散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

豊臣秀長・豊臣小一郎が生きていたら。豊臣政権の延命を考える。

2019年01月23日 | 豊臣秀吉
豊臣政権は「滅ぶべくして滅んだ」ところがあります。朝鮮侵略が致命傷でした。だから別に「延命して欲しかった」とは思いません。

でもここでは「思考実験」として、これなら延命したのではないか、を書いてみることにします。最初に書いておくと、家康を殺すはNGとします。実際家康一人を殺していても延命できたとは思いません。

☆どんな方法をとるとしても、豊臣恩顧内の内紛を鎮め、巨大大名の力を削ぐ、そして政治体制(官僚機構)を整えることが目標となります。

一番いい方法としては、魔法のような話ですが、51歳で死んだ、秀吉の弟の秀長を延命させることだと思います。豊臣秀長は1540年の生まれですから、家康の3歳年上です。家康が死んだのは73歳の時だったと思います。だから秀長を80歳まで「魔法で」生きさせるわけです。すると彼は1620年まで生きます。大阪の陣は1615年です。

人間50年といっても、真田信之などは90過ぎまで生きました。宇喜多秀家も松平忠輝も流されたのに長生きです。全くの「魔法」でもありません。

さらに

1、秀長の領地を増やす。もともとの大和・紀伊・和泉に、伊勢・尾張を加える。尾張の織田秀信は転封する。伊勢は豊臣秀次だったはずです。転封可能でしょう。これで「200万石」です。十分徳川家に対抗できます。

2、秀吉存命中に秀長を関白にする。秀頼を秀長の猶子とし、秀長の次の関白を秀頼とする。淀殿勢力は大坂城から追放して淀城にでも行ってもらう。秀頼の母は「北政所」とする。その上で「秀長と北政所が協力する」、北政所の協力さえあれば豊臣は割れません。

3、関白秀次には関白を返上させ、30万石程度の大名とする。

4、朝鮮侵略は当然即時中止する。朝鮮との外交を行う。

5、朝鮮の役で不満たらたらの加藤清正、福島正則らには、もう与える土地はないので、金銭と名誉号でなだめる。

6、徳川家の250万石は徳川秀忠と結城秀康に分割して相続させる。結城秀康は家康の実子で、秀忠の兄です。ついでに毛利・前田・上杉も分割相続させる。

とりあえず「これだけでも」、徳川家は手出しができなくなります。が、秀長が関白になっても「政治制度を整えなければ」、延命なんてできません。

必ずしも幕府は必要ないでしょうが、幕府を開いた方が、すっきりするでしょう。大坂幕府。「関白にして将軍」。別に難しくはないと思います。関白の方が征夷大将軍なんぞより数段上の位です。家康だって「右大臣にして征夷大将軍」です。

で、朝廷の力は抑制する。

一番難しいのは「江戸幕府でいう老中制度」の構築でしょう。「徳川譜代」は本当の譜代ですが、「豊臣譜代」は忠誠心が薄いからです。「豊臣譜代」なんて言葉すらなく「豊臣恩顧の大名たち」です。
これはもう「譜代大名」を無理にでも決め、あとは「恩顧大名」「外様大名」とするしかないかも知れません。五大老制はやめ、石高の少ない譜代しか官僚になれないようにする。石田三成は「恩顧大名」にしてしまう。加えて黒田如水も清正も福島も「恩顧」です。譜代は増田とか京極とか蜂須賀とか木下とか前田玄以家とか長束とか大谷とか。江戸幕府と同じじゃないかという話ですが、やっぱり一番いい方法でしょう。

実はこんな条件をつけなくても、豊臣秀長が80歳まで生きていたら、存命中は豊臣は滅びないし、江戸幕府も成立しない。むろん関ヶ原も起こらないと思います。私が書いた「関白秀長とか徳川分割」といった「夢みたいな話」が実現しなくても、「豊臣秀長が80歳まで長生きさえしていれば」、豊臣政権は100年ぐらいは続いたと思います。100年以上は無理でしょうが。

豊臣秀吉の朝鮮侵略の動機は日本人にも分からない。

2019年01月02日 | 豊臣秀吉
豊臣秀吉というと、大河ドラマでは何回も主人公になっていますから、「さぞ人気があるのだろう」と韓国・北朝鮮の方は思っているかも知れませんが、最近は「そーでも」ありません。

ただエピソードが「尽きることなく」あるので、非常にドラマにしやすいのです。人気としては信長の方があるでしょうが、信長はちと残虐過ぎます。家康は地味であって、そもそもあまり人気がありません。で、どうしても「秀吉関係」(真田丸とか軍師官兵衛とか、ずばりそのもの秀吉とか太閤記とか)が多くなります。

秀吉に関しては、最近は甥の秀次を殺して、その妻女・子30名以上を虐殺したことも知れ渡ってきました。映画「関ケ原」などその残虐シーンから始まります。「人を殺さない」ことが魅力だったわけですが、「よく考えると晩年は残虐だった」「朝鮮でも耳そぎ、鼻そぎなど相当ひどいことをした」ことが有名になってきています。

もっとも、大河ドラマでは文禄の役=壬辰倭乱や、慶長の役=丁酉倭乱を「具体的に描いた」ことはかつて一度もありません。「加藤清正が籠城して飢えるシーン」なんか一度も描かれたことがないのです。ただ帰ってきてからの清正のセリフで「飢えながら戦っていたのに、三成は国内で桜見物などしてやがった」とあるので知るのみです。正確には桜見物していたのは、石田三成ではなく、豊臣秀吉です。

で「なんで朝鮮侵略なんかしたんだろう」「なんで朝鮮出兵なんかしたんだろう」ということになると、日本国内でも定説はありません。

まあ朝鮮に兵を送ったのは「明を征服しようとした」のだろうという点では「そこそこ」一致はします。が「なんで明を征服しようとしたのか」となると、諸説入り乱れます。

子供が死んだから。領土が必要だったから。絶えず戦争してないと持たない政権だったから。東アジアの秩序を日本を中心として回復しようとしたから。勘合貿易をしたかったから。

と十以上の説があって、たぶん永遠に一致はしません。

領土が必要とか戦争政権とか言っても、江戸幕府が「それなしでも成り立った」ことを考えると?となります。

破綻した明による冊封体制に代わって、新しい東アジアの秩序を回復しようとした、、、こう書くといかにももっともらしいのですが、「できるか!そんなこと」で終わりですし、実際全くできなかったわけです。

結局のところ「頭がどーかした」が一番分かりやすく、そう描かれることが多い。理解不可能ということです。

大河「真田丸」では秀吉が「頭がどーかなったわけではない。大名の力をそぐためだ」と言ってました。それなら豊臣の城をバンバン作って、大名に金を使わせるという江戸幕府方式のほうがよほど理にかなっています。

そもそも「九州と朝鮮の区別がついていたのか」、つまり九州は日本であり、朝鮮は外国であるというしっかりとした認識があったのかすら分かりません。

「言葉が通じにくい」という意味では島津も朝鮮も同じではないか、ぐらいに思っていたふしもあります。つまり「外国との戦争」ではなく「国内戦の延長ぐらい」に思っていたのかも知れません。

一言余計なことを書いておくと、古代はともかく、中世以降となれば、最初に日本を攻撃したのは朝鮮です。「元寇」のことを言っています。高麗は元に言われ、仕方なくですが、日本を攻撃しました。これ、何の為に書いているかというと、朝鮮批判ではありません。書いておかないと「自虐史観」とかナンタラカンタラ、こういう文章は一部の日本人を刺激するからです。とにかく「なんとか豊臣秀吉の行為を正当化できないか」と考える人がいるということです。「できるか!そんなこと!」と私は思っています。もっとも400年前のことで朝鮮に謝ろうとも思いません。そんなら元寇を謝れとなって、不毛不毛不毛な議論になっていきます。

なお、近代においては「朝鮮を通ってロシアがやってくる」ことが怖くて日本は朝鮮を領土化しようとしました。

日本の行為を正当化しようというのではなく、近代においては「それなりの理由=外国への恐怖があった」ということです。でもこれは謝ります。が、少しのみです。日韓併合は100年以上前ですからね。敗戦で終了、終了してからだって70年以上。私とは全く関係ありません。日本人の犯罪的行為にいちいち責任を負うことなんかできないし、実際責任なんかないからです。強制労働の問題なんてそれこそ「国の問題」であって、私個人は全くかかわっていません。

とはいえ、私は本来日韓友好論者なので、いろいろうまくいくことを願っています。

それはともかく、

秀吉の行為については、どーにも説明のしようがない。もっともらしく説明する人もいますが、万人の承諾を得ることはできません。

秀吉の朝鮮侵略の動機については、日本人にもよく分からないのです。

朝鮮出兵以前の秀吉は、日本史でも際立って魅力的なエピソードに富む人物だけに、晩節を汚したのはいかにも「惜しい」と思います。

日本の最初の天皇・日本最初の統一者・豊臣秀吉

2018年12月16日 | 豊臣秀吉
日本の最初の天皇はいうまでもなく天武天皇です。

それ以前は「そもそも日本という国号がなかった」わけですし、「天皇号」もなかったわけです。言葉の厳密に意味において「日本」もなく「天皇」もいなかった。

どんなに古く見積もっても678年が日本の成立のようです。また天皇という言葉の使用もどんなに古く見積もっても678年のようです。

だから日本の最初の天皇は天武です。「倭」のことは今は問題にしていません。「日本」の話をしています。

そもそも有史以来、日本は豊臣秀吉の登場まで「一回として統一されたことはない」とも言えます。これは土地所有について言っています。

673年頃、倭に天武帝が現れ、国号を日本に変え、律令国家のような形態を目指します。が、743年には「墾田永年私財法」ができます。

これは画期的な法令で、おそらく一回も実現しなかった公地公民制が、既にこの段階で公式に崩れます。

そして日本は荘園制へと向かっていきます。というか、そもそも地方には豪族がいて私的土地所有を行っていたわけで、これも荘園のようなものと考えるなら、ずっと荘園があって、墾田永年私財法はその現実をただ「追認しただけ」とも言えます。そして荘園制は平安時代にどんどんと発展していきます。

それから鎌倉幕府が出現したりしますが、日本はずっと荘園制国家です。鎌倉幕府というのは荘園の権利を認めたり、荘園に地頭をまあ「むりやり」置いたりする機関です。その機能は治天の君も持っていましたので、とにかく鎌倉時代と言うのは「中央集権」とはほど遠い政権でした。

足利幕府はさらに中央集権力が薄く、あの時「元寇」があったなら、どうやって戦っていたのだろうと思います。

日本の政権と言うのは、「土地が誰のものか」を承認する機関でした。

この荘園制は徐々に崩れていきますが、最終的には豊臣秀吉の統一を持ってほぼ完全に崩れます。豊臣秀吉には何の「先例」もありませんでした。有史以来、初めて日本を統一したわけです。

さらに江戸幕府は荘園制や個人の大土地所有を制限し、大名小名らにのみそれを認めます。しかも転封があります。大名の家来が土地を持つことも徐々になくなり、家臣たちは給料(米)をもらって生活するようになります。

ただし近代国家ではないので、「藩の政治」には幕府は基本不介入です。

荘園制が理解できないと、地頭の意味も理解できません。「治天の君」の意味も理解できません。南北朝の騒乱も理解できません。鎌倉地頭などというのは「荘園の管理人」です。「荘園領主」はまた他にいるわけです。鎌倉幕府には土地を取り上げる力もその気持ちもなく、ただ「管理人を押し付けた」わけです。

日本において個人の大土地所有がほぼなくなるのは、マッカーサーの改革以降です。ある意味荘園制は1945年まで「続いていた」のかも知れません。日本は「負けたからいい」ものの、戦勝国には「大土地所有制が残存」し、色々不都合がでているようです。

豊臣秀吉を「おそらく有史以来初めて日本を統一した人間」ととらえるなら、彼の貧弱な政治形態も「そりゃ最初だから仕方ない」と同情を持ってみることも可能になります。