古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

和名抄の「文選読」について 各論

2015年04月07日 | 和名類聚抄
(承前)
 和名抄における「文選読」という字面に関し、具体例をみていく。

24.軒檻 漢書注云軒〈唐言反〉檻上板也檻〈音監文選檻讀師説於保之万〉殿上欄也唐韻云欄〈音蘭漢語抄云欄檻〉階陛木勾欄亦〈如本〉
 軒檻 漢書注に云はく、軒〈唐言反〉は檻上の板也、檻〈音は監、文選に、檻を師説に於保之万(おほしま)と読む〉は殿上の欄也といふ。唐韻に云はく、欄〈音は蘭、漢語抄に、欄は檻と云ふ〉は階陛の木の勾れるを云ふ。欄も亦なり〈本の如し〉。

 先に、「文選云」の例であげた「鏤檻文㮰」は、文選の張衡・西京賦にある。足利本(『和刻本文選 第一巻』59頁)に、チリハメタルヲハシマカサレルノキハアリと振られている。注に、「檻は闌也」、「闌上を名けて軒と曰ふ」、「軒は檻欄也」とある。現代の我々にとって、ヲからオへ転じてオバシマと訓むのに疑義はない。猿投本文選にもヲハシマとあるらしい(築島2015.631頁)。ところが、平安初期の大学寮の講義説といわれる「師説」によって、「於保之万(オホシマ)」と訓むとある。これが問題である。ホがバへ音転したとは考えにくい。
おばしま(伴大納言絵巻写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574901?tocOpened=1(15/34))
 源順は、檻は欄であると理解している。手すりの欄干のことは闌干とも書く。ただし、闌干には、入り乱れて多いさまをも表す。呉都賦に、「珠琲闌干」とあり、注に「闌干は縦横也」とある。縦横無尽の縦横であり、多いことを表す語ゆえ、それと混同してオホシマとこじつけられる。それを面白がって書いたとも考えられる。しかし、それを「読」という言葉で表す理由は見当たらない。
 割注のなかで、師説に檻をオホシマと読むと言っている。檻は、名義抄に、オバシマ、ヲリの2つの和訓が載る。鳥獣・罪人・狂人を入れておくところがヲリである。紀に「檻(をり)」(天武紀四年四月)と記されている。たしかに、オバシマとは、ボクシングやプロレスのリングから落ちないように設けられた柵のようなものである。ところが、ヲリという言葉は、「居(を)る」と同根の言葉とされる。同じ「居」の字をあてるヲルとヰルの違いは、ヲルに卑下や蔑視のニュアンスがこもっていることである。これは異なことである。オバシマがあるのは、高床の殿上で、偉い人々がいらっしゃる場所である。動物や罪人など、貶める相手ではなく、尊敬すべき人々の囲いがどうしてヲリなのであろうか。
殿上人の溜まり場の囲いなのに、ヲリとも訓んでしまうことの謎は、古事記によって解かれることになる。記の国生み章に次のようにある。

 次、生大島。亦名、謂大多麻流別〈自多至流以音〉。
 次に、大島を生みき。亦の名は大多麻〈上〉流別(おほたまるわけ)〈多より流に至るは音を以てす〉と謂ふ。(記上)

「麻」の字の下に小さく「上」の字が入っている。音注である。タマルは「溜まる」の意であることを示す。オホシマの別名はオホタマルワケ(大溜別)と言った。山口県の屋代島のことを指すとされている。シマ(島)という語については、その語源は明らかではないながら、「シマはシム(占)という語と関係があると思う。」(西郷2005.139頁)とする説がある。また、シマク(繞)とは、とり巻く、とり囲む意である。島は海がとり巻いている。すると、ヤシロジマ(屋代島)とは、ヤシロ(社)+シマ(島)のことで、社を取り巻く欄干のことを言っているように感じられる。社という語は、ヤ(屋)+シロ(代)の意である。しかし、シロについては、辞書の間に微妙な揺れがあり、西宮1990.に詳論されている。辞書式にまとめられた箇所を以下に引く。

 ●しろ〔代〕シル(領知)が原義。(一)占有する、特別な場所。①~となるための特別地。「苗代」「山代」。②~するための特別地。「矢代」「糊代」「城」。③秘密の占有地。④助数詞。土地の広さの単位。(二)領知する人・所・物・事。①代りの人・物・所。「親代」「御名代」「網代」「咲かぬが代に」。②代りの物が本物と同じ機能をもつもの。「物実」。(361頁)

 そして、ヤシロ(社)は、「屋を建てるために設けられた特別地」(361頁)のことが原義であるとする。注連縄などで囲って地鎮祭を行うように、地祇にまつわる所ということになる。廿巻本和名抄には、「地祇 周易に云はく、地神は祇と曰ひ、巨支反といふ。日本紀に云はく、地祇〈和名は久爾豆加三(くにつかみ)〉は或に〈夜之路(やしろ)〉といふ。」とある。地祇を祀って神社のヤシロは建つ。それに似た立派な作りの御殿には、神さまのような尊い人たちが溜まっている場がある。そのまわりをとり巻く囲いは、注連縄の変化したオバシマ(欄)に当たるということになる。
おばしま(戸越八幡神社にて)
 屋代島は記に、「大島」、また、「大たまる(溜)別」とあるから、オバシマはオホシマということになる。ふつう、タマル(溜)といえば、水が溜まることで、水を溜めるものは、槽(ふね)である。フネという語は、同じ形をしていて海に浮かぶ船にも用いられる。ふつうの人が乗る、あまり大きくないのがフネである。それに対して、高貴な人が乗る大きな船のことは、舶(つむ)という。

 乃ち進みて嶋郡(しまのこほり)に屯(いは)みて、船舶(つむ)を聚(あつ)めて軍(いくさ)の粮(かて)を運ぶ。(推古紀十年四月)
 [百済]参官等が乗る船舶(つむ)、岸に触(つ)きて破る。(皇極紀元年八月)

 2例はツムという古訓の付けられている箇所である。大型船に違いなのだからツムの訓に誤りはない。新編全集本日本書紀(③65~66頁)に、船舶の総称だからといった理由でフネと新訓を与えているのは誤りであろう。推古紀記事では、鉄でできた重たい武器を運ぶのに小船では沈んでしまう。そうでなくても、海水がかかったら錆びてしまう。皇極紀の記事は、百済に賜わった船舶が壊れたから、その後、百済からは、任那分も含めた大量の貢物が来ることはなかった。そういう含みを持っている。そして、ツムには、船べりに欄干が設けられていた。また、タマル(溜)には、物を積む意もある。どちらもツム(舶・積)である。西郷2005.が島と占との関係を指摘された箇所は、古事記の国生み章の初めの「淤能碁呂島(おのごろしま)」のところである。「其の矛の末(さき)より垂(た)り落つる塩、累(かさ)なり積もりて島と成りき。」(記上)とある。塩は貴重品であった。水がかかって溶け出して駄目にならないよう、船舶で運ぶためには鉄の武器同様、小型の船ではなく乾舷(freeboard)の高い大形の舶(つむ)に積むのが常識であったろう。今日、船の安全運航を図るため、適正な予備浮力を保つために、喫水線が規定されている。舶は喫水線から上の乾舷が十分に備わった船のことになる。
 陸上の、社、ないし、殿上に積んだものとは、水を溜めた槽ではなく、お酒を入れた樽であったろう。神さまにお供えするにも、高貴な人に献上するにも、飲み物といえば水ではなくお酒である。タル(樽)という語の上代の用例は、記102歌謡に「秀罇(本陀理(ほだり))」と見られるだけで乏しく不詳ながら、タル(垂)やタマル(溜)からタル(樽)という言葉が生れたとしても不思議ではない。以上、よくよく考えてみると、檻はヲリではなくてオホシマのことなのだと、師が仰っていたなぞなぞ的解釈が、なるほど尤もなことであると得心がいく。そこで、「読」という字を源順は使っている。なお、後にオバシマと言うようになった過程は未詳である。

28.玫瑰 唐韻云玫瑰〈枚廻二音今案雲母同見干文選讀翡翠火齊處〉火齊珠也

 玫瑰については、杉本1999.に次のようにある。

 玫瑰 唐韻云玫瑰〈枚廻二音今案和名与雲母同見于文選読翡翠火斉処〉火斉珠也
 〈与雲母同〉というのは[和名抄・玉類の]直前の〈雲母〉のことで、〈和名岐良々〉も示している点をさすと思われる。それよりも、〈見……処〉までがさしあたって問題なのである。十巻本も同様の指示が与えられているようであるが、[狩谷棭斎の]『箋註』では、〈見文選読、翡翠火斎(ママ)処〉とよんでいる。出典ではなく語の所在の指示ということになろう。〈翡翠火斉〉の語は当時の知識人には日常的といえるほどのことであろうが、念のために確認しておくと、『文選』の張平子〈西京賦〉の一部で、〈翡翠火斉絡以美玉〉というところである。〈火斉〉は〈玫瑰〉のことをさすのであるが、玫瑰の語はここにみえない。〈文選読……〉の真意は解しかねる。〈玫瑰〉の出典を『文選』に求めるならば、巻七の司馬長卿〈子虚賦〉に、〈其石則赤玉玫瑰琳琘昆吾〉などとみえるが、〈火斉珠〉との関連で考えれば、ここを引用しているわけではなさそうである。まして上でもふれたように、この事典の使用者の立場からいけば、迷惑というか、『文選』の〈翡翠火斉〉のところが参考になるならば、抜きだしてここに示してほしいわけである。後人の手になる挿入か。添え書きした書込みがまぎれこんでしまったのかもしれない。〈于〉の助字の使用も特別である。(117~118頁)

 狩谷棭斎・箋注和名類聚抄には、「……〈枚廻二音、今案和名与雲母同、見于文選讀、翡翠火齊處、〉……」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991786(89/104))とある。京本類と呼ばれる和名抄の諸本に、「于」は、「千」とも「干」ともとれる字体である。杉本1999.は「于」と見るが、筆者は、「干」の字と見る。

 玫瑰 唐韻に云はく、玫瑰〈枚廻二音、今案ずるに雲母に同じ。干に見ゆ。文選に、翡翠火齊の処を読む〉は火齊珠也といふ。

 和名抄に、「雲母 本草に云はく、雲母〈岐良々(きらら)〉は、赤多きは之を雲珠と謂ひ、五色具ふるは之を雲華と謂ひ、青多きは之を雲英と謂ひ、白多きは之を雲液と謂ひ、黄多きは之を雲沙と謂ふといふ。」とある。「干」は、琅玕を指す。和名抄には、「玉 四声字苑に云はく、玉〈語欲反、白玉は和名は上[シラタマ]に同じ〉は宝石也といふ。兼名苑に云はく、球琳〈求林の二音〉、琅玕〈良干の二音〉は皆美しき玉の名也といふ。」とある。文選では、司馬相如・子虚賦などに、玫瑰は出てくる。和名抄は其処ではなく、わざわざ翡翠火齊の処をあげている。班固・西都賦に、「翡翠火齊、流耀含英(翡翠ノ火齊、ひかりヲ流シ英ヲ含メリ)」、李善注に、「張楫が上林賦の注に、翡翠の大小、爵の如しと曰ふ。雄赤を翡と曰ひ、雌青を翠と曰ふ。韻集に、玫瑰・火齊は珠也と曰ふ。」とある。また、張衡・西京賦に、「翡翠火齊、絡以美玉」とあり、李善注に、「翡翠は鳥の名也。火齊は玫瑰珠也。」とある。いずれも、翡翠という語について、鉱石名ではなく鳥名と捉えている。そして、足利本(『和刻本文選 第一巻』61頁)に、「ハ子ノタマアテ、マツフニ美玉ヲ以テセリ」と振られている。青や赤の色にきらきらしている玉のことをいうものと考えている。
 ハネノタマアテなる訓は、中村1983.によれば、九条本には付されていないようであるが、和名抄の、「文選に翡翠火齊の処を読む」とある「読」はこれであろう。わざわざ「処」などと断ってあるのは、この意訳が気に入っていたからである。ハネノタマアテとは、羽根突きに使う羽子のことである。羽子の羽には、鳥の羽の美しいものを用いたようで、染色したものも使われている。それを、鳥の翡翠、カワセミのような美しい羽と謂っている。羽子が玫瑰という宝石で、それが火齊珠であるという。火齊とは、(a)美玉の名で雲母に似ているもの、(b)瑠璃の異名、(c)火加減のこと、(d)煎湯の薬名、のことを表す。(b)については、令義解・職員令に、「典鋳司 正一人。金銀銅鉄を造り鋳り、塗餝、瑠璃〈火齊珠也と謂ふ〉、玉造、及び工戸の戸口の名籍の事を掌る。」とある。(c)は、齊の整える意から、火加減のことを指している。それらの多義を含めるのが、羽子である。「御火焼(みひたき、ミ・キは甲類、ヒは乙類)の老人(おきな)」が火加減を整えるのと、鳥の鶲(ひたき、ヒ・キの甲乙不明)と鳥の瑠璃の近似性から、言葉の上で、羽子、玫瑰、火齊珠は重なっているのである(注1)。なお、漢語で玫瑰は、バラがてかてかの実を結ぶことにも通用している。
玫瑰(バラの意、神代植物公園案内板)
 バラのテカテカの硬い実に、カワセミの美しい羽をつけて、羽根突きをしようというのである。日の光を受けて行えば、突くたびにきらきらとしてきれいだよというのが一連の頓智話である。それを「玫瑰」の語の一項目内に書いてしまっている。それが可能なのは、文選の西京賦に、ハネノタマアテなる妙なる訓が施されているからである。よくよく考えて、なるほどそうだったのかというなぞなぞ的なよみ方だから、「読」という字が用いられている。

39.寒 文選云寒鶬烝麑〈師説寒讀古与之毛乃此間云迩古与春〉
 寒 文選に云はく、寒鶬烝麑〈師説に寒を古与之毛乃(こよしもの)と読む。此の間に、迩古与春(にこよす)と云ふ〉といふ。

 文選の曹植・名都篇に、「鼈(べつ)を寒にし、熊膰(ゆうはん)を炙(しゃ)にす。(寒鼈、炙熊膰。)」、同じく七啓に、「芳苓の巣亀を寒にし、(寒芳苓之巣亀、)」とある。足利本(『和刻本文選 第二巻』)に、前者は、「炮〈善作寒〉鼈炙熊膰」(667頁)とあって、「炮」の字にミマスニシテ、ニコヨスモノニシテ、「寒」の字にヤキモノニシテと振られている。後者は、「寒〈五臣作搴〉芳苓〈五臣作蓮〉之巣亀」(834頁)とあり、「寒」の字に、にニコシニシと振られている。中村1983.の九条本では、ニコヨスニシテ、ニコヤシニシ、ニコヨスニシ、コヨシモノニシといったルビが見られる。名義抄に、「寒 ……、コヨシ物 俗云ニコヨ爪(シ)」、「鯖 ……、ニゴヨシ」、色葉字類抄に、「寒 ニコヤス。鯖同。煮凝。同」とある。今日言うところの、にこごりという料理である。説文に、「寒 凍る也。人の宀下に在るに从ふ。茻薦を以て覆ひし下に仌有るなり」、集韻に、「𦙫 魚を煮、肉を煎るを𦙫と曰ふ。或に鯖に作る」とある。源順の説明では、先生は寒をコヨシモノと洒落たことを仰っていたけれど、最近ではニコヨスと言っているものだ、と語っている。
 時代別国語大辞典の「こゆ【凍・寒】」の項の【考】に、「なお、寒鶬烝麑〈師説、寒読古与之毛乃(コヨシモノ)、此間云邇古与春(ニコヨス)〉」(和名抄)「寒〈コヨシモノ、俗云ニコヨス〉」(名義抄)などのコヨスは、コユから派生した他動詞で、凍らせるの意であろう。コユのコは、凝ル・コゴシなどのコと語源的につながるとすれば、乙類であろう。」(313頁)とある。この解釈の若干の難点は、コヨスの近似形にコユ(凍・寒)、コル(凝)の形をあげるなら、コス(にこごりにする)という形になっていそうな気がする点である。コヨスと、使役形の如くなっている説明が施されていない。おそらく、魚などは煮付けておいてそれで完成なのであるが、一晩置いておいておいたら、ひとりでに勝手ににこごりになっていた、というように、主体的、積極的に作らんとして作るのではなく、大きな自然の力になすがまま、させられるがままに出来上がることを含意した言葉であると思われる。同じ気温下でも、素材の条件によって、できるものとできないものとがある。
カレイのにこごり(両目が上を向き、体色が腐った色に見える。古代にない醤油を使用。)
 食べ物のにこごりは、夏の暑いときには冷蔵庫がない時代にはできなかった。肉や魚から出たおいしい汁が、温度の低下で凝縮しゼラチン化する。「醴酒(こさけ、コは甲類)」(応神紀十九年十月)、「漿〈訓、古美豆(こみづ)〉」(華厳音義私記)、「白飲 四時食制経に云はく、冬宜しく白飲〈古美豆(こみづ)、今案ずるに、濃漿の名也〉を食すべしといふ。」(和名抄)と同じく、濃い汁の意を持っていると思われる。コ(濃)+ヨシ(寄)+モノ(物)である。「寒」はふつう、さむい、こごえる、ひえる、つめたい、ことである。冬場寒いとどうなるか。子どもの遊びが変わる。集まって押しくらまんじゅうをしている。コ(子、コは甲類)+ヨシ(寄)+モノ(物)となる。
 食べ物のにこごりは、折詰のような容器に盛った魚肉の周りに煮汁がとけ出し、それが再びかたまったものである。おそらくではあるが、これと同じ現象を、棺のなかに見たのではあるまいか。土葬して古墳に埋葬するのであるが、その前に、殯(もがり)を行うことがあった。天皇のような貴人の場合、長期間にわたっている。すると、遺体から肉汁がしみだしてくる。腐敗しないように氷を使って冷やすことは、礼記・喪大記に、「君には大盤を設けて冰を造(い)れ、大夫には夷盤を設けて冰を造る。士は瓦盤を併べて冰無し。(君設大盤冰焉、大夫設夷盤冰焉。士併瓦盤冰。)」とあって、実際に行われていたであろう。遺体を加熱したわけではないから、にこごり状に見えるケースは、たくさんの氷を使う「君」の場合に限られよう。この諒闇に当たる殯宮儀礼によって、ヒツギノミコ(太子、ヒ・ギは甲類)は、日嗣を行って、天皇の位に昇ることとなる。棺(ひつき、ヒ・キの甲乙不明)をよく守ったからである。棺をヒトキと訓む例があり、人木の意と解してヒは甲類、ト・キは乙類とする説があるが、なお未詳である。筆者は、棺(ひつき)のヒ・キは甲類ではないかと思う。にこごりのことをいう寒、コヨシモノに似た音に、「百済の太子(こよしむ)」(継体紀十八年正月、院政期前田本訓)とあるからである。古朝鮮語で王のことはコキシ、太子のことはコヨシムなどと発音した。太子が棺の中の寒(こよしもの)を確認して、日嗣の儀式を執り行わせられるのである。太子などというものは、王の後ろ盾があって成り立っているもので、天皇の死後にそのまま自動的に天皇に即位できるのではなく、豪族たちの合意が得られなければ他の人に皇位は巡って行ってしまうものであった。よって、太子という存在自体が、使役形に表されてしかるべきで、古朝鮮語発音のコヨシムは、なるほど納得の言葉として倭の人に受け入れられたのであろう。そして、にこごりとの関係から、ヒツギノミコのこととまったくもって合致する、すごい頓智話であると源順は驚嘆し、「読」と記したに違いあるまい。

41.属鏤 廣雅云属鏤〈力朱反文選讀豆流岐〉劔也
 属鏤 広雅に云はく、属鏤〈力朱反、文選に豆流岐(つるき)と読む〉は剣也といふ。

 属鏤は、呉王夫差が伍子胥に死ぬように与えたとされる名剣の名である。史記・呉太伯世家に、「呉王聞之、大怒、賜子胥属鏤之剣以死。」とある。「子胥に属鏤之剣を賜ふ」との記事は、春秋左氏伝・哀公十一年条にも載る。文選には、張衡の呉都賦に「抜揄属鏤(属鏤を抜(ぬ)き揄(ひ)く)。」とある。史記にあった「之剣」が脱落している。足利本(『和刻本文選 第二巻』141頁)に傍訓はないが、九条本(中村1983.171頁)には、「屬-鏤」の「屬」字の右下から「鏤」の字の右下までには「ノツルキヲ」と振られている。つまり、「属鏤」は、ショクルノツルキといういわゆる文選読みによって読まれ、理解されていた。
 数ある名剣のなかで、わざわざ和名抄が「読」と断って取りあげたのには、属鏤という字面からツルギと訓ずべき意を読み取ったからであろう。説文に、「属は連なる也」、また、鏤は、「剛鐵なり。以て刻み鏤(ゑ)る可し。金に从ひ婁声。夏書に曰く、梁州は鏤を貢すといふ。一に曰く、鏤は釜也といふ」とある。鏤は鋼(はがね)の意味だから、属鏤は固有名詞のはずであるものの、その字義は、刃が刀身のまわりを連なっていることとなっており、両刃の剣のさまをよく捉えている。ヤマトコトバに直しても、連なるのツルと、牙のキ(キの甲乙不明)の意になっている。よって、属鏤でツルキと訓むと一応納得できる(注2)
 しかし、その程度のことなら、「云」と記し、「読」と断る必要はない。鏤の字の説文に見える釜の義は興味深い。説文の記事に、今の四川省と陝西省に当たる梁州は、お釜を貢物にして献上していたらしい。お釜は竈に用いられる羽釜(はかま)のことである。鍔がついていて竈の縁にぴったりとはまってかかり、煙も漏れず炉中に落ちることもない。同様に鍔がついているものに大刀(たち)があり、鯉口の仕掛けなども手伝い、鞘に納まって抜け落ちることはない。その鞘には、腰に佩かせるために帯取を通す足金物(一の足・二の足の山形金)が拵えつけられている。つまり、属鏤という字面から、佩かせる大刀の意が直感されるわけである。どうして落ちないのか、その秘密は鍔にある。ひっかかる仕掛けは、一方は羽釜、他方は袴(はかま)である。大刀を腰に佩くのは、参朝するときの礼式であり、袴を着用する。鞘の足金物につけた帯取を大刀の緒が絡めて袴の上に巻く。どちらもハカマ。なるほどの頓智、お呪いのように符合している。「読」に値する言葉づかいである。
羽釜と竈(横浜市の古民家)
鍔(草花文鍔、無名.古美濃、16世紀、室町時代、東博展示品)
梁州(「大明地理之図」、文化11年(1818)模写、細谷良夫氏寄贈、東洋文庫ミュージアム展示品)
 応神記歌謡に次のようにある。

 誉田(ほむた)の 日の御子 大雀(おほさざき) 大雀 佩かせる大刀(たち) 本吊(つる)ぎ 末振ゆ 冬木の 素幹(すから)が下木の さやさや(記47)

ツルグは本末で「振ゆ」と対比されているから、他に用例は見ないものの動詞であることに間違いない。剣のもとの方はしっかりと吊るされており、先の方はぶらぶらと振れている、という意味である。刃物そのものを表す大刀と、それを鞘に納めて帯刀可能となった剣(つるぎ)とは、言葉としてきちんと分けて考えられている。吊るすことのできる鞘のついた大刀はツルギタチという連語でも表す。タチツルギという本末転倒な言葉がない点については、竹光との関係で考え直さなければならない別の話である。景行記に、倭建命(やまとたけるのみこと)が出雲建(いづもたける)を打ち殺すとき、「窃(ひそ)かに赤檮(いちひ)以て詐(いつはり)の刀(たち)に作りて、御佩(みはかし)と為て、……」とあり、行水の時に刀を易えたという話が載る。もちろん、「出雲建、詐の刀を抜くこと得ず。」となった。とても卑怯な仕業と思われるが、倭建命は御歌を歌っている。

 やつめさす 出雲建が 佩ける刀(たち) 黒葛(つづら)多(さは)纒(ま)き さ身無しにあはれ(記23)

 そして、属鏤という固有名の剣は、そもそも呉王夫差が忠臣の伍子胥に、これをもって死ぬようにと与えた剣の名であった。伍子胥は、呉の国によく仕えた。闔閭、夫差の二代の王のもとで働いた。最後はあらぬ疑いをかけられて、自害させられることとなった。その時、「必樹吾墓上以梓、令以為器。而抉吾眼呉東門之上、以観越寇之入滅呉也。」(史記・伍子胥列伝)と言っている。自分の墓の上に梓の木を植え、それで夫差の棺桶が作れるようにしてくれ。自分の目をくりぬいて東の宿敵、越を向く城門の上に置いてくれ。越兵が呉を滅ぼすのを見られるように、と言い残した。墓に納まってまでも呉の国のことに思いを致すほど、激情的に諫言する人物であった。ハカマの話が元へ戻っている。墓まで呉の国に尽くそうとしている。確かに、ツクシにはハカマがあり、それをこまめにとってから湯がかないと、えぐみ(苦味)が残って美味しくない。伍子胥は、越王勾践に勝利した際、「越王為人能辛苦。今王不滅、後必悔之。」と夫差に諫言したが、聞き入れられなかった。越王は、臥薪嘗胆の末に力を蓄え、呉を滅ぼすこととなった。「孔子曰、良薬苦於口、而利於病。忠言逆於耳、而利於行。」(孔子家語・六本)の教えのとおりになっている。中国でもそうなのである。ヤマトコトバでも頓智は日々の生活にまで根づいている。源順は漢籍に精通していたから、この対称からしてもどう転んでも「属鏤」はツルギと読めてしまうのである。
 飛鳥時代に、伍子胥に準えられそうなほど諫言して憚らない大臣がいたらしい。蘇我馬子である。天皇の唱和した歌に次のようにある。

 真蘇我(まそが)よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒 太刀ならば 呉の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき(推古紀二十年正月、紀歌謡103)

「諾し」は、事情が尤もであるというときに使う言葉である。「呉の真刀」とは「属鏤」を表している。伍子胥のように誠実に仕えているから、「諾し」と言っている。別に死ねと言っているわけではない。呉王夫差とは違って推古天皇は器が大きく、国は滅びない。推古朝に伍子胥が知られていたかと言えば、逸話として知られていたのではないかと思う。推古天皇と聖徳太子と蘇我馬子のトロイカ態勢は、政治を安定させていた。なれ合い、もたれ合いで、長期的な政治的安定は可能ではない。

42.叉 六韜云叉〈初牙反文選叉簇讀比之今案簇即鏃字也〉両岐䥫柄長六尺
 叉 六韜に云はく、叉〈初牙反、文選に叉簇を比之(ひし)と読む。今案ずるに、簇は即ち鏃の字也〉は、両岐の鉄にして柄の長さ六尺なりといふ。

 叉蔟はさすまた、または漁具のやすのことである。叉とあってヒシと訓むのは難しい。それを解消してくれるのが、文選の読みである。張衡の西京賦に、「叉蔟之所攙捔」とあり、足利本(『和刻本文選 第二巻』71頁)、九条本(中村1983.70頁)に、ともに文選読みで、ササクノヒシノサシクスヌルトコロと訓むように振られている。築島2015.に、「「クスヌク」は「串(クス)貫(ヌ)く」の意であろう。……古点本類には他に用例を見ない語である。」(627頁)とある。このクスヌクの語義解釈は誤りであろう。叉蔟は二股になっている刺叉のことだから、一本槍とは刺し方が違う点を表す言葉として考案されていると考えられる。西京賦のこの節は、天子の狩猟について書かれている。「竿殳之所揘畢」に続いている。竿殳は竹製のほこ、揘畢は戟などで突き刺す意である。動物を一本槍で突き刺して貫通させ、木にとどめた場合、一箇所では体をよじらせくねらせ七転八倒する。しかし、二股のフォーク状である叉の場合、二箇所でとめられているから胴体を動かすことはできずに手足のみバタバタさせることになる。
矢じり他(武蔵国府関連遺跡出土品、8~10世紀、府中市郷土の森博物館展示品)
 すなわち、クスヌクのクスは、クスネルのクスである。掏摸(すり)が他人の懐へ手を差入れて財布を抜き取る時、人差し指と中指とをもって、紙入れを抜く。じゃんけんのチョキの指二本で仕事をするわけである。「掏(す)る」という語については、猛禽類が幼鳥を捕らえる用例が平安後期にある。古い時代に紙入れはなかったかもしれないが、クスヌクとは、そういった業師のする所作を表現している。日本人は箸を使うから、子どもに箸の使い方を教えるのは、掏摸の手ほどきをしているようなものであるとの陰口も聞かれる。

 掏摸は相当の修練を要するからね。殊に指先きだけの仕事だから、年老いて指先が硬くなつたり、震えがきては仕舞で、盛りは十七八歳位から三十歳位で、彼等は指先きを大切にすると共に、節制して酒など飲まない者さへあるといふ話だ。その証拠に仕立屋銀次の全盛時代に〝何の某〟と相当に名を売つた腕達者の掏摸が、久々で出獄して〝俺も昔とつた杵束〟と掏摸を働いて、すぐ捕へられてゐるのでも判るであらう。だから働き盛りの犯人は、美しく軟かい手をしてゐて、指頭で物を挟んで持つ力が強い。彼等は示指と中指の間、中指と環指の間の指頭に挟んで、重い蟇口を抜き取るのだ。(楠瀬1941.20頁)
 はじめは、大きなどんぶり・・・・に盛った砂の中へ人指ゆびと中ゆびを突きこみ、その砂の中で二本のゆびをしめたり放したり、砂の圧力に負けず自由自在にゆびがうごくまで訓練をさせられる。掏摸の業は、この二本のゆびによっておこなわれる。財布をはさんでぬき取り、これを電光のごとく、わが懐中へ移行させるには、二本のゆびが恐るべきちからをそなえていなければならないのだ。(池波2000.107頁)

 古代から連綿として存在し続ける業師には、なにより忍術使いがいる。重要書類を掏り取ったり、重要情報を覗き聞き取ったりするのが仕事である。取られた方は気づいてから、追いかける。逃げる側の忍びの者は、逃走道具として、蒔菱を道に蒔く。追手は、刺のある菱の硬い実に足の裏をとられ、先へ進むことができない。菱の実は、針が一本ではなく、テトラ形の隅が尖っていて、刺さる時は2点で刺さるようである。画鋲を蒔かれるよりも始末が悪い。これは刺叉と同じ効果があり、身動きが取れなくなる。そして、この和名抄の記述から、鉄製の蒔菱がはやくから作られていたことがわかる。
蒔菱(忍者オフィシャルサイトhttp://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=21)
伸子針の利用(左:張殿、三十二番職人歌合模本、原1494年、1838年模、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E5%BC%B5をトリミング、右:年中行事絵巻京大本巻第十三、京都大学文学研究科図書館所蔵、京都大学貴重資料デジタルアーカイブhttps://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000030(212/221)をトリミング、令和3年1月14日特別利用許可No. 京大文図掲18号)
 文選に「叉蔟」なる語は他に見られないから、源順はこの刺叉と蒔菱の関係を「読」んだに違いない。和名抄に「叉簇」とあって竹冠なのは、簇の字が、撿や箴子、伸子とも書くシンシ(シイシ、シシ)のこと、今では伸子針とふつう呼んでいるもののことをいうからであろう。シンシとは、布を染めたり洗い張りをするとき、布の巾の両端に弓形にさし渡して均一に広げ、皺を伸ばす竹串のことである。割竹を細く丸く削り、両端には真鍮製の針がついていて、布地に挿してぴんと張り渡す。その古い形は竹だけでできたもので、その両端を二股に尖らせたものである。京大本年中行事絵巻の図は、手前の人物があやつる伸子針の先端が二股に分れていることを誇張的に描いていると見受けられる。鎌倉期の字鏡集に、「簇、シヒシ」とあり、また、人倫訓蒙図彙に、「簇削」の項がある。
左:真鍮製、右:二股(「日々あれこれ きものあれこれ」ブログhttps://chiya99.exblog.jp/1638603/)
「簇削」(源三郎絵・人倫訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945297/1(106/162)をトリミング)
 簇師(しいしけづり) 都の詞に、簇(しいし)を、しんしといへり。田舎はづかしき片言(かたこと)なり。張物師(はりものし)これをもちゆ。巻物、絹、品々のわかちあり。大仏近辺所々に住す。此見世に、竹のひき粉、田楽串(でんがくぐし)編竹(さゝら)等これをうるなり。(朝倉1990.191頁)

 「簇(しひし)」とヒシの音が含まれている。口ずさみの洒落にもなっているが、刺叉張りにとめられるから布地は動きが取れないのである。菱の実の尖った部分が、二股の伸子針の先端と形状・効用が同じであると見たのであろう。なるほど納得の「読」みということになる。

54.冠 野王案溪鳥勅鳥頭上有毛冠〈冠讀佐賀文選羽毛射雉賦冠雙立謂之毛角耳〉鳥冠也爾雅注云木兎似鴟而毛冠〈今案此間名同上但獨立謂之毛冠雙立謂之毛角耳〉
 冠 野王案に、溪鳥・勅鳥の頭上に有る毛の冠〈冠は佐賀(さか)と読む。文選の羽毛射雉賦に、冠の雙つ立つは之れを毛の角耳を謂ふ〉は鳥の冠也とす。爾雅注に云はく、木兎は鴟に似て毛の冠ありといふ〈今案ずるに此の間、名は上に同じ。但し、独つ立つは之れを毛冠と謂ひ、雙つ立つは之れを毛の角耳と謂ふ〉。

 「溪鳥」、「勅鳥」については、各一字で、「▲(溪冠の下に鳥)」、「𪃠」かもしれない。文選の射雉賦に、「朱冠の赩赫(きょくかく)たるを摛(の)べ、……雙角(さうかく)特(ひとり)起(た)つ。(摛朱冠之赩赫、……雙角特起。)」とある。ただし、源順は、「今案」ずるところでは、二つ立つのは「角耳」で、一つのが「毛冠」とされるようになってきていると考えている。それはともかく、顧野王の玉篇を見たらしく、鳥の頭の上の毛の冠とされるところを、サカと「読」んでいる。妙なる和訓だと思っている。
雉(グールド『アジアの鳥類』ロンドン刊、1850~83年、東洋文庫ミュージアムデジタルブック展示)
オナガドリ(上野動物園)
 源順は、鳥の「冠」をサカと「読」むことに感心している。これについて筆者は、景行記の「酒折宮(さかをりのみや)」は、蚊帳を吊った宮所で、檻の機能が逆転していることを論じた(注1)。「東国(あづまのくに)」でのお話である。紀では、「東国(あづま)の檝取(かとり)の地(つち)」(神代紀第九段一書第二)とあるのが早い用例である。やはり、東国と蚊取りとは関係があると考えられていたらしい。アヅマに掛かる枕詞に、「鶏が鳴く」がある。万199・382・1800・1807・3194・4094・4131・4331・4333に用例がある。時代別国語大辞典に、「東国(アヅマ)にかかるが、かかり方未詳。鶏が鳴くぞ、起きよ吾夫(アヅマ)、の意とも、鶏が鳴くと東より白みそめるからとも、東国のことばは中央の人には鶏の鳴くように聞えたのであろうともいわれる。」(509頁)とある。この場合、鶏はカケ(ケは甲類)ともいう今日ニワトリと称される類のものである。鳴き声のコケコッコーは、カケカッケーと聞こえたらしい。

 …… さ野つ鳥 雉(きぎし)は響(とよ)む 庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴く ……(記2)
 庭つ鳥 かけの垂れ尾の 乱れ尾の 長き心も 思ほえぬかも(万1413)
 里中に 鳴くなる鶏(かけ)の 呼び立てて いたくは鳴かぬ 隠妻(こもりづま)はも(万2803)

 和名抄に、「獣 爾雅注に云はく、四足にして毛なるを獣〈音は狩、介毛乃(けもの)〉と曰ふといふ。野王案に、六畜〈音は宙、一音に敕、介多毛乃(けだもの)〉は牛馬羊犬鶏豕也とす。説文に云はく、牝〈音は臏、米介毛能(めけもの)〉は畜の母也、牡〈音は母、乎介毛乃(をけもの)〉は畜の父也といふ。」とある。鶏は家畜である。卵を食べた。鶏を飼う場合、鳥籠、すなわち、檻などには入れず、庭に放し飼いである。飛んで逃げて行ったりしない。ふしろ鶏の方が野獣を恐れて家にいつき、夜間などは家の中へ入れて保護する。卵は庭のどこかで産んでいるから探せばよい。小さな「四阿(東屋、亭)(あづまや)」を設けておいて餌場にしたりする。雨でも濡れないためである。アヅマヤにアツマルのだから、「鶏が鳴く」はアヅマに掛かる枕詞であるといえる。
「色絵四阿舟図鉢」(有田古九谷様式、江戸時代、1650年代、径34cm、松岡美術館展示品)
 そんな鶏にはトサカ(鶏冠)がある。肉冠である。重いせいか片方に傾いている。歩くたびに揺れている。コンドルやホロホロチョウにも見られるものであるが、本邦で知られるのはニワトリに限られよう。景行記に「御火焼(みひたき)の老人(おきな)」が歌を応酬して、「東国造(あづまのくにのみやつこ)」に任じられていた。下級の侍者、サムラヒ(侍)であるから、侍烏帽子を被っていた。角折烏帽子であったろうし、古くはそれを固めない萎烏帽子であったとされる。びらびらの鶏冠によく似たものと捉えられたであろう。すなわち、「御火焼の老人」のような下っ端は、酒折宮で文字通り蚊帳の外の存在であったところを、皮肉いっぱいの歌を返したことで、檻に示唆されるように、立場が逆転することを物語っていた。酒折宮では、外の方がミヤ(御屋)なのであった。その象徴として、高位の人が被るカガフリと、低位の人が被るエボシとの対比、反転があった。よって、鳥にある冠は、カガフリではなく、サカと「読」むことが納得されるわけである。

70.大角豆 同[崔禹食]經曰大角豆一名白角豆〈佐々介〉色如牙角故以名之其一殻含数十粒離々結房〈離々讀布佐奈流見文選〉
 大角豆 同経に曰く、大角豆は一名、白角豆〈佐々介(さゝげ)〉といふ。色は牙角の如し、故に以て之れを名づく。其の一つの殻に数十粒を含む。離々は結房なり〈離々は布佐奈流(ふさなる)と読む。文選に見ゆ〉。

 「離々讀布佐奈流見文選」とある。文選の蜀都賦に、「朱実の離離たるを結ぶ(結朱実離離)」とあって、文選集注には、「毛詩曰、其実離々。毛萇曰、垂皃也」とある。詩経・小雅・湛露に、「其の桐其の椅(い)、其の実は離離たり。(其桐其椅、其実離離)」とある。源順は、「見文選」と、テキストを見て「離々」をフサナルと読んでいる。「離々結房」なる字の連なりそのものについては、文選に由来するものではなさそうである。
 ササゲは、「荳角皇女(ささげのひめみこ)を生む。荳角、此には娑佐礙(ささげ)と云ふ。是伊勢大神の祠に侍り」(継体紀元年三月)とあり、当時から植物として本邦に見られていたことと、神に捧げることと関係する名と考えられていたと推測される。マメ科植物のササゲは、古代に大陸から伝来したもので、ササゲ、ジュウロクササゲ、ヤッコササゲなどの栽培品種がある。そして、種実を乾燥させて食べる場合と、若い莢を湯がいたりして食べる場合がある。豆は小豆同様、赤飯や餡に用いられる。その用いられ方は、民俗として複雑で、容易には理解しえない。葬式に赤飯があったり、仏事には小豆の代りにササゲを用いるなど、地方によって、あるいは、身分によって分れる。炊いた時に身が硬いから割れにくく、切腹をイメージさせないといった理屈づけが行われているようである。そして、今日、急速に栽培されなくなり、岐阜県、岡山県、沖縄県などでわずかに作られたものが全国に流通している。戦時下では、例えば、『戦時農園講義録(第三輯)』というチラシに、「豆類の作り方 第一課 インゲンとササゲの作り方」が特集され、栽培が奨励されていた。
 この際問題なのは、そのマメ科植物を、ササゲと命名している点である。莢が上を向いてついて捧げるようだからとの説が有力視されている。すると、ソラマメが空を向いていることから名づけられたというのが正解ならば、名が逆転する可能性もあったことになる。ソラマメ命名の話は措くとして、筆者は、ササゲの名の由来は、今日感じられているほど単純ではなく、複雑で込み入っているものを感じる。モノに名をつけるという作業は、言葉が口伝て以外に伝わらなかった時代には、今日のコピーライターと違って安易ではなかった。
植物のササゲ(株式会社トーホク様「ササゲ」http://tohokuseed.co.jp/list_seed/vegetable/sasage.html)
袖口のササゲ(歌舞伎衣装振袖 紅縮緬地桜流水模様、江戸時代、19世紀、板東三津江所用、高木キヨウ氏寄贈、東博展示品)
 上の着物のササゲはきわめてデコレートされたものである。元来は、装束の鰭袖(はたそで)の袖口に紐を通して、狩猟、演武、作業などの際、袖が邪魔にならないように括り緒を絞ることに由来する。袖括りである。狩衣、水干、直衣、布衣、直垂などの袖口にうまい具合につけられている。作業時に袖を括ると、紐が二本、ハの字形に垂れる。偉い人が着る袍や十二単にはついていない。作業はしないから、袖が邪魔になるということはない。すなわち、「荳角皇女……是伊勢大神の祠に侍り」の衣装は、袖括りのある白衣(はくえ・びゃくえ)を着、袖を括って神に捧げ物をしていたと思われる。その袖括りの紐の垂れる様子は、まさに「捧げ」ている姿としてふさわしいからササゲと呼ばれ、その形にそっくりのマメ科植物の莢も同時にササゲと呼ぶようになったのではないか。下二段動詞ササグの連用形に由来する語で、ゲは乙類である。和名抄に、「離々結房」とあるのも、括り紐が歌舞伎衣装ほどでなくとも組紐様で、二本が一組でそれぞれ太細太細の連なりに見立てられたようである。それぞれが離れ離れに中に実をおさめている身(莢)になっている。
 しかし、それぐらいのことでは、源順は「読」という語は使わないであろう。源順は、文選に「離々」という語を「見」たといっている。蜀都賦の、「朱実の離離たるを結ぶ」の箇所を見ている。そして、フサナルと読んでいる。「離々」という語については、易経に、「離 ☲☲〈離下離上〉(離為火(りいか))」の項に、「離は、貞(ただ)しきに利(よろ)しくして享(とほ)る。牝牛(ひんぎう)を畜(やしな)へば、吉。(離、亨利貞、畜牝牛、吉。)」とある。牝牛の特徴は、チーズ(蘇)が食べられていたことから考えて、乳牛であれば大きなおっぱいである。乳房は左右に2つずつ、垂れている。よって「房なる」と解したのであろう。そして、釈書に、「離は、麗(つ)くなり」とある。離れているはずが、くっついているというのである。易の考え方は物が極まったら則ち反るというもので、同音のリの字を持ってきて説明しているのである。蘇は貴重品で、神ならびに天皇へ捧げられるものであったのであろう。以上のことから、まったく仰る通りの「読」みであるということができる。
離(TRIGRAM FOR FIRE(Unicode2632))
 続紀の、「霊亀」が献上された時の説明文に、「前の脚に並びに離の卦有り。後ろの脚に並びに一爻有り。(前脚並有離卦。後脚並有一爻。)」(霊亀元年(715)八月)とある。亀の脚の皺を卦の記号に準えるほどであったようである。亀の前脚とは、カメノテ(亀の手)のことを洒落ていると思われる。海辺で目にするカメノテは、古語に、セ(石花)といった。時代別国語大辞典に、「【石花】(名) かめのての類をさすといわれる。かめのては、甲殻類の海産節足動物。体は多数の石灰片に覆われ、頭状部の幅四センチ、長さ三センチに達し、わが国沿岸の満潮線の岩石に塊状をなして群棲する。潮が満ちると石灰片の間から肢を出して活動する。雌雄同体、食用となる。」(396頁)とあり、和名抄に、「尨蹄子 崔禹食経に云はく、尨蹄子〈勢(せ)〉の皃は犬の蹄に似て石に付き生く者也といふ。兼名苑注に云はく、石花〈或は華に作る〉は二三月、皆舒紫の花を石に付けて生く、故、以て之れを名づくといふ。」とある(注3)。時代別国語大辞典には、「【考】棭斎は箋注和名抄で、かめのては石蜐のことであって、「石華」とは、別のものだとしている。文字の上からは、現在のふじつぼの類の方が、「石華」らしいが、未詳。なお、文選江賦、李善注に「善曰、石華附石生、肉中啖」とある。」(同頁)とある。狩谷棭斎のいうところは、動物の形からするとカメノテは亀の手でもって中国にいうところの石蜐に当たり、和名抄にある「石花」・「石華」は文字からするとフジツボ類に当たるというのである(注4)。筆者は、「離々」の解説から、この混同を混同のまま捉えることを提唱したい。カメノテ・フジツボとも、甲殻類の蔓脚類(まんきゃくるい)に分類されている。
カメノテとフジツボ(残)(葛西臨海水族園)
カメノテ・フジツボ類標本(国立科学博物館)
 すなわち、霊亀の亀の手に表れた卦の記号、☲☲は、離々である。左右に手は二つあるから、離れ離れである。それがフサナルようになっている。植物の「藤(ふぢ)」(以下、フヂと表記する。)の花の壺状の房を、言葉として表すなら、それは「ふぢつぼ」(以下、フヂツボと表記する。)といえるであろう。ササゲのようにフサナル様子をしている。一輪花の、例えばボタンやタイサンボクのような花は、マリ(椀・碗)と表現されるのではないか。そのフヂの花(華)の壺状の形で、しかも紫色をしたものに、カメノテ同様に潮だまりのできるような岩肌についた石みたいなフヂツボという似た生きものがいる。ということは、カメノテもフヂツボも、思考回路の上ではぐるぐるっと回って同じ円環上にある。
上村松園「藤娘之図」(大正初期、絹本着色、松岡美術館展示品)
 観念そのものである言葉の上で、同じ言葉にしてしまうことは、とてもエレガントな洒落になって面白味があるということになる。古語、セによって、カメノテもフヂツボも表したのであろう。なにしろ生息地が海のセ(瀬)である。瀬という語が、海に用いられている例に、「潮瀬(斯本勢(しほせ))」(記歌謡108)とある。海の瀬の潮だまりという壺型の淵にくっついているのがフヂツボである。そして、同音の背(せ)とは、背中のことである。諸々の古辞書の「背」の訓にはセナカとあるが、万葉集ではセの音に「背」の字を使い、「軽く母の脊(せ)を超ゆ」(欽明紀七年七月)とある。霊亀の亀の手の模様が、☲☲印であったことは、人の背(脊)中の特徴とよく似通っている。背筋と背骨との形である。背筋は左右に離れ離れに「━」、その間にある背骨はとぎれとぎれの「- -」である。よって、卦の形、☲ができている。そして、「離々」と畳語となっている。仁賢紀の「母にも兄(せ)、吾にも兄」(仁賢紀六年九月)の頓智とは、「秋葱(あきき)の転(いや)双(ふた)〈双は重なり〉納(ごもり)、思惟(おも)ふべし」と解されていた(注5)。秋のネギに、2つの軸が1つになって茎を形成していると譬えていた。つまり、セが「転双納」状態になっているのが、「離々」とフサナルことの根本原因なのである。秋のネギは、根本、植物学的には根と葉の間にわずかに茎があるということであるが、1本である。袖括りで結んで垂れた紐は、ぐるっと回ってもとは1本である。牝牛の乳房は、牝牛の胴体1つから出ている。亀の前脚は、亀の胴体1つから出ている。海辺のカメノテもフヂツボも、石蜐であれ石花(華)であれ、もとは石1つである。以上いろいろ考えた挙句、「離々」をフサナルと「読」むことは、とても深いよみ方であると源順によって感動的に裏付けられたのである。

(注)
(注1)拙稿「「かがなべて」考」参照。
(注2)拙稿「剣大刀(つるぎたち)について」参照。
(注3)「尨蹄子」は、古辞書に、セエ(本草和名)、セイ(名義抄)とする例がある。それについて、日本国語大辞典に、「京都方言では一音節語について、短呼と長呼との関係は特定の環境では動揺していたと考えられ、一字で表記されていても実際には長呼される場合があった可能性がある。」(1124頁)とある。「蚊」も、カア(華厳音義私記・最勝王経音義)と呼んでいたとする例もある。時代別国語大辞典に、「現在の関西方言と同じく、一音節語をながく発音する傾向があったことを示すといわれている。」(170頁)とある。要するに、今日的な表記では、セー、カーと記せばよい音ではないか。上述のセ(尨蹄子=石華&石蜐・背・瀬)の洒落は、いずれにせよ成り立つと考える。一音では聞き取りにくいから、今でもセイクラベ(背比べ)、セエガタカイネ(背が高いね)などという。また、名義抄に、「龜 セナカ」ともある。
(注4)平安時代、飛香舎を藤壺と呼ぶことに関して、いかなる知恵が潜んでいるのか、筆者にはわからない。
(注5)拙稿「仁賢紀「母にも兄、吾にも兄」について」参照。

(引用・参考文献)
朝倉1990. 朝倉治彦校注『人倫訓蒙図彙』平凡社(東洋文庫)、1990年。
池波2000. 池波正太郎「女掏摸(めんびき)お富」『鬼平犯科帳2』文芸春秋(文春文庫)、2000年。
楠瀬1941. 楠瀬正澄『掏摸の行方』人文閣、昭和16年
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第一巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
杉本1999. 杉本つとむ「『和名類聚抄』の一考察」『杉本つとむ著作選集6―辞書・事典の研究Ⅰ―』八坂書房、1999年。
『戦時農園講義録(第三輯)』 東京都経済局農務課監輯『戦時農園講義録(第三輯)』東京都宣伝協力会、昭和十九年五月。
築島2015. 『築島裕著作集第二巻』岩波書店、平成27年。
中村1983. 中村宗彦『九条本文選古訓集』風間書房、1983年。
西宮1990. 西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成2年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部『日本国語大辞典 第二版 第七巻』小学館、2001年。
『和刻本文選 第一巻』 長澤規矩也編『和刻本文選 第一巻』汲古書院、昭和49年。
『和刻本文選 第二巻』 長澤規矩也編『和刻本文選 第二巻』汲古書院、昭和50年。

※本稿は、2015年4月稿を2020年8月に整理し、2021年1月に追記したものである。

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