散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

歴史秘話ヒストリア・世にもマジメな魔王・織田信長・最新研究が語る英雄の真実

2019年04月04日 | 織田信長
NHKは来年の大河「麒麟がくる」では、信長の保守的側面を強調すると既に予告しています。歴史秘話ヒストリア・世にもマジメな魔王・織田信長・最新研究が語る英雄の真実は、「その線に沿ったもの」で、「最近の流行りの学説」を採用してました。

来年「麒麟がくる」が放映されると「信長のイメージがおかしい」となるはずで、その防止も狙っているようです。
 
と私が書いた歴史学者、金子拓氏の監修です。

ただ面白いのは「信長像は揺れ動いてきた。永遠に確定することはないだろう」と金子拓氏自身が出演して言っていることです。「一応今の段階ではこうだけど、論争は果てしなく続くよ」と言っているわけです。その割に内容は「これが史実だ」という感じに仕上がっています。

なんというか、逆説的なんですが、問題点は「当時の一次資料」を用いて織田信長像を再現しようとしていることです。

例えば上洛時に「足利義昭公を奉じて、足利幕府を再興します」と書いている。そりゃ書いています。まさか「足利義昭を傀儡にして、天下は自分が治めます」なんて書くわけないわけです。上杉謙信なんか最初はこの手紙を信じて、喜び、信長に好意的でした。

手紙なんて戦略的なウソばっかり、なんですが、「一次資料」ということで採用されます。そうすれば信長像が守旧的になるは当然です。

明智光秀は「細川忠興のために本能寺の変を起こした」と手紙に書いています。細川を味方にするためです。学者のほとんどは「ウソ」としています。でも「一次資料だから信頼できる」となると、「ウソが史実になる」ことになります。

1、信長は朝廷、公家を重んじていた。

そりゃ重んじているふりはしています。それは徳川家康だって同じです。しかし家康は天下をとるや「禁中並公家諸法度」を金地院崇伝に命じて起草させます。建前としては家康だって重んじているのです。が実際はこの法度によって朝廷の政治力を奪います。家康はそうかも知れないが、信長は本気だった、なんてのは成立しがたい意見です。朝廷そのものが問題というより、朝廷と大名の結びつきが問題なのです。明智光秀が謀反を起こした時、朝廷は光秀を恐れ、もろ手を挙げて光秀を支持しました。この「定見のなさ」に家康のみが気が付き、信長は気が付いていなかったなんてことはありえないことです。

2、天下布武というが天下とは畿内である。

これについては今まで散々書いてきたので省略します。

3、信長は足利義昭を奉じて、足利幕府を再興しようとした。

既に書いたように、建前としてはずっとそういう態度です。各大名に手紙も送っています。だから謙信などは黙って見ていた。その戦略的態度を「本気だった」とするのは無理です。最後の最後までそうした態度ですし、義昭も殺していません。追放にとどめています。

4、比叡山焼き討ちに至っては新説ですらない。

前もって中立を要請したが、聞き入れないので1年待って「仕方なく」「天下静謐」のために焼き討ちをした、そうです。
何が「新しい」のか。全く新事実はありません。1年だったかなぐらいは思います。前に読んだ本では3か月となっていました。
要するに「しぶしぶやった」から「新説」らしいのですが、話にもなりません。「しぶしぶ」「天下静謐」という「言葉遊び」をしているだけです。そんなの解釈だけの問題です。

では何故、僧侶だけでなく、「児童、智者、上人一々に首をきり」と「信長公記」にあるのか。子供も知者も上人も殺しているのです。「しぶしぶ」やったなら、「子供は助けよ」「上人は助けよ」ぐらいの命令となるでしょう。金子氏の言っている(この番組の言っている)ことは単なる言葉遊びであり、全く事実を反映していません。

5、四国攻めだけが何故か「天下静謐」の為ではなく、「暴走」とされ、それが本能寺の変の原因であると金子氏、この番組は言う。

どうして「四国攻め」だけが特別な侵略行為とされるのか。藤田さんの本を読んだけど、実に変な理屈なのです。論理破綻もはなはだしかった。でもまたその変な理屈を読み直す気にはなりません。とにかく「強引で変な理屈」でした。お話にならない感じがしたのを覚えています。

ともかく信長は真面目な正常な人間らしいのですが、

では例えば「信長公記」には親父の葬式で「抹香をくわっとつかんで、仏前に投げかけて」ありますが、「これは若い日のあやまち」なんでしょうか。当時の資料に載っているわけです。一応一級資料です。異常な人格です。

それから一向一揆攻めにおける「なで斬り」をどう説明する。天正伊賀の乱における虐殺3万人をどう説明する。NHKご用達の磯田道史氏など「許せない。とんだサイコ野郎だ」と「英雄たちの選択」で発言しています。
 
さらに城の建て方の革新性をどう評価するのか。
 
戦略的ウソが多い手紙なんぞより、実際の行動の方を見るべきです。

一次資料など、使い方次第でどうとでも「解釈」できるわけです。

だから私の書いていることも「史実だ」ということではないのです。そもそも資料がすくな過ぎるのです。信長の妻たち、帰蝶も吉乃もお鍋の方も、実名すら分かりません。
 
それに何故「信長が人気ランキング1位か」を考える場合、その革新性が国民を引き付けていることは確かでしょう。「悪漢小説」というジャンルがあるように、「悪漢の魅力」というものがあるのです。それを真面目ないい子にされてもなーと思います。

まあ「麒麟がくる」で「守旧的な信長を描く」ことは良くはないけどしょうがないでしょう。ただそれが史実だとするのは無理というものです。

かつて山岡荘八が「聖人君子の家康」を描いてベストセラーになりました。あくまで勤王の人として描いたのです。でも今は「たぬき親父」扱いです。

信長をどう描こうと、それはドラマだから自由なんですが、「もし勤王の程度によって人を評価しようとしている」なら、それは愚行です。なんせ信長は上京を焼き払っているのです。京都焼き討ちです。本当は下京も焼くつもりで命令を出しています。勤王の志士にするのは、いかにも無理です。

こういう見方もある、はいいのですが「最新研究だから史実」とはなりません。学者さんの「一次資料の使い方」は極めて恣意的だからです。数日に一冊は歴史家の本を読んでますが、「わかってやってるな」と思うほど不誠実な人もいます。ただしごく少数、本当に真面目な方もいます。
 
大河の視聴率を高めるためには、若い層も開拓しないといけません。どうせ年寄りは「麒麟がくる」を見るだろう。じゃあ若者受けだ。最近の若者は守旧的だ。「それじゃあ信長も守旧的にしてしまおう」とうNHKの意図が「みえみえ」なのが、なんというか「お願いだからやめてくれ」と言いたくなるわけです。ウソだし。

そもそも「魔王信長」を散々デフォルメして描いてきたのはNHKです。「おんな城主直虎」のデフォルメなんて極端でした。

あとは、どーでもいい話ですが
大河ドラマにおける「狂気の度合い」で考えると、
「国盗り物語」ではさほどではありません。
「信長キングオブジバング」は狂気の人というより「変な人」という描き方です。
「功名が辻」では「かなり狂気が入って」きます。
「おんな城主直虎」となると「完全な魔王」です。市川海老蔵(団十郎)です。
「真田丸」には合計5分も登場しません。真田昌幸、草刈さんは「若い頃の信玄公のような気迫を感じた」と評価し、その妻高畑さんには「神仏を大事にしない人はろくな死に方をしない」と言わせています。計5分ですが重層的な描き方になっていました。

私は本能寺の変の黒幕ではない・豊臣秀吉・足利義昭・正親町天皇・徳川家康

2019年03月30日 | 織田信長
歴史小説では「本能寺の変」は一大イベントです。よくもまあ色んな「黒幕」とか「謀略」を考えるものだと「あきれて感心して」います。私は小学生の時から明智光秀が好きなので、「そんな愚かな武将じゃないよ」と言いたくてたまらなくなります。

一番「あきれた」のは

池宮彰一郎「本能寺」。びっくりします。黒幕の中心は細川幽斎です。細川幽斎が中国地方にいる秀吉の陣に「ふらっとあらわれて」、秀吉に「信長さんが秀吉さんを排除しようとしてますよ」と告げます。すると秀吉は「なら信長を殺そう」と思います。なんでだ?明智光秀は信長が大好きというか畏敬を持っているのですが、この秀吉の変心を知り、それを「防ごう」とするわけです。なら、信長に告げて、秀吉を殺させればいいだけです。しかし「秀吉が信長を殺して勢力を伸ばす。それを防ぐ方法は、信長を殺させないことだ。信長を殺させない為には、わたしが先に殺せばいいのだ」と考えます。もう「頭がおかしくなりそうな論理」です。故人をこれ以上鞭打ちませんが、「びっくりする」小説というか、途中で「小説と言う形態すら捨てて、作者の意見の披露」に変わっていきます。とにかく奇妙奇天烈な本です。

秀吉黒幕説は成り立たない。

何故かと言うと「畿内で一番兵を持っていたのは織田信孝・丹羽長秀」だったからです。四国攻めに備えて1万ほど持っていました。これに摂津勢が加われば二万。親の仇を討つという大義もあります。ところが兵の把握力が弱く、逃げてしまったのです。で三千から六千(諸説あり)ぐらいになってしまう。仕方なく秀吉を待ちました。秀吉は「信孝の兵が逃げることまで計算していた」。秀吉は「信孝の兵が逃げるよう調略した」とでもいうのでしょうが、「もし逃げなかったら」、秀吉がいくら早く返ってきても間に合わなかったはずです。

「畿内で一番兵を持っていたのは織田信孝・丹羽長秀」は「あらゆる他の黒幕論」の「反論」としても使えます。

さらに言うと、秀吉の謀略を裏付けるような「一次資料は一切ない」のです。「一番得した秀吉」と言いますが、清須会議後も「三法師の後見」の座も得てないし、柴田勝家だって「負けるべくして負けた」わけではありません。三法師の後見役ができなかったので、秀吉は清須会議後「織田信雄を家督」としているのです。「一番得した」と思えるのは、結果論です。

足利義昭

足利義昭と光秀が組んでいるなら、何故細川幽斎にそういう手紙を書かないのでしょう。細川忠興のために起こしたとか変な手紙は残ってますが、そんな嘘つくほど「追いつめられていた光秀」が何故足利義昭の名を出さないのでしょう。高山右近、中川清秀、筒井順慶にも「足利義昭が裏にいる」と書けばいいのです。むろん朝廷にもそう奏上すればいい。光秀はそんな行動はとりません。義昭は黒幕ではないからです。

徳川家康

これは簡単で、だったら堺からすぐに船で帰って、兵を集め、光秀と合流しているよ、または、光秀を騙して、合流するふりして打倒しているよ、で終わりです。

朝廷、正親町天皇、近衛前久

そもそも「貧乏公家」「貧乏朝廷」を立て直したのは誰か、信長(と義昭)ではないか、という話です。「国盗り物語」の冒頭は「コジキ同然の天皇になりたいとは思わぬが、できれば将軍、それが無理なら一国一城の主になりたい」というセリフから始まります。正親町帝自身、貧乏で即位後約2年もの間即位の礼を挙げられなかったわけです。

天下静謐を願う朝廷が、やっと信長によって鎮まった京都を「なんでわざわざ戦乱に巻き込む」真似をするのか。「朝廷の力」を重く見過ぎです。または「朝廷や公家をアホだと」思いすぎです。ちょっと前まで「金銭的に困窮していた」人々です。しかも「保身」と「平和」が大好き。信長と足利義昭がやってきて「あー助かった」と思っていた人々です。正確には「あー助かった」と思ったら、信長と義昭が戦争を始め、上京は焼け野原。でも義昭が追放されて戦争も集結。で「あー助かった」と思っているわけです。収入源も一部認めてもらって金も入るようになった。それなのに、自らの危機を招くような「アホ」ではないのです。

以上は「小説の話」ですが、学者の「四国説」もわけわかりません。信長の四国政策が変わった。そこで光秀は面目も、未来の希望も全て失った。なんでそうなる。藤田さんの本も読みましたが「論理が綱渡り状態」で、説得力はまるでないものでした。

じゃあお前の意見はどうなんだ?と思われるかも知れません。私の意見は多くの人?と同じです。「たまたま機会がめぐってきた」からです。信長も信忠も小人数しか連れずに京都にいる。こんな機会、二度とないでしょう。それにしても信長親子も「粗忽」です。なんで兵も持たずに二人して京都にいたのか。この「不用心さ」はいかにも不思議です。

補足

最近読んだ小説の話です。「織田信忠殺人事件きっかけ」でした、信忠が信長と「取っ組み合いの喧嘩をしていたら」、信長死んでしまった。で織田信忠は「光秀を呼び寄せて」、「織田信忠の殺人」を隠蔽するために「自分を殺させた」と書いてありました。なんでだ?小説だから何書いてもいいのですが、「誰も救われないような下らない話」は困ったものです。

織田信長の弟・織田信包・織田有楽斎

2019年01月25日 | 織田信長
織田信包(1543-1614) おだのぶかね 通称三十郎  のち剃髪して老犬斎を名乗る
織田有楽斎(1547-1622) 織田長益 おだうらくさい・おだながます

織田信長(1534-1582)の弟たちです。つまりは織田信秀の息子です。信長には庶兄も含めて兄弟が沢山いますが、有名なのはこの二人です。そして二人のうち圧倒的に有名なのは有楽斎の方です。「真田丸」では井上順さんが演じました。たいていは大坂の陣で「家康の間者」をしていたと描かれます。損な役回りです。また本能寺では信忠と一緒にいながら信忠には自害をすすめ自分は逃げたとされます。自害を勧めたは怪しげな説です。自分は逃げたは本当のようです。
茶では利休十哲の一人。関ケ原では家康に属しています。その後は大阪城で秀頼の後見の一人となったようです。二回目の大坂の陣の前に、もはや穏健派の自分は必要なしとして大阪城から退出しています。子供たち(のうち二人)には江戸幕府で1万石程度の藩を与えられました。そもそも関ケ原では徳川派でしたから、徳川との調整役として大阪城にいたのでしょう。

有楽斎に比べると「織田信包」の知名度はだいぶ低いと思います。映画「清須会議」では伊勢谷友介さんが演じました。あれで知名度は高まったと思います。

1568年年、信長の伊勢平定・上洛戦が始まります。信長は北伊勢の神戸氏には三男の信孝を養子として送り込みます。次に織田信包が北伊勢の長野氏に養子として送り込まれます。信長はこの時点では養子を送って乗っ取るという「毛利元就」と同じような作戦を用いています。織田信包この時、25歳ぐらいです。

次の年1569年に伊勢の国司北畠氏が臣従。織田信包は伊勢安濃津城主となります。この後に「織田信包が参加した出来事」を年表風にまとめると、

1570年・・姉川の戦い
1573年・・浅井・朝倉攻め
1574年・・長島一向一揆攻め
1575年・・越前一向一揆攻め
1577年・・雑賀攻め
1578年・・本願寺攻め・荒木村重討伐
1581年・・信長の馬揃え・第二次天正伊賀の乱
1582年・・本能寺の変 おそらく伊勢にいた・清須会議のあと伊勢津城15万石
1583年・・賤ケ岳の戦い(秀吉側)
1584年・・小牧長久手の戦い(中立→秀吉側)
1590年・・北条攻め
北条攻めの後秀吉の不興をかい、改易。のち復帰して3万6千石
1600年・・関ヶ原の戦い・西軍で細川幽斎攻め・だが戦後本領安堵
1614年・・大阪城で秀頼の後見をしていたが、死去 享年71歳

こうして見てみると前半生はほぼ「一向一揆・本願寺」との戦いです。雑賀も本願寺側です。

本能寺の変の時は39歳ですから、十分に大将となれる年齢でしたが、信忠補佐と言う役回りです。本能寺では信忠の陣にはいなかったようです。本国の伊勢にいたかと思います。
この時、甥の織田信雄も伊勢にいました。本能寺後、伊勢の国人は不穏な動きをみせたようです。織田信雄の手兵は2500でした。これは信孝・丹羽長秀の「四国討伐軍」に手兵を送っていたせいです。そうなると同じ伊勢にいた織田信包は信雄と協力して伊勢を守っていたと考えるのが適当かと思います。

大阪城では弟である織田有楽斎に比べると影が薄い。老犬斎を号するぐらいですから浮世離れした傾向があったのかも知れません。この辺りはもう少し調べてみます。大坂の陣の前年に死去します。

早見俊「うつけ世に立つ」・斎藤龍興・金森長近・帰蝶濃姫

2019年01月24日 | 織田信長
小説「うつけ世に立つ」。うつけは言うまでもなく織田信長です。

最初の方を読んだだけで「あれ?」と思いました。主たる登場人物が「珍妙」なのです。齋藤龍興・金森長近・帰蝶濃姫・鵜飼の弥吉。

帰蝶(濃姫)は信長と離婚して美濃(岐阜)の小屋に住んでいます。で何故か信長を深く恨んでいます。理由は父の仇をうつうつと言ってなかなかうたなかったから、みたいです。なら「かたき」である齋藤義龍・龍興親子の方が憎いはずなんですが、そうではありません。齋藤龍興とは仲がいいみたいです。

で、龍興に「叔母上」などと呼ばれ、「信長を殺すのじゃ」とか言ったりします。これでは「トンデモ」ですが、最後をみるとそこまで「トンデモ」でもありません。ただ「帰蝶」の設定だけが変なのです。ちなみにこの帰蝶、最期は和解し、信長に背負われたりしています。

でも私が本当に変だと思ったのは「斎藤龍興・金森長近大活躍」という点です。なんでこんなマイナーな武将を。

と思って本の終わりを見て納得しました。「そもそも岐阜市とのコラボ小説」なのです。明記されています。だから美濃の龍興・美濃出身で岐阜飛騨高山藩主である金森長近・それから鵜飼の子供が「大活躍する」のです。

小説の話はここまでです。

齋藤龍興(一色龍興)

1548年から1573年まで生きました。信長の美濃攻略が1567年ですから、龍興は20歳ぐらいです。イメージの悪い人です。だいたい「酒と女におぼれた人物」として描かれます。で、竹中半兵衛は「いましめ」の為に稲葉山城を一時奪われたりします。
美濃が陥落した後は、伊勢の北畠を頼ったようです。長井道利とともに長島一向一揆に参加したりして信長に抵抗します。その後は三好三人衆を頼り、本圀寺の変にも参加しています。
最期は朝倉を頼り、そこで戦死したようです。享年25歳。一応最後まで信長に対抗しています。ただし軍団を率いていたわけではなかったでしょう。

金森長近

1524年から1608年まで生きています。84歳まで生きています。大坂の陣前には亡くなっていますが、信長期から関ケ原までを生きたことになります。
美濃土岐氏出身。早くから織田信秀に仕えたようです。織田信秀→織田信長→柴田勝家→豊臣秀吉→徳川家康→徳川秀忠。経歴は凄い。
飛騨高山藩主です。岐阜ですね。私のイメージでは柴田勝家与力なので、越前かと思ってました。
大河で覚えているのは「利家とまつ」に出てきたなというぐらいです。小説ではたまに登場します。

帰蝶・濃姫はどんな設定でもOK

帰蝶・濃姫は比較的早期に「史実がたどれなく」なります。だからどんな設定にしても「トンデモ」とは言い切れないのです。堺に行かせてもいい。美濃に帰らせてもいいということです。なんなら信長暗殺の黒幕にしたっていいのですが、個人的にはそこまでの「トンデモ」はやめてほしいと思います。八切さんの珍説は、たしか帰蝶黒幕説だったと思います。

もちろん本能寺にいてもいいのです。だったら本能寺にいて欲しいかなと思います。

以前は信長と夫婦仲がよく、一緒に本能寺で亡くなってましたが、今は離別したり憎んだり、途中で亡くなってしまったり色々です。史実がわからないのです。
大河「功名が辻」では夫婦仲こそよくありませんでしたが、最期は本能寺で亡くなっています。帰蝶が死ぬシーンがないと、「信長の反応」「光秀の反応」がなくなるのでつまらないのです。
光秀には「帰蝶さまー」と涙ながらに叫んでほしいものです。


織田信長の子供たち・織田信忠・織田信雄・織田信孝・伊賀の乱

2019年01月22日 | 織田信長
織田信長には男子だけでも沢山の子供がいます。有名なのは長男信忠・次男信雄・三男信孝・四男秀勝(秀吉の養子となる)でしょう。

幼名がそれぞれ変わっています。まあまあ「まともな」幼名もありますが、9男の「信貞」にいたっては「人」だと伝わっています。名前が「人」です。

1、信忠

1576年には信長から家督を譲られていますから、本能寺段階では「織田家当主」です。幼名は「奇妙」です。
本能寺段階で26歳ぐらいであると考えられます。本能寺の変で討ち死にしますが、「逃げることもできた説」もあります。実際おじの織田有楽などは逃げたようです。
かつては「凡庸」として描かれました。というよりドラマではあまり深く描かれたことがありません。学説でも凡庸でしたが、最近は「普通並みの武将」だったとされています。
最近の「真田丸」では最初の方だけ登場しました。結構な威厳に満ちていて、徳川家康を「そんざいに扱って」いました。かつては織田と徳川は同等として表現されることも多かったのですが、最近は「本能寺段階では徳川は織田の家来格」として描かれることが普通になっています。
秀吉も彼になついていたとされています。彼が生きていたら、日本史は全く違ったものになっていた可能性があります。

2、三男 信孝

幼名は三七です。
たぶん秀吉によって殺された唯一の「信長の息子」です。実際は秀吉が信雄に命じて、殺しました。殺されたのだから「人並以上の人物だったのかも知れない」とされています。
ただこのブログでも書きましたが、本能寺段階では大阪あたりで1万5千の兵を有しながら「ほとんどに逃げられて」います。掌握力は低かったのかも知れません。

3、次男 信雄

何度も名を変えていますが、ここでは信雄で通します。幼名は茶筅(ちゃせん)、茶筅って茶をぐるぐるかき混ぜる道具です。なお通称は三介です。「三介」の方が有名です。
ほとんどの場合「アホ」として描かれます。大河「功名が辻」でもそうでした。映画「清州会議」ではアホさがデフォルメされていました。

史実は分かりません。が当時から軽く見られていたという資料もあるようです。
清須会議では秀吉が推薦する三法師が織田家を相続しました。信雄は家督を相続できませんでした。それでも伊勢・尾張・伊賀で100万石です。その後家康と組んで秀吉に対抗しますが、勝手に秀吉と単独講和して、家康を唖然とさせます。「アホとされる所以」はこのあたりです。あとフロイスによると、安土城を失火で焼いてしまったそうです。フロイス、信じていいのか分かりませんが。

天正伊賀の乱を起こしたことでも有名です。しかも勝手に1万の兵で伊賀に攻めこみ、負け、信長にしばかれています。でも結局は信長も伊賀攻めを決め、第二次天正伊賀の乱が起きます。総大将は信雄でした。5万を動員して非戦闘員も殺し、3万人を虐殺しています。このあたりを描いたのが映画「忍びの国」ですが、まだ見ていません。

大河では天正伊賀の乱(二回もしくは三回あった)はあまり描かれません。「虐殺シーン」になるからです。大河「国盗り物語」では描かれました。登場した代表的な忍者である葛籠重蔵(架空)が伊賀出身です。露口茂さんでした。必死に戦い「もしわしが生き残ったら、信長を生かしてはおかぬ」と誓います。その後信長を狙います。しかし本能寺を知って「そんな馬鹿な」と唖然とします。「生きる目標を失った」からでしょう。この葛籠重蔵という人はもともとは「梟の城」の主人公です。「梟の城」では秀吉を狙う設定です。

話を信雄に戻します。

豊臣期では貴人としてそれなりに大切に扱われたようです。尾張・伊勢・伊賀という大封を有して、内大臣にもなっています。しかし北条滅亡後の転封に反抗、改易です。遠流のあと秀吉お伽衆、1万8千石。

結局江戸幕府でも息子の領地と併せて5万石で「織田の血筋」を残したとされます。織田の血筋を残したかどうかは「他の血筋からの養子がなかった」かどうかが前提となりますが、それはまだ調べていません。

 まあ血筋なんて分かりません。400年の間に「浮気の子」がいたらそれでおしまいです。

織田信長の上洛戦・伊勢平定・織田信雄・織田信孝

2019年01月22日 | 織田信長
織田信長の上洛戦は永禄11年(1568)9月です。

義昭を奉じて上洛戦を決行する→尾張・美濃・伊勢・近江あたりから兵力4万が終結→あっと言う間に近江の六角義賢は逃げ出す→京大和の三好三人衆も逃げ出す→簡単に上洛

というイメージがある(少なくとも私には)のですが、よくよく見るともうちょっと複雑です。

信長は今の岐阜県・愛知県にいました。ここから京都に行こうとすると、滋賀県(近江)と三重県(伊勢)だけはどうしても避けられません。

武将としては近江の六角義賢と浅井長政が邪魔です。伊勢で邪魔なのは神戸氏・長野氏・そして国司である北畠具教などです。ただし浅井と北畠本家は京への直線ルート上にはありません。

上洛戦の以前から信長はまず伊勢攻略をはじめます。がそう簡単にはいきませんし、力攻めばかりだと信長も兵を失います。

で、「戦わずして攻略する」作戦を立て、まず北伊勢の神戸氏に狙いを定めます。具体的には信長の三男である三七信孝を養子にしないかと神戸氏に申し入れるわけです。神戸氏としても決戦して滅びるよりはということで、これを受け入れます。ここで織田信孝は一旦、神戸信孝になります。(時を経て織田信孝に復帰)

次は同じ北伊勢の長野氏です。これには信長弟の織田信包(のぶかね)を送り込みます。ということで一時、長野信包になるわけですが、この縁組はあっという間に解消されたようです。それでも長野氏は織田家の支配下になりました。この「織田信包」という人は映画「清須会議」で伊勢谷友介さんが演じた人です。豊臣期に15万石→3万6千石。江戸幕府でも本領安堵です。ただし3代で無嗣改易。

これで北伊勢は平定。上洛戦以前です。南伊勢の北畠具教は直線ルートにないので、後回しです。

近江の北にいた浅井長政とは誰でも知っている通り、「お市」を送り込んで婚姻関係。

ここまで準備して上洛戦です。信長に対し、近江の六角義賢は観音寺城の戦いで大敗。近江甲賀郡に逃げます。そこから6年ほど六角義賢はゲリラ戦を続けます。のち秀吉のお伽衆です。

信長は三好を駆逐して京都に入ります。三好は四国に移ります。が気がかりなのは大和(奈良)と南伊勢(三重南部)です。

大和には松永久秀がいました。が、実は既に上洛前から手は打っており、松永久秀は信長に協力します。

すると残りは南伊勢の北畠。北畠に対しては上洛の翌年力攻めを行います。が、持久戦となる。そこで今度は次男の織田信雄を送り込んで養子作戦に移行します。織田信雄は北畠具豊(北畠信雄)に改名です。この時、北畠氏は信雄というか信長によって虐殺の憂き目にあっています。織田信雄、この人、生涯に何度も名を変えて、結局江戸幕府でも生き残ります。

で伊勢平定がなされるわけですが、その翌年、つまり上洛の2年後には既に信長包囲網がしかれます。金ケ崎の戦いとか姉川の戦い、本願寺挙兵、長島一向一揆とかが起きるわけです。

補足、以上登場の人物のうち織田信孝。次男の信雄に比べれば「比較的まし」な人物とされ、四国遠征の「総大将」とされていました。補佐は丹羽長秀です。四国遠征の渡海のまさにその日に本能寺の変が起こります。ということは、織田信孝は当時京都に近い場所(摂津、大阪)で1万5千ほどの兵を有していたわけです。普通に考えれば「織田信孝が天下に一番近かった」はずです。「大返し」などしなくても、大阪にいるのです。細川藤孝・筒井順慶などを誘い込み、明智討伐だって「可能性としてはできた」はずです。

ところが「兵がほとんど逃げた」とされています。信孝一人ならまだ分かりますが、丹羽長秀だっていたのです。それで秀吉の到着をまって山崎の戦いとなります。「兵がほとんど逃げた理由」に興味が湧きます。当時は兵集結地の住吉におらず、岸和田にいたからという記事がありましたが、渡海の当日に本拠地を離れるものでしょうか。もう少し調べてみたいと思います。

信長と光秀 「その為には仏も死ね」「信長は魔神か」

2017年08月28日 | 織田信長
「信長は魔神か」

これはドラマの中での明智光秀のセリフです。舞台はむろん延暦寺焼き討ちです。

「まじん」ではなく「ましん」と発音しています。

光秀は延暦寺焼き討ちを「いさめた」ことになっていますが、史実としてはどうなんでしょうか。

焼き討ちの後、光秀は坂本築城を許されています。散々逆らった光秀に恩賞なんてことはあるのでしょうか。

まあ史実はともかく、ドラマでは「逆らう」「諫める」のです。

ある小説では、信長は最初なんだか分からず、ポカンとした、ことになっています。

不思議そうに、「光秀、仏像とは、あれは木と金(金属)で人間が作ったものだぞ」と逆に光秀に質問するのです。中学の頃、このセリフが僕は好きでした。

ドラマ「国盗り物語」ではこんな風に言います。

「(悪人とは)叡山の坊主どもよ。僧でありながら、僧刀を携えて殺生を好み、女人を近づけ、学問はぜず、寺の本尊を拝まず、仏の宝前に供華灯明さえあげずに、破戒三昧の暮らしをしている。そういうやつらの国家鎮護に何の験があるか。」

「うぬが事ごとに好みたがる、古き化け物どもを叩き壊し、すり潰して新しい世を招き入れることこそ、この信長の大仕事よ。その為には仏も死ね。」

信長VS光秀のシーンとしてはこれが「定番」で、あとはこれの変化形のような気がします。

同じ司馬さんの原作である「功名が辻」。前にも書いたように原作では信長は一切登場しないのですが、仲間由紀恵さんの大河「功名が辻」ではむろん登場し、舘ひろしさんが演じました。

正直、声がこもっていて好きじゃなかったのですが、やはり

「うぬが事ごとに好みたがる、古き化け物どもを叩き壊し、すり潰して新しい世を招き入れることこそ、この信長の大仕事よ。」

というようなセリフを言っています。ただし「そのためには仏も死ね」はありませんでした。時代というものでしょう。

そもそもドラマ、大河「国盗り物語」は斉藤道三のこのようなセリフから始まります。

「乞食同然の天子(天皇)になりたいとは思わぬが、将軍、いやそれが無理なら、せめて一国一城の主になりたいものだ。人間望んで望めぬものでもあるまい」

このセリフの前半部分は今は無理ですね。NHKがクレームで倒れてしまいます。これも時代というものです。

話戻って信長。上記が「中世の破壊者としての信長像」の代表的シーンです。前に書いたように、奇妙な情熱をもった新説好きのつまらない学者が必死になって否定しようとしているイメージでもあります。

僕がそういう学者さんを嫌うのは、主には「つまらない」からです。それでは「つまらない」。

「信長は魔神か」

やはり光秀には「驚きと畏怖恐怖をもって」、このセリフを言ってほしいと思います。

以下蛇足。

おんな城主直虎の信長は市川海老蔵さんのようです。歌舞伎界の中心役者(次代の市川團十郎)を起用するのだから、なんとか「人間五十年の舞」をきちんと舞わせてほしいものですが、「桶狭間のシーン」などを考えると、たぶん舞わないでしょうね。まるで「いじわる」をされているような感じすらします。

下天のうちを比ぶれば、、または化天のうちを比ぶれば

2017年03月06日 | 織田信長
信長はやはり「中世の破壊者」であって欲しいと思います。中世を破壊し、近世の扉を開いた男であってほしい。

最近は「史実」なるものを持ち出して、信長イメージを変えようという人が多いですが、その「史実」なるものにも、怪しいものが多く、ただ従来のイメージを変えたいがために、小さな史実を拾いあげて「新解釈」に酔っている「学者さんもどき」が多いようにも思えます。

人間五十年下天のうちを比ぶれば
夢幻の如くなり
ひとたび生を受け
滅せぬもののあるべきか

人の世の五十年の歳月(人間の寿命)は、下天という天上世界ではたった一日にすぎず、
夢幻のようにはかないものである。
ひとたびこの世に生まれ、死を迎えないものはいるだろうか、いや、いない。
だからこそ、、、。

初めて解釈を考えてみました。「だからこそ」以下は例えば「悔いなく生を燃やし切ろう」となりますが、そこは各人の解釈にまかせたほうがいいと思います。

中学生のために書くと、人間は「人の世」です。それから下天は正確には「化天」です。でも信長公記では「下天」と書いてある。だから下天を天の下の人間世界と間違えることがありますが、下天でも天上世界の一つです。一般にはもっとも下の方の天上世界と解釈されます。でもそうすると一番下のレベルだから「四大王衆天」ということになる。「化天」ってのは上から二番目で、結構レベルが高い。あ、どうやら僕もよくわかっていないようです。あとは学者さんの説を検索してください。

この人間五十年と並んで信長関係で有名な歌は、

死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすのよ。でしょう。一定は「いちじょう」です。「死のう」は「死なむ」のウ音便化でしょう。

死ぬべき定めは決まっている。私が生きていたことを後世の人がしのぶものとして、生きている間に何をするべきだろうか。とにかく何かをなすことだ、そうすれば人は語り伝えてくれるだろう。

かなりテキトーですが、こんな感じでとらえています。

死のうは一定、の方はあまりドラマに出てこないので、今回の大河では採用してくれないかなと思います。


「うぬがことごとく有難たがる、古き世の化け物どもを、ことごとく叩き壊し、すりつぶして、新しき世を招きいれるこそ、この信長の大仕事よ、その為には仏も死ね。」


これは比叡山焼き討ちのシーンで信長が「よく言っていた」セリフで、私は大好きなんですが、最近はこの言葉をなかなか言ってくれません。

仏も死ね、がいけないのでしょうか。それともあまりに定番になりすぎたため、演出家が「ためらう」のでしょうか。

話はちょっとそれますが、「親に会っては親を殺し、仏に会うては仏を殺し」

時代劇の中で不退転の決意を表明するときの名セリフですが、これも最近は聞きません。親殺し、仏殺しがいけないのでしょう。ドラマの世界の話なのに。

さて、信長のお話。

最近は、演出家や脚本家が司馬さんに縛られすぎて、なんとか司馬さんの信長とは「違う信長」を描こうとするあまり、かえって凡庸な信長に堕ちてしまっている気がします。

「おんな城主」では歌舞伎役者の海老蔵さんが信長を演じるようです。全体に少女漫画風なので、期待はしませんが、歌舞伎役者起用なのだから、せめて人間五十年の「舞」ぐらいはしっかりと舞ってほしいと願っています。