散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

小田原征伐・北条氏政の戦い・戦国北条氏は滅んではいない

2019年03月30日 | 戦国北条氏
小田原征伐によって戦国北条氏は滅んだ。「正確に言うなら」間違いです。北条氏の5代目当主は氏直。4代目は氏政です。なるほど氏政は切腹でした。

でも氏政の実母兄弟に「北条氏規」(うじのり)という人がいます。甥の氏直と共に高野山追放でしたが、やがて許され、豊臣政権下で禄を得ています。この時、氏直も許され1万石ほど貰っています。だから「1万石の大名として生き残った」わけです。でも「氏直は死んで」しまいます。しかし彼には氏盛という養子がいました。北条氏の名跡は彼が継ぎますが、1万石以下でした。

面倒なんですが、この氏盛の実父は北条氏規です。やがて北条氏規も亡くなります。で北条氏盛は実父の遺領も継ぐのです。つまり「北条氏直と北条氏規」の遺領を北条氏盛が継いだのです。北条氏の名跡も「少ないが遺領」も継いだ人間がいるわけです。1万石ほどです。彼が藩祖となったのが河内狭山藩で、明治維新まで続きます。

戦国北条氏は一時滅んだように見えるが、1万石の狭山藩として明治維新まで続いた、が正解です。しかも藩祖の氏盛は氏政の実弟の子ですから、血筋もまさに「北条」です。氏直から名跡も継いでいます。最後の藩主は北条氏恭で、後に「子爵」です。

戦国北条氏は滅んではいないのです。

比較的どうでもいい話に行を使ってしまいました。

北条氏政は何を読み間違ったのか。どうして秀吉政権に参入しなかったのか。

これはどうにも不思議な話です。「織田信長には比較的簡単に臣従している」からです。もし「小田原城が難攻不落なら、秀吉より勢力が弱い段階の信長になぜ臣従したのか」という疑問が残ります。
で「ゆるーく」考えてみます。私は歴史学者ではないので、「ゆるさ」は勘弁してください。

1、まずは上杉謙信がいけない。

上杉謙信がさして計画性もなく、10万の「同志」を集めて小田原城を囲んだことがありました。小田原城はびくともしませんでした。謙信の10万の内実も、国衆たちの集まりです。計画性も集団の結束も弱いのです。「食料の都合」とか「農業の都合」があるので、上杉連合軍は、結局一か月で退陣です。国衆寄せ集めの10万の兵も解体解消。「上杉謙信はどうも計画性がない」ということで、関東での評判は良くなかったようです。

この上杉謙信の行動が北条氏政に「変な自信」をつけたのは確かでしょう。「小田原城は謙信でも落とせない」。でもこれだけでは「じゃあなんで信長には臣従したのだ」という疑問は消えません。

2、次に関東管領、滝川一益がいけない。

滝川一益が「関東管領」になった時、北条氏政は「ほっとした」と思います。つまり織田家が「管領を置く政権」だと分かったからです。地方の自治をある程度認める。中央政府から全ての命令は出さないと思ったことでしょう。だとすれば臣従したとしても「関東の王」としての北条氏の立場はある程度尊重されるはずです。

「だったら臣従しても、北条家の政治は否定されないだろうし、関東の王的な立場も存続するだろう。信長はあまり関東などに興味はなさそうだ。」と考えたのかも知れません。

そして信長が本能寺で倒れると、滝川一益の勢いは全くなくなってしまいます。結局北条に敗れ、伊勢に逃げます。「中央政権=信長系統の政権、恐るるに足らず」、北条氏政がそう思ったとしても当然です。

3、もっともいけないのは「いわゆる惣無事令」

惣無事令は色々と批判のある概念です。しかし「秀吉が中央政権の命を関東にも徹底しようとした」のは確かでしょう。

これには「北条家としては従えない」という気概があったと思います。

北条氏は「地方の王」として独自の「民政」を行っていました。そしてそれは当時としては比較的「民思いのもの」で、四公六民であったと言われます。調べると、早雲以来「善政の志向」があったことは確かです。実際どこまで達成したかは分かりませんが、志向としては「善政」だったわけです。

惣無事令はいいとしても「秀吉の政策」に従わないといけない。秀吉が地方の政治(民政)にまで口を出すとすると、関東の王として善政を目指した北条氏そのものが否定されるわけです。

これは北条氏としては従えないものだったでしょう。秀吉はどう見ても善政志向ではありません。朝鮮の役など見ると悪政そのものです。

この政治に対する姿勢の違いが、北条氏が豊臣政権に加入しなかった「大きな理由」なのではないか。それに上記の「1」と「2」が加わり、北条氏は関東の王ではなくなり、1万石の大名として生きる結果に至ったのでは、とわたしはそう考えています。北条氏政は民を守ろうとしたなんて言う気はありません。「善政を志向した早雲以来の北条氏の伝統、プライドを守ろうとした」と言いたいのです。実際に善政を行っていたかはともかく「ずっと善政を志向してきた地方の王のプライド」です。北条氏政の戦いは「北条氏の民政を守る戦いではなかったか」と思えてならないのです。


北条氏政の名誉回復・森田善明氏は平成の八切止夫なのか。

2019年03月14日 | 戦国北条氏
前回に続けて「歴史新書y」の「悪口」を書きます。

森田善明氏「北条氏滅亡と秀吉の策謀」。八切止夫「信長殺し、光秀ではない」の悪夢がよみがえりそうな本です。

言ってることは簡単で、

1、北条氏政は歴史の流れを認識し、秀吉に従うことを約束していた。しかし秀吉は途中で北条討伐に政策を変更し、上洛を「拒否」した。北条氏政は「稀代の歴史作家」である司馬遼太郎氏が言うような「おごり」を持った人物ではないのだ。

2、名胡桃城強奪事件なんかなかった。北条討伐の大義を得るための秀吉のねつ造だ。それに真田昌幸が加担したのだ。

そして「ついに定説は覆り、北条氏政の名誉は私によって回復された。私はあの司馬遼太郎氏さえ超えた存在なのだ」という「ご本」です。

北条討伐は「いくさ」です。謀略も策謀もそりゃあるでしょう。

「武田家滅亡は織田信長の策謀、謀略だ。勝頼だって、小山田だって、他の武田家臣だって、最後は信長に降伏しようとしたのだ。でも信長はそれを許さず。実際に降伏してきた者の多くを殺した。勝頼も殺した。これは信長の謀略だ!」と言っているのに「近い」と思います。

その秀吉の策謀を見抜いて「北条氏政がどうしたのか」を書けば、北条氏政の「救済」にはなるでしょうが、「秀吉にだまされて殺された上、秀吉の宣伝工作によってアホな大名の汚名まで着せられたのだ」と森田さんは言っているわけです。そうだとしたら「騙されたほうがアホ」なのです。

北条氏政は武田や徳川や上杉と堂々と戦って、関東に一大勢力を誇った戦国大名です。私もアホではないと思います。

「真田丸」では高嶋さんが演じましたが、実に魅力的な武将として描かれていました。最期も立派でした。(むろんフィクション)ですが。

北条氏政の名誉回復には私も賛同します。ただし森田さんのご本はちっとも名誉回復になっていません。ただし色々資料は使っているので、「ご苦労様」とはいいたくなる本です。

ただし
1、自分の主張に合致する一次資料(主に手紙)は真実として扱う。
2、自分の主張に合致しない一時資料は「疑わしい」とする。特に秀吉の資料は当時のものであっても基本的には「ねつ造」として扱う。

という具合です。初めに結論があって、その結論に沿う一次資料をせっせと探す、という謀略論者(研究者も含めて)がよくつかう資料の使い方をしています。

「おわりに」にはこう書かれています。
「天正18年に滅びた北条氏の無実を主張した歴史研究者は一人もいない。そのために北条氏は、現在に至るまで、愚かにも自らの過失によって滅びた、と信じられてきたのである。」

そりゃ「無実を主張する歴史家」がいるわけありません。北条氏は「罪があって滅びたと考えている人間はまずいません」から、「無実を主張する必要がない」のです。
引用した文章の後半部分を見ると、「無実を主張する歴史家がいないから」「自らの過失によって滅びたと信じられて」とあります。
つまりこの文脈によれば「罪とは自らの過失」ということになります。しかし「過失」とは「ミス」であって、倫理上の「罪」とは少し違う概念です。

それでも「無実」という表現を使う。なぜなら「秀吉のねつ造によって押し付けられた、上洛の遅れ、城強奪という罪」を筆者は前提としているからです。

「無実」などと書かずに、「判断ミスはなかった」と書けばいい。しかしそうは書かない。何故か。それは「判断ミスはある」からです。

「豊臣政権に参加しようとしないというミスはなかった。また名胡桃城強奪事件を起こすというミスはなかった」という筆者の主張を「仮に認めた」としましょう。

でも北条氏は滅んでいます。だからそこには「なんらかの判断ミス」はあったわけです。

筆者の主張に沿ってそのミスを指摘するならば「悪辣非道な秀吉の政治を見抜けなかったミス」「秀吉にコロリと騙されるというミス」ということになります。
あくまで「筆者の主張を認めるならば」の話ですが(私は認めていませんが)、そういうミスがあったから滅びたわけです。

もし北条氏政を救済したいなら、堂々と「彼がいかに優れた政治家であり、武将であったか」を書けばいいのです。秀吉にだまされた可哀そうなヤツにしてしまってはいけないと考えます。
親子も殺しあうあの時代の話をしているのに「秀吉がだましたからいけないのだ」と言われても、、、、というのが私の感想です。