今回、地震の被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。
と同時に、
タイトルにしました
「禍福はあざなえる繩の如く」
という言葉をかみしめております。
人は災害に遭った時に、これほどの不幸はないと思われると思います。
が、決して悪いだけのものではないと私は思います。
私は、亡くなった叔母が天理教を信仰していた関係で、
私自身は信者ではありませんが、叔母がしばしば言っていた
「節から芽が出る」
という言葉が胸に刻まれています。
この言葉の意味は
不幸なことが起こったら、それはよいことの兆しである。
というふうに解釈させていただいています。
それをきっかけに、人生が好転するということはよくあることのようです。
災害ではありませんが、
私のような身体障碍者は、
しばしば、なぜこんなふうに生まれてきたのだろう?
と、親を恨み、我が身を恨みます。
しかし、
身体障碍者に生まれてきたことも悪いばかりではありません。
少なくとも、
他の身体に障碍を負っている人たちへの共感はもてます。
それだけでも大きな幸いですが、
さらに、自分に弱みがあることによって、
他人様に対して傲慢になることを控えることができます。
これは大きな福音だと思います。
これによって、無用の罪を犯すことから逃れることができますから。
私は、自分のことを顧みました時、
もし、私が五体満足であったなら、
どれほど傲慢な人間であったかと恐ろしくなることがあります。
聴覚に障碍があり、心機能にも障碍がありながらも、
まだまだ傲慢なところのある人間ですから。
ですから、この私の障碍は、
神様からのプレゼントなのかもしれないと思ったりもします。
災害は、
まったく違うもののように思われますが、
私には、
これも、やはり神様からのプレゼントではないかと思えるところもあります。
人は、どうしようもない困難の中におかれて、
初めて悟れるというところがありますから、
人生究極の悟りを得るためには、
必要不可欠なものであるかもしれないと思ったりもします。
私の障碍と同様に・・・。
*
★困難は幸福になる近道であるとぞ思ふ障碍もてば
★災害も神様からの贈り物さうは思へぬときもありつつ
★底力つけるためにはドン底に落ちねばならぬと思ふときあり
★神頼みするしか術のなきときに神は働く仕組みなるべし
★不思議なる助けを受けし者のみが神に近づく者であるらし
と同時に、
タイトルにしました
「禍福はあざなえる繩の如く」
という言葉をかみしめております。
人は災害に遭った時に、これほどの不幸はないと思われると思います。
が、決して悪いだけのものではないと私は思います。
私は、亡くなった叔母が天理教を信仰していた関係で、
私自身は信者ではありませんが、叔母がしばしば言っていた
「節から芽が出る」
という言葉が胸に刻まれています。
この言葉の意味は
不幸なことが起こったら、それはよいことの兆しである。
というふうに解釈させていただいています。
それをきっかけに、人生が好転するということはよくあることのようです。
災害ではありませんが、
私のような身体障碍者は、
しばしば、なぜこんなふうに生まれてきたのだろう?
と、親を恨み、我が身を恨みます。
しかし、
身体障碍者に生まれてきたことも悪いばかりではありません。
少なくとも、
他の身体に障碍を負っている人たちへの共感はもてます。
それだけでも大きな幸いですが、
さらに、自分に弱みがあることによって、
他人様に対して傲慢になることを控えることができます。
これは大きな福音だと思います。
これによって、無用の罪を犯すことから逃れることができますから。
私は、自分のことを顧みました時、
もし、私が五体満足であったなら、
どれほど傲慢な人間であったかと恐ろしくなることがあります。
聴覚に障碍があり、心機能にも障碍がありながらも、
まだまだ傲慢なところのある人間ですから。
ですから、この私の障碍は、
神様からのプレゼントなのかもしれないと思ったりもします。
災害は、
まったく違うもののように思われますが、
私には、
これも、やはり神様からのプレゼントではないかと思えるところもあります。
人は、どうしようもない困難の中におかれて、
初めて悟れるというところがありますから、
人生究極の悟りを得るためには、
必要不可欠なものであるかもしれないと思ったりもします。
私の障碍と同様に・・・。
*
★困難は幸福になる近道であるとぞ思ふ障碍もてば
★災害も神様からの贈り物さうは思へぬときもありつつ
★底力つけるためにはドン底に落ちねばならぬと思ふときあり
★神頼みするしか術のなきときに神は働く仕組みなるべし
★不思議なる助けを受けし者のみが神に近づく者であるらし