散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

映画「空海」・「わたしの空海の風景」

2019年04月02日 | 空海
わけあって「こもる」ことを余儀なくされているので、ブログばかり書いています。「伝えたい」というより「書くことが楽しい」のです。

「空海の風景」は司馬さんの作品ですが、もう十年も読み返していません。だからこの文章は「わたしの空海の風景」です。要するに空海に対する「感想文」です。

小説「空海の風景」では、空海が「ちょっとした業師」として描かれていたと思います。「密教を国に売りつけることがうまかった」というか、「最澄が奈良仏教と戦っているのに、空海はそういう戦いをさけて、うまいこと密教の価値をつりあげた」という感じだったでしょうか。むろん「日本史上最大の巨人」という評価をした上でのことです。なにせ一留学僧として唐に渡り、2年で当時最新だった密教の全てを恵果阿闍梨から「奥義伝授」されて帰ってくるのです。どれだけの才能を持っていたのか。底知れません。

そもそも四国の人です。一族の期待を担って上京します。儒教を学んで、官吏として出世することを望まれていましたが、あきたらず、仏教の世界に飛び込み、修験者のような荒修行のあと、唐に渡ります。密教を正統後継者として伝授され、真言宗を開きました。9世紀初頭の話です。

と書きながらも、私は別に密教に詳しいわけでも、まして修行をしたわけでもありません。私が書けるのは密教の「イメージ」だけです。

まず風や嵐といった自然のエネルギーと一体化するというイメージがあります。映画「空海」にそんなシーンがあるのです。唐に渡る途中、空海らの船は大嵐にあって沈没しかけます。橘逸勢らは怯えますが、空海は「本当のことが知りたいか」と言って甲板に飛び出します。「風を恐れるな。己が風になれ。雨を恐れるな。己が雨になれ、人も大地も空も風も、みんな生きているのだ」というセリフがあったと思います。

それから「性のエネルギーを生のエネルギーに」というイメージ。実際これは理趣経という経典に書かれています。例えば「男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である 」と書かれています。これは「単に性を肯定したわけではない」とされ、「小難しい解釈」がなされます。

私はそういう「小難しい解釈をして、欲望の肯定だけではないのだ」とする必要があるのかなと思います。

ただしこれ以上深く書いてしまうと、いかにも道徳に欠けた人間と誤解されるので、これ以上は書きません。

密教なんだから、世俗の道徳は超えて真理を示してくれないと、ぐらいは思っています。

宗教のことは、本当に「何も知らない」人間です。だからイメージだけで書いています。高野山のお坊さんに怒られるかも知れませんが、高野山のお坊さんはたぶん「読まない」ので大丈夫だろうと思います。