古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

玉藻の歌について―万23・24番歌― 其の一

2016年02月06日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻一の万23~24番歌は、罪科に問われた「麻続王(をみのおほきみ)」という人にまつわる歌である。

  麻續王流於伊勢國伊良虞嶋之時人哀傷作歌
 打麻乎麻續王白水郎有哉射等籠荷四間乃珠藻苅麻須
  麻續王聞之感傷和歌
 空蟬之命乎惜美浪尓所濕伊良虞能嶋之玉藻苅食
  右案日本紀曰天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯三位麻續王有罪流于因幡一子流伊豆嶋一子流血鹿嶋也是云配于伊勢國伊良虞嶋者若疑後人縁歌辞而誤記乎

 以下、伊藤1995.の訓読と訳をあげる。

  麻続王(をみのおほきみ)、伊勢の国の伊良虞(いらご)の島に流さゆる時に、人の哀傷(かな)しびて作る歌
 二三 打(う)ち麻(そ)を 麻続(をみ)の王(おほきみ) 海人(あま)なれや 伊良虞(いらご)の島(しま)の 玉藻(たまも)刈(か)ります
  麻続王、これを聞きて感傷(かな)しびて和(こた)ふる歌
 二四 うつせみの 命(いのち)を惜(を)しみ 波(なみ)に濡(ぬ)れ 伊良虞(いらご)の島(しま)の 玉藻(たまも)刈(か)り食(は)む
 右は、日本紀を案(かむが)ふるに、曰(い)はく、「天皇の四年乙亥(きのとゐ)の夏の四月、戊戌(つちのえいぬ)の朔(つきたち)の乙卯(きのとう)に、三位麻続王罪あり。因幡(いなば)に流す。一(ひとり)の子をば伊豆(いづ)の島に流す。一の子をば血鹿(ちか)の島に流す」といふ。ここに伊勢(いせ)の国の伊良虞(いらご)の島に配(なが)すといふは、けだし、後の人、歌の辞(ことば)に縁(よ)りて誤り記(しる)せるか。
 ……
 打ち柔らげられた麻、その麻続王(おみのおおきみ)は海人なのかなあ、まるで海人そっくりに、伊良虞の島の玉藻を刈っていらっしゃるよ。(二三)
 この世に持つ命の惜しさに、波に濡れながら、私は伊良虞の島の、玉藻を刈って食べています。(二四)(98~100頁)

解釈の現状と「和歌」

 背景の事情はよくわからないものの、万23番歌は、島流しにあった麻続王が海岸で藻を採っておられるのを、人々が同情して詠んだ歌であるとされている。そのことは次の万24番歌の「和ふる歌」を併せて考えれば明らかという。ただし、「和歌」と呼べるものは、先に作られた歌を主とし、それに応えて従とされる歌のはずであるとも考えられている(注1)。筆者の予断ではあるが、「和」さずとも一首で十分に歌として機能して完結しているものに、さらに加えて厚みを増す作用を示したものが、「和歌」と呼ばれたのではないかと考える。同じ事柄について別の視点から歌としてあわせたという意味である。歌う立場が異なるのは贈答歌である。伊藤1995.を含め、現状の解釈では、万23番歌+αの歌として計2首を捉えるのか、逆に万24番歌を導く伏線として万23番歌が置かれているか、いずれにせよ、そうだそうだと言い合っているに過ぎないものとして考えられているように感じられる。足して1になるのではなく、足せば2以上の効果、膨らみがあるのが「和歌」なのではないかと考える。
 なお「白水郎」はアマと訓んで「海人(あま)」のこととされる。もとは中国南方の白水地方の郎、すなわち男性の称から来ているという(注2)。また万24番歌の第一句、「うつせみの」は、現実の世の意味から「命」を導く枕詞とされている。ほかに、第五句は、「玉藻刈り食(を)す」、「玉藻刈り食(は)む」と訓ずる説もある。この五句目と一句目の訓は、これらの歌の眼目である「和歌」の真髄において正しく訓まれなければならないと考える。現状の解釈では十分な理解に至っていない。
 影山2011.に、万17・18番歌の額田王の近江下向の歌に続く万19番歌の井戸王の歌に「即和歌」とある点について、次のように論じている。

 ……「即和歌」と記される事例は単に詠作の即時性もしくは瞬発性をいうのでなく前歌との即応性および直結性を重点表示するものと見るのがよい……[「瞬間性の表示には「応声」が別に用意されている(6・九六二左、16・三八〇五題、16・三八二四左、16・三八三七左)。場と時を異にした唱和を意味する「追和」(2・一四五題、6・一〇一五題など)は「即和」とは対照的な営みである」(46頁)]。贈答歌にしばしばみられる反発・切り返しが①~④[①3・二八五・二八六、②3・四〇一・四〇二、③3・四六二・四六三、④4・七六五・七六六]に顕在化せず、むしろ前歌に対して肯定的あるいは順接的な様相を呈しているのも、こうしたやりかたと連動するのであろう。(27頁)

万19番歌は、その左注にあるように和歌に似ていないとされている。万葉集の編纂者は時代を追って引き継いでいったものと考えられるから、厳密に文字を使い分けていたかどうかは定められないが、一定の目安にはなるであろう。「即和歌」にはもう一例、左注で記される万3844・3845番歌がある。これについては、「左注」にある点と、お互い、からかい喧嘩の言い合いになっている点から、影山2011.の考察ではオミットされている。
 万23・24番歌は、「和歌」とだけあり、「即和歌」ではないが、①~④の例と共通点が多い。そこで、以下にそれらの例を示す。

  丹比真人笠麿(たぢひのまひとかさまろ)の紀伊国に往きて勢(せ)の山を越えし時に作る歌一首
 栲領巾(たくひれ)の 懸けまく欲しき 妹が名を この勢の山に 懸けばいかにあらむ〔一に云はく、代へばいかにあらむ〕(万285)
  春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ)の即ち和ふる歌一首
 宜しなへ 吾が背の君の 負ひ来にし この勢の山を 妹とは呼ばじ(万286)

  大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)の親族(うがら)と宴する日に吟(うた)ふ歌一首
 山守の 有りける知らに 其の山に 標(しめ)結ひ立てて 結ひの恥しつ(万401)
  大伴宿禰駿河麿(おほとものすくねするがまろ)の即ち和ふる歌一首
 山主(やまもり)は 盖(けだ)し有りとも 吾妹子(わぎもこ)が 結ひけむ標を 人解かめやも(万402)

  十一年己卯夏六月に、大伴宿禰家持の亡(みまか)りし妾(をみなめ)を悲傷(かなし)びて作る歌一首
 今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにか独り 長き夜を宿(ね)む(万462)
  弟(おと)大伴宿禰書持(おほとものすくねふみもち)の即ち和ふる歌一首
 長き夜を 独りや宿むと 君が云へば 過ぎにし人の 思ほゆらくに(万463)

  久邇京(くにのみやこ)に在りて寧楽(なら)宅(いへ)に留まれる坂上大嬢(さかのうへのおほおとめ)を思(しの)ひて大伴宿禰家持の作る歌一首
 一重山(ひとへやま) 隔(へな)れるものを 月夜よみ 門(かど)に出で立ち 妹か待つらむ(万765)
  藤原郎女(ふぢはらのいらつめ)のこれを聞きて即ち和ふる歌一首
 路(みち)遠み 来(こ)じとは知れる ものからに 然そ待つらむ 君が目を欲り(万766)

 以上の歌のやり取りの特徴として、即座にその場にいた作者が、前の歌に和して歌い返していること、そして、応酬の場を具体的に想定できることをあげられている。さらに、影山2011.は、「鸚鵡返しや人称の一方通行」(27頁)が見られることを指摘する。「前歌との接続性を主張するために言語上の密な関係を構築しようとする所為と理解され、いうならば本来は贈答唱和を期待していない詠歌に対し自ら進んで「和歌」として連なろうとするのが「即和歌」であると考えられるのである。」(25~26頁)という。万23・24番歌も、即時性や同場性は欠けているものの、これらととてもよく似た傾向にあることがうかがえる。両歌の主語は麻続王である。同時代性と共場性を有した歌ということができるのではないか。麻続王は自ら進んで「和歌」として連なろうと営んだのである。
 村田2004.に、万23番歌「哀傷作歌」の作者についての論考があり、紀歌謡に現われる「時人歌」の特徴と共通すると論じられている。「すなわち、①歌の表現上に事件に関する固有名詞が登場し(麻続王)、②作者に興味を示されず(人)、③短歌形式であり、④事件最中(後)の詠であり、⑤話者の感想が歌われる(海人なれや)」ことから、「当該歌は「時人歌」の一つとして把握してよいであろう。」(277頁)とする。「時人歌」的な性格を持った万23番歌に対して、事件渦中の当事者である麻続王が「和」したことになり、きわめて特殊な歌群であるということができる。
 そのことは、歌の字句にある「玉藻」を「刈る」ことに関しても指摘されている。内藤2012.は、万葉集中の「玉藻刈る」歌全24例について概観され、「玉藻」を「刈る」主体がアマ(海人)やアマヲトメ(海人娘子、海人通女、海少女)の例が多く、他には後に触れる41番歌に「大宮人」が「玉藻」を「刈る」歌があるなか、万23・24番歌は、罪を得て配流された王自らが「玉藻」を「刈る」歌となっていて、「『万葉集』において他に類例のない特殊な「玉藻刈る」歌である。」(272頁)と評している。

歴史事件との関係

 左注の記事と現行の日本書紀との間には、日付の干支に違いが見られる。紀では天武四月朔日を甲戌(きのえいぬ)、麻続王が罪を得た日を辛卯(かのとう)に作る。しかし、いずれにせよ18日に当たっているので、事実に誤りはないものと考えられている。結局、麻続王は因幡、一人の子は伊豆大島、もう一人は五島列島に流罪になっている。流刑地については、他に常陸風土記にも別の伝承が残る。

 辛卯に、三位麻続王罪有り。因幡に流す。一の子をば伊豆嶋に流す。一の子をば血鹿嶋(ちかのしま)に流す。(天武紀四年四月十八日)

 岩波文庫万葉集に、「左注の日本書紀の言う通りだとすれば、遠流・中流・遠流の三つのうち、罪の主体と考えられる王が近流の因幡、連座したと思われる子の一人が中流の伊豆、一人が遠流の九州の血鹿島(→八九四)に流される重い刑を受けたことになり、尋常ではない。史料に何らかの混乱があったか。」(73~75頁)とする。「罪の主体」が「王」であるという前提は、どこから来るのであろうか。子供の方が罪を犯し、親が連座させられているのではないか。連座でも罪は罪だから、「三位麻続罪有り。」と記されて不思議ではない。少なくとも、その可能性を最初から排除して史料批判をしてはならない。
 天武朝は、中央集権的な国づくりが進んだ時代であった。斉明天皇が構想していた天皇中心の国家像は、律令制度の導入によってより完成されたものになっていく。人々にとって、それは「百姓(おほみたから)」にせよ、官人にせよ、必ずしも明るく伸びやかで自由な風潮の時代であったとは限らない。実際、天武天皇は当初から諸々の禁令を発している。

 癸巳に詔して曰はく、「群臣(まへつきみたち)・百寮(つかさつかさ)と天下(あめのした)の人民(おほみたから)、諸悪(もろもろのあしきこと)を作(な)すこと莫(まな)。若し犯すこと有らば、事に随ひて罪せむ」とのたまふ。(天武紀四年二月)

 漠然とした一般論に見えるが、推古朝に聖徳太子が山背大兄王(やましろのおおえのみこ)等に語ったとされる遺言、「諸の悪(あしきこと)な作(せ)そ。諸の善(よきわざ)奉行(おこな)へ。」(舒明前紀)に由来し、大本は七仏通誡偈「諸悪莫作、諸(衆)善奉行、自浄其意、是諸仏教」によっているとされる。聖徳太子は親族の心の戒めとして言っているけれど、天武天皇は治安維持のために言っている。道徳の内面化を社会全体に広めようとした政策である。教育勅語のようなものと考えればわかりやすいであろう。

 癸卯に、人有りて宮の東の丘に登りて、妖言(およづれごと)して自ら刎(くびは)ねて死ぬ。是の夜の直(とのゐ)に当れる者に、悉くに爵(かがふり)一級(ひとしな)を賜ふ。(天武紀四年十一月)

 夜中に、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)の東の岡、現在の明日香村岡に登って、反体制のアジテーションを行って自決している。宿直の者全員が一階級増されているところを見ると、政権は口封じをしたらしい。某国の民主化運動に対する措置に似る。

 丁酉に、宮中に設斎(をがみ)す。因りて罪有る舎人等を赦す。乙巳に、飛鳥寺の僧福楊に坐(つみ)して獄(ひとや)に入る。庚戌に、僧福楊、自ら頸を刺して死(みう)せぬ。(天武紀十三年四月)

 罪科を問うておいて恩赦を与えたり、牢獄へぶち込んだ僧侶が自死したりしている。事をとり立てている記事ではないから、当たり前のことと思われる世相であったと考えられる。窮屈な世の中に暮らし続けると、だんだん感覚が麻痺してくる。全体主義的な時代経験である。職務を全うするために明け暮れた役人は、良心を滅却して火もまた涼しくなる。

 丁亥に、小錦下(せうきむげ)久努臣摩呂(くののおみまろ)、詔使(みかどのつかひ)に対(むか)ひ捍(こば)めるに坐(よ)りて、官位(つかさくらゐ)尽くに追(と)らる。(天武紀四年四月)
 壬寅に、杙田史名倉(くひたのふひとなくら)、乗輿(すめらみこと)を指斥(そし)りまつれるといふに坐りて、伊豆島に流す。(天武紀六年四月)

 後者のように、天皇を直接言葉で非難すると、律令では名例律に規定のある「八逆」の大罪の一つ、「大不敬(だいふきょう)」の罪にあたる。本来なら死罪か懲役2年である。前者の四年四月十四日の事例は、天皇のお使いの指図に対して逆らい、官位没収の処分を受けている。「詔使」は、久努摩呂よりも身分が低く、若造であったのかもしれない。この久努摩呂という人は、諫言する人物であったのかもしれない。同じ天武紀四年四月条に、「辛巳に、勅(みことのり)したまはく、『小錦上(せうきむじやう)当摩公麻呂(たぎまのきみまろ)・小錦下久努臣摩呂、二人、朝参(みかどまゐり)せしむること勿れ』とのたまふ。」とあるものの、天武天皇の亡くなった朱鳥元年九月条に、「直広肆(ぢきくわうし)阿倍久努朝臣麻呂(あへのくののあそみまろ)、刑官(うたへのつかさ)の事を誅(しのびことたてまつ)る。」と再出する。天皇は反省して適材を適所に復帰させていたようである。しかし、天武四年の段階では、完璧なるイエスマンが求められている。社畜ならぬ“国畜”になり切らないといけない時代になっていた。
 その天武四年四月は、まさに麻続王が罪を得たときである。彼が子供ともども連座して流されているのは、大不敬のような重罪を犯しつつ、罪一等を減じられたということであろう。子供の方が都から遠いところに流されているから、子供のいたずらの責任を親が負わされたのに違いあるまい。久努麻呂という人が懲戒処分で官位を奪われてからわずか4日後である。あるいは、麻続王事件に関係してのことではなかろうか。査問委員会か懲罰委員会にかけられた麻続王一家のことについて、どうだっていいじゃないかという久努麻呂と、こういうことこそ大事なのだという天皇の使者との間のいさかいである。玉藻の歌とは、その時の事件簿の様相が濃厚である。

無文字時代の「歴史」

 それは、歌の題詞と左注との間の齟齬からも感じ取れる。左注の筆者は、万19番歌(「綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓着成目尓都久和我勢」)に左注を施したのと同一人物である蓋然性が高い。万19番歌では、「右の一首の歌は、今案ふるに、和(こた)ふる歌に似ず。但し、旧本この次(ついで)に載す。故に以て猶しここに載せたり。」と注している。一方、万24番歌においては、「和歌」とある点について、いっさい疑問を呈していない。左注の筆者は、「和ふる歌」であることはそのとおりであるとしている。「歌辞」にある「伊良虞嶋」自体も不審に思っていない。歌辞ではなく、設定としての題詞のほうに疑問を持っている。題詞に、流された場所を「伊勢國伊良虞嶋」としている点について間違えではないかと感じている。現在伝わる紀にも引用と同等の記事があり、麻続王が「伊勢國伊良虞嶋」に流罪になったという事実はなさそうである。
 では、左注の言うように、歌の字句のために題詞を間違えたかと考えてみると、そもそも歌の字句がなぜ「伊良虞嶋」の話になっているのかという疑問が浮かぶ。「伊良虞嶋」は現在の愛知県の渥美半島の先端、伊良湖岬かその近辺の島に比せられている。半島をもってシマと呼ぶ例は、志摩国が半島であるなどあり得ることである。しかし、「伊良虞嶋」は伊勢国ではなく三河国である。もとより当時の“国境”がいかなるものであったか確かではなく、伊勢湾を挟んで隣接する「国」である。その間にある神島を指しているとする説(澤瀉1957.227~228頁)もある。しかし、むしろ、伊勢国と三河国の間に、志摩国が位置していることに注意が払われるべきであろう。
 左注を付けた人は万葉集の最初の編者とは別の人であったと思われる。最初の編者はシンプルに、標目、題詞、歌だけを記し、それを引き継いだ2番目の編者が、左注を施したうえで歌の採録を続けていったのであろう。万19番歌の左注に、「旧本」と記されており、左注を付けた人は「旧本」を写しているとわかる。この両者の間には時代の展開、文化的な大転換点があった。無文字社会から文字社会への転換である。それは同時に、律令制の導入時期にあった。万葉集の歌においても、それとちょうど対応するように、額田王の口承の歌から、柿本人麻呂の筆記メモ帳の歌へと転換していったといえる(注3)。その両文化の間にあるクレバスは深く、無文字文化の“文化”が、文字文化の人にはまるでわからなくなるという事態が生じている。言い伝えに伝えられた説話の内容は、無文字文化で当たり前のこととして常識として受け止められていたが、文字文化の時代に至り、常識ではなくなった。世の中を“学ぶ”ことの意味合いが、それまでの言い伝えを聞いて悟って知るという方法から、書いてある文字を見て知識を積み上げて理解するという方法へと変ってしまった。脳の使う部位が異なってきた。音声言語によりかかった思考と、視覚言語(文字)によりかかった思考は、性質が異なる。脳科学の課題である。筆者は、それを、“知恵”と“知識”の違いとして述べている。なぞなぞとクイズの違いと言っても良い(注4)
 万24番歌に左注を施した人は文字文化の人であり、麻続王よりもひと世代後の人、つまりは異文化に属する人であろう。反対に、麻続王事件を歌った「人」と彼に和した「麻続王」は、無文字文化の人である。それらの歌詞を聞くと、狐につままれたような感じがする。記紀に残されている語句があらわれている。万23番歌に見える「海人(あま)なれや」という句である。この句は、言い伝えのなかの諺に登場する。応神記、仁徳即位前紀の皇位継承辞退の話に、「海人なれや、己(おの)が物から泣(な)く」などとある。

 是に、大雀命(おほさざきのみこと)と宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)と二柱、各、天下(あめのした)を譲りたまふ間に、海人(あま)、大贄(おほにへ)を貢(たてまつ)りき。爾に兄は辞(いな)びて弟に貢らしめ、弟は辞びて兄に貢らしめて、相譲れる間に、既に多(あまた)の日を経ぬ。如此(かく)相譲ること一二時(ひとたびふたたび)に非ず。故、海人、既に往還(ゆきき)に疲れて泣きき。故、諺に曰く、「海人なれや、己が物に因りて泣く」といふ。(応神記)
 [菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)、]既にして宮室(おほみや)を菟道(うぢ)に興(た)てて居(ま)します。猶位(みくらゐ)を大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)に譲りますに由りて、久しく即皇位(あまつひつぎしろしめ)さず。爰(ここ)に皇位(みくらゐ)空(むな)しくして、既に三載(みとせ)を経ぬ。時に海人有りて、鮮魚(あざらけきいを)の苞苴(おほにへ)を齎(も)ちて、菟道宮(うぢのみや)に献る。太子(ひつぎのみこ)、海人に令(のりごと)して曰はく、「我、天皇に非ず」とのたまひて、乃ち返して難波に進(たてまつ)らしめたまふ。大鷦鷯尊、亦返して、菟道に献らしめたまふ。是に、海人の苞苴、往還(かよふあひだ)に鯘(あざ)れる。更に返りて、他(あた)し鮮魚を取りて献る。譲りたまふこと前(さき)の日の如し。鮮魚亦鯘れぬ。海人、屢(しばしば)還るに苦(たしな)みて、乃ち鮮魚を棄てて哭く。故、諺に曰く、「海人なれや、己が物から泣(ねな)く」といふは、其れ是の縁(ことのもと)なり。(仁徳即位前紀)

 当時、皇太子の宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)と大雀命(大鷦鷯尊)、後の仁徳天皇とが皇位を譲り合っていた。そして、菟道宮、今の宇治市と難波、今の大阪とに分かれて住んで3年が経過していた。時に漁師が鮮魚を贄として天皇に献上しようと菟道に持って行ったところ、宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)は自分は天皇ではないと言って断り、難波に進上させた。ところが大雀命(大鷦鷯尊)も固辞して今度は菟道へ向かわせた。行き来する間に贄の魚は腐ってしまい、漁師は泣いたというのである。そこから、自分の持ち物が原因で憂き目を見ることがあるという諺になったと伝えている。
 この諺の焦点は、真ん中のヤが反語の助詞で、海人であるからか、そうではないのに、自分の持ち物が故につらい目に遭う、という意味のことである。応神記、仁徳前紀の逸話は、諺に「海人」が持ち出されている謂われを語っている。逸話があって諺が成立したのではなく、諺はもともと存在し、それを後講釈するのにとてもうまく合致する贄献上の出来事があったので、それに託けて逸話をまとめ上げているものと考えられる。
 万23番歌にしても、麻続王は海人ではない。諺を意識して上の句を挿入しているとすれば、歌の後半の玉藻を刈ることがつらいことという考えに固まってくる。けれども、諺が持つべき本来の言葉の変化技が少しも生きてこない。ただ泣きを見たというのでは冴えない。意外なことに自分の持ち物が災いして泣く結果に至ったという展開が欲しい。修飾形容のために諺を引いてきた理由は必ずあるであろう。
 反歌の万24番歌の題詞に、「麻続王、これを聞きて感傷(かな)しびて和ふる歌」となっている。この歌を作ったのは麻続王である。前の万23番歌を受けて歌っている。結果、四・五句目が繰り返し調になっている。これまで、この箇所の訓については、意図的に用字を変えているようであり、違えて訓むのであろうという見解も行われてきた。しかし、用字を変えた真の理由は、同じ言葉、言い伝え世代にとって重要な“音”を強調するためであったと考えられる。題詞には、「和ふる歌」と明記されている。影山2011.の指摘どおり、同じ言葉(音)の反復をこそ求めている。微妙なニュアンスや音韻の違いを引き立たせる理由は見当たらない。ただし、単に同じ語句(意味)を追従したというのではない。この場合、音は同じであるが意味は異なるということではないか。なぞなぞ的発想である。
 コタフルウタに「和歌」と記されている。「応歌」、「答歌」とはされていない(注5)。論語・子路篇に、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。(君子和而不同、小人同而不和。)」の有名な文句がある。この言葉の例証としては、春秋左氏伝・昭公二十年条に載る、斉の景公と晏氏(晏嬰)の問答が分かりやすい。景公が狩りから帰った時、腹心の部下が急いで駆けつけてきた。それを見て景公は、彼だけが心が和合すると言った。それに対して晏氏は、彼はただ君と心を同一にしているだけで、和合してなどいないと答えた。その時景公は、「和と同と異なるか。(和与同異乎。)」と尋ねた。晏氏は、和というのは羹(あつもの)、すなわちスープを作りようなことだと譬えている。狩りの獲物でスープをこしらえるとき、料理人は火加減、水加減、味加減を調節する。それが「和」であると言っている。足りないところは増し、多すぎるところ減らす。塩梅(アウフヘーベン)である。
 「和歌」とはその原初段階において、弁証法的なものであったと推測される。つまり、万23・24番歌の下の句の類似は、「和合」の一致をみているのであろう。しかも万24番歌の作者は、流罪にあった当人だから、流刑地が「伊良虞嶋」でないことはもとより承知している。にもかかわらず、前の歌を踏襲しているということは、「射等籠荷四間乃珠藻苅麻須」=「伊良虞能嶋之玉藻苅食」にはワザがあって、歌意を示す重要なキーワードが潜んでいるということであろう。この四・五句目の訓こそ、この歌の焦点である。

「玉藻」とは何か

 「玉藻(珠藻)」は、美しい藻のことで、「玉(珠)」は美称であるとされている。ほかに「玉裳(たまも)」という言葉もあり、美しいスカートのことを指す。柿本人麻呂には、この2語の類想から作られたらしい歌がある。

  伊勢国に幸(いで)ましし時、京(みやこ)に留まりて柿本朝臣人麻呂の作る歌
 嗚呼見(あみ)の浦に 舟乗りすらむ 娘子(をとめ)らが 玉裳の裾に 潮満つらむか(万40)
 釧(くしろ)着く 手節(たふし)の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ(万41)
 潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を(万42)
 
 これらの歌は、持統六年(692)三月、諫言を聞き入れずに行幸を決行したときの歌である。3首目には「伊良虞」の地名まで登場している。この時、三河へ渡ったという記事は見られない。持統天皇は後に退位し太上天皇となり、文武天皇の大宝二年(702)十月に三河まで足を延ばし、その年の十二月に亡くなっている。問題は、飛鳥時代の後半当時、文字文化に親しんでいた人麻呂すらが、「玉藻」と「玉裳」の同音異義語の駄洒落を楽しんでいる点である。人麻呂は、万23・24番歌を参考にして、万40~42番歌を作ったらしい。
 「玉藻の歌」において、伊良虞なる地名は地名本来の役割を果たしていない。麻続王と関連性がないのである。「伊良虞嶋」は序詞で、「玉藻」を導く歌枕的なものとして使われた可能性が高い。“歌枕的”と断ったのは、その地と歌との間に何らつながりはなく、駄洒落として地名が引っ掛けられて採用されているにすぎないからである。流された因幡は今の鳥取県の東半で海沿いではあるが、彼が漁師に転職したという話は伝わらない。また「玉藻」ではなく、「玉裳」であったと仮定しても、麻続王が女装したために刑に処せられたとは考えにくい。日本武尊が女装して熊曾(熊襲)を征伐したという騙しの話は伝わるものの、罰則を伴った女装禁止令は見られない。最後に残るのは、「玉藻」=「珠藻」とあるのは、ふつうのタマモ、万葉集中の海藻のタマモではないという説である。玉藻は、中国に冕冠(べんかん)の洒落たものをいう玉藻(ぎょくそう)のことを指し、その訓読語のようなものではないか。そして、「海女なれや、……」の諺を引用している。

 打麻(うつそ)(注6)を 麻続王 海人なれや 伊良虞の島の 玉藻刈り食(を)す(万23)
 うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食す(万24)

 〔打麻を〕麻続王は大海人皇子(おおあまのみこ)(注7)(天武天皇)なのであろうか、大海人皇子ではないのに、(伊良虞の島といえばお馴染みの)玉藻(たまも)ならぬ玉藻(ぎょくそう)のついた冠を借りて国を治めるとは。(万23)
 〔うつせみの〕命が惜しいから、浪に濡れて(伊良虞の島で名高い)玉藻を刈って食べるような暮らしに甘んじるのだよ。(万24)

 礼記・玉藻篇に、「天子は玉藻(ぎょくそう)、十有二旒(りう)、前後、延を邃(ふか)くす、龍巻(りょうかん)して祭る。(天子玉藻、十有二旒、前後邃延、龍巻以祭。)」とある。天子の冕冠には、垂れ玉を十二条つけるように指示されている。冠の前後は、糸で玉を貫いて飾りとしていた。麻続王よりもその子供のほうが遠流になっているので、天皇だけが被ることのできる垂れ玉付きの冠を子供たちが遊んで被ったらしい。
服深衣議(朱舜水(1600~1682)筆、紙本墨書、江戸時代、17世紀、東博展示品。「服深衣議 深衣之制有二一見於玉藻温公之所剏家禮之所輯是也其一為明室之制明室之制有衣而無裳冠七星巾繋縧納履非吉服非常服非儒……」)
 増田1995.165頁によれば、袞冕十二章は、中国の天子が元日朝賀の儀に身につける服装で、唐書・車服志に、「袞冕者、践祚・饗廟・征還・遣将・飲至、加元服、納後、元日受朝賀、臨軒冊拜王公之服也。広一尺二寸、長二尺四寸、金飾玉簪導、垂白珠十二旒、硃絲組帯為纓、色如綬。深青衣、纁裳、十二章、日・月・星辰・山・龍・華蟲・火・宗彝八章、在衣、藻・粉米・黼・黻四章、在裳。衣画、裳繍、以象天地之色也。自山・龍以下、毎章一行為等、毎行十二。衣・褾・領画以升龍、白紗中単・黻領・青褾・襈・裾、韍-繍龍・山・火三章、舄加金飾。」とあるように、頭に冕冠を被り、深青色の衣と纁色の裳をつけるようになっているとされる。
 中国で旒の垂れる冕冠の形態が整えられたのは、後漢・明帝の永平2年(59年)のこととされている(注8)。冕冠の古い絵画作品できれいに残っているものとして、宋代の模写、20世紀の加筆も見られつつつも、唐・閻立本(?~673年)の「歴代帝王図巻」がある(注9)
伝閻立本、歴代帝王図巻(唐時代、7世紀、絹本着色、ボストン美術館蔵、武皇帝劉秀(後漢光武帝)、Wikimedia Commons「Han Guangwu Di.jpg」https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Han_Guangwu_Di.jpg)
 説苑・君道篇、呂氏春秋・審応覧・重言篇、史記・晋世家本紀には、周の成王と唐叔虞との逸話が載る。成王は年の離れた幼い弟、唐叔虞に対し、大きな桐の葉っぱを細工して冠の形に作り、爵位を与えて諸侯にしてあげようと言った。子供だから喜んで、叔父さんの人格者、周公旦、のちに孔子が理想の聖人と考えた人のところへ報告に行った。周公旦は成王に会見して、「天子に戯言無し。(天子無戯言。)」と説いた。そこで、言葉通りに幼い弟を封じたという。上に立つ者は発言を慎重にしなければ、治まるものも治まらない。したがって、麻続王も子供たちをきちんと躾けておいてもらわないと困るのである。三位(注10)麻続王は、天武天皇(大海人皇子)の冠帽を整える役職にあったのかもしれない。「麻績王」という名があったのは、名に負う役職に就いていたからという可能性は十分にある。冕冠の本体は絹製かもしれないが、ガラス玉を垂らす紐は麻の緒でできていたのではないか。そして、仕事場へ子供を連れてきて、遊び場と化していたようである。
 下二句は、「玉藻(たまも)」と「玉藻(ぎょくそう)」、「借り」と「刈り」の準え、駄洒落から成っている。カルはいずれもアクセントを等しくする。万23番歌の用字は借訓である。五句目はともにヲスと訓む。統治する意味と食べる意味の敬語とを掛けている。万24番歌のヲスは、自嘲的に使われた自称敬語なのであろう。編者は万23番歌の原文に、「白水郎」、「藻」などと紛らわしい表記を施して、当局に感づかれないようにしている。内容は、政権に対するシニカルな諷刺戯歌が先にあり、それに呼応する形で諦観の歌を唱和した掛け合わせになっている。麻続王は、「(大)海人(あま)(皇子)なれや、己が物から泣く」羽目に陥ったらしい。
(つづく)

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