お久しぶりです。去年から今年にかけて、色々激動でしたが元気です。
まだ激働中ですが、ようやく時間ができて『ノマドランド』を観たので、忘れないうちに書こうと思って出てまいりました。
この映画には、スミスの“Rubber Ring”の歌詞と、モリッシーの“Home Is a Question Mark”の歌詞が引用されています。
それを今年のお正月に、従妹から聞いて、「え、どうしてその歌詞なんだろ。はやく観たい!!」と思っていたのでした。
★以下、ネタバレありです!
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2011年、ネヴァダ州の企業城下町エンパイアに暮らす、夫に先立たれた60代のファーン(フランシス・マクドーマンド)は、工場の業績悪化による閉鎖とともに住み慣れた家も失います。夫に先立たれた独り身の彼女は、キャンピングカーに荷物を詰め込んで仕事を求めてアメリカ西部に旅立ち、まさに現代版「ノマド」=遊牧民として漂流し始めるわけです。
アマゾンで働き始めたファーンは、同僚アンジェラ(この映画に出てくるキャストは、ファーンとデヴィッドという登場人物以外は実際にマクドーマンドが撮影にあたりノマド生活する中で出会ったリアルな人たち!!)にタトゥーを見せられます。
思った以上にすぐに出てきた!! そのスミス&モリッシー歌詞は、以下。
When you're dancing and laughing and finally living hear my voice in your head and think of me kindly
君が踊ったり笑ったり、ついに君として生きる時、頭の中で僕の声を聞いて、僕を優しく思い出して
(The Smiths “Rubber Ring”)
Home is it just a word? Or is it something that you carry within you"?
居場所、それって単なる言葉? それとも君と一緒にあるもの?
(Morrissey "Home Is A Question Mark”)
このアンジェラのタトゥーは、偶然とは思えないほど、この映画の「肝」を示唆していると思いました。
(監督は事前にアンジェラのタトゥーを見て「これだ!」と思って、どっかからアマゾンにお招きして仕込んだのか…?w)
"Home Is A Question Mark“は「ホーム」という言葉から考えてもそのものだし、“Rubber Ring”は、ゴムの輪っか、つまり救命用の浮き輪。
漂流者の、命のよりどころです。
映画中何回か、ファーンにはノマド生活を抜け出すチャンスが訪れます。
でも、自分の「居場所」であり「よりどころ」を心の中に持っているファーンは強く、自分の意志でノマドであることをやめません。
「仕方なく」やっているわけでなく、その暮らしをしていることは、自分の選択であり、矜持なのです。ボロボロのキャンピングカーを、自分が手をかけてここまで育ててきたもの…との思いから買い替えないことにも、表れています。
始めの方で、かつて臨時教員をしていた時の教え子に会い、「先生はホームレスなの?」と聞かれ、かっこよくこう答えます。
「『ハウス』レスだけど、『ホーム』レスじゃないわ」
物理的に家がないだけで、自分の居場所やよりどころは自分の中に持って移動しているわけです。
ファーンの生き方はそのまま、モリッシーの"Home Is A Question Mark“の中での問いかけの答えになっています。
(「モリッシーと居場所」のことは、拙著『お騒がせモリッシーの人生講座』133ページあたりに詳しく!興味ある方は立ち読みしてね)
この映画を観て帰ってきて、旦那に「おもしろかった?」と聞かれました。
おもしろいか、おもしろくなかったか、と言えば、おもしろくはないので、「おもしろくなかった」と答えました。
(自分的にかなり、ほめてます)
「オチがないの?」と聞かれたので気づいた。「オチ」がないのは、我々の人生そのものではないかと。
普通、映画やドラマは2時間といった限られた時間の中に、凝縮したオチを見せ、私たちはカタルシスを得る。
でもこの作品は違いました。きっとファーンのああいう人生はこれからも、オチもなく、淡々と続く。
まわりのノマドのみなさんの人生も、続く。そして、いちいち結論もハイライトもなく我々の人生も、続いている。
この映画は、どこかの誰かが居場所をなくして転々としている話ではなく、この星に生きる物たち全員の心の漂流を描いているものではないかと思いました。
「自分ごと」として観てしまうんで、おもしろくなんかないのか。
(「貧困とかホームレスなのは自己責任」とか、ファーンの義兄のように「あんたらみたいに気軽に動き回って」とか言ってる人は、また別の意味でおもしろくないでしょうw それって心が硬直している!?)
ファーンが出会う、高齢の漂流者たちには一見なんの救いもない。でも、彼や彼女たちは、別れや病気や貧困があっても、淡々と車で移動し続ける。続ける。意味や論理ではなく、続けていく。
実は、それこそが実は「救い」なんではないかな、と思ったんです。人間という生物の営みとして、普通のこととして、地上の上で動き続ける。なんか、ものすごく生きてる。広大な大地の中、それが全身でわかる。
ノマドのみなさんは、ゴミを出さないようにしたりDIYしたりエコですけど、自分たち自身が「循環型」だと思いました。
日々、地球という星の上で息をする生物として地の上で動き、眠り、起き、食事し、排泄し、動き、いつか死に、地に戻る。それまで、生きてる。
何を言っているんだかわからなくなりました。
でも死ぬまで、とにかく続けて、続けて、生きている中で、大切な光景(ツバメがたくさん飛ぶ場所、家の後ろのドアを開けると
さえぎるものなく続く砂漠、昔家族と囲んだ食卓のアンティークのお皿、何光年も経てやっと地球に届いた星の光…美しいものがいっぱい出てくる)や人との出会いがある。
それが漂流している自分のつかまる筏のような、よりどころになるのだとよくわかりました。
踊ったり、笑ったり、ついに自分として生きる時、頭の中で聞こえる声は誰のものでしょう? 優しく思い出すのは何でしょう?
だから、おもしろくはないけど、観終わって頭の後ろから「ぐわーーーっ」となるし(なんかが入ってくる感じ)勇気もわいてくる映画です。