こんにちは。寝屋川市木屋町のかとう整骨院です。
昨日の日曜日、私が日ごろ剣道の指導をしている高校生の応援で交野市総合体育館で行われた、大阪高等学校剣道新人大会を見学してまいりました。
選手たちの、懸命に試合に打ち込む姿は観ていてとてもすがすがしいものです。私が指導に行っている生徒は、残念ながら日ごろの成果を発揮する事はできませんでしたが、この経験を糧にまた練習に励んでもらいたいものです。
さて、高校生の部活動といえば最近世間を賑わしているニュースがありました。桜宮高校の一件です。桜宮高校は、剣道部も強豪ですが現在は全部活動が活動を自粛しているため、今大会にも参加はしていませんでした。
高校生活という限られた時間で、こういった試合に出る機会を奪われるのはとても気の毒に感じられて仕方がありません。ましてや、自分たちが犯した罪ならともかく、それが指導者が起こしたことで責任を負わされているのですから、なおさらです。
今回の体罰に端を発した一件、皆さんはどのように感じられているでしょうか?私の周囲には私自身も含めて、学生時代に部活動に打ち込んだ者が多く存在します。その中には、体罰を経験したものもいます。もちろん、今と当時を単純に比較することはできませんが、当時は体罰を“仕方がないもの”と容認していた自分がいたのは確かでした。体罰自体を容認しているわけではありませんが、その当時は“自分にも非がある”と感じていましたし、ある程度の理不尽を受け入れることは当然のように感じていましたし、周囲もそういう雰囲気が漂っていました。では、そのような中でなぜ競技を継続できたかというと、やはり目的を達成した喜びには代えがたかったからです。
現在、指導者になられている先生方もこのような体験をされている方は多くいると思われます。ここで、一つの分岐点が発生します。一つは、自分が体験して強くなれたからそれと同様に指導する方法。もう一つは、自分が嫌な思いをしてきたからそれ以外の方法を考えるという選択肢です。はっきりいいまして、よりてっとり早く成果をだしたいならば前者の選択肢は非常に有効な手段です。世間の方々が描く体育会系のイメージも、大なり小なりこういう印象があると思います。
しかし、それは正しい事なのか?と、問われると疑問符がつくことは否めません。これは、以前からずっと議論されてきたことです。今回、一人の若者が自ら命を絶つという惨劇をまねいた事件の背景には、このような根深い問題が潜んでいるのです。
私自身も、わずかな時間とはいえ指導に携わる人間です。もちろん、私自身が手を挙げることは絶対にしませんが、自分の行動、発言が生徒を追い詰めてはいないか?と深く考えさせられました。私が指導する生徒に一番伝えたい事は、一つの事をやりきるという事です。高校時代のわずかな時間に一つの事に打ち込むという経験は、必ず将来の糧になると信じているからです。しかし、それを押し付けてしまうとエゴになりかねません。
私は教員ではありませんし、結果を求められる立場でもありません。もし、結果を求められる立場に立っていればこのような考えではやってはいけないでしょう。
しかし、だからといって生徒達に被害が及ぶことはあってはならない事です。今回の事件で一番の問題は、大人がやらかした事に子供が巻き込まれている点であると思います。入試の中止などや、教員の入れ替えといったことが叫ばれていますが、その結果誰が一番振り回されるのかという事は忘れないでいただきたいものです。
この問題に関して、正直自分自身の明確な意見というものは出すことができません。しかし、指導に関わっている人間としては、考え続けなければいけない問題であると思います。