花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

紛争と和解 ~失われ理性と知性~2

2017年11月22日 00時00分00秒 | 勇気の心柱

以下は「2016.8.29」 に掲載したhttp://blog.goo.ne.jp/kanzeon123/e/2a6025572016f28b7b68ce487f747ff2記事です。

こんにちは。先日も書かせて頂いた「弱い者いじめは国賊の証です。」記事ですが,その後もいろいろな動きや思惑などもあり徐々に動き出しています。このような事が,社会では頻繁に起こり勝った負けたと喜び,悲しんでいる生活は,やはり正常ではありません。何とか争わずに終結させられる方法はないか?戦わずして勝つにはどうするべきかを模索していますけれども中々,思いつく節もありません。いくら表面は負けていても構わないのであります。最も最悪なのが勝って負けると云う愚策です。紛争をすれば必ず傷つく人が出て来てしまいますし,紛争は新たな紛争を産み出すだけのものです。そこには何ら生産性など存しない。

紛争することによって得られる利益と紛争することによって失われる利益をどう取り入れて行けるか。つまり,前者は経済的利益を優先するもので,後者は精神的利益を優先するものであります。所謂,比較較量論と云うやつです。紛争して勝った人は,後に容易く紛争を繰り返し行い,紛争によって金銭を得て行くことを無意識の内に選択して行く様になってしまう傾向があるのです。しかも無意識の内にです。そして,弱い者イジメを平気で平然として行く様にもなります。なぜか?簡単な理由です。自分よりも強い者と紛争すると負けることが分かっているからであります。だから,その様な人は自分よりも強い立場にある人とは決して争わないで,自分よりも弱い人をターゲットにして紛争をするのです。これも無意識の内にして行きます。

本当に霊能者の所業と云うものはたちが悪く,霊能者の発した無責任で抽象的な言葉で,どれ程の人たちが不幸を背負って行くのかを肝に銘じなければなりません。中には人生までも破壊することにも繋がってしまうかも知れない訳です。人は誰でも豊かに,幸せになる為に生まれて来る訳で,その為に厳しい修業を学業や仕事,家庭や社会で一生をかけて行くのであると私はそのように考えています。その厳しい修業と向き合っている人に神の言葉,仏の言葉とひょうして考えさせることを奪い,思考を停止させることがどういうことなのかを素直に考えなければならないのであります。困っている人や弱っている人がいれば,無償で何らその見返りなど期待せずに正々堂々と奉仕すれば良い訳です。私も霊能者とはよく戦いますが,長く話させると必ずボロが出ます。

わざと負けるのも1つの方法なのかもしれない,しかしながら,これでみすみす勝たせてしまうとまた次に弱い者イジメをする様になってしまう。弱い者イジメを繰り返しさせてしまう。ひと昔前とは違い,今の社会的に弱い立場にある人と云うのは本当に弱く,誰にも縋ることが出来ない状態にまで追いやられています。つまり,叫びの声すらも発することが出来ないのです。未だ弁護士や法律家などを頼れるだけの経済状況にあるのは良い方です。公的機関であるはずの法テラスなどは,同じ弁護士からもの凄く評判の悪いものになってしまい,単なる仕事がない弁護士の仕事斡旋の様なものだと言われ惨めなものであります。

戦わずして,争わずして収束させる方法と手段を祀り事の原点に回帰して考え行動しなければなりません。今の自分が持合わしている能力を最大限活用して進んで行かなければならないので,多少の不安もありますが仕方がありません。過去の歴史に学び,これまで生かされて来た中で培ってきた自分自身の経験を武器にしていよいよ鬼退治です。源 頼光さんみたいです。

これから観世音菩薩と共に行って参ります。観音様は今日も裸足です。

ならぬことは ならぬものです。拝


   

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。

又,人はそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

そしてまた日本人の本当の性質を勇気を以て再び伝え広めて行きたいです。

そのことが日本を取り戻し,日本人としての誇りを取り戻す真の意味だと考えます。

観世音菩薩とともに。花咲 あさひ 拝