今年の酷暑はさすがに楽しめなかったが、
しかし、雨の日はいいものだ。
子供のころはテルテル坊主を作って晴れることを望むことが多かった。
が、年取ってくると、晴れより、むしろ雨の日のほうがいいと思うときが多い。
雨であれば、家にこもっていても楽しい。
晴れている日に読書していると、なんとなく後ろめたいが、
雨だと堂々と読書に没頭できる。
食事の支度も
買い物に行かずにありあわせにしても気がとがめない。
考え事をするにも、雨の日はうってつけだ。
気持ちが落ち着くから静かに考えられる。
雨と不幸は一緒にできないが、
しかし、不幸も、その渦中にあるときは、それを楽しめばいいのかもしれない。
私は、現在も、見方によっては不幸かもしれない。
なにしろ聴力は健康な聴力の人の2割くらいしかないのだし。
手術を受けたといっても、心臓の主要な弁ふたつが人工弁であるから人並みではない。
だから、毎日が一生懸命である。
が、これが当たり前になっているから、不幸とも、あまり思わない。
不幸に対して鈍感になっているといえるかもしれない。
あと何年生きるかわからないが、この不幸は死ぬまで続く。
こうなれば、この不幸を楽しまなければと思う。
タフな心臓は持ち合わせていなくても、虚弱は虚弱なまま、働き、歩き、出かける。
聞き取りの悪い耳を携えて、どこにでも出かける。
できるだけ目で情報を得るようにしているが、
どうしてもわからないときは、聞き取りの悪い耳で聞く。
神経を集中すれば、2割しか聞こえない聴力でも必要な情報は何とか得られる。
書いてもらうのは最後の最後になる。
というのが、書いてくれる人というのは本当に少ないから。
それを不幸と思えば不幸になるが、しかし、書いてくれる人がいたら、超ラッキーと喜べる。
文字通り「有難い」ことだから有難い。
普通の人が幸運とも思わない、
小さなささやかなことでも喜べるようになるのが不幸な人の幸運かもしれない。
*
★幸運が転がりてゐる幸福をわれら不幸な生まれの者は
★当たり前あたりまへではあらざると思へる不幸なわれら幸せ
★聞こえねば聞こえたときの喜びは相乗されて増える理(ことはり)
★聞くことを遮断されゐる人生に読書の喜び余人に勝る
★走れずに早く歩くもできがたき身体は好む遅きあゆみを
しかし、雨の日はいいものだ。
子供のころはテルテル坊主を作って晴れることを望むことが多かった。
が、年取ってくると、晴れより、むしろ雨の日のほうがいいと思うときが多い。
雨であれば、家にこもっていても楽しい。
晴れている日に読書していると、なんとなく後ろめたいが、
雨だと堂々と読書に没頭できる。
食事の支度も
買い物に行かずにありあわせにしても気がとがめない。
考え事をするにも、雨の日はうってつけだ。
気持ちが落ち着くから静かに考えられる。
雨と不幸は一緒にできないが、
しかし、不幸も、その渦中にあるときは、それを楽しめばいいのかもしれない。
私は、現在も、見方によっては不幸かもしれない。
なにしろ聴力は健康な聴力の人の2割くらいしかないのだし。
手術を受けたといっても、心臓の主要な弁ふたつが人工弁であるから人並みではない。
だから、毎日が一生懸命である。
が、これが当たり前になっているから、不幸とも、あまり思わない。
不幸に対して鈍感になっているといえるかもしれない。
あと何年生きるかわからないが、この不幸は死ぬまで続く。
こうなれば、この不幸を楽しまなければと思う。
タフな心臓は持ち合わせていなくても、虚弱は虚弱なまま、働き、歩き、出かける。
聞き取りの悪い耳を携えて、どこにでも出かける。
できるだけ目で情報を得るようにしているが、
どうしてもわからないときは、聞き取りの悪い耳で聞く。
神経を集中すれば、2割しか聞こえない聴力でも必要な情報は何とか得られる。
書いてもらうのは最後の最後になる。
というのが、書いてくれる人というのは本当に少ないから。
それを不幸と思えば不幸になるが、しかし、書いてくれる人がいたら、超ラッキーと喜べる。
文字通り「有難い」ことだから有難い。
普通の人が幸運とも思わない、
小さなささやかなことでも喜べるようになるのが不幸な人の幸運かもしれない。
*
★幸運が転がりてゐる幸福をわれら不幸な生まれの者は
★当たり前あたりまへではあらざると思へる不幸なわれら幸せ
★聞こえねば聞こえたときの喜びは相乗されて増える理(ことはり)
★聞くことを遮断されゐる人生に読書の喜び余人に勝る
★走れずに早く歩くもできがたき身体は好む遅きあゆみを