古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

法興寺蹴鞠 其の三

2015年07月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
 再び、前掲の黒田智『中世肖像の文化史』(ぺりかん社、2007年)から図像について見てみる。

 ……現存する法興寺蹴鞠図は、中大兄皇子の図像によって大きく二系統に分類できる。
 ひとつは……中大兄皇子が沓の脱げた右足を上げて立ち尽くしている。……場面は、斜め上方からやや引き気味に法興寺門前における蹴鞠会の全景を見下ろす構図で描かれている。門前に細い一本の樹木があり、五、六人の人物が蹴鞠の輪をつくっている。画面中央の緑色の衣を着した中大兄皇子は、沓の脱げた右足を上げて立っている。対面する黒袍の鎌足が落ちた沓を見つめ、その周囲で豪族たちが事のなりゆきを見守っている。(234~236頁)

 この部類に、談山神社蔵の多武峯縁起絵巻の巻上、宮内庁三の丸尚蔵館蔵の法興寺蹴鞠図(伝土佐長隆)が挙げられている。ここでは、13世紀前半に成ったとされる多武峯縁起絵巻の図と詞書を検討してみる。詞書に、

 軽皇子孝徳曽雖与大臣相善、其器量不足謀大事、更欲擇君、大臣歴見王室、唯中大兄天智、雄畧英徹可与撥乱、而無由参謁、甲辰年三月、中大兄於法興寺槻下蹴鞠、王子皮鞋随毬脱落、入鹿臣咲之、鎌足連取鞋置掌以獻中大兄、中大兄敬受之、自茲相善、倶為魚水、互述素懐、敢無所匿、

とある。これに先立つものは、その450年ほども前の天平宝字四年(760)に成った家伝上の鎌足伝である。

 然皇子器量不足与謀大事、更欲擇君歴見王宗、唯中大兄、雄畧英徹可与撥乱、而無由参謁、儻遇于蹴鞠之庭、中大兄皮鞋随毬放落、大臣取捧、中大兄敬受之、自茲相善、倶為魚水、(然るに皇子、与に大事を謀るに器量足らず。更に君を択ばむと欲して王宗を歴(つた)ひて見るに、唯だ中大兄の雄略英徹にして与に乱を撥ふ可し。而して参謁に由(よし)無し。儻(たまたま)蹴鞠之庭に中大兄に遇へり。中大兄の皮の鞋の毬に随ひて放し落つ。大臣取りて捧ぐ。中大兄、敬ひて之れを受く。茲より相善して倶に魚水為(た)り、)

 ほとんど同じ内容が書いてある。鎌足は軽皇子(孝徳天皇)と仲が良かったが、「器量不足謀大事」なのでほかに誰かいないかと探していた。中大兄はやんちゃ者だと噂を聞いていたけれど、知り合う機会がなかった。家伝では、「儻遇于蹴鞠之庭」ときに皮鞋を取って捧げたところから魚水の交わりに発展したという話になっている。多武峯縁起絵巻の詞書では、そういった内容に加えて、「入鹿臣咲之」とある。この点は大いに疑問である。以下に述べる。養老四年(720)までに書かれた日本書紀には、

 中臣鎌子連、曾善於軽皇子。……中臣鎌子連、為人忠正、有匡済心。乃憤蘇我臣入鹿、失君臣長幼之序、挟Ю(門構えに視)Ё(門構えに兪)社稷之権、歴試接於王宗之中、而求可立功名哲主。便附心於中大兄、▼(足偏に流の旁部)然未獲展其幽抱。偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶、而候皮鞋随毱脱落、取置掌中、前跪恭奉。中大兄、対跪敬執。自茲、相善、倶述所懐。既無所匿。(中臣鎌子連、曾(いむさき)より軽皇子に善(うるは)し。……中臣鎌子連、為人(ひととなり)忠正(ただ)しくして、匡(ただ)し済(すく)ふ心有り。乃ち、蘇我臣入鹿が、君臣長幼(きみやつこまらのかみおとと)の序(ついで)を失ひ、Ю(門構えに視)Ё(門構えに兪)社稷(くに)をЮЁ(うかが)ふ権(はかりこと)を挟(わきばさ)むことを憤(いく)み、歴試(つた)ひて王宗(きみたち)中(みなか)に接(みじは)りて、功名(いたはり)を立つべき哲主(さかしききみ)をば求む。便ち、心を中大兄に附くれども、▼然(さかり)て未だ其の幽抱(ふかきおもひ)を展(の)ぶること獲ず。偶(たまたま)中大兄の法興寺の槻(つき)の樹(き)の下(もと)に打毱(まりく)うる侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毱の随(まにま)に脱け落つるを候(まも)りて、掌中(たなうら)に取り置(も)ちて、前(すす)みて跪(ひざまづ)きて恭みて奉る。中大兄、対ひ跪きて敬(ゐや)びて執りたまふ。茲(これ)より、相(むつ)び善(よ)みして、倶に懐(おも)ふ所を述ぶ。既に匿(かく)るる所無し。)(皇極紀三年正月条)

とある。鎌足が最初から蹴鞠に参加していたかといえば、「偶(たまたま)中大兄の法興寺の槻の樹の下に打毱(まりく)うる侶(ともがら)に預(くはは)りて」とあるから、後から入ったと考えるのが妥当であろう。家伝に「儻遇」とあるのに通じている。蘇我入鹿は蹴鞠に加わってもいなければ、見物もしていないようである。どこにも出て来ない。
 多武峯縁起絵巻の蹴鞠の絵に、右から入鹿、鎌足、中大兄の図がある。門外に控えがいるから、門内の人たちは蹴鞠にみな参加していたという設定らしい。入鹿は指さしている。鎌足は中大兄の赤い鞋(右足)を掌にし、差し出すような向きに持っている。中大兄は左足(軸足)を曲げた姿勢で、右足は蹴り上げたままに韈を履いているのがわかる。左手は頭を掻くような仕草である。それ以外の蹴鞠参加者は、二組、顔を見合わせている。絵巻の絵であるから、写真を撮ったように描いているわけではない。しかし、黒田先生の見方に、「中大兄皇子が沓の脱げた右足を上げて立ち尽くしている」という光景ではないと思われる。左足が曲がっているから、蹴り上げたところを表していると思われる。詞書に、「王子皮鞋、随毬脱落」とあるのだから、目を凝らして見て、毬が画面に見えないとなると、鎌足が鞋も毬もキャッチしたように捉えて描いたと考えるのが適切であろう。そう考えると、この絵は、鎌足が両者をキャッチして、たちどころに鞋を掌に置いて進み出て献じようとしているところと見ることができる。鎌足の俊敏さが引き立っている。他の参加者は顔を見合わせるだけ、入鹿も指さすだけ、その瞬時に鎌足はキャッチ&リリースの動作をすべて行っている。鎌足を顕彰するであろう多武峯縁起の絵としてふさわしいといえる。
 多武峯縁起にある「入鹿臣咲之」は、紀や家伝にない記述である。考えにくいものがある。なぜなら、入鹿は警戒心が強く、太刀を手放さなかったと記されているからである。暗殺のために、三韓の上表と称して朝廷に参内させたとき、俳優を使って太刀を取らせている。(この箇所、「咲」字にワラヒテとある傍訓は、ヱラキテが良いとする説については、本ブログ「蘇我入鹿は『咲(わら)ひて』剣を解いたか、『咲(ゑら)きて』剣を解いたか」に記した。)

 中臣鎌子連、蘇我入鹿臣の、為人(ひととなり)疑ひ多くして、昼夜(ひるよる)剣(たち)持(は)けることを知りて、俳優(わざひと)に教へて、方便(たばか)りて解(ぬ)かしむ。入鹿臣、咲(わら)ひ[≠(ゑら)き]て剣を解く。入りて座(しきゐ)に侍り。(皇極紀四年六月条)

 朝廷に参内してさえ、太刀を付けたままでいようとする為人(ひととなり)の人物が、不用心に蹴鞠に参加するとは考えにくい。前掲の、内外三時抄・装束篇の「束帯」の項に、「釼ハ撤(テ)して鞠場に出へし、笏(シャク)、檜(ヒ)扇同之、韈(シタフス)は常時の絹韈なるへし」とあった。こういった規定が蹴鞠の口伝書に残されているのは、蹴鞠の装束が参内するような正式の衣装であったため、ならば、佩刀し笏も持参するのか、といった分からず屋がいたためであろうと思われる。太刀が腰にぶらぶらしていたり、笏を恭しく両手で持っていて、ハードな蹴鞠ができようはずはない。剣を警戒して外さない人物が、剣を解かねければならない蹴鞠に参加するであろうか。しかも、蹴鞠の場で、ワラフという行為は、もちろん、禁じられている。前掲の成通卿口伝日記に、次のようにあった。

一鞠に立てしげく物いふべからず。いたり様にものをしへすべからず。たかくわらふべからず。さりとてにがりたるけしきにみゆまじ。心におもしろくおもへ。(再掲)
一鞠の時の身の振舞の事。
心をゆるに思ふべからず。心の中に躰をせめよ。あらはにせめつれば、こはくみえてたはやかならず。足をうしろへにがし頭をすゝむるはよしといふ。その様をしつければ、猶たはやかならず。たゞ心のうちにおもへば、色にいでぬはたをれたる物からしたゝかなり。又庭にあらむ人ごとに心をゆるにすまじ。みなうやまひかしこまりてうちとくる事なかれ。さりとてにらみはるにはをよばざれ。うちとけつれば、しどけなきことの侍也。心をひそめてうはなだらかなるべし。(前掲書、396頁)
一鞠にたちて。ゆめゆめべちの事を思べからす。ひとへに鞠に心を入よ。(前掲書、399頁)

 入鹿のように、権力闘争を行う強者が、蹴鞠で沓が脱げたことで「咲(わら)ふ」ことは考えにくい。確かに、入鹿の例があったから、蹴鞠のルールに後に禁止事項として挙げられたと考えられなくもない。けれども、本ブログ「法興寺蹴鞠 其の二」で詳論したとおり、蹴鞠は、上代語において、クウとフムという動詞を基本とする競技であった。フムからフミ(文・字・書)という言葉ができたとする仮説からすれば、声を上げて笑うことは、“蹴鞠概念”に反することになる。笏に「……(笑)」と書く場合はあり得るが、笏は身につけないのが蹴鞠のいでたちであった。身のこなし、バランス取りに、余計なものは持たない。
巨萬福信像(府中市郷土の森博物館展示品)
 13世紀前半に書かれた多武峯絵巻詞書の「咲」字は、上代語にあっては、ヱム、ヱラクではなく、やはり嘲り笑う意のワラフであろう。敏達紀に、

 是の時に、殯宮(もがりのみや)を広瀬に起つ。[蘇我]馬子宿禰大臣、刀(たち)を佩きて誄(しのびこと)たてまつる。物部弓削守屋大連(もののべのゆげのもりやのおほむらじ)、听然而咲(あざわら)ひて曰く、「獵箭(ししや)中(お)へる雀鳥(すずみ)の如し」といふ。次に弓削守屋大連、手脚揺(わなな)き震(ふる)ひて誄たてまつる。揺震は、戦(ふつ)慄(わなな)くなり。馬子宿禰大臣、咲(わら)ひて曰く、「鈴を懸くべし」といふ。是に由りて、二(ふたり)の臣、微(やうやく)に怨恨(うらみ)を生(な)す。(敏達紀十四年八月条)

とある。ワラフことから怨恨へとつながっている。法興寺蹴鞠の話では、12世紀の今昔物語集・巻22-1「大織冠、始賜藤原姓語」に見える。黒田先生ご指摘では、「跳ね上がった皮鞋を見た入鹿があざけり笑い、素知らぬふりで脱げた皮鞋を蹴り出してしまう。中大兄皇子は、これを『半无(はしたなし)(ひどい仕打ちだと思う)』と感じ、赤面して立ち尽くしてしまう。皇子は立ったままで、鎌足に急いで沓を履かせてもらっている。思わず沓が脱げ落ちたという失態が、嘲りの対象とされていたことがわかる」(前掲、239頁)という。

 ……、御子ノ鞠蹴給ケル御沓ノ御足ニ離テ上ケルヲ、入鹿誇タル心ニテ、宮ノ御事ヲ何トモ不思シテ嘲テ、其ノ御沓ヲ外様ニ蹴遣テケリ、御子此ノ事ヲ極テ半无ト思シ食ケレバ、顔ヲ赤メテ立セ給ルヲ、入鹿猶事トモ不思ザル気色ニテ立リケレバ、……(今昔物語集・巻22-1)

 多武峯縁起絵巻の絵に、中大兄の顔が赤らんでいるかどうかは微妙である。黒田先生の、「立ち尽くして」はいないことはすでに述べた。「鎌足に急いで沓を履かせてもらっている」という表現にも難がある。鎌足のほうが、さっと鞋を履かそうとしている。今昔物語集の記述に、「履かせてもらっている」という表現はなく、多武峯縁起絵巻は、家伝上とともに、主役は鎌足である。皇極紀の法興寺蹴鞠部分、三年正月条も、主語はほぼ鎌足である。鎌足が、軽皇子(孝徳天皇)以上に、蘇我入鹿を倒すために担ぐべき皇族を探していたら、中大兄が思い浮かんだが、機会がなくてお近づきになれなかった。たまたま中大兄が法興寺の槻の樹の下で打毱(=蹴鞠)をしていたからその仲間に入って、鞋が脱げ落ちたから拾って差し上げて奉ったという流れになっている。思うに、やんちゃな中大兄、およそ17歳ぐらいの少年が蹴鞠に遊んでいるのを、鎌足は御し易しと思ったのであろう。
 蘇我入鹿は、法興寺蹴鞠の前年、皇極二年に、山背大兄王一族を、兵をあげて滅ぼしている。古人大兄皇子を立てて天皇としようとしたのであった。父親の蘇我蝦夷が病気がちになり、紫冠を子の入鹿に与えて大臣の位に擬したところから始まる。専横甚だしい威勢である。その人物が、蘇我馬子と物部守屋のような均衡対立する間柄のように、嘲り合ってワラフような態度に、やんちゃ坊やの中大兄を相手にして及ぶであろうか。今昔物語集以降の、天智天皇(中大兄)を持ち上げる時代に至ってはじめて、中大兄が鞋脱げたといって入鹿がワラフ、と追加されたものと考えられる。筆者には、蘇我入鹿は、ヱラクことはあってもワラフ人物とは感じられない。入鹿が笑うのは、中世に書かれた歴史小説の領域のなかである。643年の出来事について、500年ほど経って今昔物語集は書かれている。現代に置き直して、室町時代のくずし字で書いてある文書をもとに物語を書くとして、人物像がいかなるものであったかはいくらでも創作することができる。信長像や家康像でさえ、“新発見”が相次いでいる。上代から中世へと説話が展開されていったと、中古の史料の欠如も無反省にして受け入れて、そこから逆算して歴史を解き明かすかとする手法は、大きな誤解を生み出す引き金となるであろう。そのことは、蹴鞠のルールを示す文献が上代にはないにも関わらず、法興寺蹴鞠の場面が、無言のパントマイムであったとする筆者の主張にも注がれてしかるべきではある。しかし、ケルという語の上代語がクウであり、今日の蹴るように歩くことを示す語は、フムという語に用意されていたこと、また、フムという語がフミ(文・字・書)という語と関係があるかのように捉えられていたことに思い致すことによって、確かであるとわかるのである。
 なお、木村紀子『原始日本語のおもかげ』(平凡社(平凡社新書)、2009年)に次のようにある。

 ……「立つ・居る(すわる)・寝る」とは、人の動作の基本的な三態だが、「立つ」時には必ず「踏む」という動作が一体となっている。「立つ」とは全身のありようだが、その時の足のはたらきが「フム」である。したがって「フム」という言葉は、人が自らの身体をそうしたありようを意識し始めた時からあったに違いない古来の言葉である。「フム」とは、足裏の下に土や石や床等を体重によって自然に押し付けることだから、普通に立ったり歩いたりする時のような無意識の場合と、行進の「足踏み」などのような意識的な場合とがある。「踏切」もまた、つまづいたりしないように注意して(意識的に)踏んでいることが多いのだろう。(171頁)

 筆者は、上代語のフムにおいて、「普通に立ったり歩いたりする時のような無意識の場合」の存在することを支持できない。蹴鞠が、フム・フム・クウの三拍子を1セットの動作と捉えるとき、それは、意識的なものである。記に、「堅庭は向股(むかもも)に蹈みなづみ、沫雪(あわゆき)の如く蹶(く)ゑ散(はらら)かし、いつの男建(をたけ)び蹈み建(たけ)びて待ち問ひたまはく、……」とあるとき、明らかに意識して地面を踏んでいる。椅子に腰かけて足が地面や床に接している時、例えば半跏思惟像の片足などは、フムとは言わないように感じられる。論証のためには、本来、記紀万葉のすべての用例に当たるべきである。後考を俟ちたい。ここでは、万葉集にフミタツという語が鳥を追い立てる形容にしか用いられない点(「鶉雉履(ふ)み立て」(478)、「鳥蹋(ふ)み立て」(926)、「千鳥ふみたて」(4011)、「鳥ふみたて」(4154))、それ以外のフミ○○という複合動詞の用例(履(ふ)み起す、踏み越ゆ、蹈み鎮む、踏み平らぐ、踏み通る、踏み平(なら)す、踏み貫く、履(ふ)み求む、践(ふ)み渡る)も、動詞+動詞の関係にあって、後続の動詞が補助動詞化したり、フミが接頭語化したりしていない点、単独で使うフムという動詞の用例のほとんどに、それを明かすための対象物、「石」、「岩根」、「地」、「跡」、「雪」、「足」、「道」といった語(名詞)を伴って説明している点を挙げておく。無意識の、ないしは、単に立っている時の step on , tread on の際、フムという語は用いられていないと思われる。木村先生の概念規定のご説明では、観念の表れとしての言語、記号操作の出発点としての言語、イメージ抽象の元素としての言語、という立場に反するので説いておきたい。「始めに言葉ありき」にならないので困るのである。(つづく)

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