私の実質人生は終わっている。 夕刊は「緋の河」を読む。 〈来栖の独白 2018.9.5〉…緋の河<247>

2018-09-05 | 日録

〈来栖の独白 2018.9.5 Wed〉
 この日頃、私の実質人生は終わったのだ、終わっているのだ、という思いが頻りだ。「余生」などというニュアンスではない。実に、空疎だ。
 何一つ、力を入れてしていることがない。昨年、母が亡くなってから、私自身、急速に衰えた。心身ともに。
 日々、新聞やWebに目を通すが、読みたい本にも当たらず、毎朝聴く「古楽の楽しみ」に象徴されるように、この先、過去に感動したほどの音楽に出会えるとも思えない。能楽堂も、然り。
 幼少時より、新聞小説を読み、母の影響で(弾く楽器はピアノだけだが)音楽を楽しんできた。そんな私に、流石に楽しみがなくなった。・・・もはや人生の実質は終わっている。
 「よい人生だった」、心から、そう思う。「よい人生に感謝」と毎朝夕、主なる神に祈る。
 
 日常は変わらず、夕刊は「緋の河」を読む。この連載を読むまで、私は桜木紫乃という作家を知らなかった。が、読み始め、日を浅くして、この作家の非凡(才能)は、私を愉しませてくれるようになった。早速『ホテルローヤル』(集英社文庫)を購入。収録されている7編で、直木賞受賞した。流石に、力量を感じさせる。愉しめた。
 『緋の河』、モデルは、カルーセル麻紀さんとも云われる。同性愛者の秀男少年が、矜恃を持って生きてゆく。
 釧路の高校を中退(教師と喧嘩)、家出。東京のゲイバーを目指したが、札幌のゲイバーで働くことに。刺激的な職場で目一杯働いていたが、捜索願を出した父親によって家に連れ戻される。釧路でバーに勤めるが、合わない。札幌の事ばかりが思われる。
 以下、<247>巻き写し。


緋の河<247> 
2018/9/4 夕刊
「家出をしたり学校を辞めたり、迷惑ばかりかけて本当にごめんなさい。とうさんのいないところで頭を下げるのは卑怯(ひきょう)だってわかってます。ただ、またこっそり出て行くのはもっと卑怯だって思うから、ふたりにだけは謝らせてほしかったの」
 母のマツが首をかくんと前に折る。
「しょうがないねえ、お前は」
 持ち上げた頬は泣くでも笑うでもなかった。章子の目はかなしげで、秀男は姉の顔を真っ直ぐに見ることが出来ない。
 謝るもなんも---
 マツの声は弟や妹が騒いで父に叱られたときそのままに、穏やかで柔らかい膜に覆われている。
「ヒデは腹の中にいるときも蹴りかたが違った。ちいさいくせになかなか出てこない頑固者でね。産声を上げたときから強情だとわかっていたさ。誰が自分の産んだ子を責められる。いくら臍の緒を切ったところで、どっちかが痛い思いをすればお互いがつらいんだ。口から先に生まれてきたようなお前が、他人様を喜ばせる仕事をするのはあたりまえなのかもしれないねえ」

   

 マツはぽつぽつと言葉を繋いだ。
「子供は宝なの。どんな顔でもどんな姿でも生きていてくれたらそれでいいんんだ」
 少し丸まった背中を見て、母はまだ死んだ松男を背負っているのだと思った。言葉のひとつひとつは、息子にというよりも、自分に言い聞かせるようだった。
(中略)
「ちょっと待ってね」
 よっこいしょ、と声に出し母が立ち上がる。仏壇の下の小引き出しからなにか取り出し、板の間へと戻った。
「これさ。お前を見ているといつもこの子のことを思い出すんだよ」
 母が差し出したのは、2枚の写真だった。角がすり切れ、表面に幾筋かのひび割れがある。写真館の椅子に座った男がひとり、髪をなでつけ着物姿で写っていた。目はすっきりと筆を走らせたくらいの切れ長で、鼻筋も通っている。唇は薄く、紅をのせたならさぞ美しいに違いない。もう1枚は、島田を結った女とふたりで写っていた。どちらも同じ日のようだ。
「こっちがお母さん。この子はすぐ下の弟なんだ」
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私の半生が連載されました 
2017-11-08 19:50:17
今月1日から北海道新聞、中日新聞、東京新聞、西日本新聞、の夕刊で桜木紫乃さん が書く私の小説(緋の河)が連載になりました。
さっそく新聞社から送っていただき読みました。釧路の想い出が頭の中を走馬燈のように巡りました。
これから1年彼女のえがくわたしの人生、それを彩る 赤津ミワコさん の美しい挿絵とても楽しみです。
皆さんも是非読んでくださいね。
 「女は一日にしてならず」(カルーセル麻紀オフィシャルブログ)より
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〈来栖の独白〉追記 2018.9.6 Thu
 あやかさんからコメントを戴いた。拝見し、同性愛(同性愛者)につき、日頃考えてきたことを書いてみたい。
 聖書に於いて、神は「男と女とに創造された」と云われ、そこには男と女の狭間に漂う人たちについては、言及されていないように思う。それと、私に疑問なのは「われわれのかたちに、われわれにかたどって」の文脈である。「われわれ」というのは、神はお一方ではないということか? 浅学の私には、そのように読めてしまう。
 「男と女とに創造された」との文脈。聖書、とりわけ旧約聖書とは、所詮、昔の古い古い書物の域を出ていないのか、などとも思ってしまう。私の大好きな、唯一のみちしるべ(道標)、生きることに意味を持たせてくれた書物であるのに。・・・それでも私は、これがなくては生きてはゆけない。

創世記 1:26-27
26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

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叔父を同性愛者としてもってくる才筆「緋の河」 こういう、常識の狭間に苦しむ人をこそ救わねばならないのに、聖書は。


2 コメント

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おはようございます。! (あやか)
2018-09-06 06:05:54
『緋の河』は、私は読んだことがありません。
『同性愛』については、よくわかりませんが、‘’例外的な生き方‘’としては、黙認すべきだと思います。
その小説で、お母様の、
『子は宝なの、、、、、生きていてくれればそれでいい』という言葉は【人間の尊厳】を指摘していると思います。。
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あやか様 (ゆうこ)
2018-09-06 12:27:27
 コメント、ありがとうございます。
 上記事に、少し追記を書きました。後に、稿を改めてみたいと思います。
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