だから「温暖化」問題はむずかしい

2009-09-24 | 政治
中日新聞【社説】25%削減演説 「政治の意思」で実現を
2009年9月24日
 鳩山由紀夫首相が国連気候変動サミットで、温室効果ガス「25%削減」の中期目標を表明した。科学の要求に基づく「政治の意思」は示された。さて次はその意思をどうやって通すかだ。
 「一九九〇年比で言えば二〇二〇年までに25%削減します」。鳩山首相の演説に、世界の首脳から拍手がわいた。新首相の外交デビューは、成功だった。
 京都議定書に続く、温室効果ガス削減の新たな目標づくりの交渉期限は、年末に迫っている。
 地球の運命をかけたその重大な交渉は、先進国と途上国が、お互いに相手の責任と義務を主張し合って譲らず、手詰まりに陥った。しかし、欧州連合(EU)に続いて日本が高い削減目標を示したことで、打開への薄日が差した。あとは、このところ、やや足踏み状態の米国が、刺激を受けてこれに続けば、途上国側も何らかの変化を見せずにはいられまい。
 「鳩山公約」は、途上国を含む主要排出国の削減参加が前提だ。その代わり、対策に必要な技術移転と資金提供を主導する「鳩山イニシアチブ」を用意した。
 途上国グループを率いる中国も、温暖化の脅威は強く感じている。技術や資金は不可欠だ。今日から米・ピッツバーグで開かれるG20の金融サミットでは、途上国への温暖化対策資金提供の枠組みづくりが主要な議題になる。鳩山公約を呼び水に、援助総額、資金管理の方法などを具体化させて、途上国側の関心を引き寄せたい。
 鳩山公約にはもう一つ、国民へのメッセージが込められた。それが「政治の意思」である。
 従来の削減目標は、官僚らが積み上げたコストの上で議論されてきた。そのため、温暖化対策のマイナス面が強調されすぎて、膨大なコストが経済に支障をきたすと産業界が反発し、負担を強いられる生活者にも不安を抱かせた。
 鳩山首相は「政治の意思として、必要な政策を総動員して実現を目指す」と、政治家として成し遂げるべき目標を優先させた。
 「25%削減」という、政治の意思は示された。次は実現への道筋だ。マイナス面もあるだろう。だが、省エネの普及が新産業と雇用を生み、脱化石燃料で住環境や家計は改善できる。政治の意思が実現されると、どんな社会ができるのか、政府は速やかに未来図を描いてほしい。国民が安心して削減に取り組める土壌づくり、それが「政治の責任」だ。
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新S 「新聞編集人」安井 至(独)製品評価技術基盤機構理事長、東大名誉教授 2009年09月21日
だから「温暖化」問題はむずかしい
 民主党がマニフェストで掲げた、温暖化による気候変動防止に関する中期目標が多くの議論を呼んでいる。1990年比でマイナス25%という数値は、実のところ、その中身が詳細に示されている訳ではないので、具体的にどのような効果があり、どのような副作用を及ぼすのか、その実態を予想することは難しい。
 確かに、国際的なリーダーシップを取るという観点からは、意欲的なものだと言える。しかし、このような単純な評価ができるほど問題は簡単ではない。21世紀全体を考える視点から、この提案が一体何を意味するのかを再確認しておく必要がある。
 気候変動問題の本質を議論する前に、一つの歴史的な環境問題の解説を試みたい。それは、「アスベスト」である。
○現在と未来のトレードオフ
 アスベストというと、なぜこのように危険な材料を使い続けたのか、という疑問を持たれる方も多いかもしれないが、1970年代の実態は、労働者の「将来の健康被害」と「現在の雇用」というトレードオフの問題であった。この時点でも、すでにアスベストが健康被害を発生させるということ、すなわち、もしも多量のアスベストを吸入すれば、20年程度経過した後に、中皮腫と呼ばれるある種の肺がんを発生する可能性があるということは知られていた。
 一方で、アスベストを補強用に使用したスレート板は、安価な建築材料として経済発展にとっては必須のものであった。もしもアスベストの使用を全面的に禁止すれば、アスベスト関連産業は消滅し、当然のことながら、従業員は失職する。
 当時の日本人の平均余命は、現在ほど長くはなかった。男性だと70歳にもなっていなかった。定年も55歳が平均的なものだった。もしも40歳でアスベストを摂取した労働者が中皮腫を発症するとしても、平均的には60歳の頃である。40歳のいま失職すると、すぐに家族の生活が困るが、万一、60歳で中皮腫になったとして、どのような状況になるかは予測しにくい。治療法だってできているかもしれない。このように考えることも自然なことであった。
 すなわち、現在と未来のトレードオフ。これが、1970年代のアスベスト問題の実態である。ただし、そのトレードオフは、アスベスト産業に従事している同一の個人の現在と未来に関わることであった。
 現時点で最大の環境問題である気候変動は、人類がこれまで営々として築いてきた化石燃料に依存した大量エネルギー消費型現代文明を、根底から否定するものだとも言える。
 現時点でも、すでに気候変動の影響は無いとは言えないものの、本当の意味で大きな悪影響が出る可能性が高いのは、21世紀後半ではないか、と予測される。しかも、ある時点で対策を始めたとしても、すぐに問題が解決する訳ではない。大気中に溜まってしまった温室効果ガスが直ちに減る訳でもない。海洋などに地球が吸収するには、それなりの時間がかかる。
○2050年までの「半減」は途上国の姿勢次第
 排出抑制対策という観点から解釈すると、一つのエポックとなる時点が2050年であることは確実である。洞爺湖で行われたG8サミットで「2050年までに地球全体での温室効果ガスの排出量を半減する」ことが合意されたが、安全策を考えると、確かにこの対策が望ましい。
 ところがこれを実現することが絶望的に難しい。先日行われたラクイラでのG8サミットでは、先進諸国は、2050年までに排出量を80%削減するという合意を行った。しかし、これだけでは全く不十分である。途上国が、地球全体で2050年半減という方針に、全く合意する気配すら無かったからである。
 よく知られているように、中国はアメリカに続く世界第2位の二酸化炭素の排出国である。人口が10倍だから当たり前とも言えるが、インドもすでに日本より多くの二酸化炭素を排出している。しかも、2000年~2004年の4年間での中国の排出量の伸びは80%近い。インドも早晩、中国と同じ道筋を歩むことだろう。
 非常に大雑把な感覚では、1995年には途上国からの排出量の総量が先進国からの排出量とほぼ同等となっている(旧共産圏を途上国と分類)。したがって、先進国が二酸化炭素の排出を削減するのは当然のこととしても、途上国からの排出量をなんとかして削減しないことには、2050年半減の目標達成は全く不可能なのである。
 ところが、中国・インドが排出量を格段に増やすことが予測されている。他の途上国も経済発展に伴って、排出量は増大する一方だろう。
 国際エネルギー機関IEAの予測によれば、このままなんら排出抑制策をとらなければ、途上国からの二酸化炭素の排出量は、2050年までに、1990年の4~5倍程度に増加するとされている。
 そのため、もしも1990年比で地球全体の2050年での排出量を半減しなければならないとしたら、途上国の排出量を予想される5倍から1990年と同程度に抑制することが必要で、途上国の削減率は80%となる。これはラクイラのG8サミットで合意した先進国の削減率80%と同じ数字になる。
 このように絶望的とも思える目標を満足させなければならない。当然のことながら、2050年の先進国からの二酸化炭素排出量をゼロにすると宣言しなければ、途上国が合意することはあり得ないだろう。
○先進国の「150億トン」をゼロにする
 2050年には、世界人口は90億人になると予想されている。一方、日本の人口は、9千万人をやや上回る程度まで減少しているのではないだろうか。現在先進国と呼ばれる国々の人口も米国を除けば余り増加しないから、まず10億人程度だろう。先進国からの排出予測値だが、排出抑制策をとらなかった場合は150億トン程度である。これをゼロにするとまず宣言する。
 一方、途上国は、500億トンが排出予測値である。これを100億トンまで、400億トンも減らす必要がある。2050年での途上国の人口の合計を80億人と想定すれば、100億トンの総排出量といっても、1人あたり1トン強の排出量にすぎない。これは、現在の日本人1人あたりの排出量約10トンの8分の1でしかない。
 エネルギー使用量とCO2発生量が比例すると仮定すれば、現在の日本のエネルギー使用量の8分の1で途上国のすべての経済活動を行えということを意味する。
 そして、2020年の中期目標は、この2050年の半減目標への中間目標だということになる。
○途上国は一時的に増加許容か
 現時点から、最終状態へ真っ直ぐ向かえと言っても、やはり無理がある。現実的な解決策は、現時点から2050年までを直線的に減らすという考え方を、先進国だけは受け入れるとしても、途上国に対しては一時留保して、2020~2030年には、途上国のみは排出量の増加を許容するしかないのではないだろうか。
 そして、途上国での経済的な発展を促し、同時に人口の自然減を目指すことが全地球的にみて妥当な戦略のように思える。
 GDPあたりの二酸化炭素排出量、これは、ある種の効率指標であるが、日本やヨーロッパ諸国に比較すると、途上国の効率はかなり悪い。ということは、改善の余地が大きいことを意味する。
 同じ費用を掛けるのであれば、先進国でその費用を使うよりも、すなわち、日本で言えば、太陽電池のように高価な技術を使うよりは、途上国における効率の悪い部分を改善する費用に回すことが、地球全体から見れば遙かに効率的である。
○先進国間での排出権取引は効果が薄い
 このような考察から導かれる2020年での対策はなにか。もしも、21世紀後半に起きるであろう地球全体の最悪のリスクを回避することを最優先するのならば、現時点で先進国が行うべき対策は、費用の安い技術、すなわち、建物の断熱の強化や自動車の小型化による燃費の向上のような技術に限り実施し、費用の大部分は途上国におけるエネルギー効率の向上のために使用すべきだということになる。
 これを実現する方法は、いくつかある。途上国への資金援助がその中味ではあるが、先進国に対する厳しい排出量削減枠の実現と、先進国と途上国との間での排出権取引もその答えになる。途上国への技術移転もその答えの一つだろう。一方、先進国の国内、あるいは、先進国間での排出権取引は、効果が薄いだろう。
 しかし、途上国優先のこれらの方策を実施に移せば、先進国の産業は、相当なダメージを受ける可能性が高い。特に、エネルギー多消費型である製造業に対する影響は大きいものと思われる。すなわち、先進国の雇用への悪影響は相当なものになるだろう。
 ヨーロッパでは、経済全体に占める製造業のウェイトはどんどんと下がっている。そのため、製造業を未来の産業だと考えない国が増えている。EUが、かなり過激とも言える排出抑制策が提案できるのも、そのためである。
 しかも、日本のようなエネルギー資源に恵まれない国は、二酸化炭素発生量の少ない再生可能エネルギーへの転換を図ることによって、エネルギー安全保障面でのかなりの強化を同時に目指すべきである。しかし、途上国における対策優先となれば、高い再生可能エネルギーの導入は実現されないだろう。
 すなわち、地球全体のリスク、特に21世紀後半のリスクを削減しようとすると、日本を含め、多くの先進国での現時点でのリスクが増大してしまう。
 未来のリスクを削減しようとすれば、現時点でのリスクが増大する。アスベストの場合には、同一の個人に関するリスクのトレードオフに関する問題であったが、気候変動問題の場合には、現世代と未来世代の間、すなわち世代間のリスクトレードオフが主なものであり、リスクを負う主体が違うだけに、現世代優先の主張が通りやすく、解決はさらに難しい。なぜならば、現代文明は、現世代のリスクを極限まで削減することを目標として、未来世代が不利になることはある程度無視して、様々な対策を進めてきたからである。
 すなわち、現代の科学技術は、現世代がますます健康・快適になって、その寿命がますます延びるように、資源を大量に使用すると同時に、医学などを進歩させてきた。それが、産業活力の原点でもあった。これを全面否定するのは、多くの人々にとって難しい。
 少なくとも、未来世代のために、現世代がすべての生活を犠牲にするということは無さそうである。それなら、現在だけを重視し、気候変動が多くの被害をもたらす状況への道筋をまっしぐらに進む以外に無いのか。
○将来を楽観できるほどの技術革新の種はない
 この点についても、様々な議論がある。気候変動は将来の経済に大きな被害をもたらすから、現時点から削減のための投資をする方が安価であるという意見が正統的だとは思うが、その反対に、今後の大幅な技術革新が未来世代を救うから、現時点での対策に、多額の投資をすべきでない、という意見もある。50年前の生活を思い起こせば、説得力が無い訳ではない。
 しかし、この後者の意見は、最初に例示したアスベストのケースで言えば、中皮腫を発症する20年後にはがんの治療技術は格段に進歩するだろうから、しばらくはこのまま行くべきだ、という1970年代の産業優先の主張に類似する考え方でもある。
 環境・エネルギー技術を一応の専門とする筆者からみて、この意見に全面的に同意できるほどの、技術革新の新しい種があるとは思えないのが悲しいところである。
 とすれば、解決には、現世代がある種の「悟り」に到達することが必要なのか? そして、未来のリスクを優先すべきなのか。昨年あれほど非難された金融界の強欲が復活しつつある現状を見ると、現代人が「悟り」に至ることは難しいようにも思える。
 しかし、ある程度の悟りは必要なのだろう。もしそうならば、そもそも人類の持続可能性とは何か。すなわち、個人の生命が有限であることは事実であるが、その有限な寿命をより長くすることと、人類の持続可能性を高めるということは、どのような整合性をもつべきなのか、といった哲学的な議論を巻き起こすことが必須のように思える。
 そのような議論を行うことは、これまでは全く無理だったと思うが、国によっては、多少準備ができてきたようにも思える。
 その国とは日本である。世界でもっとも寿命の長い日本人が、今後、さらなる長寿命をどの程度目指すべきなのか、という問題意識も若干共有されるようになった。また最近になって、肉体的・物理的な寿命と、大脳の能力を含めた健康寿命は違うのではないか、という意見も聞くようになった。このような議論ができる下地はできたように思える。この点、日本は世界の最先端を歩む国である。
 もしもヒトの長寿の追求にも限界があることを認めたら、人間社会における経済活動にも寿命があることを認める時代になるのかもしれない。すでに、企業の平均寿命は、ヒトの寿命よりも短くても不思議ではない状況にあると判断せざるを得ないからである。
○地球レベルの解が必要
 いずれにしても、気候変動問題とは、有限な寿命を有するヒトによって構成されている人類社会が、今後どのように持続をしていくべきか、という問題のごく一部である。言い換えれば、個としての人の寿命と、種としてのヒトの持続性をどのようにバランスすべきか、という難問に対して、地球レベルでの解を出さなければならないのである。
 これは、人類にとって初体験の、かつ、最大の難問である。すなわち、気候変動問題に対して、日本がどう対応すべきかについても、そう簡単に答えがでるわけもないのである。
 すなわち、25%削減は可能だと単純に主張することにも、また、絶対不可能だと主張することにも違和感を感じる。
 もともと、個人の価値観に大きく関わることなのだから、もっと多くの人々が議論に参加できる状況、すなわち、より多くの情報が共有される状況を作り、真摯な議論を行うべきである。

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