「日本」はどこへ消えたか 本当の戦後 講和条約70年 2022.04.04 佐伯啓思 

2022-04-05 | 文化 思索

 「日本」はどこへ消えたか   本当の戦後 講和条約70年 

 中日新聞 2022.04.04 Mon.夕刊 佐伯啓思

 今月28日で戦後70年である。サンフランシスコ講和条約が発効したのが1952年のこの日であった。45年の8月15日は実質的に終戦の日だとしても、正確には、戦闘状態の終結、つまり停戦であって、国際法的に言えば、真の終戦はサンフランシスコ講和条約の発効による。45年から52年までの被占領期を経て、「戦後」は本当は52年に始まる。
 同時にこの日に日米安保条約も発効し、日本の国防をアメリカの軍事力に委ねるという「戦後日本」が開始されることとなった。もっとも戦後日本のアメリカへの依存、もしくはアメリカナイゼーション(米国化)は、ただ防衛に限られたことではなく、政治、経済、学術、思想、文化の全般にわたるものであった。
 とりわけ重要なのは文化や思想であろう。占領政策によってアメリカはおよそ「日本的」とされる価値観や文化の大半を封建的と見なし、それに代えてアメリカ型の近代的価値へ置き換えた。個人の自由や民主主義観念、合理的で科学的精神であり、宗教的な神格性や霊性の軽視、家や村落共同体の否定などである。
 これはアメリカの「押し付け」というわけでもない。半ばリモートコントロールされるかのように、日本人自身が、「日本的なもの」を時代遅れで封建的なものとして自ら排除していったのである。そして、ひたすら近代化、工業化、都市化の道を歩んだ。経済の発展こそが「戦後日本」の証しであり、その頂点が70年の大阪万博であった。
 さて、ちょうどその頃になるが、今から50年前、72年の2月に連合赤軍によるあさま山荘事件が起きた。そして4月に作家の川端康成が自殺した。前者は、全学連を中心とする戦後新左翼の武力闘争のなれの果てであり、その最終局面である。新左翼の武力革命路線はこうして自滅するほかなかった。
 一方、後者は、日本の伝統的な美意識を描き続けた作家の自死であり、川端康成以後、美的な意味での「日本」を主題にする作家はほとんど出てこない。川端は、その少し前に、画家の東山魁夷に対して「京都は今描いといていただかないとなくなります、京都のあるうちに描いておいて下さい」と言った。それは68(昭和43)年、東山の「年暮(としく)る」(「京洛四季」)に結実した。
 川端は「京都」と言っているが、これはもちろん「古き美しき日本」と言い換えてよい。「日本」はもうなくなるというのである。実際、日本人で初めてノーベル賞を受賞した、いわば「国民的作家」であるはずなのに、今日、ほとんど川端の小説は読まれない。
 実は、私自身も、彼がノーベル賞を受賞した頃にいくつか読んでみたが、さして共感をもったわけではない。その後、ほとんど接することはなかった。最近、また読んでみようかとも思い、京都の主要な書店を回ったが、驚いたことに、ほとんど置いていないのである。
 そういえば、もう10年以上前になるが、イタリアからのある留学生がやってきて、自分は川端を研究したくて日本へ来たのに、本は手に入らないし、日本に川端の研究者はいないし、これは一体どういうことなのか、と慨嘆していた。
 川端の自死の少し前、70年の大阪万博の閉幕後、三島由紀夫が自決した。三島の最後の新聞寄稿にも、「もう日本はなくなる」と書かれていた。
 三島と川端では資質も体質もかなり違うと思うが、アメリカ化と経済成長主義のもとにある「戦後」から、「日本の文化」を守ろうという意志においては両者は共通していた。そして、両者とも、ちょうど70年前後に、もう「日本」はなくなると予言していたことになる。
 考えてみれば、安保体制と資本主義の成長経済を批判した左翼も、どこか根底に「日本」への関心をもっていたとも思われる。それが「古き美しき日本」ではないにしても。
 そして、新左翼の崩壊と、三島や川端の自死の後に来たものは、サブカルチャーや情報化、最近ではスマホやSNSに覆われた社会なのである。確かに「日本」はどこかへ消えたのだろうか。(さえき・けいし=京都大名誉教授)

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用及び書き写し(=来栖)です

* 悩める三島が晩年に書簡 川端宛て、文芸誌掲載へ


* あさま山荘事件40年でシンポジウム 2012-05-14 


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