『日本の悲劇 怨念の政治家小沢一郎論』中西輝政著 PHP研究所

2012-10-22 | 本/演劇…など

『日本の悲劇 怨念の政治家小沢一郎論』中西輝政著 PHP研究所 2010年04月15日発行 
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■これは「対中追随」へ国策を転換する革命だ
 あゝ、やっぱりこういうことだったのか。
 2009年12月、民主党の小沢一郎幹事長に率いられた総勢600人以上(うち国会議貝は約140名)の訪中団が、大挙して北京を訪れた。日本のTVニュースでは連日、中国の胡錦濤国家主席とのツーショット写真の撮影に列をなして順番待ちし、一瞬のショットに収まる民主党国会議員たちの姿を映し出していた。
 一方、そのころ東京では、沖縄の米軍・普天問基地の移設問題の紛糾が連日ニュースで伝えられ、11月の日米首脳会談で合意を見たとされる「年内に結論を出す」という期限が迫っているのに、鳩山政権はなぜこれほど先延ばしを繰り返すのか、といぶかる声が日米双方から、しきりに発せられていた。
 そこへ次のような報道が日本に伝わってきた。一足先に韓国経由で帰国した小沢氏と別れ、訪中団の団長を務めていた山岡賢次国会対策委員長は、上海市で開かれたシンポジウムに出席して次のように語ったという。
 「日米関係が基地問題で若干ぎくしゃくしているのは事実だ。そのためにもまず、日中関係を強固にし、正三角形が築けるよう米国の問題を解決していくのが現実的プロセスだと思っている」 山岡氏はこう語ったあと、さらに続けて、「(12月10日の)小沢幹事長と胡主席との会談でも確認されたが、日中米は正三角形の関係であるべきだ。それがそれぞれの国と世界の安定につながる」と強調したという(『産経新聞」2009年12月15日付、『日本経済新聞』12月14日および15日付)。また、民主党訪中団の名誉副団長を務めた輿石東参議院議員も、訪中前の12月3日、記者会見で「日米中は等距離の三角形の関係にある」と語っていたと報じられた(上掲『産経新聞』)。
 やっぱり、これは「普通の政権交代」ではなかったのだ。少なくとも、12月の民主党の大訪中団の本質は、「正三角形への旅立ち」を中国と世界、とりわけアメリカに対してデモンストレーションする、という点にあったのである。
 ワシントンにとって山岡氏の言葉は、普遍的な外交の常識からいって、衝撃的ですらあったろう。というのも、それは「日米関係がぎくしゃくしているいまこそ、日中関係を強固にして日中米の正三角形を実現する現実的チャンスだ」といっているわけで、これは日本にとってたんなる政策の転換ではなく、国策の転換を意味するからである。
 とすれば、日本の民意はこれを了としているのか。少なくとも二〇〇九年八月の総選挙ではいっさい問われていない。しかし、そのことは中国の国家主席と日本の「最高実力者」のあいだですでに合意がなされていることも山岡氏は明らかにしており、おまけに山岡氏と並んで民主党内でも小沢幹事長の最側近として脇を固めている輿石氏までが、いまや日本の国家戦略の基本は「正三角形戦略」に置かれていることを口にしているわけである。
 やはり、これは「普通の政権交代」ではなく、民主党関係者がこの三カ月ずっと口にしてきた「無血革命」だった、と見るほかないだろう。「革命」ならば、民意を問う必要はいっさいなく、「子ども手当マニフェスト」を掲げて奪取した権力に依拠して、一気呵成に進めても「革命的正統性」はあるのかもしれない。
 ただ、それでは民主的正統性はどうなのか。大いに疑問といわざるをえない。
 考えてみると、この間の米軍基地問題をめぐる鳩山由紀夫首相の変幻自在の変わり身、それはもう「ブレまくり」とか「朝令暮改」の域を越える、およそ人間業とも思えない、あたかも天女の舞を思わせるほど優雅な揺らぎの手練を見せていた。2009年11月13日のオバマ大統領との首脳会談で「私を信じて(トラスト・ミー)」と迫った、まさにその翌日、「向こうがそう思いたいだけ」と言い放つ。両首脳間に何ら一致した合意はないのだ、と鳩山氏は今度はタチ役風に「ちゃぶ台をひっくり返した」と称される猛々しい所作にも出たのであった。
 すべては、たんなる「宇宙人」の世迷い言ではなかったのである。たしかにこれは何かある、とは感じていたが、ここまでのことがあるとは私でさえ思っていなかった。これは、やはり「隠密の革命」を包み込んだ政権交代だったというしかあるまい。
 2010年1月号の『Voice』で鳩山外交を論じた、「一人芝居の鳩山『反米』政権」というタイトルを付けていたが、それはけつして「一人芝居」ではなかったのである。先の山岡発言や、小沢訪中団が帰国した2009年12月15日に鳩山内閣がついに断固たる姿勢で決断を下した「普天問移設問題は際限なく先延ばす」との決定からも、あれは「一人芝居」ではなく、北京との「二人芝居」だった、と推測せざるをえない。少なくともワシントンは問違いなく、そう断定することであろう。
 あの8月30日、有権者ははたしてここまでのことを念頭に投票したのであろうか。
「日本外交の自立」は多くの日本人の心の琴線に触れるこの国の大目標であり、多くの人びとの願ってやまないところである。私自身もつねづね、21世紀の世界における日本の国家戦略は、「自立」をおいてほかにはないことを力説してきた。
 しかし、「正三角形」戦略はけっして日本の自立にはつながらないことを、われわれは銘記すべきなのである。この戦略が、「対米追随」を「対中追随」に置き換えるにすぎないことは火を見るよりも明らかである。
 日本の自立には、まず何よりも日本自体の力を付けることが第一であり、それには何年もの時間と国内体制の変革が伴わなければならない。たとえば、「憲法九条」を改正して正規の軍隊をもてるようにしなければ、そもそも国家としての自立の第一歩は到底踏み出せまい。当然、それには少なく見ても数年から十年の時問とともに、大幅な政治の活性化が不可欠であろう。また、そのあいだにできうることとして、戦略情報能力(インテリジェンス)の涵養(かんよう)や技術力の確保と向上に専心すること、さらには財政構造の転換や国民世論の喚起なども避けては通れない。
 こうした「自立のためのロード・マップ」をもたない自立論ほど危ういものはないのである。
 しかるに、憲法改正はおろか、「集団的自衛権」の行使にさえ完全に背を向けたまま、「これまでアメリカに依存しすぎていたが、これからはアジア(つまり中国)との連帯を進める」という鳩山=小沢政権の路線は、おそらくもっとも危うい、自立路線。といわなければならない。(略)
 繰り返すが、それはまさに「対米従属」を「対中従属」に置き換えるだけのものであり、それがいかに危うい結果につながるか、歴史の偶然が絶妙のタイミングでわれわれの目の前に示してくれたばかりではないのか。
■四年後に正気を取り戻したところで手遅れ
 2009年8月のあの総選挙と、続く政権交代で、人びとはなぜあれほどまでに熱気に煽られたのだろうか。小泉時代から続く欠損感やフラストレiション、あるいは自分だけが「割を食っている」という被害者意識が、いわば自虐的で破壊的な衝動として熱狂的に高まり、あるときは小泉時代の「郵政選挙」というお祭り騒ぎ、そしてその四年後には「政権交代」というお祭り騒ぎをもたらしたのであろう。
 いずれの場合も、成熟した大人としての正常な選択感覚をもたないまま、人びとは動いてしまった。「いま郵政選挙を振り返って、なぜ小泉自民党に投票したのかわからない」といっていた人たちが、2009年の総選挙で民主党へ雪崩れたのである。
 同じように2010年には、「昨年の衆議院選挙でなぜ民主党に投票したのか」と、多くの人びとが考え込む光景が広く現れるだろう。心地よい音色で人びとを破滅の道へと誘う「ハーメルンの笛吹き男」が二人もいたのでは、その国は到底もたない。
 ここには、依るべき海図をもたないまま「改革神経症」にうなされ、自暴自棄といえるほどに政治の仕組みを一挙に変え、着地点を見失ったこの二十年の日本の姿がある。
 国民は「年金問題がけしからん」「道路やダムの造り過ぎがけしからん」「郵政利権がけしからん」と、「けしからん」対象だけを追い求めて投票行動をしてきた。何が「けしからん」のかは、メディアが選ぶ「絵になる対象」によってその都度変わる。その間、政治家も、政党をつくっては壊し、離合集散ばかりを繰り返した。
 この自虐に満ちた時代を貫く一つのイメージは「日本の衰亡」でしかない。
 日本の財政も、もはや出口なしの状態に入った。福田内閣までは、まだ「プライマリー.バランス(基礎的財政収支)」という言葉が使われていた。30兆円を超える膨大な赤字国債を発行していたが、それなりの自制心はあった。だが、いま「国債55兆円」の声を聞くと、もはや誰も「ブライマリー・バランス」を口にしなくなった。「ポピュリズム競争」と化したいまの「二大政党制の狂騒劇」という政治構造を断ち切らないかぎりおそらく日本財政がプライマリーバランスを回復する可能性はゼロである。
p46~
 そしてここでもやはり、小沢一郎というマキャヴェリストの登場が非常に大きな意味をもっている。小沢氏が代表になるまでの民主党は、いわば汚れを知らない「うぶな民主党」だった。菅直人、岡田克也、鳩山由紀夫、前原誠司の四氏が代表の時代は、いずれも政権奪取能力はなかったかもしれないが、「消費税を上げる」という公約は外さなかった。つまり、本来の政権担当能力は辛うじてあったのである。
 「政権しがみつき」の自民党ですら、麻生政権の最後の最後まで「消費税アップの可能性」を言い続けた。「消費税」という言葉は、本当に日本の衰退を食い止めようとしているのか、あるいは自分の権力志向だけで政治を動かそうとしているのか、の最大の「リトマス試験紙」であった。
 ところが小沢氏が2003年に民主党入りし、2006年に代表になった途端、民主党はこの言葉を完全に引っ込めた。この瞬問、民主党は大義を失い、未来を託するに足る政党でもなくなった。政権は見事に奪い取ったが、しかし、ただの権力集団に成り下がったのである。そしてもはや、四年後に民主党が正気を取り戻したところで、すでに手遅れの可能性は高い。
 「このままいくと、日本はアルゼンチンのような破綻国になる」という言葉が、徐々に迫真性を帯びるようになってきた。忘れてはいけないのは、アルゼンチンがかつて南米随一の経済先進国であり、イタリアやスペインよりもずっと高度な生活水準を誇っていたことである。第二次世界大戦後、ペロン政権がポピュリズムの権化となって左派リベラルの路線をアピールし、徹底したバラまきの福祉政策を展開したために財政の大崩壊を招く。 以後、アルゼンチンが辿った道は、数十年にわたる国家デフォルトと軍事独裁の繰り返し、という大混乱のなかでの果てしない衰退であった。
 衰退の第一段階では、皆が「改革だ」と騒ぐ。しかしその第二段階に入ると、改革熱も徐々に萎えて、やがて「衰退」という言葉も聞かれなくなる。すべてにおいて、あちらを立てればこちらが立たずというトレードオフが現れ、すべてがお手上げになる状況が始まる。誰もが「これではいけない」と思っているその眼前で、止めどない崩壊が続いていく。いま「日本のアルゼンチン化」が始まろうとしているのか。
■「国としての精神」の基盤の違い
 「国家の衰退」について、1970年代、私がこの目で見て学んだのはイギリスの衰退と、そこからの回復であった。「老大国」「イギリス病」などといわれ、「衰退の極致」にあるかのようにいわれた70年代のイギリスは、いま考えると、じつに立派な衰退だった。何より、政治がしっかりしていたからである。いわば「素晴らしい衰退」であつた。よくぞ、あれほどの状況のなかから立ち直ったものだと思う。ひとえに「政治大国」の底力があったからだ。
 2008年のリーマン・ショック以降のイギリス経済は、たしかに苦境にある。しか
し、強固な社会的基盤を築いたいま、再び70年代の衰退に落ちることはあるまい。イギリスが完全に衰退を脱した理由を考えると、やはりその主因は「政治の強さレに求められる。そして緕局それは、「国としての精神」の基盤の違いなのかもしれない。
 フォークランド戦争(1982年)のとき、イギリス軍兵士は何百人と戦死した。あるとき英海軍の駆逐艦が撃沈され、一度に数十人の戦死者を出したこともあった。このとき全同民は悲しみに暮れ、喪に服した。しかし、ここでサッチャ〕首相は「わが領土を守るため、イギリスは戦い抜く、女王万歳!」と叫び、国民の先頭に立って戦いつづける決意を示した。これでイギリス人はウィンストン・チャーチルの時代を思い出し、大きな苦難が予想されたあの大改革へと向かう。これこそ政治の主導によって、国家としての生命力を復活させたということである。
 象徴的なのは、止めどない衰退を続けた1970年代には保守党と労働党の二大政党のあいだで短期間に頻繁な政権交代を繰り返していたが、サッチャー以後はそのようなことがなくなったことである。そして、18年続いた保守党政権ののち、97年、労働党が政権を奪取しても、もはや大きな枠組みの変更には走らず、現在まで安定した政治を実践している。
 つまり、二大政党制での頻繁な政権交代は、国家を衰退に導く早道でしかないのである。そして、日本では二大政党制は必ず頻繁な政権交代につながる。「抜け駆け」を狙うマキャヴェリストに操られ、権力奪取またはその維持しか念頭にない政党が、必ず「禁じ手」を使うからである。日本の政治的民度にふさわしい「改革」とは何か、を考える必要があったのである。ここに日本の識者はもっと早く気付くべきであったろう。
 国家がつねに一定の生命力をもち、安定的な成長と再生産を実現して、次の世代に高い水準の生活と国家の安全、守るべき価値観を受け継がせる。政権交代や政界再編は、まず何よりも、そのような価値観から考えなければならない。そうした視点を戦後の日本人は失ってしまった。国家観を喪ったからである。ここにこそ、日本の混迷の本当の理由があるのである。
p104~
■小沢氏が壊すのは自民党か民主党か
 2007年7月の参議院選挙で小沢民主党は大勝利を遂げた。このことが意味するもの、そして今後の政局の行方を考えるとき、そのカギになる問いは、「小沢一郎の本質」とは何か、ということである。(略)
 思い起こせば2003年に小沢氏が民主党に合流したあと、当時の民主党の指導者たちは考えられない凡ミスで次々と交代していった。菅直人代表は「年金未納問題しで辞任し、岡田克也代表は郵政選挙で大敗北を喫して退き、続く前原誠司代表は「偽メール事件」で退いた。そうして小沢氏が「真打ち」よろしく、2006年4月に代表の座に就くこととなったのである。
 2007年の参院選の勝利で、民主党は1998年のその発足以来、最大の「歴史的瞬間」を迎えたようにも見える。しかも、その当事者が小沢氏であることは、そもそも民主党が「脱小沢」の反自民勢力結集のためにつくられたことを考えると、まことに「皮肉」というしかないであろう。そしてこのことが、今後の民主党と小沢氏の運命について、さまざまなことを物語っているように思われる。
 小沢氏は周知のとおり、自民党田中派のプリンス中のプリンスとして将来を嘱望されていた人物で、まさに自民党によって生み出され、良くも悪くも「古い自民党の本質」を丸ごと体現してきた人物といつてよい。
 思い起こせば、小沢氏は政治改革問題をきっかけに、1993年に自民党を離党して新生党をつくり、同年の総選挙で七党一会派連立による細川政権を成立させた。小沢氏が自民党を離れ、以後、あまたの政党遍歴を重ねてきた真の目的は、おそらく自民党を割って、官僚支配で「政官業癒着」という古い体質の政治構造を断ち切ることにあったのだろう。政界再編こそが、小沢氏を突き動かす信念となる。
 だがその十カ月後、それまで細川政権のなかで、ややもすれば脇へ追いやられていた社会党が、続く羽田政権から離れて、自民党、さきがけと連立し、村山自社さ政権を成立させる。これは小沢氏にとっては「痛恨の極み」で、これにより小沢「非自民」政権の時代が短命に終わり、自民党政権が再び息を吹き返した。その後、新進党、自由党と、小沢氏の政党遍歴が続く。小渕政権下では「自自公(自民党、自由党、公明党)連立」をも成立させたが、その後、自民党と自由党との合流を主張して容れられず連立は頓挫。自由党は分裂し、小沢氏は逆に、これを解消して民主党と合流する道を選んだ。
 民主党は本来、「小沢的な手法」を嫌って小沢氏と挟を分かった勢力によってできた政党であったにもかかわらず、こうして小沢氏は、まさに「反小沢」を重要なアイデンティティとして生まれた民主党の命運を決する地位に就いたのである。
 それゆえ、小沢氏は自民党を壊すのか、民主党を壊すのか、この点にいまや日本政治の命運がかかってきた、といってよいかもしれない。
 そこで、どうしても無視できないのは、小沢氏が民主党合流後のこの七年、一貫して民主党内の旧社会党勢力を自らの権力基盤としてきた、ということである。そのためか、あるいはたんに対自民党の政治戦略からなのか、かつて自由党を率いていたころからは想像もつかなかった政策面での「左転回」を重ねてきた。
 たとえば、象徴的なのは憲法改正論である。かつて総合雑誌(『文塾春秋」1999年9月号)のなかで小沢氏は、日本国憲法九六条「憲法改正条項」こそが、憲法をめぐる最大の問題点であるとし、改憲を容易にするため国民投票法の一刻も早い成立を当時の自民党が提案していることを高らかに調っていた。さらには、自民党右派よりも右に位置する立場の意見に呼応して、「いったん日本国憲法の無効を同会で宣言し、そのうえでまったく新しい憲法を作り直す」という、いわば極右的な選択肢すらある、と述べていたのである。
 だが、安倍内閣の下で国民投票法案が国会で議論されたときには、参院選の勝利をめざすという政略から、反自民路線を際立たせ「与野党激突」を演出して、それまで自民.民主両党の議員が延々と積み上げてきた与野党協議のすべてをひっくり返した。民主党の枝野幸男憲法調査会長をして、「責任は安倍首相と小沢代表にある」とまでいわしめている。
 たしかに、そのような政略的対応に徹した小沢氏の動きが、2007年の参院選での民主党の勝利につながったといってよい。
 だが、このような小沢氏の手法には、結局、根本的に自己否定につながる契機を感じないわけにはいかない。そこには、小沢氏が掲げてきたそもそもの政治的目標を、いや小沢氏の人格的な基盤をすら突き崩すほどの根源的な矛盾が垣問見えるからである。小沢氏がそれをどこまで自覚しているかは私は知らない。だが民主党と日本政治の行方を論じるとき、いま問われるべきは、まさにそこなのである。
■田中政治のニヒリズムの申し子
 2007年7月の参議院選挙を顧みて、まず第一に挙げるべき大きな問題、それは、年金問題をここまで争点として利用し尽くしたことの危うい意味である。
 イギリスの思想家ベンサムは二百年前、政治家と世論との関係について、
「最低の政治家は世論に反抗する。二番目に劣った政治家は世論に追随する。そして最艮の政治家は世論をリードする」
 としている。しかし、「大衆操作」が政治の常套となった大衆民主主義の時代には、いまやこの位置づけは反転するのである。いまや、「世論に従うことだけが民主主義ではない」というのは、民主主義の先進国における政治で最も重視されるべき命題である。
 ところが2007年の参議院選挙は、「民意がすべてである」という日本の戦後民主主義の危うさを大きく露呈させてしまった。
p116~
■中国コネクションヘの懸念
 2007年の参議院選挙の結果を受けてアメリカが注目しているのが、小沢氏がアジア、つまり中国に対し、どのような態度をとるかである。最近公開された外国の情報資料によれば、アメリカもソ連も田中角栄について、ある種の社会主義的な世界観をもっているのではないか、との見方をしていたようだ。
 イギリス政府がかかわって最近公表されたKGBの秘密文書集『ミトローヒン文書』のなかで、田中の側近の一人は「FEN」というコードネームを与えられたKGBのエ-ジェントであったことが、はっきりと記されている(Christopher Andrew and Vasili Mitrokhin, The Mitrokhin Archive 11 : The KGB and the World, Allen Lane, 2005, P.302)
 アメリカはおそらくこれをつかんでいたのであろう。アメリカがもっとも警戒したのも、田中のクレムリン.コネクションであったのかもしれない。、もしそうだとしたら、いまも一部にある、「田中の金脈問題が浮上したのは田中がソ違に接近しようとしたことをアメリカが恐れたから」という見方は、もしかすると因果関係が逆なのかもしれない。
 一方、小沢氏は自民党幹事長時代、アメリカに協力して湾岸戦争に自衛隊を出そうとするなど、かつては少なくとも表面上、親米的な立場を取っていた。だが小沢氏を政治家として引き上げたのは、田中角栄であると同時に、金丸信でもある。金丸も「アメリカあっての日本」というその言葉にもかかわらず、内心の政治的志向は完全に「アジア大陸志向」であったといわれる。田中訪中以来の「中国ODA利権」を握ったのも、金丸をはじめとする経世会の政治家だった。表では、防衛関係などでアメリカとの関係を強調する一方で、中国や北朝鮮との密接な関係を背景に出世していったのが、金丸的あるいは経世会的行動様式であった。
 小沢氏は、テロ対策特別措置法の延長をめぐってアメリカに「ノー」という姿勢を示しており、2007年8月21日の講演では、同法に基づく自民党政権によるインド洋での海上自衛隊の給油活動を「米国の機嫌を取るために多少、何かやらないといけないと言って、世界から軽蔑される行為」とさえ言い放った(『読売新聞」同日付夕刊)。
 このような態度はこれが初めてではない。最初に自治大臣になった1985年にも、アメリカに強く「ノー」といえ、という声を上げていたとされる。
 だからであろうか、自民党幹事長として湾岸戦争で自衛隊の国連軍参加を打ち出したときも、アメリカは、小沢氏の姿勢につねにクエスチョンマークを付けつづけたという。
 自民党幹事長時代の小沢氏に対して、アメリカがいちばん関心をもったテーマも「小沢はマハティールの東アジア経済共同体構想をどう思っているか」であった。この質問をアメリカ大使館員らは、小沢氏に直接会って何度も投げ掛けたという。当時アメリカは、この構想は「アメリカを排除するものである」と強い警戒心を抱いており、日本の政財界も、この構想をめぐって議論が二分していた。そんななか小沢氏がどちらに乗るかに注目したのだ。
 小沢氏の中国コネクシヨンには、大きく二つあるとされる。一つは、王家瑞・中国共産党中央対外連絡部長や、「ポスト胡錦濤ナンバーワン」とされる李克強・遼寧省党委員会書記一現・副首相一らとの関係がよく取り沙汰される。もう一つは、田中眞紀子氏がもっている、父の角栄から引き継いだ北京とのパイプだという。
 そして、この田中眞紀子・小沢一郎関係が、今後の民主党の行方をめぐって一つのポイントになるかもしれない。眞紀子氏が国民的人気をいかに回復できるか、ということにもかかっているが、おそらく眞紀子氏は劇的な場面で民主党陣営に完全に合流し、もしかすれば「小泉・眞紀子」で大旋風を巻き起こした2001年の総裁選のドラマを再現しようとするかもしれない(その後、2009年に民主党に入党)
 いずれにせよ今後、国民が小沢民主党を選ぶか、自民党を選ぶかによって、日本という国が、鮮明になってきた小沢氏の「反米・親アジア」の方向をとるか、はたまた伝統的な日米関係または中国・朝鮮半島に対時する外交戦略をとるか、という国としての歴史的選択にまで及んでくるだろう。
*中西輝政(なかにしてるまさ)
 京都大学大学院教授
 1947年、大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。英国ケンブリッジ大学歴史学部大学院修了.京都大学助手、三重人学助教授、スタンフォード大学客員研究員、静岡県立大学教授を経て現職。専攻は国際政治学、国際関係史、文明史。2002年、正論大賞受賞.著書に『大英帝国衰亡史』(毎日出版文化賞・山本七平賞、PHP文庫)、『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』『日本人として知っておきたい近代史(明治篇)』(以上、PHP新書)、『日本の「死」』『日本の「敵」』(以上、文春文庫)など多数。監訳書に『ヴェノナ』(PHP研究所)がある。
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小沢一郎民主党幹事長 胡錦濤国家主席と会談「野戦軍の総司令官として解放戦が終わるまで徹したい」 2009-12-10 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア 

         

胡主席と会談、友好促進で一致 小沢氏、 存在感一層強まる
 会談を前に握手をする、小沢民主党幹事長(左)と中国の胡錦濤国家主席=10日午後、北京の人民大会堂(代表撮影・共同)
 【北京共同】訪中した民主党の小沢一郎幹事長は10日夕(日本時間同)、北京の人民大会堂で胡錦濤国家主席(中国共産党総書記)と会談し、両党の関係強化や議員交流を通じた日中間の友好促進で一致した。
 会談で小沢氏は「政府レベルでは難しいものについても、党レベルでの交流により忌憚(きたん)ない話し合いになればよい」と強調。胡氏は「今年9月に民主党の政権になってからも交流を深めることができた。鳩山由紀夫首相との会談で互恵関係が新たな段階に入った」と応じた。
 会談は約30分間行われ日本側は輿石東幹事長代行や山岡賢次国対委員長らが同席した。中国側トップとの会談実現で政権内での小沢氏の存在感が一層強まることになりそうだ。一方、中国側は鳩山政権とのパイプづくりの一環としたい考えだ。
 小沢氏は会談で「政権交代を実現したが、こちらの国に例えれば解放の戦いはまだ終わっていない。来夏に最終決戦がある。兵を募り、鍛え、勝利を目指している。野戦軍の総司令官として解放戦が終わるまで徹したい」と述べ、参院選勝利に向け意欲を示した。
2009/12/10 22:18【共同通信】
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中西 輝政(なかにし てるまさ)京都大学教授
 文藝春秋2010年2月号
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『小沢革命政権で日本を救え』日本文芸社刊
どこまで進む?「天皇の官吏」化
 対談:副島隆彦×佐藤優


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