さっぱり分からなかった、3.11報道(1):なぜマスコミは“事実”を報じなかったのか

2012-07-21 | メディア/ジャーナリズム/インターネット

新連載・さっぱり分からなかった、3.11報道(1):なぜマスコミは“事実”を報じなかったのか
[土肥義則,Business Media 誠]2012年07月20日 08時02分 UPDATE
 原発事故は「戦後最大のクライシス」と言っていいだろう。しかし新聞を読んだり、テレビを見て、「よく分からなかった」という人も多いのでは。原発報道のどこに問題があったのか、ジャーナリストの烏賀陽弘道氏と作家の相場英雄氏が語り合った。
 2011年3月11日に起きたマグニチュード9.0の東日本大震災。それが引き起こした巨大津波、そして福島第一原発の事故……。首都圏にまで広がった放射性物質に対し、新聞、テレビ、雑誌、Webサイトなどが報道合戦を繰り広げ、分かったことがひとつだけある。それは「よく分からなかった」ことだ。
 原発事故は「戦後最大のクライシス」といってもいい状況だったのに、新聞を読んでも、テレビを見ても、「避難したほうがいいのかどうか、分からなかった」という人も多かったはずだ。3.11報道のどこに問題があったのか。その原因は報道機関という組織なのか、それとも記者の能力なのか。
 大震災と原発報道の問題点を探るために、ジャーナリストとして活躍する烏賀陽弘道氏と、作家でありながら被災地に何度も足を運ぶ相場英雄氏に語り合ってもらった。この対談は、全6回でお送りする。
 ■2人のプロフィール
烏賀陽弘道(うがや・ひろみち)
 1963年、京都市生まれ。1986年に京都大学経済学部を卒業し、朝日新聞社記者になる。三重県津支局、愛知県岡崎支局、名古屋本社社会部を経て、1991年から2001年まで『アエラ』編集部記者。 1992年にコロンビア大学修士課程に自費留学し、国際安全保障論(核戦略)で修士課程を修了。1998年から1999年までニューヨークに駐在。 2003年に退社しフリーランス。著書に『「朝日」ともあろうものが。 』(河出文庫)、『報道の脳死』(新潮社)、『福島 飯舘村の四季』(双葉社)などがある。UGAYA JOURNALISM SCHOOL、ウガヤジャーナル、Twitterアカウント:@hirougaya
相場英雄(あいば・ひでお)
 1967年新潟県生まれ。1989年時事通信社入社、経済速報メディアの編集に携わったあと、1995年から日銀金融記者クラブで外為、金利、デリバティブ問題などを担当。その後兜記者クラブで外資系金融機関、株式市況を担当。2005年、『デフォルト(債務不履行)』(角川文庫)で第2回ダイヤモンド経済小説大賞を受賞、作家デビュー。2006年末に同社退社、執筆活動に。著書に『震える牛』(小学館)などのほか、漫画原作『フラグマン』(小学館ビッグコミックオリジナル増刊)連載。ブログ:「相場英雄の酩酊日記」、Twitterアカウント:@aibahideo
■「えくぼ記事」が掲載された
 烏賀陽氏は著書『報道の脳死』(新潮社)の中で、粗悪記事の事例を紹介している。粗悪記事は(1)パクリ記事(2)セレモニー記事(3)カレンダー記事(4)えくぼ記事(5)観光客記事――の5つのタイプがあり、中でも「えくぼ記事」のことをこのように定義している。「『えくぼ記事』は書かれた方も書いた記者も傷つくことがない。感情的な摩擦を避けに避けた結果が『えくぼ記事』なのだ」(84ページ)と。
 そして、3.11報道での「えくぼ記事」を4つのパターンに分類した。(1)ポジティブな物語(2)笑顔の写真(3)復興あるいは回復の物語(4)「悲嘆」「憂鬱」「不安」「憎悪」「対立」「離別」「離散」「絶望」など「負の人間的要素」を一切消去――。「えくぼ記事」を書かれた取材対象者は喜んでくれるかもしれないが、「これはおかしな話だ。報道の目的は事実を伝えることであって、励ますことではない。取材によって事実を修正してはいけない」(83ページ)と綴っている。
 2人の対談は、この「えくぼ記事」についてから始まった。
相場:「えくぼ記事」が掲載され始めたのは、いつごろからでしょうか?
烏賀陽:3.11後2週間くらいでパターン化していきました。阪神・淡路大震災のときもパターン化しましたが、東日本大震災はそれよりも早かった。私は朝日新聞で記者をしていましたが、かつての同僚は悔しがっていましたね。「今回はあまりにも早すぎた……」と。
相場:私は時事通信社で金融を担当していました。なので災害の現場や事件・事故の取材経験がありません。ただ小説の取材などでお世話になった人が東北にはたくさんいるので、震災後、まず宮城県石巻市に足を運びました。現地には取材に行くというのではなく、単に物資を運びに行くといった感じです。
烏賀陽:石巻市はすさまじい被害があったんですよね。全く被害に遭わなかった山側と、陸側の落差がものすごくあった。
相場:地元の人がある橋を撮影していて、「この橋が“天国と地獄”の別れ道だ」と言っていました。
烏賀陽:実際、地獄側では人がゴロゴロ死んでいるわけですから。
相場:石巻市に行くと決めたとき、現地の人からはこのように言われました。「覚悟を決めて来い」と。でも、こちらは意味が分からなかった。何の覚悟かな?と。で、どういう意味ですか?と聞いたところ「テレビや新聞でクルマがたくさん停まっているのを見たでしょう?クルマの中には死体が入っているから」と言っていました。そのクルマの横を、やっと学校に行けるようになった子どもたちが平気な顔をして通っているんですよ。これが被災地での日常でした。
 でもこうした現実を、大手マスコミは報道しませんでした。なぜ報道しないのか、あるテレビ関係者に聞いたところ「東京の幹部は、悲惨な現場を望んでいない。東京と現場との温度差を感じましたね」と嘆いていました。
 事実を報道してはいけないという「自主規制」が働くと同時に、「えくぼ記事」を報じなければいけないという意識が強く働いていたのではないでしょうか。東京にいる“お偉いさん”たちは、現場に無難な記事を発注しているだけ。こうした現実が透けて見えてきたんですよね。
カレンダー記事+セレモニー記事=猛毒
――烏賀陽氏が定義した粗悪記事の中に「カレンダー記事」というものがある。これは「あれから○カ月」といった記事である。3.11報道でもこのカレンダー記事が、数多く見受けられた。著書『報道の脳死』の中ではこのように解説している。「『大事件・大事故の日付を契機として、その教訓を再考する』こと自体は悪いことではない。批判する対象でもない。問題は、その記事のほとんどが『セレモニー記事』に堕落していることだ。(中略)カレンダー記事とセレモニー記事が合体すると、これは『猛毒』である。記事がどんどん『前年と同じ』『前回と同じ』になって定型化してしまうからだ」(72ページ)と指摘する。
烏賀陽:被災地の現場にいる記者は「こうした記事を書きたい」と思っていても、デスクなど編集側は東京や県庁所在地支局にいる。紙面を「埋める」のが仕事の彼らは「あ、今日は『あれから~年もの』の日だ。原稿があるぞ」とホッとする。
 カレンダー記事が増えるのには動機があるんですよ。そのうちに「今日は『あれから~年もの』の記事が載せなくてはいけない」といった感じになり、ニュースセンスが劣化していく。
相場:カレンダー記事がルーティーンとして組み込まれていて、現場記者は発注モノのために取材をする。そのために時間を奪われてしまい、独自ネタの取材ができない……。現場ではこうした皮肉な現象が起きていたのでしょう。東日本大震災は第二次世界大戦と同等、いやそれ以上の惨劇かもしれないのに。
烏賀陽:戦争は人間が相手ですから、降伏すれば終わります。でも津波、地震、原子力は、自然が相手なので、降伏したくても向こうは止めてくれない。なので状況は「戦争より悪い」と思っています。
相場:私は現役の記者ではありません。軸足は小説に置いているのですが、皮膚感覚で「これはヤバイ。なんとかしなきゃ」と思い、物資を届けに行きました。
 かつての同僚が「僕は被災地で取材をしていない」というので聞いたんですよ。なぜ、現場に行かないの?と。そうすると「いや、オレは担当じゃない」との返事が返ってきました。
烏賀陽:ああ、言いますよね。「担当じゃないから」って。
相場:もちろんそうした記者ばかりではありません。中には休みを利用して、取材に行っている記者もいます。でも現地を取材して記事を書いても、自分が働いているメディアでは発表できないんですよね。なぜなら担当じゃないから……。だからペンネームを使って週刊誌などで書いている。
 大好きな先輩記者がこのように言っていました。「オバマ大統領が来日して演説していて、経済部がフォローで入っていたとする。もし大統領が心臓発作で倒れたら、経済部は『担当じゃないから』と言って記事は書かないのか? 記事を書くか書かないかというのは、そういったセクショナリズムで判断してはいけない」と。
烏賀陽:私は大学を卒業して、そのまま朝日新聞の記者になりました。そこで自分の職業的な基礎が培われた。そして17年間もそこで働いた。フリーになっても、記者としての基本的な動作は、自分の身体の一部のように当時のまま残っている。なので、新聞報道がああいう惨めな状態になってしまうと、わけが分からない。「なぜ、自分が若い記者のころに先輩から教わって実践していたごく基本的なことが、できないんだ?」と問わざるを得ないんです。自分と今の若い記者と、人的資質に差があるとは思えない。
 もう1つ偉そうなことを言えば、日本の報道は「脳死」に陥っているのではないかと感じています。脳の血管が詰まっているような状態だと思うんです。それを放置するうちに「脳死状態」になってしまった。目の前の病人を何とかしなければいけない。この病人を何とかしなければ、日本の民主主義は深いダメージを負う。
相場:烏賀陽さんがもし朝日新聞に残っていて、デスクといった立場であれば変えることができたと思いますか?
烏賀陽:それをやろうとしましたが、全く通じませんでした(笑)。最後は雑誌『アエラ』にいましたが、アエラは新聞本体に比べるとメディアも若いし、人数も少ないので、まだ変えられる余地が大きいのですが、それでも変えようとして疲弊し、力つきました。そして結局変わりませんでした。そういうことがありましたから、たぶん私が1人で組織の中でやっても、“ごまめの歯ぎしり”だと思います。
 今のマスコミは記者個人の能力、意思、意欲というものを、組織の力につなげる意思や力を失っている。夕刊廃止や記者クラブ脱退といったハードランディング的なシナリオは書けるのです。が、3.11が来た今、ここまで手遅れになってしまっては、意味がない。実現すら難しいでしょう。
■被災者にマイクを向けること
――阪神・淡路大震災のとき、ある取材方法が問題になった。それは家族を失った被災者に「お気持ちは?」とマイクを向けたことだ。3.11報道でも、子どもたちにマイクを向ける姿が見られた。被災者にマイクを向けることについて、2人はどのように考えているのだろうか。
 烏賀陽氏は著書『報道の脳死』の中でこのように書いている。「家族を失った人に会って取材するのは『悪い』ことではない。単にカメラとマイクを向けて『今のお気持ちは』と尋ねる取材技法が幼稚すぎるだけなのだ」(87ページ)と。そして「えくぼ記事」がはびこる背景には、新聞社の中には組織の断片化と紙面政策の手抜きがあるため。テレビは自己防衛があると指摘し、「いずれにせよ、報道から失われていくのは『現実感覚』である。まるで底の抜けたバケツのように」と痛烈に批判している。
 また相場氏もBusiness Media 誠で「その報道は誰のため? 被災した子どもにマイクを向けるな」という記事を書いた。震災後、大手マスコミによる報道が過熱し、被災地から批判の声が噴出する。なぜ批判が出たのか。それはマスコミが傷ついた被災者の心をえぐるような質問をしたからだ、と指摘した。
相場:被災者への取材はものすごく気をつかいましたね。石巻市にある避難所で、マスコミと被災者の間でトラブルが生じました。そこはお年寄りが多い避難所だったのですが、マスコミが来ているときにちょうど移動巡回バスが来たんですよ。在京のテレビ局と大手新聞社の記者は「絵になる!」と思ったのでしょうね。いきなり診察風景の撮影を始めました。その光景を見た、避難所の代表者は「お前ら許可をとれ!」と杖を振り回しながら怒っていましたね。彼らは取材の手順すら踏んでいなかったんですよ。避難所へのあいさつもなければ、代表はどなたでしょうか?と聞きもしない。
烏賀陽:そりゃ記者の技量とかジョブスキル以前の問題でしょう。人間としての礼儀や良識の話。
相場:その後も、メディアが次々に取材にやって来たそうです。そして「今のお気持ちは?」と聞くわけですよ。ある被災者は「他に聞き方はないのか!?」と怒鳴ったら、若い女性記者がその場で泣き始めたそうで。しかも違う社の女性3人が(笑)。
烏賀陽:そりゃいくら何でも幼稚すぎる。マスコミを「社会正義の体現者」と考える人はさすがにもう少ないとは思いますが、それでもまだ「拙劣」「信用できない」とまでは思われていませんでした。それが、東日本大震災後、取材者どころかニュースや記事まで信用されなくなった。「大本営発表タレ流し」とまで言われている。明らかに3.11で「権威崩壊」が起きた。
 若い記者の取材のやり方は拙劣だと思うのですが、その反面、かわいそうだなあとも思っています。昨日まで「地元出身の横綱が1日郵便局長で来ました」みたいな記事ばっかりやらされていた人を、何の訓練もなく、人間の生死が衝突している火事場に放りこまれたわけですから。新聞社やテレビ局も「行けばなんとかなるだろう」と思って、放り込んだのでしょう。誰も、3.11のような戦争級のクライシスに備えた記者の熟成、訓練なんてしていない。
 阪神・淡路大震災を経験した記者は、現在デスクレベルのはず。彼らが現場に向かう若い記者に、何かひとこと言ってやるべきだった。人の家がつぶれ、職を失い、何百人単位で亡くなっている……そこは戦場と同じだと。「死者への敬意」や「家族や家を失った人の心の痛み」「それを記者も共有しながら進め」といったことを言って記者を送り出すべきだった。だが、していないんです。3人も4人も同じことしているんですから。デスククラスもそういった戦争級クライシス取材の作法が分からない。日本は66年間戦争を経験していないのですから。
 新聞社とテレビ局に共通していると思うのですが、人材を育てていこうという意欲や意思を失っているのではないでしょうか。実際、現場にいる記者に話を聞いても、若い記者は「何も教えてもらっていない」と不満を言う。管理職年齢は「あいつらに教えても覚えようとしない」とブツブツ言っている。「きつく教えると辞めてしまうので、辞めないために優しくしてるんだ」と、ある管理職の人は言っていました(笑)。
 でも管理職と現場の記者に会って話を聞くと、両方とも「いい記事が書きたい」という意欲はある。3.11報道も、望んでああいう記事を書いているのではなくて「何でこんなことになってしまうのだろう」と思いながら、どうしようもなく落ちていってしまっている。そこには何か、管理職と現場の記者が気づかない、今まで不問にしてきた何か構造的な問題があるんだと思うんですよ。それを解決しないと、何回でも繰り返されるでしょうね。
相場:なるほど。
烏賀陽:戦後66年間、平時で認識してやってきたニュースバリューが、3.11という戦争級のクライシスが来て、まったく通用しなくなりました。記者というのは最終製品である記事に向かって具体的な動作を組み立てていくわけですが、平時の取材作法で3.11の現場に行っても、通用するはずがない。
 また管理職も、本当のクライシスを取材した経験がありません。かろうじて阪神・淡路大震災の取材経験のある人は、まだましです。「現場に行けば、焼けた死体がゴロゴロ転がってるんだ」「その臭いをかぎながら人の話を聞くんだ」みたいなことを覚えている。しかし、そういう世代は、もうほとんど現場にいないんですね。
 (つづく)


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