神奈川工科大学/災害支援関連ブログ

2011年4月開始の「東日本大震災被災者支援ブログ」を名称変更し、さらに広い支援活動に関する実践、教育、研究を掲載します

教職員への災害関連アンケート

2018-04-06 13:46:07 | ボランティア

地域連携災害ケア研究センターでは、学内の教職員に災害関連のアンケートを試みました。
3月の忙しい時期、あるいは出張の時期でもあったため、回収数が少なかったのですが、意外にも東日本大震災の時には帰宅困難の状況になったり、かつて台風などで家が浸水するなど被害体験をしている方々もいて、直接、間接に災害の経験者が多くいました。

また、支援の経験についても、やはりは阪神淡路大震災や東日本大震災、近くは熊本地震では、それぞれのやり方で支援、あるいはボランティアをしている方々が多くいました。

それからお住まいの地域の自治会・町内会で防災の役員をしていたり、マンションの理事としてそうした活動を中心になって行っている方もいました。

研究・教育では、エネルギー関連、ストレス等の心理関係、医療機器供給関係、情報サービス関係など多数の教員が関連研究を行っていることがわかりました。

今後、災害ケア研究センター内にとどまらず、大学の全教職員の力を集め取り組むことによって、行政が行うべき総合的な対策の一翼を担うこと、あるいはさまざまな提言を行うことができると思われます。

今後とも、大学を挙げて取り組む姿勢をもち続けたいと思います。

支援ブログ管理者

KAITボランティア団体交流会を開きました

2012-02-15 19:17:32 | ボランティア
2012年2月6日夕方から、K1号館201教室にて、
神奈川工科大学で活動しているボランティア団体の交流会を開きました。
・KWR修理屋
・ボランティアサークルLOCORO
・防犯ボランティアサークルKAIT BLUE
・ECO推進チーム"みどり"
・ECO組
・Bio Club ホタルプロジェクト
車椅子修理屋はもちろん東日本大震災後に多くの活動をしてきていますが、ECO推進チームも募金活動をおこなったり、また、エネルギーを考える活動も多様にされていました。

交流のみにとどまらず、宮城県女川町での復興活動をしている方にお話をいただくなど、有意義な時間を過ごしました。


釜石に支援を

2011-12-19 19:05:59 | ボランティア
ロボット・メカトロニクス学科非常勤講師松沢明彦先生より、メッセージ


僕の友である あなたへ

 寒さがひしひしと忍び寄る季節。いかがお過ごしですか?

 私は10月上旬、被災した友人の住む岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)を訪れる機会がありました。岩手県の花巻、遠野、釜石への道は、のどかな景色が続きました。釜石市街に入り、釜石駅を過ぎた道一本にて景色が一変。突然に壊滅状態の街が、目の前に飛び込んできました。約7ヶ月経ても、第三次の爪痕が街じゅうに残っていました。3.11東日本大震災当時は、ほんとうに大変な様相であったことが想像できました。

 さらに、海へ近づき三陸海岸を北上、鵜住居地区へ向かう道で言葉を完全に失いました。破壊ではなく、全く何も残っていない、跡形もない。家の基礎は残るものの、そこには「原っぱ」がただただ広がっていました。「これから街の開発が始まるの?」という原野の土地が続きます。その中心部に鵜住居駅があり、そのすぐそばに友人の家がありました。

 3.11東日本大震災後の大津波が、街の全ての形を奪い去っていきました。その津波が全てを奪い去った場所にて、友人の古川貞治さんと会うことができました。彼は、お母様、叔母様、叔父様、さらに親類の方々を40名以上亡くされました。さらに、同じ地域住民の600名以上が亡くなられていました。「家族も、知り合いも、友達も・・・。『想い出』さえも奪われてしまったんだ」と彼のつぶやき、今でも耳を離れません。

 現在、古川さんは被災者仮設住宅に入れられ、不便な生活を余儀なくされています。その過酷な状況の中でも被災された高齢者の方々に、地域集落の集会所を実費で借りて、ボランティア鍼灸・マッサージ施術をしています。私が訪れた日も施術をされる日で、私もお手伝いをさせていただきました。午後の数時間でしたが、古川先生を訪ねて治療を求める方々が、大勢こられていました。一人ひとりに語りかけ、治療しながら元気付け、とても素敵な空気が集会所を包んでおりました。彼自身も大変な状況にも関わらず、お年寄りに寄り添い、ちっちゃな集会所にてボランティア鍼灸、マッサージ施術をされて、さらに生きる力を伝え続けている。本当に頭が下がる思い、魂が震える感動を覚えました。


その友から【緊急SOS支援求む!】

とても小さい村落のために支援が行き届いておりません。
寒さに向かっており、高齢の方、からだの弱い方が、次の物資を必要としています。

暖かな セーター (高齢者が「ありがたやー」と声が出るもの)
暖かな 毛布 (新品でなくても可。でも、きれいな状態で)
暖かな 下着類 (冬物で新品)
暖かな 靴下 (あなたがほしいと思えるものを)

松沢非常勤講師が窓口で集めていますが、常勤の小川が一時預かります。
E1号館4階401小川研究室または402室小川教員室。
不在時は、E1号館3階302室学科事務室まで。

とりあえずの締め切りを12月26日(月)午前中までとさせていただきます。



南三陸町でのボランティア報告 その7

2011-10-14 10:04:07 | ボランティア
(下島君のボランティア報告、これが最終回です。)

(中略)
 その工務店の社長は、今後も支援してくれる人たちに感謝の意を示し続ける、それが自分のできることだという。
 みな、てんでばらばらに、異なる理想を語る。けれど、どの人もみな復興へ向かうポジティブな気持ちに溢れていた。話を聞きながら、私は宮沢賢治の童話をぼんやりと思い出していた。
 僕たちは決して銀河鉄道の乗客ではない。なぜなら彼らは生き残り、これからも生きていこうと前向きになっている。だから、ここはイーハートーブのポラーノの広場なのかもしれないと、そう思った。私たちはポラーノの広場を見つけたのだ。水ではなく、お酒を飲んではいるけれど。
 日が沈み、板張りの宴会場でジャズの演奏がはじまった。最初の曲はサマータイム。吹き抜けの天井にベースの音が反響する。
 好き勝手に過ごしていた大人も子供も、一斉に宴会場に集まってきた。被災者も、ボランティアも、みな同じ音楽に耳を傾け、拍手をする。

 まさしきねがいに いさかうとも
 銀河のかなたに  ともにわらい
 なべてのなやみを たきぎともしつつ
 はえある世界を  ともにつくらん
  (宮沢賢治『ポラーノの広場』より)


<下島君は詳細で長文の原稿を書いてくださっていましたが、ここに紹介したのはその一部です。短いボランティア活動の中でも、さまざまな出会い、それを通して考えさせられたことがあったこと、それを皆さんに伝えたいと思いました。>
KAIT支援ブログ管理者


南三陸町でのボランティア報告 その6

2011-10-13 10:52:24 | ボランティア
(下島君の報告、続きです。お読みください。)

(中略)
・・・明るい口調で、自らの被災体験を語ってくれた。
 その日、大きな揺れのあと、津波が来ると聞かされた男は商売道具や愛犬を、水に浸からぬよう自宅二階に移していた。
 ところが、余震で隣家が倒壊し、壁を突き破ってきた柱に挟まれ、身動きが取れなくなった。そこを巨大な津波が襲った。
 死を覚悟した、波にもまれ、気がつくと、一四メートルを超える波の頂上から顔を出して、町が呑まれていく様を目撃したという。その光景は、さながら映画を見ているようだった。その後、近くに浮かんでいた強化発泡スチロールの畳に乗り、ガレキが渦巻く中を流されて、自宅から一キロ以上離れた気仙沼線の築堤に取り付き、一命を取り留めたという。
「でも、家族はみな無事でしたしね。身体もぼろぼろになりましたが、トオルさんとこの豚肉食べてたら、すっかりこの通りです。今はここの下にある小屋に居候させてもらってます。物も運び込んで、まるで自分の城ですよ」
 おどけるように巨体を揺らして笑う。僕らも声を上げて笑った。笑うしかなかった。
 そうこうしているうちに、会場には、あちこちから人が集まってきた。病院の医師、小学校の先生、工務店の社長。異なる職種の人々が一堂に会する。
「病院の建物は見ましたか?」
 志津川病院の医師が話しかけてきた。
「しっかり建ってるように見えるでしょう? あれ、四階まで波がきて、中は何も残ってませんからね」
 志津川病院には五階建ての新館と四階建ての旧館があった。誰も四階まで津波が上がってくるとは思っていなかった。その結果、新館に避難した人たちは助かったが、旧館に逃げた人たちは皆流されてしまった。
 津波警報が狼少年と化していたと、医師は指摘する。
「私も、そんな津波が来るなんて、信じてませんでしたから。避難訓練で避難を先導していた立場だったから、面倒くさいと思いつつ、避難したんですよ。それが、あんなことに」
 その顔には、疲労と後悔が深く滲んでいた。