上代の伝承では、天の石屋立て籠もり事件の解決に、シリクメナハが必須アイテムとして登場している。
天の石屋に閉じ籠ったアマテラスは、外の不思議な気配に身を乗り出し、タチカラヲに引きずり出され、後ろにはしめ縄がかけられて戻れないようになった。しめ縄は、標縄、注連縄と書かれ、シメは占有のしるしをいう。神前において不浄なものの侵入を禁ずるために張ったり、立ち入り禁止のしるしとして張り巡らせたりした。今でも神社や神棚、地鎮祭に見られる。
……即ち布刀玉命、尻くめ縄を以て其の御後方に控き度して、白して言ひしく、「此より以内に還り入ること得じ」といひき。(記上)
是に中臣神・忌部神、則ち端出之縄 縄、亦云はく、左縄の端出すといふ。此には斯梨倶梅儺波と云ふ。界す。(神代紀第七段本文)
則ち、天児屋命・太玉命、日御綱〔今、斯利久迷縄といふ。是、日影の像なり。〕を以て、其の殿に廻懸らし、大宮売神をして御前に侍はしむ。(古語拾遺)
記の「尻くめ縄」は原文に、「尻久米 此二字以レ音。縄」とある。和名抄に、「注連 顔氏家訓に云はく、注連して章断すといふ〈師説に注連は之梨久倍奈波、章断は之度太智〉といふ。日本紀私記に端出之縄〈読みて注連と同じなり〉と云ふ。」とある。「章断」とは、葬送の時、死霊が家に中に帰って来ないように、出棺のあと門戸にしめ縄をひきわたすことをいう。
各書に見られる特徴を整理すると、①名称はシリクメナハ、シリクベナハである。②端が出ている。③左に綯った縄である。④日影の形と関係がある、といった点が挙げられる。シメナハと言わずにわざわざシリクメナハと呼んでいるところには、理由があるのであろう。八十万の神々が天の安の河原に参集していろいろ準備している。長鳴鳥を鳴かせる、採石・採鉄して鍛冶をする、鏡を作る、勾玉の玉飾りを作る、祝詞をあげる、鹿卜を行う、白幣・青幣も捧げる、植物で襷や髪飾りを作って飼葉桶をひっくり返した舞台で踊る、など、非常に用意周到である。では、最後にひき渡すためのしめ縄は、いつ用意したのか。その記述はない。最初からあったと考えるのが妥当であろう。
日神の新嘗きこしめさむとする時に及至りて、素戔嗚尊、則ち新宮の御席の下に、陰に自ら送糞る。日神、知ろしめさずして、徑に席の上に坐たまふ。是に由りて日神、体挙りて不平みたまふ。(神代紀第七段一書第二)
この箇所は、記には「亦、其の、大嘗聞し看す殿に屎まり散しき。」、紀本文には「復、天照大神の新嘗きこしめさむとする時を見て、則ち陰に新宮に放𡱁る。」とある。新嘗祭にあたり、板の間に席を設けるが、そこにスサノヲは大便をしている。スサノヲのいたずらについては、アマテラスは良いように捉えようと腐心している。他のいたずら、田の畔離ち、溝埋めは、田の面積を広げようとしたのだとアマテラスは解釈し直しており、一応は納得できる。天の斑馬を逆剥にして忌服屋に投げ込んだのも、斑模様の衣を織るようにとの依頼とも取れなくはない。大便について、記は「屎の如きは、酔ひて吐き散すとこそ、」としているが、多少無理がある。スサノヲが大便をする場所と勘違いしたとすれば了解が得られやすいであろう。クソマルは、屎放るの意であるが、マルは円(丸)と同音で、おまる(虎子)のことが連想されよう。座る場所でまるいところといえば、円座、すなわち、わろうだである。古語に「わらふだ(藁座、藁蓋)」という。和名抄に、「円座 孫愐に曰はく、䕆〈徒口反、上声の重、俗に円座と云ひ、一に和良布太と云ふ〉は円き草の褥なりといふ。」とある。藁でできた縄をまるく巻くようにして結いつけ、座布団状にしたものである。現在では、特に渦円座ともいい、神前や洒落た蕎麦屋などに置かれていることが多い。まるいから、古語拾遺の「日影の像」にも合致している。慕帰絵詞には円窓のふさぎとして使われている図がある。スサノヲは藁蓋をおまるの蓋だと思い、それを開けて大便をしたということになる。最終的に、その藁座をとっさに解き、しめ縄としてひき張ったのである(注1)。端がなかったものから端を出したから、「端出之縄」と注されている。
左:竹の縁台簀子の上の円座(慕帰絵々詞模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590855/14をトリミング)、右:閑居の裏手の窓のふさぎ(同、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590851/11をトリミング)
尻くめ縄のクメについては、記紀では神武、顕宗、また万葉集に載る「来目(久米)部」、「来目(久米)の稚子(若子)」を考え合わせなければならない。弘計天皇[顕宗天皇]は、「来目稚子」(顕宗前紀)とも言った。播磨国司来目部小楯との関係からそう呼ばれたとされている。
博通法師の紀伊国に往きて、三穂の石室を見て作る歌三首
はだすすき 久米の若子が 座しける 一は云はく、けむ 三穂の石室は 見れど飽かぬかも 一は云はく、荒れにけるかも(万307)
和銅四年辛亥、河辺宮人の姫島の松原に美人の屍を見て、哀慟びて作る歌四首
風早の 美保の浦廻の 白つつじ 見れどもさぶし 無き人思へば 一は云はく、或は云はく、見れば悲しも 無き人思ふに(万434)
みつみつし 久米の若子が い触れけむ 磯の草根の 枯れまく惜しも(万435)
中西2007.は、流竄を性格とするのが「久米の若子」の性格で、久米部が朝廷に仕えるようになって貴種流離の物語に加担する存在になっていくとする。また、三浦2003.も、クメノワクゴという名前には漂泊し放浪する少年のイメージがつきまとうと解している。仁賢(オケ)と顕宗(ヲケ)の兄弟が、受難を耐え忍んで後に凱旋するという物語が受け継がれて、紀伊や播磨の伝承へと転化して万葉集に残ったというのである。伝承が失われたと尤もらしく架空しているが、来目稚子と呼ばれたのは兄弟の一方だけである。
弘計天皇のヲケ(ケは甲類)は、ヲ(緒)+ケ(異、ケは甲類)と聞こえたのであろう。緒は、麻と同源の語で、撚り合わせた繊維のことである。その緒が異なる状態とは、撚り方が通常とは異なるということか、使い方が通常とは異なるということであろう。今村2004.は、人の手で綯われたものの99%までは右綯で、神事と葬儀のみ左綯であるとする。そしてまた、緒の使い方が不思議なのは、藁縄が円座になっている時であろう。緒にはふつう両端があるはずのところ、緒がぐるりと巻かれてしまい端がなくなっている。つまり、ヲケとは、左縄のしめ縄や円座のことを意味している。弘計天皇は尻くめ縄と密接な関係があると考えられる。
枕詞「みつみつし(ミは甲類)」は、「久米(来目)(メは乙類)」にかかる。万435歌のほか、記10(2例)・11・12歌謡、紀9歌謡に見られる。「稜威」の音転として、軍事にかかわる久米氏の勇ましく勢いあることを褒めるものと考えられている(注2)。しかし、クメにしかかからない理由について説明不足である。クメにまつわる語に「ひふくめ(比比丘女、ヒ、メの甲乙は不明)」がある。別名を、子をとろ子とろ、ことろことろなどともいう。児童のする鬼ごっこ遊びのひとつで、一人は鬼、一人は親、他はすべて子となり、子は親のうしろにつかまって順に連なる。鬼は最後尾の子を捕えようとし、親はそれを両手を広げて妨げ、その攻防を楽しむ。すると、列の形は蛇行したり、渦巻きになったりする。ちょうど、円座のようになる。ヒ+フ+クメとあるのを、一+二+クメと聞いたとすれば、久米(来目)は「三(ミは甲類)」に当たるからミツミツシという枕詞が作られたのであろう(注3)。さらに、童の遊びだから藁と関係すると思い、クメは若子でなければ話にならないと考えられたと類推(注4)される。藁とはもともと稲穂のことだから御穂にまつわると思われ、地名の「三穂」、「美保」から上掲の万葉歌2首はイメージされていったと解される。
子をとろ子をとろの図(喜多川季荘・守貞漫稿、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592414/28をトリミング)
ヤマトコトバと呼ばれる上代語は、言語体系として完結するシステムとしてあった。一つの閉じた系である。外来の言葉を知っていなければ意味が通らないということなどなく、ヤマトの人の間に言葉づかいの片務性など存在しなかった。無文字時代において何の不自由も感じることなく、人々は互いに言葉を交わすことだけで十分にコミュニケーションがとれたのである。言葉の下の平等が保たれていた時代であったといえる(注5)。
(注)
(注1)この考え方では、しめ縄にほどいたときに屎がついていないかと疑われるが、ついていればいるほど触れないようにする“ご利益”が感じられると捉え返される。
(注2)例えば、新編全集本古事記に、「いかにも勢いが強いの意。ミツ(厳)は、イツ(厳)と同源。」(154頁頭注)とある。
(注3)神武天皇代の物語にいわゆる久米歌の件がある。紀から抜粋する。
時に、道臣命[大来目の帥]、乃ち起ちて歌して曰はく、
忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の子らが 頭椎い 石椎い持ち 撃ちてし止まむ(紀9)
といふ。時に我が卒、歌を聞きて、倶に其の頭椎剣を抜き、一時に虜を殺しつ。虜の復噍類者無し。皇軍大きに悦びて、天を仰ぎて咲ふ。因りて歌して曰はく、
今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ(紀10)
といふ。今し来目部が歌ひて後に大きに哂ふは、是、其の縁なり。又歌して曰はく、
蝦夷を 一人 百な人 人は云へども 抵抗もせず(紀11)
といふ。此皆、密旨を承けて歌ふ。敢へて自ら専なるに非ず。(神武前紀戊午年十月)
「大室屋」は天の石屋を連想させる。久米歌の後に「咲(哂)ふ」のは藁と関係すると思うからであろう。「一人」が登場するのは、左縄と関係すると思うからであろう。「専」と古訓にあるのは、産婆をいう「専女」、すなわち、「子取り」を思い起こすからであろう。「子取り」とは、ひふくめのことでも、産婆のことでもある。
鎌倉中期の名語記に、ひふくめを比比丘女と当て、地蔵菩薩の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四部の弟子を、獄卒が奪い取ろうとする真似である講釈した説が載る。「トリヲヤガトラウトラウヒフクメトイヘルハ、獄率ガトラウトラウ比丘・比丘尼トイヘル義也」。佐竹2009.は、「ヒフクメということばを「比丘比丘尼云々」で説明した語源説」は、「荒唐無稽な附会でしかな」(320頁)いと断じている。寒川2003.は、「本遊戯[比々丘女]の日本への伝来時期は弥生時代以後が想定されてよい。なぜなら,東アジアでは本遊戯は鶏とかかわっているが,Eberhard……[Eberhard,W., The local cultures of south and east China, E.J.Brill : Leiden,1968.pp.431-32]による中国文化史では,鶏の習俗は,日本に水稲稲作をもたらすことになる揚子江下流域の越文化の要素があるからだ。つまり,本遊戯は越文化の地から直接にあるいは朝鮮半島南部を経て間接に日本にもたらされたものであり,仏教の民衆教化が盛んになる鎌倉時代のころに仏教化が果たされたものと考えられる。」(21頁)と結論づけている。いずれも、言葉と習俗、時代性を考えた見解である。批判の矛先として考えるなら、無文字社会において人々に共通の記憶として伝承されるものは、日々の生活に根づいた感覚と言葉であり、それに「比丘」という文字を当てては誤解するという点に尽きよう。
(注4)無文字文化の基調的な思考法として、類推思考があげられている。レヴィ=ストロース1976.参照。
(注5)このあり方は「国家に抗する」(P・クラストル)言語というに等しい。お上に対する批判は時に洒落や地口をもって行われる。人々がひそかに隠し持つ頓智の力の発現である。
(引用・参考文献)
今村2004. 今村鞆「朝鮮の禁忌縄に関する研究(抄)」礫川全次編『左右の民俗学』批評社、2004年。
佐竹2009. 佐竹昭広「「子とろ」遊びの唱えごと」『佐竹昭広集 第二巻』岩波書店、2009年。
寒川2003. 寒川恒夫「鬼ごっこ「比々丘女」の起源に関する民族学的研究」『遊びの歴史民族学』明和出版、2003年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
中西2007. 中西進「古事記を読む 二」『中西進著作集 2』四季社、2007年。
三浦2003. 三浦佑之『古事記講義』文藝春秋、2003年。
名語記 経尊撰、北野克写『名語記』勉誠社、1983年。
レヴィ=ストロース1976. クロード・レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳『野生の思考』みすず書房、1976年。
※本稿は、2012年7月稿を2021年1月、2023年5月に整理したものである。
天の石屋に閉じ籠ったアマテラスは、外の不思議な気配に身を乗り出し、タチカラヲに引きずり出され、後ろにはしめ縄がかけられて戻れないようになった。しめ縄は、標縄、注連縄と書かれ、シメは占有のしるしをいう。神前において不浄なものの侵入を禁ずるために張ったり、立ち入り禁止のしるしとして張り巡らせたりした。今でも神社や神棚、地鎮祭に見られる。
……即ち布刀玉命、尻くめ縄を以て其の御後方に控き度して、白して言ひしく、「此より以内に還り入ること得じ」といひき。(記上)
是に中臣神・忌部神、則ち端出之縄 縄、亦云はく、左縄の端出すといふ。此には斯梨倶梅儺波と云ふ。界す。(神代紀第七段本文)
則ち、天児屋命・太玉命、日御綱〔今、斯利久迷縄といふ。是、日影の像なり。〕を以て、其の殿に廻懸らし、大宮売神をして御前に侍はしむ。(古語拾遺)
記の「尻くめ縄」は原文に、「尻久米 此二字以レ音。縄」とある。和名抄に、「注連 顔氏家訓に云はく、注連して章断すといふ〈師説に注連は之梨久倍奈波、章断は之度太智〉といふ。日本紀私記に端出之縄〈読みて注連と同じなり〉と云ふ。」とある。「章断」とは、葬送の時、死霊が家に中に帰って来ないように、出棺のあと門戸にしめ縄をひきわたすことをいう。
各書に見られる特徴を整理すると、①名称はシリクメナハ、シリクベナハである。②端が出ている。③左に綯った縄である。④日影の形と関係がある、といった点が挙げられる。シメナハと言わずにわざわざシリクメナハと呼んでいるところには、理由があるのであろう。八十万の神々が天の安の河原に参集していろいろ準備している。長鳴鳥を鳴かせる、採石・採鉄して鍛冶をする、鏡を作る、勾玉の玉飾りを作る、祝詞をあげる、鹿卜を行う、白幣・青幣も捧げる、植物で襷や髪飾りを作って飼葉桶をひっくり返した舞台で踊る、など、非常に用意周到である。では、最後にひき渡すためのしめ縄は、いつ用意したのか。その記述はない。最初からあったと考えるのが妥当であろう。
日神の新嘗きこしめさむとする時に及至りて、素戔嗚尊、則ち新宮の御席の下に、陰に自ら送糞る。日神、知ろしめさずして、徑に席の上に坐たまふ。是に由りて日神、体挙りて不平みたまふ。(神代紀第七段一書第二)
この箇所は、記には「亦、其の、大嘗聞し看す殿に屎まり散しき。」、紀本文には「復、天照大神の新嘗きこしめさむとする時を見て、則ち陰に新宮に放𡱁る。」とある。新嘗祭にあたり、板の間に席を設けるが、そこにスサノヲは大便をしている。スサノヲのいたずらについては、アマテラスは良いように捉えようと腐心している。他のいたずら、田の畔離ち、溝埋めは、田の面積を広げようとしたのだとアマテラスは解釈し直しており、一応は納得できる。天の斑馬を逆剥にして忌服屋に投げ込んだのも、斑模様の衣を織るようにとの依頼とも取れなくはない。大便について、記は「屎の如きは、酔ひて吐き散すとこそ、」としているが、多少無理がある。スサノヲが大便をする場所と勘違いしたとすれば了解が得られやすいであろう。クソマルは、屎放るの意であるが、マルは円(丸)と同音で、おまる(虎子)のことが連想されよう。座る場所でまるいところといえば、円座、すなわち、わろうだである。古語に「わらふだ(藁座、藁蓋)」という。和名抄に、「円座 孫愐に曰はく、䕆〈徒口反、上声の重、俗に円座と云ひ、一に和良布太と云ふ〉は円き草の褥なりといふ。」とある。藁でできた縄をまるく巻くようにして結いつけ、座布団状にしたものである。現在では、特に渦円座ともいい、神前や洒落た蕎麦屋などに置かれていることが多い。まるいから、古語拾遺の「日影の像」にも合致している。慕帰絵詞には円窓のふさぎとして使われている図がある。スサノヲは藁蓋をおまるの蓋だと思い、それを開けて大便をしたということになる。最終的に、その藁座をとっさに解き、しめ縄としてひき張ったのである(注1)。端がなかったものから端を出したから、「端出之縄」と注されている。
左:竹の縁台簀子の上の円座(慕帰絵々詞模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590855/14をトリミング)、右:閑居の裏手の窓のふさぎ(同、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590851/11をトリミング)
尻くめ縄のクメについては、記紀では神武、顕宗、また万葉集に載る「来目(久米)部」、「来目(久米)の稚子(若子)」を考え合わせなければならない。弘計天皇[顕宗天皇]は、「来目稚子」(顕宗前紀)とも言った。播磨国司来目部小楯との関係からそう呼ばれたとされている。
博通法師の紀伊国に往きて、三穂の石室を見て作る歌三首
はだすすき 久米の若子が 座しける 一は云はく、けむ 三穂の石室は 見れど飽かぬかも 一は云はく、荒れにけるかも(万307)
和銅四年辛亥、河辺宮人の姫島の松原に美人の屍を見て、哀慟びて作る歌四首
風早の 美保の浦廻の 白つつじ 見れどもさぶし 無き人思へば 一は云はく、或は云はく、見れば悲しも 無き人思ふに(万434)
みつみつし 久米の若子が い触れけむ 磯の草根の 枯れまく惜しも(万435)
中西2007.は、流竄を性格とするのが「久米の若子」の性格で、久米部が朝廷に仕えるようになって貴種流離の物語に加担する存在になっていくとする。また、三浦2003.も、クメノワクゴという名前には漂泊し放浪する少年のイメージがつきまとうと解している。仁賢(オケ)と顕宗(ヲケ)の兄弟が、受難を耐え忍んで後に凱旋するという物語が受け継がれて、紀伊や播磨の伝承へと転化して万葉集に残ったというのである。伝承が失われたと尤もらしく架空しているが、来目稚子と呼ばれたのは兄弟の一方だけである。
弘計天皇のヲケ(ケは甲類)は、ヲ(緒)+ケ(異、ケは甲類)と聞こえたのであろう。緒は、麻と同源の語で、撚り合わせた繊維のことである。その緒が異なる状態とは、撚り方が通常とは異なるということか、使い方が通常とは異なるということであろう。今村2004.は、人の手で綯われたものの99%までは右綯で、神事と葬儀のみ左綯であるとする。そしてまた、緒の使い方が不思議なのは、藁縄が円座になっている時であろう。緒にはふつう両端があるはずのところ、緒がぐるりと巻かれてしまい端がなくなっている。つまり、ヲケとは、左縄のしめ縄や円座のことを意味している。弘計天皇は尻くめ縄と密接な関係があると考えられる。
枕詞「みつみつし(ミは甲類)」は、「久米(来目)(メは乙類)」にかかる。万435歌のほか、記10(2例)・11・12歌謡、紀9歌謡に見られる。「稜威」の音転として、軍事にかかわる久米氏の勇ましく勢いあることを褒めるものと考えられている(注2)。しかし、クメにしかかからない理由について説明不足である。クメにまつわる語に「ひふくめ(比比丘女、ヒ、メの甲乙は不明)」がある。別名を、子をとろ子とろ、ことろことろなどともいう。児童のする鬼ごっこ遊びのひとつで、一人は鬼、一人は親、他はすべて子となり、子は親のうしろにつかまって順に連なる。鬼は最後尾の子を捕えようとし、親はそれを両手を広げて妨げ、その攻防を楽しむ。すると、列の形は蛇行したり、渦巻きになったりする。ちょうど、円座のようになる。ヒ+フ+クメとあるのを、一+二+クメと聞いたとすれば、久米(来目)は「三(ミは甲類)」に当たるからミツミツシという枕詞が作られたのであろう(注3)。さらに、童の遊びだから藁と関係すると思い、クメは若子でなければ話にならないと考えられたと類推(注4)される。藁とはもともと稲穂のことだから御穂にまつわると思われ、地名の「三穂」、「美保」から上掲の万葉歌2首はイメージされていったと解される。
子をとろ子をとろの図(喜多川季荘・守貞漫稿、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592414/28をトリミング)
ヤマトコトバと呼ばれる上代語は、言語体系として完結するシステムとしてあった。一つの閉じた系である。外来の言葉を知っていなければ意味が通らないということなどなく、ヤマトの人の間に言葉づかいの片務性など存在しなかった。無文字時代において何の不自由も感じることなく、人々は互いに言葉を交わすことだけで十分にコミュニケーションがとれたのである。言葉の下の平等が保たれていた時代であったといえる(注5)。
(注)
(注1)この考え方では、しめ縄にほどいたときに屎がついていないかと疑われるが、ついていればいるほど触れないようにする“ご利益”が感じられると捉え返される。
(注2)例えば、新編全集本古事記に、「いかにも勢いが強いの意。ミツ(厳)は、イツ(厳)と同源。」(154頁頭注)とある。
(注3)神武天皇代の物語にいわゆる久米歌の件がある。紀から抜粋する。
時に、道臣命[大来目の帥]、乃ち起ちて歌して曰はく、
忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の子らが 頭椎い 石椎い持ち 撃ちてし止まむ(紀9)
といふ。時に我が卒、歌を聞きて、倶に其の頭椎剣を抜き、一時に虜を殺しつ。虜の復噍類者無し。皇軍大きに悦びて、天を仰ぎて咲ふ。因りて歌して曰はく、
今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ(紀10)
といふ。今し来目部が歌ひて後に大きに哂ふは、是、其の縁なり。又歌して曰はく、
蝦夷を 一人 百な人 人は云へども 抵抗もせず(紀11)
といふ。此皆、密旨を承けて歌ふ。敢へて自ら専なるに非ず。(神武前紀戊午年十月)
「大室屋」は天の石屋を連想させる。久米歌の後に「咲(哂)ふ」のは藁と関係すると思うからであろう。「一人」が登場するのは、左縄と関係すると思うからであろう。「専」と古訓にあるのは、産婆をいう「専女」、すなわち、「子取り」を思い起こすからであろう。「子取り」とは、ひふくめのことでも、産婆のことでもある。
鎌倉中期の名語記に、ひふくめを比比丘女と当て、地蔵菩薩の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四部の弟子を、獄卒が奪い取ろうとする真似である講釈した説が載る。「トリヲヤガトラウトラウヒフクメトイヘルハ、獄率ガトラウトラウ比丘・比丘尼トイヘル義也」。佐竹2009.は、「ヒフクメということばを「比丘比丘尼云々」で説明した語源説」は、「荒唐無稽な附会でしかな」(320頁)いと断じている。寒川2003.は、「本遊戯[比々丘女]の日本への伝来時期は弥生時代以後が想定されてよい。なぜなら,東アジアでは本遊戯は鶏とかかわっているが,Eberhard……[Eberhard,W., The local cultures of south and east China, E.J.Brill : Leiden,1968.pp.431-32]による中国文化史では,鶏の習俗は,日本に水稲稲作をもたらすことになる揚子江下流域の越文化の要素があるからだ。つまり,本遊戯は越文化の地から直接にあるいは朝鮮半島南部を経て間接に日本にもたらされたものであり,仏教の民衆教化が盛んになる鎌倉時代のころに仏教化が果たされたものと考えられる。」(21頁)と結論づけている。いずれも、言葉と習俗、時代性を考えた見解である。批判の矛先として考えるなら、無文字社会において人々に共通の記憶として伝承されるものは、日々の生活に根づいた感覚と言葉であり、それに「比丘」という文字を当てては誤解するという点に尽きよう。
(注4)無文字文化の基調的な思考法として、類推思考があげられている。レヴィ=ストロース1976.参照。
(注5)このあり方は「国家に抗する」(P・クラストル)言語というに等しい。お上に対する批判は時に洒落や地口をもって行われる。人々がひそかに隠し持つ頓智の力の発現である。
(引用・参考文献)
今村2004. 今村鞆「朝鮮の禁忌縄に関する研究(抄)」礫川全次編『左右の民俗学』批評社、2004年。
佐竹2009. 佐竹昭広「「子とろ」遊びの唱えごと」『佐竹昭広集 第二巻』岩波書店、2009年。
寒川2003. 寒川恒夫「鬼ごっこ「比々丘女」の起源に関する民族学的研究」『遊びの歴史民族学』明和出版、2003年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
中西2007. 中西進「古事記を読む 二」『中西進著作集 2』四季社、2007年。
三浦2003. 三浦佑之『古事記講義』文藝春秋、2003年。
名語記 経尊撰、北野克写『名語記』勉誠社、1983年。
レヴィ=ストロース1976. クロード・レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳『野生の思考』みすず書房、1976年。
※本稿は、2012年7月稿を2021年1月、2023年5月に整理したものである。