散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

核DNA解析でたどる日本人の源流

2018年06月30日 | 歴史
「核DNA解析でたどる日本人の源流」は、国立遺伝学研究所の斎藤成也さんが2017年の9月に出版した本です。

独特な言葉遣いと、独特な論理構成がある本で、決して「読みやすい」とは言えません。ただし科学的です。一般人と学者の中間ぐらいに向けた本かなと思います。「単純に結論に飛びつこう」とすれば、それを拒否されるような「科学論文特有の難しさ」があります。

今回は2度ほど読んでみました。で私なりに「興味を持ったこと」を羅列すると以下のようになります。

1、「核DNA」という言葉がきわめて重要である。日本列島人の成立に関する今までの論は「ミトコンドリアDNA」解析で語られることが多かった。情報量としては貧しいが、それが限界であった。「核DNA」そのものが分析できるようになったことにより、分析の正確さは格段に進歩した。

2、福島の三貫地貝塚から出た人骨によって、三貫地縄文人の核DNA解析が決定された。それは2016年のことである。

3、核DNA解析によれば、縄文人のDNAはきわめて特異である。東ユーラシア人および南米人に分岐する「以前に」分岐したグループと考えられる。従って現代ヤマト人や中国人、東南アジア人からは「遠い集団」に位置している。

4、核DNA分析によれば、縄文人の遺伝子情報のうち現代ヤマト人に受け継がれたのは12%である。今まではもっと高い数値が言われていたが、より正確な分析によってその数値は12%程度と結論づけられた。

5、アイヌ人は縄文人と比較的近い位置にいるが、それでもかなり離れている。まして現代ヤマト人は縄文人とはもっと離れた位置にいる。

6、現代ヤマト人と近縁なのは、南部、北部中国人である。

7、これらの分析により、数回におよび渡来した「大陸、北方、南方からの渡来人」が「縄文人」と混血し、現代ヤマト人が形成されたことは間違いない。ただし現代ヤマト人の遺伝子は圧倒的に渡来人と近く、縄文人由来の遺伝情報は12%程度と低い。

私が読み取った内容は以上ですが、核DNA解析は今後もますます進化するようで、さらに正確な分析ができるようになるようです。

なぜ大阪城の石垣を作ったのは宇宙人ではないのか。

2018年06月29日 | 歴史
史実とは何か、、と時々考えます。多少哲学的です。

事実とは何か、という言い方もできます。今日は2018年の6月29日で、サッカーWカップのことがしきりと話題になっています。

2018年ワールドカップ

A、日本は頭脳的な作戦を使って決勝トーナメントに進出した。

B、日本は勝つことを放棄し、ブーイングを浴びながらも、決勝トーナメントに進出した。

どっちも「事実」です。今日の出来事すら解釈でだいぶ違ったものとなってしまう。だから「史実とは」と私は考えてしまうのです。

とは言うものの「大阪城の石垣を作ったのは宇宙人ではない」ことは確実のようです。誰もそんなことは言いません。

なぜって「記録」が残っていて、といってもそんなに詳細な記録はないようですが、とにかく「人間が作った」ことは「確実」のようだからです。

これが「記録がない」「記録がいい加減」となると、何言ってもいいという感じになります。ピラミッドは宇宙人が作った、と言っても一応は「信じる人もいる」という状態にはなるようです。

ただし最近は「ピラミッドを作った労働者たちの遺構」が発見されて、「二日酔いで休みたい」とか「人間的な証拠」が沢山でているようです。

どうも「ピラミッドは宇宙人が作ったのではない」こともまた明らかと言ってもいい感じにはなっています。

中学生ぐらいまでは「古代ロマン」ということで「邪馬台国はどこにあった」に興味もありました。松本清張さんの本も読みました。

でも「記録」に従うなら、「記録に忠実に」従うなら、日本を通り越して太平洋の「とんでもない場所」に邪馬台国はあったことになります。

つまり「記録がいい加減」なわけです。「いい加減」なのをいいことに「様々に解釈」する人が出てきます。ただしその中の多くの方は「それなりに真剣」です。

そういう「真剣な取り組み」を茶化す気にはならないのですが、でもやっぱり「どこまでいっても結論はでない」とは思います。

結論が出なくても、研究自体が大切なのだ、と言われると「そうかな」とも思うのですが、

考古学的証拠を「自分に都合がいいように解釈して」、「解釈の上の解釈を加え、最初から用意してある結論に合わせているだけ」と思えるような「自称研究」も多いのです。

「〇〇と自分はそう考えるが、他にこう考える余地もある」というような本当に真面目な学者さんの態度には尊敬を覚えます。

しかしながら、そういう人は少ない。「〇〇だ」と言い切って、自分の結論に酔っているような人間は、どうも苦手です。まあ自分も時々そういう態度をとりますが(笑)。

天皇に関するメモ書き程度のもの

2018年06月27日 | 歴史
あれ、そもそも天皇号の使用はいつからだっけ?がこの文章を書く動機です。政治性は全くありません。

1、最初の天皇は誰か。

天皇号の使用は7世紀後半です。私は最初の天皇は天武天皇だと思っていたのですが、推古天皇説もあるようです。誰が推古天皇を主張?と思って調べる外人さんのようです。どうやらやはり最初に天皇号を使用したのは天武天皇であるってのが「今のところの定説」みたいです。670年ぐらいです。それ以前の「天皇」は少なくとも「天皇と呼ばれてはいなかった」ということになります。

2、実在の「大王」は誰からか。

大王って号も使用された、いないの説があるみたいですが、

私は実在した大王は、崇神天皇(大王)(3世紀末)だと思っていたのですが、どうやら最近の学説では雄略天皇(大王)(5世紀半ば)みたいです。まあ考えてみれば3世紀は卑弥呼の時代ですから、そんな時代に大王がいたってのも変な話です。私が変な話だと思うだけで、政治性はありません。こういうこと書かないといけないのが、面倒です。まあヤマト政権3世紀成立説もありますから、そんなに変ではないのかも知れません。

本当の本当に確実なのは「継体天皇(大王)」からみたいです。確実なわりには在位年代が確定していません。5世紀末、あるいは6世紀初めのようです。この継体天皇(大王)は面白いですね。なにしろ「記紀」によると「応神天皇(大王)の5世の孫」だからです。しかも越前出身です。応神の5代後の傍流の子孫です。なんでそんな遠い親戚を?血つながってるのか?ということで万世一系とかを巡って色々騒がしいようですが、私はあまり興味はありません。

3、13世紀から18世紀末まで「天皇号は使用されていなかった」らしい。

具体的には13世紀初めの順徳天皇で一回使用がなくなり、18世紀末の光格天皇で復活したようです。なるほどね。
18世紀末というと将軍は徳川家斉です。

この徳川家斉は11代将軍で、40年も将軍をやってました。後半生は「ぜいたくで有名」です。幕末、幕府に金がなかったのも、この将軍の責任が大きいですね。でも不思議なことに、この将軍、ドラマにでたことはほとんどありません。大塩平八郎の乱の時代です。

日本人のルーツ

2018年06月26日 | 歴史
日本史ブログのランキング欄なぞを見ていると、やたらと「日本人のルーツ」とか言う言葉が目立ちます。

僕はまず「ホモサビエンスの誕生」に興味があって、その流れで「日本人の成立、形成」に関する本も随分と読んできました。

本当は「日本語の成立」にはもっと興味があるのですが、それを扱った「まともな本」は「ほとんどない」と言っていいほど少ないのが現状です。

で、日本人を成立を考えてみるならば、

1、現代日本人は全てホモサビエンスである。ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)の遺伝子もほんの少し交じっているが、それを含めてホモサビエンスと言う。

2、ホモサピエンス以外の人類が東アジアにいたのは確かであろうが、その人類がホモサビエンスに変化したわけではない。

3、ホモサビエンスは5~7万年前にアフリカを出て、4万年前には東アジアに到達していた。

4、東アジアと書いているのは、日本列島が「島」になったのは1万年ぐらい前であって、それまでは陸地や氷で大陸と「つながっていた」からである。1万5千年ほど前「までに」バイカル湖あたりの北方、それから東南アジア付近の南方、さらに中国チベット朝鮮などの「大陸」からホモサピエンスが移動してきて、縄文人が形成された。DNA的には縄文人と現代日本人の間には距離があり、縄文人が我々日本人の「直接の祖先とはいえない」。ただし「文化的」には「祖先である」と言っても間違いとは言えない。

6、縄文文化を担ったのはむろんホモサビエンスである。縄文時代早期、1万2千年前ぐらいに日本は「列島」になり大陸から切り離される。切り離されても、北方からも南方からも大陸からも、人は様々な手段で日本列島にやってきていた。

7、中国方面から水田稲作技術を持った人々が日本列島にやってくる。特に中国が春秋戦国時代を迎えると、日本への流入が多くなる。紀元前8世紀から紀元後3世紀にかけてである。この水田稲作民と縄文人が交じり合い、弥生人が形成される。この弥生人が現代日本人の直接のルーツである。現代日本人のDNAには縄文人のDNAが12%ほど(他に説あり)含まれている。

8、当然ながら我々日本人とDNAが一番近接しているのは弥生人のルーツである中国人である。

「中国人がルーツだと思いたくない」「縄文人が直接の祖先だと思いたい」「日本人は単一民族だと思いたい」という「願望」や「幻想」、というか、つまりは「情熱」を持つ人がいるのは分かりますが、違います。全く違います。

ただし「日本語は孤立した言語」というのはその通りで、だから私は日本語に興味があるのですが、何の資料もないので、本格的に日本語の成立(縄文以前の)に取り組んでいる学者さんは、ほとんどいません。資料がないから研究しようがない、わけです。DNAを調べても、言語のことは分かりません。

徳川慶喜のこと

2018年06月25日 | 歴史
徳川慶喜は水戸の人間です。水戸から一橋家に入り、将軍になりました。水戸学は尊王主義の源ですから、彼は「朝敵」になることを非常に恐れていました。また徳川家を朝敵をしないことは基本的な政治姿勢でした。

彼は大阪城から逃げ、江戸では主戦論を退けて謹慎します。彼が「逃げ、謹慎し、負ける」ことによって、維新は成った、これは明治政府でも密かに言われていたことのようです。「維新最大の功労者の一人ではないか」という話すらあったということです。

鳥羽伏見に負けて江戸に帰った時、小栗上野介は主戦論を展開します。箱根の関で官軍をくい止め、東洋一の幕府海軍が官軍を砲撃する。どう考えても戦術的には幕府の勝ちです。

もっと簡単に、江戸に兵が出払った京都に海軍を使って乗り込む。(大阪湾経由で)そして玉(天皇)を奪回する。そうすれば官軍はあっという間に「賊軍」に変わってしまいます。

小栗が慶喜の裾か袴をつかんで止めた、のは当然で、幕府は戦術的には勝てたのです。

が、慶喜はそれをしませんでした。一時戦術的に勝てたとしても、制度疲労を起こしていた幕府は、長期的にみれば必ず敗れる。官軍が天皇を残して、京を逃げるはずもない。必ず天皇を連れていく、まあそういうことが「見えて」しまったのだと思います。「自分の名が足利尊氏と並んで歴史に残る」、慶喜にとって、それに勝る恐怖はなかったのです。

長州は江戸に兵を出すことに反対でした。幕府が上記の作戦できたら、とても勝てないからです。だた薩摩が、というより西郷が江戸出兵を強く主張しました。革命家としての西郷の眼力が最も光彩を放ったのはこの時でしょう。理屈では勝てないが、勝てる。そして結果は、西郷の言う通りになりました。(だたし西郷は江戸鎮撫には、まあ失敗します。江戸を鎮撫したのは長州の大村です)

さて、慶喜ですが、その後もずっと謹慎をします。ただし趣味には深く没頭し、困窮する旧幕臣などからは「貴人情を知らず」などと言われます。

明治も半ばになって、やっと天皇と対面し爵位をもらいました。たしか大正まで生きたと思います。

最近の大河での慶喜の扱いは、「ひどいものだな」と私などは思います。八重の桜もひどいし、篤姫ではもう「最低の扱い」でした。慶喜の行動のみ描写して、内面描写が浅いためにそうなるのです。この「内面描写の浅さ」、もっと単純に言えば「心の声を一切流さない」という演出は、最近の大河に共通していますが、一体どうしてだろうか、まあ「慶喜が可哀相じゃないかい」とか思いながら、最近の幕末ものを私は見ています。

西郷どんは、実はよく見ていなくて、なんか「遊び人の金さんみたいな慶喜」が出ていることはなんとなく知っています。

ヤマトを「大和」と書くのは何故か。

2018年06月23日 | 歴史
きわめて初歩的な話なんですが、自分の頭を整理するために書きます。

ある時期から日本列島に住む人々は、自分たちの国が中国で「倭」と呼ばれていることを知ります。

そして自分たちも「倭」の国号を使います。発音は「ワ」に近い音だと思われます。

訓読みして「ヤマト」です。

そして「大」を冠します。「大日本」とか「大韓帝国」と同じ感覚です。

すると「大倭」になります。「大倭」、これも訓読みはヤマトです。

ところが「倭」は悪い意味を持つ言葉だと気が付いてしまいます。

そこで「倭」を音が似ている「和」に変えます。そうすると「大和」になります。

「倭」「大倭」「和」「大和」、、これらは全て「今の日本にあたる領域」を指しますから全て「ヤマト」と発音していい言葉です。

「やまと」は最初はヤマト政権ができた一地方を指していましたが、ヤマト政権の拡張につれ、日本の多くの部分が「ヤマト」となりました。

ヤマトという言葉そのものの語源については諸説があります。

ちなみに大和という文字が表記として広がっていったのは8世紀頃だと思われます。


わたしは「日本人」なのか。「民族」について。

2018年06月21日 | 歴史
「民族の定義」に定説はありません。「よく言われるような仮説」ならあります。

日本民族の「仮説」による定義はこんな感じです。

1、日本に比較的長く住んでいて、日本文化や日本の政治的社会文化を受容している。
2、母語が日本語である。
3、自分を日本人だと思っている(帰属意識)
4、遺伝子レベルで日本人的である。
5.「見た目」がアジア人である。

「1」なんぞは簡単に反論できます。日本に長く住んでいる外国人タレント。中には15歳ぐらいで日本に来て、50年ぐらい日本にいる人もいます。国籍も帰化して日本人。でもいつまでたっても「外国人扱い」です。日本文化に対して学者並みの知識があっても、なかなか日本民族だと認定されません。
「4」もダメですね。遺伝子レベルで「日本人的」なら世界に沢山いるでしょう。例えばフェギアスケートの長洲未来さん。完全にアメリカ人ですが、遺伝子レベルでは「日本人的」かも知れません。それに遺伝子レベルということになると、北方系、中国系、朝鮮系、南方系と日本人ぐらい多種多少な遺伝子をもった集団は世界でもそんなに多くはないのです。

一般には「2」と「3」と、あと「5」が重視されるように思います。「5」は多民族国家「的な」国では全く意味のない定義ですが、日本の場合「単民族的な雰囲気がある」ので、それなりの意味を持つようです。むろん日本人は様々な「人種?」で構成されていますから、厳密にいえば「5」は意味を持ちません。

わたしは「たぶん」ですが、1から5まで全部当てはまります。だからきっと日本民族なんでしょうが、確定的には言えません。民族の定義に定説がないからです。

父は海軍の少尉でした。父系の祖父は職業軍人で陸軍大佐でした。母系はもっときっちりしていて「士族」です。これは間接証拠になるようなルーツですが、聞き伝えですから「あて」にはなりません。

やはり日常生活の上では、「母語」と「帰属意識」と「見た目」で「なんとなく」そう思っている人が多いのでしょうね。宗教が加わる場合もあるのですが、日本人を識別する宗教はありません。「キリスト教を信じているなら日本人ではない」という言葉は成立しないのです。わたし自身は無宗教です。

ここでユダヤ人を持ち出すともっと混乱します。ユダヤ人とは「ユダヤ教の信者」だ、という定義が古くから存在します。だからユダヤ教の信者なら「日本人でも英国人でもベトナム人でもユダヤ人です」となりますが、この表現は論理的におかしい表現です。「ユダヤ人」の定義なぞ、それこそ確定的な説はないので、こういう混乱が起きるのです。

さて、わたしは「日本人」なのか。「日本民族に属している」のか。

その答えは、たぶんそう(日本人、日本民族)なのだろうし、私はそう思っているが、そもそも定義がないのだから、確定的なことは厳密には「言えない」つまり「定義がないのだからわからない」、ということになります。

慶長伏見地震とか加藤清正とか大阪城とか

2018年06月19日 | 歴史
はじめに書いておきますが「城とは天守閣そのもののことでなく、堀を含めた全体を城という」ということは「分かって」います。


さて大阪で大きな地震がありました。M6は十分に大きいですし、人も亡くなっているので「大きい」と言っていいと思います。

慶長伏見地震は1596年のようです。M7.5級の巨大地震で、伏見城の天守閣が倒壊したようです。この時、加藤清正が秀吉を助け出し、朝鮮の役で悪くなっていた関係が改善した、という逸話がありますが、どうやら史実ではないようです。でも、有名な逸話です。

慶長伏見地震の大阪城への影響について、ネットで「ちょっとだけ調べた」のですが、ネットで調べたぐらいでは分かりませんでした。

秀吉大阪城は大坂の陣で燃え、燃え落ちた瓦などはそのあと、地下に埋められ、埋め立ての材料とされます。そしてその上に徳川大阪城が築かれます。

その徳川大阪城も、江戸末期にほぼ焼失します。

で以下は間違いなのですが「そのあと太平洋戦争で焼けて、戦後になってコンクリートで復元された」と思い込んでいました。

それは間違いでした。

江戸末期に焼けて、そこから本格復元はなされなかったようです。ではいつ復元されたかというと、昭和6年のようです。戦前に天守閣が復元され、大阪城公園ができたようです。

なんでコンクリート復元なんだろう、という問題に関しては「科学の時代だったからだろう」と考えていましたが、それも違うようです。

建築基準法の問題で「木造の巨大建造物は建てられなかった」らしいのです。

色々と「間違った解釈を自分でして」、間違いに気が付かないままを信じていました。ほかにも沢山あると思います。

大阪城とは関係のない話ですが、

そういえばコンクリートですら、巨大ビルは禁止されていました。1970年まで、建物の高さは、原則として百尺(31メートル)に制限されていたのです。


近代化をしないことは罪なのか。朝鮮、中国のこと。

2018年06月18日 | 歴史
福沢諭吉が何故「脱アジア」を唱えなくてはいけなかったか。それは中国や朝鮮がいくら待っても「近代化」をなしてくれないことへの「失望」からです。絶望感と言ってもいいと思います。

もし朝鮮と中国がもっと早く近代化をなしとげて、近代的な法制度と軍隊を持ってくれていたら、日本はロシア、ソビエトに対する恐怖に怯えなくても良かったかもしれません。

日本の仮想敵国は明治から冷戦時代まで、ずっと、ロシア(ソ連)でした。

明治時代には恐露病という言葉すらありました。ロシアに恐怖するという意味です。

日露戦争は勝ち(実質的には引き分け)ましたが、その後、ノモンハンではロシアから生まれ変わった新生ソビエトに手ひどくやられます。

日本、朝鮮、中国が団結して、列強に立ち向かう。福沢諭吉や島津斉彬ら、そういう構想を持った人間が日本には少なからずいました。

「明治維新を中国、朝鮮に輸出する」。

そういうおせっかいを日本がやらざるえなかったのは、ひとえに「列強に対する恐怖」からです。

しかしそういう試みはことごとく失敗し、福沢が育てた朝鮮留学生は、あるいは迫害され、あるいは殺され、福沢はついに「脱アジア」を唱えるに至ります。

その後、あろうことか日本が列強の一員に加わり、と誰でも知っている不幸な歴史がはじまります。

西郷は征韓論を唱えたと言われます。彼は征韓とは言わず、遣韓と言っていました。言葉がどうあろうと、「戦争になる」と止められました。しかし「もし自分が死んで、日本と戦争となれば、朝鮮はいやでも近代化をせざるをえない。そして朝鮮にも志士があらわれ、維新が起きるにちがいない」と「そう考えていた」、というのは司馬さんの説です。西郷を随分と「ひいきしたような」考え方ですが、「自分が朝鮮にとっての黒船となる」という意識は西郷にあったと思われます。日本、中国、朝鮮の団結による列強への対抗、これは西郷の師であり主君である島津斉彬が唱えた構想だからです。

その後、長い年月と悲惨な歴史を経て、韓国は近代化、民主化をしました。しかし富の格差の問題はのこり、富裕層が特権階級のようなものになり、それが社会をむしばんでいるようです。

北朝鮮は工業的な近代化はなしたものの、政治の近代化である民主化はなされずにいます。

これは誰の責任なのか?むろん答えはでるわけもありません。また「責任を問うべきこと」なのかも分かりません。

民主化をしないこと自体は罪ではないからです。民主制度なしに「うまくやっている国」は現在の世界にもあります。

日本に責任があることははっきりしています。ただ「近代化をしていてくれたらなら」、日本は侵略できなかったわけで、そのチャンスはありながら、特に朝鮮はそのチャンスを逃してしまった。

朝鮮の人は激怒するような意見でしょうが、「日本が悪い」のは当然のことなので、そればかり言わず「なぜ侵略を許してしまったのか」、内部の要因も考えるべきだと、あえて書きます。

何を言いたいのか。自分でも焦点が定まっていないことを、書きながら感じています。単純ではないのです。

「近代化をなさなかったからいけないのだ」。

そう言い切れれば簡単なのですが、近代化をしないこと自体に責任があるわけもなく、日本だって、アヘン戦争さえなければ(列強への恐怖さえなければ)、太平の眠りの中でまどろんでいたかったのです。「民主化をしないことは罪なのか」「近代化をしないことは罪なのか」。そう簡単に「答えてはいけない問題」だと思います。

難しい問題です。

北条早雲の血脈

2018年06月17日 | 歴史
後北条氏は北条早雲が流浪の浪人の身から一代で作り上げた、なんて書くと「学者さんに怒られ」ます。学説ではそうではないからです。

でも「後北条氏は流浪の身から一代で作り上げた」「齋藤氏は道三が油売りの身から一代で作り上げた」。「研究」なんて無視してそう考えた方が、ドラマとしては楽しいように思えます。特に道三の方は、学者さんたちの「二代で作り上げた説」も、なんだか根拠が薄い気がしてなりません。

さて「武士による政治」。鎌倉幕府から足利幕府に至るまで、中央集権制はかなり薄いですから「武士による政治」という言葉も問題が多いわけですが、まあそういう政治があったとします。

武士のイメージ。これは江戸時代に入ってだいぶたってからのものが、今のイメージとなっています。原型は「暴力で物事を解決する人々」です。鎌倉武士がそうですね。ただ彼らにも「仁義」みたいのはあるようです。今の暴力団にもある彼らなりのルールですね。義経なんてのは「仁義なき戦い」をして、舟の漕ぎ手を矢で射たりするものだから、鎌倉武士に一方では恐れられ、一方では嫌われます。

そういう人々ですから、あまり民政という考え方はしません。ただ富国強兵策はとります。それが時に「民政のように」みえることもあります。また執権泰時は少しばかり民政を推奨しましたが、地頭たちに浸透はしませんでした。

民を多少なりとも大事にしよう、という民政の考え方が広まったのは、島原の乱を経て、寛永の大飢饉を経験してのち、と言われます。

しかし、後北条氏、小田原北条氏は、早くから「民政」の考え方を持っていた、らしいのです。

私は前々からどうして北条氏が秀吉に服属しないで最後まで抵抗したのか、が気になっています。多くは「傲慢さが原因」という風に理由づけされます。

それもあるでしょう。あるでしょうが、「民政」という面からみると、ちょっと違ってきます。

秀吉は百姓上がりですが、同時代の人間がそうであったように、「民政」の考えはあまりありません。惣無事令、あれは領主間の紛争禁止令であって、民政とはあまり関係しません。戦闘がなくなって、結果として民は「ほっとした」かもしれませんが。

秀吉の朝鮮侵略は朝鮮の民を苦しめましたが、同時に日本の民も苦しめました。秀吉を民政主義者とは言えないでしょう。

ところが北条氏は民政主義的なところがあります。そのあたりが一番重要なのではないか。秀吉に最後まで服属しなかったのは、「民政をめぐって両者に大きな考え方の違いがあったから」ではないか。

何かの本にそんなことが書いてありました。これは私としては「なるほど」と思う説です。

日本の情勢も知らず、小田原評定をやって滅んだ愚かな田舎武士、そう描かれることの多い後北条氏ですが、本当にそんな説明でいいのでしょうか。どうにも疑問です。

後北条氏の滅亡も不思議ですが、鎌倉北条氏の滅亡も凄まじいですね。六波羅探題の北条氏も鎌倉の北条氏も、見事なまでに徹底して滅んでいきます。後に「中先代の乱」が起こったことを考えれば、鎌倉の北条高時は逃げられたと思うのですが。

これも武士の美学、滅びの美学で説明されてしまいますが、本当にそうなのでしょうか。

日本の歴史には色々不思議なことが沢山あって、記録がないから分からないことだらけ。

だから面白いわけでしょうが。

西郷隆盛と「明治維新の輸出」

2018年06月08日 | 歴史
西郷隆盛。

日本では昭和ぐらいまでは人気がありました。

今は、あまり人気はないですね。とにかく人気なのは坂本龍馬で、西郷はその人気の影に隠れてしまっています。最近は「坂本龍馬を謀殺したのは西郷だ」なんて黒幕論も出ていて、そうなると西郷は日本でも悪人扱いです。

さて、西郷ですが。

彼は大きな器の人間でしたが、「近代国家に対するビジョン」というものがありませんでした。明治維新は達成したものの、その結果できた国家に彼は大いに不満だったのです。

彼は儒教的道徳心をもった武士で、いわゆる「ぎょうしゅんの世」のようなものを考えていました。アジアの教養人の限界を超えることはなかったのです。素晴らしい君主と素晴らしい人民。そんなものを夢想していましたが、明治維新の結果できた「近代国家」は全く別のものでした。

ただし「近代国家」そのものは彼の師匠(島津斉彬)が目指していたものです。生理的には不満でしたが、頭では、近代化しなければ列強によって植民地化される危険がある、ということは理解していました。汚職や金権のはびこりには我慢ができなかったのですが、兵制改革という「最も重要な国家の近代化政策」を担う山県有朋が汚職で危機に陥った時、彼は山県を助けたりもしました。かれは大きな矛盾の中で生きていて、そして死にたかったのです。

もう名前を出しましたが、彼には大いなる師匠がいます。殿様の島津斉彬という人です。この人は欧米列強のアジア進出に危機感を持ち、日本、清国、朝鮮国が近代国家となって列強に立ち向かう、というビジョンを持っていました。

西郷は江戸末期にこの殿様が死んだ時、殉死しようとしたのです。しかしこの師匠が抱いたビジョンを実現せずに死ぬことは不忠だと言われ、殉死をあきらめます。でもいつも「死に場所」を探していて、実際自殺未遂なども起こしています。

西郷はどうして朝鮮国に行きたかったのか。朝鮮国の無礼をたしなめるためでしょうか。私の理解では、彼は開国と近代化を朝鮮国に求めたかったのです、そしてそれが無理なら「殺されたかった」のです。自分が殺されれば、朝鮮と日本の間に戦争が起きる。後の日本と違い、この明治6年当時の日本には強大な力はありません。軍隊だってまったく整っていませんでした。朝鮮国だってそう簡単に負けることはない、日本との戦争が現実のものとして迫れば、朝鮮国も近代化せざるえない、つまりは「明治維新が朝鮮でも起きる」、西郷はそう考えていました。

朝鮮国にとっては、迷惑な話です。「明治維新を朝鮮国に輸出する」、西郷にとってはそれが死んだ師匠に報いる道に思えたのです。感情的には近代国家を嫌いながら、頭では列強に立ち向かうにはそれしかない、と分かっていたのです。西郷は愚人のふりをしていましたが(薩摩の伝統です)、若い頃から聡い男でした。

本当に迷惑な話です。しかし、この迷惑なおしつけをしないと、日本が危ないという危機意識は、同時代の勝海舟なども持っていました。元寇の時、日本をまず攻撃したのは高麗です。ご存知のように、元に強要されて仕方なく日本を攻めました。日本を列強が攻撃する時の通り道は朝鮮国。だから朝鮮国に近代化してもらわないといけない。こういう思いをもった人間が日本には多くいました。朝鮮国を支配しようという人間ばかりではなかったのです。

しかしながら、結局西郷は朝鮮国に行きませんでした。朝鮮国と日本が戦争などすれば、列強が介入してきて、両国とも植民地にされてしまう。そうしたリアルな危機感をもった人間たちとの政争に負け、政府を去りました。

西郷を負かしたのは、大久保利通だということになっています。最後の最後の段階ではそうでした。しかし大久保は実は親友である西郷と政治的に争いたくはなかったのです。西郷つぶし、に動いたのは、もう少し年の若い政治家たちでした。これも嘘のような話ですが、その政治家の代表格は伊藤博文です。韓国では西郷より悪人扱いである伊藤博文が、この明治6年の段階においては「征韓論をつぶし」たのです。もっとも西郷は「征韓」という言葉は嫌いで、もっぱら「遣韓」(けんかん)という言葉を使っていました。

嘘ばかり書いている。例えば韓国の人の立場になれば、そう思うのは当然です。が私には「偽りを書いている」という意識はありません。「西郷への認識を改めて欲しい」なんて傲慢な意識もありません。歴史は、人間おのおのが「自分の目」で見定めるものですからね。ただ、こういう見方もある、というだけのお話です。

韓国の方には失礼ですが、あの時西郷が行って殺されても、朝鮮では「維新は起きなかった」と私は思っています。イバンオンから続く朝鮮王朝は強固な伝統を持った国で、文治主義的です。両班、良民、という階級制は、日本のいわゆる「士農工商」よりずっと強固でした。いまだに韓国でも北朝鮮でも「特権階級」が厳然として存在することを考えれば、そう簡単に「維新」など起きるわけもないのです。韓国の産業的近代化は1970年代後半からで、21世紀には急速に発展。今や世界企業であるサムスンやLGが存在しますが、社会経済面ではまだ「特権階級」が残存し、「ナッツ姫事件」等の問題が生じています。(徐々に改善されつつあるということですが)。

北朝鮮では、見方にもよりますが、まだ朝鮮王朝が続いている、と言ってもいいような気がします。

さて、

西郷は逆徒です。日本最後の内乱を起こしました。天皇に逆らった逆賊ですね。そういう逆賊の銅像が、どうして上野のお山に堂々と立っているのか。

これにはまた日本特有の事情があるのですが、機会があれば。

本能寺の変の復習  秀吉は本能寺の変を予見していたか

2018年05月10日 | 歴史
信長の棺

まだ読んでいる人はいるのかな、と思って検索したら、わが自治体では7冊中5冊が「貸し出し中」でした。予想より読まれています。

まあ、なんというか、陰謀ものですね。「ダヴィンチコード」とか「聖書の暗号」のたぐい、だと私はそう思います。

本能寺の地下に「逃げ穴」があったが、秀吉がそれを「ふさいで」しまったために、信長は逃げられなかったとかトンデモない話が骨子です。

信長の遺体は何故見つからないのか、普通なら「大火で焼けたから」と考えますが、それがこの小説の「主題」です。遺体は焼けて判別できないからない、とは筆者は考えないようです。

「信長殺し光秀ではない」からはじまって、「本能寺陰謀もの」は多くありますが、なんというか「つまらない話」ばかりです。

「明智光秀はたいした武将でもないのに、単独で大事を起こすわけない」が前提となっている場合が多いのですが、数人しかいない「方面司令官」である光秀をどんだけ下に見れば気が済むのでしょう。

で、信長の棺なんかもそうですが「秀吉陰謀説」が出てくるわけです。「中国大返しがあんなにうまくいくわけはない。事前に準備していたのだ」という感じの話になっていきます。

さて「秀吉は本能寺を予見していたか」についてです。

〇別に秀吉が本能寺の変の「黒幕」でなくとも、予見していてもおかしくはない。

と思います。

柴田勝家が上杉謙信に敗れた戦に、秀吉は従軍していません。勝家と「喧嘩して帰ってきて」しまったからです。で蟄居です。

ところが松永久秀が裏切るにあたり、秀吉は信長の命のもと、軍勢を率いて織田信忠と合流し、信貴山城の戦いで久秀を爆死させます。

「太閤もの」ですと、秀吉は久秀の裏切りを予見していたのだ、となりますが、そこまで凄くはないでしょう。ただ勝家と意見が違っただけとも言えます。上杉謙信に「上洛の意図」があったかは分かりませんが、謙信のそれまでの行動からみて「天下人になる気はなかった」でしょう。領土拡大の意図がない上杉家と「上杉家の領土内で戦う」のは愚かです。で秀吉は反対したわけです。実際、上杉の領土で戦って散々負けます。

ただ「死ぬ覚悟で帰った」のかと考えると、それもまた愚かです。そういう後世の武士の鑑みたいな人物は乱世にはあまりいません。
そのかわり、秀吉の心のどこかに「畿内の誰かが謀反を起こした場合、織田家には軍事力が足りない」という「読み」はあったと思います。

松永久秀の謀反を「なんとなくありそうなことだ」ぐらいには秀吉は考えていたでしょう。

これを中国攻めの段階に当てはめると、さらに謀反は増加していました。信長の晩年は謀反は増加の一途だったのです。

だから「絶対謀反は起らない」と考える方がむしろ変、です。秀吉は「そういうこともありうる」と考えたでしょう。信長が死ななくても、その時は帰京する必要があります。「帰京することを絶えず考えていた」としてもおかしくありません。

だから中国大返しの奇跡は、奇跡ではあるものの、「だから秀吉が黒幕だ」とはならないと思います。