上野千鶴子氏の東大入学式での祝辞が話題になっています。遅ればせながら、全文を読んでみました。上野氏の研究は大学時代から読んではいました。私はもともと「反差別」的な人間で、あの頃は「当然のことを言っている」程度にしか思いませんでした。つまり性差別が歴然としてあること。それに抵抗する必要があること。私は男性ですが、日頃からそうした問題を考えていたので、上野氏の主張が、特に目新しい考えとは思わなかったのです。
その後時代は変遷し、私はすっかり安心していました。もはや男より女の方が強い時代だ、ぐらいに考えていたのです。しかし上野氏のスピーチを読み、新たな形の性差別が発生していることが分かりました。わたしの「安心」には油断がありました。
これは韓国との関係も同じで、金大中大統領ぐらいの時代に、私はすっかり安心していました。もう韓国朝鮮差別はなくなり、これから友好的な未来が待っていると思っていたのです。これは全くの間違いでした。
上野氏は言っています。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。
「自分の弱さを認め」からの部分が特に心に残ります。その前だけなら、「あなたたちは優れた強者なのだから、弱者をいたわれ」となってしまいますが、自分も弱者であることを認めよという考えには大変な共感を覚えます。
そして村上春樹氏のイスラエルでのスピーチを思い出しました。
もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。
多かれ少なかれ、我々はみな卵なのです。唯一無二でかけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。それが私の本質であり、皆さんの本質なのです。そして、大なり小なり、我々はみな、誰もが高くて硬い壁に立ち向かっています。その高い壁の名は、システムです。本来なら我々を守るはずのシステムは、時に生命を得て、我々の命を奪い、我々に他人の命を奪わせるのです-冷たく、効率的に、システマティックに。
上野氏の考えとの共通部分が多いと思います。
そしてこれはあえて誰からの引用かを書きませんが、こんな言葉も思い出しました。
<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。
この最後の引用は前の2つの引用とは、主題を異にします。さらにやや過剰に哲学的であり、わかりにくい表現でもあります。しかし私の中では、この3つの引用は、互いに深く関連しているように思えてならないのです。
若い頃、あれほど読んでいた社会学の本も、村上春樹氏の本も、今の私にとっては遠い存在になっています。それを近くして、昔のように読み進めることはたぶんできませんが、それでも「できる限りは」、狭くなった自分の視野を広げなくてはいけない。そんな気がしています。
その後時代は変遷し、私はすっかり安心していました。もはや男より女の方が強い時代だ、ぐらいに考えていたのです。しかし上野氏のスピーチを読み、新たな形の性差別が発生していることが分かりました。わたしの「安心」には油断がありました。
これは韓国との関係も同じで、金大中大統領ぐらいの時代に、私はすっかり安心していました。もう韓国朝鮮差別はなくなり、これから友好的な未来が待っていると思っていたのです。これは全くの間違いでした。
上野氏は言っています。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。
「自分の弱さを認め」からの部分が特に心に残ります。その前だけなら、「あなたたちは優れた強者なのだから、弱者をいたわれ」となってしまいますが、自分も弱者であることを認めよという考えには大変な共感を覚えます。
そして村上春樹氏のイスラエルでのスピーチを思い出しました。
もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。
多かれ少なかれ、我々はみな卵なのです。唯一無二でかけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。それが私の本質であり、皆さんの本質なのです。そして、大なり小なり、我々はみな、誰もが高くて硬い壁に立ち向かっています。その高い壁の名は、システムです。本来なら我々を守るはずのシステムは、時に生命を得て、我々の命を奪い、我々に他人の命を奪わせるのです-冷たく、効率的に、システマティックに。
上野氏の考えとの共通部分が多いと思います。
そしてこれはあえて誰からの引用かを書きませんが、こんな言葉も思い出しました。
<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。
この最後の引用は前の2つの引用とは、主題を異にします。さらにやや過剰に哲学的であり、わかりにくい表現でもあります。しかし私の中では、この3つの引用は、互いに深く関連しているように思えてならないのです。
若い頃、あれほど読んでいた社会学の本も、村上春樹氏の本も、今の私にとっては遠い存在になっています。それを近くして、昔のように読み進めることはたぶんできませんが、それでも「できる限りは」、狭くなった自分の視野を広げなくてはいけない。そんな気がしています。