「バラが綺麗ね」と女が突然言う。
まわりは暗闇である。バラが見えるわけはない。と思って見てみるとまっくらな闇の中でバラの赤い色だけがはっきりと見えている。
バラを見ていたら是非とも女の正体を確かめなくてはいけない気がしてきた。たしかめないとこの先生きてはいけないような気がしてきた。
「君は誰だい」と僕は聞いてみた。
「誰って、わかってるじゃないの。あなたは精神科医でしょ」と女は言う。
「精神科医だってなにもかもがわかるわけじゃない」
「ふーん、そう」と言ったきり女は黙っている。
しかたないから僕は女をおぶったままバラの咲く道を歩き続けていった。
「明美だったんじゃないの。あたしは。」と女はまた突然言う。
そういわれると明美のような気持ちになってくる。
明美は友人の紹介で出逢った女だ。たしかIT関係の会社で営業をしているとか言っていた。凄く綺麗な子で、話が面白かった。
「精神科の医者なんかやってると自分もおかしくなるでしょ」
と女は急に変なことを言い出した。
するとだんだん不安になってくる。僕は正常なのか。異常なのか。判然としなくなってくる。
とにかくおかしな女だ。
きっと明美じゃないのだろう。だから。
「君は明美さんじゃないだろ。嘘をいってはいけないよ」と僕は言った。
「嘘って、嘘をついてるのはあなたじゃない。あの時は傷ついたのよ。物凄く。」と女は静かに言う。
こうなると、たまらなく女がこわくなってきた。早く目的地について女を降ろしたいのだが、自分がどこに向かって歩いているのかもわからない。前を見ると小さな光があって、道の周りのバラは今度は黄色い色に変わっている。
「いったいいつになったらこの道は終わるんだい」と僕は聞いた。
女は首筋のあたりで、にやりと笑って、その後少しすすり泣いた。
それから首をぐいと伸ばして顔を僕の正面に向け、あの女の声でこう言った。
「終わるわけないじゃない。まだはじまったばかりなんだから」
するととたんに、女の体がふっと軽くなった。と思ったら、すぐにズンと重くなって、僕の罪が全て分かった
僕は限りない哀しみに涙をながしながら、重く切ない女の体を背負って、今度は紫色に光始めたバラの咲く道を、どこまでも永遠に歩き続けていた。