古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

玉藻の歌について―万23・24番歌― 其の二

2016年02月11日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
「うすせみの」と服制

 万24番歌の冒頭、「うつせみの」は、一般に「世」や「人」を導く枕詞である。この言葉の由来はウツシオミにあると指摘されている。

 是に答へて曰く、「吾、先づ問はえつ。故、吾、先づ名告(の)りを為む。吾は、悪しき事なりと雖も一言(ひとこと)、善き事なりと雖も一言、言ひ離つ神、葛城之一言主大神(かづらぎのひとことぬしのおほかみ)ぞ」といふ。天皇、是に惶(おそ)り畏みて白(まを)さく、「恐し、我が大神。うつしおみに有れば覚(さと)らず」と白して、大御刀(おほみたち)と弓矢とを始め、百官(もものつかさ)の人等が服(き)たる衣服(ころも)を脱がしめて、拜(をろが)み献る。(雄略記)
 四年の春二月に、天皇、葛城山(かづらきやま)に射猟(かり)したまふ。忽に長(たきたか)き人を見る。来りて丹谷(たにかひ)に望(あひのぞ)めり。面貌(かほ)容儀(すがた)、天皇に相似(たうば)れり。天皇、是神なりと知しめせれども、猶故(ことたへ)に問ひて曰はく、「何処の公ぞ」とのたまふ。長き人、対亥へて曰はく、「現人之神(あらひとがみ)ぞ。先づ王(きみ)の諱(みな)を称(なの)れ。然して後に噵(い)はむ」とのたまふ。天皇、答へて曰はく、「朕(おのれ)は是、幼武尊(わかたけのみこと)なり」とのたまふ。長き人、次(つぎて)に称りて曰はく、「僕(やつかれ)は是、一事主神(ひとことぬしのかみ)なり」とのたまふ。遂に与に遊田(かり)を盤(たのし)びて、一の鹿(しし)を駈逐(お)ひて、箭(や)発(はな)つこと相(こもごも)辞(ゆづ)りて、轡(うまのくち)を並べて馳騁(は)す。言詞(ことことば)恭(ゐやゐや)しく恪(つつし)みて、仙(ひじり)に逢ふ若きこと有(ま)します。是に、日晩(く)れて田(かり)罷(や)みぬ。神、天皇を侍送(おく)りたてまつりたまひて、来目水(くめのかは)までに至(まういた)る。是の時に、百姓(おほみたから)、咸(ことごとく)に言(まを)さく、「徳(おむおむ)しく有します天皇なり」とまをす。(雄略紀四年二月)

 「うつしおみ(宇都志意美)」(ミは甲類)は、「現し臣」がもともとの言葉とされている。雄略天皇は山中で謎の人物に出会い、横柄な態度をとっていた。すると相手が一言主神(ひとことぬしのかみ)であるとわかった。そこで、自分は現世において神に仕える臣下だからわからなかったと謝っている。つまり、「うつせみ(うつそみ)」という言葉には、現在という時制を表すだけでなく、この世の人、なかでも雄略紀の対応箇所にある「現人之神(あらひとがみ)」、すなわち、天皇を指した言葉であった。
 続日本紀に、「天皇命(すめらみこと)」という表記がある。詔を記したいわゆる宣命体の話し言葉の場面で用いられている。古代の言文一致運動の成果である。「皇」=スメ(ラ)、「命」=ミコト(御言)が本来である。ミコトに命の字を当てることは、古事記に「倭建命(やまとたけるのみこと)」とすでに使用されている。高貴な方のお言葉、「御言(みこと)」とは命令である。よって、「うつせみの」は命という字を導き、それを寿命の意味でイノチと訓みもするから、枕詞的な序詞に流用されたのであろう。
 中国の真似をして天皇が玉藻のついた冕冠を被った記録としては、奈良時代の天平四年(732)正月、聖武天皇の朝賀の儀からとされている。続日本紀に、「四年春正月乙巳の朔、大極殿(だいごくでん)に御(おは)しまして朝(でう)を受けたまふ。天皇始めて冕服(べんふく)を服(け)す。」とある。また、米田1998.によれば、朝賀の儀は、大宝元年(701年)正月条に、「天皇、大極殿に御しまして朝を受けたまふ。」とあるのが最初の記述である。しかし、その半世紀前の天武天皇(大海人皇子)代、さらにその前にも、賀正の礼の記事はある。

 丁未[二日]に、皇子より以下(しもつかた)、百寮(つかさつかさ)の諸人(ひとびと)、拝朝(みかどをが)む。(天武紀四年正月)
 五年の春正月の庚子の朔に、群臣(まへつきみたち)百寮拝朝(みかどをがみ)す。(天武紀五年正月)
 二年の春正月の甲子の朔に、賀正礼(みかどをがみのこと)畢(をは)りて、即ち改新之詔(あたらしきにあらたむるみことのり)を宣(のたま)ひて曰はく、……。(孝徳紀大化二年正月)
 唯元日(むつきのつきたちのひ)には髻花(うず)著(さ)す。(推古紀十一年十二月。冠位十二階の制の付帯事項。)

 また、(注9)に指摘した大仏開眼会のような仏教行事の関連で言えば、まさに天武四年四月にも行われている。

 夏四月の甲戌の朔にして戊寅に、僧尼(ほふしあま)二千四百余(ふたちあまりよほたりあまり)を請(ま)せて、大きに設斎(をがみ)す。(天武紀四年四月)

 天武天皇(大海人皇子)は、髪形や服装を中国風に改めたほど中国にかぶれている。

 乙酉に、詔して曰はく、「今より以後(のち)、男女(をのこめのこ)悉くに髪結(あ)げよ。十二月三十日より以前(さき)、結げ訖(を)へよ。唯し髪結げむ日は、亦勅旨(おほみことのり)を待て」とのたまふ。婦女(たをやめ)の馬に乗ること男夫(をのこ)の如きは、其れ是の日に起れり。(天武紀十一年四月)

 髪形を中国のように髷に結わせようとしている。服装のほうもやかましい(注11)

 辛酉に、詔して曰はく、「親王(みこたち)より以下(しもつかた)、百寮(つかさつかさ)の諸人(ひとたち)、今より已後(のち)、位冠(くらゐかがふり)及び襅(まへも)・褶(ひらおび)・脛裳(はばきも)、着ること莫(まな)。亦、膳夫(かしはで)・采女(うねめ)等の手繦(たすき)・肩巾(ひれ)肩巾、此には比例(ひれ)と云ふ。並びに服(き)ること莫(まな)」とのたまふ。(天武紀十一年三月)

 襅は前裳、褶は枚帯、脛裳は脚絆、手繦は襷、肩巾は肩にかける薄い布切れである。

 又詔して曰はく、「男女、並びに衣服(ころも)は、襴(すそつき)有り襴無き、及(また)結紐(むすびひも)・長紐(ながひも)、任意(こころのまま)に服(き)よ。其れ会集(まゐうごな)はらむ日に襴衣(すそつきのころも)を着て長紐を著けよ。唯し男子のみは、圭冠(はしはかがふり)有れば冠して、括緒褌(くくりをのはかま)を着よ。女の年四十(よそぢ)より以上(かみつかた)は、髪の結(あ)げ結げぬ、及(また)馬に乗ること縦横(たたさよこさ)、並びに任意(こころのまま)なり。別(こと)に巫祝(かむなぎ)・祝(はふり)の類は、髪結ぐる例(かぎり)に在らず」とのたまふ。(天武紀十三年閏四月)

前半は中国風の服装について、子細は自由にして構わないとの記事である。後半は、2年前の髪形、馬の乗り方についての規定を緩めるお達しである。巫覡のような神職に垂れ髪を許すのは、憑依による神憑り儀礼のときに、髷を結っていては様にならないためであろう。さらに3年後に、中国の服装、髪型の導入が失敗に終わったことを物語る記事がある。

 秋七月の己亥の朔にして庚子に、勅してのたまはく、「更(また)男夫は脛裳を着、婦女は垂髪于背(すべしもとどり)すること、猶ほ故(もと)の如くせよ」とのたまふ。(天武紀朱鳥元年七月)

以上の服制についてのごたごたを勘案すれば、玉藻のついた冕冠も、最初は飛鳥時代のほんの一時期、天武朝期に皇位を重々しく見せるための装飾品として利用されたと考えることができる。賀正の礼や設斎に被ったのではなかったか。
 歌の本来の意味について、左注の人はその微妙な言い回しから、理解しているようには見えない。万40~42番歌を作った柿本人麻呂も、万23・24番歌の真相について把握していなかったようである。言葉を表面的に“検索”していては、なぞなぞの知恵が施された歌意に気づくところまでたどり着くことはない。

伊勢国の伊良虞島という設定

 最後に、この「玉藻の歌」が、なぜ配流地と関係のない「伊良虞嶋」に設定されているか、また、それを編者は、なぜ「伊勢国」と記したかについて検証する。「伊良虞嶋」が唐突に登場しているのには、天武紀の麻続王事件の記事に近いところにヒントがある。

 壬午に、詔して曰はく、「諸国(もろもろのくに)の貸税(いらしのおほちから)、今より以後(のち)、明(あきらか)に百姓(おほみたから)を察(み)て、先づ富貧(とめりまづしき)を知りて、三等(みしな)に簡(えら)び定めよ。仍りて中戸(なかのへ)より以下(しもつかた)に貸(いらし)与(たま)ふべし」とのたまふ。(天武紀四年四月)

 種籾を貸与しておいて、収穫に当たっては利子として税を徴収するという政策である。その割り当てについて、種籾を十分に持たない者の方を優先させて貸し付けるようにとのお達しである。中小企業ローンの促進策のようなものである。「貸」とは、上代語にイラスである。すなわち、イラゴとは、利子のことである。それが税にプラスされて上納される。中小零細農家に貸し付ければ、種籾を持てないぐらい切迫しているから、秋に収穫した新米で返済することになる。大規模富裕農家だと、前年以前に収穫した古米を取って置いて充てるかもしれないから返された米は美味しくない。そうならないように、中小零細を使っている。この新米の上納とは、伝統的にいえば、いわゆる速贄のことである。速贄の言い伝えは、古事記の猿田毘古神(さるたびこのかみ)と猿女君(さるめきみ)の話の終わりに添えられている。

 是に、猿田毘古神を送り還り到りて、乃ち悉く鰭(はた)の広物・鰭の狭物(さもの)を追ひ聚(あつ)めて、問ひて言はく、「汝は天つ神御子に仕へ奉らむや」といふ時に、諸の魚、皆「仕へ奉らむ」と白(まを)す中、海鼠(こ)、白さず。爾に、天宇受売命(あめのうずめのみこと)、海鼠に謂ひて云はく、「此の口や、答へぬ口」といひて、紐小刀(ひもかたな)を以て其の口を析(さ)きき。故、今に海鼠の口は拆けたるぞ。是を以て、御世(みよみよ)に島の速贄(はやにへ)を献る時に、猿女君等に給ふぞ。(記上)
マナマコ(ナマコ綱シカクナマコ科、葛西臨海水族園展示品。突起があるからイラ(刺)ゴと考えたかどうかは不明。)
 「海鼠(こ)」が「嶋之速贄」になっている。「嶋之速贄」が、イラ(貸付利子)であると思えば、イラゴは島である。また、「伊良虞嶋」は志摩国であるけれど、もとは伊勢国に含まれていて行政上分離させたものである(注12)。貸付金の元本が伊勢国、その利子が志摩国に相当するというアナロジーである。題詞はそれを物語る。元本よりも利子の部分を先に返して「速贄」とするという考え方は、一度でもローンを組んだことのある人なら了解される話であろう。利息が複利で膨らんでいくことほど恐ろしいものはない。借りた金額が2倍になるのは、年利5%で14.21年、10%で7.27年、15%で4.96年である。養老律令・雑令の規定では、「公出挙(くすいこ)」は5割、「私出挙(しすいこ)」は10割の利息を徴収できることになっている。当時の利息制限法である。また、複利計算はしない定めになっている(注13)。天武四年四月の施策は、「中戸より以下」の余裕のない者をローン地獄に陥れようという質の悪いものである。そこまで計算した上で、万葉集の「麻続王の歌」は、題詞とともに録されたと考える。
 麻続王は、自分の子供に、天子だけが被ることの許される「玉藻(ぎょくそう)」=タマモを遊びで貸してあげた。おそらく麻続王は、子供にねだられて、余った玉の飾りを使って子供用の小さな冕冠を製作し、被せてあげたのであろう。貸子(いらご)は利子のことで、利子は古語にカガという。カガフル(被)ものが「冠・爵(かがふり)」である所以である。
 実際に被ったのは「海鼠(こ)」ならぬ子供である。罪の重さは被った者がより大である。形式が問題だからである。けれども、きちんと返している。子供用に作った小さな冕冠とは、冕冠の利子分である。所詮は遊び、元本も利子分もきちんと返したのだから良いだろうと主張したのは、久努摩呂らに違いあるまい。高金利で貸し付けて「嶋之速贄」を貪ろうとする政策のほうが、よほど宜しくないことではないか。そういった政権批判の思いが諷刺としてはじめから万23番歌にあり、万葉集の編者も、採録するに当たってその意を込めたと考えられる。筆者は、万葉集の当初の編纂過程に、“地下出版”の傾向を見て取る。
 借金の返済金が、租税に上乗せされる+αの+α分となり、それは確実に手にできる「速贄」(=新米)であろうと考える神経(無神経)とは、天皇が神の側へ回っていることを表す古代“天皇制”の確かな証拠である(注14)。役人の狡猾さは、実は平凡な人が仕事熱心になることで生まれる。良心が欠落していて自らの論理の矛盾に気づくことがない。そして天皇は、もはや神なのだから人の心は持ち合わせる必要さえない。天武天皇(大海人皇子)には人の心が若干残っていたから、当摩麻呂と久努摩呂の2人の諫言が耳に痛くて、会いたくないと「勅」していた。それが可能なのは、天皇の恣意が罷り通るほど絶対化されていたからである。
 初期万葉の歌とは、政権の座に就いたものを中心と考え、その磁場が強い核心部分ほど、身勝手がプロパガンダを表明している。万葉集に載る「玉藻の歌」は、言論の自由などとうてい保障されない時代、子供のいたずらも冗談も通じない気難しい世相のなかで、何とか事の真相を後世に伝えようとした苦心の記録である。麻続王の境遇は、窮屈な宮中で悶死した十市皇女(注15)に近いのかもしれない。飛鳥時代、政治的に相容れない行動をとった皇族には、政治的な敗北と同等の過酷な環境が待ち構えていた。それは、そのまま文芸的敗北ともいえ、敗者が言葉にした、ないし、したかったことは、お決まりの辞世の歌か、挽歌か、よほどの難訓のワザが施された歌にしか残されていない。万葉集の最初の編者は、標目、題詞、歌だけをシンプルに記すことで、時代の空気を伝えることに成功している。無文字文化と文字文化との間のクレバスに、巧みに橋を架け渡したのであった。

(注)
(注1)ヤマトコトバのコタフは、コト(言・事)+アフ(合)の約とされている。古典基礎語辞典に、「『日本書紀』の中では、「答」「対」「応」「報」「和」の五つの漢字をコタヘ、コタフと訓んでいる。「答」「対」は日常生活から公事に至るさまざまの事柄・出来事・心情などの問いかけに応じてする説明・回答を意味する。特に「対」は問者と向きあった形で問いただされたことに答えることもいう。「報」は戦況報告や騒乱の状況を告げる場合もみられる。「応」は反響する、反応する、手ごたえを感じる意で、山彦の声にも使っている。「和」の字のコタフは、唱和することの意。……「和」の字のコタフとは、事が合いすべて丸くおさまるということを意味する。」(495頁、この項、西郷喜久子。)と記されている。この日本書紀の使い分けは、万葉集の題詞や左注の使い方に通じるものがあると思われる。ヤマトコトバのコタフの多義性に、漢字のニュアンスを合わせる形で用いている。「和歌」とある場合、先に歌われたものが主、後から唱和されたものが従の印象が生じていることに適っている。それは、歌が「和」されて歌われ、唱和されて歌どうしが和合している意と解される。(注5)参照。
(注2)小島1964.に、「会稽郡(浙江省)白水郷(地方)の漁民達が有名であり、やがてその漁業を生業とする者の代名として「白水郎」の名をもつてするやうになつたと思はれる。上代人がこの文字を使用し始めたのは、渡唐南路に当つて活躍した「白水郎」を実地に見聞した結果かと思はれる。従つてこのアマの文字表現「白水郎」は、必ずしも文献にのみよつたものとは断定できない。つまりこれは耳より聞く口頭語を背景としたとみる方が可能性が大である。萬葉文字表現の背後には、一語一語にその由来する複雑な経路をもつもののあることは、これによつてその一端が知られる。……「白水郎」の如き例は、恐らく中国文献を経ない例の一つかとも思はれ、萬葉集文字表記の複雑性を示すものと云へるであらう。」(855頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。文献を経ないで「白水郎」という字を書いている点について、筆者には完全に腑に落ちる説明とは言えないが、現在までのところ、これに代わる有力な説を見出せていない。そしてその物言いはとても慎重である。
(注3)山崎1986.に、「麻續王に関する二首の唱和の歌は、口から口へと歌い継がれることによって練り上げられたに違いない、そういう表現のまるみと磨き上げがなされているように思うのである。それはしかし、もともと一人の即興詩人によって詠じられたものであったはずであるが、それが民衆の前で演じ歌われているうちに、個としての感情の表現から、いわば抽象的人間の情感へと昇華されて行ったのであろう。しかもそこでは、一般に動作的イメージを喚起する表現を伴ったようである。そのことこそ初期万葉の中に見られる古代歌謡的性格と解されるのである。」(16頁)とある。筆者は、万23番歌について、“即興詩人”などといった洒落た存在ではなく、洒落は洒落でもきつい洒落を言う「時の人」の、世相諷刺の題材にされた要素が強いと考えるが、口承の歌である点については意見を共にする。
(注4)万葉集の表記法のなかに、戯書や義訓と呼ばれる機智を働かせた文字遣いがある。どこまでが正しい書き方で、どこからが戯れの書き方かの線引きは、後代の人の思考回路にしたがって恣意的に成されている。ここに、いくつか例をあげる。脳味噌の使いっぷりを検証して頂きたい。①「左右(まで)」(万34・180・230)、②「去来(いざ)」(万10・44・63)、③「三五月(もちづき)」(万196)、④「金風(あきかぜ)」(万1700・2013・2301)とある。
 ①「左右」をマデと訓むことは、平安時代の源順(911~983)にとって難しいことであった。石山寺縁起にその逸話が載っている。馬引きが両手を使って「待て」と言っているのを耳にし、悟った、という場面が描かれている。一方の手が片手(かたて)、左右両方の手が両手(まて)である。揃っているのがマ(真)、2つセットのうち1つしかないのがカタ(片)である。音声言語を聞かないと、理解に至るものではない。
 ②の「去来」については、陶淵明の帰去来辞の、「帰りなん去来(いざ)、田園将に荒れなんとす。」という句を知っているから慣れっこになっている。文選の知識に裏打ちされたものであるということはできるが、かといって、漢籍の知識にべったりかというと、そうでもない。「去来」を訳すと、ヤマトコトバのサア、ドレ、イザといった言葉に当たるだろうというところに由来している。ここで、サア、ドレとは訓まずにイザとしか訓まない理由は、対立、対抗、反抗を表すイサカヒ(諍)、イザコザ(諍)などの語幹イザが、一方の言い分と他方の言い分が行ったり来たりする点に準え得るからであろう。「去来」に、去ったり来たりすると書いてある。漢籍の知識があれば確実に訓めるというものではなく、ヤマトコトバに慣れ親しんでいないとわからない。漢語、朝鮮語を話す人たちにとっては、万葉集は遠くかけ離れた存在である。
 ③の「三五月」は、掛け算の九九である。十五夜の日は望月だからモチヅキである。しかし、掛け算の九九は、いま、漢字の音読みで成立している。訓読みで、ミィ×イツがトアマリイツ(十あまり五)とはしなかった。中国文明直輸入であった。ヤマトコトバのモチヅキへの変換は、単純な逐語的な訳、2進法的な訳である。“知識”偏重で“知恵”に乏しい。
④の「金風」は、今日の人は訓めないであろう。五行思想で「金」は方位では「秋」に当たるからアキカゼと訓む。完全に漢籍に負っており、“知識”がなければ訓むことはできない。逆に、“知識”があれば簡単に訓むことができる。そこにいう“知識”とは、易経にたくさん見られる単なる記号変換である。“知恵”は介在しない。屋上屋の“知”である。深意というものがない。
 ④の用法は、文字を知っている人が漢籍に慣れ親しむことで賢しらに記したものである。「白風」(万2016)もアキカゼと訓む。五行思想の決め事によるクイズである。歌の内容に、陰陽五行の思想は含まれていない。③は、小学校低学年の児童に算数を教えるのにも役立つ。②は、高校で漢文を習う時に悟ることができる。①は、いつ悟れるか。馬引きを見たときであろう。学校とは関係しない。そして、マデと訓むのだと知っているからと言って、あまり自慢にならない。なぞなぞの世界である。
 万葉集の筆記という作業は、ほぼ音声言語としてのみあったヤマトコトバにとって衝撃であった。かくて、無文字文化の“文化”が文字文化に出会うことによって不思議な現象、文字化のなぞなぞが生じている。文字文化以前の無文字文化の特徴が、なぞなぞにあることを示唆してくれている。なぜ“示唆”しかしてくれないかといえば、なぞなぞは記号変換ではないからである。駄洒落や地口は説明されるものではない。解説をつけると同時に興がさめてしまう。a comic stage dialogue(大喜利)がしらけてしまう。それまでは音声でしかなかったから、「人」や「麻続王」が歌を歌った時、当然、音声言語として歌が歌われたであろう。それは、無文字文化の“文化”に基づき、裏打ちされて歌が歌われている。その無文字文化の常識として、記紀にさまざまな説話が残されている。偉大なる我らがヤマトコトバの無文字文化の結晶である。日本の古代がどのようなものであったのかを知るためには、中国文明との交渉ばかりに捕われず、なぞなぞ文化を解き明かしていくことが急務である。
(注5)万葉集に、「応歌」に類した「応詔歌」などや、「答歌」に類した「答御歌」などがある。それぞれの特徴について、研究すべき課題は多い。促されて応じたり、問われて答えたりしたことを意味する用字ではないかと推測する。仮にそうであるとすると、それらはコタフルことが予定されていた歌ということになる。一方、俎上の「和歌」は、影山2011.の指摘どおり、自然発生的に唱和して和合したという意味合いを帯びていると考えられる。
(注6)「打麻乎」をウチソヲと訓むべきか、ウツソヲと訓むべきか、どちらでも「歌の解釈に直接影響を与えるほどではない。」(村田2004.282頁)とする説がある。ヤマトコトバが文字を持たなかった時代に、言葉は音声言語としてのみ存在した。現代人の頭で解釈することにおいて差がなかろうとも、飛鳥時代の言葉としては、必ず1つの音で歌われた。2つの理由による。第1に、「麻(そ)」という名詞、すなわち、体言に動詞が掛かっているので基本的に連体形であろうと思われる。小田2015.334頁、「終止形・連用形による連体修飾」の項に、「終止形が直接名詞に続くことがある」例として、「射ゆ獣(しし)を」(紀歌謡117)、「萎(な)ゆ竹の」(万420)、「流る水沫(みなわ)」(万1382・4106)、「流る辟田(さきた)の」(万4156)、「田に立ち疲る君」(万1285)、「新室を踏み鎮む児し」(万2352)、「連用形が直接名詞に続くことがある」例として、「恋忘れ貝」(万3711)、「植ゑ小水葱(こなぎ)」(万3415)の例が載る。「打麻乎」をウチソヲと訓むとする考えは、連用形が直接名詞に続くことの一例と扱われなければならない。しかし、小田2015.のあげる例に限れば、どちらも東歌である。文法的に破格と推される。連用形が直接名詞に続く他の例があるか、指摘を仰ぎたい。
 第2の理由として、万23・24番歌は、題詞にあるとおり、「和歌」として綴られている。影山2011.の「即和歌」の検討に、「鸚鵡返し」的な性格があるとの指摘があった。この万23・24番歌についても、鸚鵡返し的に同じ言葉、同じ音をもって返しているところに、「歌」としての特徴が見出されるものと考えられる。万24番歌の歌い出しが、ウツセミノとあるのは、万23番歌がウツソヲとあったから、そのウツの音を捉え返して「和ふる歌」を歌ったものととるのが妥当であろう。今日の人にとって何となく心地よいと理由でウチソヲと訓んでいるに過ぎず、そう訓まれるべき根拠は見当たらない。以上から、「打麻乎」はウツソヲと訓む。元暦校本萬葉集古河家旧蔵本の左側墨書傍訓、西本願寺本右側不思議な色傍訓にウツアサヲともある。他にウテルヲヲとする伝本もある。「麻続王」をミノオホキミと訓むなら、ウツヲヲかもしれない。いずれにせよ、「打」の訓は、ウツでなければならない。
「ウツアサヲ」(東京国立博物館研究情報アーカイブズ
(注7)「天武天皇」は漢風諡号である。生前の“名前”としては、オホアマさんであった。
(注8)後漢書・輿服志に、「冕服広七寸、長尺二寸、前円後方、朱緑裏、衣上、前垂四寸、後垂三寸、係白玉珠、為十二施、以其綬采色組纓」、「爵弁一名冕、広八寸、長尺二寸、如爵形前小後大、繪其上爵頭色」などとある。
山東省沂南県の画像石、尭舜禅譲図に刻されていても、尭舜のころに冕冠があったわけではない。秦始皇帝が冕冠を被っている像が見られるが、時代考証的にどうなのか筆者にはわからない。筆者がここに展開している天武朝冕冠起源説も時代考証にまつわる問題であるため記しておく。
(注9)沈・王1995.に、「[歴代帝王図巻の]画中で表現された服装は、隋・唐時代の画家が、ただ漢代の輿服志の三礼六冕の旧説および晋・南北朝時代の絵画や彫刻中の冕服を踏襲して描いた皇帝の冕服と侍臣の朝服の形式であり、漢や魏の本来の服装とは符合していない。しかし、この種の冕服形式および服飾の文様は後世に影響を及ぼし、封建社会の晩期においてもなお役立ち、宋(および遼・金)元・明の約1000年にわたって踏襲されたのであった。」(215頁)とある。
「玉藻」のついた冕冠図(3:沂南漢代画像石墓の冕冠、4;司馬金龍墓出土の漆画屏風に描かれた楚王の冕冠、5;集安高句麗壁画の仙人が戴く冕冠(沈・王1995.216頁、王亜容挿図)
 似た形状に、孝明天皇の礼冠があるが、旒は周囲にめぐらせてある。
孝明天皇の冕冠(Barakishidan「Benkan emperor komei.jpg」Wikimedia Commons、https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Benkan_emperor_komei.jpg)
 旒に用いたのではないかとされるものが、正倉院に残っている。
礼服御冠残欠(正倉院北倉157、真珠・瑠璃玉垂飾、宮内庁HPhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000020681&index=2をトリミング)
 米田1998.によれば、この礼服御冠残欠は、聖武天皇・光明皇后が、天平勝宝四年(752年)四月九日、東大寺大仏開眼会において身に着けたものとされる。続日本紀、同日条に、「盧舎那大仏の像(みかた)成りて、始めて開眼す。是の日、東大寺に行幸(みゆき)したまふ。天皇、親(みづか)ら文武の百官を率ゐて、設斎大会したまふ。其の儀、一(もは)ら元日(ぐゑんにち)に同じ。」とあって、儀場の雰囲気(装束や施設、音楽や舞)が同様であったとされている。「元日朝賀の儀とは、元日に天皇が大極殿において群臣から賀を受ける儀式である。当日大極殿前庭に礼服を着た群臣らの居並ぶ中、天皇は冕服(べんぷく)を着して大極殿中央に設けられた高御座(たかみくら)に上り、群臣の再拝を受け、ついで前年に起こった祥瑞(しょうずい)の奏上を、さらに群臣の代表者が賀詞を奏上するのを聞かれ、新年の宣命(せんみょう)を宣下する。ここで群臣らは称唯(しょうい)再拝し、舞踏再拝する。この時、武官は立って旗を振り、万歳を唱える。かくして儀式は終了し、天皇は退出される。」(30頁)とある。
冠架(正倉院北倉157、赤漆八角小櫃付属、宮内庁HPhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010564&index=0をトリミング)
 もはや、“残欠”から復元はできないが、冠を納めたとされる櫃が四角いものを納める容器であったとは思われない。
(注10)左注、天武紀四年条とも、「三位麻續王」と記されている。「續」字は「績」字の通用である。中国でもわずかにそのような例がある。「續」字は、今日、「続」字をもって常用としている。麻(を)を績(う)むことは、麻の繊維をとり出して撚ったり結んだりして継いでいくことだから、糸として続(續)くことになる。意味的な連関がある。また、「売(賣)」は常訓として、ウルと訓む。ウムとウルで語幹を共にする。と同時に、麻続王一家は連座させられている。芋蔓式に罪に問われた。績んだ麻は芋蔓のようである。また、ヲミノオホキミは三位であるはずが、降下させられて四位になるほどの罪を犯したという意味にもとれる。どういう罪かといえば、冠にまつわり天皇の位を冒するものであった。よって、「續」なる「四」の字が混入した字、「賣」の字が入っている字が好まれていると考えられる。紀や初期万葉における異体字の形成について、筆記者の熟慮の跡が見て取れると感じられることがある。異体字研究に、一字=一音=一義の中国に倣って、一字=一訓=一義のヤマトカンジを創作している節があると提言しておきたい。
(注11)「婦女の馬に乗ること男夫の如きは、其れ是の日に起れり。」との記事は、注目に値する。女性が乗馬する風がこの日からというのではなく、男性のような乗り方、すなわち、跨って乗るのがこの日からとするものかもしれないからである。それまでは横座りであったかとも考えられるのである。古墳から出土する埴輪の横座り用の鞍は、実際にあったかもしれない。
(注12)志摩国が伊勢国から分立したのは、「……及び伊賀(いが)・伊勢(いせ)・志摩(しまのくに)の国造(くにのみやつこ)等(ども)に冠位(かうぶり)を賜ひ……」(持統紀六年三月)とあるところから7世紀後半頃かとされている。記紀の説話上で問題なのは、「嶋の速贄」なる語句と、「モズの早贄」という常套句との関係である。また、「百舌鳥耳原(もずのみみはら)」(仁徳紀六十七年十月)という言葉も検討に値しよう。
(注13)公出挙の場合、aを貸し付けられると、1年後に完済するための返済額は計算上3/2×a(=1.5a)である。これは借金の返済だけであり、公租公課は別であったと思われる。養老令・雑令に、「凡そ稲粟を以て出挙(すいこ)せらば、任(ほしいまま)に私(わたくし)の契(けい)に依れ。官、理すること為ず。仍つて一年を以て断(さだ)むること為よ。一倍に過すこと得じ。其れ官は半倍(はんべ)せよ。並に旧本(くほん)に因りて、更に利(り)生(な)さしめ、及び利を廻らして本と為ること得ず。若し家資(けし)尽きなば、亦上の条に准へよ。」、同・賦役令に、「凡そ調物(でふもち)及び地租(ぢそ)、雑税(ざふぜい)は、皆明らかに、輸(いだ)すべき物の数を写して、牌(ひ)を坊里に立てて、衆庶(しゆしよ)をして同じく知らしめよ。」の「雑税」の個所、義解に、「謂、出挙稲及義倉等、是也」とあり、地租とは別に出挙稲という借金の返済があった。ただし、地租負担は3%程度と軽かったそうである。結局、公出挙をa受けて、班田の収量をbとすると、1.5a+0.03bを“税”として納めることとされていた。一粒万倍には今日でもならず、300倍程度であろうか。仮に飛鳥時代の標準的な収量が1粒50倍であったとして、まるごと種籾を公出挙で借り受けていると、10000粒獲れても200粒借りているから300粒(公出挙分)+300粒(地租分)で計600粒納める計算になる。手取りは9400粒である。政府の側からすると、豊作不作の別なく基本料のように毎年入ってくるのが公出挙の返済分ということになる。200粒借りて、不作の年で5000粒しか獲れなくても、公出挙分は変わらず300粒、地租分は150粒、計450粒納めることになる。手取りは4550粒である。出挙の重税感は否めないであろう。豊作の年には翌年の種籾を確保して出挙で借りないようにしておかないと、不作で堪らない年が来ることになる。
以上は取らぬ狸の皮算用にすぎない。とはいえ、近世に稲を作付せずに畑にしてしまったり、現代に減反補助金を当てにしながらの三ちゃん農家が増えてしまったり、後継者不足で自家作以外放棄されるなど農政が難しいのは、取らぬ狸の皮算用がある程度利いてしまうせいであろう。
(注14)藤田2012.参照。なお、「玉藻(ぎょくそう)」のついた冕冠を天武天皇が被ったとして、それをタマモと呼んだとは限らないではないか、という設題に対しては、非常に高い精度をもってタマモという訓をあてたであろうと考えている。政治史において、純粋な意味での“天皇制”は歴史上2回しかなかったとされる。近代天皇制と古代天皇制である。いずれも科学技術や文化芸術を先進的な外国に負いながらも、精神的支柱を自らの内に求めようとするため、近代においては敵性語である英語を使わずに不思議な言い換えが行われた。古代においても然りであろう。事は精神論である。先進的な外国文化に憧れ実用しながら、外国語は使わないという矛盾した行いをしている。言葉を拠りどころとするのが、“民族”という幻想を抱かせるのに最も適した方法といえる。藤田2012.のいう“天皇制”の真髄は、言語学的にも確かであると考える。ヤマトコトバが“天皇制”成立の基礎のひとつではないかさえ考えている。ただし、麻続王の「玉藻」のような語は、ほぼヤマトコトバで成り立つ万葉集において例外的な言葉といえる。歪んだ国粋主義を諷刺した歌が万23番歌である。タマモという言葉を使うこと自体が、語用論的にシニカルである。他のいわゆる訓読語(ケダシ(蓋)、イマダ(未)、ホリス(欲)といった語)は、古墳時代後期から飛鳥時代前期に作られたと思われる新語ではあるが外来語ではない。economy を「経済」、battery を「電池」と言って日本語化したことの古代版かとも見紛うが、近代に主に名詞が造語されている。両者の共通点、相違点について検討すべき課題は多く、とても興味深いものがあるが、本稿の主旨からは離れるので問題提起に止めておく。
(注15)万22番歌、「常処女の歌」について、訓は定まっているとは言えないと考える。

(引用・参考文献)
伊藤1995. 伊藤博『萬葉集釋注一』集英社、1995年。
岩波文庫万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
澤瀉1957. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
影山2011. 影山尚之「額田王三輪山歌と井戸王即和歌」稲岡耕二監修、神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十二集』塙書房、平成23年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学』塙書房、昭和39年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
沈・王1995. 沈従文・王㐨編著、古田真一・栗城延江訳『増補版 中国古代の服飾研究』京都書院、1995年。
内藤2012. 内藤聡子「三河湾の『玉藻』の歌」印南敏秀編『里海の自然と生活Ⅱ―三河湾の海里山―』みずのわ出版、2012年。
藤田2012. 藤田省三『天皇制国家の支配原理』みすず書房、2012年。
増田1995. 増田美子『古代服飾の研究―縄文から奈良時代―』源流社、1995年。
村田2004. 村田右富実『柿本人麻呂と和歌史』和泉書院、2004年。
山崎1986. 山崎良幸『和歌の表現―表現学大系各論篇第一巻―』教育出版センター、1986年。
米田1998. 米田雄介『正倉院宝物の歴史と保存』吉川弘文館、平成10年。

※本稿は、2016年2月稿、2018年1月稿を、2020年8月に整理したものである。

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