古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集7番歌、額田王「金野乃……」について 其の一

2023年07月07日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻1の万7番歌は、額田王の出世作として知られる歌である。
 西本願寺本など古写本には、特に大きな異同はなく、標目、題詞、歌、左注の原文は次のように書かれている。

 明日香川原宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇
  額田王歌 未詳
 金野乃美草苅葺屋杼礼里之兎道乃宮子能借五百磯所念
  右検山上憶良大夫類聚歌林曰一書戊申年幸比良宮大御歌但紀曰五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯三月戊寅朔天皇幸吉野宮而肆宴焉庚辰日天皇幸近江之平浦

 これを次のように訓み下している。

 明日香川原宮あすかのかはらのみや天下あめのした知らしめしし天皇の代 天豊財重日足姫天皇あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと
  額田王ぬかたのおほきみの歌 未だ詳らかならず
 あきの みくさき 宿やどれりし 宇治うぢのみやこの 仮廬かりいほおもほゆ(万9)
 右は山上憶良やまのうへのおくら大夫まへつきみ類聚歌林るいじうかりんただすに曰はく、「一書に、戊申つちのえさるの年、比良宮ひらのみやいでますときの大御歌おほみうた」といふ。但し、紀に曰はく、「五年の春正月の己卯つちのとうつきたちにして辛巳かのとみに、天皇、紀温湯きのゆよりかへりいたりたまふ。三月の戊寅つちのえとらの朔、天皇、吉野宮にいでまして肆宴とよのあかりきこしめす。庚辰かのえたつの日に、天皇、近江の平浦ひらのうらに幸す」といふ。

 一般に、万7番歌は、帰京後の宴席で感想を尋ねられたとき、額田王が宮廷社会の人々が共有する気持ちをうまく歌った作品であると評されている(注1)。五句目の「仮廬し思ほゆ」にあるシという助詞は、学校文法では強意を表す副助詞とされている。 しかし、むしろ不確実性の表明であると考えられている。そのうえ「思ほゆ」と続いていて、自然と思い出されるというのである。このような歌い方は万葉集にしばしば見られる。宮廷の人々が共有する雰囲気を歌っている。この歌は最古の回想の歌であるとも、「み草刈り葺き 宿れりし」と動詞を畳みかけているところから、むしろ思い出している現在のほうに重心が置かれているとも考えられている。いずれにせよ、素朴ながら鮮やかな写象の表現が巧みであるという。ただ、それ以外には、特段に問題になる点はないとされている。
 一見なにごとも問題がないように見えながらわからないことは多い。それは我々よりずっと前にこの歌を目にした人々も同じであった。それが脚注や左注になって表れている。万葉葉巻1の最初の部分を編集した人は、標目に天皇の宮都の場所を記すことで時代順に並べようとしている。天皇の名前ではなく、宮都の場所を示している。城主を「殿」と呼ぶのと同じような言い方である。歌というものが、歌われた時代よりも歌われた場所に強く影響を受けたからであると取ることもできる。しかし、単に、厳密さと簡潔さを追求した表記であったのではなかろうか。
 万7番歌の標目、「明日香川原宮御宇天皇代」については、万8番歌に「後岡本宮御宇天皇代」と区別があることから、皇極・斉明と重祚した女帝のうち、後者は斉明天皇代、前者はそれとは別の書き方ゆえに皇極天皇代に当てる向きが多い。しかし、次に抜粋した、紀の皇極・斉明天皇(天豊財重日足姫天皇)に関係する宮都関連の記事から見て誤りであろう。

皇極天皇
 元年(642)
 九月の……[19日]に、天皇、大臣に詔してのたまはく、「是の月に起して十二月しはすより以来このかたを限りて、宮室おほみやつくらむと欲ふ。国国に殿屋材とのきを取らしむべし。然もひむかし遠江とほつあふみを限り、西は安芸あぎを限りて、宮造るよほろおこせ」とのたまふ。
 是の日[12月21日]に、天皇、[舒明天皇ノ百済宮カラ]小墾田宮をはりだのみや遷移うつりたまふ。或本あるふみに云はく、東宮ひつぎのみやの南のおほば権宮かりみやに遷りたまふといふ。
 二年(643)
 夏四月……[28日]に、権宮より移りて飛鳥の板蓋いたふき新宮にひみやいでます。
孝徳天皇
 大化元年(645)
 冬十二月の……[9日]に、天皇、都を[皇極天皇の飛鳥板蓋宮より]難波長柄豊碕なにはのながらのとよさきに遷す。
 白雉四年(653)
 是歳、太子ひつぎのみこ奏請まをしてまをさく、「冀はくは倭のみやこに遷らむ」とまをす。天皇、許したまはず。皇太子、乃ち皇祖母尊すめみおやのみこと間人皇后はしひとのきさきを奉り、併せて皇弟すめいろど等を率て、往きて倭飛鳥河辺行宮やまとのあすかのかりみやします。時に、公卿大夫まへつきみたち百官つかさつかさの人等、皆随ひて遷る。
斉明天皇
 元年(655)
 春正月の……[3日]に、皇祖母尊すめみおやのみこと、飛鳥板蓋宮に、即天皇位あまつひつぎしろしめす。
 冬十月の……[13日]に、小墾田に、宮闕おほみやを造り起てて、瓦覆かはらぶき擬将せむとす。又深山ふかきやま広谷ひろきたににして、宮殿みやに造らむと、朽ち爛れたる者多し。遂に止めて作らず。
 是の冬に、飛鳥板蓋宮にひつけり。かれ、飛鳥川原宮に遷りおはします。
 二年(656)
 是歳、飛鳥の岡本に、更に宮地みやどころを定む。時に、高麗こま・百済・新羅、並に使をまだして調みつきたてまつる。為にふかきはなだあげはりを此の宮地に張りて、へたまふ。遂に宮室おほみやを起つ。天皇、乃ち遷りたまふ。号けて後飛鳥岡本宮と曰ふ。

 天皇と都とを対照させると、万7番歌の標目に「明日香川原宮」と明記されているのだから、万7番歌は、斉明元年の冬、飛鳥板蓋宮が火災に見舞われて飛鳥川原宮へ遷都した時から、二年是歳に後飛鳥板蓋宮へ遷都するまでの間に歌われたと考えるべきである。左注や脚注を付けた人も、編者の正確性についていけなかったらしい。万7番歌を皇極天皇代のこととすると、時代が古くなって額田王の推定年齢があまりにも若くなって、とても歌を歌えるはずはないと考えてしまい、「未詳」なる脚注を付けるに及んでいる。勘違いである。
 標目や題詞、歌そのものを書いた人と、それに脚注を付けた人、さらに、左注を付けた人は、それぞれ別の人であると思われる。左注を付けた人は、手持ちの類聚歌林と日本書紀を見ながら、歌がいつ詠まれたものなのかについて疑問を抱き、宇治へ行幸した時の記録を尋ねることをしている。それほどにこの万7番歌がいつ詠まれたか、当初からはっきりしていなかったらしい。宇治の行宮へ行幸したのがいつなのか、また、そのとき額田王が付き従っていて歌を詠むに堪えたか、手掛かりになる史料がない。だからまごまごと左注が付けられている。
 万葉集の最初の編者が記したのは、標目、題詞、歌だけであったろう。そこには、「明日香川原宮」に都が置かれていた時、「額田王」が歌ったということを過不足なく明記している。

 明日香川原宮御宇天皇代
  額田王歌
 金野乃美草苅葺屋杼礼里之兎道乃宮子能借五百磯所念

 これを「あきの みくさき 宿やどれりし 宇治うぢのみやこの 仮廬かりいほおもほゆ」と当たり前に訓んでいる。本当にそれで良いのであろうか。疑問点は二つある。原文の「金野」を「秋の野」、「兎道」を「宇治」と訓む点である。よく知られるように、第一の「金」=「秋」とする理由は、五行思想にしたがったもので、それに対照させようという考え方である。平安時代の古写本にすでにそう訓まれている。
 五行 木・火・ 土 ・金・水
 五時 春・夏・土用・秋・冬
 五色 青・赤・ 黄 ・白・黒
 五方 東・南・中央・西・北
 五声 角・徴・ 宮 ・商・羽
 しかし、万葉集の歌謡の用字において、「金」字全56例のうち、「秋」とする例は6例に止まる。

カネ 補助動詞(難・不勝・不得、するにたえない)
 「忍金手武シノビカネテム」(万129)、「止曽金鶴トメゾカネツル」(万178)、「鎮目金津毛シヅメカネツモ」(万190)、「有金手アリカネテ」(万383)、「思金津裳オモヒカネツモ」(万503)、「在曽金津流アリゾカネツル」(万613)、「忘金鶴ワスレカネツル」(万617)、「渡金目八ワタリカネメヤ」(万643)、「忘金都毛ワスレカネツモ」(万1123)、「船縁金都フネヨセカネツ」(万1401)、「宅毛見金手イヘモミカネテ」(万1740)、「里毛見金手サトモミカネテ」(万1740)、「荒争金手アラソヒカネテ」(万2116)、「言者為金津ワレハシカネツ」(万2533)、「待八金手六マチヤカネテム」(万2543)、「待也金手武マチヤカネテム」(万2548)、「吾稲金津ワレイネカネツ」(万2587)、「忍金津毛シノビカネツモ」(万2590)、「忘金津毛ワスレカネツモ」(万2622)、「忍金手武シノビカネテム」(万2635)、「汝乎念金手ナヲオモヒカネテ」(万2664)、「忘金津藻ワスレカネツモ」(万2714)、「念毛金津オモヒモカネツ」(万2802)、「名草目金津ナグサメカネツ」(万2814)、「寐宿金鶴イヲネカネツル」(万3092)、「待八金手六マチヤカネテム」(万3103)、「忘金津毛ワスレカネツモ」(万3171)、「宿毛寐金手寸イモネカネテキ」(万3269)、「所詈金目八ノラエカネメヤ」(万3793)
カネ 名詞(鐘)
 「宿与殿金者ネヨトノカネハ」(万607)
カネ 地名音
 「金之三埼乎カネノミサキヲ」(万1230)、「御金高尓ミカネガタケニ」(万3293)
ガネ 助詞(~ように)
 「語継金カタリツグガネ」(万364)、「立隠金タチカクルガネ」(万529)、「住度金スミワタルガネ」(万1958)、「在渡金アリワタルガネ」(万2179)、「守登知金モルトシリガネ」(万2219)、「可礼受鳴金カレズナクガネ」(万4182)
ガネ 名詞(石根)
 「磐金之イハガネノ」(万301)、「石金之イハガネノ」(万1332)
カナ 名詞(金門)
 「小金門尓ヲカナトニ」(万723)、「金門尓之カナトニシ」(万1739)
クガネ 名詞(金属)
 「金母玉母クガネモタマモ」(万803)、「金有等クガネアリト」(万4094)、「金花佐久クガネハナサク」(万4097)
コム 動詞(来)
 「今還金イマカヘリコム」(万3322)
アキ 名詞(秋)
 「金風アキカゼニ」(万1700)、「金待吾者アキマツワレハ」(万2005)、「金風アキカゼニ」(万2013)、「金待難アキマチカネテ」(万2095)、「金山アキヤマノ」(万2239)、「金風之アキカゼノ」(万2301)
ニシ 名詞(西)
 「金厩ニシノウマヤ」(万3327)

 最後の万3327番歌で、「金」を西とする理由も五行思想による。同歌では、「角」を東する五声との対応による表記も行われ、「角厩」でヒムカシノウマヤと訓んでいる。「金」を秋とする例は、万7番歌を除くと、万葉集の巻9・10に集中してある。そのうち、万1700・2005・2013・2095・2239番歌については、「右は、柿本朝臣人麻呂の謌集に出づ」などと左注にあり、人麻呂の書記によるものである可能性が高い。万葉集全体でみても金の字にはカネ・ガネの音を借りている例がほとんどであるなか、五行説によって金を秋とする記号変換的な発想が巻1のはじめからあったとは考えにくい(注2)
 万葉仮名は漢字の音を借りたもの、訓で読むものなどいろいろな訓み方をする。なかには戯書や義訓と呼ばれる機智をはたらかせた文字遣いも見られる。ただし、どこまでが正しい読み方で、どこからが戯れの読み方かの線引きは後代の人が考えたものである。巻1・2で使われている不思議な読み方をいくつかあげてみると、「いで」(万8)、「楽浪ささなみ」(万29・30・32・33・218)、「左右まで」(万34・180・230)、「つつ」(万54・79・86・120・135・149・155・159・176・177・196・199・223・225・227)、「二手まで」(万79)、「去来いざ」(万10・44・63)、「下風あらし」(万74)、「こそ」(万131)、「神楽浪ささなみ」(万154・206)「三五月もちづき」(万196)、「進留水母ながるるみづも」(万197)、「安定座しづまりし」(万199)、「髣髴ほのかに」(万210)、「髣髴おぼに」(万217)、「彼此をちこち」(万220)、「自伏ころふす」(万220)、「且今日ゝゝゝけふけふと」(万224)、「石水いしかは」(万224)、「万代まで」(万224)、「光儀すがた」(万229)などとある。万葉集では、後ろの方へいくと捻ったものが登場するが、編纂され始めたと考えられる巻1・2では、せいぜいこの程度である。「去来」、「三五月」、「光儀」のようなものは、文選などの漢籍に出典があったり、掛け算ができなければわからないこともあり、一応の知識が要求されている。とはいえ、概して巻1・2で登場する戯書、義訓と呼ばれるものは、おおよそは頓智、なぞなぞである。それに比して、「金」=「秋」はクイズであって単なる記号変換である。五行学のテストに出題されそうで、知っていれば面白さに妙味がない。巻1に載る額田王の歌を表記した人は、額田王自身ではなかったと推測されるが、百歩譲って仮に彼女自身であるとしても、その場合は万488番歌も彼女自身によって表記されたとする蓋然性が高いはずで、するとそこには「秋風」と記されているところから、万7番歌でアキノノをわざわざ「金野」と書く理由は見出せない。したがって、万葉集に大多数の「金」の訓み方にあるとおり、第一句目は、カネノノノ(注3)と訓むのが正解であろう。
 万7番歌の全体の構成を見ると、歌い出しから八分目まで「仮廬」の説明に当たっており、ずいぶん重々しくかかって聞こえる。ほとんどが関係代名詞節のなかに入っているかのようである。これだけのかかり方をしているとすると、かかっている言葉同士の間には、縁語的な連想が働いている可能性がある。

 [我ハ]〔{(カネの野の)み草[ヲ]刈り葺き宿れりし}兎道のみやこの〕仮廬し思ほゆ

 詩的表現を排除すると、草を刈って屋根に葺いて作った仮廬のことを思い出す、と言っている。キャンプで作った仮小屋のことを大切な思い出と感じている。刈ってすぐに葺いているから、「金野」と「兎道乃宮子」とは近接の場所であったろう。「宿れりし」のシは過去の助動詞キの連体形である。自己の記憶に鮮明に残っていることを示す点で、助動詞ケリとニュアンスが違うとされている。すなわち、たいていは自分の体験した事柄についていう場合に使われ、状態はすでに過ぎ去ってしまっている。主語は歌の実作者の額田王であるが、初期万葉の歌は人々の共通感覚を歌うものだから宮廷社会の人々ということになる。わけても、代詠されている斉明天皇が中心である。
 人が過去の経験を思い出すときは、同じような経験をしているときが多くある。そして、宮廷人の皆が自然に思い出されると歌うからには、実際に思い出されているような状況下にあったと考えられよう。そうでなければ額田王が歌を歌ったとき、人々がそれを聞いて納得し、共感することはなかったに違いない。共感を得ない歌は駄作であり、人々の記憶に残ることもわざわざ記録に残すこともしなかったであろう。つまり、以前の出来事を反芻するに足るだけのことが現実に行われていた時、この歌は歌われたのである。過去の出来事が「兎道」での仮廬合宿のことであるなら、それに似たような野宿的な経験の真っ最中にあるわけである。
 左注を記した人は、「兎道」を今日の宇治市のことと理解して、行幸の記録を尋ねることをしている。しかし、行幸の記録からみて合致する時点が特定できず、訳が分からなくなっている。歌が歌われた時点での行幸と、そのとき回想された以前の行幸ともども記録が少ない。以前行幸したときのことをひとまず措き、歌が歌われた時点において、仮廬的な事情が記録にないか探してみる。
 宮殿が瓦葺きになるのは、持統紀八年(694)に完成した藤原宮が最初といわれている。けれども、瓦の技術自体は、仏教とともにすでに移入されており、崇峻紀元年(588)是歳条に、百済から僧侶などとともに「瓦博士」が来朝し、法興寺(飛鳥寺)の建造に着手している。舒明前紀推古三十六年(628)にも、「尼寺の瓦舎かはらや」とある。瓦葺きの屋根は寺院建築に先行していた。斉明天皇は宮殿にも応用しようと考えたが、建設は難航をきわめたため、途中で諦めた。ために、飛鳥瓦宮にならずに飛鳥川原宮になった。瓦の役目は火災除けであるから、川原にあって消火用水に恵まれていれば、同じことであるという苦しい言い訳の駄洒落から宮の名が決まっているらしい(注4)
左:多摩川の川原、中:池上本門寺本堂の瓦、右:用賀プロムナード(一部暗渠を瓦敷きにした現代の例)
 新しい宮の建設には失敗があったものの、 斉明天皇は決して悲観的になっていない。彼女は宮の建築や土木工事が好きだったらしく、後飛鳥岡本宮の完成、遷都後もくり返している(注5)
 さて、斉明元年の冬から翌年にかけての短期間に、かつてススキやカヤの類を刈って屋根を葺いて宿ったような「仮廬」のことが、自然と思い出されそうな場面があるかが問題である。その間に、温泉に出かけたような行幸の記事はない。似た経験をしそうな箇所を紀の記録に探すと、飛鳥の岡本の地に新しい宮を建設すると決めてから、高麗・百済・新羅の朝鮮半島三国の外交使節団が訪れたことがある。前掲のとおり、臨時の会場を設営して対応している。

 為にふかきはなだあげはりを此の宮地みやどころに張りて、へたまふ。(斉明紀二年是歳)

 後飛鳥岡本宮は工事中で、迎賓の会を催すに値するだけの宮殿がなかった。であった。工事の進捗具合は定かではないが、幕を張って対応している。異国の外交官としても、工事現場に連れて来られ、藍より青い異様な幔幕に仕切られて立食パーティをさせられて驚いたことであろう。
幕の例(春日権現験記摸本、板橋貫雄模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287492/1/15をトリミング)
 今日の木造建築からいえば、棟上げし、屋根を先に覆っておいてから内装を施す。雨に濡れないためである。壁が未完成だから幕を張ってその代りにしたということであろう。では、このにわか仕立ての幕張りから仮廬のことを思い出し、歌が歌われたのであろうか。蒙古包ゲルの穹廬のことをイメージしているかとも思われるが、飛鳥板蓋宮よりも立派な宮を作ろうとしていたであろうから、棟上げだけで屋根に防水シートをかけたものとは考えにくい。そのうえ、ヤマトコトバの通じない外国人を前にして和歌はそぐわない。草葺きとは印象も異なり、自然と思い出されますとは言い得ない。
 もうひとつ考えられるのが、飛鳥板蓋宮が火災で消失した際、焼け出された天皇たちが飛鳥川原宮に移ったそのときである。

 是の冬に、飛鳥板蓋宮にひつけり。かれ、飛鳥川原宮に遷りおはします。(斉明紀元年)

 火事騒ぎで混乱のなか、別の宮へ当座のこととして引っ越したのである。そこは孝徳紀にある倭飛鳥河辺行宮に当るところであろう。多少荒れていたなどして、雨漏り箇所の修繕などをせざるを得なかった可能性がある。そのとき、以前の仮廬のことが自然と思い出されたというのだろう。職人の手配は間に合わず、宮中の人がほとんど日曜大工で宮のメンテナンスを行った。その陣頭指揮を斉明天皇自身が行った。なにしろ「好興事」天皇である。宮廷人が皆、屋根の補修などに携わった。突貫工事は無事に進んで、見事に宮らしくなって落ち着くことができた。むろん、これは、遷都したというような華々しい行事ではない。紀にも、「往-居于倭飛鳥河辺行宮」(孝徳紀)なる行宮を政庁に据えていることを「故遷-居飛鳥川原宮」と書いて記している。政府としては危機管理能力に欠けていて大失態なのであるが、そんな騒動のなかこの歌が高らかに歌われた。
 飛鳥川原宮時代に行幸記事はなく、火災で避難したに過ぎない宮の屋根葺き騒動を表している。すると、思い出している事柄も行幸のことではないらしい。ふつうの行幸となれば、カヤやススキの類を刈って仮廬を作るのは随員が行う。付き随っている位の低い人のはずである。その苦労が高級官僚の宮廷人に共有されることはないであろう。すなわち、二度までも天皇は手ずからカヤやススキの類を刈り取っている、ないし、その指揮をとっている、そのことを念頭に、自然と仮廬のことが思い出されるようなほぼ同じ経験を、斉明天皇中心の宮廷社会がしていないかと考えれば、周知のとおり重祚している。天皇に2度即位している。かつては皇極天皇(在位、642~645)として、今度は斉明天皇(在位、655~661)である。重祚した天皇は、天皇制のなかでも彼女が最初である。
 「仮盧し思ほゆ」の句には、自ずと思い出されると歌うことで、どこか憧れにも似た強い力が働いていた。天皇の代詠として考えるなら重祚ほど歌の内容にかなう出来事はない。そして、その重祚が不適切だったのではないか、よって宮殿が火事に見舞われた、これは祟りではないかとの疑念を振り払い、統治の正当なることを主張するためにこの歌は歌われたものと推測される。歌のおかげで、天皇は宮廷人からの求心力を回復した。
 宮室に関して二度同じようなことがあったか。斉明紀元年条に、小墾田に宮闕を造って瓦覆にしようと言っておきながらも材木が腐ったために中止したところ、飛鳥板蓋宮まで火災に見舞われ飛鳥川原宮へ引っ越している。皇極紀元年九月条にも、飛鳥板蓋宮と思われる「宮室」を造営しようと言っておきながら工事がなかなか進まなかったのか(二年四月に遷る)、元年十二月に小墾田宮へ引っ越している(注6)。そこには割注があり、「或本云、遷於東宮南庭之権宮。」とある。皇極紀の東宮ひつぎのみやとは中大兄のことになるが、「東宮南庭之権宮」から思い出されるのは聖徳太子(厩戸皇子)のことである。聖徳太子は父親の用明天皇に可愛がられて、「おほみやの南の上殿かみつみやはべらしめたまふ」(推古紀元年四月)ことになっており、上宮かみつみやの厩戸うまやとの豊聡耳とよとみみの太子ひつぎのみこと称されたとされている(注7)。皇極紀の割注を、聖徳太子の上宮の故事を意識的に準えたものと考えると納得がいく。すなわち、カミナ、ヤドカリの話である。万7番歌は、「宿」、「苅」、「仮」とあって、ヤドカリのことを表している。宿を借りたという臨時宮都の小咄(小噺)である。紀の編纂者と、万葉集の最初の頃を編んだ人とは親交があった、ないし、同一人物であったらしいとわかる。
ヤドカリ(ヨコハマおもしろ水族館)
 過去の回想としての「思ほゆ」場所は、皇極元年12月21日に遷移した小墾田宮のことであるらしい。原文には「兎道乃宮子」とある。万葉集にウヂノミヤコとあるのはこの歌だけである。万1795番歌の題詞には、「宇治若郎子宮所謌一首(宇治若郎子うぢのわきいらつこ宮所みやどころの歌一首)」とある。わざわざ人名をあげ、菟道稚郎子の宮のあった所と指定している。万葉の時代、宇治に行宮があったとする証拠がなく、ウヂノミヤコとは通称されていないらしいのである。万葉集では、ほかに、「氏河うぢかは」、「氏川うぢかは」、「是川うぢかは」、「氏川浪うぢかはなみ」、「宇治□渡うぢのわたり」、「氏□渡うぢのわたり」、「于遅乃渡うぢのわたり」、「氏人うぢひと」、「八十氏河やそうぢかは」、「八十氏川やそうぢかは」などとある。また、記紀に、地名や人名に、ウヂを表す用字としては、記に、「宇遅」、「宇遅野」、「宇遅之若郎子」、「宇遅能和紀郎子」、「宇遅之若郎女」、「宇遅能若郎女」、紀に、「◆(草冠に刀に兔の下部)道」、「宇治」、「◆道河」、「菟道河」、「◆道渡」、「◆道山」、「◆道宮」、「◆道野」、「◆道稚郎子」、「◆道稚郎子皇子」、「◆道稚郎姫皇女」、「◆道貝蛸皇女」、「◆道磯津貝皇女」、「◆道皇女」、「◆道彦」、「◆道連」などとある。「◆」と「菟」とは単なる異体字と見られるが、万7番歌の「兎」字には意識的な変更があるように思われる。
 文字表記により新たな意味が付与されることがあったことはすでに多くの指摘がある。反対に、そのために地名に対して「好字令」を発したこともあった。ウヂという地名呼称について、それを「菟道」と書いたことによってウヂはウサギの道と解釈されることとなった。ウサギの道としての伝承として当時伝わっていて、飛鳥時代の人々にとって常識とされていた話としては、第一に稲羽の素菟の逸話、第二に菟道稚郎子の物語があげられる。

 かれ、此の大国主神おほくにぬしのかみ兄弟あにおと八十神やそかみいましき。然れども皆国をば大国主神にりき。避りし所以ゆゑは、其の八十神、おのもおのも稲羽いなば八上比売やかみひめはむと欲ふ心有りて、共に稲羽に行く時、大穴牟遅神おほあなむぢのかみふくろおほせ、従者ともびとて往く。是に気多けたさきに到る時、あかはだうさぎ伏せり。爾くして、八十神、其の菟に謂ひて云はく、「汝がむは、此の海塩うしほを浴み、風の吹くに当りて、高き山の尾のに伏せれ」といふ。故、其の菟、八十神のをしへに従ひて伏せり。爾くして、其の塩の乾くまにまに、其の身の皮ことごとく風に吹きかえき。故、痛み苦しび泣き伏せければ、最後いやはてに来たる大穴牟遅神、其の菟を見て言はく、「何の由にか汝は泣き伏せる」といふ。菟答へてまをさく、「やつかれ淤岐おきの嶋に在りて、此地ここわたらむと欲へども、度るよし無し。故、海の和邇わにを欺きて言はく、『吾と汝とくらべて、やからの多き少なきをかぞへてむ。故、汝は其の族の在りの随に、悉く率て来て、此の嶋より気多の前まで、皆み伏し度れ。爾くして、吾其の上をみて、走りつつ読み度らむ。是に吾が族といづれか多きを知らむ』といふ。如此かく言へば、欺かえて列み伏す時、吾其の上を蹈みて、読み度り来て、今つちに下りむとする時、吾云はく、『汝は我に欺かえつ』といふ。言ひをはるに即ち、最端いやはしに伏せる和邇、我を捕へて悉く我が衣服ころもを剥ぐ。此に因りて泣き患へてあれば、先に行きし八十神のみことを以て、をしへ告らさく、『海塩を浴み、風に当りて伏せ』とのらす。故、教の如くしかば、我が身悉くそこなはえつ」とまをす。是に大穴牟遅神、其の菟に教へ告らさく、「今すみやかに此の水門みなとに往き、水を以て汝が身を洗ひて、即ち其の水門の蒲黄かまのはなを取りて、敷き散らして、其の上に輾転こいまろばば、汝が身、本の膚の如く必ずえむ」とのらす。故、教の如く為しに、其の身、本の如くになりぬ。此、稲羽の素菟ぞ。今者いまに菟神と謂ふ。(記上)
 既にして宮室おほみや菟道うぢててします。猶みくらゐ大鷦鷯尊おほさざきのみことに譲りますに由りて、久しく即皇位あまつひつぎしろしめさず。爰に皇位きみのくらゐ空しくして、既に三載みとせを経ぬ。時に海人あま有りて、鮮魚あざらけきいを苞苴おほにへちて、菟道宮に献る。太子ひつぎのみこ、海人にのりごとして曰はく、「我、天皇に非ず」とのたまひて、乃ち返して難波にたてまつらしめたまふ。大鷦鷯尊、亦返して、菟道に献らしめたまふ。是に、海人の苞苴、往還かよふあひだあざれぬ。更に返りて、あたし鮮魚を取りて献る。譲りたまふことさきの日の如し。鮮魚亦鯘れぬ。海人、しばしば還るにたしなみて、乃ち鮮魚を棄てて哭く。故、諺に曰はく、「海人なれや、おのが物からねなく」といふは、其れ是のことのもとなり。(仁徳前紀)
 是に、大雀命おほさざきのみこと宇遅能和紀郎子うぢのわきいらつこの二柱、各天下あめのしたを譲りし間に、海人あま大贄おほにへを貢りき。爾くして、兄はいなびておとに貢らしめ、弟は辞びて兄に貢らしめて、相譲りし間に、既にあまたの日を経ぬ。如此かく相譲ること、一二時ひとたびふたたびに非ず。故、海人、既に往還ゆきかへりに疲れて泣きき。故、諺に曰はく、「海人なれや、おのが物からに泣く」といふ。(応神記)

 稲羽の素菟の話から、ウサギの通ってきた道は隠岐島から気多岬までであることがわかる。オキからケタである。また、菟道稚郎子(宇遅能和紀郎子)の話からは、宇治は苞苴(大贄)の譲り合いがあったゆかりの地であるとわかる。この二点は、万7番歌の用字について多くのことを語ってくれる。万7番歌に「兎道」とあり、草冠が抜けている。動物のウサギは草の上を走るものである。それがなくて剥き出しになっている様子を「兎」の字は語っている。つまり、草原ではなくて例えば海上を走ったり、あるいは、裸になったも同然の姿をしているのである。海の上を跳んで来て、結果、毛皮を剥され裸にされた稲羽の素菟の道程、すなわち、オキやケタと「兎道」は関係があることを示そうとしての用字なのである(注8)
 万7番歌で回想されたシーンは、同様に都を仮寓に遷した小墾田宮であった。飛鳥時代の人々にとって、小墾田宮のヲハリダとは、どのような田と捉えられたのであろうか。ハジメ(始・初・肇)の反対がヲハリ(終・竟・了・畢)である。田はコナタという。こなれた田の意とされる。和名抄に、「田 釈名に云はく、土の已に耕す者を田〈徒年反、和名は、漢語抄に水田は古奈太こなたと云ふ〉と為といふ。田は填なり。五穀は其の中に填満つるなり。」とある。同音のコナタに、此方、こちら側の意味がある。地理的に向こう側はカナタ(彼方)である。コナタカナタという言い方もある。このカナタは、筆記しようと思えば「金田」となる。万7番歌冒頭の「金野」が見えてくる。此方、彼方を時間的な意味に捉えれば、今、今日がコナタで、将来、明日がカナタである。広い田は海のように水を湛えているから、渡るのがたいへんである。水のある広がりの向こう側、遠くの方はおき(奥)(キは甲類)である。ヲハリという語は、最後のこと、死ぬことにもいう。死者の住む国のことをオキツクニという。

 おきつ国 うしはく君が 染屋形しめやかた 黄染あめじめの屋形 神が渡る(万3888)(注9)

 空間的にも時間的にも彼方のことである。そのオキの国から稲羽の素菟は渡ってきた。万7番歌に「兎道乃宮子」とあるのは、オキノミヤコと訓んで小墾田宮のことを指しているのではなかろうか。小墾田宮は、いざという時のために壊さずに取って置いた宮ということでもあるのであろう。これもオキ(置、キは甲類)である。今日でも、神社の社の宮は、遷宮が行われることになっている。用材を使い回すかするために壊されるはずの以前あった宮が、壊されずにそのまま置かれていた。
 オキ(沖・奥)という語は、派生義として、田畑・原野の開けたところという意味がある。延喜式・祝詞・祈年祭に、「御年みとし皇神等すめかみたちの前にまをさく、皇神等のさし奉らむ奥津御年おきつみとしを、手肱たなひぢ水沫みなわき垂り、向股むかももひぢを画き寄せて、取り作らむ奥津御年を……」とある「奥津御年」とは稲のことである。オキツミトシのオキツは時期の遅いことから、最も遅く稔る作物のことから稲を指す、または、晩稲の稲をいうかともされる。あるいは、狭い田んぼではなく、大陸の技術を移入して整備し、大規模に開墾して灌漑網を施した水田のことから、広く開いた沖のようなところに稔らせるとみたところからの美称かもしれない(注10)
(つづく)

※本稿は、2014年7月稿を、2023年7月に大幅に改稿しつつルビ化したものである。

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