かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

やはり短歌結社を辞めたのは正解だったかもしれない

2018-09-02 04:10:07 | ブログ記事
18年も在籍した短歌結社だったので、

辞める時はずいぶん考えた。

辞めると短歌の友人も失ってしまうと心配もした。

たしかに失ったかもしれない。

が、結社の中にいると、無用の競争があり、息苦しいことも確かだ。

短歌の友人は競争相手でもあるのだから。

私は、それに違和感を覚えるようになった。

人を蹴落としてまで這い上がろうとする競争は短歌という詩形には似合わない。

いや昔でも宮中などの歌会では歌の優劣を競わせた。

昔は娯楽が乏しかったから、それはゲームみたいなものであったのだろう。

現代も、そういう楽しみ方もあるかもしれない。

が、そういうことに鎬を削るには私も年を取った。

最近は自分のペースで歌を作りたくなった。

結社に属していると、

毎月結社誌に出詠して選者に歌を選歌をしてもらう。

これも疑問に思うようになった。

いったい何を基準にして選歌をしているのかと。

人生経験も乏しい若い選者に選歌してもらうことには抵抗すら覚えるようになった。

なら自分ひとりで好きなように楽しもうと結社はやめた。

好きなときに好きなように詠み、それを自分のブログに書けばいい。

結社誌というのは、一種の牢獄のようにも思える。

出詠した歌はずら~っと並べられて管理される。

囚人はおとなしくそれに従わなければならない。

なにゆゑに?

模範囚になって早く出獄するために?

そんなふうにも思えるようになった。

私は縛られたくない。

所属していた結社の傾向はちまちま自然を詠むことであった。

自然詠でも大きな景を詠むと大風呂敷の歌はよくないといわれる。

私は、そんなことは言われたくない。

好きなように詠いたい。

束縛されたくない。

選者の気に入るように顔色を窺いながら詠うなど、まっぴらごめんだ。

ちまちま詠って歌壇的に出世して何のいいことがあるというのだ。

褒められて何のいいことがあるというのだ。

そんなふうに思えてきた。

だから辞めたのだった。

私的には、これが正解だったと思える。

競いたい人は結社に残って競えばよい。

が、どんなに頑張っても、大半の歌人は横並びの牢獄に入れられるだけだ。

華々しく活躍できる人は、ごく一握りの人だけだ。

同じ人間なのに・・・。