大好評上映中の『mid90s ミッドナインティーズ』を観て、モリッシーの曲が映画の本当に美しい「肝」シーンで使われていた背景・理由についての続きです。前編はこちら。
前回は監督ジョナ・ヒルの田中正造的直訴が、モリッシーを動かした…というところまで書きました。しつこいですが、あのモリッシーが即許可するなんて!!!それは、この映画の内容を気に入ったに違いない(そうでなければあり得ない)と思い、そんなこの映画の内容について触れたいと思います。
★前編は平気だけど、後編はここからネタバレも含まれそうなのでお気をつけください。
④「男の世界」の痛みを、ありのままに描いた映画
この映画では、シングルマザーに育てられ、5歳上の屈強な兄に力で抑圧されている13歳のスティ―ヴィーが主人公。彼がスケボーショップでたむろする、年上のかっこいいお兄さんたちに会い「仲間入り」「背伸び」しつつ、自分の居場所を見つけていこうとする姿を描いています。
まず、これを観て私が最初に思い出したのは、イギリス映画『ディス・イズ・イングランド』です。設定も背景も違いますが、ひとりの少年が、年上の仲間たちの集団に出会い、その中の「一員」となることで今までの世界を抜け出し、新しい世界を知っていく中で酸いも(8割方酸いかも)甘いも体験する映画。
すると!!またまたパンフレットで田中正造…じゃなかったジョナ・ヒルが
「ディスイズイングランドは全員に見せました」
と言っているからびっくり!!やっぱり!!今回の映画の役者たちはまだ子どもなので、感情的に遠慮せずにリアルな表現をしてもらうため、映画のトーンを理解してもらいたい、と思って見せたそう。
このシーンなんて似てますね。
そしてもうひとつ思い出したのは、この前試写で観た『アウェイデイズ』。
やはりこの主人公も、「パック」と呼ばれるサッカーの遠征に行くフーリガングループに入り「一員」になりたくてたまらない…。でも「空気」とか、やはり「同じ種類の人間かどうか」という、見えない壁や制約もあって簡単にはいかないという。
どうして男性は成長の段階で、このような「ホモソーシャル」(同性同士の性や恋愛を伴わない絆や繋がり)なコミュニケーションに惹かれることが多々あるのでしょうか?女性ももちろんつるむのは好きだと思うけど、何かもう少し制約から自由な気がする。立場上や活動上の「集団」(いわゆる「オタ友」とか「ママ友」とか)には所属しやすいけど、ともかくつるむとか、その美学とか、「裸のつきあい」とか「絆」とかに縛られるケースは少ないような??
「男同士の絆」と言えば聞こえはいいですが、昨今は過剰になると女性蔑視やセクハラを生んだり、仲間意識からエクストリームな同調圧力のきっかけになったり…と「男の生きづらさ」とか「男性性の有毒性」の象徴にもされています。同調圧力が強い、日本の企業社会とかに特有のものかと言えばそうではなくやはり人間は孤独であり、「居場所」がほしいのではないか。確かに当座の居場所を得ることは幸福だけど、結局「集団」において自分がなりたい自分にはなれないというジレンマも生まれる。。モリッシーの発言でもありますが、集団に依存や耽溺せず、己の「個」に対峙していく葛藤こそが、おとなになっていくことではないか、、とも思ったのであります。
映画の中でも、ちっちゃいスティーヴィーが体を張ったエクストリームな行動を!!でもそれをお兄さんたちに称賛されたりおもしろがられたりすると、心からうれしそうに笑う。その笑顔が、とてもつらい(涙)。一概に「それあかんやつ、やっちゃダメ」「家に帰りな!!」「そんな小さいのにまだ早いよ!!」とも言えない(映画館だから言わないけど)。たとえ悪いことであっても、同じことをし、年上の兄さんたちと同じ目線で語り、認められることが彼にとってどんなに誇らしく嬉しいことかと思うと胸が苦しい。けれどもこの映画でジョナ・ヒルは、スティーヴィーやスケボー少年たちの姿を美化したり「青春ていいよね★」ときれいごとを言っているわけではないのがいいな、と思いました。
音楽ジャーナリストの高橋芳朗氏は、ラジオ番組『ジェーン・スー 生活は踊る』の中で、
「この映画にはそういう有毒な男性性、トキシックマスキュリニティについてのジョナ・ヒルの自戒や反省が込められていて、彼はあえて少年たちをありのままに、未熟なままに描いているんです。それと共に、そういうマチズモな空間で生きる少年たちの痛みや悲しみもすくい上げている」
と語っていました。しびれる指摘!!ジョナ・ヒル自身、「僕が育った時代の歪んだ男性性を見つめ直したかった」と語っているそう。
そんなジョナ・ヒルの自己批判とも受け取れる選曲が、この映画のここぞ!というシーンに流れるモリッシーの「We’ll Let You Know」だと。
実はこの「男性性の有毒性」は、モリッシーが心から嫌悪し、問題視しているテーマです。たとえば自伝の中では
「男らしさとは、多くの我慢できない徹底的なガイドラインによって定められている。山ほどたくさんのだめ出しによって定義されているガイドライン。男同士の友情は、よそよそしいルールのゴタゴタによって身動きをとれなくなれる」(『モリッシー自伝』270ページより)
と書いています。モリッシーが嫌うこの社会の、そして彼が育ったマンチェスターの労働者階級の、マッチョな力で物を言わせ合って群れているホモソーシャルは、決して男同士本当に「仲がいい」ことではない。モリッシーもそれでもそんながんじがらめの世界やコミュニケーションの中で生きなくてはいけない者たちの悲しさ、やる方なさもよく歌います。この映画で流れる「We’ll Let You Know」もそのひとつ。実はこれは、フットボール・フーリガンの愛国心を歌ったものだとか、スキンヘッド小説をモチーフにしたものだとか、モリッシーとバンドメンバーを歌ったものだとか…今までいろいろな解釈がありましたが、この映画で後半を切った形で以下の部分を使ったジョナ・ヒル監督の解釈は、「こんな風でしかないけど、ありのままの俺たちはこうだ。見てくれ」ということではないかと。だからあのシーンに使ったのではないかと。だからモリッシーも「お、ハマっている。OK」となったのではないかと。これは、「昨日や今日」でできる解釈でも、利用の仕方でもない。監督、かなりモリッシーを聴いているとみた…←それもわかってのまさかのモリッシー「OK」だったのではないか!?
映画から帰ってきて、聴き直したら、余計にあの映画でジョナ・ヒル監督が言いたいことを感じられた気がしました。あのシーンでは確かに、男同士のしがらみを離れ、夕暮れの中、すごく自然に「ありのまま」でスイスイすべっていた。ちょっと、夕暮れに、空を自由に飛んでいる鳥を見ている気分に。実際には劇場で、イントロが聞こえた瞬間に、ひとりでおいおい泣いていたのですが(泣)。
対訳をつけたので、ぜひ聴いてみてください。1992年のアルバム、『ユア・アーセナル』に収録されています。
We’ll Let You Know
How sad are we?
ぼくらがどんなに悲しいか
And how sad have we been?
どんなに悲しかったか
We'll let you know, we'll let you know
教えてあげようか 教えてあげるよ
Oh, but only if you're really interested
あ、でも、本当に知りたければね
You wonder how
僕らがどうやって今まで生きのびてきたのか
We've stayed alive 'til now
不思議に思うよね
We'll let you know, we'll let you know
教えてあげようか 教えてあげるよ
But only if you're really interested
でも、本当に知りたければね
We're all smiles
僕ら上機嫌なのにさ
Then, honest, I swear, it's the turnstiles
マジで、くるっと回る扉のせいなんだ
That make us hostile
そいつをくぐると嫌なヤツになるんだ
We will descend
身を守れない奴ら誰にも
On anyone unable to defend themselves
飛び掛かってしまう
And the songs we sing
そして僕らが歌う歌は
They're not supposed to mean a thing!
何も意味なんかありゃしない!
La-de-dah-dah la-de-dah-dah
ラディダラディダ…
(映画の中では歌詞部分はここまで。「僕らこそ最後の英国民~」など原曲の最後の下りは省略)
Morrissey - We'll let you know