全なる確定」は「ほぼ無理」なのです。

補足
「鉄砲三千挺の三段撃ち」を極めて「濃密に」描いたのは、大河「信長、キングオブジバング」、緒方直人さん主演です。新説も入ってましたが、長篠は見事なまでの三段撃ちでした。(三千挺なのかは不明)
最初、お諏訪太鼓が鳴り響く。そして柵の彼方から「武田の騎馬隊の第一陣」が現れます。太鼓の音も小さくなり、静寂の中、騎馬隊が押し寄せてきます。
ここで、第一段の千挺が火を吹きます。武田の騎馬隊はことごとく倒れます。また「静寂」がおとずれます。すると「武田の騎馬隊第二陣」が押し寄せてきます。
鉄砲隊第二段が銃撃します。第二陣の騎馬隊もことごとく倒れます。そしてまた静寂。
武田は整然と押し寄せ、織田徳川はそれを「整然」となぎ倒していきます。

やがて柴俊夫さん演じる滝川一益が「撃つのをやめよ」と叫びます。

なぜ「やめよ」なのかの説明は番組内では「ない」のですが、私なりにこの滝川一益の「叫び」を解釈するなら、
「これは自分が知っている、いくさ、というものではない。ただの大量虐殺ではないか。」ということになろうかと思います。

見事なまでの「鉄砲三千挺の三段撃ち」です。この作品全体はさほど面白くはないのですが、このシーンは実に印象的でした。史実かどうかではありません。印象に強く残るシーンだったというお話です。

天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった・一次資料の限界と論争

2019年06月25日 | 関ヶ原
「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった: 一次史料が伝える“通説を根底から覆す"真実とは」

乃至正彦さんと高橋陽介さん。

題名は「著者がつけたものではない」ようです。出版社が主導。まあ「気になる題名」ではあります。

関ヶ原の合戦がなかったというのは、色々な理由に基づくようですが、もっとも最大の理由は、

・そもそも毛利と徳川の戦いであり、その毛利と徳川は合戦の前日に講和がなっていた。関ヶ原で天下が決まったわけでない。戦場も関ヶ原ではなく山中という場所。
・毛利が仕掛けた。家康の方から積極的に天下を狙ったわけではない。三成は主戦派でもなかったし、総大将でもない。

ふーん。さてどうなんだろというところです。

関ヶ原新説のもう一人の立役者、白峰旬さんは「論の根拠となった一次資料が信用できない」としています。

・「古今消息集」の「慶長五年九月十二日付増田長盛宛石田三成書状」
・吉川広家自筆書状案(慶長五年九月十七日)『吉川家文書之二』

高橋さんはこれを一次資料として重視するわけですが、「三成の書状は後世の偽作である可能性がある」「吉川広家の書状案は本物だが、広家自身が捏造をしたもの」と指摘します。特に吉川文章には厳しく吉川広家が合戦の前日(9月14日)に急遽、家康との和平を取り付けたというのは吉川広家による完全な捏造・合戦の前日に御和平を取り付けたとする起請文(3ヶ条)の2ヶ条目を完璧に、本物の起請文とは別の文にすり替えた(確信犯的おこない)とします。

☆こっからが感想なんですが

上記の三成の書状は、『古今消息集』に掲載されている「写し」とされるもののみ現存です。原本はありません。白峰説が成立する可能性があります。が偽物か本物かを断定することは永遠に不可能でしょう。多数決の問題になるように思います。

吉川文章が捏造である根拠としては本藩の毛利にはそういう文章が一切残っていないことがあげられています。ただ白峰説でなるほどと思うのは「吉川広家に毛利を代表して徳川と交渉する全権などない」という部分です。

別に白峰氏の肩を持つわけではないのです。白峰説だって使用しているのは「合戦に参加した島津家家臣が残した文章」です。本人も一次資料とは言えないと認めています。さらに「一次資料だけでは限界がある」とも書いています。

もし私が歴史学者でもうちょっと頭が良ければ「上記の三成文章は偽造、吉川文章は捏造、島津家家来文章は記憶に頼った二次資料の上、島津の立場で書かれた信用できないもの」とすることは可能だと思います。

そうすると高橋説も白峰説も否定可能となります。

ある説が出ても「根拠とした一次資料は怪しい」と言えば、その説はたちまち怪しいものとなっていきます。といって「一次資料ならなんでも信じる」わけにもいきません。

何かと言うと「一次資料に基づいて」と言いますが、おのずと限界があることを知るべきです。

磯田道史氏の書評を読んで・長篠の戦い・逆転の逆転

2019年06月25日 | 長篠の戦い
「長篠合戦と武田勝頼」平山優氏の著作に対して磯田道史さんが書評を書いています。以下全文引用

戦国画期の通説をくつがえす歴史家の挑戦
本書は、戦国末期の日本史研究について、重要な問題をいくつも提起する書物である。1575年の長篠合戦は、織田信長・徳川家康連合軍三万人が、武田勝頼軍一万五千人を破った戦いだ。織田軍は鉄砲三千挺(ちょう)を交代々々「三段撃ち」し、圧倒的火力で武田軍の騎馬隊を破った、というのが「通説」だった。

ところが、近年、在野の研究者もまじえて、これに疑義を唱える研究が多数出て、大方、支持を得ていた。(1)織田軍の鉄砲は三千挺でなく千挺である。(2)鉄砲「三段撃ち」は、信ぴょう性が低い小瀬甫庵(おぜぼあん)(1564~1640年)の『甫庵信長記(しんちょうき)』等の記述を、明治に参謀本部編『日本戦史・長篠役』がひろめたもの。(3)武田軍に騎馬だけで編成された騎馬隊などなかった。(4)日本の在来馬は馬体が小さく騎馬突撃は無理、下馬して戦闘した――という説も出た。

評者も数年前だったか、とある中世史の大学教授が学生に「鉄砲の三段撃ちなんて、ないんだからな」と、さも常識のように、叱り口調でいったのを目撃した。そのとき、少し悲しい気持ちになった。長篠合戦関係の史料記述からして、まだ、そんな断定的なことは言えないのではないかと思ったのだ。

本書は、この通説否定を、さらに否定する書物である。(1)織田信長研究の基本文献・太田牛一『信長記』の近年の写本調査から織田軍の鉄砲は三千挺あった可能性が高いとし、(2)の「三段撃ち」についても長篠合戦図屏風(びょうぶ)をみても二列射撃(斉射)はあると指摘。「鉄砲三段」は鉄砲隊三列の交代斉射でなく、単に三か所に配置したことを意味するが、「三段撃ち」は完全に虚構ではない。久芳崇『東アジアの兵器革命』(2010年)など、最近の研究によれば、秀吉の朝鮮出兵の日本軍が輪番射撃をし、明(みん)軍がその技術を習得したことが明らかにされてきている。三列射撃の図は、明の『軍器図説』(1638年)にもあるという。

さらに(3)武田に騎馬隊はなかったとするのも早計だという本書の論説は、戦国大名の軍隊編成についての最新研究をふまえたもので傾聴に値する。近年、戦国大名が領内の豪族からかき集めた兵を、武器ごとに兵種別編成した史料が注目されている。「馬之衆」などとして武田・北条の史料には騎馬隊編成がみられる。上層武士だけが騎馬武者になるのは固定観念であって、史料を精査すると、武田の騎馬武者は「馬足軽・馬上足軽」を含んだ貴賤(きせん)混合であったことがわかるという。

(4)の問題にしても、たしかに、武田軍の騎馬突撃が脅威でないならば、織田軍は「馬防」の柵など用意する必要はない。馬防柵があることが、武田軍の騎馬の威力を逆に証明している、という本書の論法には、一理あるように思われる。

本書の著者である平山優氏は、勇敢である。これからこの平山説が精査をうけていくことになろう。現在、東京大学史料編纂(へんさん)所でも「関連史料の収集による長篠合戦の立体的復元」という共同研究がなされ、これからその成果もさらに出てくるだろう。あとがきによれば、著者は長篠合戦についてもう一冊『検証・長篠合戦』を用意しているという。

長篠合戦による論争は、第二幕がはじまろうとしている。歴史ファンのみならず、読書人はこれに注目せねばならぬ。

昨今の日本史は既に評価の定まった史料の反復利用に終始する保身の安全運転が多い。固定観念を疑い、史料を博(ひろ)くみて自身で評価を下すこの著者の如(ごと)き誠実な勇敢さに拍手したい。


引用終わり。

平山優氏は「西国では馬を降りて戦ったが、東国では乗って戦うこともあった」とTVで発言していて、へえと思った経験があります。
わたしはブログで藤本氏はあまりに三千挺三段撃ちの否定にこだわり過ぎだと書きましたが、これは一読者としての感想です。
学者さんの中にも同じ思いを持つ人はいるようです。

ただ気になるのは「誰かが言い出してある説が通説化すると」、必ずそれを否定する見解が出るということです。むろんそれは学問の発展とも言えます。

「逆転の日本史」的なものが流行し、本が売れます。しかし逆転も限度があるので、ネタに困ります。すると「逆転の逆転」が出てくる。

むろん平山氏が「ネタに困って書いた」なんて言ってるわけではありません。逆転に惹きつけられる読者がいて、でも飽きっぽい。すると今度は逆転の逆転をしてひきつけようとする。平山氏のことではなく、そういう歴史本の法則が気になるのです。藤本正行氏は平山優氏に対して研究倫理まで踏み込んだ反論をしているようです。帯に第二幕は始まったのかとありますが、第二幕は始まっているようです。一応。

白峰旬氏「新関が原合戦論」の序を読んで・徳川史観について

2019年06月24日 | 関ヶ原
白峰旬氏の「新関ヶ原合戦論」の序を読んで。

ここでは本書の内容については触れません。あくまで「序」のみに限定した書き方をします。

徳川史観という言葉は見たことはあったのですが、ピンと来ませんでした。私は「徳川家康は立派だ」と思ったことはほとんどないからです。そういうドラマも山岡荘八の大河「徳川家康」ぐらいのものでしょう。ウソばかりでツッコミながら見ると面白いという作品です。何度か書きましたが、司馬さんなど「城塞」において「家康の行動はほとんど犯罪的」とまで書いています。

ところが、白峰さんの「序」にも「日本人は徳川史観に騙されている」という記述があります。2011年の本です。

・徳川家康は勝つべくして勝ったと思われている。
・石田三成は人望がなく、毛利輝元は凡庸で、勝てるわけなかったと思われている。
・徳川家康は善政を行い、戦にも連戦連勝だったと思われている。
・日本人は勧善懲悪が好きで、三成は悪人、家康は善人と思っている。
・関ヶ原のイメージも徳川の正統性を主張する軍記物等によって作られた。
・こうした歴史小説的理解・歴史ドラマ的理解は、本当の歴史的理解を妨げる要因となってしまっている。
・徳川史観による虚像を剥ぎ取る必要がある。

本書は「石田、毛利公儀」というものを想定していて、それはそれで面白いのですが、この「序」に見える「時代錯誤感」は何なのだと思います。

たまには小説とか大河ドラマを見たほうがいいのにと思います。

江戸時代、軍記物によって徳川の正統性が主張されたのは確かでしょう。しかし明治維新によって一旦徳川の価値は下がります。慶喜が明治天皇に拝謁するのは明治30年です。

しかし1950年台に山岡荘八によって新たな徳川家康神話が作られ大ヒットしました。中国では今でもベストセラーとのこと。全26巻もあります。

それから60年以上が経つのです。1983年に大河化されていますから、再生産は繰り返されているものの、徳川家康を「聖人君子みたいに」描いたドラマはあれぐらいでしょう。

この本が出た2011年には既に「葵徳川三代」も放映されていますし、「功名が辻」も放映されています。

白峰さんの指摘のうち、当たっているのは「毛利輝元は終始凡庸と描かれてきた」ということぐらいです。石田三成が人望がないと描かれるのも確かです。しかし悪人とか能力がないという描かれ方はしません。むしろ知恵があり過ぎて、能力があり過ぎて人と距離ができてしまうという描かれ方です。

大河「功名が辻」においては
・徳川は負けそうだったが、「小早川に鉄砲ではなく大砲を打ち込んで」裏切りを誘発してので、「やっと勝った」とされている。
・三成は人望はないが能力は極めて高いと描かれている。また「三成死すとも」というタイトルの回があり、彼の「立派な側面」も描かれている。さらに役者は中村橋之助という大物が起用されている。
・家康はたぬき親父であり、善人とはほど遠く描かれている。

さらに家康が描かれる場合、時代劇では「三方原」が描かれる事が多く、連戦連勝とは全く違うイメージで描かれる。

というのが実情です。問鉄砲だって聞こえないだろうということで問大砲に変化しています。そりゃ白峰氏の主張のような「布陣」は描かれません。また「小早川秀秋はすぐに裏切った」とも「戦場は関ヶ原の中の山中という土地」だとも描かれません。そこまで白峯氏の学説を採用するわけないし、そもそもフィクションです。

わたしは「徳川史観の虚像」というものは「今のドラマにはさほどない」と考えます。家康は立派には描かれないし、勝つべくして勝ったとも描かれません。

真田丸では「立派な敵役」です。その上本能寺段階でも「へたれ」です。神君伊賀越えなんて「コント」にされて、逃げ回ってばかりです。最後は流石に人並み以上の武将に成長しました。さらに石田三成はかなり魅力的というか「準主役」という扱いで描かれます。淀殿が悪女として描かれることもありませんでした。

功名が辻の永作博美さんの淀殿は悪女ですが、気合の入った悪女です。信長のめい、浅井長政の娘として「秀吉を破滅させてやる」と考えていますし、「三成の遺志を継いで、自分が徳川を滅ぼしてやる」とも考えます。戦闘的悪女です。

白峰氏は「一次資料を読む」ことにかけてはわたしなど足元にも及ばないほどの能力と博学を備えていると思います。しかし小説・ドラマの家康像に関しては、山岡荘八の段階で止まっているか、あるいは司馬さんの「城塞」における辛辣な家康批判を読むことなく、また大河における家康の像の変化に注目することなく「なんとなくイメージで批判」していると思われます。

TBSドラマ「関ヶ原」の素晴らしさ・太閤の為に涙する徳川家康

2019年06月23日 | 関ヶ原
映画「関ヶ原」は悪夢ですが、同じ原作でありながら1981年TBSドラマ「関ヶ原」は史上最高の日本時代劇かも知れません。

☆言うまでもないことですが、ドラマはドラマです。史実じゃありません。ドラマはフィクションであり、フィクションとして楽しむものです。

加藤剛さん演じる三成、三船敏郎さん演じる島左近、高橋幸治さん演じる大谷刑部、三國連太郎さん演じる本多正信、杉村春子さん演じる寧々、沢村貞子さん演じる前田まつ

松坂慶子さん演じる初芽、そして森繁久彌さん演じる徳川家康

文句のつけようがありません。

まず「前田まつ」から。家康に謀反の濡れ衣を着せられた前田利長はうろたえます。しかし、利長の母であるまつ・芳春院はぴしゃりと言います。「家康殿のねらいも分からないのか。とにかく謝って徳川殿の手に乗らないことだ。あなたには徳川殿と天下を2つに割って争う器量はない。前田の家は利家と自分が作った。あなたはそれを守ればいい。それがあなたの器量です」

次に島左近「この傷ではもう先が知れておる。三成の殿は落ちそうらえ。人はそれぞれに自分に似合った舞を舞う。それでいいのじゃ」左近に三成は言います。「左近、わしはそちと舞いたいのだ」左近「心得てござる」・・・さらばじゃ、正義のお人・・・「ここから先は地獄への旅じゃ、ついてきたいものだけついて来い、目指すは徳川家康ただ一人」

大谷刑部は裏切り金吾に対し「とうとう裏切ったか。ゆくぞ。裏切り者を討て。みな死ねよーし。卑怯者を一人でも多く連れていくのだ」
そして切腹に際しこう言います。「三成、地獄で会おうぞ」

地獄なのです。あの世ではない。自分たちには地獄が似合っていると思っているわけです。奥深い。

初芽についても色々書けますが、長くは書きません。とにかく美しいのです。

三成は捕らえられ家康と対面します。ふたりとも何も言いません、家康は正信に「斬れ」と短く言います。三成は思います。「おれは斬れても義は斬れるものか」

廊下にでた家康は正信に言います。「三成に礼でも言うべきであったか」

そして、ここが好きな場面なのですが「家康が太閤と三成の為に泣く」のです。

「豊臣家子飼いの大名たち、ああも無節操に裏切れるものか。喜ぶ反面心が冷えたわ」

「せめて三成のような家臣がいて、太閤殿も初めてうかばれたであろう」・・・そういって家康・森繁久彌さんは涙を流します。

原作ではこれは「黒田如水の心の声」として描かれています。

秀吉の晩年、もはや大名から庶民にいたるまで、その政権が終わることをひそかに望んでいたにも関わらず、あの男(三成)は、それをさらに続かせようとした。すべての無理はそこにある、と如水は言いたかったが、しかし沈黙した。かわりに
「あの男は、成功した」と言った。ただ一つのことについてである。あの一挙(関ケ原)は、故太閤へのなりよりもの馳走(贈り物)になったであろう。豊臣政権のほろびにあたって、三成などの寵臣までもが、家康のもとに走って媚びを売ったとなれば、世の姿は崩れ、人はけじめを失う。かつは置き残していった寵臣からそこまで裏切られれば、秀吉のみじめさは救いがたい。その点からいえば「あの男は十分に成功した」、と如水は言うのである。

さてドラマ。

最後は初芽と正信の会話で終わります。
「わしは三成殿に救われた。わしと三成殿は似ている。知恵ある者は憎まれる。わしはそれを教えてもらった」
「あなたは、三成様とは少しも似ておられません」

呉座勇一「陰謀の日本中世史」・豊臣秀次の切腹・面を洗って出直してください

2019年06月23日 | 呉座勇一
呉座さんが立てている大テーマは「石田三成は徳川家康にはめられたのか」なのですが、ここではその序章部分にある「豊臣秀次事件」のみを扱います。

私は学者でもないくせに金子拓氏とか藤田達夫氏に「噛み付いて」いますが、それはただ「本を読んでも論旨がたどれない。論理破綻、論理の飛躍が目立ちすぎる」からです。初めに結論ありきで、その結論に一次資料をあてはめていく。一般読者が読めない一次資料でウソくさいことを補強する。その姿勢が読者として不快というだけです。私は学者ではない。つまり感想です。

本郷和人さんが「『信長は革命児にあらず』論の資料の読み方は、はっきり言って、あまりにも幼稚だと思う。先学が『ウラを読ん』で達成してきた成果を台無しにしてしまう暴論のような気がする」と書いていますが、私は「幼稚」というか「変だな、そういう風に結びつかないだろ」と思うのです。一読者としての感想です。

呉座さんの場合「応仁の乱」ではあまりそういう飛躍を感じませんでした。こっちの知識不足もあります。

でも「織豊時代」なら多少の知識もあります。そうすると「あら」や「強引な論理」が多少見えてきてしまいます。

最初に「勘弁してくれよ」と思ったのは「初歩的なミス」です。「秀次切腹」に関して一次資料として「言継卿記」を挙げているのです。268ページ。そんな馬鹿なと思いました。だって言継卿記の山科言継は1579年に死んでいるのです。1595年の秀次切腹に言及できるはずありません。でも載っているのかもと思って調べたのですが分かりません。

結局「言経卿記」(ことつねきょうき)と「言継卿記」を間違えていることが分かりました。初歩的なミスなんでしょうが「どうも怪しいぞ」と思わせるには十分なミスでした。

で「豊臣秀次は冤罪だった」という章を立てるのですが、陰謀否定論としてこれはどうなのでしょう。だって多くの日本人が冤罪だろうと思っているのです。つまり「冤罪だった」の方が一般理解に近いのです。真田丸もそう描いていました。

「冤罪だったと言われているが、冤罪ではなく本当だった」というのなら新鮮味もあります。「冤罪だった」では「みんなそう思っているのでは」と思えてしまいます。

そして「でも謀反じゃなかったとすると、一族妻子侍女まで皆殺しが重すぎる」という点に言及するわけです。これはみんな思う疑問です。秀次が邪魔で、秀吉が冤罪をしくんだとしても、一族皆殺しまでするか、親豊臣大名の娘まで殺すかとは誰もが思うことでしょう。

すると矢部健太郎氏の意見を紹介します。「秀吉は殺すつもりはなく高野山追放が方針だった。ところが秀次は勝手に抗議の切腹をしてしまった。抗議の切腹という評判が広まっては秀吉の権威に傷がつくので、秀吉は秀次を謀反人として扱うしかなかった」というものです。

しかし呉座氏はこの矢部氏の意見を細かく紹介しながら、矢部氏に全面賛成とは書きません。

そして呉座氏自身の意見として「秀吉は秀次を精神的に圧迫し、秀次自ら切腹するように仕向けたのではないか」と書きます。呉座氏たちが信仰を持っている「一次資料の裏付け」はあるのかなと思うと、「太閤さまぐんきのうち」に家老を切腹させたとあるがそれが傍証だと書きます。272ページ。

呉座氏がどれほどの「トンデモ」を書いているかお分かりでしょうか。私は呉座氏というファンの多い人に「噛み付く」つもりはないのですが、残念ながらこの秀次の部分はトンデモです。

・一次資料が大切と言いながら、その資料の名前を間違えている。自分で資料にあたっていないから。自ら校正チェックもしているはずで、自分が苦労して資料を読んだなら間違えるわけがない。
・一次資料を書いた公家や女官に「真相が理解できたか」を検討しない。
・矢部氏の意見のうち後半部分(赤字)は推測である上、「評判が広まっては権威が傷つくから謀反人にした」という論理はおかしい。普通は「病死にすればいい」だけのこと。呉座氏はそれを指摘しない。ちなみに矢部氏の意見の前半部分も所詮は推測である。
・「太閤さまぐんきのうち」という「誰もが認める資料性の低い文章」をいきなり持ってきて、「精神的に圧迫し、秀次自ら切腹するように仕向けた」という自分の「推測に過ぎないもの」の根拠とする。しかも資料には「圧迫して切腹させた」という記述はみじんもなく、ただ「家老を切腹させた」とあるだけである。

見るも無残とはこのことです。歴史家が「あえて陰謀論に挑む」という勇気には拍手を送りたいのです。歴史家は陰謀論に関わらないというのが学会の基本的姿勢です。

そういう勇気は応援したいのですが、「この記述に関する限り」、面を洗って出直して来いということです。ト学会に陰謀否定のイロハを教わってほしい。

私はただの読者なので、もうこの人の本は読まないぞと思いました。なんか残念です。

英雄たちの選択・「新視点!信長はなぜ本能寺に泊まったのか?」

2019年06月21日 | 織田信長
信長はなぜ本能寺に泊まったのか

・本能寺には四回程度しか泊まっていない。定宿は妙覚寺であった。
・しかし当日妙覚寺には織田信忠が泊まっていたので、本能寺を選んだ。

というだけのお話でした。

信忠に注目したのが「新視点」らしいのですが、わたしをも含めて、歴史ブログを書く人間なら「なんで信忠まで京都にいたのか」を考えたことはない人間は少ないと思います。

その答えが微秒です。

・信長は自分の官位を信忠に譲ろうとしていたんじゃないか。

というもの、官位は右大将です。「なんじゃないか」という感じです。磯田道史さんの言い方も「そうかも知れない」という感じでした。

この「右大将を譲る」というのは「兼見卿記」にあるわけです。しかしこれは本能寺の変があった天正10年の6月までの記述を、正月から遡って「まるまる書き直した」代物ですから、これを資料として断定するのは無理があると思ったのかも知れません。「そういう資料もある」という感じでした。

ちなみになんで書き直したかというと、吉田兼見は光秀に協力したので、しかも交際も深かったので、害を恐れて書き直しているわけです。裏を読まないといけない資料です。

一方で「三河物語」の「信長が信忠の謀反かと言った」という記述も紹介しています。

これ、資料価値の薄い資料ですが、紹介するだけで否定しないと、「信忠を右大将にしようとした」が成立しなくなります。全てを譲ろうとしていたという前提だと、謀反を起こす理由がなくなるからです。

で、「どうして信忠まで京都にいたのか」に対する番組の結論はあいまいです。「右大将にしようとしたという人もいるよ」程度です。

そして後は「信忠は戦うべきだったか。逃げるべきだったか」の「選択話」をやっていました。

4人ぐらいの歴史学者を呼んで、違う意見を述べさせ、ガチで討論させて欲しいわけですが、それは難しいようです。

最高の大河ドラマ goo調べ・わたしの感想

2019年06月20日 | 戦国時代
独眼竜政宗(1987年)4,805票

葵 徳川三代(2000年)3,336票・・・なるほど、分かりやすいしなにより登場人物が沢山いて勉強になります

草燃える(1979年)2,480票・・・素晴らしい作品なんだが、こんなに上位にくるとは驚く。

おんな城主 直虎(2017年)1,976票

功名が辻(2006年)1,251票・・・司馬さんの作品ではこれがトップか。よくできた作品であることは確か。

真田丸(2016年)656票・・・見直してみるとなかなかいい作品。草刈さんのファンでもあるし。

平清盛(2012年)491票

新選組!(2004年)311票・・・真田丸は好きだが、同じ三谷作品でもこれはいい出来とは言えなかった。

毛利元就(1997年)308票・・・中国地方を描いた唯一の作品

龍馬伝(2010年)241票

篤姫(2008年)224票

北条時宗(2001年)203票・・・いまだに総集編しかDVD化されていない。

軍師官兵衛(2014年)201票

花燃ゆ(2015年)192票

西郷どん(2018年)177票

利家とまつ~加賀百万石物語~(2002年)85票

八重の桜(2013年)83票

秀吉(1996年)72票

風林火山(2007年)72票

天地人(2009年)64票・・・結局誰が天と地と人に恵まれた人物なのかが謎である。

武田信玄(1988年)62票・・・中井さん。シリアスというか暗い。

江~姫たちの戦国~(2011年)61票

おんな太閤記(1981年)58票

義経(2005年)57票・・・女性の着物がきれいでした

黄金の日日(1978年)53票・・・非常に異色の作品。栗原小巻さんがきれいだった。

国盗り物語(1973年)35票・・・わたしならこの作品に入れる

太平記(1991年)33票・・・画期的作品だった。戦前は足利尊氏は逆臣の象徴であった。よい作品。

天と地と(1969年)26票

春日局(1989年)25票・・・おしんと同系列です

花神(1977年)24票・・・地味ながら最高の作品

炎立つ(1993年7月~1994年3月)24票

翔ぶが如く(1990年)23票・・・実に重厚にして奥深い作品。

風と雲と虹と(1976年)21票・・・朝敵かもしれない平将門を描いた画期的作品

獅子の時代(1980年)21票

八代将軍 吉宗(1995年)21票

竜馬がゆく(1968年)20票

信長 KING OF ZIPANGU(1992年)19票・・・言葉遣いがみんな同じで、みんな堅苦しい

徳川家康(1983年)18票・・・徳川家康が限りなく聖人君子、ウソもここまで徹底すると面白い

峠の群像(1982年)16票

元禄繚乱(1999年)16票

源義経(1966年)15票

太閤記(1965年)14票

山河燃ゆ(1984年)14票

赤穂浪士(1964年)13票

花の乱(1994年)12票・・・純粋に室町時代だけを描いた唯一の作品、いい作品です。

勝海舟(1974年)11票・・・主演の渡哲也さんが病気になってしまって、途中から主演が松方弘樹さんに代わりました。

武蔵 MUSASHI(2003年)10票

琉球の風(1993年)8票

元禄太平記(1975年)7票

春の波涛(1985年)7票

いのち(1986年)7票

樅ノ木は残った(1970年)6票

三姉妹(1967年)5票

花の生涯(1963年)4票

徳川慶喜(1998年)4票

春の坂道(1971年)3票

新・平家物語(1972年)3票・・・素晴らしい作品なんだが、見ていない人が多いだろう。

歴史秘話ヒストリア・三好長慶は最初の天下人か

2019年06月20日 | 織田信長
歴史秘話ヒストリア「信長より20年早かった男 最初の「天下人」三好長慶」

三好長慶は革新的な男で、信長以前に鉄砲なども駆使し、天下つまり畿内を支配した。って信長は「世にもマジメな魔王」だったはずでは。まあそれはいいのですが。

天下は戦国時代は京都周辺・畿内のこと、なんでしょうかね。源頼朝は「天下の草創」という言葉を使っていますが、これは全国を指します。「将軍が支配する地域が天下」とすると、足利義輝が近江朽木谷に避難していた時期は「朽木谷が天下」ということになります。

信長が天下という言葉を京都という意味で使った例は知っています。しかし「いつも二重の意味があった」と考えるべきでしょう。狭義には畿内・広義には日本全土。それを強引に「畿内だけだ」と言う人がいるから、「はいそうですか」とは言いたくないわけです。

三好長慶が最初の天下人という場合、1553年から1558年まで将軍不在の京都を支配したからということが根拠となります。

どれだけ実質が伴っていたのかによりますね。例えば正親町天皇は三好長慶が京都を支配していた1557年に践祚していますが、困窮していて1560年まで即位の礼は行えませんでした。

「朝廷なんぞより京都の治安対策をしっかりやっていた」のかも知れませんが、天下人がいたなら、朝廷もそれなりに保護していないと天下人とは言えない気もします。

それに将軍不在時もあったけど、義輝が形ながらもいた時期も多いわけです。

信長の最初の上洛時、上杉謙信の上洛時。京には将軍がいました。彼らは将軍には拝謁していますが、三好長慶には会っていないようです。

天下人(畿内の支配者)並みの実力は有していたのでしょう。ただ天下人というよりあくまで「幕府執権」という感じが強くします。

そう言えば、武士で最初に京都周辺を支配というか管理したのは「六波羅探題」で、初代長官は北条泰時・北条時房でした。彼らは天下人とは言われてません。

三好長慶が最初の天下人でも別にかまいませんが、どれほどの実質を持っていたのか。それは疑問だと思います。