ヤマトタケルの命名譚
記紀の説話に、ヤマトタケルという有名人が登場する。
是に天皇、其の御子の建く荒き情を惶りて詔はく、「西方に熊曽建二人有り。是、伏はず礼無き人等ぞ。故、其の人等を取れ」とのりたまひて、遣はしき。此の時に当りて、其の御髪を額に結ひき。爾くして、小碓命、其の姨倭比売命の御衣御裳を給はり、剣を御懐に納れて幸行しき。故、熊曽建が家に到りて見れば、其の家の辺に軍三重に団り、室を作りて居りき。是に、御室楽を為むと言ひ動みて、食物を設け備へき。故、其の傍を遊行きて、其の楽の日を待ちき。爾くして、其の楽の日に臨りて、童女の髪の如く、其の結へる御髪を梳り垂れ、其の姨の御衣・御裳を服して、既に童女の姿と成り、女人の中に交り立ちて、其の室の内に入り坐しき。爾くして、熊曽建兄弟二人、其の嬢子を見咸けて、己が中に坐せて盛りに楽しき。故、其の酣なる時に臨みて、懐より剣を出し、熊曽が衣衿を取りて、剣を其の胸より刺し通しし時に、其の弟建、見畏みて逃げ出でき。乃ち其の室の椅の本に追ひ至り、其の背皮を取りて、剣を尻より刺し通しき。爾くして、其の熊曽建が白して言さく、「其の刀を莫動かしたまひそ。僕白す言有り」とまをす。爾くして、暫らく許して押し伏せき。是に白して言さく、「汝が命は誰ぞ」とまをす。爾くして、詔はく、「吾は纒向の日代宮に坐して大八嶋国を知らす、大帯日子淤斯呂和気天皇の御子、名は倭男具那王ぞ。おれ熊曽建二人、伏はず礼無しと聞し看して、おれを取り〓(飠偏に攵)よと詔ひて遣せり」とのりたまふ。爾くして、其の熊曽建が白さく、「信に然ならむ。西方に吾二人を除きて建く強き人無し。然れども、大倭国に、吾二人に益して、建き男は坐しけり。是を以て、吾、御名を献らむ。今より以後は、倭建御子と称ふべし」とまをす。是の事を白し訖るに、即ち熟瓜の如く振り析きて殺しき。故、其の時より御名を称へて倭建命と謂ふ。然して還り上る時に、山の神・河の神と穴戸の神を、皆言向け和して参上りき。(景行記)
十二月に、熊襲国に到る。因りて、其の消息と地形の嶮易を伺たまふ。時に熊襲に魁帥といふ者有り。名は取石鹿文、亦は川上梟帥と曰ふ。悉に親族を集へて宴せむとす。是に、日本武尊、髪を解きて童女の姿と作りて、密に川上梟帥が宴の時を伺ふ。仍りて剣を裀の裏に佩きたまひて、川上梟帥が宴の室に入りて、女人の中に居ります。川上梟帥、其の童女の容姿に感けて、則ち手を携へて席を同にして、坏を挙げて飲ましめつつ、戯れ弄る。時に、更深け、人闌ぎぬ。川上梟帥、且被酒ひぬ。是に日本武尊、裀の中の剣を抽し、川上梟帥が胸を刺したまふ。未だ及之死なぬに、川上梟帥叩頭みて曰さく、「且待ちたまへ。吾有所言さむ」とまをす。時に日本武尊、剣を留めて待ちたまふ。川上梟帥、啓して曰さく、「汝尊は誰人ぞ」とまをす。対へて曰はく、「吾は是、大足彦天皇の子なり。名は曰本童男と曰ふぞ」とのたまふ。川上梟帥、亦啓して曰さく、「吾は是、国の中の強力者なり。是を以て、当時の諸の人、我が威力に勝へずして、従はずといふ者無し。吾、多に武力に遇ひしかども、未だ皇子の若き者有らず。是を以て、賤しき賊が陋しき口を以て尊号を奉らむ。若し聴したまひなむや」とまをす。曰はく、「聴さむ」とのたまふ。即ち啓して曰さく、「今より以後、皇子を号けたてまつりて日本武皇子と称すべし」とまをす。言訖りて乃ち胸を通して殺したまふ。故、今に至るまでに、日本武尊と称め曰す、是れ其の縁なり。然して後に、弟彦等を遣して、悉に其の党類を斬らしむ。余噍無し。既にして海路より倭に還りて、吉備に到りて穴海を渡る。其の処に悪ぶる神有り。則ち殺しつ。亦、難波に至る比に、柏済の悪ぶる神を殺しつ。済、此には和多利と云ふ。(景行紀二十七年十二月)
記に、「故、自二其時一称二御名一謂二倭建命一。」、紀に、「故、至二于今一称二-曰日本武尊一、是其縁也。」とあるように、称号譚として話が完結している。すなわち、話の眼目として、「倭建命(日本武尊)」という称号がある。命名譚なのだから、この名前の考究をなおざりにして先に進むことはできない(注1)。
ヤマトタケル v.s. ヤマトタケ
今日、ヤマトタケルと言って通用しているが、この呼び名はそれほど確定しているものではない。ヤマトタケではないかとも考えられていた。日本書紀の北野本や熱田本の古訓に、ヤマトタケとある(注2)。江戸時代にはすでに、ヤマトタケルと訓むのか、ヤマトタケと訓むのかという議論があった。伴信友・比古婆衣と本居宣長・古事記伝にそれぞれ次のようにある。
現代の議論としては、まず、西宮1993.に次のようにある。
古訓や宣長に、ヤマトタケノミコトと訓んでいたのは、「タケルは四段動詞(猛威を振ふ)の終止形であるが、それが「梟帥(夷賊の大将)の如き「人」をいふ意味にも用ゐられると、今度はそのやうな名を避けようとする心理が働いて、タケシの形容詞の語幹タケで訓むことになつたものと考へられる。」(同頁)、「五十猛命」(神代紀第八段一書第四・第五)、「建王」(斉明紀四年五月)と訓んでいるのだから正しいとする。
一方、中村2009.では「倭建御子」をヤマトタケノミコ、「倭建命」をヤマトタケノミコトとしている。脚注に、「近来「やまとたける」と訓むが「たける」の卑称でたたえるわけがない。平安時代以来の古訓に戻す。」(135頁)とある。詳論は、中村2000.に展開されている。ヤマトタケと訓むべきとし、意味的にヤマトタケルノミコと呼ぶのはおかしいと考えている(注3)。
そして、「尊号」についての史記や漢書の例をあげている。しかし、記紀は漢語を借りて書いているだけで、思想をまるごと引き継いでいるわけではない(注4)。中村氏は続けて、「尊号は上られるものであり、この形式が小碓尊に採り入れられたものとみとめられる。この場合、『古事記』では「倭建御子」で、『日本書紀』は「日本武皇子」であるが、「ヤマト タケル ノ ミコ」とか「ヤマト タケ ノ ミコ」の語構成ではなく、「ヤマトタケル ノ ミコ」または「ヤマトタケ ノ ミコ」ということになろう。中国での尊号に卑称が用いられていないことと併わせみれば、「ヤマトタケル」の訓みは成り立ちようのないことがわかる、というものであろう。」(294~295頁、字間の誤りは正した)としている。
筆者は、ここに議論の盲点を見る。熊曽建や川上梟帥のような賤しい輩から賤しい名前を献上されてそのまま受けたかといえば、小碓命(日本武尊)は受けていないことが明記されている。「自レ今以後、応レ称二倭建御子一。」(景行記)、「自レ今以後、号二皇子一応レ称二日本武皇子一。」(景行紀)と、ヤマトタケルノミコという名前にしたらいいではないかと提案されている。熊曽建や川上梟帥は自分の名前をあげようと言っているとしか考えられないから、タケルという名を名乗ってくださいと言っている。しかし、実際には、「故、自二其時一称二御名一、謂二倭建命一。」(景行記)、「故至二于今一、称二-曰日本武尊一。」(景行紀)となっている。「建」や「武」の訓みがタケルであれタケであれ、ミコ(御子・皇子)とミコト(命・尊)とは言葉が違う。タケルという言葉が賤しい言葉であったのを、意味を取り換え、対象を変更することで可能にしている。中村2000.は、語構成において、「ヤマト タケル ノ ミコ」と捉えている。それを受ける側は、「ヤマ ト タケル ノ ミコト」と受け取っている。
名前の変遷
名前の変遷をまとめると、倭男具那王(曰本童男)→倭建御子(日本武皇子)(ミ・コは甲類。この段階では自称していない)→倭建命(日本武尊)(ミは甲類、コ・トは乙類)という流れで進化していっている。名前が変わると人格の転換があるように思われるが、人というものはそう簡単に改心したり、自己変容を来たしたりできるものではない(注5)。彼の性格も特に変わらず、外敵の征伐に明け暮れている。出家、遁世やジェンダー転換の道へと進んだわけではない。その一貫性は、呼ばれるものとしての名前にも存していただろう。無文字文化においてのアイデンティティは、意味のある名前にあらわれている。名前とは呼ばれるものである。端的に言えば綽名だからである。守屋1988.に、次のようにある。
筆者は、名前と説話は同時に作られて、それが言葉として確立しつつ説明されていると考えている。言葉の第一定義、あるいは定理である。そして、言葉を発したと同時にその言葉の正しいものであることを、その場で解き明かしてみせている。もともとのヲウスという名の由来については、彼が双生児として生れたことと関係づけられている。
后二の男を生れます。第一をば大碓皇子と曰す。第二を小碓尊と曰す。一書に云はく、皇后、三の男を生れます。其の第三を稚倭根子皇子と曰すといふ。其の大碓皇子・小碓尊は、一日に同じ胞にして双に生れます。天皇異びたまひて、則ち碓に誥びたまひき。故、因りて、其の二の王を号けて大碓・小碓と曰ふ。是の小碓尊は、亦の名は日本童男。童男、此には烏具奈と云ふ。亦は日本武尊と曰す。幼くして雄略しき気有します。壮に及りて容貌魁偉し。身長一丈、力能く鼎を扛げたまふ。(景行紀二年三月)
大系本日本書紀の注に、「飯田武郷は栗田寛の説として、伊豆三宅島では産婦が臼にとりつき産する風習があることを参考に挙げたが、中山太郎は、栃木県足利郡において、難産のとき姙婦の夫が臼を背負って家の囲りを廻る習俗や、日高アイヌでは、お産が重いと臼に産婦が腹を押しあてる習俗、愛知県南設楽郡千郷村地方では、他家に嫁して子供ができた娘が初めて生家に帰ったとき、まずその子を臼の中に入れる習俗をあげ、出産と臼が密接な関連をもっていることを論じた。金関丈夫は、難産のとき夫が臼を背負って家を廻る習俗を重要視し、景行天皇も臼を背負って家を廻ったが、一人生れたがまだ終らず、二人生れるまで、重い臼を背負っていなければならなかったので、天皇思わず臼にコン畜生と宣うたのだと解釈している。」((二)61頁)とある。孫引きばかりの解説で下駄を預けている(注6)。石上1983.には、「碓子 臼 神の在処と思われるものは、神そのものと考えられる。臼は、食料調製具、また神を招ぐ楽器として、重要であったので神聖視され、神体として祀られる。「万葉集」・巻十六、「乞食者詠」(三八八六)に、「庭にたつ臼(碓子)」とあるのも、神座である臼なのであろう。」(136頁)とある。この考え方も追随するものが少なく、了解に至る説明ではない。臼が古く神座と思われていたのか確証がない。臼の形が蓮台に似ていることで関係が生まれてくるのかもしれないが、不明である。むしろ、俗に臼を女性、杵を男性に見立てていることと関係があろうか。臼相手に Wow とか Yeah などと叫んだということである。
桜井2000.に、次のようにある。
事はそう都合よく民俗的に読み解くことはできない。双子が不祥であるかどうかよくわからないし、厠が斎屋となるとおちおち用も足せなくなり、また、名の因果関係を説くことも難しい。ところによっては双子の誕生を喜ぶ習俗も見られる。おそらくは栄養事情から考えて、双子は命のリスクが高くなるからあえて望むことではなかったということではないか。けれども、生れてきてしまったら生れてきてしまったものである。ただ、ヒトは一度に一人が基本で、双子が生まれることは少なく、「畜生腹」、「畜生児」と呼ばれることがあったということである。民俗の言い伝えの解釈としては、臼は女性そのものに譬えられ、臼に向かって誥ぶこととは多産のイヌのような母胎だということになり、それにふさわしい声はイヌの声、それも遠吠えに当たる声を発することを言っているものと考えられる。群れの仲間がたくさんいることを確認し合うのが遠吠えだから、多産で大家族を確かめ合っているイヌ科動物の遠吠えほど誥ぶときの声にふさわしいものはないだろう(注7)。
双子で生まれてきたとき、畜生腹かとあやしんで臼に向かって誥んだ。そこから、順序として、兄を大碓皇子、弟を小碓尊と決めた。注目すべきは、なぜかミコ(「皇子」)とミコト(「尊」)と、異なる呼び名が行われている点である。第三子も「稚倭根子皇子」とミコ称なのだから、小碓においてのみ意図的にミコトにしようとしているとしか考えられない。これは後にヤマトタケルノミコト(「日本武尊」)へと至る伏線、あるいは、なぞなぞのヒントとして掲げられているのだろう。
大きな臼と小さな臼
左:大きな臼(浜松市角江遺跡出土、弥生時代、静岡県埋蔵文化財センターサテライト展示http://www.smaibun.jp/Satellite_tenji.html)、右:小さな臼(火きり臼、zyugyotokodomonet様「火起こし実演」https://www.youtube.com/watch?v=_uwr4P7HEhg)
大きな臼で米穀を舂くのは、大量の精米の必要性から行われる。酒造のためである。しかし、お酒が求められるのは、宴の時だけである。だから、兄の大碓命は普段の朝夕の食膳に陪侍しない。そのためネグ事件として描かれている。
天皇、小碓命に詔はく、「何とかも汝が兄の朝夕の大御食に参ゐ出で来ぬ。専ら汝、ねぎ教へ覚せ」と此如詔ひて以後、五日に至るまでに猶参ゐ出でず。爾くして、天皇、小碓命に問ひ賜はく、「何とかも汝が兄の久しく参ゐ出でぬ。若し未だ誨へず有りや」ととひたまふに、答へて白さく、「既にねぎ為つ」とまをす。又詔はく、「如何にかねぎしつる」とのたまふに、答へて白さく、「朝署に廁に入りし時、待ちて捕へ、搤り批きて其の枝を引き闕きて薦に裹みて投げ棄てつ」とまをす。是に天皇、其の御子の建く荒き情を惶りて詔はく、「西方に熊曽建二人有り。是、伏はず礼無き人等ぞ。故、其の人等を取れ」とのたまひて遣はしき。(景行記)
他方、弟の小碓命は、小さな臼で、毎食、米を舂いて脱穀し、ご飯を炊いて食べている。その際、どの程度舂いたか、玄米の歩合がどうであったかや、煮て食べたか蒸して食べたかなど、難しい問題は措いておく(注8)。小さな臼として毎回脱穀したと想定されうるのは、臼と呼ばれるものの最も小さな形態が火きり臼だからである。火きり杵を回転させて摩擦熱を発生させ、着火させる。記に、「海布の柄を鎌りて、燧臼を作り、海蓴の柄を以て燧杵に作りて、火を鑽り出だして云はく、」(記上)とある。すなわち、小さな臼は炊事の始まりを意味している。そのようにヤマトコトバは練られ作られている。電子レンジでチンすることのなかった時代である。食事をするためには必ず火を熾さなければならなかった。だから、小さな臼は毎度の食事を表して正しい。
農耕によって得られるようになったご飯は掛けがえのないエネルギー源であるものの、そればかりでは栄養が偏り脚気にもなりかねない。肉、魚、野菜、乳製品などまんべんなく食べることは健康に良い。おかずが必要である。おかずのことはヤマトコトバでナ(菜・魚)である。小さな臼は必然的にナを招くことになる。招くことはヤマトコトバにヲク(招)である。桜井2000.は神霊を招くことと捉えていたが、ヲグナという語はそもそもがナを目的語としていると思われたと考えられる。だから、ヲウス(小碓)のことは、別名、あるいは、同名として、ヲグナ(童男)ということとなる。ヤマトコトバの会意語とでも言うべきものとする新定義を下してもいいのかもしれない(注9)。
紀では熊襲討伐の話の初めから「日本武尊」という名で登場している。記では命名譚らしく、話の最後に「倭建命」として書き表されている。これをヤマトタケルノミコトと言ったか、ヤマトタケノミコトと言ったかが目下の課題である。語幹にタケ(ケは甲類)とする語は、形容詞のタケシ、動詞のタケブ、タケル、名詞のタケルがある。丈・竹・茸・岳・高などのタケはケが乙類なので別語である。
…… 勇みたる 猛き軍卒と〔多家吉軍卒等〕 ……(万4331)
武芸人に過ぎたまふ。(綏靖前紀)
……素戔嗚尊の、武健くして物を凌ぐ意有ることを……(神代紀第六段一書第一)
稜威の雄誥 雄誥、此には嗚多稽眉と云ふ。……(神代紀第六段本文)
盾を植てて雄誥びしたまふ。雄誥、此には烏多鶏縻と云ふ。(神武前紀戊午年四月)
大夫の 思猛て〔思多鶏備弖〕 ……(万2354一云)
是に浦島子、感りて婦にす。(雄略紀二十二年七月)
仙霊毗草 陶隠居に曰はく、淫羊藿〈宇無岐奈、一に夜末止利久佐〉は羊、此の藿を食へば一日に百遍す、故に以て之れを名く。一に剛前と名くといふ。蘇敬に曰はく、俗に仙霊毗草と名くは是といふ。〈漢語抄に仙霊毗草は万良多介利久佐と云ふ〉(和名抄)
誇 苦爪反、平、又下更反、挙言也。伊比保己留、又云太介留。(新撰字鏡)
嘋哮 二正、タケル、サケフ、ホユ、下文音孝、烏教反。(名義抄)
やつめさす 出雲建が〔伊豆毛多祁流賀〕 ……(記23)
八十梟帥 梟帥、此には多稽屢と云ふ。(神武前紀戊午年九月)
形容詞のタケシは、雄々しいこと、勇猛であることを示す。その動詞化したタケブは、勇み立って怒号する、憤怒して大声を出す、いきり立って荒々しく振る舞うの意である。動詞のタケルは興奮して気持ちがたかぶる、特に色情が昂進して精神が不安定になることをいう。虎や獅子が吼え鳴き叫ぶような大きな声をあげることもタケルこととされている。やはり形容詞タケシの動詞化したものである。「感」字はカマクとも訓む。深い感動や感じ入ることとされている。白川1995.に、「「かまく」は感の字音によるとする説もあるが、囂と同系の語で、それにまぎれ、さそいこまれる意であろう。」(455頁)とする。大音響のなかに陥ることでは、カマクもタケルも同じである(注10)。名詞のタケルは、「梟帥」、「魁帥」とも書かれ、威勢があって勢いのある者のこと、特に地方に威を揮っていた蛮族の長をいう。「魁帥」は、「魁帥、此には比鄧誤廼伽瀰と云ふ。」(神武前紀戊午年八月)と訓注がある。人の兄の意であるとされる。
中村2000.の指摘どおり、タケルという形容は、直接的には賤賊、「梟帥」、「魁帥」に似つかわしい。都人たるヤマトの小碓命にはふさわしくないように見える。だからこそ、ヤマトタケルノミコと称したらどうですかという提案を却下して、熊曽建、川上梟帥を殺している。ヤマトタケルノミコでは、ヤマト(トは乙類)地域におけるタケル的存在の皇族と理解されてしまう。ヤマトも皇族も賤しくはない。ところが、そのミコに一音ト(乙類)が加わり、コ甲類がコ乙類へ変化しながら、ヤマトタケルノミコトと言い換えてみたら、言葉としてうまく適合した。得心がいったということで、命名譚として話が成立している。おもしろいと思ったのである。ト(乙類)は処の意のト(乙類)と同音である。
吠え声のこと
タケルの義のうち、咆哮する意として捉えたのである。イヌの遠吠えをどのように書記するかについては、擬声語として定まっているとは言い難い(注11)。それが蛮族由来のものとするなら、オオカミの遠吠えとして考えるのがふさわしい。タケルの欲情的興奮は動物的な情動を指している。家畜化した草食男子のイヌとは対極の様相が、オオカミの雄誥びである。オオカミが遠吠えする声こそ、たけびたける声として最もふさわしい。相手は熊曽建(記)であり、川上梟帥(紀)である。クマのような、川の上流にいる兇猛な獣に対抗するにはオオカミがふさわしい。大声をあげて動物が叫ぶ語は、ホユ(吠・吼)である。獣がたけり鳴くこと全般に使われている。
啼 度嵇反、乱㘁也。保由。(新撰字鏡)
吠 上字犬乃保由留。(新撰字鏡)
嘷 玉篇に云はく、嘷〈胡刀反、豪と同じ〉は虎、狼の声なりといふ。唐韻に云はく、吼〈呼后反、字は亦、吽、呴に作る〉は牛の鳴くなり、吠〈符廃反、己上の三字の訓は並びに保由〉は犬の鳴く声なりといふ。(和名抄)
……山岳為に鳴り呴えき。此則ち、神性雄健きが然らしむるなり。(神代紀第六段本文)
爰に万が養へる白犬有り。俯し仰ぎて其の屍の側を廻り吠ゆ。(崇峻前紀)
流れ星に非ず。是、天狗なり。其の吠ゆる声、雷に似たらくのみ。(舒明紀九年二月)
…… 吹き響せる 小角の音も 仇見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ……(万199)
…… 吾が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
ヤマトコトバにホユ(吠)、漢語にホウコウ(咆哮)、英語に howl 、みなオノマトペ的造語である。イヌの場合、代表的な声として、bark に Bow-wow、howl に Owooo、growl に Grr、Urr などがある(注12)。けれども、オオカミの場合は howl が中心となる。Owooo とつづく長い発音こそ、雄たけびの代表音であろう。
オオカミの遠吠え(AnimalsAndLaughter様「Wolf Sanctuary - Pack Howling」https://www.youtube.com/channel/UCWwJI5waVnTD8ldBeYe-RMQ)
日本民俗大辞典の「おおかみ 狼」の項に、「日本人の民俗において、狼の意味は次の三点に集約されるだろう。第一に、農作物を荒らす猪・鹿などを駆除する益獣として期待された。第二に、「虎狼」という表現に示されているように、この動物にはたけだけしい野獣というイメージが付着している。実際家畜、ときには人をも襲う。第三に、山に住む犬的な動物とみなされた。以上の狼観は、日本における狼信仰の成立に際し、大きな役割を果たした。」(233頁、この項、中村禎里)とある。食い足りない説明である。ここでは狼の民俗誌について大風呂敷を広げることはしないが、狼の狼たる言葉の所以が、民俗に反映されていないはずはなかろう。山にすむ動物の wolf をオホカミと認識したこと、それがヤマトの人にとっての狼民俗の始まりではないか。近世の三峯神社の「お犬様」のお札は、ついこの間の出来事にしか思われない。
ヤマトコトバではオホカミは神の尊称としてオホ(大)+カミ(神)の意であったことは確かであろう。wolf に当たる動物をそのオホカミという語に措定した古代の人の観念にこそ、狼の意味、狼とは何かという根源的な問いと答えがある。日本書紀などに性質の兇猛である点を例えとして用いられている。すなわち、本稿で取りあげているその声である。声自体は書記されていないから何と吠えたと聞きなしたか定められないが、人の雄誥びの声はいくつか記されている。そしてまた、オオカミの遠吠えが仲間と呼び合う声であることは知られていただろう。応答の語の声の大なるものはそれと似ている可能性もある。さらに、オホクチノ(大口の)という枕詞があり、大きな口を持つ狼の意で、マカミにかかっている。
今、陛下、嗔猪の故を以て舎人を斬りたまふ。陛下、譬へば豺狼に異なること無し。(雄略紀五年二月)
高倉、「唯々」と曰すとみて寤めぬ。(神武前紀戊午年六月)
大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに(万1636)
三諸の 神奈備山ゆ との曇り 雨は降り来ぬ 天霧らひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に至りきや(万3268)
大系本日本書紀の補注に、「唯唯は承諾のことば。文選、西都賦六臣注に「唯、応敬之詞」とみえる。唯唯の和訓のヲは、間投助詞のヲと同じもので、それを二つ重ねてヲヲというものと思われる。延喜祝詞式、祈年祭条の最初の所に、「集侍神主、祝部等、諸聞食登宣。神主・祝部等共称レ唯。余宣准レ此」とある所の「唯」も同じくヲヲと訓んでいる。」((一)396頁)とある。応答詞とされるヲヲはいわば動物的反応であるから、同じく反射的な発語形態である間投助詞と組成を同じくすることは大いにあり得ることである。ただし、伴信友・応声考などの解釈書にあるような、きちんと決まりをもっていろは48文字なり50音に写されているわけではないであろう。表記と音とが別々に変化していくことがあって、歴史上言文一致運動のようなことが起きている。ここのヲヲという語についても、wowo としか言わなかったとは考えられず、au や ou や aa や wou や wau や um や wawa など、いろいろなバリエーションがあったと感じられる。また、同じ発声が行われていても、よく似た近接する音と感じられて、を、おお、おう、あう、あふ、おつ、お、などと写されなかったとは言えない。しかし、応答詞について、古い時代に用例が多く残されているわけではないのも事実である。佐藤1999.に次のようにある。
神武紀では、「*わ」の長呼を「唯唯」と記したのであろう。このヲヲなる音声は、オオカミのほこり吠える大声ととてもよく似ている。あるいはヲウと記しても間違えではないと思われたであろう。すなわち、もともとの名であるヲウスノミコト(小碓命)とは、ヲウ(雄誥びの声)+ス(動詞「為」)+ノ(助詞)+ミコト(命)と捉えることができる。雄誥びを為ることとは、雄誥びをあげることである。名替えしたかに思われるヤマトタケルノミコトも、それと同じ意味合いなのだろう。ヤマトにタケルが下接するヤマトタケルという語は、語の本質的理解において、ヤマ(山)+ト(処、トは乙類)+タケル(咆哮)の構成であると感じられる。山中において咆哮することは、本邦においては虎や獅子はいないから、オオカミの遠吠えと聞いたことであろう。生れたときに双子だったため、臼に向かって誥んでいた。その声は、ヲウと記して誤りでない音声である。ヲウという擬声語を発声することこそ山で誥ぶことなのである。
近代登山では山でヤッホーと声をあげる。ときに山彦となって返ってくる。それはちょうど、オオカミが本能的に遠吠えをして仲間に呼びかけたとき、仲間も同じく声をあげてハーモニーを醸し出すことに相当する。オオカミがサイレンに反応するのは、サイレンが鳴り響いて遠くまで聞こえる効果を狙っているのと同じことをしている。オオカミの場合は答えるものがいるが、人間が大声を出しても反響はするが、答えて叫びあう本能は持っていない。結果、何かが山に棲息していて答えていると思われたものが山彦である。山でヲウなどと誥べば、それは山彦、木霊であると捉えられる。ヤマトタケルという名自体が、山彦ということになる(注13)。
…… 山の極 野の極見よと 伴の部を 班ち遣し 山彦の 応へむ極み ……(万971)
筑波嶺に 吾が行けりせば 霍公鳥 山彦響め 鳴かましやそれ(万1497)
〓(虫偏に免) 山比古(新撰字鏡)
樹神 内典に、樹神〈和名は古多万〉と云ふ。文選蕪城賦に云はく、木魅は山鬼といふ。〈鬼は下文に見ゆ。今案ふるに木魅は即ち樹神なり〉(和名抄)
「ヤマ+ト+タケル」という語句の塊は、今で言えばヤッホーという言い方が決まり文句となってよく知られているものである。その昔はヲウであったと推測される。一つの言説としてまとまりを持って存在している。この点は重要である。
(つづく)
記紀の説話に、ヤマトタケルという有名人が登場する。
是に天皇、其の御子の建く荒き情を惶りて詔はく、「西方に熊曽建二人有り。是、伏はず礼無き人等ぞ。故、其の人等を取れ」とのりたまひて、遣はしき。此の時に当りて、其の御髪を額に結ひき。爾くして、小碓命、其の姨倭比売命の御衣御裳を給はり、剣を御懐に納れて幸行しき。故、熊曽建が家に到りて見れば、其の家の辺に軍三重に団り、室を作りて居りき。是に、御室楽を為むと言ひ動みて、食物を設け備へき。故、其の傍を遊行きて、其の楽の日を待ちき。爾くして、其の楽の日に臨りて、童女の髪の如く、其の結へる御髪を梳り垂れ、其の姨の御衣・御裳を服して、既に童女の姿と成り、女人の中に交り立ちて、其の室の内に入り坐しき。爾くして、熊曽建兄弟二人、其の嬢子を見咸けて、己が中に坐せて盛りに楽しき。故、其の酣なる時に臨みて、懐より剣を出し、熊曽が衣衿を取りて、剣を其の胸より刺し通しし時に、其の弟建、見畏みて逃げ出でき。乃ち其の室の椅の本に追ひ至り、其の背皮を取りて、剣を尻より刺し通しき。爾くして、其の熊曽建が白して言さく、「其の刀を莫動かしたまひそ。僕白す言有り」とまをす。爾くして、暫らく許して押し伏せき。是に白して言さく、「汝が命は誰ぞ」とまをす。爾くして、詔はく、「吾は纒向の日代宮に坐して大八嶋国を知らす、大帯日子淤斯呂和気天皇の御子、名は倭男具那王ぞ。おれ熊曽建二人、伏はず礼無しと聞し看して、おれを取り〓(飠偏に攵)よと詔ひて遣せり」とのりたまふ。爾くして、其の熊曽建が白さく、「信に然ならむ。西方に吾二人を除きて建く強き人無し。然れども、大倭国に、吾二人に益して、建き男は坐しけり。是を以て、吾、御名を献らむ。今より以後は、倭建御子と称ふべし」とまをす。是の事を白し訖るに、即ち熟瓜の如く振り析きて殺しき。故、其の時より御名を称へて倭建命と謂ふ。然して還り上る時に、山の神・河の神と穴戸の神を、皆言向け和して参上りき。(景行記)
十二月に、熊襲国に到る。因りて、其の消息と地形の嶮易を伺たまふ。時に熊襲に魁帥といふ者有り。名は取石鹿文、亦は川上梟帥と曰ふ。悉に親族を集へて宴せむとす。是に、日本武尊、髪を解きて童女の姿と作りて、密に川上梟帥が宴の時を伺ふ。仍りて剣を裀の裏に佩きたまひて、川上梟帥が宴の室に入りて、女人の中に居ります。川上梟帥、其の童女の容姿に感けて、則ち手を携へて席を同にして、坏を挙げて飲ましめつつ、戯れ弄る。時に、更深け、人闌ぎぬ。川上梟帥、且被酒ひぬ。是に日本武尊、裀の中の剣を抽し、川上梟帥が胸を刺したまふ。未だ及之死なぬに、川上梟帥叩頭みて曰さく、「且待ちたまへ。吾有所言さむ」とまをす。時に日本武尊、剣を留めて待ちたまふ。川上梟帥、啓して曰さく、「汝尊は誰人ぞ」とまをす。対へて曰はく、「吾は是、大足彦天皇の子なり。名は曰本童男と曰ふぞ」とのたまふ。川上梟帥、亦啓して曰さく、「吾は是、国の中の強力者なり。是を以て、当時の諸の人、我が威力に勝へずして、従はずといふ者無し。吾、多に武力に遇ひしかども、未だ皇子の若き者有らず。是を以て、賤しき賊が陋しき口を以て尊号を奉らむ。若し聴したまひなむや」とまをす。曰はく、「聴さむ」とのたまふ。即ち啓して曰さく、「今より以後、皇子を号けたてまつりて日本武皇子と称すべし」とまをす。言訖りて乃ち胸を通して殺したまふ。故、今に至るまでに、日本武尊と称め曰す、是れ其の縁なり。然して後に、弟彦等を遣して、悉に其の党類を斬らしむ。余噍無し。既にして海路より倭に還りて、吉備に到りて穴海を渡る。其の処に悪ぶる神有り。則ち殺しつ。亦、難波に至る比に、柏済の悪ぶる神を殺しつ。済、此には和多利と云ふ。(景行紀二十七年十二月)
記に、「故、自二其時一称二御名一謂二倭建命一。」、紀に、「故、至二于今一称二-曰日本武尊一、是其縁也。」とあるように、称号譚として話が完結している。すなわち、話の眼目として、「倭建命(日本武尊)」という称号がある。命名譚なのだから、この名前の考究をなおざりにして先に進むことはできない(注1)。
ヤマトタケル v.s. ヤマトタケ
今日、ヤマトタケルと言って通用しているが、この呼び名はそれほど確定しているものではない。ヤマトタケではないかとも考えられていた。日本書紀の北野本や熱田本の古訓に、ヤマトタケとある(注2)。江戸時代にはすでに、ヤマトタケルと訓むのか、ヤマトタケと訓むのかという議論があった。伴信友・比古婆衣と本居宣長・古事記伝にそれぞれ次のようにある。
さて此皇子の御名書紀に日本武また余古書どもに倭武とも書きてその武字は例にタケまたタケシなどこそは訓めタケルとはよむまじきがごと思ふ人もあるべけれど、書紀に梟帥と書るを既く古事記に建字を用ひられたるにも准へしるべくまた猛字も武字と同じ義としてつねにタケまたタケシなどよめど書紀に五十猛神と書るなどおもひ合すべし、さて又タケルてふ称の義は記伝に威勢ありて猛き者を云ふ称なりと説はれたるがごとし、なほ述はゞ猛勇きことをタケリタケルなど活して云ふ言の上もて称とせるなり、字鏡に誇挙言也伊比保己留、又云太介留 類聚名義抄に嘋哮等の字をタケル とよめるも元は猛勇き意にてこゝに云ふと同言なるを挙言して猛勇々々しく言ふ方より云ふ一方の訓にとりて注せるものなり 今の俗にもタケリ起テ云々など云ふこれなり、かくて又此命の又名倭男具那と申せる倭も倭国におきて勝れ給へる由にてかく申す御名義は古事を伝に説はれたるがごとし さて景行紀四十三年此命の崩給へる処に日本武尊化白鳥云々、因欲録功名即定武部也と見えたる武部を古訓にタケルべとあり、……(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991315/33~34、漢字の旧字体は改めた)
○倭建御子、御名義、上文に於二大倭ノ国ニ一云々とあるを承て見べし、西ノ方には、吾二人に並ぶ、建き人は無きに、吾等に猶勝りて建き男は、倭ノ国に有リけりと云意以て、称申せるなり、【又倭と云は、本よりの御名の倭男具那の倭に因れるかとも見ゆれどなほ然には非じ、】(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/112、漢字の旧字体は改めた)
○倭建御子、御名義、上文に於二大倭ノ国ニ一云々とあるを承て見べし、西ノ方には、吾二人に並ぶ、建き人は無きに、吾等に猶勝りて建き男は、倭ノ国に有リけりと云意以て、称申せるなり、【又倭と云は、本よりの御名の倭男具那の倭に因れるかとも見ゆれどなほ然には非じ、】(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/112、漢字の旧字体は改めた)
現代の議論としては、まず、西宮1993.に次のようにある。
……タケとタケルとの違ひは、人名の核の部分で、
A 語頭の「建(武)」はタケ
B 語尾の「建(健・武・猛)」はタケル
の如く、語の頭にくるか、尾(「建」単独も同じ)にくるかによつて訓み分けができるといふわけである。例へば「稚武彦王」(景行紀五十一年初の条)はワカタケヒコノ王であり、「稚武王」(同上)はワカタケルノ王である。かくして、「倭建命」「日本武尊」はヤマトタケルノミコトと訓む。(424頁)
A 語頭の「建(武)」はタケ
B 語尾の「建(健・武・猛)」はタケル
の如く、語の頭にくるか、尾(「建」単独も同じ)にくるかによつて訓み分けができるといふわけである。例へば「稚武彦王」(景行紀五十一年初の条)はワカタケヒコノ王であり、「稚武王」(同上)はワカタケルノ王である。かくして、「倭建命」「日本武尊」はヤマトタケルノミコトと訓む。(424頁)
古訓や宣長に、ヤマトタケノミコトと訓んでいたのは、「タケルは四段動詞(猛威を振ふ)の終止形であるが、それが「梟帥(夷賊の大将)の如き「人」をいふ意味にも用ゐられると、今度はそのやうな名を避けようとする心理が働いて、タケシの形容詞の語幹タケで訓むことになつたものと考へられる。」(同頁)、「五十猛命」(神代紀第八段一書第四・第五)、「建王」(斉明紀四年五月)と訓んでいるのだから正しいとする。
一方、中村2009.では「倭建御子」をヤマトタケノミコ、「倭建命」をヤマトタケノミコトとしている。脚注に、「近来「やまとたける」と訓むが「たける」の卑称でたたえるわけがない。平安時代以来の古訓に戻す。」(135頁)とある。詳論は、中村2000.に展開されている。ヤマトタケと訓むべきとし、意味的にヤマトタケルノミコと呼ぶのはおかしいと考えている(注3)。
いわば『日本書紀』が西の方の不従反乱の首領を「梟帥」・「魁帥」と表記した時、それは咆え、叫び、馬のように嘶き、獅子のように大怒する野蛮の表現であった。その日本語が「タケル」なのである。天皇を中心に据え、そのミヤコからヒナへの放射の論理の中での、ミヤコの対極ヒナの賤賊が「タケル」であった。大和の中にあっても、天皇(即位前であっても)の坐す所(ミヤコ)と、不従無礼者の関係は同様であり、出雲も同様である。この関係はそのまま……[川上梟帥による]「是以、賤賊陋口以奉二尊号一」とある賤しい賊の陋しい口で、尊い御名を奉る、という賤陋と至尊の関係である。その賤陋の代名詞「タケル」を、至尊の小碓命にそのまま献りうる筈がないではないか。(294頁)
そして、「尊号」についての史記や漢書の例をあげている。しかし、記紀は漢語を借りて書いているだけで、思想をまるごと引き継いでいるわけではない(注4)。中村氏は続けて、「尊号は上られるものであり、この形式が小碓尊に採り入れられたものとみとめられる。この場合、『古事記』では「倭建御子」で、『日本書紀』は「日本武皇子」であるが、「ヤマト タケル ノ ミコ」とか「ヤマト タケ ノ ミコ」の語構成ではなく、「ヤマトタケル ノ ミコ」または「ヤマトタケ ノ ミコ」ということになろう。中国での尊号に卑称が用いられていないことと併わせみれば、「ヤマトタケル」の訓みは成り立ちようのないことがわかる、というものであろう。」(294~295頁、字間の誤りは正した)としている。
筆者は、ここに議論の盲点を見る。熊曽建や川上梟帥のような賤しい輩から賤しい名前を献上されてそのまま受けたかといえば、小碓命(日本武尊)は受けていないことが明記されている。「自レ今以後、応レ称二倭建御子一。」(景行記)、「自レ今以後、号二皇子一応レ称二日本武皇子一。」(景行紀)と、ヤマトタケルノミコという名前にしたらいいではないかと提案されている。熊曽建や川上梟帥は自分の名前をあげようと言っているとしか考えられないから、タケルという名を名乗ってくださいと言っている。しかし、実際には、「故、自二其時一称二御名一、謂二倭建命一。」(景行記)、「故至二于今一、称二-曰日本武尊一。」(景行紀)となっている。「建」や「武」の訓みがタケルであれタケであれ、ミコ(御子・皇子)とミコト(命・尊)とは言葉が違う。タケルという言葉が賤しい言葉であったのを、意味を取り換え、対象を変更することで可能にしている。中村2000.は、語構成において、「ヤマト タケル ノ ミコ」と捉えている。それを受ける側は、「ヤマ ト タケル ノ ミコト」と受け取っている。
名前の変遷
名前の変遷をまとめると、倭男具那王(曰本童男)→倭建御子(日本武皇子)(ミ・コは甲類。この段階では自称していない)→倭建命(日本武尊)(ミは甲類、コ・トは乙類)という流れで進化していっている。名前が変わると人格の転換があるように思われるが、人というものはそう簡単に改心したり、自己変容を来たしたりできるものではない(注5)。彼の性格も特に変わらず、外敵の征伐に明け暮れている。出家、遁世やジェンダー転換の道へと進んだわけではない。その一貫性は、呼ばれるものとしての名前にも存していただろう。無文字文化においてのアイデンティティは、意味のある名前にあらわれている。名前とは呼ばれるものである。端的に言えば綽名だからである。守屋1988.に、次のようにある。
一体、古代の人々の思惟では、人の名はその名で表わされた人そのものであった。単なる記号ではなかったのである。名は実体だったのである。すれば、名はその人にとっては、きわめて大切なものであったとみなければならないのである。時には秘すべきものでもあったのである。だから、神の名や天皇の名ということになれば、重要な意味を持つものになってくるのである。そこから、神や天皇の名の由来を説明する神話や物語が作られてくるのである。記紀が語るように、神話や物語があって、そこから名がでてきたのではなく、まず名があって、そこから神話や物語が引きだされてきたのである。記紀の記述とは順序が逆なのである。……このようにみてくると、この物語にしても、少くともあの会話の部分は、倭建命の名の由来を語るものとして、その名から作られたものとみられるのである。(80頁)
筆者は、名前と説話は同時に作られて、それが言葉として確立しつつ説明されていると考えている。言葉の第一定義、あるいは定理である。そして、言葉を発したと同時にその言葉の正しいものであることを、その場で解き明かしてみせている。もともとのヲウスという名の由来については、彼が双生児として生れたことと関係づけられている。
后二の男を生れます。第一をば大碓皇子と曰す。第二を小碓尊と曰す。一書に云はく、皇后、三の男を生れます。其の第三を稚倭根子皇子と曰すといふ。其の大碓皇子・小碓尊は、一日に同じ胞にして双に生れます。天皇異びたまひて、則ち碓に誥びたまひき。故、因りて、其の二の王を号けて大碓・小碓と曰ふ。是の小碓尊は、亦の名は日本童男。童男、此には烏具奈と云ふ。亦は日本武尊と曰す。幼くして雄略しき気有します。壮に及りて容貌魁偉し。身長一丈、力能く鼎を扛げたまふ。(景行紀二年三月)
大系本日本書紀の注に、「飯田武郷は栗田寛の説として、伊豆三宅島では産婦が臼にとりつき産する風習があることを参考に挙げたが、中山太郎は、栃木県足利郡において、難産のとき姙婦の夫が臼を背負って家の囲りを廻る習俗や、日高アイヌでは、お産が重いと臼に産婦が腹を押しあてる習俗、愛知県南設楽郡千郷村地方では、他家に嫁して子供ができた娘が初めて生家に帰ったとき、まずその子を臼の中に入れる習俗をあげ、出産と臼が密接な関連をもっていることを論じた。金関丈夫は、難産のとき夫が臼を背負って家を廻る習俗を重要視し、景行天皇も臼を背負って家を廻ったが、一人生れたがまだ終らず、二人生れるまで、重い臼を背負っていなければならなかったので、天皇思わず臼にコン畜生と宣うたのだと解釈している。」((二)61頁)とある。孫引きばかりの解説で下駄を預けている(注6)。石上1983.には、「碓子 臼 神の在処と思われるものは、神そのものと考えられる。臼は、食料調製具、また神を招ぐ楽器として、重要であったので神聖視され、神体として祀られる。「万葉集」・巻十六、「乞食者詠」(三八八六)に、「庭にたつ臼(碓子)」とあるのも、神座である臼なのであろう。」(136頁)とある。この考え方も追随するものが少なく、了解に至る説明ではない。臼が古く神座と思われていたのか確証がない。臼の形が蓮台に似ていることで関係が生まれてくるのかもしれないが、不明である。むしろ、俗に臼を女性、杵を男性に見立てていることと関係があろうか。臼相手に Wow とか Yeah などと叫んだということである。
桜井2000.に、次のようにある。
……出産の民俗では、双子は不祥として忌まれ、臼は女性そのものの象徴とみるのである。景行天皇が双子が生まれて「臼に誥ぶ」というのは、不祥として忌まれた双子を再び生まない呪法だったとみるべきであろう。双子は祝福されなかったのであり、ヤマトタケルは生まれながらにして悲劇的な一面を背負わされていたことになるであろう。(138頁)
厠は斎屋としても理解されていたのである。その厠で小碓命は兄大碓命を殺害することによって、ヤマトヲグナになることができたのであろう。ヲグナのヲグはヲキすなわち「招き」と同根の語であり、ナは人の意とみてよかろう。すなわちヤマトヲグナとはヤマトの神霊を招き寄せる童子、いわばヤマトの神の憑坐であり、ヤマトの神の子とみられたことであろう。ヤマトヲグナとヤマトの巫女であるヤマトヒメとのかかわり方が解けてくるではないか。(141頁)
厠は斎屋としても理解されていたのである。その厠で小碓命は兄大碓命を殺害することによって、ヤマトヲグナになることができたのであろう。ヲグナのヲグはヲキすなわち「招き」と同根の語であり、ナは人の意とみてよかろう。すなわちヤマトヲグナとはヤマトの神霊を招き寄せる童子、いわばヤマトの神の憑坐であり、ヤマトの神の子とみられたことであろう。ヤマトヲグナとヤマトの巫女であるヤマトヒメとのかかわり方が解けてくるではないか。(141頁)
事はそう都合よく民俗的に読み解くことはできない。双子が不祥であるかどうかよくわからないし、厠が斎屋となるとおちおち用も足せなくなり、また、名の因果関係を説くことも難しい。ところによっては双子の誕生を喜ぶ習俗も見られる。おそらくは栄養事情から考えて、双子は命のリスクが高くなるからあえて望むことではなかったということではないか。けれども、生れてきてしまったら生れてきてしまったものである。ただ、ヒトは一度に一人が基本で、双子が生まれることは少なく、「畜生腹」、「畜生児」と呼ばれることがあったということである。民俗の言い伝えの解釈としては、臼は女性そのものに譬えられ、臼に向かって誥ぶこととは多産のイヌのような母胎だということになり、それにふさわしい声はイヌの声、それも遠吠えに当たる声を発することを言っているものと考えられる。群れの仲間がたくさんいることを確認し合うのが遠吠えだから、多産で大家族を確かめ合っているイヌ科動物の遠吠えほど誥ぶときの声にふさわしいものはないだろう(注7)。
双子で生まれてきたとき、畜生腹かとあやしんで臼に向かって誥んだ。そこから、順序として、兄を大碓皇子、弟を小碓尊と決めた。注目すべきは、なぜかミコ(「皇子」)とミコト(「尊」)と、異なる呼び名が行われている点である。第三子も「稚倭根子皇子」とミコ称なのだから、小碓においてのみ意図的にミコトにしようとしているとしか考えられない。これは後にヤマトタケルノミコト(「日本武尊」)へと至る伏線、あるいは、なぞなぞのヒントとして掲げられているのだろう。
大きな臼と小さな臼
左:大きな臼(浜松市角江遺跡出土、弥生時代、静岡県埋蔵文化財センターサテライト展示http://www.smaibun.jp/Satellite_tenji.html)、右:小さな臼(火きり臼、zyugyotokodomonet様「火起こし実演」https://www.youtube.com/watch?v=_uwr4P7HEhg)
大きな臼で米穀を舂くのは、大量の精米の必要性から行われる。酒造のためである。しかし、お酒が求められるのは、宴の時だけである。だから、兄の大碓命は普段の朝夕の食膳に陪侍しない。そのためネグ事件として描かれている。
天皇、小碓命に詔はく、「何とかも汝が兄の朝夕の大御食に参ゐ出で来ぬ。専ら汝、ねぎ教へ覚せ」と此如詔ひて以後、五日に至るまでに猶参ゐ出でず。爾くして、天皇、小碓命に問ひ賜はく、「何とかも汝が兄の久しく参ゐ出でぬ。若し未だ誨へず有りや」ととひたまふに、答へて白さく、「既にねぎ為つ」とまをす。又詔はく、「如何にかねぎしつる」とのたまふに、答へて白さく、「朝署に廁に入りし時、待ちて捕へ、搤り批きて其の枝を引き闕きて薦に裹みて投げ棄てつ」とまをす。是に天皇、其の御子の建く荒き情を惶りて詔はく、「西方に熊曽建二人有り。是、伏はず礼無き人等ぞ。故、其の人等を取れ」とのたまひて遣はしき。(景行記)
他方、弟の小碓命は、小さな臼で、毎食、米を舂いて脱穀し、ご飯を炊いて食べている。その際、どの程度舂いたか、玄米の歩合がどうであったかや、煮て食べたか蒸して食べたかなど、難しい問題は措いておく(注8)。小さな臼として毎回脱穀したと想定されうるのは、臼と呼ばれるものの最も小さな形態が火きり臼だからである。火きり杵を回転させて摩擦熱を発生させ、着火させる。記に、「海布の柄を鎌りて、燧臼を作り、海蓴の柄を以て燧杵に作りて、火を鑽り出だして云はく、」(記上)とある。すなわち、小さな臼は炊事の始まりを意味している。そのようにヤマトコトバは練られ作られている。電子レンジでチンすることのなかった時代である。食事をするためには必ず火を熾さなければならなかった。だから、小さな臼は毎度の食事を表して正しい。
農耕によって得られるようになったご飯は掛けがえのないエネルギー源であるものの、そればかりでは栄養が偏り脚気にもなりかねない。肉、魚、野菜、乳製品などまんべんなく食べることは健康に良い。おかずが必要である。おかずのことはヤマトコトバでナ(菜・魚)である。小さな臼は必然的にナを招くことになる。招くことはヤマトコトバにヲク(招)である。桜井2000.は神霊を招くことと捉えていたが、ヲグナという語はそもそもがナを目的語としていると思われたと考えられる。だから、ヲウス(小碓)のことは、別名、あるいは、同名として、ヲグナ(童男)ということとなる。ヤマトコトバの会意語とでも言うべきものとする新定義を下してもいいのかもしれない(注9)。
紀では熊襲討伐の話の初めから「日本武尊」という名で登場している。記では命名譚らしく、話の最後に「倭建命」として書き表されている。これをヤマトタケルノミコトと言ったか、ヤマトタケノミコトと言ったかが目下の課題である。語幹にタケ(ケは甲類)とする語は、形容詞のタケシ、動詞のタケブ、タケル、名詞のタケルがある。丈・竹・茸・岳・高などのタケはケが乙類なので別語である。
…… 勇みたる 猛き軍卒と〔多家吉軍卒等〕 ……(万4331)
武芸人に過ぎたまふ。(綏靖前紀)
……素戔嗚尊の、武健くして物を凌ぐ意有ることを……(神代紀第六段一書第一)
稜威の雄誥 雄誥、此には嗚多稽眉と云ふ。……(神代紀第六段本文)
盾を植てて雄誥びしたまふ。雄誥、此には烏多鶏縻と云ふ。(神武前紀戊午年四月)
大夫の 思猛て〔思多鶏備弖〕 ……(万2354一云)
是に浦島子、感りて婦にす。(雄略紀二十二年七月)
仙霊毗草 陶隠居に曰はく、淫羊藿〈宇無岐奈、一に夜末止利久佐〉は羊、此の藿を食へば一日に百遍す、故に以て之れを名く。一に剛前と名くといふ。蘇敬に曰はく、俗に仙霊毗草と名くは是といふ。〈漢語抄に仙霊毗草は万良多介利久佐と云ふ〉(和名抄)
誇 苦爪反、平、又下更反、挙言也。伊比保己留、又云太介留。(新撰字鏡)
嘋哮 二正、タケル、サケフ、ホユ、下文音孝、烏教反。(名義抄)
やつめさす 出雲建が〔伊豆毛多祁流賀〕 ……(記23)
八十梟帥 梟帥、此には多稽屢と云ふ。(神武前紀戊午年九月)
形容詞のタケシは、雄々しいこと、勇猛であることを示す。その動詞化したタケブは、勇み立って怒号する、憤怒して大声を出す、いきり立って荒々しく振る舞うの意である。動詞のタケルは興奮して気持ちがたかぶる、特に色情が昂進して精神が不安定になることをいう。虎や獅子が吼え鳴き叫ぶような大きな声をあげることもタケルこととされている。やはり形容詞タケシの動詞化したものである。「感」字はカマクとも訓む。深い感動や感じ入ることとされている。白川1995.に、「「かまく」は感の字音によるとする説もあるが、囂と同系の語で、それにまぎれ、さそいこまれる意であろう。」(455頁)とする。大音響のなかに陥ることでは、カマクもタケルも同じである(注10)。名詞のタケルは、「梟帥」、「魁帥」とも書かれ、威勢があって勢いのある者のこと、特に地方に威を揮っていた蛮族の長をいう。「魁帥」は、「魁帥、此には比鄧誤廼伽瀰と云ふ。」(神武前紀戊午年八月)と訓注がある。人の兄の意であるとされる。
中村2000.の指摘どおり、タケルという形容は、直接的には賤賊、「梟帥」、「魁帥」に似つかわしい。都人たるヤマトの小碓命にはふさわしくないように見える。だからこそ、ヤマトタケルノミコと称したらどうですかという提案を却下して、熊曽建、川上梟帥を殺している。ヤマトタケルノミコでは、ヤマト(トは乙類)地域におけるタケル的存在の皇族と理解されてしまう。ヤマトも皇族も賤しくはない。ところが、そのミコに一音ト(乙類)が加わり、コ甲類がコ乙類へ変化しながら、ヤマトタケルノミコトと言い換えてみたら、言葉としてうまく適合した。得心がいったということで、命名譚として話が成立している。おもしろいと思ったのである。ト(乙類)は処の意のト(乙類)と同音である。
吠え声のこと
タケルの義のうち、咆哮する意として捉えたのである。イヌの遠吠えをどのように書記するかについては、擬声語として定まっているとは言い難い(注11)。それが蛮族由来のものとするなら、オオカミの遠吠えとして考えるのがふさわしい。タケルの欲情的興奮は動物的な情動を指している。家畜化した草食男子のイヌとは対極の様相が、オオカミの雄誥びである。オオカミが遠吠えする声こそ、たけびたける声として最もふさわしい。相手は熊曽建(記)であり、川上梟帥(紀)である。クマのような、川の上流にいる兇猛な獣に対抗するにはオオカミがふさわしい。大声をあげて動物が叫ぶ語は、ホユ(吠・吼)である。獣がたけり鳴くこと全般に使われている。
啼 度嵇反、乱㘁也。保由。(新撰字鏡)
吠 上字犬乃保由留。(新撰字鏡)
嘷 玉篇に云はく、嘷〈胡刀反、豪と同じ〉は虎、狼の声なりといふ。唐韻に云はく、吼〈呼后反、字は亦、吽、呴に作る〉は牛の鳴くなり、吠〈符廃反、己上の三字の訓は並びに保由〉は犬の鳴く声なりといふ。(和名抄)
……山岳為に鳴り呴えき。此則ち、神性雄健きが然らしむるなり。(神代紀第六段本文)
爰に万が養へる白犬有り。俯し仰ぎて其の屍の側を廻り吠ゆ。(崇峻前紀)
流れ星に非ず。是、天狗なり。其の吠ゆる声、雷に似たらくのみ。(舒明紀九年二月)
…… 吹き響せる 小角の音も 仇見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ……(万199)
…… 吾が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
ヤマトコトバにホユ(吠)、漢語にホウコウ(咆哮)、英語に howl 、みなオノマトペ的造語である。イヌの場合、代表的な声として、bark に Bow-wow、howl に Owooo、growl に Grr、Urr などがある(注12)。けれども、オオカミの場合は howl が中心となる。Owooo とつづく長い発音こそ、雄たけびの代表音であろう。
オオカミの遠吠え(AnimalsAndLaughter様「Wolf Sanctuary - Pack Howling」https://www.youtube.com/channel/UCWwJI5waVnTD8ldBeYe-RMQ)
日本民俗大辞典の「おおかみ 狼」の項に、「日本人の民俗において、狼の意味は次の三点に集約されるだろう。第一に、農作物を荒らす猪・鹿などを駆除する益獣として期待された。第二に、「虎狼」という表現に示されているように、この動物にはたけだけしい野獣というイメージが付着している。実際家畜、ときには人をも襲う。第三に、山に住む犬的な動物とみなされた。以上の狼観は、日本における狼信仰の成立に際し、大きな役割を果たした。」(233頁、この項、中村禎里)とある。食い足りない説明である。ここでは狼の民俗誌について大風呂敷を広げることはしないが、狼の狼たる言葉の所以が、民俗に反映されていないはずはなかろう。山にすむ動物の wolf をオホカミと認識したこと、それがヤマトの人にとっての狼民俗の始まりではないか。近世の三峯神社の「お犬様」のお札は、ついこの間の出来事にしか思われない。
ヤマトコトバではオホカミは神の尊称としてオホ(大)+カミ(神)の意であったことは確かであろう。wolf に当たる動物をそのオホカミという語に措定した古代の人の観念にこそ、狼の意味、狼とは何かという根源的な問いと答えがある。日本書紀などに性質の兇猛である点を例えとして用いられている。すなわち、本稿で取りあげているその声である。声自体は書記されていないから何と吠えたと聞きなしたか定められないが、人の雄誥びの声はいくつか記されている。そしてまた、オオカミの遠吠えが仲間と呼び合う声であることは知られていただろう。応答の語の声の大なるものはそれと似ている可能性もある。さらに、オホクチノ(大口の)という枕詞があり、大きな口を持つ狼の意で、マカミにかかっている。
今、陛下、嗔猪の故を以て舎人を斬りたまふ。陛下、譬へば豺狼に異なること無し。(雄略紀五年二月)
高倉、「唯々」と曰すとみて寤めぬ。(神武前紀戊午年六月)
大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに(万1636)
三諸の 神奈備山ゆ との曇り 雨は降り来ぬ 天霧らひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に至りきや(万3268)
大系本日本書紀の補注に、「唯唯は承諾のことば。文選、西都賦六臣注に「唯、応敬之詞」とみえる。唯唯の和訓のヲは、間投助詞のヲと同じもので、それを二つ重ねてヲヲというものと思われる。延喜祝詞式、祈年祭条の最初の所に、「集侍神主、祝部等、諸聞食登宣。神主・祝部等共称レ唯。余宣准レ此」とある所の「唯」も同じくヲヲと訓んでいる。」((一)396頁)とある。応答詞とされるヲヲはいわば動物的反応であるから、同じく反射的な発語形態である間投助詞と組成を同じくすることは大いにあり得ることである。ただし、伴信友・応声考などの解釈書にあるような、きちんと決まりをもっていろは48文字なり50音に写されているわけではないであろう。表記と音とが別々に変化していくことがあって、歴史上言文一致運動のようなことが起きている。ここのヲヲという語についても、wowo としか言わなかったとは考えられず、au や ou や aa や wou や wau や um や wawa など、いろいろなバリエーションがあったと感じられる。また、同じ発声が行われていても、よく似た近接する音と感じられて、を、おお、おう、あう、あふ、おつ、お、などと写されなかったとは言えない。しかし、応答詞について、古い時代に用例が多く残されているわけではないのも事実である。佐藤1999.に次のようにある。
……Vŏは別の古形の名残を留めている。『日葡辞書』には、「うん、そうだ。同意したり、物事を証言したり、許容したりする意を示すのに用いられる語」と説明があるが、その通りの文脈で、『平家物語』(鵺)に「お(異文 を)う」、『宇治拾遺物語』・『八百屋お七』(浄瑠璃)に「おう」、虎寛本狂言に「をを」と種々の形で表記されている。調査が不十分ではっきりと指摘できないが、江戸時代の文献にはこのほかに「あう」「あふ」「おふ」「応」などの形のものもいずれ見いだされるのではないかと期待される。Vŏ は、「を」の交替形「*わ」の長呼とおぼしいが、もっと単純に考えれば、感動の声「を」を二つ重ねたものから出ていると見てもよいであろう。「を」の母音が脱落気味に発せられたのが「う」、「をを」の母音交替形が「ゐゐ」という考え方からすれば、最も古い時期のものに「を」「をを」が見られ、「う」などの形がこれに遅れて登場するのも納得が行くであろう。(237頁、誤りと思われるカギ括弧は省いた)
神武紀では、「*わ」の長呼を「唯唯」と記したのであろう。このヲヲなる音声は、オオカミのほこり吠える大声ととてもよく似ている。あるいはヲウと記しても間違えではないと思われたであろう。すなわち、もともとの名であるヲウスノミコト(小碓命)とは、ヲウ(雄誥びの声)+ス(動詞「為」)+ノ(助詞)+ミコト(命)と捉えることができる。雄誥びを為ることとは、雄誥びをあげることである。名替えしたかに思われるヤマトタケルノミコトも、それと同じ意味合いなのだろう。ヤマトにタケルが下接するヤマトタケルという語は、語の本質的理解において、ヤマ(山)+ト(処、トは乙類)+タケル(咆哮)の構成であると感じられる。山中において咆哮することは、本邦においては虎や獅子はいないから、オオカミの遠吠えと聞いたことであろう。生れたときに双子だったため、臼に向かって誥んでいた。その声は、ヲウと記して誤りでない音声である。ヲウという擬声語を発声することこそ山で誥ぶことなのである。
近代登山では山でヤッホーと声をあげる。ときに山彦となって返ってくる。それはちょうど、オオカミが本能的に遠吠えをして仲間に呼びかけたとき、仲間も同じく声をあげてハーモニーを醸し出すことに相当する。オオカミがサイレンに反応するのは、サイレンが鳴り響いて遠くまで聞こえる効果を狙っているのと同じことをしている。オオカミの場合は答えるものがいるが、人間が大声を出しても反響はするが、答えて叫びあう本能は持っていない。結果、何かが山に棲息していて答えていると思われたものが山彦である。山でヲウなどと誥べば、それは山彦、木霊であると捉えられる。ヤマトタケルという名自体が、山彦ということになる(注13)。
…… 山の極 野の極見よと 伴の部を 班ち遣し 山彦の 応へむ極み ……(万971)
筑波嶺に 吾が行けりせば 霍公鳥 山彦響め 鳴かましやそれ(万1497)
〓(虫偏に免) 山比古(新撰字鏡)
樹神 内典に、樹神〈和名は古多万〉と云ふ。文選蕪城賦に云はく、木魅は山鬼といふ。〈鬼は下文に見ゆ。今案ふるに木魅は即ち樹神なり〉(和名抄)
「ヤマ+ト+タケル」という語句の塊は、今で言えばヤッホーという言い方が決まり文句となってよく知られているものである。その昔はヲウであったと推測される。一つの言説としてまとまりを持って存在している。この点は重要である。
(つづく)