私は、信仰はしていないが、
亡き叔母が信仰していたせいで、
天理教の新聞を購読している。
きのう読んだ記事にいいことが書かれてあったから、少し転記させていただく。
記
「相手に勝たせて”勝つ”」島田久仁彦
「交渉=勝ち負け」というイメージがつきまといがちですが、
私はあえて「負けをつくらない交渉」を行うようにしています。
喧嘩でも駆け引きでもそうですが、
勝った(と思っている)ほうはその場で喜ぶだけですぐに忘れる一方、
負けた(と感じている)ほうは、”負けたこと”を決して忘れません。
次に同じ相手に勝たない限りは負けを忘れられないのです。
(中略)
私がセルジオに教えられたのは、
「相手に勝ったと思わせる」交渉だと言えます。
こちらの目的をはっきりさせつつ、相手の主張を聞き、要望を探り出すことに徹します。
時折、相手の話の内容を整理しながら、最終的には、こちらの目標と照らし合わせつつ、
相手が使った言葉を合意案にふんだんにちりばめて、妥結へと導くのです。
すると相手は「自分の主張が多く取り入れられた」「交渉に勝った」と感じてくれます。
実際は、どうでしょうか?
私としては、
自分の交渉上の目的をはっきりさせたうえで、相手の言葉を使い、それを表現していますので、
実際には負けてはいません。
これは戦いを避けるための方法であり、講演などでは”戦わない交渉術”と表現しています。
(転記終わり)
なるほど!と思った。
これは交渉術だけにとどまらず、その他のことにも言えることだと思う。
昨日、拙ブログに書いた「憎しみについて・・・ネットを通して」の記事も、
私は、相手の人から酷い侮辱を受けて、それが忘れられなかったのだが、
相手の人は、たぶん私を侮辱することで、勝ち誇った気持ちになったと思う。
”負けた”?私は、その悔しさから鬱病になったのだった。
そして、その恨みを忘れるのに数年を要した。
あのとき、私は、私に勝ち誇った相手が許せなかった。
と、今になれば、それがわかる。
交渉事だけでなく、
人生では、むやみに勝って、人を傷つけることは避けなければならない。
昔から「負けて勝つ」ということわざがあるが、
まさにこのことを言っているのだろう。
それ以上の嫌な事が、起こっていますよ。
因果応報で、必ずそおなります。
人に侮辱した事を言い笑うバカは
また別の日に、同じように侮辱させられます。
お元気でしたか?
今年の夏は暑いので、大変でした。
そうですね。
その人は、そういうふうに人に意地悪をする生まれ合わせなんだと思います。
美人で頭のいい人でしたが、三人姉妹の真ん中でしたから、他の姉妹との比較競争が激しかったのかもしれません。
それで私を虐めて留飲を下げたのかも。
今になれば、そういうふうに余裕を持って相手の人のことを考えられますが、当時は夜も眠れないくらい悔しかったです。
でも、負けて?よかったのかも。
勝っていたら、今頃、良心の呵責に苛まされていたかもしれませんから。
昨日、次の記事を負けと勝ちにしようかなと思っていたら、びこ様も似たように思っていたのですね。
そんな辛い経験は
実際、それを乗り越えてないと言えないですよね。
相手を侮辱して伸し上がるというのは、一番簡単な出世の方法かも知れませんね。潜在的能力で敵わないと思ったら、ある事ない事、相手を口撃する。ある意味、サイコパシーに見られる特徴かもです。
戦わずして勝てれば、それに越した事はないんですが。言い合えば、どうも主観的&感情的になってしまい、相手のペースにハマっちゃう。
そういう私も、態とらしく侮辱されるという経験は多々あるんですが。ビコさんみたいに冷静には振る舞えない。だから、自分からボロを出してハイ終り。全く相手も呆れるほどですが。交渉には自分は向いてませんな。
そんな方でも人が許せなかったりするのですから、私などが人を許せなかったのは仕方なかったことなのでしょうね。
私は鬱病になるほど苦しんで、やっと人並みに、世の中にはいろんな人がいることに気づけました。
今回は桂蓮さんの記事に触発されて、またいろいろ気づかせていただきました。
私より何もかも優れた人でしたが、しかし、ひょっとすると、内心、何か私に負けていると勝手に思い込んでいたのかもしれません。
それで、私に煮え湯を飲ませた?
転象さんにいただいたコメントで、そんなことも思いました。
一番賢い対応は転象さんのような
「だから、自分からボロを出してハイ終り。全く相手も呆れるほどですが。交渉には自分は向いてませんな。」
かもしれません。
それが究極の「負けるが勝ち」なのでしょうね。