古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

法興寺蹴鞠 其の四

2015年07月16日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
 蹴鞠に関する事項として、衣装の文様としての鞠もある。黒田智「ニワトリ 神意を告げる霊鳥」中澤克昭編『人と動物の日本史2;歴史のなかの動物たち』(吉川弘文館、2009年)に、興味深い議論が展開されている。
鶏装束(十二類歌合絵巻(網野善彦・大野廣・佐竹昭広編『鳥獣戯語』福音館書店、1993年、115頁より)
 ……『十二類歌合絵』の一場面を見てみよう。ある秋の夜のこと、十二支の動物たちが歌合わせの会をもよおした。そこへ呼ばれもしないのにあらわれたタヌキが、袋だたきの憂き目にあってしまう。あわれタヌキは、卯杖(うづえ)をふりかざすウサギや蹄(ひづめ)で蹴飛ばそうと首を沈めるウマ、今にも踏みつぶしてやろうと近づくウシにとり囲まれてしまう。そこにニワトリも加わり、『蹴伏せてくれむ(蹴倒してやろう)』と左足を前方につき出して駆け寄る。しかも、ニワトリが着ている直垂(ひたたれ)の衣紋(えもん)をよく見てみれば、蹴鞠(けまり)用の鞠の文様(もんよう)がちりばめられているではないか。 なぜニワトリの衣紋に鞠が描かれたか。それは、ニワトリが『蹴る』動物であったからにほかならない。
 古来、ニワトリは、異類が跋扈(ばっこ)する闇夜の終焉を知らせ、人間が生きる暁の訪れを高らかに宣言する霊鳥であった。『古事記』では天の岩戸に隠れた天照大神を迎える『常世(とこよ)の長鳴き鳥』であり、『伯耆(ほうき)国風土記逸文(ふどきいつぶん)』では鳴いて地震を知らせたともいう。和歌では、四境祭(しきょうさい)に由来する『木綿(ゆう)付(つ)け鳥』の呼び名でさかんに詠まれた。神社に放たれたニワトリで神占(かみうら)をしたり、ニワトリの格好で舞い踊る神事は、列島各地で広く行なわれていた。だから、霊鳥であるニワトリの『蹴る』行為は、神罰を下すことと同じであった。……
 二羽のニワトリを左右につがえて蹴り合わせる鶏合わせ=闘鶏は、もともとその勝敗により神意を判定する神占であった。とりわけ春にもよおされる鶏合わせは、『蹴る』行為を通してその年の五穀豊様を祈願する年占としての性格をもっていた。『平家物語』では、熊野別当湛増(くまのべっとうたんぞう)が新熊野社(闘鶏神社)の神託(しんたく)を疑い、鶏合わせによって命運を占っている。社前で赤と白のニワトリを闘わせたら、すべて白鶏が勝利したため、白旗を掲げる源氏に味方することを決めたという。鶏合わせは、日本では平安時代以降に本格的に流行し、朝廷では毎年三月上己(じょうし)の節会(せちえ)にもよおされる年中行事として恒例化した。室町時代に強い品種が輸入されるようになると、武士や庶民までをまきこんで多くの観覧者を集め、熱狂的な娯楽として普及していった。ニワトリは、ここでようやく霊鳥としての役割から解き放たれることになったのである。(91~93頁、改行は筆者の都合により3段落に変更した。)

 第1段落について、黒田先生が提示しておられる絵(ほぼ同じ部分を上掲書によりカラー化した)は、十二類歌合絵(十二類合戦絵巻、十二類絵詞、十二類歌合絵巻)のチェスター・ビーティ本である。堂本家本ほかに鞠柄は見られない。チェスター・ビーティ本を描いた絵師のセンスあふれる独創であろう。「ニワトリが『蹴る』動物であったからにほかならない」とは、「蹴る」という言葉について、足を後ろへ「蹴」り出して体を前へ進めるという意味で捉えられているのではないか。確かに、ニワトリを見ていると、蹴るように歩を進めている。地面を蹴っている。現代語ではそう言って間違いではない。しかし、蹴鞠では、鞠を前へ蹴り上げなければならない。ニワトリにはできない。ビー玉のような小さな玉ならできるかもしれないが、管見にして試合形式にしている例を知らない。動物では、ゾウのサッカーを見たことがある。なお、アジアゾウの歩き方はとても静かで足音も聞こえないほどである。本稿で考えてきた語、フム・クウの密接性をとてもよく表す動物は、ひょっとするとゾウである。鼻の使い方は、スマホのタッチパネル操作のように上手である。そのようなことが飛鳥時代の人の観念にあったかどうかについては、今のところ、なかったと言っておきたい。いずれにせよ、黒田先生は、中古以降に生まれた語、ケル(蹴)に縛られている。
アジアゾウ(多摩動物公園にて)
 上代語に、クウ(蹴)である。蹴鞠は、和名抄に、世間ではマリコユと言っているとあった。ニワトリと蹴鞠とは、言葉の概念範疇として、必ずしも時代を越えて結びつくものではない。十二類歌合絵は室町時代に描かれたからかまわないかも知れないが、ならば、多くの絵にそのように描かれてしかるべきであろうが、そうはなっていない。チェスター・ビーティ本の画家は、あるいは、蹴鞠とニワトリの関係を、「鞠場(まりには)」のニハ(庭)に見たのかもしれない。ニハ(庭)という言葉は、神事の場、狩猟・漁労の場、邸内の農作業の場、邸内の庭園、など多様な意味がある。蹴鞠の court の意も含んでいる。むろん、1例しかないものについて、論証することはできない。それでも、筆者としては、釈日本紀の、フミの語の鳥の足跡説に、有力な根拠を示してくれているものと考える。鳥のなかには、歩を進めるとき、地面を踏み蹴っていくものがいる。(カルガモなど、蹼があるものなど例外も多い。)そして、足跡がつく。現代語の「蹴るように歩く」意は、上代語に、フム(踏・蹈・践)である。足跡がつくようにフムのは、ニワトリのように至近に見られるため、かなり“学問的”な解釈となっている。(筆者は、フミ(字・文・書)という語の語源を、フミ(踏・蹈・践)であると考えているわけではない。平安時代当時の人たちがそのように考えたことが、よく理解できると言っているに過ぎない。そもそも筆者は、言葉の語源を求めるという立場に立たない。そのような鯱ばった立場に立っていたら、記紀万葉が洒落やなぞなぞだらけであると主張したりはできない。無文字文化から文字文化への過渡期にあった飛鳥時代の人たちは、頓智が非常に働いたと論証し続けているものである。)
闘鶏図(洛中洛外図屏風歴博甲本(『京都』前掲書、38頁)より)
さまざまな鶏(国立科学博物館にて)
セキショクヤケイ(赤色野鶏、家禽のニワトリの祖先とされる。多摩動物公園にて)
 第2段落の、黒田先生のニワトリ霊鳥説は、筆者には不明である。庭にいる鳥が神聖で、霊的であるとは灯台下暗しである。野鳥の会の人たちにアンケートをすると、嫌いな野鳥の一番はカラス、二番がハトなのだそうである。ハトには緊張感がないからとの意見が寄せられるとのことである。ニワトリは野鳥ではないから対象に入っていない。養鶏用(玉子、鶏肉)、愛玩用、闘鶏用といった目的で飼われていたのではないか。神の使いとしての動物としては、ウマやシカ、天神信仰と関わるウシ、稲荷社のキツネ(これが大切にされたかどうかは筆者には知識がない。本ブログ「稲荷信仰と狐 其の一」以降を参照されたい。)があげられると思うが、伊勢神宮内宮参道横の草むらにいるニワトリは、はたして御由緒の正しいものなのであろうか。記上に、「常世の長鳴鳥を集め、鳴かしめて」とあるのは、夜明けを告げる声をあげるニワトリを擬した譬えとしか考えられない。たいへんな長文の一句にすぎず、「鳴かしめ」たのは、直前に、「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の子、思金神(おもひかねのかみ)に思はしめ」た想念であると明示されている。ニワトリは夜明けに鳴く。習性であるから当たり前である。少なくとも上代の古事記に、ニワトリは霊鳥ではない。万葉集でも、「鶏が鳴く」は、アヅマ(ノクニ)に掛かる枕詞である。田舎っぺの東国に掛かる枕詞になってしまう動物は、霊鳥とは考え難い。
 第3段落の、闘鶏神占説も疑問である。闘鶏について、記紀では、雄略紀の報告記事がある。天皇は報告を聞いて、闘鶏で我が身を準えてストレス解消をはかっていた吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)ばかりか、その一族全員を派兵して殺してしまった。
 
 [官者(とねり)吉備弓削部(きびのゆげべの)]虚空(おほぞら)、召されて来(まうき)て言(まを)さく、「[吉備下道臣(きびのしもつみちのおみ)]前津屋(さきつや)、小女(をとめ)を以て天皇の人(みひと)にし、大女(おほめのこ)を以ては己が人にして、競(きほ)ひて相闘(たたか)はしむ。幼女(をとめ)の勝つを見ては、即ち刀(たち)を抜きて殺す。復(また)小(すこしき)なる雄鶏(みにはとり)を以て、呼びて天皇の鶏(みにはとり)として、毛を抜き翼(はね)を剪りて、大(おほき)なる雄鶏(にはとり)を以て、呼びて己が鶏(とり)として、鈴・金の距(あこえ)を著(は)けて、競ひて闘はしむ。禿(つぶれ)なる鶏の勝つを見ては、亦刀を抜きて殺す」とまをす。天皇、是の語を聞しめして、物部の兵士(いくさびと)三十人(みそたり)を遣して、前津屋併せて族(やから)七十人(ななそたり)を誅殺(ころ)さしむ。(雄略紀七年八月条)

 官者の吉備弓削部虚空の言い分しか聞かずに裁いてしまっている。和名抄・雑芸に、「闘鶏 玉燭宝典に云はく、寒食の節、城市多く闘鶏の戯を為(す)といふ。〈闘鶏、此の間に止利阿波世(とりあはせ)と云ふ。〉」とある。これらの記述からわかることは、上代において、闘鶏(鶏合わせ)は、占いとは関係なさそうであるという点である。鶏合わせで、神意を窺う気などさらさら感じられない。お遊びである。雄略紀に、前津屋は、闘鶏においてニワトリを都合のいいように扱い、うまくいかないと殺している。設定として、霊鳥とは程遠い存在としてしか考えられない。神=天皇の祟りで前津屋は滅ぼされたという反論も可能ではあるが、天皇のしていることは前津屋と同じであって、自分に都合が悪いと殺してしまうということを、紀の執筆者である史官は記そうと努めていると思われる。ニワトリよりも先に「女」を実験台にしているところが、その皮肉の証となろう。いずれにせよ、ニワトリ(前津屋)はおもちゃにされている。

 天皇、心(みこころ)を以て師(さかし)としたまふ。誤りて人を殺したまふこと衆(おほ)し。天下(あめのした)、誹謗(そし)りて言(まを)さく、「大(はなは)だ悪(あ)しくまします天皇なり」とまをす。唯(ただ)愛寵(めぐ)みたまふ所は、史部(ふみひと)の身狭村主青(むさのすぐりあを)・檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかひはかとこ)等のみなり。(雄略紀二年十月条)

 よって、ニワトリは上代に霊鳥ではなく、鳥としては空を飛べない阿呆な鳥、目覚まし時計となる鳥、卵を手に入れやすい有益な鳥、喧嘩させて遊べる鳥、身近にいてかわいい鳥、などと実質的に思われていたのではないか。
 以上見てきたように、ニワトリひとつを歴史の文脈のなかでいかに捉えるかにも、さまざまな側面から考える慎重さを求められる。現代の我々のご都合主義で適当にチョイスして組み合わせれば、何とでも解釈できてしまうのである。それは、歴史の懐深さとも言えようが、飲み込まれてはならない。歴史の本当の醍醐味は、書かれた文献、描かれた絵画を、時代ごとに多様な観点から総ざらいして当たって行くことによって得られるものと考える。そして、それぞれの時代において、人々がどのようなイメージを抱いていたかを考えるに当たり、言葉を研究することは、科学的な立証の可能性はなかなか見出せないものの、人類にとって記号操作の原点であるから、もっとも肝要なことであるとわかるのである。
 最後に、クウ(蹴)について、白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)の記述から一部だけ引用しておく。すごいことが書いてある。

くう〔蹶・蹴〕 下二段。「くゑ・くう・くうる」と活用する。のち「ける」の形となった。足ではげしく蹴ることをいう。おそらく擬声語であろう。「崩(く)ゆ」とも関係がある語であろう。……蹶(けつ)は厥(けつ)声。厥はものを彫刻する剞厥(きけつ)の刀。これで強くものを刳(く)り削(けず)ることをいう。そのような状態で足のあたることを蹶という。〔説文〕二下に「僵(たふ)るるなり」とみえる。またはね起きることを蹶然という。「くゑ」と同じく、擬声語である。

 ここに、白川先生は、ヤマトコトバに擬声語ではないかと述べられている。漢語でも、ケツがやはり擬声語であるとされている。入声のケツは、ケッという音として感じられる。やまとことばのクヱ・クウなどは、ク・クゥと感じられたのであろう。確かに、蹴鞠(蹶鞠)という語も、ク+マリ & ケッ+マリ→ケマリへと転じたとも考えられる。(ケル+マリ→ケマリ説ばかりではないという主張である。もともとが擬声であるからということである。)説文の説明から、垂仁紀七年条に、当摩蹶速が捔力(相撲)に負けたのは、その名のとおりと知れる。僵(たお)れて蹶(ふ)まれたことを嘆いて、感嘆の助詞のハヤ(「速」)と補う名前になっている。当麻路が古来、死者の往く道とされていたかどうかの上代人のイメージについての検証については、今後の課題としたい。

(補遺)古今集の「忘られん 時しのべとぞ はま千鳥 ゆくへも知らぬ 跡をとどむる」(よみ人しらず、雑下・996)という歌は、記紀歌謡の「浜つ千鳥」(記37・紀4)が一語化し、かつ、中国古代の黄帝時代に、蒼頡(そうけつ)が鳥の足跡を見て漢字を作ったという故事を踏まえて詠まれたとされている。平安時代には、砂浜に残る鳥の足跡を字のようであると感じたり、千鳥が砂浜を踏む意の「踏み」と、手紙の「文(ふみ)」とを掛けて喜んだりしている。千鳥のあしらわれた蒔絵の文房具が残ることを傍証にあげる方もおられるが、足跡や踏む様を描いているわけではないから、牽強に過ぎるのではなかろうか。それでも、釈日本紀のフミの語義説は、当時の風潮からすれば案外平易なことであったと考えられよう。むろん、それは、平安時代当時の感覚がそうであったのではないかというだけのことである。そして、もはや漢字のことなのか仮名のことなのか、どうだってよくなっている。古墳時代に文字(漢字)は流入してきているから、その時代、すなわち、5~6世紀にフミという言葉が“作られた”のであろうと筆者は考える。いわゆる和訓としてできたヤマトコトバである。そのときにどのような知恵をもって創作されたかについては、さらなるなぞなぞが繰り出されているため、稿を改めて論じたい。(2015.9.18追記。本補遺は、出光美術館の柏木麻里先生による「躍動と回帰―桃山の美術」展(2015年10月12日(祝)迄)の解説のなかのひとこま、「織部千鳥形向付(美濃窯、桃山時代)」のくだりによって得られたものである。記して感謝の意を表したい。)

(追記:2015.11.9)
蹴鞠をする赤い人(聖徳太子絵伝第八幅の下部、絹本着色、鎌倉時代、14世紀、兵庫県加古川市鶴林寺蔵。東京都美術館・大阪市立美術館・名古屋市博物館・NHK・NHKプロモーション編『聖徳太子展』NHK・NHKプロモーション発行、2001年、181頁より。)
 鎌倉時代に描かれた絵に、赤い人が偉そうに座り(上右)、首を刎ねられ(上左)、蹴鞠をして鞋を飛ばしている(下右)。下左の輿のなかにも「赤い人」はいるようにも思われる。刀田山鶴林寺編『鶴林寺叢書2 鶴林寺と聖徳太子』(法蔵館、2008年)には、上の左右の赤い人は蘇我入鹿であるとし、下右では、「入鹿亡きあと、やっと平和がもどり、大臣・群臣らが蹴鞠(けまり)に興じる」(55頁)として、誰のことか示していない。同じ絵のなかにこれほど特徴的な「赤い人」が出ているのだから、すべて蘇我入鹿を表し、下右の場面は、法興寺蹴鞠の話が展開していって、柳の樹の下で入鹿が「皮鞋の毱の随に脱け落つる」ことに相成っているものと思われる。話に混線があっても、何ら不思議ではない。法興寺蹴鞠の史実から、700年くらい経っている。中世絵画から古代文献を糺すことなど、当たり前ながらできない。

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