古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

古事記の大山守命反乱譚の「具餝船檝者」について

2023年08月08日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 古事記の応神天皇条に、皇位継承者に定められなかった大山守命おほやまもりのみことが反乱を起こした記事がある。太子であった宇遅能和紀郎子うぢのわきいらつこは、大山守命の野心を知り、その反乱を収めるためにさまざまな計略をめぐらす。攻めてくるのを察知してまず川のほとりに兵を伏せ、山の上に御座所を設けて、自身に装った舎人を呉床あぐらに座らせ遊んでいるように見せかけた。また、大山守命が川を渡ろうとする時のために、船の中の簀の子にぬめりを施しておき、自らは檝取りに変装して船で待機した(注1)。本稿では記の「具餝船檝者」部分の訓と解釈について考え、この逸話の真に迫りたい。
 まず、暫定的に新編全集本古事記の訓を掲げる。

 かれ天皇すめらみことりまししのちに、大雀命おほさざきのみことは、天皇のみことに従ひて、あめした宇遅能和紀郎子うぢのわきいらつこゆづりき。ここに、大山守命おほやまもりのみことは、天皇のみことたがひて、なほ天の下をむとおもひて、其の弟皇子おとみこころさむこころりて、ひそかにいくさまうけて、めむとしき。しかくして、大雀命、其のいくさを備ふることを聞きて、即ち使者つかひつかはして、宇遅能和紀郎子にげしめき。故、聞き驚きて、いくさかはせき。またやまうへに、絁垣きぬがきを張り帷幕あげはりを立て、いつはりて舎人とねりもちみこて、あらは呉床あぐらいませ、百官もものつかさ恭敬ゐやま往来かよかたちすで王子みこいます所のごとくして、さらに其の兄王えみこの河を渡らむ時のために、そなかざりき。ふねかぢは、さなかづらの根をき、其のしるなめを取りて、其の船のうちばしに塗り、むにたふるべくまうけて、其の王子みこは、ぬのきぬはかまて、既にいやしき人のかたちりて、かぢり船に立ちき。
 ここに、其の兄王えみこ兵士いくさを隠し伏せ、きぬうちよろひて、河のいたりて、船に乗らむとせし時に、其の厳餝かざれるところのぞみて、弟王おとみこ其の呉床あぐらいますと以為おもひて、かつかぢりて船に立てるを知らずして、即ち其の執檝者かぢとりを問ひてひしく、「の山に忿怒いかれるおほ有りと伝へ聞きつ。あれ、其の猪を取らむとおもふ。し其の猪をむや」といひき。しかくして、執檝者かぢとりが答へてひしく、「あたはじ」といひき。亦、問ひてひしく、「なにゆゑぞ」といひき。答へてひしく、「時々ときどき往々ところどころに、取らむとれども、ず。ここもちて、あたはじとまをしつるぞ」といひき。河中かはなかに渡り到りし時に、其の船をかたぶけしめて、みづなかおとれき。爾くして、すなはでて、水のまにまながくだりき。即ち流れて、歌ひてはく、
  ちはやぶる 宇治うぢわたりに さを取りに はやけむ人し 仲間もこむ(記50)
 ここに、かはかくりしいくさ彼廂此廂かなたこなた一時共もろともおこりて、してながしき。かれ訶和羅之かわらのさきに到りてしづりき。故、かぎもちしづみしところさぐれば、其のきぬうちよろひかかりて、かわらとりき。故、其地そこなづけて訶和かは羅前らのさきふ。しかくして、其のかばねいだしし時に、弟王おとみこの歌ひてはく、
  ちはやひと 宇治うぢわたりに わたに 立てる 梓弓檀あづさゆみまゆみ いらむと 心はへど い取らむと 心はへど 本方もとへは きみおも 末方すゑへは いもおも いらなけく 其処そこおも かなしけく 此処ここおも いらずそる 梓弓檀あづさゆみまゆみ(記51)
 かれ、其の大山守命おほやまもりのみことかばねは、那良山ならやまはぶりき。の大山守命は、〈土形君ひぢかたのきみ幣岐君へきのきみ榛原君はりはらのきみおやぞ〉。(269~273頁)

 原文の「……更為其兄王渡河之時具餝船檝者舂佐那〈此二字以音〉葛之根取汁滑而……」の部分の訓みを次のようにしている。

 ……さらに其の兄王えみこの河を渡らむ時のために、そなかざりき。ふねかぢは、さなかづらの根をき、其のしるなめを取りて、……(新編全集本270~271頁)
 ……さらえのおほきみかはわたときために、ふね檝者かぢとりそなかざり、さな(佐那)〔二字ふたつのまなおむもちゐる。〕かづらきて、しるなめりて、……(新校古事記114頁)
 ……さらにその兄王あにみこの河を渡らむ時の為に、船・檝者かぢを具へかざり、さなかづらの根をき、その汁滑しるなめを取りて、……(西宮1979.194頁)
 ……更に其の兄王あにみこ河を渡らむ時のために、ふねかぢそなかざり、さなかづらの根をき、其の汁のなめを取りて、……(西郷2006.340頁)
 ……さらにその兄王えみこ(大山守命)の河を渡らむ時の為に、船・檝者かぢそなかざり(すっかり準備し)、さなかづら(サネカヅラ)の根をき、その汁滑しるのなめを取りて、……(多田2020.114頁)

 「船檝者」の「者」字について、古写本に異文は見られないが、本居宣長・古事記伝は「亦」の誤写であるとし(注2)、西郷氏は踏襲している。一方、西宮1979.は「指示強調の助字」(194頁)であるとしている(注3)
 新編全集本では、「具餝。」と切れると解している。「下文につなげて「船・檝を具へ餝り」ととるのが通説だが、「具へ餝りき」で切って、弟王のいる場所を天皇の御座所のように整えることをいうとみる。……後の「其の厳餝れる処」と照応する。船・檝は、飾ったのではなく、兄王を陥れるための仕掛けをほどこしたのである。」(270~271頁)とする(注4)。「檝者」のままではカヂトリを表し、文脈に不相応となるため考えをめぐらせたようである。新校古事記ではそのままカヂトリのこととしている。
 話(咄・噺・譚)のなかでの状況設定の部分である。主役は誰か。執檝者に変装した宇遅能和紀郎子である。敵役は誰か。衣の中に鎧を着けた大山守命である。互いに相手をだまそうと粉飾している。大掛かりな偽装は宇遅能和紀郎子の側である。影武者に舎人を立てて陣幕の中に呉床を据えて座らせている。そしてもうひとつ、船にぬめりをつけて傾けたらすべって転んで河の中に転落する仕掛けを施している。大山守命の「衣中服鎧」程度ではなく、人がなり代わるばかりか、暗殺のプロが仕掛ける陥穽のようなものまで拵えており、かなり狡猾である。角川古語大辞典に、「「よそふ」が人体の服装についていうことが多いのに対して、[「かざる」は]建造物や器具についていうことが多い。」(748頁)とある。大山守命はふだんなら衣の外に着ける鎧を中に着て防弾チョッキのようにしたことは、着衣に関して延長線上の偽装だからヨソフ(装)ことに当たると考えられる。対して、宇遅能和紀郎子が陣幕を飾って自分に見せかけた舎人を置き、兄王が乗船されるというのでわざわざワックスをかけて艶を出した簀の子を敷いているのは、建造物や器具にまつわることの延長線上の偽装だからカザル(餝)ことに当たると考えられる(注5)。船を整えているのだからヨソフと表現してかまわないところを、カザルとして後文への伏線としている(注6)
 話の焦点として、勝敗、生死を分けたのは、さな葛を舂いて滑りをつけたことである。水に落ちたとしてもふだんの水量の川であれば、むやみにバタバタせず流れにまかせて浮いていさえすればどこかで浅瀬にたどり着いて助かる可能性もある。だから、大山守命側の兵士も、矢をつがえて追撃されないように身構えている。しかし、大山守命は衣の中に重い鎧を装着していた。溺れそうになったら脱げばいい鎧が、中に着けていたため脱げなかった。また、浅瀬に立てば助かったのだが、鞋の裏にさな葛のぬめりがこびりついており、川底の石の上に立とうにもすべってしまって溺れたということであろう。そういう話に造形したければ、さな葛のぬめりの要素をいかに表現するかに傾注しているはずである。ワックスの作り方が記されないとおもしろみが減る。
 本居宣長、西宮一民、西郷信綱らの説に、動詞「具餝」の目的語として「船・檝」を捉えていた。一方、新編全集本古事記ならびに山口2005.説に、「船檝」は後文の主語として、「船・檝者、舂佐那葛之根、取其汁滑而、塗其船中之簀椅、設蹈応_仆而、……」と捉えている。前者において少しおかしいのは、船装い、艤装のことを言うとき、「具-餝船・檝」と捉えている点である。船の装備を整えることなら、船に装着物を付けて、つまりは、帆や檝や碇がうまく機能するように確かめてみることに違いあるまい。その際、檝は船の装備の一つに過ぎない。また、儀式典礼で船に旗や笛、太鼓を伴わせることをする「船飾り」のことを言うのなら、「具-餝船」と言うのではないか(注7)。同様に考えたとき、後者において少しおかしいのは、「者」を提題の助詞のハとするとき、「船」はどうかというと、「船」は「さな葛の根を舂き、其の汁の滑を取りて、其の船の中の簀椅に塗り、蹈むに仆るべく設けて、……」となるはずである。どうしてここに「檝」が付随して登場しているのか明らかでない(注8)
 両者ともに齟齬が起きる事態をかいくぐる読み方は、唯一、「船」と「檝」との間で文が切れるという考えである。

 ……更に其の兄王の河を渡らむ時の為に、船を具へ餝りき。檝は、さな葛の根を舂き、其の汁の滑を取りて、其の船の中の簀椅に塗り、蹈むに仆るべく設けて、……

 すなわち、「船」を艤装しつつみこが乗船するのにふさわしく餝ったのである。具体的には、表向きは艶めいてきれいに見えるように塗っているように見せて、本当の目的は、船の簀の子を踏んだら倒れるようにぬめぬめの汁を塗っている。その材料を作るためにさな葛の根を舂いたわけだが、その時、「檝」が使われたのである。
 上代にカヂ(檝・楫)は、水を掻いて船を進める道具を言い、後にかいかじなどと分別されるものの総称とされている(注9)。それらは、船を進めるためのオール(oar)でありつつ、方向を決めるための舵(rudder)でもあった。カイ(櫂)という早くからイ音便化した言葉は、水を掻く道具である点から呼ばれたものと推測されている。しかし、カヂ(檝・楫)については、説得力のある語源説を見ない。船尾に方向舵として特別に取り付けられる舵(rudder)は大型船につけられたものである。それを抵抗なくカヂ(舵)と呼びならわすようになっていることから類推すると、船べりに接点を有する oar はカヂと呼べても、フリーハンドで使う paddle のことを特に示したい場合には、別に呼んでカイとしたものと思われる。和名抄に、「櫂 直教反、字は亦、棹に作る。楊氏漢語抄に云はく、加伊かいといふ。」とある。棹は水深の浅いところで水底や岸などを衝いて推す道具である。そんな棹も水底を掻いているからカイと称されたのかもしれず、そして、船べりに固定されることはない。ただし、上代語では、カイとカヂとを語義によって峻別するほど明晰ではない(注10)
 檝を使って漕ぐとき、船べりに支点を設けて、力点となる握った手の方は進行方向とは反対方向へ動かす。梃子にして操る点は、艪に共通である。作用点となる艪下部分は、水中に入って水を掻く。その支点の仕組みは、船べりやともにある突起、艪臍(艪杭)に檝や艪のほうにあいている穴(つがえ、入れ子)をあてがって使う。まるで、臼のなかで杵をこすらせるように使う。したがって、さな葛の根を舂いたのは、臼を船に持ち込んだのではなく、船べりの檝床のところで行なったのである。もし、臼や杵が船に転がっていたら、大山守命は怪しんで乗船することはなかったであろう。宇遅能和紀郎子は執檝者に扮しており、檝の具合を確かめるために動かしていた。どうも凹凸の合わせがうまく行かないから、詰め物を工夫するかのようにさな葛を挟んでは何度も試しているように見せた。執檝者かぢとりが船の準備をするふりをして、実は「滑」を作って簀椅に塗っていた。宇遅能和紀郎子は大山守命よりも数段賢かったのである。
左:艪臍と入れ子(舞台小道具、歌舞伎座ギャラリー展示品)、右:「須恵器臼」使用イメージ(平城京資料館 令和3年度冬季企画展「発掘された平城2020~2021」展示品)
 以上、応神記の「具餝船檝者」の解釈について検討した。無文字文化においては、言葉がすべてを語り尽くしている。前後に意味の連関をさしわたしながら言葉が数珠つながりで発せられている。だから、一語一語の訓みは、だいたい意味が通じればいいという程度のものではなく、はっきりとその言葉でなければならないと定められるものである。本稿では、さな葛でぬめりを作る作り方が目に浮かぶことをもって訓の正当性を述べた。言葉だけですべてを語り伝えようとした上代の人の言葉の知恵は、今日通用しているものとは比べ物にならない迫力を帯びている。その境地にたどり着いた時、記紀万葉に残された上代語とは何かについて、はじめて論じる資格が与えられる。

(注)
(注1)対応記事は仁徳前紀にはある。2つの歌謡はともにわずかしか語句に違いがない。話としては記のほうが凝っており、宇遅能和紀郎子の用意周到ぶりや二人の間に交わされる会話は紀には見られない。水に落されてからどうして岸に着けなかったかについて、紀では太子側の伏兵のためとされている。大山守皇子が率いていた「数百兵士」がどう振る舞ったのか、特に記されていない。案ずるに、「独……領」とあるから、大将が死にそうになったら逃げてしまったということであろう。無論、紀の筋書きとしてそのように受け取ることができるという意味である。対して、記では、大山守命側の兵士が岸辺にいるにもかかわらず助からなかったことになっている。思わせぶりで複雑な話を古事記は語っているのだから、一語一語確かめながら理路整然とわかるように語られているものとして了解されなければ、真の意味で読めたことにはならない。

 然して後、大山守皇子おほやまもりのみこつね先帝さきのみかどてて立てたまはざることを恨みて、重ねて是のうらみ有り。則ちはかりことして曰はく、「我、太子ひつぎのみこを殺して、遂に帝位あまつひつぎらむ」といふ。爰に、大鷦鷯尊おほさざきのみこと、預め其の謀を聞こしめて、密に太子にまをして、いくさを備へて守らしめたまふ。時に太子、兵をまうけて待つ。大山守皇子、其の兵備へたることを知らずして、ひとり数百ももあまり兵士いくさひきゐて、夜半よなかに、発ちて行く。会明あけぼのに、菟道うぢいたりて、将に河を度らむをす。時に太子、布袍あさのみそたまひて檝櫓かぢを取りて、密に度子わたしもりまじりて、大山守皇子をふねにのせてわたしたまふ。河中に至りて、度子にあとへて、船をみてくつがへす。是に、大山守皇子、墮河而没かはにおちぬ。更に浮き流れつつ歌ひて曰く、
  ちはや人 菟道の渡に 棹取りに 速けむ人し 我が対手もこに来む(紀42)
 然るに伏兵かくれたるつはものさはに起りて、ほとりに著くこと得ず。遂に沈みてみうせぬ。其のかばねを求めしむるに、考羅済かわらのわたりうきいでたり。時に太子、其の屍をみそなはして、みうたよみして曰はく、
  ちはや人 菟道の渡に 渡手わたりでに 立てる 梓弓檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本辺もとへは 君を思ひ出 末辺は 妹を思ひ出 いらなけく そこに思ひ 愛しけく ここに思ひ い伐らずそ来る 梓弓檀(紀43)
乃ち那羅山ならやまはぶる。

(注2)本居宣長・古事記伝に、「船檝者は、者字は、マタ字を誤れるなるべし、草書は相似たり、然云故は、船檝とこそ云べけれ、檝者カヂトリをば、コヽには云べきに非ず、ソノウヘカザルと云るも、檝者カヂトリには似つかはしからず、さて此次に、マタと云言は、必あるべき処なればなり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/291、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注3)西宮1970.に次のようにある。

 この「者」は「物を指示する助字」と考へる。すなわち、
 以老上単于所破月氏王頭、為飲器、共飲血盟。(漢書巻第九十四下、匈奴伝第六十四下)
の例にみる如く、「者」は「飲器」を指示する助字である。ここもその用法とみるならば、「 ヘ リフネノ檝者カヂヲ」と訓むことができ、「檝」を指示して「者」といふ助字をつけたと解されるのである。特にこの「大山守命の反逆」の段は、……六朝ごろの俗語を用ゐ、漢籍の利用が顕著な文体を形成してゐるので、右の見解は成立すると考へる。(105~106頁、漢字の旧字体は改めた)

(注4)山口2005.に次のようにある。

 仮に漢籍の「者」にそうした[指示強調の助字]用法があったとしても、『古事記』自身に類例がない以上、その解釈は、直ちには受け入れがたいと言わなければならない。もう一つの問題は、「船・檝」について、「具へ」というのはよいとしても、「餝り」というのは、おかしくないかという点である。西郷[2006.に、「カザるは、いわゆる装飾ではなく、あれこれの用具をきちんとととのえること、つまり艤装である。だから「具へ餝り」という。」(344頁)とあるが、]……単に、〈艤装する〉の意であれば、「具ふ」で十分であり、「餝る」は不要である。「餝」字は他に三例見えるが、それは次の如くである。
②尓、出雲国造之祖、名岐比佐都美、青葉山而、立其河下、将大御食之時、(中・三三一)
③於是、父答曰、「是者、天皇坐那理。〈此二字以音。〉恐之。我子仕奉」云而、厳其家候待者、明日入座。(中·五九八)
④於是、共兄王、隠伏兵士、衣中服鎧、到於河辺、将船時、望其厳之処、以為弟王坐其呉床、都不檝而立_船、即問其執檝者曰、……。(中・六五三)
 いずれの「餝」も、〈美しく立派に見えるように手を加える〉の意に用いられている。ところで、ここで注目すべきは、④の用例である。④の文は、問題になっている①[提題]の文の直後に来る文であるが、その「餝」は、山の上にある宇遅能和紀郎子の座所を形容するために用いられている。この④の……「厳餝」は、①の「具餝」と対応していると見……、①の文は、……[冒頭に掲げた]ように切って読むべきではないか。……従来は、「更為其兄王渡河之時具餝○○船・檝者、」のように、「具餝○○」と「船・檝者」とをつなげて考えてきたが、ここは「具餝○○」で一旦文を切るべきである。つまり、この「具餝○○」は、山の上の宇遅能和紀郎子がいるはずの場所を、大山守命が川を渡る時のために、「具餝○○」したというのである。それは、大山守命が渡河の際に、山の上を望み見るに違いないからで……文脈的に照応している。そして、その後に「船・檝者」とあるのは、「ふねかぢは」と訓み、「者」は主題を提示する用法である。すなわち、「船」と「檝」はどうしたかと言うと、「船」にはさまざまな細工を加え、「檝」は船頭に化けた宇遅能和紀郎子が手に取って、船の上に立ったというわけである。右のように解することによって、「者」に特別な用法を想定することなく、極めて自然な文脈理解が得られることが分かる。なお、「具餝」と「厳餝」とが対応していることを認めるならば、その訓読の仕方も従来と多少変わってくる。「具餝」の「具」は従来、動詞ソナフを表すものと考えられてきたが、これは副詞ツブサニの表記ではあるまいか。すなわり、「つぶさかざる」である。ツブサニは、〈欠けるところなく・十分に〉の意である。また、「厳餝」は従来、二字まとめてカザルと訓むものが多いが、これは兼永筆本等の傍訓のように、「いつくしくかざる」と訓むべきものと考えられる。そのように訓むことによって、両者いずれも、〈連用修飾語+動詞〉の形になり、構文的にも釣り合いが取れる。中川ゆかり[一九九九]は、「ヨソフが必要な物を具備することであるのに対して、カザルは崇さや権威を表わすために、宝石や華麗な衣類、あるいは調度を以って美しく仕立てること」[(196頁)]であると指摘し、ヨソフとカザルとの違いを明らかにした。さらに、「厳飾」はカザルことによって、仏の崇高さを表現しようとする仏教思想に基づく語であり、〈おごそかにカザル〉という意味であること、また仏教思想を表す場合以外にも使われ、対応する日本語はカザルであろうと述べている。中川の指摘は概ね妥当と思われるが、それに従う限り、「厳餝」に対応する日本語が単なるカザルであるというのは、頷けない。「厳餝」がもつ〈おごそかに〉のニュアンスを重視すれば、「いつくしくかざる」と訓むのが順当である。(80~83頁、改行は適宜省いた)

(注5)中川2009.の、ヨソフとカザルの語義の違いの指摘は、上代語において、どのような根拠に基づくものか不明である。漢語「厳飾」からカザルという語が翻訳語として成立したとしているのかもはっきりしない。筆者は、ヨソフ、カザルとも、歴としたヤマトコトバであると考える。無文字時代から言葉としてあり、それをいかに文字化するかという機会に当たり、たまたま目にした中国の文献のなかの同意の文字、熟語を使って表記した。それ以上でもそれ以下でもない。近年の研究者は、表記上の字面にとらわれる傾向が強く、烏谷2017.には、漢籍の「厳飾」の例を、中川2009.があげていた漢訳仏典、水経注のほかに、漢書・五行志、旧唐書・武宗本紀、陳書・毛喜列伝などにも見つけている。そのどれを太安万侶が見たのか知れないが、稗田阿礼の口述を前にしながら文字を見て新語を考案したとは考えられない。文章は研究室ではなくお話の現場で話されている。仏教の渡来から仏像を「荘厳」、「厳飾」することもあったにせよ、それを始めた飛鳥時代前期のヤマトの人はカザルことをしていたと考える。
 また、中川氏は、平安時代の用例から、「船よそひ」と「船かざり」とは区別されるべきとし、「舟についてカザルと言えば、たとえば紅葉で葺いて、季節にふさわしい美を現出することであり、ヨソフと言えば必要な道具を備えて、航行できる状態にすることである。舟をカザルこととヨソフこととは別の事である。」(191頁)とする。ところが、中古の例に、「竜頭鷁首を、からのよそひにことごとしうしつらひて、」(源氏物語・胡蝶)とあり、中世の例に、「上皇御船かざつて還御なる」(平家物語・還御)とある。万葉集の防人歌にある「船かざり」1例をもって、「船よそひ」と「船かざり」とは絶対に意味が異なるはずだとするのは牽強に過ぎる。拙稿「万葉集における「船装ひ」と「船飾り」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/a04a4fb4a09324c03eb45d18dabe93b1参照。
 紀の例に「餝」字を見ると、「美女をみな二人を装餝かざりて」(神功紀六十二年)、「はへきうつはりはしらうだち藻餝ゑかきかざらず」(仁徳紀元年正月)、「[あへの]装餝よそひ」(雄略紀十四年四月)、「金餝こがねづくりたち」(欽明紀二十三年八月)、「餝船かざりふね」(推古紀十六年六月)、「餝騎かざりうま」(推古紀十六年八月)、「[船・鼓・吹・旗幟]整餝よそへり」(舒明紀四年十月)、「船艘ふね餝整よそひて」(舒明紀四年十月)とある。また、「飾船」の例として、「……難波津よりちて、船を狭狭波山ささなみやまに控きして、飾船かざりふねを装ひて、乃ち往きて近江の北の山に迎へしむ。」(欽明紀三十一年七月)とある。カザリブネは迎船の満艦飾の船を指すようであるが、フナ(船)に下接してヨソヒ、カザリと言う場合、表現が混淆している。逆に言えば、語の使用において、当初から交わる可能性を孕んでいたと考えられる。乗客を落とすために、他の植物ではなくサナカズラが使われている。音韻的に似るフナカザリのことが謂われていることは、口頭言語として考えるととても理解しやすい。ジョークを認めない言語は、言語として幼稚ですらある。
(注6)山口2005.の議論に、「単に、〈艤装する〉の意であれば、「具ふ」で十分であり、「餝る」は不要である。」とするが、船を出航させるための準備には、別に「装ひ」、「船装ひ」という語がある。

 八十国やそくには 難波に集ひ 船飾り がせむ日ろを 見も人もがも(万4329)
 津の国の 海の渚に 船装ふなよそひ 立し出も時に あもが目もがも(万4382)
 年によそふ 吾が舟がむ いざ滂ぎ出でむ 夜の更けぬ間に(万2058)
 艤 音蟻 カサル、フナヨソヒ(名義抄)
 三年みとせる間に、舟檝ふねそろへ、兵食かてそなへて、将にひとたび挙げて天下あめのしたけむとおもほす。(神武前紀乙卯年三月)
 百済を救はむが為に、兵甲つはもの修繕をさめ、船舶ふね備具そなへ、つはものくらひもの儲設く。(天智紀元年是歳)

 神武前紀の「脩舟檝」の例はソロフと訓む。白川1995.に、「そろふ〔揃〕 下二段。ものを同じ状態にすることをいう。また必要なものをすべて用意する意にも用いるが、本来は「る」と同系の語で、切りそろえる意であろう。」(443頁)とある。剪り揃えることとする位置づけは示唆に富む。海軍を創設するのだから、船は艦隊を編成するよう複数造られる。それぞれの船にそれぞれの檝が必要である。みな手作りで規格サイズというものはない。一船ごとに適合する檝が切り揃えられなければならない。船と檝とがセットになって一つの船が出来上がり、大小さまざまな船が配置されて船団としてはじめて機能を発揮することとなる。それらをひっくるめてソロフと言っている。当該応神記にある「具餝船檝者」について、船・檝を揃えたという意味にとって「具」をソロフと訓んだ例は見られない。
 艤装することを表すのに、ヨソフ、ソナフ、カザル、ソロフといった語が考えられるわけであるが、ヨソフ、ソロフが却下されている。なぜふつうにヨソフと言わずに、ソナフやカザルを使って語ろうとするのか。「船檝をそなかざりき。」も、「船檝はさな葛の根を舂き、」も、語義の厳密性を保持していない。
(注7)中川2009.に、推古紀十六年六月条の「以餝船三十艘客等于江口」や、同三十一年十一月条の「荘船一艘迎於海浦」の「餝船」や「荘船」について、「迎船の儀式の際、船には鼓吹が備えられ音楽が演奏され、旗や幟が立てられ船をかざっていたようである。」(192頁)とある。それはそのとおりであろうが、その場合、「船」をカザルと表記することはないように感じられる。確かに船遊びの龍頭や鷁首の船の棹に綵色の施されたものがあるが、それを操る童は、渡し船の執檝者のような「服布衣褌、……賤人之形」をしているわけではない。
龍頭の楽船がくぶね(駒競行幸絵詞模本、狩野晴川院養信模、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0043197をトリミング)
(注8)紀の例に「檝」を見れば、固有名詞の音に使われた「東国あづま檝取かとりくに」(神代紀第九段一書第二)があり、他に、「舟檝ふねそろへ、兵食かてそなへて」(神武前紀乙卯年三月)、「布袍あさのみそたまひて檝櫓かぢを取りて、ひそか度子わたしもりまじりて」(仁徳前紀)、「船と檝櫂かぢさをとをふ」(敏達紀二年八月)、「を並べてかぢさず、奉仕つかへまつれる国」(持統紀三年五月)とある。最後の例と同様に、記に、「船腹ふなばらさず、柁檝さをかぢを乾さず」(仲哀記)の例がある。神武前紀の例に、「舟檝ふね」とあって船一式のことを指すように記されている。船大工が造船したということであろう。同じように当該箇所を訓むことは、「更に其の兄王の河を渡らむ時の為に、船檝ふねつぶさに餝るは、さな葛の根を舂き、其の汁のなめを取りて、」というように、条件節のようにして船舶の表面の光沢仕上げにさな葛の根を舂いたと考えられなくはない。しかし、船の中の簀椅にしか塗っておらず、「具に」ではない。「船檝ふねそなへ餝るは、」と訓むことも、船を造ることと船をお祭り用にディスプレイすることとを一括して語っていると仮定されるはするが、「船檝」の一式感が後ろに続いて行かないので無理である。
(注9)田村2017.に、「「倭名抄」 にあるものは漢語の引用が多いが、カヂだけは「和語太以之タイシ」とあるのみであり、「万葉集」にあるカヂはカイ(櫂)なのか、ロ(櫓・艪)なのか、または、カヂ(舵)そのものなのか、さらにはサオ(棹)なのか明確にしにくい記述がなされているのである。そして、その要因を生みだしている源をたどってみると、それは、推進具の発達段階に深い関わりをもつものと思われる。つまり、棹・舵・櫂・艪(櫓)が現在のように、その機能と形状がはっきりと分化する以前は、相互に深い機能的かかわりをもっていたものであり、その漕法や形状も明確にできにくい技術的段階にあったのである。そして、さらに、船の大小や形状、海・沼湖・川などの自然条件や漕 行の目的などによって推進具の用途が異なることなどを考慮してみると、操船にたずさわった経験をもつはずもなかった記述者による文献資料から、それを推定しようとすること自体が、困難な作業なのであった。」(118~119頁)とある。和名抄には次のようにある。

 棹 釈名に云はく、旁に在りて水を撥ぬるを櫂〈直教反、字は亦、棹に作る。楊氏漢語抄に加伊かいと云ふ〉と曰ひ、水中に櫂し、また櫂を進むなりといふ。
 檝 釈名に云はく、檝〈音は接、一音に集、賀遅かぢ〉舟を捷疾せしむるなりといふ。兼名苑に云はく、檝は一名に橈〈奴効反、一音に饒〉といふ。
 㰏 唐韻に云はく、㰏〈音は高、字は亦、篙に作る、佐乎さを〉は棹竿なりといふ。方言に云はく、船を刺す竹なりといふ。
 艣 唐韻に云はく、艣〈郎古反、魯と同じ〉は船を進むる所以なりといふ。
 舵 唐韻に云はく、舵〈徒可反、上声の重、字は亦、䑨に作る〉は船を正す木なりといふ。漢語抄に柁〈船尾なり、或に柂に作る、和語に太以たいと云ふ。今案ふるに舟人の挟杪を呼びて舵師と為すは是れ〉と云ふ。

(注10)万葉集において、カイ(櫂)とカヂ(檝)は、結果的に意味上の区別を認め得ない。「真櫂まかいしじき」(万4254・4331)、「真檝まかぢ繁貫き」(万368・1386・1453・1668・2089・2494・3333・3616・3627・3679・4240・4368)とあり、また、「真檝櫂まかぢかい貫き」(万3993)ともある。「真櫂繁貫き」の例はどちらも大伴家持作歌であるが、だからと言って櫂と檝とに意味の違いを確定できるかと言えば、何もできない。
淀川の光景(都名所図会、国際日本文化研究センターデータベースhttp://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/jpg/jpg5/km_01_05_014.jpgをトリミング。三十石船に横づけするくらわんか船の艪臍は、先端が球状になっているように見える。現在、今治市宮窪町で行われている三島の水軍レースで使われているステンレス製のものにも、こういった形状のものが見られるという)

(引用・参考文献)
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、1982年。
烏谷2017. 烏谷知子「宇遅能和紀郎子伝承の考察─第四二番歌謡・第五一番歌謡を中心に─」『学苑』第915号、昭和女子大学、平成29年1月。昭和女子大学学術機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1203/00000382/
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
多田2020. 多田一臣『古事記私解Ⅱ』花鳥社、2020年。
田村2017. 田村勇『日本の艪─その歴史と風土─』大河書房、2017年。
中川2009. 中川ゆかり『上代散文─その表現の試み─』塙書房、2009年。
西宮1970. 西宮一民『日本上代の文章と表記』風間書房、1970年。
西宮1979. 西宮一民校注『古事記』新潮社、昭和54年。
山口2005. 山口佳紀『古事記の表現と解釈』風間書房、2005年。

(English Summary)
About one sentence “…具餝船檝者…” of the rebellion story of Öföyamamorinomikötö in Kojiki.
In this paper, I will consider the expression of the rebellion story of Ofoyamamorinomikoto appeared in the Kojiki Ojin Emperor era. So far, about one sentence “…具餝船檝者…”, the theory that interpreted as “… equipped a ship, and also …” and the theory that interpreted as “… they prepared and decorated the noble seat. A ship and oars were …” are advocated. They are mistakes. It is reasonable to read “… equipped a ship. And its oars were …”. In other words, the sentence is broken between “船” and “檝”.

※本稿は、2022年2月稿を2023年8月に改稿しつつルビ化したものである。

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