(承前:2012.1.26稿)
法興寺の蹴鞠については、古来有名なだけにかえって論考に乏しい。黒田智『中世肖像の文化史』(ぺりかん社、2007年)に、「法興寺蹴鞠説話は、ユーラシア大陸を覆って広がる跛行の神話・儀礼を背景に生まれ、大地と人間の関係を主題とする物語として『日本書紀』のなかにはじめて登場した」(252頁)などとある。大風呂敷を広げられている。少し長くなるが引用する。
この[皇極紀四年条の蹴鞠]記事については、朝鮮の『三国史記』新羅本紀・文武王条との類似性が指摘されてきた。すなわち、新羅王金春秋(武烈王)とその重臣金原信との出会いは、蹴鞠会で春秋の衣の付け紐を破った金庾信が、春秋を自邸に招いたことにはじまるという。金春秋と金庾信、中大兄皇子と中臣鎌足という朝鮮と日本の二組の主従の出会いが、ともに蹴鞠会におけるアクシデントにもとめられているのである。
日朝に残る二つの所伝は、いずれも歴史的事実ではなく、たぶんに説話的要素の濃いものとされている。いずれか後に成立した説話が、先行するもう一方の説話を引用して作られた可能性は低い。主従の出会いとその絆の深さを演出する同工異曲の説話が、ほぼ同時期にまったく別個に発生したと考えられている。
ならば、説話をもう少し広い神話世界のなかに投げ入れてみよう。右足の沓が脱げてしまう中大兄皇子の物語は、片足の王の物語=跛行神話との関係を推測させるるものではあるまいか。
シンデレラやオイディプスをはじめとする跛行を中軸とした神話や儀礼は、広大なユーラシア大陸を覆って超文化的にくり返しあらわれていた。日本においても、跛行説話は古くから厳存している。こうした腫れた足、不自由な足、焼かれた足、片方だけのサンダルや裸足の間には、神話的・儀礼的に超文化的な人類の無意識的精神遺産の一部をなす象徴的等価性が認められるという。
神話学の解釈によれば、歩行の不均衡を中軸とする神話や儀礼は、人間が大地から出生したことの矛盾に関わっている。主人公たちを性格づける歩行に関連した特徴は、死者と生者の世界の境にいる存在の目印とされる。サンダルを片足だけ履くことは、地面と直接触れることで、地下の力と関係を持とうとする儀礼的状況と関連している。つまり、片足の跛行者は、人間の世界と霊魂や神々の世界との仲介者なのである。
片方の沓を脱ぎ落とす中大兄皇子の姿は、こうした魔術的跛行者たちの神話と形態的に親近性をもっている。片方の沓を脱いだ中大兄皇子は、いわば大地と人間の間を揺れ動く存在であった。法興寺蹴鞠説話は、他の多くの跛行者たちの物語のなかにあって、人間と大地との関係を潜在的に主題としていたと考えられる。(237~238頁、各所に引用注が付されているが省いた。)
筆者は、この着眼、発想の出発点を知ることができた。黒田智『藤原鎌足、時空をかける』(吉川弘文館、2011年)に、「[法興寺における蹴鞠で鎌足と中大兄が出会った話は]おなじみの逸話である。でも、ちょっと待てよ。このふたりの出会いの物語の、いったいどこが感動的なんだろう。脱げた靴をひろってあげただけじゃないの。少し大げさすぎはしないかしら」(51頁)と記されている。黒田先生には「感動的」に映らないから、神話学を当て嵌めるという荒技に出られたらしい。蹴鞠のルールを御存じではないに過ぎないようである。
本ブログ「法興寺蹴鞠 其の一」で述べたとおり、蹴鞠ではおしゃべりをしてはならない。集中しないとできない曲芸なのだから、そう約束した。相即的にである。言葉を発してよいのは、蹴られた鞠を次に受ける時に発する、アリなどという合図に限られていた。鞋が脱げてまさかのタイムの状態になっていても、言葉を発してはならなかった。言葉を発せずに、鎌足は中大兄の求める意のままに行動し、意気投合している。このようなことは、男女間の恋愛において時に見られる。互いに一目惚れをした時、あるいは、交際中の絶好調の時、お互いに目と目を見つめ合ってウンウンと頷くだけで思いが伝わる。3年も経てば、あれは誤解であったと気づくのであるが、当人同士は恋に夢中なのでどうしようもない。運命の出会いだと思っている。恋愛は感動的である。鎌足と中大兄の出会いは、状況設定が蹴鞠の場という言葉を発してはならないところで言葉を発せずに意思が伝わったから、恋愛のように感動的なのである。およそ神話学を引っぱってくるような史書記述ではない。神話学的解釈がいけないのではなく、それならば日本書紀のすべての記述について、神話学的解釈を施さなければならないであろう。また、三国史記についても神話学的論証が必要とされよう。筆者は、神代紀や記上でさえ、いわゆる「神話」とは考えていない。
蹴鞠練習図(洛中洛外図屏風歴博甲本(東京国立博物館・日本テレビ放送網編『特別展 京都』日本テレビ放送網、2013年、29頁)より)
そこで、次に、蹴鞠の“難しさ”について検討する。和名抄に、「蹴鞠 伝玄弾棊賦序に云はく、漢の成帝之れを好む也といふ〈世間に云はく、末利古由(まりこゆ)といふ。蹴字千陸反、字亦◇(就冠に足)に作る。公羊伝注に云はく、蹴鞠は足を以て逆に蹈む也といふ〉」とある。最後の「足を以て逆に蹈む也」の箇所について、狩谷棭斎の箋注倭名類聚抄には、「上に引く所の公羊伝注は宣六年文、原書に、足を以て逆に躢するを♯(足偏に)と曰ふに作る、蹋躢同じなり、広韻に見ゆ。蹋踏同じなり、集韻に見ゆ。唯だ♯に作るは此の引く所と同じうせず。按ずるに唐の石経公羊伝に♯に作る。今本と同じ。釈文に亦云ふ、♯音存、則ち源君引く所、誤りに似て、然も慧琳音義に引く、足を以て逆に蹋むを蹴ると曰ふに作る。五見皆同じ。蓋し古に蹴と作る本有る也。曲直瀬本に、以足の上に蹴の字有り。那波本に、蹴鞠二字有り。鞠字は衍なり。山田本に、踏を蹈に作る。那波本同じ。按ずるに、踏・躢は皆蹋字の異文なり。踏・蹈並びに践むと訓む。然るに同じ字に非ず。踏は公羊伝注と合ふ。則ち蹈と作るを誤れり」とある。蹴鞠は逆に蹈むことが明示されており、足の行方として、フムとは逆の言葉、上代語のクフについて、きちんとした理解が求められている。
三省堂の時代別国語大辞典上代編(1990年)に、
くう【蹴】(動下二)蹴る。「若二沫雪一以蹴(くゑ)散(ハララカス)〈倶穢簸邏邏箇須(くゑハララカス)〉」(神代紀上)「此雷悪怨而鳴落、踊(くゑ)〈久恵(くゑ)〉二践於碑文柱一」(霊異記上一話興福寺本)「偶預下中大兄於二法興寺槻樹之下一打レ毱(くうるマリ)之侶上」(皇極紀三年)「当麻蹶速(くゑハヤ)」(垂仁記七年)【考】梁塵秘抄には「馬の子や牛の子にくゑさせてん、ふみわらせてん」のように古形を存しているが、名義抄では「蹢クヱル」のほかに、「蹴化ル、クユ、コユ」という形も見える。「天皇祈曰、朕将レ滅二此賊一、当下蹶(くゑムニ)二茲石一、譬如二柏葉一而騰上、即蹶(くゑタマフニ)之、騰レ如二柏葉一、因曰二蹶石(クヱイシ)野一」(豊後風土記直入郡)の「蹶」はクヱとも訓まれるが、フムとも訓めることは次の地名説話との関連においてもいえる。「朕得レ滅二土蜘蛛一者、将レ蹶(フマムニ)二茲石一、如二柏葉一而挙焉、因蹶(フミタマフニ)之、則如レ柏上二於大虚一、故号二其石一曰二蹈石(ホムシ)一也」(景行紀十二年)。第三例の「打毱」の岩崎本の朱点傍訓はクウル(マリ)とあり、釈日本紀・秘訓にはクユルと見える、名義抄や世尊寺字鏡にあるように、蹴るの意味で、クユという語もあったらしいが、上代における存在は疑わしい。これと関係づけて考えるべきは、新撰字鏡の「α(足偏に可)β(足偏に巴)α行皃、用力也、立走、又古江奈良不(こえナラフ)・γ(足偏に商)万利古由(マリコユ)、又乎止留」、和名抄の「蹴鞠末利古由(マリコユ)」、その他「脚ノ指ヲモチテ地ヲ蹴(コ)エテ足ヲ壊リツ」(小川本願経四分律甲本古点)「右ノ足ヲ以テ之ニ蹴(コ)ユルニ足復粘着ス」(石山寺本大智度論古点)や前掲の名義抄などに見えるコユという語である。これが果たして、いわゆるケルという意味を有する語であったか、あるいは、強く踏む・おどり上がるの意で、むしろ越ユと関係づけられる語であったかなどの点は問題であるが、アゴエという語が、これと足(ア)との複合語であったとすれば、この語の上代における存在を想定することもできよう。クユは、あるいは、クウが、このコユへの類推によって変化して、生じた形かもしれないが、また一説には、クウという終止形はなく、古く蹴(ケ)ルは、クヱ・クヱ・クヱル・クヱル・クヱレ・クヱヨのように下一段活用としたとの考え方もある。→あごえ・ふむ(252頁)
とある。解釈に難渋している。ふつうに考えれば、足を地面へ押し当てるように step , tread することがフムであり、足を使って物を上方ないし前方など、地面とは違う方向へ kick することがクウという言葉であろう。だから、和名抄に、「足を以て逆に蹈む也」とある。「蹈む」という語の範疇に、「蹴鞠」の「蹴」の語意が、方向として逆であるが含まれている。(これに対して現代語では、「蹴って歩く」というように、「蹴る」という語が「踏(蹈)む」という語よりも広い概念として捉えられているかと思われる。)上代語のクウ(下二段活用、クヱ・クウ・クウル)という語は、その後廃れてケルという語に取って代わられた。その中間的な、他語とないまぜの形については、名義抄に、「蹴 化ル、クユ、コユ」などとあるのが参考になるのであろう。
蹴鞠口伝書の成通卿口伝日記(12世紀後半)には次のようにある。
一足ぶみのべ足の事。
よの人みな左をさきにたつ。心々の事となれども、右の足をさきにふむ。かたがたいみじき事也。これ又ひだりをかろくなさん為なり。右をさきにたつれば、一またにのびんと思に、のびらるゝ様なり。左をさきにふめば、右ふみかへられ、ちがへざればすくみたり。能能心得よ。かならず右のあしをさきにふむことしつくべし。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559211?tocOpened=1(89/130)、適宜句読点を施した。)
蹴鞠において、鞠を蹴るということは、まず第一に、前段階として、地面を踏むことが必要なのである。ステップすることが、キックの要件である。それは、今日のサッカーにおけるリフティングでも同じことなのかもしれないが、蹴鞠では、右足だけ(一方の足だけ)で蹴ること、重々しいユニフォームを身に着けて動きにくいこと、鞠が正球を目指しているわけではなく円柱に近いものであること、懸(かかり)の木のような煩わしいもののあるところで行うこと、人の輪の方を向いて蹴るのが正式であること、など諸条件が課せられる。難しいのである。ここに、古語の、クウ(蹴)という語と、フム(踏・蹈・蹶)という語とが、相反しながら親近する性格が見えてくる。前掲の時代別国語大辞典上代編にとられている、豊後風土記、景行紀の用例に見られる両訓可能な点と同じである。次に挙げる相撲の起源話には、「蹶」という字に、クヱともフムとも傍訓が付いている。
左右(もとこひと)奏して言さく、「当麻邑(たぎまのむら)に勇み悍(こほ)き士(ひと)有り。当摩蹶速(たぎまのくゑはや)と曰ふ。其の為人(ひととなり)、力強(こは)くして能く角を毀(か)き鉤(かぎ)を申(の)ぶ。恒に衆中(ひとなか)に語りて曰く、『四方(よも)に求めむに、豈我が力に比(くら)ぶ者有らむや。何(いかに)して強力者(ちからこはきもの)に遇ひて死生(しにいくこと)を期(い)はずして、頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)せむ』といふ」とまをす。天皇聞しめして、群卿(まへつきみたち)に詔して曰はく、「朕聞けり、当摩蹶速は、天下(あめのした)の力士(ちからびと)なりと。若(けだ)し此に比(なら)ぶ人有らむや」とのたまふ。一の臣(まへつきみ)進みて言さく、「臣(やつかれ)聞(うけたまは)る、出雲国に勇士(いさみびと)有(はべ)り。野見宿禰(のみのすくね)と曰ふ。試(こころみ)に是の人を召して、蹶速に当(あは)せむと欲ふ」とまをす。即日(そのひ)に、倭直(やまとのあたひ)の祖(おや)長尾市(ながをち)を遣(つかは)して、野見宿禰を喚(め)す。是に、野見宿禰、出雲より至(まういた)れり。則ち当摩蹶速と野見宿禰と捔力(すまひと)らしむ。二人相対(むか)ひて立つ。各(おのもおのも)足を挙げて相蹶(ふ)む。則ち当摩蹶速が脇骨(かたはらほね)を蹶み拆(さ)く。亦其の腰を蹈(ふ)み拆(くじ)きて殺しつ。故、当摩蹶速の地(ところ)を奪(と)りて、悉に野見宿禰に賜ふ。是以(これ)其の邑に腰折田(こしをれだ)有る縁(ことのもと)なり。野見宿禰は乃ち留り仕へまつる。(垂仁紀七年七月条)
今日の大相撲の四十八手に、上の例のような足で踏みつけるような技はない。殺すような仕儀はない。天武紀に、
是の日、大隅(おほすみ)の隼人(はやひと)と阿多(あた)の隼人と朝廷(みかど)に相撲(すまひと)らしむ。大隅隼人勝ちぬ。(天武紀十一年七月条)
と、隼人の相撲の例が載る。この場合も、今日の興業に見られるものに近いものであったろう。余興としての性格が強く、ローマのコロッセオのようなことはなくて、天覧相撲で殺生沙汰はされなかったものと思われる。筆者には、垂仁紀の「二人相対立。各挙足相蹶。則蹶折当摩蹶速之脇骨。亦蹈折其腰而殺之」とある最初の「二人相対立。各挙足相蹶」が、今日の相撲において、「仕切り」とされる仕儀に当たるのではないかと推測する。いまでは、呼びあげられて土俵に上がり、まず、徳俵のところで「二人相対立。各挙手相拍」という動作となっている。今日の相撲の仕切り動作の最初に、拍手を打つ仕草をするのは、手に何も持っていないことを示すためでもあろうし、それが相手に対して足を使って蹴るものではなく、手を使って押したり引いたり投げたりはたいたりする競技であることを誓うものでもあろう。そして、「各挙足相蹶」は、土俵の隅の塩や水のあるところへ一度行ってから、四股を踏んでいる。
相撲図(洛中洛外図屏風福岡市博本(東京国立博物館・日本テレビ放送網編、前掲書、98頁)より。この相撲で、この態勢から決まった時の決まり手は、赤褌が黒褌に勝った時は、小股すくい、黒褌が赤褌に勝ったときは、ちょん掛けで良いのでしょうか。詳しい方、お教えください。)
すなわち、野見宿禰は、仕切りの際の準備運動の四股をフム所作を、実際の試合のこととしてしまって、いきなり(=「則」)フミ(蹶・蹈)つけたということではなかろうか。出雲国出身の田舎者には、相撲のしきたりがわからなかったのである。シキリとは、シキタリのことである。出雲国から「至(まういた)れり」とあって、「為(し)来(きた)り」とは書いていない。説明がなかったのであるから、野見宿禰に悪気はない。勝ちは勝ちである。大して面白くない洒落であるが、他に考えようがない。そして、言葉としては、フムことがケルことに先んずることを物語っている。蹴鞠の所作に同じである。神代紀にも、素戔嗚尊を迎えるにあたって天照大神は、髪や服装、装身具、武器を整え、つづいて、
堅庭(かたには)を蹈(ふ)みて股(むかもも)を陥れ、沫雪(あわゆき)の若(ごと)くに蹴散(くゑはららか)し、蹴散、此には倶穢簸邏邏箇須(くゑはららかす)と云ふ。(神代紀第六段)
とあり、その後、雄叫びをあげている。先に「蹈」んでから、「蹴散」、今日の言葉では、蹴散らしている。堅い大地を股まで左足は踏みしめて、軸足を確かなものにして、それから勢いよく右足を振り抜いて蹴っている。軸足が不確かでは、蹴ることができない。クウはフムが前提なのである。ここに、蹴鞠の絶対的なルールとしての無言劇が合致する。大相撲においても、土俵上で取組中に声をあげることに抵抗感があったり、仕切りの姿勢が行き過ぎると違和感があるなどと評されることがあるのは、人々の意識の底に、「相撲とは何か」についての考えが根づいていることの表れであろう。フムことについての観念が行き渡っている。
なぜ、蹴鞠においておしゃべり、私語が禁止されているのかについて、これまで、深く考究されたことがなかった。しかし、口伝書に、キックの新技などが盛んに記される陰で、当たり前の事として書かれてあるのは、当たり前だからである。第一に、集中しなければ、鞠を地面につけないようにして一定の高さを保って蹴り合い続けることは難しい。スポーツとして、運動の技術として当然である。と同時に、第二に、上手に蹴るためには上手に蹈むことが求められるのである。四股と言いながら二足歩行動物なのだから、当たり前なのである。釈日本紀・巻第十六の秘訓一には、
問。書字乃訓於不美止読。其由如何。答。師説、昔、新羅所レ上之表、其言詞、太不敬。仍怒擲レ地而踏。自レ其後、訓云二文美一也。今案、蒼頡見二鳥踏レ地而所レ往之跡、作二文字一。不美止云訓、依レ此而起歟。(神道大系編纂会編・小野田光雄校注『神道大系 古典註釈編五 釈日本紀』㈶神道大系編纂会、昭和61年、395頁)
とある。平明に読み下すと、「問。書の字の訓をフミと読む。其の由(ゆゑ)や如何に。答。師説に、昔、新羅の上(たてまつ)りし表、其の言詞、太(はなは)だ不敬なり。仍りて怒りて地面に擲げて踏む。其より後、訓みてフミと云ふ也。今案ずるに、蒼頡に鳥の地を踏みて往く所の跡を見て、文字に作る。フミと云ふ訓みは、此れに依りて起れるか」といったところであろうか。フミ(文・字・書)を踏むことと、何とかして結びつけて解釈しようとしている。その指向は間違っていないと思われる。フミ(文・字・書)があるということは、人々は、黙読することができる。黙っていても意味が相手に伝わる。そのようなことは、無文字社会ではあり得ないことであった。ということは、逆に、フミという語に関係のある事柄は、黙ってしなければならないことを相即的に約束しなければならない。それが、言霊信仰のもとでの人々の決まりであった。言(こと)と事(こと)とが一致するところに、人々の共通認識が設定されていた。そうしなければ、「伝わる」ということがない。コミュニケートなくして社会はない。正確に言うと、社会というのはコミュニケートそのものなのである。(社会学では、コミュニケーション・システムという言い方が行われるが、筆者には、名詞ではなく動詞として考えたいのであえてそう呼ばせて頂く。)
つまり、蹴鞠が鞠を蹴るうえで踏むことを前提にしているのは、フミ(文・字・書)としてあって黙って伝えることを、鞠を介して行う競技であったからである。相似を成している。蹴鞠とは、情報伝達の仕方が黙読なのである。現代的にいえば、電話ではなくメールかもしれない。しかし、笏は持たない。弘安九年(1285)の革匊要略集の「二 威儀」に、「一笏事 示云、笏者鞠庭へ不持出一者也、示云々」(渡辺融・桑山浩然『蹴鞠の研究;公家鞠の成立』東京大学出版会、211頁)、13世紀末の内外三時抄の「装束篇」に、「釼ハ撤(テ)して鞠場に出へし、笏(シャク)・檜(ヒ)扇同之」(渡辺・桑山、前掲書、373頁)とある。ということは、メールではないということである。笏とはカンペだからである。
鞠を、三次元的な広がりの中でありつつ懸の木に邪魔されながら、あるいは、目印、目安にしながら、片足だけである高さへ蹴上げ伝える仕儀は、よほどの動体視力と運動能力を必要とする。正球ではなく、また、鞠ごとに違う感触を確かめては、そのときに繰り広げられる鞠場の環境を認知して、対面しながら周囲にいる鞠足と呼ばれる選手の力量を探っていくことは、たいへんな情報処理を行っているものと考えられる。今日的にいえば、蹴鞠とは、歩きスマホと思ってもらえればわかりやすいであろう。駅のホームやエスカレーターで繰り広げられる光景は、当人にしてみれば、通勤・通学路の勝手知ったる“通路”であるから鞠場を熟知しており、また、改札へと向かう人の流れは、行列となって連なって行くことが知れているから、他の鞠足の動きは把握していることになる。あとは、タッチパネルのなかの不思議に動かせる情報を巧みに指先で操作処理することが求められている。蹴鞠における、フム・フム・クウの三拍子である。捻挫防止には、三拍子で足を使うように言っている。
「軸足の左沓底の損傷が著しい。」(池修『日本の蹴鞠』光村推古書院、平成26年、10頁。同書は現代の『蹴鞠簡要抄』と呼べる名著である。)
スマホをいじっている時、人々はほぼ無言である。電車内だからではなく、集中しなければ操作(タッチパネルの操作ばかりか情報読み取りの頭脳操作)できないからである。(友だち同士で見せ合いっこしている時、スマホは静止画であることが多く、それはもはやスマホのスマホたる機能は停止している。かといって、タッチパネルに勝手にタッチされて意に反して画面が瞬時に次々と流れたり拡大縮小されたりし続けたら、横で見ている者としては見続ける気になれない。)おしゃべりしていて蹴鞠は難しいから、暗黙の了解事とされ、口伝に規定されてきたのであろう。車内アナウンスに促されるマナーモードで行うということである。他にも集団で行う難しい球技はある。わざと難しくしているものとして、ビーチバレーのようなものがあるにはある。しかし、蹴鞠≒スマホほどの“世界の集中と拡散”を伴うものではない。むしろ、卓球のダブルスに近いものを感じるものの、足を動かす所と盤上の球のやりとりとが異なる点は、歩きゲーム、歩きマンガ、二宮金次郎と同等程度である。盤上の枠内に1つではなく多彩な世界が繰り広げられるのは、歩きスマホ中のタッチパネル画面と、桜・柳・楓・松の木に幻惑される鞠庭での蹴鞠であろうと考える。(つづく)
(付記)筆者は、現代の蹴鞠である歩きスマホという行為について、賛成しているわけではありません。中大兄のように、靴が脱げるだけで済めば良いけれど、また、そこで運命の人、鎌足のような人と出逢えれば良いけれど、そのようなことは記録上、644年以来起こっておりません。事故につながる可能性が高いので、差し控えていただくことを願っております。
法興寺の蹴鞠については、古来有名なだけにかえって論考に乏しい。黒田智『中世肖像の文化史』(ぺりかん社、2007年)に、「法興寺蹴鞠説話は、ユーラシア大陸を覆って広がる跛行の神話・儀礼を背景に生まれ、大地と人間の関係を主題とする物語として『日本書紀』のなかにはじめて登場した」(252頁)などとある。大風呂敷を広げられている。少し長くなるが引用する。
この[皇極紀四年条の蹴鞠]記事については、朝鮮の『三国史記』新羅本紀・文武王条との類似性が指摘されてきた。すなわち、新羅王金春秋(武烈王)とその重臣金原信との出会いは、蹴鞠会で春秋の衣の付け紐を破った金庾信が、春秋を自邸に招いたことにはじまるという。金春秋と金庾信、中大兄皇子と中臣鎌足という朝鮮と日本の二組の主従の出会いが、ともに蹴鞠会におけるアクシデントにもとめられているのである。
日朝に残る二つの所伝は、いずれも歴史的事実ではなく、たぶんに説話的要素の濃いものとされている。いずれか後に成立した説話が、先行するもう一方の説話を引用して作られた可能性は低い。主従の出会いとその絆の深さを演出する同工異曲の説話が、ほぼ同時期にまったく別個に発生したと考えられている。
ならば、説話をもう少し広い神話世界のなかに投げ入れてみよう。右足の沓が脱げてしまう中大兄皇子の物語は、片足の王の物語=跛行神話との関係を推測させるるものではあるまいか。
シンデレラやオイディプスをはじめとする跛行を中軸とした神話や儀礼は、広大なユーラシア大陸を覆って超文化的にくり返しあらわれていた。日本においても、跛行説話は古くから厳存している。こうした腫れた足、不自由な足、焼かれた足、片方だけのサンダルや裸足の間には、神話的・儀礼的に超文化的な人類の無意識的精神遺産の一部をなす象徴的等価性が認められるという。
神話学の解釈によれば、歩行の不均衡を中軸とする神話や儀礼は、人間が大地から出生したことの矛盾に関わっている。主人公たちを性格づける歩行に関連した特徴は、死者と生者の世界の境にいる存在の目印とされる。サンダルを片足だけ履くことは、地面と直接触れることで、地下の力と関係を持とうとする儀礼的状況と関連している。つまり、片足の跛行者は、人間の世界と霊魂や神々の世界との仲介者なのである。
片方の沓を脱ぎ落とす中大兄皇子の姿は、こうした魔術的跛行者たちの神話と形態的に親近性をもっている。片方の沓を脱いだ中大兄皇子は、いわば大地と人間の間を揺れ動く存在であった。法興寺蹴鞠説話は、他の多くの跛行者たちの物語のなかにあって、人間と大地との関係を潜在的に主題としていたと考えられる。(237~238頁、各所に引用注が付されているが省いた。)
筆者は、この着眼、発想の出発点を知ることができた。黒田智『藤原鎌足、時空をかける』(吉川弘文館、2011年)に、「[法興寺における蹴鞠で鎌足と中大兄が出会った話は]おなじみの逸話である。でも、ちょっと待てよ。このふたりの出会いの物語の、いったいどこが感動的なんだろう。脱げた靴をひろってあげただけじゃないの。少し大げさすぎはしないかしら」(51頁)と記されている。黒田先生には「感動的」に映らないから、神話学を当て嵌めるという荒技に出られたらしい。蹴鞠のルールを御存じではないに過ぎないようである。
本ブログ「法興寺蹴鞠 其の一」で述べたとおり、蹴鞠ではおしゃべりをしてはならない。集中しないとできない曲芸なのだから、そう約束した。相即的にである。言葉を発してよいのは、蹴られた鞠を次に受ける時に発する、アリなどという合図に限られていた。鞋が脱げてまさかのタイムの状態になっていても、言葉を発してはならなかった。言葉を発せずに、鎌足は中大兄の求める意のままに行動し、意気投合している。このようなことは、男女間の恋愛において時に見られる。互いに一目惚れをした時、あるいは、交際中の絶好調の時、お互いに目と目を見つめ合ってウンウンと頷くだけで思いが伝わる。3年も経てば、あれは誤解であったと気づくのであるが、当人同士は恋に夢中なのでどうしようもない。運命の出会いだと思っている。恋愛は感動的である。鎌足と中大兄の出会いは、状況設定が蹴鞠の場という言葉を発してはならないところで言葉を発せずに意思が伝わったから、恋愛のように感動的なのである。およそ神話学を引っぱってくるような史書記述ではない。神話学的解釈がいけないのではなく、それならば日本書紀のすべての記述について、神話学的解釈を施さなければならないであろう。また、三国史記についても神話学的論証が必要とされよう。筆者は、神代紀や記上でさえ、いわゆる「神話」とは考えていない。
蹴鞠練習図(洛中洛外図屏風歴博甲本(東京国立博物館・日本テレビ放送網編『特別展 京都』日本テレビ放送網、2013年、29頁)より)
そこで、次に、蹴鞠の“難しさ”について検討する。和名抄に、「蹴鞠 伝玄弾棊賦序に云はく、漢の成帝之れを好む也といふ〈世間に云はく、末利古由(まりこゆ)といふ。蹴字千陸反、字亦◇(就冠に足)に作る。公羊伝注に云はく、蹴鞠は足を以て逆に蹈む也といふ〉」とある。最後の「足を以て逆に蹈む也」の箇所について、狩谷棭斎の箋注倭名類聚抄には、「上に引く所の公羊伝注は宣六年文、原書に、足を以て逆に躢するを♯(足偏に)と曰ふに作る、蹋躢同じなり、広韻に見ゆ。蹋踏同じなり、集韻に見ゆ。唯だ♯に作るは此の引く所と同じうせず。按ずるに唐の石経公羊伝に♯に作る。今本と同じ。釈文に亦云ふ、♯音存、則ち源君引く所、誤りに似て、然も慧琳音義に引く、足を以て逆に蹋むを蹴ると曰ふに作る。五見皆同じ。蓋し古に蹴と作る本有る也。曲直瀬本に、以足の上に蹴の字有り。那波本に、蹴鞠二字有り。鞠字は衍なり。山田本に、踏を蹈に作る。那波本同じ。按ずるに、踏・躢は皆蹋字の異文なり。踏・蹈並びに践むと訓む。然るに同じ字に非ず。踏は公羊伝注と合ふ。則ち蹈と作るを誤れり」とある。蹴鞠は逆に蹈むことが明示されており、足の行方として、フムとは逆の言葉、上代語のクフについて、きちんとした理解が求められている。
三省堂の時代別国語大辞典上代編(1990年)に、
くう【蹴】(動下二)蹴る。「若二沫雪一以蹴(くゑ)散(ハララカス)〈倶穢簸邏邏箇須(くゑハララカス)〉」(神代紀上)「此雷悪怨而鳴落、踊(くゑ)〈久恵(くゑ)〉二践於碑文柱一」(霊異記上一話興福寺本)「偶預下中大兄於二法興寺槻樹之下一打レ毱(くうるマリ)之侶上」(皇極紀三年)「当麻蹶速(くゑハヤ)」(垂仁記七年)【考】梁塵秘抄には「馬の子や牛の子にくゑさせてん、ふみわらせてん」のように古形を存しているが、名義抄では「蹢クヱル」のほかに、「蹴化ル、クユ、コユ」という形も見える。「天皇祈曰、朕将レ滅二此賊一、当下蹶(くゑムニ)二茲石一、譬如二柏葉一而騰上、即蹶(くゑタマフニ)之、騰レ如二柏葉一、因曰二蹶石(クヱイシ)野一」(豊後風土記直入郡)の「蹶」はクヱとも訓まれるが、フムとも訓めることは次の地名説話との関連においてもいえる。「朕得レ滅二土蜘蛛一者、将レ蹶(フマムニ)二茲石一、如二柏葉一而挙焉、因蹶(フミタマフニ)之、則如レ柏上二於大虚一、故号二其石一曰二蹈石(ホムシ)一也」(景行紀十二年)。第三例の「打毱」の岩崎本の朱点傍訓はクウル(マリ)とあり、釈日本紀・秘訓にはクユルと見える、名義抄や世尊寺字鏡にあるように、蹴るの意味で、クユという語もあったらしいが、上代における存在は疑わしい。これと関係づけて考えるべきは、新撰字鏡の「α(足偏に可)β(足偏に巴)α行皃、用力也、立走、又古江奈良不(こえナラフ)・γ(足偏に商)万利古由(マリコユ)、又乎止留」、和名抄の「蹴鞠末利古由(マリコユ)」、その他「脚ノ指ヲモチテ地ヲ蹴(コ)エテ足ヲ壊リツ」(小川本願経四分律甲本古点)「右ノ足ヲ以テ之ニ蹴(コ)ユルニ足復粘着ス」(石山寺本大智度論古点)や前掲の名義抄などに見えるコユという語である。これが果たして、いわゆるケルという意味を有する語であったか、あるいは、強く踏む・おどり上がるの意で、むしろ越ユと関係づけられる語であったかなどの点は問題であるが、アゴエという語が、これと足(ア)との複合語であったとすれば、この語の上代における存在を想定することもできよう。クユは、あるいは、クウが、このコユへの類推によって変化して、生じた形かもしれないが、また一説には、クウという終止形はなく、古く蹴(ケ)ルは、クヱ・クヱ・クヱル・クヱル・クヱレ・クヱヨのように下一段活用としたとの考え方もある。→あごえ・ふむ(252頁)
とある。解釈に難渋している。ふつうに考えれば、足を地面へ押し当てるように step , tread することがフムであり、足を使って物を上方ないし前方など、地面とは違う方向へ kick することがクウという言葉であろう。だから、和名抄に、「足を以て逆に蹈む也」とある。「蹈む」という語の範疇に、「蹴鞠」の「蹴」の語意が、方向として逆であるが含まれている。(これに対して現代語では、「蹴って歩く」というように、「蹴る」という語が「踏(蹈)む」という語よりも広い概念として捉えられているかと思われる。)上代語のクウ(下二段活用、クヱ・クウ・クウル)という語は、その後廃れてケルという語に取って代わられた。その中間的な、他語とないまぜの形については、名義抄に、「蹴 化ル、クユ、コユ」などとあるのが参考になるのであろう。
蹴鞠口伝書の成通卿口伝日記(12世紀後半)には次のようにある。
一足ぶみのべ足の事。
よの人みな左をさきにたつ。心々の事となれども、右の足をさきにふむ。かたがたいみじき事也。これ又ひだりをかろくなさん為なり。右をさきにたつれば、一またにのびんと思に、のびらるゝ様なり。左をさきにふめば、右ふみかへられ、ちがへざればすくみたり。能能心得よ。かならず右のあしをさきにふむことしつくべし。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559211?tocOpened=1(89/130)、適宜句読点を施した。)
蹴鞠において、鞠を蹴るということは、まず第一に、前段階として、地面を踏むことが必要なのである。ステップすることが、キックの要件である。それは、今日のサッカーにおけるリフティングでも同じことなのかもしれないが、蹴鞠では、右足だけ(一方の足だけ)で蹴ること、重々しいユニフォームを身に着けて動きにくいこと、鞠が正球を目指しているわけではなく円柱に近いものであること、懸(かかり)の木のような煩わしいもののあるところで行うこと、人の輪の方を向いて蹴るのが正式であること、など諸条件が課せられる。難しいのである。ここに、古語の、クウ(蹴)という語と、フム(踏・蹈・蹶)という語とが、相反しながら親近する性格が見えてくる。前掲の時代別国語大辞典上代編にとられている、豊後風土記、景行紀の用例に見られる両訓可能な点と同じである。次に挙げる相撲の起源話には、「蹶」という字に、クヱともフムとも傍訓が付いている。
左右(もとこひと)奏して言さく、「当麻邑(たぎまのむら)に勇み悍(こほ)き士(ひと)有り。当摩蹶速(たぎまのくゑはや)と曰ふ。其の為人(ひととなり)、力強(こは)くして能く角を毀(か)き鉤(かぎ)を申(の)ぶ。恒に衆中(ひとなか)に語りて曰く、『四方(よも)に求めむに、豈我が力に比(くら)ぶ者有らむや。何(いかに)して強力者(ちからこはきもの)に遇ひて死生(しにいくこと)を期(い)はずして、頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)せむ』といふ」とまをす。天皇聞しめして、群卿(まへつきみたち)に詔して曰はく、「朕聞けり、当摩蹶速は、天下(あめのした)の力士(ちからびと)なりと。若(けだ)し此に比(なら)ぶ人有らむや」とのたまふ。一の臣(まへつきみ)進みて言さく、「臣(やつかれ)聞(うけたまは)る、出雲国に勇士(いさみびと)有(はべ)り。野見宿禰(のみのすくね)と曰ふ。試(こころみ)に是の人を召して、蹶速に当(あは)せむと欲ふ」とまをす。即日(そのひ)に、倭直(やまとのあたひ)の祖(おや)長尾市(ながをち)を遣(つかは)して、野見宿禰を喚(め)す。是に、野見宿禰、出雲より至(まういた)れり。則ち当摩蹶速と野見宿禰と捔力(すまひと)らしむ。二人相対(むか)ひて立つ。各(おのもおのも)足を挙げて相蹶(ふ)む。則ち当摩蹶速が脇骨(かたはらほね)を蹶み拆(さ)く。亦其の腰を蹈(ふ)み拆(くじ)きて殺しつ。故、当摩蹶速の地(ところ)を奪(と)りて、悉に野見宿禰に賜ふ。是以(これ)其の邑に腰折田(こしをれだ)有る縁(ことのもと)なり。野見宿禰は乃ち留り仕へまつる。(垂仁紀七年七月条)
今日の大相撲の四十八手に、上の例のような足で踏みつけるような技はない。殺すような仕儀はない。天武紀に、
是の日、大隅(おほすみ)の隼人(はやひと)と阿多(あた)の隼人と朝廷(みかど)に相撲(すまひと)らしむ。大隅隼人勝ちぬ。(天武紀十一年七月条)
と、隼人の相撲の例が載る。この場合も、今日の興業に見られるものに近いものであったろう。余興としての性格が強く、ローマのコロッセオのようなことはなくて、天覧相撲で殺生沙汰はされなかったものと思われる。筆者には、垂仁紀の「二人相対立。各挙足相蹶。則蹶折当摩蹶速之脇骨。亦蹈折其腰而殺之」とある最初の「二人相対立。各挙足相蹶」が、今日の相撲において、「仕切り」とされる仕儀に当たるのではないかと推測する。いまでは、呼びあげられて土俵に上がり、まず、徳俵のところで「二人相対立。各挙手相拍」という動作となっている。今日の相撲の仕切り動作の最初に、拍手を打つ仕草をするのは、手に何も持っていないことを示すためでもあろうし、それが相手に対して足を使って蹴るものではなく、手を使って押したり引いたり投げたりはたいたりする競技であることを誓うものでもあろう。そして、「各挙足相蹶」は、土俵の隅の塩や水のあるところへ一度行ってから、四股を踏んでいる。
相撲図(洛中洛外図屏風福岡市博本(東京国立博物館・日本テレビ放送網編、前掲書、98頁)より。この相撲で、この態勢から決まった時の決まり手は、赤褌が黒褌に勝った時は、小股すくい、黒褌が赤褌に勝ったときは、ちょん掛けで良いのでしょうか。詳しい方、お教えください。)
すなわち、野見宿禰は、仕切りの際の準備運動の四股をフム所作を、実際の試合のこととしてしまって、いきなり(=「則」)フミ(蹶・蹈)つけたということではなかろうか。出雲国出身の田舎者には、相撲のしきたりがわからなかったのである。シキリとは、シキタリのことである。出雲国から「至(まういた)れり」とあって、「為(し)来(きた)り」とは書いていない。説明がなかったのであるから、野見宿禰に悪気はない。勝ちは勝ちである。大して面白くない洒落であるが、他に考えようがない。そして、言葉としては、フムことがケルことに先んずることを物語っている。蹴鞠の所作に同じである。神代紀にも、素戔嗚尊を迎えるにあたって天照大神は、髪や服装、装身具、武器を整え、つづいて、
堅庭(かたには)を蹈(ふ)みて股(むかもも)を陥れ、沫雪(あわゆき)の若(ごと)くに蹴散(くゑはららか)し、蹴散、此には倶穢簸邏邏箇須(くゑはららかす)と云ふ。(神代紀第六段)
とあり、その後、雄叫びをあげている。先に「蹈」んでから、「蹴散」、今日の言葉では、蹴散らしている。堅い大地を股まで左足は踏みしめて、軸足を確かなものにして、それから勢いよく右足を振り抜いて蹴っている。軸足が不確かでは、蹴ることができない。クウはフムが前提なのである。ここに、蹴鞠の絶対的なルールとしての無言劇が合致する。大相撲においても、土俵上で取組中に声をあげることに抵抗感があったり、仕切りの姿勢が行き過ぎると違和感があるなどと評されることがあるのは、人々の意識の底に、「相撲とは何か」についての考えが根づいていることの表れであろう。フムことについての観念が行き渡っている。
なぜ、蹴鞠においておしゃべり、私語が禁止されているのかについて、これまで、深く考究されたことがなかった。しかし、口伝書に、キックの新技などが盛んに記される陰で、当たり前の事として書かれてあるのは、当たり前だからである。第一に、集中しなければ、鞠を地面につけないようにして一定の高さを保って蹴り合い続けることは難しい。スポーツとして、運動の技術として当然である。と同時に、第二に、上手に蹴るためには上手に蹈むことが求められるのである。四股と言いながら二足歩行動物なのだから、当たり前なのである。釈日本紀・巻第十六の秘訓一には、
問。書字乃訓於不美止読。其由如何。答。師説、昔、新羅所レ上之表、其言詞、太不敬。仍怒擲レ地而踏。自レ其後、訓云二文美一也。今案、蒼頡見二鳥踏レ地而所レ往之跡、作二文字一。不美止云訓、依レ此而起歟。(神道大系編纂会編・小野田光雄校注『神道大系 古典註釈編五 釈日本紀』㈶神道大系編纂会、昭和61年、395頁)
とある。平明に読み下すと、「問。書の字の訓をフミと読む。其の由(ゆゑ)や如何に。答。師説に、昔、新羅の上(たてまつ)りし表、其の言詞、太(はなは)だ不敬なり。仍りて怒りて地面に擲げて踏む。其より後、訓みてフミと云ふ也。今案ずるに、蒼頡に鳥の地を踏みて往く所の跡を見て、文字に作る。フミと云ふ訓みは、此れに依りて起れるか」といったところであろうか。フミ(文・字・書)を踏むことと、何とかして結びつけて解釈しようとしている。その指向は間違っていないと思われる。フミ(文・字・書)があるということは、人々は、黙読することができる。黙っていても意味が相手に伝わる。そのようなことは、無文字社会ではあり得ないことであった。ということは、逆に、フミという語に関係のある事柄は、黙ってしなければならないことを相即的に約束しなければならない。それが、言霊信仰のもとでの人々の決まりであった。言(こと)と事(こと)とが一致するところに、人々の共通認識が設定されていた。そうしなければ、「伝わる」ということがない。コミュニケートなくして社会はない。正確に言うと、社会というのはコミュニケートそのものなのである。(社会学では、コミュニケーション・システムという言い方が行われるが、筆者には、名詞ではなく動詞として考えたいのであえてそう呼ばせて頂く。)
つまり、蹴鞠が鞠を蹴るうえで踏むことを前提にしているのは、フミ(文・字・書)としてあって黙って伝えることを、鞠を介して行う競技であったからである。相似を成している。蹴鞠とは、情報伝達の仕方が黙読なのである。現代的にいえば、電話ではなくメールかもしれない。しかし、笏は持たない。弘安九年(1285)の革匊要略集の「二 威儀」に、「一笏事 示云、笏者鞠庭へ不持出一者也、示云々」(渡辺融・桑山浩然『蹴鞠の研究;公家鞠の成立』東京大学出版会、211頁)、13世紀末の内外三時抄の「装束篇」に、「釼ハ撤(テ)して鞠場に出へし、笏(シャク)・檜(ヒ)扇同之」(渡辺・桑山、前掲書、373頁)とある。ということは、メールではないということである。笏とはカンペだからである。
鞠を、三次元的な広がりの中でありつつ懸の木に邪魔されながら、あるいは、目印、目安にしながら、片足だけである高さへ蹴上げ伝える仕儀は、よほどの動体視力と運動能力を必要とする。正球ではなく、また、鞠ごとに違う感触を確かめては、そのときに繰り広げられる鞠場の環境を認知して、対面しながら周囲にいる鞠足と呼ばれる選手の力量を探っていくことは、たいへんな情報処理を行っているものと考えられる。今日的にいえば、蹴鞠とは、歩きスマホと思ってもらえればわかりやすいであろう。駅のホームやエスカレーターで繰り広げられる光景は、当人にしてみれば、通勤・通学路の勝手知ったる“通路”であるから鞠場を熟知しており、また、改札へと向かう人の流れは、行列となって連なって行くことが知れているから、他の鞠足の動きは把握していることになる。あとは、タッチパネルのなかの不思議に動かせる情報を巧みに指先で操作処理することが求められている。蹴鞠における、フム・フム・クウの三拍子である。捻挫防止には、三拍子で足を使うように言っている。
「軸足の左沓底の損傷が著しい。」(池修『日本の蹴鞠』光村推古書院、平成26年、10頁。同書は現代の『蹴鞠簡要抄』と呼べる名著である。)
スマホをいじっている時、人々はほぼ無言である。電車内だからではなく、集中しなければ操作(タッチパネルの操作ばかりか情報読み取りの頭脳操作)できないからである。(友だち同士で見せ合いっこしている時、スマホは静止画であることが多く、それはもはやスマホのスマホたる機能は停止している。かといって、タッチパネルに勝手にタッチされて意に反して画面が瞬時に次々と流れたり拡大縮小されたりし続けたら、横で見ている者としては見続ける気になれない。)おしゃべりしていて蹴鞠は難しいから、暗黙の了解事とされ、口伝に規定されてきたのであろう。車内アナウンスに促されるマナーモードで行うということである。他にも集団で行う難しい球技はある。わざと難しくしているものとして、ビーチバレーのようなものがあるにはある。しかし、蹴鞠≒スマホほどの“世界の集中と拡散”を伴うものではない。むしろ、卓球のダブルスに近いものを感じるものの、足を動かす所と盤上の球のやりとりとが異なる点は、歩きゲーム、歩きマンガ、二宮金次郎と同等程度である。盤上の枠内に1つではなく多彩な世界が繰り広げられるのは、歩きスマホ中のタッチパネル画面と、桜・柳・楓・松の木に幻惑される鞠庭での蹴鞠であろうと考える。(つづく)
(付記)筆者は、現代の蹴鞠である歩きスマホという行為について、賛成しているわけではありません。中大兄のように、靴が脱げるだけで済めば良いけれど、また、そこで運命の人、鎌足のような人と出逢えれば良いけれど、そのようなことは記録上、644年以来起こっておりません。事故につながる可能性が高いので、差し控えていただくことを願っております。