呉座さんが立てている大テーマは「石田三成は徳川家康にはめられたのか」なのですが、ここではその序章部分にある「豊臣秀次事件」のみを扱います。
私は学者でもないくせに金子拓氏とか藤田達夫氏に「噛み付いて」いますが、それはただ「本を読んでも論旨がたどれない。論理破綻、論理の飛躍が目立ちすぎる」からです。初めに結論ありきで、その結論に一次資料をあてはめていく。一般読者が読めない一次資料でウソくさいことを補強する。その姿勢が読者として不快というだけです。私は学者ではない。つまり感想です。
本郷和人さんが「『信長は革命児にあらず』論の資料の読み方は、はっきり言って、あまりにも幼稚だと思う。先学が『ウラを読ん』で達成してきた成果を台無しにしてしまう暴論のような気がする」と書いていますが、私は「幼稚」というか「変だな、そういう風に結びつかないだろ」と思うのです。一読者としての感想です。
呉座さんの場合「応仁の乱」ではあまりそういう飛躍を感じませんでした。こっちの知識不足もあります。
でも「織豊時代」なら多少の知識もあります。そうすると「あら」や「強引な論理」が多少見えてきてしまいます。
最初に「勘弁してくれよ」と思ったのは「初歩的なミス」です。「秀次切腹」に関して一次資料として「言継卿記」を挙げているのです。268ページ。そんな馬鹿なと思いました。だって言継卿記の山科言継は1579年に死んでいるのです。1595年の秀次切腹に言及できるはずありません。でも載っているのかもと思って調べたのですが分かりません。
結局「言経卿記」(ことつねきょうき)と「言継卿記」を間違えていることが分かりました。初歩的なミスなんでしょうが「どうも怪しいぞ」と思わせるには十分なミスでした。
で「豊臣秀次は冤罪だった」という章を立てるのですが、陰謀否定論としてこれはどうなのでしょう。だって多くの日本人が冤罪だろうと思っているのです。つまり「冤罪だった」の方が一般理解に近いのです。真田丸もそう描いていました。
「冤罪だったと言われているが、冤罪ではなく本当だった」というのなら新鮮味もあります。「冤罪だった」では「みんなそう思っているのでは」と思えてしまいます。
そして「でも謀反じゃなかったとすると、一族妻子侍女まで皆殺しが重すぎる」という点に言及するわけです。これはみんな思う疑問です。秀次が邪魔で、秀吉が冤罪をしくんだとしても、一族皆殺しまでするか、親豊臣大名の娘まで殺すかとは誰もが思うことでしょう。
すると矢部健太郎氏の意見を紹介します。「秀吉は殺すつもりはなく高野山追放が方針だった。ところが秀次は勝手に抗議の切腹をしてしまった。抗議の切腹という評判が広まっては秀吉の権威に傷がつくので、秀吉は秀次を謀反人として扱うしかなかった」というものです。
しかし呉座氏はこの矢部氏の意見を細かく紹介しながら、矢部氏に全面賛成とは書きません。
そして呉座氏自身の意見として「秀吉は秀次を精神的に圧迫し、秀次自ら切腹するように仕向けたのではないか」と書きます。呉座氏たちが信仰を持っている「一次資料の裏付け」はあるのかなと思うと、「太閤さまぐんきのうち」に家老を切腹させたとあるがそれが傍証だと書きます。272ページ。
呉座氏がどれほどの「トンデモ」を書いているかお分かりでしょうか。私は呉座氏というファンの多い人に「噛み付く」つもりはないのですが、残念ながらこの秀次の部分はトンデモです。
・一次資料が大切と言いながら、その資料の名前を間違えている。自分で資料にあたっていないから。自ら校正チェックもしているはずで、自分が苦労して資料を読んだなら間違えるわけがない。
・一次資料を書いた公家や女官に「真相が理解できたか」を検討しない。
・矢部氏の意見のうち後半部分(赤字)は推測である上、「評判が広まっては権威が傷つくから謀反人にした」という論理はおかしい。普通は「病死にすればいい」だけのこと。呉座氏はそれを指摘しない。ちなみに矢部氏の意見の前半部分も所詮は推測である。
・「太閤さまぐんきのうち」という「誰もが認める資料性の低い文章」をいきなり持ってきて、「精神的に圧迫し、秀次自ら切腹するように仕向けた」という自分の「推測に過ぎないもの」の根拠とする。しかも資料には「圧迫して切腹させた」という記述はみじんもなく、ただ「家老を切腹させた」とあるだけである。
見るも無残とはこのことです。歴史家が「あえて陰謀論に挑む」という勇気には拍手を送りたいのです。歴史家は陰謀論に関わらないというのが学会の基本的姿勢です。
そういう勇気は応援したいのですが、「この記述に関する限り」、面を洗って出直して来いということです。ト学会に陰謀否定のイロハを教わってほしい。
私はただの読者なので、もうこの人の本は読まないぞと思いました。なんか残念です。
私は学者でもないくせに金子拓氏とか藤田達夫氏に「噛み付いて」いますが、それはただ「本を読んでも論旨がたどれない。論理破綻、論理の飛躍が目立ちすぎる」からです。初めに結論ありきで、その結論に一次資料をあてはめていく。一般読者が読めない一次資料でウソくさいことを補強する。その姿勢が読者として不快というだけです。私は学者ではない。つまり感想です。
本郷和人さんが「『信長は革命児にあらず』論の資料の読み方は、はっきり言って、あまりにも幼稚だと思う。先学が『ウラを読ん』で達成してきた成果を台無しにしてしまう暴論のような気がする」と書いていますが、私は「幼稚」というか「変だな、そういう風に結びつかないだろ」と思うのです。一読者としての感想です。
呉座さんの場合「応仁の乱」ではあまりそういう飛躍を感じませんでした。こっちの知識不足もあります。
でも「織豊時代」なら多少の知識もあります。そうすると「あら」や「強引な論理」が多少見えてきてしまいます。
最初に「勘弁してくれよ」と思ったのは「初歩的なミス」です。「秀次切腹」に関して一次資料として「言継卿記」を挙げているのです。268ページ。そんな馬鹿なと思いました。だって言継卿記の山科言継は1579年に死んでいるのです。1595年の秀次切腹に言及できるはずありません。でも載っているのかもと思って調べたのですが分かりません。
結局「言経卿記」(ことつねきょうき)と「言継卿記」を間違えていることが分かりました。初歩的なミスなんでしょうが「どうも怪しいぞ」と思わせるには十分なミスでした。
で「豊臣秀次は冤罪だった」という章を立てるのですが、陰謀否定論としてこれはどうなのでしょう。だって多くの日本人が冤罪だろうと思っているのです。つまり「冤罪だった」の方が一般理解に近いのです。真田丸もそう描いていました。
「冤罪だったと言われているが、冤罪ではなく本当だった」というのなら新鮮味もあります。「冤罪だった」では「みんなそう思っているのでは」と思えてしまいます。
そして「でも謀反じゃなかったとすると、一族妻子侍女まで皆殺しが重すぎる」という点に言及するわけです。これはみんな思う疑問です。秀次が邪魔で、秀吉が冤罪をしくんだとしても、一族皆殺しまでするか、親豊臣大名の娘まで殺すかとは誰もが思うことでしょう。
すると矢部健太郎氏の意見を紹介します。「秀吉は殺すつもりはなく高野山追放が方針だった。ところが秀次は勝手に抗議の切腹をしてしまった。抗議の切腹という評判が広まっては秀吉の権威に傷がつくので、秀吉は秀次を謀反人として扱うしかなかった」というものです。
しかし呉座氏はこの矢部氏の意見を細かく紹介しながら、矢部氏に全面賛成とは書きません。
そして呉座氏自身の意見として「秀吉は秀次を精神的に圧迫し、秀次自ら切腹するように仕向けたのではないか」と書きます。呉座氏たちが信仰を持っている「一次資料の裏付け」はあるのかなと思うと、「太閤さまぐんきのうち」に家老を切腹させたとあるがそれが傍証だと書きます。272ページ。
呉座氏がどれほどの「トンデモ」を書いているかお分かりでしょうか。私は呉座氏というファンの多い人に「噛み付く」つもりはないのですが、残念ながらこの秀次の部分はトンデモです。
・一次資料が大切と言いながら、その資料の名前を間違えている。自分で資料にあたっていないから。自ら校正チェックもしているはずで、自分が苦労して資料を読んだなら間違えるわけがない。
・一次資料を書いた公家や女官に「真相が理解できたか」を検討しない。
・矢部氏の意見のうち後半部分(赤字)は推測である上、「評判が広まっては権威が傷つくから謀反人にした」という論理はおかしい。普通は「病死にすればいい」だけのこと。呉座氏はそれを指摘しない。ちなみに矢部氏の意見の前半部分も所詮は推測である。
・「太閤さまぐんきのうち」という「誰もが認める資料性の低い文章」をいきなり持ってきて、「精神的に圧迫し、秀次自ら切腹するように仕向けた」という自分の「推測に過ぎないもの」の根拠とする。しかも資料には「圧迫して切腹させた」という記述はみじんもなく、ただ「家老を切腹させた」とあるだけである。
見るも無残とはこのことです。歴史家が「あえて陰謀論に挑む」という勇気には拍手を送りたいのです。歴史家は陰謀論に関わらないというのが学会の基本的姿勢です。
そういう勇気は応援したいのですが、「この記述に関する限り」、面を洗って出直して来いということです。ト学会に陰謀否定のイロハを教わってほしい。
私はただの読者なので、もうこの人の本は読まないぞと思いました。なんか残念です。