コノハナノサクヤビメの逸話は、記紀ともに、ホノニニギノミコトとの婚姻譚に語られている。ここでは、記の話を中心に、その話の謂わんとするところを探る。筆者は、記紀に語られているいわゆる神話(注1)は、技術革新の世紀である5世紀の技術伝播について、人々にわかりやすく伝承されるべくつくられた創作話であると考えている。話の前半部分、ホノニニギがコノハナノサクヤビメと結びながら、イハナガヒメは返し送った話について検討する。
是に、天津日高日子番能邇邇芸能命、笠沙の御前に、麗しき美人に遇ひたまふ。爾くして、「誰が女ぞ」と問ひたまへば、答へ白さく、「大山津見神の女、名は神阿多都比売、亦の名は木花之佐久夜毘売と謂ふ」とまをす。又、「汝が兄弟有りや」と問ひたまへば、「我が姉、石長比売在り」と答へ白す。爾くして、詔りたまはく、「吾、汝に目合せむと欲ふ。奈何に」とのりたまへば、「僕は白すこと得ず。僕が父、大山津見神白さむ」と答へ白す。故、其の父、大山津見神に、乞ひに遣したまふ時、大きに歓喜びて、其の姉、石長比売を副へ、百取の机代の物を持たしめて奉り出す。故、爾くして、其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送りて、唯其の弟、木花之佐久夜毘売のみを留めて、一宿婚為たまふ。爾くして、大山津見神、石長比売を返したまひしに因りて、大きに恥ぢて、白し送りて言はく、「我が女二並べて立て奉りし由は、石長比売を使はさば、天神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如くに、常に堅に動かず坐さむ。亦、木花之佐久夜毘売を使はさば、木の花の栄ゆるが如く栄え坐さむ、と、うけひて貢進りき。此く、石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売を留めたまふが故に、天神の御子の御寿は、木の花のあまひのみ坐さむ」といふ。故、是を以て今に至るまで、天皇命等の御命長くあらぬぞ。(記上)
時に皇孫、因りて宮殿を立てて、是に遊息みます。後に海浜に遊幸して、一の美人を見す。皇孫問ひて曰はく、「汝は是誰が子ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「妾は是、大山祇神の子。名は神吾田鹿葦津姫、亦の名は木花開耶姫」とまをす。因りて白さく、「亦、吾が姉、磐長姫在り」とまをす。皇孫の曰はく、「吾、汝を以て妻とせむと欲ふ、如之何。」とのたまふ。対へて曰さく、「妾が父大山祇神在り。請はくは垂問ひたまへ」とまをす。皇孫、因りて大山祇神に謂りて曰はく、「吾、汝が女子に見す。以て妻とせむと欲ふ」とのたまふ。是に、大山祇神、乃ち二の女をして、百机飲食を持たしめて奉進る。時に皇孫、姉は醜しと謂して、御さずして罷けたまふ。妹は有国色として、引して幸しつ。則ち一夜に有身みぬ。故、磐長姫、大きに慙ぢて詛ひて曰はく、「仮使天孫、妾を斥けたまはずして御さましかば、生めらむ児は寿永くして、磐石に有如に常存らまし。今既に然らずして、唯弟をのみ独見御せり。故、其の生むらむ児は、必ず木の花の如に移落ちなむ」といふ。一に云はく、磐長姫恥ぢ恨みて、唾き泣ちて曰はく、「顕見蒼生は、木の花の如に、俄に遷転ひて衰去へなむ」といふ。此世人の短折き縁なりといふ。(神代紀第九段一書第二)
コノハナノサクヤビメの名義の起こりを、花を愛でたことに求める発想が通説となっている。新編全集本古事記には、「「木花」は特に桜の花を指す。「佐久夜」はサク(咲)に、状態化の接尾語ヤの付いた形。桜の花が咲くように美しい女神。」(121頁)とある(注2)。桜の花を今日のように愛でたのは、豊臣秀吉の醍醐の桜や吉野の桜によく知られる。日本文化において桜を愛でるようになった決定打は、小野小町の和歌「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」を文化的に本歌取りするようになったことである。しかし、多くの論者に指摘されているとおり、万葉集に桜を花として愛でる風雅は見られない。古代には桜はその樹皮が特に実用材で、曲げ物を綴じるための綴じ皮として重んじられている。万葉集に、中国では cherry に同定されない「櫻」という字を用いており、キノコ、すなわり、サルノコシカケをイメージさせている。サクラという言葉は、飛鳥時代には、サル(猿)+クラ(鞍)→サクラと感じとられて洒落を飛ばしあっていた(注3)。
西郷2005.に、「木花之佐久夜毘売は説話上の名である。スサノヲの系譜の条に「大山津見神の女、木花知流比売」……というのがあった。そこでいったように花は乙女を象徴する。万葉にも、「つつじ花、香少女、桜花、栄少女」(一三・三三〇五)と見える。とくにコノハナノサクヤビメという名は美女を彷彿させるものがある。サクヤヒメのヤは、「難波津に、さくやこの花」(「古今集」序)のヤと同じく間投詞。それが何の花であるかを特に詮索する必要はない。花が山の神のものであることは、人麿の歌に、「山神の、奉る御調と、春べは、花かざし持ち」(万、一・三八)とあるのによって知りうる。」(104頁)とある。筆者にはこの主張も不思議に思われる。柿本人麻呂が比喩表現としてたまたま使ったがために、花がすべからく山の神の持物とされることはなかろう。また、イハナガヒメは醜いかもしれないが、老女ではなく乙女である。ヤが間投詞かどうかに疑問が残る。
橋本1995.に、「コノハナノサクヤヒメが登場する伝承[(記、紀本文・一書第二・一書第六・一書第八)]にはニニギノミコトも登場する。そして、コノハナノサクヤヒメが登場しない伝承にはニニギノミコトも登場しない。」(72頁)、「『日本書紀』本書、第八の一書は、コノハナノサクヤヒメが登場しているのにもかかわらず、天皇の短命起源譚がない伝承である。このことも、短命起源譚がコノハナノサクヤヒメとは関係が薄く、イワナガヒメとは濃厚であるということを言い表しているものと思われる。」(75頁)とあり、伝書の系列を見定めると、「イワナガヒメや短命起源譚はコノハナノサクヤヒメとは元来繋がりがなかったと思われる。」(80頁)としている。花が散るから短命だとする前提は鵜呑みにはできないということである。記紀で話の構成に多少の違いがあるものの、神代紀第九段一書第二の「短折」はイノチモロキ、イノチミジカキと訓まれており、命というものはステンレス製の物干し竿ではなく、いつ錆びて折れるかも知れないステン巻きの安物という言い方をしている。
コノハナノサクヤビメの名義の謎にせまるために、「木花知流比売」があげられている。スサノヲの系譜に、「大山津見神の女」(記上)として名前だけ出てくる。一方は咲くほうで、他方は散るほうとされている。しかし、コノハナチルの対が、コノハナノサクヤとあるのは不自然である。コノハナサクヒメとせずにもったいぶっている。言霊信仰によっていて、言葉一語一語を大切にした古代の人たちは、そうするにはそうするなりの理由があったと考えられる。「木花+の+咲く+や+姫」のノは格助詞、ヤは間投助詞で状態化の接尾語と捉える通説には問題点がある。ノを投入した理由を示し得ない。
大野1993.に、「係助詞のヤと、いわゆる間投助詞のヤは、根源的に同一のものと見られる。」(295頁)とありながら、「まったく歌の音数律に合わせるためだけのもの」(293頁)として、「天飛ぶ軽少女(書紀歌謡七一) 天飛ぶや軽の道(万葉二〇七)……さを鹿の伏すや草むら(万葉三五三〇)」(293~294頁)といった例を挙げ、四音を五音、六音を七音にととのえるためと説明している。「「事態がすでに成立していると見込んでいて、その判断を下し、きっとそうだと相手に問いただす」のがヤの役割なのである。」(272頁)、「ヤを用いた場合、話し手は「自分の一つの見込み、あるいは確信を持っている」ということを示す。ヤはそうした確信を相手につきつける。答えを期待する形をとりながら実は自分の持つ意向を表明する。」(277頁)、「ヤの用法は、……承ける言葉を確実であるとする、あるいは確定的・既定的であるとする、あるいは旧情報であるとするという性格を、奈良時代にはそのまま具現していたことを示すといえる。」(281頁)、「……ヤに反語を形成する場合がある。……反語とは、相手の判断を逆につきつけることによって、実はそんな判断はあり得ないと相手に向って否定の主張をする方法である。」(292頁)と縷述されている。間投詞的に見えるヤについても、「天飛ぶや軽の道」の「天飛ぶや」が枕詞として常套句になっていることは、ヤに既定性の表明が含意されているからに他ならないといえるだろう。また、「さを鹿の伏すや草むら」と「さを鹿伏す草むら」との違いは、前者の「伏す」は終止形、後者のそれは連体形で、前者は饒舌な序詞として機能しているということになる。
わざわざノやヤを投入した「木花之佐久夜毘売=木の花の咲くや姫」という名に関し、「木の花の咲くや」の既定性とは、それを「取り立て」て「強調」することに重点が置かれているものと理解することができる。木の花の咲く様子は、旧情報であり、ただ木の花が咲いていると言うものではなく、木の花が咲いていると言えばそのとおり咲いていると言えるのだが、さあお立合い、とのっぴきならない主張を展開しようとしている。ヤは、動詞「咲く」の終止形に付いて、一度完結した事柄に対して、それはそうなのだけれどさてどうなのだろうと、聞き手に対して強く問いかけてみては自分の言い分を通そうとする言い方である。すなわち、「『木の花が咲いている』というのは、まあ、本当なのですけれどね姫」である。木の花が咲いているか咲いていないかの問題ではなく、木の花が咲いているように見えてはいるという確信を示した命名なのである。わざわざ「取り立て」、「強調」しており、ふつうのものではない木の花であること、木の花として識別が難しいものであること、あるいはそれが錯視、錯覚である可能性までを含め示している。同じオホヤマツミの娘として挙げられる「木花知流比売=木の花散る姫」との語学的対比である。
コノハナという語彙は、この説話によって、最終的に、「木の花の阿摩比能微坐さむ。」(記上)となっている。「阿摩比能微」には「此五字、以レ音。」と訓注がついている。この言葉は語義未詳とされる。五字すべてわからないながらも、ノミは助詞であるとされる。……だけ、という意味であろう。そして、アマヒという語はよくわからないながら、西郷2005.に、「アマヒが脆く、はかなく、堅固ならぬ意であることは確かで、甘いことをいう、甘いことでは行かぬ、甘い奴じゃ等の俗語と関係づけ、これを「甘き状を云る辞か」と「記伝」はいう。」(109頁)とある(注4)。作りがあまい、鈍、鈍いという意味になる。意味をたどると「鈍し」に通じ、白川1995.は、「「淺し」「薄し」と同根の語で、その母音交替形である。」(179頁)とする。また、同時に、「似非」という語とも関係するという説がある。似非は、まったく形ばかりで、ひどくまやかしであること、似て非なるもので質がひどく劣ることをいう。木の花のようであるけれど、まったくの贋物でがっかりさせられるものであると遠回しに言っている。そういう巧みな表現技法を、上代のヤマトコトバは持っていたと考える。
ホノニニギは、コノハナノサクヤビメに、まず、どこの娘だい? と聞き、次に、「兄弟」はいるか? と不思議な問い掛けをしている。彼女は、お姉ちゃんにイハナガヒメがいるわ、と答えている。その兄弟問答を無視する形で、エッチしない? と誘ってきている。対して、お父さんに聞かなきゃわからないわ、と答えている。そして結局、ホノニニギに捧げられた姉妹のうち、イハナガヒメはとても醜いからと受け取りを拒否されて返されてしまう。セットで考えられるべきものの片方だけを採用したことを示している。
名は体を表す。イハナガヒメが返送された理由は、名を聞いただけではじめから触手を伸ばすに値しないと感じられたからである。美人の女性の形容には、応神記に「髪長比売」とある。カミナガ、つまり、髪が長いだけで美人かどうかは判断できかねるが、一応認めるとする。それがイハナガとなると、これはもう不細工に決まっている。イハという形容に関して顔のつくりで考えると出っ歯が思い浮かぶ。あるいは、歯が大きくて、その土手の部分まで剥き出しになっているのかもしれない。歯茎のことは古語に齗という。和名抄に、「齗 玉篇に云はく、齗〈音は銀、波之々〉は歯の肉なりといふ。」とある。歯の肉(宍)の意である。ハジシに似た音に、埴、土師がある。イハナガは石を思わせる名だから、アマヒノミという難語には、何か土器と関係するなぞなぞがあるらしい。歯自体は肉ではなく骨に近い。当時の焼き物のなかで考えれば、赤っぽい土師器ではなく、灰青色の須恵器や、その製法に影響を与えもした瓦に似ている。そのために窖窯が登場している。登り窯に近い形態をとり、燃えている最中に穴を塞いで酸素を絶ち還元焼成する。焼き物の製作者は、土師器であれ須恵器であれ、製造者の名は土師である。そして、時代的に少し下るかもしれないが、新しい葬り方は火葬である。火葬すると、瓦の焼成時のように骨が残る。全身が歯と同じ色になる。それを、須恵器とは限らないが骨壺へ納めて墓所へ葬る。漢字の歯は齢に通用してヨハイと訓み、年齢のことをいう。「歯且長りたまへり。」(仁徳前紀)とある。歯がなくなると人は食べることに支障を来し、体力が一気に低下して老け込んで終には亡くなってしまう。点滴も胃ろうもない時代である。以上から、イハナガヒメが長命の象徴にされた理由が納得できる。不慮の事故死、行方不明などではなく、歯が丈夫でよく咀嚼し、大往生を遂げてきちんと火葬されることが、イハナガヒメという名義に託されて隠されている。
イハナガヒメは sister のうち elder である。すべては話である。イハナガヒメが younger になることはない。適当に組み立てられているわけではない。イハの音は、況やの音に通じる。太安万侶は、「兄弟」という用字で記している。況の字は、イハムヤ、マスマスと訓む。藤堂1978.の「況」の「解字」に、「兄は、頭の大きい子どもを描いた象形文字で、きょうだいのうち、比較して大きい者を意味する。況は「水+音符兄」の会意兼形声文字で、水が前に比べてますます大きくふえること。」(719頁)とする。説話の舞台は笠沙であった。カサ(嵩)+カサ(嵩)の約とイメージでき、水嵩の増す岬のようである。また、イハムヤと訓む字に「矧」がある。矢を引くようにたたみかける意である。矧の字はまた、歯茎をも表し、「笑ひて矧に至らず。(笑不至矧。)」(礼記・曲礼上)と使う。きれいで立派な出っ歯のことはミツハ(ミヅハ)(瑞歯、稚歯、ミは甲類)という。瑞歯別天皇(反正天皇)は「生れましながら歯、一骨の如し。」(反正即位前紀)と形容されている。記では、水歯別命は、「御歯の長さ一寸、広さ二分、上下等しく斉ひて、既に珠に貫けるが如し。」と記されている。同音のミツハ(罔象、魍魎、ミは甲類)は、水の神である。「水神罔象女」(神代紀第五段一書第二)、「水を号けて厳罔象女と為ひ、罔象女、此には瀰菟破廼迷と云ふ。」(神武前紀戊午年九月)とある。ホノニニギとコノハナノサクヤビメ、イハナガヒメの登場する話が、水嵩が増す場所に状況設定されている理由が明らかとなる。出っ歯や歯茎を強調したいということである。また、矧の字は、本邦特有の用法として、ハクと訓んで鏃や羽をはめて矢をつくることもいった。この点は後に触れる。
ホノニニギは、長い名前では、「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」といい、天にも国にも親しくて、天の日を高く仰ぎ見るように尊くてある、稲穂が賑やかに稔るところの神さまという意味である。紀には、「天津彦彦火瓊瓊杵尊」とある。新編全集本古事記に、「「番」はホ(穂)、「能」はノ(連体助詞)、「邇々芸」はニ(丹)+ニギ(賑)の意で、稲穂が赤らみ豊かに実ることを表す。」(113頁)、古典集成本古事記に、「「番能邇邇芸」は「稲穂の豊穣」の意。「にぎにぎ」(賑々)の約。」(393頁)、西郷2005.に、「ホはいうまでもなく稲の穂であり、それがニギニギしく豊穣であるのをホノニニギとたたえ」(13頁)ているとする。大系本日本書紀に、「ホノニニギのホは穂。ニニギはニギニギの意。ニギはニギヤカ、ニギハフのニギ。稲穂が賑やかに実る意。」((一)368頁)、新編全集本日本書紀に、「稲穂が賑々にぎにぎしい」(110頁)と同じように解されている。単一の義をもって名にした神さまは、事=言とする言霊信仰から、名に負うことが凡庸にして大根役者に甘んじてしまうと思われる。別の義として、ホノ(ホは乙類)は、ホノカニ、などという語幹のホノ、ニニギ(ギは甲類)のニギニギには、握握の意もあるのではないか。固くぎゅっとではなく、柔らかくかすかに握るようにすることである。掛詞的連続性をもって出来上がっていて名前全体の格調が高まっている。ほのかに握るのは、天孫は赤ちゃんで、ニギニギしている様に適っている。すると、ホノニニギを、今朝の午前中、今の現状から言って、といった自己撞着的に二重に意味を重ねた言いっぷりと考えることができる。あまり固く握らないのが、握り寿司やおにぎりの定法であることが思い起こされる。逆言すれば、握ることができるということは粥ではないということである。
常陸風土記に一例だけながら枕詞が載る。「風俗の諺に、握飯筑波国といふ。」(常陸風土記・筑波郡)とある。それについて、ご飯を乾燥させ、保存携行食である糒にしたこと(注5)なのかはともかく、炊けたご飯を握り飯にすることにまつわるのであれば、「羽」が「付く」から「筑波」に掛かるのではなかろうか。羽釜の羽である。その枕詞的字義が正しいとすると、握り飯を作るのに、まずご飯が羽釜で炊かれなければならないところだが、考古学的根拠から定められるものではない。
稲穂、米、ご飯に関係する物語として譬え話が展開されている。そのホノニニギがオホヤマツミの娘のうち、コノハナノサクヤビメを選び、イハナガヒメは受けなかった。歯のあるのを嫌い、花のように見えるけれどそうではないものを好んで一緒になった。これはすなわち、炊飯器具の話が譬え話として練り上げられている。台所にまつわる物だから国つ神の娘なのである。オホヤマツミのウケヒの言葉に、イハナガヒメを「使はさば」、コノハナノサクヤビメを「使はさば」とあって、ツカフ(使)という言葉が用いられている。人(や擬人化された神)を使うのであれば、使役や使者の意であろうが、マグハヒ(「目合」、「婚」)をツカフ(使)という感覚はなかなかに浮かびにくい言葉の選び方である。物を使用する意としか考えられない。台所道具を使うのである。
歯(羽)の出っ張った炊飯器具は、羽釜である。器の腰の部分につばが付いており、別名を鍔釜という。鍔の出っ張りがあるから竈の穴にすっぽりと入りながらも落ちず、火力を逃さず、煙や煤の漏れも少ない。そのうえ、釜の噴きこぼれが竈のなかに入らず、火が消えたり灰神楽になることも防げる。この釜は、定着こそしなかったものの鉄器として渡来人のもたらしたものが最初である(注6)。浅岡1993.に次のようにある。
本邦で鋳造鉄器が普及したのは、朝鮮半島からはるかに遅れて中世のことである。絵巻などの図からは、竈は寺社の風呂、ないし、厨のような大掛かりな調理に用いられたように思われる。こじんまりした調理では、七輪の登場を願いたいところである。狩野2004.に、「移動式カマドは古代の韓竈を濫觴とし、さまざまに改良を加えられながら最後は七厘に落ち着いた。」(76頁)とある。
左:竃に羽釜と五徳に鍋(春日権現験記絵模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/E0049961.jpgをトリミング)、中左:竃に羽釜と五徳(川崎市立日本民家園展示品)、中右:鉄釜と鉄蓋(韓国梁山夫婦塚出土、三国時代(新羅)、6世紀初頭、東博展示品)、右:土師器の羽釜(高槻市井尻遺跡、平安後期~鎌倉初期、大阪府立近つ飛鳥博物館展示品)
羽釜のように歯が出ていて、あるいは唾を飛ばすような女性は醜女である。イハナガヒメとはこの羽釜を表している。オホヤマツミは羽釜は便利だからと授けようとした。朝鮮半島と日本列島での釜の違いの一つに、大きく括って蓋が鉄か木かの違いがある(注7)。木の蓋をして釜を使う用途はなにより炊飯である。佐原1996.に、次のようにある。
民俗として見て、列島のなかで、東日本では鍋と囲炉裏が一般的であったが、西日本では釜と竈が重用されることになったとされている。この文化的差異については、歴史的経緯ばかりか気候や住居形態、家畜との関係も視野に入れつつ理解されなければならないだろう。その際に、コメの品種にも注意しなければならないのである。ここでは、コノハナノサクヤビメとイハナガヒメについて考慮しており、古代における煮炊き具の画期としての竈出現に絞って考察したい。記紀の説話のなかで、稲穂の神さまとされるホノニニギはイハナガヒメこと羽釜の将来を断った。「返送」している。そして、「兄弟」のうち、コノハナノサクヤビメだけを「留めて」いる。
コノハナノサクヤビメという名義の、確かに木の花のように見えるけれどどうなのだろうかというものとは、木の枝に張られた蜘蛛の巣(網)のことであろう。錯覚で木の花と認められてしまうのである。蜘蛛の巣は放射線と同心円のような渦巻きからできている。オニグモ類やコガネグモ類は、巣を張った最後に中心部分の糸をかみ切り、穴を開け、その後再びそこに糸を張り直して閉じている。張ったばかりの円網の糸の張力を補正しているのではないかという。できあがった姿は、ちょうど車輪のようで、その真ん中の糸の円は車輪のハブ、すなわち、轂のようである。そこで、このような蜘蛛の巣のことはコシキ型と呼んでいる(注8)。特に軒端にいるオニグモ類は毎晩網を張り替えている。夕方や明け方に旧糸を食べて網をたたみ、続けて新しい網を張っていく。子どもたちはこの巣を竹棒につけた輪にとり、小さな昆虫を捕まえるのに使った。
輪と轂(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2596370/8をトリミング)
車輪のつくりとしては、轂にシャーシ、輻が集って車輪を支え、真ん中を車軸が貫いて、それと轂とを轄でとめて回転することになる。轂に輻を嵌めていくことは、上述した言葉「矧く」ことに類似している。轂こそ、車体と車輪とを接合させる基幹である。その轂という語は、「炊飯具のコシキとの形の類似からつけられた名か。」(時代別国語大辞典292頁)、甑のほうは、「コシキの語は炊キからできたといわれる。」(同頁)という。いずれの語もコは乙類、キは甲類であるが、どちらの語が先なのか、また、土師器の甑の穴は適当につけられており、車の轂と形が似ていて言葉が醸成されたと言い切れるのか、筆者には判断がつかない。甑は土器製の米などを蒸す道具である。左右に把手の付いた円い鉢形の土器で、底に穴が開いており、そこから蒸気が上がってくるようになっている。藁などを使った簀を敷き、その上に布を敷き、食物をくるむなどして蒸した。記紀に、稲穂の神さまはこの甑と一夜を共にしたという話が構成されている。一夜で畳まれるオニグモのコシキ型の網の話である。
東日本に典型的に見られる古墳時代の調理法では、蒸気の発生源に、竈に甕を据えて隙間を土で埋めて固定し、その上に甑を重ねたと考えられている。甕付き竈・甑のセットで蒸す調理が行われていた。延喜式に、「贄土師……竈二口、高一尺五寸。竈子十口、受一斗。甑十口、受六升」とある。竈子とは、蒸気発生源となる水を入れて湯を沸かす釜を指している。カマド、カマコ、コシキの三つが一体となって蒸している。甕が竈子(釜)に代わって竃と分離し、「竈子」が生れている。延喜式の記述は、おそらく、移動式カマドでの様子を指し示すものであろう。古墳からミニチュア埴輪としてたくさん出土していてその様子はよく知られる。
「黄泉国の炊飯具(Cooking Tools to be Used after Death(Models))」(小型置カマド・小型羽釜・小型甑、奈良県葛城市笛吹遊ケ岡出土、古墳時代、6世紀、奈良県葛城市笛吹遊ケ岡出土、東博展示品(注9)。
蒸し器のうち木製のコシキは、特に橧と書かれ、水を入れた釜や甕の上に載せられた。蒸籠の原型といえる。播磨風土記・宍禾郡条に、「国占めましし神、此処に炊きたまひき。故、飯戸阜と曰ふ。阜の形も橧・箕・竈等に似たり。」とある。法隆寺伽藍縁起并流記資材帳には、「橧参口 一口径三尺五寸・高三尺五寸、二口各径一尺三寸・高二尺一寸」とあり、大型のものは醸造用に大量に蒸したものではなかったかと指摘されている。コノハナノサクヤビメの名は「亦名」で、記に、「神阿多都比売」とある。紀ではさらに詳しく、「神吾田鹿葦津姫」(神代紀第九段一書第二)とある。熱く炊くことを暗示しているのであろう。また、塔などの一つ一つの層のことをコシ(コは乙類)といい、最下層の差掛は特に裳層という。フェイク・ルーフを形成している。すなわち、層状に重なっているものをコシと呼んでいる。何層にも重ねた蒸籠は、コシキと呼ぶにふさわしく、土器製の甑は穴が開いていて水が溜まらない点で似非甕である。オソ(遅・鈍)─アサ(浅)─エセ(似非)の母音交替についてはすでに触れた。
左:甑(奈良県御所市南郷遺跡群出土、古墳時代中期、5世紀、橿原考古学研究所附属博物館展示品)、右:セイロ(蒸籠)(川崎市立日本民家園展示品)
白川1995.の「こしき〔甑〕」の項に、「甑は曾声。曾はこしきの形で甑の初文。瓦は土器であることを示す限定符である。〔新撰字鏡〕に見える橧は、木製のこしきの意であろう。〔和名抄〕には、甑を木器の部に属している。〔説文〕一二下に「甗なり」とあり、青銅器の自名の器には獻(甗)の字を用いている。殷周の遺器が多い。〔周礼・陶人〕にその器制のことをしるしているから、日用の器は土器であったのであろう。曾の字の最下部は湯をわかす釜の部分、その上が米などを入れるこしきの部分、上部は湯気のさかんに洩れる形である。重ねる器であるから増・層の意となり、また甑の字が作られたのである。」(326頁)とある。木製のコシキは、蒸籠の一種である。井桁状のものばかりでなく、今日なじみのある曲げ物で作られたことも想像に難くない。
左:饕餮文甗(青銅製、中国、西周時代、前11~10世紀、坂本キク氏寄贈)、中:釜・甑(青銅製、中国、後漢時代、1~2世紀)、右:釜や蒸籠をかけた竈(中国山東省出土画像石、後漢、1~2世紀、いずれも東博展示品)
佐原氏は、米を蒸すのは酒造りのためでもあったかと指摘していた。では、蒸された米からどのように酒は造られたのか。本邦の古代における酒造法についてはなお不明な点が多い。上田1999.は次のように概説し、実験による検証を行っている。
古事記のまとめられたとき、どのような酒造法であったかは不明ながら、麹菌による醗酵が行われていた可能性は高い(注10)。麹による酒造のために、米が蒸され、そのために湯が沸かされ、竈に火が熾されていた。和名抄に、「麹 釈名に云はく、麹〈音は菊、加無太知〉は朽なりといふ。之れを鬱して衣を生み朽ち敗れ使むるなりといふ。」、「糵 説文に云はく、糵〈魚列反、与禰乃毛夜之〉は牙米なりといふ。本草に云はく、糵米、味は苦、毒無し、又、麦の糵有りといふ。」とある。カムタチという語については、角川古語大辞典に「「糟捌斛(正倉院文書・天平九年・但馬国正税帳)」の「糟」の字の傍訓「加末多知」が同じものをさすとすれば、さらに古くは「かまたち」と称したらしい。」(682頁)とある。孤例ではあるが、そう仮定できるのであれば、それは、カマ(釜)+タチ(立)のこと、竈に釜をかけて甑を立てて米を蒸すことをも含意する語であったのかもしれない。
考古学上、5世紀前半、朝鮮半島南部の人たちによって、須恵器、移動式の竈、大型の蒸し器である甑が同時期に入ってきたと推測されている。北九州での出土が多い。列島では、甑は土師器で作られることが多くなっていった。また、出土する蒸し器(甑)の数と、直接火にかけて煮る器(鍋・釜)の数では、圧倒的に後者が多いという。そのうえ、それ以前の弥生土器からは、ご飯の焦げついた痕がたくさん報告されている。どうやら、列島では米食のはじめは煮て食べた、すなわち、姫飯であったらしく、その後も煮て食べるのが主流であったらしい。そんななか、ホノニニギは甑にあたるコノハナノサクヤビメを好んだ。佐原氏が指摘するとおり、現在でも正月には餅を食べるように、祭事や儀式においては糯米を蒸し、強飯として食べたのだろう。天孫降臨の話は、稲作農耕の伝来そのままを伝える話ではない。甑が到来して蒸す調理が行われるようになったこと、それが米を原料にした酒造りの画期であったと伝えているのであろう(注11)。
ホノニニギは依怙贔屓した。そこで、オホヤマツミは呪詛の言葉を投げかけている。イハナガヒメを使ったら、天神の御子の命は石のように不動であろうし、コノハナノサクヤビメを使ったら、木の花のように栄えるであろうと誓約をして差し上げたのだ。それなのに、「此、令レ返二石長比売一而、独留二木花之佐久夜毘売一故、天神御子之御寿者、木花之阿摩比能微坐。」、だから、今日まで、天皇たちの命は長くはないのだ、と言っている。結果だけみれば、「誓」はそのまま「詛」へ転化することになる。言霊信仰に従うと、言ったことがそのまま事柄になり、片方だけ「使」ったから片方だけ事実になり、オホヤマツミの願った充足は得られなくなる。栄えはするが、いつも堅牢ということはなくなってしまった。記の「白送言、」に対応する神代紀第九段一書第二には「磐長姫、……詛之曰、」と語られている。呪詛の言葉の例としては、記では、海幸・山幸の物語や秋山之下氷壮夫・春山之霞壮夫の物語に記される。いずれも兄弟間の争いに関わっている。呪詛の言葉は大げさで、曰くありげで、意味深長である。言霊信仰のもと、言が事となる時どのように現実化するかは、前もって言葉に表した時点でどのように意図したかに係っている。
アマヒノミの語義探索に戻る。「あまひ」に似て非なることばに「笑」がある。木花が咲くとあったから、笑むことと関係があるのであろう。花が咲くことは、中国では「開」の字を使うのがもっぱらで、古く「笑」の字も見られる。一方、本邦では「開」、「咲」の字を用いる。万葉集では、「開」が93例、「咲」が66例ある。「道の辺の 草深百合の 花咲みに 咲ひしからに 妻と云ふべしや〔道邊之草深由利乃花咲尓咲之柄二妻常可云也〕」(万1257)とあるのは、「咲」の字を、開花と笑顔の両用に使ったものである。中国で「咲」はわらうことにのみ用いる。本来、咲は笑の異文で、「笑」字は「巫女が手をあげ、首を傾けて舞う形。」(白川1996.797頁)を表している。
「笑まひ」は笑みに反復・継続の接尾語が付いた形である。雄略紀二年十月条に、「朕、豈汝が妍咲を覩まく欲りせじや」とある。「豈……や」は反語の形で、文末のヤの用法の一例である。万葉集には、「咲比」(万478)、「咲儛」(万718)、「恵麻比」(万804・4011)、「咲」(万3137)、「恵末比」(万4114)とある。「笑」は、顔が花やかににこやかにほころぶこと、「笑」は、口を開け声を出して哄笑することである。紀のなかでは、雄略天皇や蘇我入鹿の豪快な笑い声が記されている。イハナガヒメは大口を開けて歯茎まで見せて笑ったということであろう。羽釜にはハがあり、ごとごとぐつぐつと音を立てていた。カム(噛)からカマ(釜)、カマシ(囂)からカマ(釜)、というなぞなぞ的語義形成も正当化されよう。その対が甑である。蜘蛛が轂のような蜘蛛の網を編むことは、歯も音もない。「笑まひ」の際には歯が見えず、音を立てることもない。それを「あまひ」と造語した模様である。甘いものを口に入れると力が抜け、ゆるんでいく感じがする。現代人の顔に顎が退化する傾向があるのは、食べ物の糖度が高まりつつ柔らかく加工されて噛まずに済むからである。コノハナノサクヤビメ化して短命に終わる兆候かもしれない。
蜘蛛の網に関連して、海人が魚を掬い上げる網は持網という。四手網もそのひとつで、罾と書く。「甑」の字にも見られた曾(曽)の形があらわれている。万葉集に見える「小網」(万1717)のことも、和名抄に、「纚 文選注に云はく、纚〈所買反、師説に佐天〉網は箕の形の如く後を狭くし前を広くする者なりといふ。」とあって、四手網の一種のようである。海人が舞うように持網をふるうことと、アマヒという語は関連させて考えられているのであろう。
「あまひ」は尼とも関係があろう。尼は女の僧である。斎宮忌詞に尼のことを「女髪長」という。アマヒという語を尼が舞うことと関連すると仮定すれば、髪長の舞である。巫女のことはカムナギ、男の巫は覡と言った。尼はカムナギに似て非なるものである。実際の髪はおかっぱ風で途中で切れている。「あまひ」に当たる箇所は、神代紀第九段一書第二に「如」、「有如」とある。古訓にアマヒニとあるものの、語義未詳のためか、図書寮本南北朝期点や兼方本などの傍訓は記を見てつけた可能性が高いとされている(注12)。しかし、だからといって、その訓みは行われていなかったとするのは誤りであろう。なぜなら、言い伝えを口伝えに伝えてきたものが記紀の基と考えられるからである。ヤマトコトバが先にあり、それを書記しているばかりである。「如」の字は、「巫女が祝禱を前にして祈る形。」(白川1996.780頁)とされている。巫女の祈りの動作は、舞うような素振りを見せる。神と一体になり、神が憑りつく意である。アマ(尼)+マヒ(舞、ヒは甲類)/アル(有)+マヒ(如、ヒは甲類)→アマヒ(阿摩比、ヒは甲類)である。意を汲んだ字の用い方になっている。
用字の「如」は、説文に「如 従随なり、女に从ひ口に从ふ」とある。ゴトシとは、〜のようである、の意である。〜のようであるとは、〜そのものではないけれども〜にとてもよく似ているという意味である。それは、〜にとてもよく似ているに過ぎないのであって、まったく同じかといえば違うものである。コノハナノサクヤビメの名が、木の花が咲いているともったいをつけた言い回しをするのと概ね同じである。木の花の咲いたかと見紛うもので、蜘蛛の網でありコシキ型であった。となれば、紀に「如」、「有如」とある点についても、記からの単なるカンニング訓ではなく、紀の記述者が「如」の字義、記号に「≒」の意を広義に捉えて用いているものと考えられる。言語が論理学的に論理的すぎて、今日の人にはかえってわかりづらい用字となっている。等号(=)ではなく、「⇒」に帰するものではなく、もちろん不等号(≠)でもなくて、「≒」のうちの似て非なる点を強調して「あまひ」と言うヤマトコトバが作られて存在していた(注13)。
「あまひ」に似て非なる言葉には「すまひ(ヒは甲類)」もある。住居の意は、礼記・礼運に、「昔の先王、未だ宮室有らず。冬は則ち営窟に居り、夏則ち橧巣に居る。(昔者先王、未有宮室。冬則居営窟、夏則居橧巣。)」とあるように「橧」字を使うことがある。橧は、木の枝や粗朶を積み重ねてその上で住むようにした住居のことである。鳥の巣のようだから橧巣という。イハナガヒメは「営窟」に、コノハナノサクヤビメは「橧巣」に当たる。そんな橧巣の状態のところに蒸気が上がれば、蒸籠、甑と同じことだとして、本邦では「橧」を木製の甑の意に当てた。夏の暑さをうまく言い当てている。そして、猟にも利用する蜘蛛の巣は、槍や矢のように刃物で殺傷するでもなく、圧機のように音を立てるでもなく、ベタベタとくっつき絡まって逃れられなくなり、体力を使い果たして動きが鈍くなった末に捕獲される。昆虫採集の網に使った仕組みは、鳥黐のそれと同じである。そして、橧巣に当たるような仮宮は、遷都の多かった古代宮都のさまに似通っている。「天神御子之御寿」というのは比喩で、宮都は華やかではあるが、永続年数が短いことを譬えた謂いかもしれない。
記上で、「天神御子之御寿」、「天皇命等之御命」について語られている。イノチという言葉は、白川1995.に、「「生の霊」の意であろう。「い」は「生き」「息吹き」の「い」。生命の直接的なあかしの息吹きを以て、生命の義とする。それは各民族語の間で共通する観念で、spirit や animal は、みな「いきするもの」を意味した。「いき」がつづくことを〔万葉〕に「いきのを」という。ノは乙類。」(125頁)、土橋1989.に、「今日の生命観では、イノチは存在するか、しないか、長いか短いか、という形で観念されていて、完全か不完全かという形では考えられていない。……[記31歌謡]の「命の全けむ人」は、イノチが完全な人という意味で、それは生命力の強い若者のことである。人間は年をとるにつれてイノチは次第に衰えて行き、その最後に死があるという生命観である。イノチの枕詞は「タマキハル」であるが、タマは霊魂、キハルは「霊剋」「玉切」と表記されていることからも分かるように、タマが磨り減り、消耗することで(『正字通』に「剋、損削也」とある)、生命というものは年が経つにつれて磨り減ってゆくものだという観念、つまり「命の全けむ人」と同じ観念である。」(198頁)などとある。生命のことはヲ(緒、絃)ともいう。「己が命を」(記22・万3535)とある。撚り合わせた繊維が一筋に続いていくからである(注14)。緒のうち太くて丈夫なものは縄である。楮(栲)の繊維を縒って丈夫な縄にする。「栲縄」は長いことの譬えとされ、記に「栲縄の千尋縄打ち延へ」(記上)、紀に「千尋の栲縄を以て、結ひて百八十紐にせむ」(神代紀第九段一書第二)などと見える。枕詞に、「栲縄の」があり、「栲縄の 長き命を」(万217・704)、また、「水沫なす 微き命も 栲縄の 千尋にもがと 願ひ暮らしつ」(万902)とある。
そんな命の形容語のタクナハに関連して、音の似たタケナハ(酣)という語がある。酒宴の席で盛り上がった最高潮時、ないし、それを少し過ぎた頃のことを指す。酒をのんで甘美にして楽しいときを指している。他方、夭折することは「夭」(霊異記・上・五)といい、縄が途中で切れることで表している。夭の字は、「人が頭を傾け、身をくねらせて舞う形。夭屈の姿勢をいう。」(白川1996.1555頁)である。夭折とは命の腰折れ状態を言っている。夭の形は笑や咲の字形にも含まれており、必ず途中で中断することを示唆している。
天神の御子であれば天寿を全うするはずであるのに、夭折するとはどういうことか。それが、この説話の出発点であったのであろう。夭の字は天の字に似ている。しかし、天と違って少し首を傾けている。釜ならば鍔がついているから傾くことはないが、左右に耳(注15)が取って付けられただけの甑だと斜めになることがある。傾ぎながら炊いでいる。どうだろうかと首を傾いだのは、木の花が咲いたものなのかどうなのか怪しかったことから始まっている。怪しい女は妖しい。妖しい女は科をつくって誘ってくる。科をつくると体は斜めになる。シナは坂や階段をいい、層もシナと訓むのは、甑や塔の小屋根やスカートが斜めになっていることと関係するのであろう。腰裳をひらひらさせることは昔から気を引く所作であったらしい。
お産のときのお呪いに、甑を落とす、甑をまろばかす、といわれる習俗がある。宮中では、産後の肥立ちが良いように、御殿の棟から甑を転がり落とした。皇子の場合は南へ、皇女の場合は北へ落としたという。コシキの音が腰気に通じるからとも、甑は蒸すもので産すことに通じるからともいう(注16)。蒸気で蒸して熱気を吐くさまが、お産の際の激しい息づかい、息の吐き方に似ていることとも関係するのかもしれない。産婦が息を思いっきり吐き出すのと同時に赤ん坊を産道から吐き出すということにも通ずるようである。無事に生まれてきた赤ん坊も、息を思いっきり吐き出してオギャーと産声をあげる。息を吐き出し切ることが新しい命の誕生につながっている。甑落としとは、その瞬間を際立たせるために相似した特徴を表現した儀礼なのではないか。甑を竈から落して割れば、シューシューいう音はなくなる。お産の終了ということに譬えられよう。炊ぐ器が傾ぎきって転倒すること、まろばかされることである。前近代において人が命を最も落としやすいのは出産の時であった。息を吐き出し切らせることを、屋根から甑を落すことで大げさに表してみたということかと思われる。
(つづく)
是に、天津日高日子番能邇邇芸能命、笠沙の御前に、麗しき美人に遇ひたまふ。爾くして、「誰が女ぞ」と問ひたまへば、答へ白さく、「大山津見神の女、名は神阿多都比売、亦の名は木花之佐久夜毘売と謂ふ」とまをす。又、「汝が兄弟有りや」と問ひたまへば、「我が姉、石長比売在り」と答へ白す。爾くして、詔りたまはく、「吾、汝に目合せむと欲ふ。奈何に」とのりたまへば、「僕は白すこと得ず。僕が父、大山津見神白さむ」と答へ白す。故、其の父、大山津見神に、乞ひに遣したまふ時、大きに歓喜びて、其の姉、石長比売を副へ、百取の机代の物を持たしめて奉り出す。故、爾くして、其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送りて、唯其の弟、木花之佐久夜毘売のみを留めて、一宿婚為たまふ。爾くして、大山津見神、石長比売を返したまひしに因りて、大きに恥ぢて、白し送りて言はく、「我が女二並べて立て奉りし由は、石長比売を使はさば、天神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如くに、常に堅に動かず坐さむ。亦、木花之佐久夜毘売を使はさば、木の花の栄ゆるが如く栄え坐さむ、と、うけひて貢進りき。此く、石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売を留めたまふが故に、天神の御子の御寿は、木の花のあまひのみ坐さむ」といふ。故、是を以て今に至るまで、天皇命等の御命長くあらぬぞ。(記上)
時に皇孫、因りて宮殿を立てて、是に遊息みます。後に海浜に遊幸して、一の美人を見す。皇孫問ひて曰はく、「汝は是誰が子ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「妾は是、大山祇神の子。名は神吾田鹿葦津姫、亦の名は木花開耶姫」とまをす。因りて白さく、「亦、吾が姉、磐長姫在り」とまをす。皇孫の曰はく、「吾、汝を以て妻とせむと欲ふ、如之何。」とのたまふ。対へて曰さく、「妾が父大山祇神在り。請はくは垂問ひたまへ」とまをす。皇孫、因りて大山祇神に謂りて曰はく、「吾、汝が女子に見す。以て妻とせむと欲ふ」とのたまふ。是に、大山祇神、乃ち二の女をして、百机飲食を持たしめて奉進る。時に皇孫、姉は醜しと謂して、御さずして罷けたまふ。妹は有国色として、引して幸しつ。則ち一夜に有身みぬ。故、磐長姫、大きに慙ぢて詛ひて曰はく、「仮使天孫、妾を斥けたまはずして御さましかば、生めらむ児は寿永くして、磐石に有如に常存らまし。今既に然らずして、唯弟をのみ独見御せり。故、其の生むらむ児は、必ず木の花の如に移落ちなむ」といふ。一に云はく、磐長姫恥ぢ恨みて、唾き泣ちて曰はく、「顕見蒼生は、木の花の如に、俄に遷転ひて衰去へなむ」といふ。此世人の短折き縁なりといふ。(神代紀第九段一書第二)
コノハナノサクヤビメの名義の起こりを、花を愛でたことに求める発想が通説となっている。新編全集本古事記には、「「木花」は特に桜の花を指す。「佐久夜」はサク(咲)に、状態化の接尾語ヤの付いた形。桜の花が咲くように美しい女神。」(121頁)とある(注2)。桜の花を今日のように愛でたのは、豊臣秀吉の醍醐の桜や吉野の桜によく知られる。日本文化において桜を愛でるようになった決定打は、小野小町の和歌「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」を文化的に本歌取りするようになったことである。しかし、多くの論者に指摘されているとおり、万葉集に桜を花として愛でる風雅は見られない。古代には桜はその樹皮が特に実用材で、曲げ物を綴じるための綴じ皮として重んじられている。万葉集に、中国では cherry に同定されない「櫻」という字を用いており、キノコ、すなわり、サルノコシカケをイメージさせている。サクラという言葉は、飛鳥時代には、サル(猿)+クラ(鞍)→サクラと感じとられて洒落を飛ばしあっていた(注3)。
西郷2005.に、「木花之佐久夜毘売は説話上の名である。スサノヲの系譜の条に「大山津見神の女、木花知流比売」……というのがあった。そこでいったように花は乙女を象徴する。万葉にも、「つつじ花、香少女、桜花、栄少女」(一三・三三〇五)と見える。とくにコノハナノサクヤビメという名は美女を彷彿させるものがある。サクヤヒメのヤは、「難波津に、さくやこの花」(「古今集」序)のヤと同じく間投詞。それが何の花であるかを特に詮索する必要はない。花が山の神のものであることは、人麿の歌に、「山神の、奉る御調と、春べは、花かざし持ち」(万、一・三八)とあるのによって知りうる。」(104頁)とある。筆者にはこの主張も不思議に思われる。柿本人麻呂が比喩表現としてたまたま使ったがために、花がすべからく山の神の持物とされることはなかろう。また、イハナガヒメは醜いかもしれないが、老女ではなく乙女である。ヤが間投詞かどうかに疑問が残る。
橋本1995.に、「コノハナノサクヤヒメが登場する伝承[(記、紀本文・一書第二・一書第六・一書第八)]にはニニギノミコトも登場する。そして、コノハナノサクヤヒメが登場しない伝承にはニニギノミコトも登場しない。」(72頁)、「『日本書紀』本書、第八の一書は、コノハナノサクヤヒメが登場しているのにもかかわらず、天皇の短命起源譚がない伝承である。このことも、短命起源譚がコノハナノサクヤヒメとは関係が薄く、イワナガヒメとは濃厚であるということを言い表しているものと思われる。」(75頁)とあり、伝書の系列を見定めると、「イワナガヒメや短命起源譚はコノハナノサクヤヒメとは元来繋がりがなかったと思われる。」(80頁)としている。花が散るから短命だとする前提は鵜呑みにはできないということである。記紀で話の構成に多少の違いがあるものの、神代紀第九段一書第二の「短折」はイノチモロキ、イノチミジカキと訓まれており、命というものはステンレス製の物干し竿ではなく、いつ錆びて折れるかも知れないステン巻きの安物という言い方をしている。
コノハナノサクヤビメの名義の謎にせまるために、「木花知流比売」があげられている。スサノヲの系譜に、「大山津見神の女」(記上)として名前だけ出てくる。一方は咲くほうで、他方は散るほうとされている。しかし、コノハナチルの対が、コノハナノサクヤとあるのは不自然である。コノハナサクヒメとせずにもったいぶっている。言霊信仰によっていて、言葉一語一語を大切にした古代の人たちは、そうするにはそうするなりの理由があったと考えられる。「木花+の+咲く+や+姫」のノは格助詞、ヤは間投助詞で状態化の接尾語と捉える通説には問題点がある。ノを投入した理由を示し得ない。
大野1993.に、「係助詞のヤと、いわゆる間投助詞のヤは、根源的に同一のものと見られる。」(295頁)とありながら、「まったく歌の音数律に合わせるためだけのもの」(293頁)として、「天飛ぶ軽少女(書紀歌謡七一) 天飛ぶや軽の道(万葉二〇七)……さを鹿の伏すや草むら(万葉三五三〇)」(293~294頁)といった例を挙げ、四音を五音、六音を七音にととのえるためと説明している。「「事態がすでに成立していると見込んでいて、その判断を下し、きっとそうだと相手に問いただす」のがヤの役割なのである。」(272頁)、「ヤを用いた場合、話し手は「自分の一つの見込み、あるいは確信を持っている」ということを示す。ヤはそうした確信を相手につきつける。答えを期待する形をとりながら実は自分の持つ意向を表明する。」(277頁)、「ヤの用法は、……承ける言葉を確実であるとする、あるいは確定的・既定的であるとする、あるいは旧情報であるとするという性格を、奈良時代にはそのまま具現していたことを示すといえる。」(281頁)、「……ヤに反語を形成する場合がある。……反語とは、相手の判断を逆につきつけることによって、実はそんな判断はあり得ないと相手に向って否定の主張をする方法である。」(292頁)と縷述されている。間投詞的に見えるヤについても、「天飛ぶや軽の道」の「天飛ぶや」が枕詞として常套句になっていることは、ヤに既定性の表明が含意されているからに他ならないといえるだろう。また、「さを鹿の伏すや草むら」と「さを鹿伏す草むら」との違いは、前者の「伏す」は終止形、後者のそれは連体形で、前者は饒舌な序詞として機能しているということになる。
わざわざノやヤを投入した「木花之佐久夜毘売=木の花の咲くや姫」という名に関し、「木の花の咲くや」の既定性とは、それを「取り立て」て「強調」することに重点が置かれているものと理解することができる。木の花の咲く様子は、旧情報であり、ただ木の花が咲いていると言うものではなく、木の花が咲いていると言えばそのとおり咲いていると言えるのだが、さあお立合い、とのっぴきならない主張を展開しようとしている。ヤは、動詞「咲く」の終止形に付いて、一度完結した事柄に対して、それはそうなのだけれどさてどうなのだろうと、聞き手に対して強く問いかけてみては自分の言い分を通そうとする言い方である。すなわち、「『木の花が咲いている』というのは、まあ、本当なのですけれどね姫」である。木の花が咲いているか咲いていないかの問題ではなく、木の花が咲いているように見えてはいるという確信を示した命名なのである。わざわざ「取り立て」、「強調」しており、ふつうのものではない木の花であること、木の花として識別が難しいものであること、あるいはそれが錯視、錯覚である可能性までを含め示している。同じオホヤマツミの娘として挙げられる「木花知流比売=木の花散る姫」との語学的対比である。
コノハナという語彙は、この説話によって、最終的に、「木の花の阿摩比能微坐さむ。」(記上)となっている。「阿摩比能微」には「此五字、以レ音。」と訓注がついている。この言葉は語義未詳とされる。五字すべてわからないながらも、ノミは助詞であるとされる。……だけ、という意味であろう。そして、アマヒという語はよくわからないながら、西郷2005.に、「アマヒが脆く、はかなく、堅固ならぬ意であることは確かで、甘いことをいう、甘いことでは行かぬ、甘い奴じゃ等の俗語と関係づけ、これを「甘き状を云る辞か」と「記伝」はいう。」(109頁)とある(注4)。作りがあまい、鈍、鈍いという意味になる。意味をたどると「鈍し」に通じ、白川1995.は、「「淺し」「薄し」と同根の語で、その母音交替形である。」(179頁)とする。また、同時に、「似非」という語とも関係するという説がある。似非は、まったく形ばかりで、ひどくまやかしであること、似て非なるもので質がひどく劣ることをいう。木の花のようであるけれど、まったくの贋物でがっかりさせられるものであると遠回しに言っている。そういう巧みな表現技法を、上代のヤマトコトバは持っていたと考える。
ホノニニギは、コノハナノサクヤビメに、まず、どこの娘だい? と聞き、次に、「兄弟」はいるか? と不思議な問い掛けをしている。彼女は、お姉ちゃんにイハナガヒメがいるわ、と答えている。その兄弟問答を無視する形で、エッチしない? と誘ってきている。対して、お父さんに聞かなきゃわからないわ、と答えている。そして結局、ホノニニギに捧げられた姉妹のうち、イハナガヒメはとても醜いからと受け取りを拒否されて返されてしまう。セットで考えられるべきものの片方だけを採用したことを示している。
名は体を表す。イハナガヒメが返送された理由は、名を聞いただけではじめから触手を伸ばすに値しないと感じられたからである。美人の女性の形容には、応神記に「髪長比売」とある。カミナガ、つまり、髪が長いだけで美人かどうかは判断できかねるが、一応認めるとする。それがイハナガとなると、これはもう不細工に決まっている。イハという形容に関して顔のつくりで考えると出っ歯が思い浮かぶ。あるいは、歯が大きくて、その土手の部分まで剥き出しになっているのかもしれない。歯茎のことは古語に齗という。和名抄に、「齗 玉篇に云はく、齗〈音は銀、波之々〉は歯の肉なりといふ。」とある。歯の肉(宍)の意である。ハジシに似た音に、埴、土師がある。イハナガは石を思わせる名だから、アマヒノミという難語には、何か土器と関係するなぞなぞがあるらしい。歯自体は肉ではなく骨に近い。当時の焼き物のなかで考えれば、赤っぽい土師器ではなく、灰青色の須恵器や、その製法に影響を与えもした瓦に似ている。そのために窖窯が登場している。登り窯に近い形態をとり、燃えている最中に穴を塞いで酸素を絶ち還元焼成する。焼き物の製作者は、土師器であれ須恵器であれ、製造者の名は土師である。そして、時代的に少し下るかもしれないが、新しい葬り方は火葬である。火葬すると、瓦の焼成時のように骨が残る。全身が歯と同じ色になる。それを、須恵器とは限らないが骨壺へ納めて墓所へ葬る。漢字の歯は齢に通用してヨハイと訓み、年齢のことをいう。「歯且長りたまへり。」(仁徳前紀)とある。歯がなくなると人は食べることに支障を来し、体力が一気に低下して老け込んで終には亡くなってしまう。点滴も胃ろうもない時代である。以上から、イハナガヒメが長命の象徴にされた理由が納得できる。不慮の事故死、行方不明などではなく、歯が丈夫でよく咀嚼し、大往生を遂げてきちんと火葬されることが、イハナガヒメという名義に託されて隠されている。
イハナガヒメは sister のうち elder である。すべては話である。イハナガヒメが younger になることはない。適当に組み立てられているわけではない。イハの音は、況やの音に通じる。太安万侶は、「兄弟」という用字で記している。況の字は、イハムヤ、マスマスと訓む。藤堂1978.の「況」の「解字」に、「兄は、頭の大きい子どもを描いた象形文字で、きょうだいのうち、比較して大きい者を意味する。況は「水+音符兄」の会意兼形声文字で、水が前に比べてますます大きくふえること。」(719頁)とする。説話の舞台は笠沙であった。カサ(嵩)+カサ(嵩)の約とイメージでき、水嵩の増す岬のようである。また、イハムヤと訓む字に「矧」がある。矢を引くようにたたみかける意である。矧の字はまた、歯茎をも表し、「笑ひて矧に至らず。(笑不至矧。)」(礼記・曲礼上)と使う。きれいで立派な出っ歯のことはミツハ(ミヅハ)(瑞歯、稚歯、ミは甲類)という。瑞歯別天皇(反正天皇)は「生れましながら歯、一骨の如し。」(反正即位前紀)と形容されている。記では、水歯別命は、「御歯の長さ一寸、広さ二分、上下等しく斉ひて、既に珠に貫けるが如し。」と記されている。同音のミツハ(罔象、魍魎、ミは甲類)は、水の神である。「水神罔象女」(神代紀第五段一書第二)、「水を号けて厳罔象女と為ひ、罔象女、此には瀰菟破廼迷と云ふ。」(神武前紀戊午年九月)とある。ホノニニギとコノハナノサクヤビメ、イハナガヒメの登場する話が、水嵩が増す場所に状況設定されている理由が明らかとなる。出っ歯や歯茎を強調したいということである。また、矧の字は、本邦特有の用法として、ハクと訓んで鏃や羽をはめて矢をつくることもいった。この点は後に触れる。
ホノニニギは、長い名前では、「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」といい、天にも国にも親しくて、天の日を高く仰ぎ見るように尊くてある、稲穂が賑やかに稔るところの神さまという意味である。紀には、「天津彦彦火瓊瓊杵尊」とある。新編全集本古事記に、「「番」はホ(穂)、「能」はノ(連体助詞)、「邇々芸」はニ(丹)+ニギ(賑)の意で、稲穂が赤らみ豊かに実ることを表す。」(113頁)、古典集成本古事記に、「「番能邇邇芸」は「稲穂の豊穣」の意。「にぎにぎ」(賑々)の約。」(393頁)、西郷2005.に、「ホはいうまでもなく稲の穂であり、それがニギニギしく豊穣であるのをホノニニギとたたえ」(13頁)ているとする。大系本日本書紀に、「ホノニニギのホは穂。ニニギはニギニギの意。ニギはニギヤカ、ニギハフのニギ。稲穂が賑やかに実る意。」((一)368頁)、新編全集本日本書紀に、「稲穂が賑々にぎにぎしい」(110頁)と同じように解されている。単一の義をもって名にした神さまは、事=言とする言霊信仰から、名に負うことが凡庸にして大根役者に甘んじてしまうと思われる。別の義として、ホノ(ホは乙類)は、ホノカニ、などという語幹のホノ、ニニギ(ギは甲類)のニギニギには、握握の意もあるのではないか。固くぎゅっとではなく、柔らかくかすかに握るようにすることである。掛詞的連続性をもって出来上がっていて名前全体の格調が高まっている。ほのかに握るのは、天孫は赤ちゃんで、ニギニギしている様に適っている。すると、ホノニニギを、今朝の午前中、今の現状から言って、といった自己撞着的に二重に意味を重ねた言いっぷりと考えることができる。あまり固く握らないのが、握り寿司やおにぎりの定法であることが思い起こされる。逆言すれば、握ることができるということは粥ではないということである。
常陸風土記に一例だけながら枕詞が載る。「風俗の諺に、握飯筑波国といふ。」(常陸風土記・筑波郡)とある。それについて、ご飯を乾燥させ、保存携行食である糒にしたこと(注5)なのかはともかく、炊けたご飯を握り飯にすることにまつわるのであれば、「羽」が「付く」から「筑波」に掛かるのではなかろうか。羽釜の羽である。その枕詞的字義が正しいとすると、握り飯を作るのに、まずご飯が羽釜で炊かれなければならないところだが、考古学的根拠から定められるものではない。
稲穂、米、ご飯に関係する物語として譬え話が展開されている。そのホノニニギがオホヤマツミの娘のうち、コノハナノサクヤビメを選び、イハナガヒメは受けなかった。歯のあるのを嫌い、花のように見えるけれどそうではないものを好んで一緒になった。これはすなわち、炊飯器具の話が譬え話として練り上げられている。台所にまつわる物だから国つ神の娘なのである。オホヤマツミのウケヒの言葉に、イハナガヒメを「使はさば」、コノハナノサクヤビメを「使はさば」とあって、ツカフ(使)という言葉が用いられている。人(や擬人化された神)を使うのであれば、使役や使者の意であろうが、マグハヒ(「目合」、「婚」)をツカフ(使)という感覚はなかなかに浮かびにくい言葉の選び方である。物を使用する意としか考えられない。台所道具を使うのである。
歯(羽)の出っ張った炊飯器具は、羽釜である。器の腰の部分につばが付いており、別名を鍔釜という。鍔の出っ張りがあるから竈の穴にすっぽりと入りながらも落ちず、火力を逃さず、煙や煤の漏れも少ない。そのうえ、釜の噴きこぼれが竈のなかに入らず、火が消えたり灰神楽になることも防げる。この釜は、定着こそしなかったものの鉄器として渡来人のもたらしたものが最初である(注6)。浅岡1993.に次のようにある。
……鉄器の普及は米飯の調理方法になんらかの変化を与えたものと思われる。鉄器は土器に比べて耐火性がはるかに優れており、その上で大きなものを製作することも比較的容易である。こうしてできた鉄器を用いるならば、多量の米飯を一度に「炊く」技術が容易に成り立つ。こうして、おそらく集団食から「炊き飯」が起こり、「蒸す」から「炊く」への移行が始まったのだと考えられる。「蒸す」と「煮る」、すなわち「蒸し飯」と「粥・雑炊」のあいだに「炊き飯」が新しく加えられていく、というわけである。……釜の機能は第一に湯沸しであるとして、そこから派生して茹でる・蒸すなどに拡大してきたのだと考えて、これに対する煮る・煎るなどのほうは、鍋の利用技術である……。ここでは、それに加えて、釜には「炊く」方法が追加されなければならないことになる。私たちの日常的な感覚では、釜といえば「飯炊き釜」を思い出すが、それは米を「炊く」ことが釜に結びついた結果である。(76~77頁)
本邦で鋳造鉄器が普及したのは、朝鮮半島からはるかに遅れて中世のことである。絵巻などの図からは、竈は寺社の風呂、ないし、厨のような大掛かりな調理に用いられたように思われる。こじんまりした調理では、七輪の登場を願いたいところである。狩野2004.に、「移動式カマドは古代の韓竈を濫觴とし、さまざまに改良を加えられながら最後は七厘に落ち着いた。」(76頁)とある。
左:竃に羽釜と五徳に鍋(春日権現験記絵模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/E0049961.jpgをトリミング)、中左:竃に羽釜と五徳(川崎市立日本民家園展示品)、中右:鉄釜と鉄蓋(韓国梁山夫婦塚出土、三国時代(新羅)、6世紀初頭、東博展示品)、右:土師器の羽釜(高槻市井尻遺跡、平安後期~鎌倉初期、大阪府立近つ飛鳥博物館展示品)
羽釜のように歯が出ていて、あるいは唾を飛ばすような女性は醜女である。イハナガヒメとはこの羽釜を表している。オホヤマツミは羽釜は便利だからと授けようとした。朝鮮半島と日本列島での釜の違いの一つに、大きく括って蓋が鉄か木かの違いがある(注7)。木の蓋をして釜を使う用途はなにより炊飯である。佐原1996.に、次のようにある。
いま、実在する考古資料からいえることは、弥生時代以来、古墳・奈良・平安時代を通して、煮炊きの主流が直接的な煮炊き、米でいえば姫飯をたくことが一般的であって、米を蒸すこと、つまり強飯を作ることは、それにくらべて頻度が少なかった公算が大きいということまでである。炊飯と蒸飯の違いは、日常のケの煮炊きと、祭儀と係わるハレの煮炊きと関連するだろう。現在でも、米を蒸すのは、餅・赤飯など祝いごとの際にである。酒を造るためにも米を蒸す。酒作りもまた、かつては、祭りに際しておこなった。東日本の一部のある期間を例外として古代以来、人びとは、常日頃は米を直接煮て食べ、祭りには蒸した、という理解で大過ない、と思う。……東日本では、毎日、糯を蒸して食べ、西日本では毎日粳を炊いて食べ、祭りのとき─酒造り、お赤飯、餅─には蒸していた、と想像できる。……そうすると、山上憶良の「貧窮問答歌」に、貧しくて米なく、甑(蒸器)にクモの巣が張る、とあるのは、ろくに米の飯も食べられない、という意味ではなく、祭りにも酒米が蒸せずに酒が飲めない、というなげきかもしれない。(102~103頁)
民俗として見て、列島のなかで、東日本では鍋と囲炉裏が一般的であったが、西日本では釜と竈が重用されることになったとされている。この文化的差異については、歴史的経緯ばかりか気候や住居形態、家畜との関係も視野に入れつつ理解されなければならないだろう。その際に、コメの品種にも注意しなければならないのである。ここでは、コノハナノサクヤビメとイハナガヒメについて考慮しており、古代における煮炊き具の画期としての竈出現に絞って考察したい。記紀の説話のなかで、稲穂の神さまとされるホノニニギはイハナガヒメこと羽釜の将来を断った。「返送」している。そして、「兄弟」のうち、コノハナノサクヤビメだけを「留めて」いる。
コノハナノサクヤビメという名義の、確かに木の花のように見えるけれどどうなのだろうかというものとは、木の枝に張られた蜘蛛の巣(網)のことであろう。錯覚で木の花と認められてしまうのである。蜘蛛の巣は放射線と同心円のような渦巻きからできている。オニグモ類やコガネグモ類は、巣を張った最後に中心部分の糸をかみ切り、穴を開け、その後再びそこに糸を張り直して閉じている。張ったばかりの円網の糸の張力を補正しているのではないかという。できあがった姿は、ちょうど車輪のようで、その真ん中の糸の円は車輪のハブ、すなわち、轂のようである。そこで、このような蜘蛛の巣のことはコシキ型と呼んでいる(注8)。特に軒端にいるオニグモ類は毎晩網を張り替えている。夕方や明け方に旧糸を食べて網をたたみ、続けて新しい網を張っていく。子どもたちはこの巣を竹棒につけた輪にとり、小さな昆虫を捕まえるのに使った。
輪と轂(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2596370/8をトリミング)
車輪のつくりとしては、轂にシャーシ、輻が集って車輪を支え、真ん中を車軸が貫いて、それと轂とを轄でとめて回転することになる。轂に輻を嵌めていくことは、上述した言葉「矧く」ことに類似している。轂こそ、車体と車輪とを接合させる基幹である。その轂という語は、「炊飯具のコシキとの形の類似からつけられた名か。」(時代別国語大辞典292頁)、甑のほうは、「コシキの語は炊キからできたといわれる。」(同頁)という。いずれの語もコは乙類、キは甲類であるが、どちらの語が先なのか、また、土師器の甑の穴は適当につけられており、車の轂と形が似ていて言葉が醸成されたと言い切れるのか、筆者には判断がつかない。甑は土器製の米などを蒸す道具である。左右に把手の付いた円い鉢形の土器で、底に穴が開いており、そこから蒸気が上がってくるようになっている。藁などを使った簀を敷き、その上に布を敷き、食物をくるむなどして蒸した。記紀に、稲穂の神さまはこの甑と一夜を共にしたという話が構成されている。一夜で畳まれるオニグモのコシキ型の網の話である。
東日本に典型的に見られる古墳時代の調理法では、蒸気の発生源に、竈に甕を据えて隙間を土で埋めて固定し、その上に甑を重ねたと考えられている。甕付き竈・甑のセットで蒸す調理が行われていた。延喜式に、「贄土師……竈二口、高一尺五寸。竈子十口、受一斗。甑十口、受六升」とある。竈子とは、蒸気発生源となる水を入れて湯を沸かす釜を指している。カマド、カマコ、コシキの三つが一体となって蒸している。甕が竈子(釜)に代わって竃と分離し、「竈子」が生れている。延喜式の記述は、おそらく、移動式カマドでの様子を指し示すものであろう。古墳からミニチュア埴輪としてたくさん出土していてその様子はよく知られる。
「黄泉国の炊飯具(Cooking Tools to be Used after Death(Models))」(小型置カマド・小型羽釜・小型甑、奈良県葛城市笛吹遊ケ岡出土、古墳時代、6世紀、奈良県葛城市笛吹遊ケ岡出土、東博展示品(注9)。
蒸し器のうち木製のコシキは、特に橧と書かれ、水を入れた釜や甕の上に載せられた。蒸籠の原型といえる。播磨風土記・宍禾郡条に、「国占めましし神、此処に炊きたまひき。故、飯戸阜と曰ふ。阜の形も橧・箕・竈等に似たり。」とある。法隆寺伽藍縁起并流記資材帳には、「橧参口 一口径三尺五寸・高三尺五寸、二口各径一尺三寸・高二尺一寸」とあり、大型のものは醸造用に大量に蒸したものではなかったかと指摘されている。コノハナノサクヤビメの名は「亦名」で、記に、「神阿多都比売」とある。紀ではさらに詳しく、「神吾田鹿葦津姫」(神代紀第九段一書第二)とある。熱く炊くことを暗示しているのであろう。また、塔などの一つ一つの層のことをコシ(コは乙類)といい、最下層の差掛は特に裳層という。フェイク・ルーフを形成している。すなわち、層状に重なっているものをコシと呼んでいる。何層にも重ねた蒸籠は、コシキと呼ぶにふさわしく、土器製の甑は穴が開いていて水が溜まらない点で似非甕である。オソ(遅・鈍)─アサ(浅)─エセ(似非)の母音交替についてはすでに触れた。
左:甑(奈良県御所市南郷遺跡群出土、古墳時代中期、5世紀、橿原考古学研究所附属博物館展示品)、右:セイロ(蒸籠)(川崎市立日本民家園展示品)
白川1995.の「こしき〔甑〕」の項に、「甑は曾声。曾はこしきの形で甑の初文。瓦は土器であることを示す限定符である。〔新撰字鏡〕に見える橧は、木製のこしきの意であろう。〔和名抄〕には、甑を木器の部に属している。〔説文〕一二下に「甗なり」とあり、青銅器の自名の器には獻(甗)の字を用いている。殷周の遺器が多い。〔周礼・陶人〕にその器制のことをしるしているから、日用の器は土器であったのであろう。曾の字の最下部は湯をわかす釜の部分、その上が米などを入れるこしきの部分、上部は湯気のさかんに洩れる形である。重ねる器であるから増・層の意となり、また甑の字が作られたのである。」(326頁)とある。木製のコシキは、蒸籠の一種である。井桁状のものばかりでなく、今日なじみのある曲げ物で作られたことも想像に難くない。
左:饕餮文甗(青銅製、中国、西周時代、前11~10世紀、坂本キク氏寄贈)、中:釜・甑(青銅製、中国、後漢時代、1~2世紀)、右:釜や蒸籠をかけた竈(中国山東省出土画像石、後漢、1~2世紀、いずれも東博展示品)
佐原氏は、米を蒸すのは酒造りのためでもあったかと指摘していた。では、蒸された米からどのように酒は造られたのか。本邦の古代における酒造法についてはなお不明な点が多い。上田1999.は次のように概説し、実験による検証を行っている。
……紀元前三世紀頃までの醴酒(一夜酒)は縄文人、弥生人による口嚙み酒であって、紀元三、四世紀、百済などからの渡来人の来日が盛んな時代になってから、醴酒(一夜酒)は糵(芽米)を糖化剤にしたものにかわっていったと思われる。ところが、紀元八五九年ないし八七七年頃に書かれた、日本の酒づくりの古典ともいえる『令集解』の「造酒司」の項には、
正一人。掌醸酒。醴。謂醴甜酒。…古記云。醴甘酒。多麴少米作。一宿熟也。
とあって、この場合の麴は明らかに米バラ麴である。なぜなら、……この麴が餅麴なら、その中に繁殖している酵母やカビがアルコール発酵するので、麴の量が多くなればなるほど、甘みの少ない、アルコール濃度の高い、辛い酒になるはずである。ところが、ここには「麴が多いと甘くなる」とあるので、この麴は中国系や朝鮮系の米餅麴ではなく、米バラ麴である。それゆえ、紀元三、四世紀頃、朝鮮からの渡来人によって、糵による醴や餅麴によるカビ酒(麴酒)の技術が導入されたと仮定すると、紀元九世紀までの間に、糵の意味が芽米から米バラ麴へかわった可能性が考えられる。……『令集解』についで、紀元九〇五年ないし九二七年にあらわされた『延喜式』の酒づくりの個所では、いくつもの糵の字があらわれ、「よねのもやし」と振りがなが付してある。しかし、この糵は中国での穀芽や芽米など穀物の種子の発芽したものを意味する糵とはまったく異なり、米バラ麴のことである。というのは、『延喜式』の中の糵では、そのつくり方のところに、蒸米に一〇パーセントの糵を加えて、糵をつくるとあって、この場合には、糵が蒸米に麴菌を繁殖させるための種麴のようなものでないと、米と糵から糵はできない。すなわち、『延喜式』にいう糵は米バラ麴にほかならないのである。つまり、紀元四~五世紀頃、百済などから導入された糵製造法では、籾を発芽させてつくられていた糵が、一〇世紀の頃には、黄麴菌が繁殖した米バラ麴にかわったものと思われる。……糵はもともと芽米であったのが、実際の芽米づくりでは、数百年の過程の間に、麴菌による汚染が起こり、それが一度起きると、糵づくりの室の中には麴菌の胞子が充満し、次回の糵づくりでは、麴菌の汚染がさらにひどくなる。そして、糵づくりが麴菌汚染芽米づくり、ついには、麴菌汚染蒸米、すなわち、米バラ麴づくりへと変遷したものではないかと推理される。(108~111頁)
正一人。掌醸酒。醴。謂醴甜酒。…古記云。醴甘酒。多麴少米作。一宿熟也。
とあって、この場合の麴は明らかに米バラ麴である。なぜなら、……この麴が餅麴なら、その中に繁殖している酵母やカビがアルコール発酵するので、麴の量が多くなればなるほど、甘みの少ない、アルコール濃度の高い、辛い酒になるはずである。ところが、ここには「麴が多いと甘くなる」とあるので、この麴は中国系や朝鮮系の米餅麴ではなく、米バラ麴である。それゆえ、紀元三、四世紀頃、朝鮮からの渡来人によって、糵による醴や餅麴によるカビ酒(麴酒)の技術が導入されたと仮定すると、紀元九世紀までの間に、糵の意味が芽米から米バラ麴へかわった可能性が考えられる。……『令集解』についで、紀元九〇五年ないし九二七年にあらわされた『延喜式』の酒づくりの個所では、いくつもの糵の字があらわれ、「よねのもやし」と振りがなが付してある。しかし、この糵は中国での穀芽や芽米など穀物の種子の発芽したものを意味する糵とはまったく異なり、米バラ麴のことである。というのは、『延喜式』の中の糵では、そのつくり方のところに、蒸米に一〇パーセントの糵を加えて、糵をつくるとあって、この場合には、糵が蒸米に麴菌を繁殖させるための種麴のようなものでないと、米と糵から糵はできない。すなわち、『延喜式』にいう糵は米バラ麴にほかならないのである。つまり、紀元四~五世紀頃、百済などから導入された糵製造法では、籾を発芽させてつくられていた糵が、一〇世紀の頃には、黄麴菌が繁殖した米バラ麴にかわったものと思われる。……糵はもともと芽米であったのが、実際の芽米づくりでは、数百年の過程の間に、麴菌による汚染が起こり、それが一度起きると、糵づくりの室の中には麴菌の胞子が充満し、次回の糵づくりでは、麴菌の汚染がさらにひどくなる。そして、糵づくりが麴菌汚染芽米づくり、ついには、麴菌汚染蒸米、すなわち、米バラ麴づくりへと変遷したものではないかと推理される。(108~111頁)
古事記のまとめられたとき、どのような酒造法であったかは不明ながら、麹菌による醗酵が行われていた可能性は高い(注10)。麹による酒造のために、米が蒸され、そのために湯が沸かされ、竈に火が熾されていた。和名抄に、「麹 釈名に云はく、麹〈音は菊、加無太知〉は朽なりといふ。之れを鬱して衣を生み朽ち敗れ使むるなりといふ。」、「糵 説文に云はく、糵〈魚列反、与禰乃毛夜之〉は牙米なりといふ。本草に云はく、糵米、味は苦、毒無し、又、麦の糵有りといふ。」とある。カムタチという語については、角川古語大辞典に「「糟捌斛(正倉院文書・天平九年・但馬国正税帳)」の「糟」の字の傍訓「加末多知」が同じものをさすとすれば、さらに古くは「かまたち」と称したらしい。」(682頁)とある。孤例ではあるが、そう仮定できるのであれば、それは、カマ(釜)+タチ(立)のこと、竈に釜をかけて甑を立てて米を蒸すことをも含意する語であったのかもしれない。
考古学上、5世紀前半、朝鮮半島南部の人たちによって、須恵器、移動式の竈、大型の蒸し器である甑が同時期に入ってきたと推測されている。北九州での出土が多い。列島では、甑は土師器で作られることが多くなっていった。また、出土する蒸し器(甑)の数と、直接火にかけて煮る器(鍋・釜)の数では、圧倒的に後者が多いという。そのうえ、それ以前の弥生土器からは、ご飯の焦げついた痕がたくさん報告されている。どうやら、列島では米食のはじめは煮て食べた、すなわち、姫飯であったらしく、その後も煮て食べるのが主流であったらしい。そんななか、ホノニニギは甑にあたるコノハナノサクヤビメを好んだ。佐原氏が指摘するとおり、現在でも正月には餅を食べるように、祭事や儀式においては糯米を蒸し、強飯として食べたのだろう。天孫降臨の話は、稲作農耕の伝来そのままを伝える話ではない。甑が到来して蒸す調理が行われるようになったこと、それが米を原料にした酒造りの画期であったと伝えているのであろう(注11)。
ホノニニギは依怙贔屓した。そこで、オホヤマツミは呪詛の言葉を投げかけている。イハナガヒメを使ったら、天神の御子の命は石のように不動であろうし、コノハナノサクヤビメを使ったら、木の花のように栄えるであろうと誓約をして差し上げたのだ。それなのに、「此、令レ返二石長比売一而、独留二木花之佐久夜毘売一故、天神御子之御寿者、木花之阿摩比能微坐。」、だから、今日まで、天皇たちの命は長くはないのだ、と言っている。結果だけみれば、「誓」はそのまま「詛」へ転化することになる。言霊信仰に従うと、言ったことがそのまま事柄になり、片方だけ「使」ったから片方だけ事実になり、オホヤマツミの願った充足は得られなくなる。栄えはするが、いつも堅牢ということはなくなってしまった。記の「白送言、」に対応する神代紀第九段一書第二には「磐長姫、……詛之曰、」と語られている。呪詛の言葉の例としては、記では、海幸・山幸の物語や秋山之下氷壮夫・春山之霞壮夫の物語に記される。いずれも兄弟間の争いに関わっている。呪詛の言葉は大げさで、曰くありげで、意味深長である。言霊信仰のもと、言が事となる時どのように現実化するかは、前もって言葉に表した時点でどのように意図したかに係っている。
アマヒノミの語義探索に戻る。「あまひ」に似て非なることばに「笑」がある。木花が咲くとあったから、笑むことと関係があるのであろう。花が咲くことは、中国では「開」の字を使うのがもっぱらで、古く「笑」の字も見られる。一方、本邦では「開」、「咲」の字を用いる。万葉集では、「開」が93例、「咲」が66例ある。「道の辺の 草深百合の 花咲みに 咲ひしからに 妻と云ふべしや〔道邊之草深由利乃花咲尓咲之柄二妻常可云也〕」(万1257)とあるのは、「咲」の字を、開花と笑顔の両用に使ったものである。中国で「咲」はわらうことにのみ用いる。本来、咲は笑の異文で、「笑」字は「巫女が手をあげ、首を傾けて舞う形。」(白川1996.797頁)を表している。
「笑まひ」は笑みに反復・継続の接尾語が付いた形である。雄略紀二年十月条に、「朕、豈汝が妍咲を覩まく欲りせじや」とある。「豈……や」は反語の形で、文末のヤの用法の一例である。万葉集には、「咲比」(万478)、「咲儛」(万718)、「恵麻比」(万804・4011)、「咲」(万3137)、「恵末比」(万4114)とある。「笑」は、顔が花やかににこやかにほころぶこと、「笑」は、口を開け声を出して哄笑することである。紀のなかでは、雄略天皇や蘇我入鹿の豪快な笑い声が記されている。イハナガヒメは大口を開けて歯茎まで見せて笑ったということであろう。羽釜にはハがあり、ごとごとぐつぐつと音を立てていた。カム(噛)からカマ(釜)、カマシ(囂)からカマ(釜)、というなぞなぞ的語義形成も正当化されよう。その対が甑である。蜘蛛が轂のような蜘蛛の網を編むことは、歯も音もない。「笑まひ」の際には歯が見えず、音を立てることもない。それを「あまひ」と造語した模様である。甘いものを口に入れると力が抜け、ゆるんでいく感じがする。現代人の顔に顎が退化する傾向があるのは、食べ物の糖度が高まりつつ柔らかく加工されて噛まずに済むからである。コノハナノサクヤビメ化して短命に終わる兆候かもしれない。
蜘蛛の網に関連して、海人が魚を掬い上げる網は持網という。四手網もそのひとつで、罾と書く。「甑」の字にも見られた曾(曽)の形があらわれている。万葉集に見える「小網」(万1717)のことも、和名抄に、「纚 文選注に云はく、纚〈所買反、師説に佐天〉網は箕の形の如く後を狭くし前を広くする者なりといふ。」とあって、四手網の一種のようである。海人が舞うように持網をふるうことと、アマヒという語は関連させて考えられているのであろう。
「あまひ」は尼とも関係があろう。尼は女の僧である。斎宮忌詞に尼のことを「女髪長」という。アマヒという語を尼が舞うことと関連すると仮定すれば、髪長の舞である。巫女のことはカムナギ、男の巫は覡と言った。尼はカムナギに似て非なるものである。実際の髪はおかっぱ風で途中で切れている。「あまひ」に当たる箇所は、神代紀第九段一書第二に「如」、「有如」とある。古訓にアマヒニとあるものの、語義未詳のためか、図書寮本南北朝期点や兼方本などの傍訓は記を見てつけた可能性が高いとされている(注12)。しかし、だからといって、その訓みは行われていなかったとするのは誤りであろう。なぜなら、言い伝えを口伝えに伝えてきたものが記紀の基と考えられるからである。ヤマトコトバが先にあり、それを書記しているばかりである。「如」の字は、「巫女が祝禱を前にして祈る形。」(白川1996.780頁)とされている。巫女の祈りの動作は、舞うような素振りを見せる。神と一体になり、神が憑りつく意である。アマ(尼)+マヒ(舞、ヒは甲類)/アル(有)+マヒ(如、ヒは甲類)→アマヒ(阿摩比、ヒは甲類)である。意を汲んだ字の用い方になっている。
用字の「如」は、説文に「如 従随なり、女に从ひ口に从ふ」とある。ゴトシとは、〜のようである、の意である。〜のようであるとは、〜そのものではないけれども〜にとてもよく似ているという意味である。それは、〜にとてもよく似ているに過ぎないのであって、まったく同じかといえば違うものである。コノハナノサクヤビメの名が、木の花が咲いているともったいをつけた言い回しをするのと概ね同じである。木の花の咲いたかと見紛うもので、蜘蛛の網でありコシキ型であった。となれば、紀に「如」、「有如」とある点についても、記からの単なるカンニング訓ではなく、紀の記述者が「如」の字義、記号に「≒」の意を広義に捉えて用いているものと考えられる。言語が論理学的に論理的すぎて、今日の人にはかえってわかりづらい用字となっている。等号(=)ではなく、「⇒」に帰するものではなく、もちろん不等号(≠)でもなくて、「≒」のうちの似て非なる点を強調して「あまひ」と言うヤマトコトバが作られて存在していた(注13)。
「あまひ」に似て非なる言葉には「すまひ(ヒは甲類)」もある。住居の意は、礼記・礼運に、「昔の先王、未だ宮室有らず。冬は則ち営窟に居り、夏則ち橧巣に居る。(昔者先王、未有宮室。冬則居営窟、夏則居橧巣。)」とあるように「橧」字を使うことがある。橧は、木の枝や粗朶を積み重ねてその上で住むようにした住居のことである。鳥の巣のようだから橧巣という。イハナガヒメは「営窟」に、コノハナノサクヤビメは「橧巣」に当たる。そんな橧巣の状態のところに蒸気が上がれば、蒸籠、甑と同じことだとして、本邦では「橧」を木製の甑の意に当てた。夏の暑さをうまく言い当てている。そして、猟にも利用する蜘蛛の巣は、槍や矢のように刃物で殺傷するでもなく、圧機のように音を立てるでもなく、ベタベタとくっつき絡まって逃れられなくなり、体力を使い果たして動きが鈍くなった末に捕獲される。昆虫採集の網に使った仕組みは、鳥黐のそれと同じである。そして、橧巣に当たるような仮宮は、遷都の多かった古代宮都のさまに似通っている。「天神御子之御寿」というのは比喩で、宮都は華やかではあるが、永続年数が短いことを譬えた謂いかもしれない。
記上で、「天神御子之御寿」、「天皇命等之御命」について語られている。イノチという言葉は、白川1995.に、「「生の霊」の意であろう。「い」は「生き」「息吹き」の「い」。生命の直接的なあかしの息吹きを以て、生命の義とする。それは各民族語の間で共通する観念で、spirit や animal は、みな「いきするもの」を意味した。「いき」がつづくことを〔万葉〕に「いきのを」という。ノは乙類。」(125頁)、土橋1989.に、「今日の生命観では、イノチは存在するか、しないか、長いか短いか、という形で観念されていて、完全か不完全かという形では考えられていない。……[記31歌謡]の「命の全けむ人」は、イノチが完全な人という意味で、それは生命力の強い若者のことである。人間は年をとるにつれてイノチは次第に衰えて行き、その最後に死があるという生命観である。イノチの枕詞は「タマキハル」であるが、タマは霊魂、キハルは「霊剋」「玉切」と表記されていることからも分かるように、タマが磨り減り、消耗することで(『正字通』に「剋、損削也」とある)、生命というものは年が経つにつれて磨り減ってゆくものだという観念、つまり「命の全けむ人」と同じ観念である。」(198頁)などとある。生命のことはヲ(緒、絃)ともいう。「己が命を」(記22・万3535)とある。撚り合わせた繊維が一筋に続いていくからである(注14)。緒のうち太くて丈夫なものは縄である。楮(栲)の繊維を縒って丈夫な縄にする。「栲縄」は長いことの譬えとされ、記に「栲縄の千尋縄打ち延へ」(記上)、紀に「千尋の栲縄を以て、結ひて百八十紐にせむ」(神代紀第九段一書第二)などと見える。枕詞に、「栲縄の」があり、「栲縄の 長き命を」(万217・704)、また、「水沫なす 微き命も 栲縄の 千尋にもがと 願ひ暮らしつ」(万902)とある。
そんな命の形容語のタクナハに関連して、音の似たタケナハ(酣)という語がある。酒宴の席で盛り上がった最高潮時、ないし、それを少し過ぎた頃のことを指す。酒をのんで甘美にして楽しいときを指している。他方、夭折することは「夭」(霊異記・上・五)といい、縄が途中で切れることで表している。夭の字は、「人が頭を傾け、身をくねらせて舞う形。夭屈の姿勢をいう。」(白川1996.1555頁)である。夭折とは命の腰折れ状態を言っている。夭の形は笑や咲の字形にも含まれており、必ず途中で中断することを示唆している。
天神の御子であれば天寿を全うするはずであるのに、夭折するとはどういうことか。それが、この説話の出発点であったのであろう。夭の字は天の字に似ている。しかし、天と違って少し首を傾けている。釜ならば鍔がついているから傾くことはないが、左右に耳(注15)が取って付けられただけの甑だと斜めになることがある。傾ぎながら炊いでいる。どうだろうかと首を傾いだのは、木の花が咲いたものなのかどうなのか怪しかったことから始まっている。怪しい女は妖しい。妖しい女は科をつくって誘ってくる。科をつくると体は斜めになる。シナは坂や階段をいい、層もシナと訓むのは、甑や塔の小屋根やスカートが斜めになっていることと関係するのであろう。腰裳をひらひらさせることは昔から気を引く所作であったらしい。
お産のときのお呪いに、甑を落とす、甑をまろばかす、といわれる習俗がある。宮中では、産後の肥立ちが良いように、御殿の棟から甑を転がり落とした。皇子の場合は南へ、皇女の場合は北へ落としたという。コシキの音が腰気に通じるからとも、甑は蒸すもので産すことに通じるからともいう(注16)。蒸気で蒸して熱気を吐くさまが、お産の際の激しい息づかい、息の吐き方に似ていることとも関係するのかもしれない。産婦が息を思いっきり吐き出すのと同時に赤ん坊を産道から吐き出すということにも通ずるようである。無事に生まれてきた赤ん坊も、息を思いっきり吐き出してオギャーと産声をあげる。息を吐き出し切ることが新しい命の誕生につながっている。甑落としとは、その瞬間を際立たせるために相似した特徴を表現した儀礼なのではないか。甑を竈から落して割れば、シューシューいう音はなくなる。お産の終了ということに譬えられよう。炊ぐ器が傾ぎきって転倒すること、まろばかされることである。前近代において人が命を最も落としやすいのは出産の時であった。息を吐き出し切らせることを、屋根から甑を落すことで大げさに表してみたということかと思われる。
(つづく)