小田原征伐によって戦国北条氏は滅んだ。「正確に言うなら」間違いです。北条氏の5代目当主は氏直。4代目は氏政です。なるほど氏政は切腹でした。
でも氏政の実母兄弟に「北条氏規」(うじのり)という人がいます。甥の氏直と共に高野山追放でしたが、やがて許され、豊臣政権下で禄を得ています。この時、氏直も許され1万石ほど貰っています。だから「1万石の大名として生き残った」わけです。でも「氏直は死んで」しまいます。しかし彼には氏盛という養子がいました。北条氏の名跡は彼が継ぎますが、1万石以下でした。
面倒なんですが、この氏盛の実父は北条氏規です。やがて北条氏規も亡くなります。で北条氏盛は実父の遺領も継ぐのです。つまり「北条氏直と北条氏規」の遺領を北条氏盛が継いだのです。北条氏の名跡も「少ないが遺領」も継いだ人間がいるわけです。1万石ほどです。彼が藩祖となったのが河内狭山藩で、明治維新まで続きます。
戦国北条氏は一時滅んだように見えるが、1万石の狭山藩として明治維新まで続いた、が正解です。しかも藩祖の氏盛は氏政の実弟の子ですから、血筋もまさに「北条」です。氏直から名跡も継いでいます。最後の藩主は北条氏恭で、後に「子爵」です。
戦国北条氏は滅んではいないのです。
比較的どうでもいい話に行を使ってしまいました。
北条氏政は何を読み間違ったのか。どうして秀吉政権に参入しなかったのか。
これはどうにも不思議な話です。「織田信長には比較的簡単に臣従している」からです。もし「小田原城が難攻不落なら、秀吉より勢力が弱い段階の信長になぜ臣従したのか」という疑問が残ります。
で「ゆるーく」考えてみます。私は歴史学者ではないので、「ゆるさ」は勘弁してください。
1、まずは上杉謙信がいけない。
上杉謙信がさして計画性もなく、10万の「同志」を集めて小田原城を囲んだことがありました。小田原城はびくともしませんでした。謙信の10万の内実も、国衆たちの集まりです。計画性も集団の結束も弱いのです。「食料の都合」とか「農業の都合」があるので、上杉連合軍は、結局一か月で退陣です。国衆寄せ集めの10万の兵も解体解消。「上杉謙信はどうも計画性がない」ということで、関東での評判は良くなかったようです。
この上杉謙信の行動が北条氏政に「変な自信」をつけたのは確かでしょう。「小田原城は謙信でも落とせない」。でもこれだけでは「じゃあなんで信長には臣従したのだ」という疑問は消えません。
2、次に関東管領、滝川一益がいけない。
滝川一益が「関東管領」になった時、北条氏政は「ほっとした」と思います。つまり織田家が「管領を置く政権」だと分かったからです。地方の自治をある程度認める。中央政府から全ての命令は出さないと思ったことでしょう。だとすれば臣従したとしても「関東の王」としての北条氏の立場はある程度尊重されるはずです。
「だったら臣従しても、北条家の政治は否定されないだろうし、関東の王的な立場も存続するだろう。信長はあまり関東などに興味はなさそうだ。」と考えたのかも知れません。
そして信長が本能寺で倒れると、滝川一益の勢いは全くなくなってしまいます。結局北条に敗れ、伊勢に逃げます。「中央政権=信長系統の政権、恐るるに足らず」、北条氏政がそう思ったとしても当然です。
3、もっともいけないのは「いわゆる惣無事令」
惣無事令は色々と批判のある概念です。しかし「秀吉が中央政権の命を関東にも徹底しようとした」のは確かでしょう。
これには「北条家としては従えない」という気概があったと思います。
北条氏は「地方の王」として独自の「民政」を行っていました。そしてそれは当時としては比較的「民思いのもの」で、四公六民であったと言われます。調べると、早雲以来「善政の志向」があったことは確かです。実際どこまで達成したかは分かりませんが、志向としては「善政」だったわけです。
惣無事令はいいとしても「秀吉の政策」に従わないといけない。秀吉が地方の政治(民政)にまで口を出すとすると、関東の王として善政を目指した北条氏そのものが否定されるわけです。
これは北条氏としては従えないものだったでしょう。秀吉はどう見ても善政志向ではありません。朝鮮の役など見ると悪政そのものです。
この政治に対する姿勢の違いが、北条氏が豊臣政権に加入しなかった「大きな理由」なのではないか。それに上記の「1」と「2」が加わり、北条氏は関東の王ではなくなり、1万石の大名として生きる結果に至ったのでは、とわたしはそう考えています。北条氏政は民を守ろうとしたなんて言う気はありません。「善政を志向した早雲以来の北条氏の伝統、プライドを守ろうとした」と言いたいのです。実際に善政を行っていたかはともかく「ずっと善政を志向してきた地方の王のプライド」です。北条氏政の戦いは「北条氏の民政を守る戦いではなかったか」と思えてならないのです。
でも氏政の実母兄弟に「北条氏規」(うじのり)という人がいます。甥の氏直と共に高野山追放でしたが、やがて許され、豊臣政権下で禄を得ています。この時、氏直も許され1万石ほど貰っています。だから「1万石の大名として生き残った」わけです。でも「氏直は死んで」しまいます。しかし彼には氏盛という養子がいました。北条氏の名跡は彼が継ぎますが、1万石以下でした。
面倒なんですが、この氏盛の実父は北条氏規です。やがて北条氏規も亡くなります。で北条氏盛は実父の遺領も継ぐのです。つまり「北条氏直と北条氏規」の遺領を北条氏盛が継いだのです。北条氏の名跡も「少ないが遺領」も継いだ人間がいるわけです。1万石ほどです。彼が藩祖となったのが河内狭山藩で、明治維新まで続きます。
戦国北条氏は一時滅んだように見えるが、1万石の狭山藩として明治維新まで続いた、が正解です。しかも藩祖の氏盛は氏政の実弟の子ですから、血筋もまさに「北条」です。氏直から名跡も継いでいます。最後の藩主は北条氏恭で、後に「子爵」です。
戦国北条氏は滅んではいないのです。
比較的どうでもいい話に行を使ってしまいました。
北条氏政は何を読み間違ったのか。どうして秀吉政権に参入しなかったのか。
これはどうにも不思議な話です。「織田信長には比較的簡単に臣従している」からです。もし「小田原城が難攻不落なら、秀吉より勢力が弱い段階の信長になぜ臣従したのか」という疑問が残ります。
で「ゆるーく」考えてみます。私は歴史学者ではないので、「ゆるさ」は勘弁してください。
1、まずは上杉謙信がいけない。
上杉謙信がさして計画性もなく、10万の「同志」を集めて小田原城を囲んだことがありました。小田原城はびくともしませんでした。謙信の10万の内実も、国衆たちの集まりです。計画性も集団の結束も弱いのです。「食料の都合」とか「農業の都合」があるので、上杉連合軍は、結局一か月で退陣です。国衆寄せ集めの10万の兵も解体解消。「上杉謙信はどうも計画性がない」ということで、関東での評判は良くなかったようです。
この上杉謙信の行動が北条氏政に「変な自信」をつけたのは確かでしょう。「小田原城は謙信でも落とせない」。でもこれだけでは「じゃあなんで信長には臣従したのだ」という疑問は消えません。
2、次に関東管領、滝川一益がいけない。
滝川一益が「関東管領」になった時、北条氏政は「ほっとした」と思います。つまり織田家が「管領を置く政権」だと分かったからです。地方の自治をある程度認める。中央政府から全ての命令は出さないと思ったことでしょう。だとすれば臣従したとしても「関東の王」としての北条氏の立場はある程度尊重されるはずです。
「だったら臣従しても、北条家の政治は否定されないだろうし、関東の王的な立場も存続するだろう。信長はあまり関東などに興味はなさそうだ。」と考えたのかも知れません。
そして信長が本能寺で倒れると、滝川一益の勢いは全くなくなってしまいます。結局北条に敗れ、伊勢に逃げます。「中央政権=信長系統の政権、恐るるに足らず」、北条氏政がそう思ったとしても当然です。
3、もっともいけないのは「いわゆる惣無事令」
惣無事令は色々と批判のある概念です。しかし「秀吉が中央政権の命を関東にも徹底しようとした」のは確かでしょう。
これには「北条家としては従えない」という気概があったと思います。
北条氏は「地方の王」として独自の「民政」を行っていました。そしてそれは当時としては比較的「民思いのもの」で、四公六民であったと言われます。調べると、早雲以来「善政の志向」があったことは確かです。実際どこまで達成したかは分かりませんが、志向としては「善政」だったわけです。
惣無事令はいいとしても「秀吉の政策」に従わないといけない。秀吉が地方の政治(民政)にまで口を出すとすると、関東の王として善政を目指した北条氏そのものが否定されるわけです。
これは北条氏としては従えないものだったでしょう。秀吉はどう見ても善政志向ではありません。朝鮮の役など見ると悪政そのものです。
この政治に対する姿勢の違いが、北条氏が豊臣政権に加入しなかった「大きな理由」なのではないか。それに上記の「1」と「2」が加わり、北条氏は関東の王ではなくなり、1万石の大名として生きる結果に至ったのでは、とわたしはそう考えています。北条氏政は民を守ろうとしたなんて言う気はありません。「善政を志向した早雲以来の北条氏の伝統、プライドを守ろうとした」と言いたいのです。実際に善政を行っていたかはともかく「ずっと善政を志向してきた地方の王のプライド」です。北条氏政の戦いは「北条氏の民政を守る戦いではなかったか」と思えてならないのです。