古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

庚辰年の七夕歌(万2033)について

2023年08月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻十の次の七夕歌は、定訓が得られていない。

 あまがは やす川原かはらに 定而神競者磨待無(万2033)
  此の歌一首は庚辰かのえたつの年に作れり。
  右は、柿本朝臣あそみ人麻呂の歌集に出づ。
 天漢安川原定而神競者磨待無
  此歌一首庚辰年作之
  右柿本朝臣人麻呂之歌集出

 多くの解説書で二句目までしか訓まれていない。試訓はいろいろと行われている。近年は試訓しない注釈書も多い。「磨」字を「麿」の誤写とする説もある。

 あまがは やす川原かはらの さだまりて こころくらべば ぎ待たなくに(西本願寺本などの旧訓)
 天の川 やす川原かはらの さだまりて こころきほへば ぎて待たなく(中西1980.346頁)
 あまがは やす川原かはらに さだまりて かみきほへば 麻呂まろたなく(阿蘇2009.554頁)
 天の川 やす河原かはらの さだまりて こころきほへば ぎて待たなく(多田2009.117頁)
 天のがは やす川原かはらを さだめてし かみきほはば まろたなくに(土佐2021.55頁)

 歌の事情については左注に記されている。庚辰の年に作られたもので、柿本人麻呂の歌集から出たものであるという。干支が庚辰年に当たるのは天武九年(680)、天平十二年(740)があるが、人麻呂の作歌年代から類推し、また、年号を干支のみで表しているところから天武九年説が妥当であるとする考えが主流となっている(注1)。人麻呂作歌、歌集歌を通じて柿本人麻呂の最初期の歌とされるに至っている。
 筆者はそうは考えない。
 わざわざ干支を記すことで何かを伝えようとしているのではないか。
 また、右は人麻呂の歌集から出たものであると書いてあって、人麻呂の作であるとは書いていないことにも留意しなければならない。
 万葉集巻十がいつ頃編まれたのかについては、巻八、巻九が天平十五年頃までの歌を採っており、巻十が巻八や巻九以前に編纂が始まり終わっていたとは考えにくいから、天平十二年の庚辰の歌を入れることに支障はない。そのとき、人麻呂の歌集はどのように保全されていたのか、確かめることはできない。「柿本朝臣人麻呂之歌集」が紙に書いてあったとすると、紙背を含めて余白があれば、書き込んだり書き足したりする人が出てもおかしくない(注2)。書写されるときもまた同じである。したがって、年代自体を精査することによって「庚辰年」が天武九年か天平十二年かを定めることはできない。何か目的(動機)があってそう書き留めたとするなら、事件として扱われるべきことである。事件性を疑うのであれば天平十二年説は急浮上し、天武九年説は棄て去られるだろう。
 そもそも天武九年に歌人柿本人麻呂は世に知られていなかった。柿本人麻呂と目されている「柿本臣猨」(天武紀十年十二月)が「朝臣」の称号を得るのは天武十三年十一月である。すなわち、「柿本朝臣・・人麻呂之歌集」(注3)は天武九年には存在していなかった。柿本朝臣人麻呂なる人名、称号が人々に知られている時期としては天平十二年のほうがふさわしい。
 何のために干支が書いてあるのか。カノエタツノトシ(庚辰年)を示したいからである。カノ(彼)+エダツ(役)+ノ(助詞)+トシ(年)のことを表したい(注4)。天平十二年十月に、聖武天皇は遷都を目的に大行幸を催している。折しも九州では藤原広嗣の乱があったが、それと関係するのかしないのかわからない行軍を、壬申の乱のときの天武天皇の進路をたどりながら約四十日間続け、十二月に恭仁京に到ってそこを都としている。平城京から行くのであれば、まっすぐ進めば奈良山と木津川を越えるだけのこと、ほんの数時間で到着する。やたらと労力を割く形でよくわからない遷都が行われている。新都を建設するのにも多大な労力がいる。人々はエダチ(役)に駆り出されている。
 どうして恭仁京に遷都したのかについては、天皇が「朕縁意」(続紀、天平十二年十月二十六日)と書いてあるだけで理解されていなかった。筆者は、その地が「布当ふたぎの宮」として行幸にあずかっていたところであったからと証明した(注5)。フタギとは「ふたぎ」のこと、言い伝えられている神話に神々が参集したところ、安の河原のことを表していると考えられた。すなわち、復古思想に基づいて─古代的思考に絡めとられて─ヤマトコトバに忠実たらんと遷都したのであった。
 万2033番歌においても「安の川原」と歌われている。天の石屋(石窟)に籠ってしまったアマテラスに出てきてもらうためにはどうしたらいいか、神々は「神集かむつどつどひて」(記上)いる。神々が互いに接近してしまうと取っ組み合いの喧嘩になるから、そうならないように川の下手に築いた堰を塞いでダム湖にし、川沿いの道をところどころ冠水させて分断して行き来できなくし、他所へ逃げ出すこともできなくした。「ふたぎ」のおかげで神々を集めることができて知恵を出し合えたのだった。
 万2033番歌にはそのことが詠みこまれている。どうやって川を塞き止めて「ふたぎ」としたか。堰の水門で流れの下手しもてから栓をしたのである。記では伊都之いつの尾羽張神をはばりのかみ天尾羽張神あめのをはばりのかみ)が登場している。男女の交合を教えたセキレイが尾の羽を合わせて丸く作り、水門の穴に栓している。なぜ流れの上手かみてからではなく下手から栓するかと言えば、いざ放流しようとしたとき、上手から嵌めていると水圧がかかって栓を抜こうにも抜けなくなるからである。下手から当てがっていた栓を抜いた実情は紀に記されている。

 また、其の天尾羽張神あめのをはばりのかみは、さかしまに天の安の河の水を上げて、道をふたるが故に、あたし神は行くことじ。(記上)
 五年の夏六月に、人をしていけに伏せ入らしむ。外に流れ出づるを、三刃みつはの矛を持ちて、刺し殺すことをたのしびとす。(武烈紀)(注6)

 栓を抜いて水を放出させ、出てきた人を串刺しにして楽しんでいる。当然、串刺しにする矛はあらかじめ刃先を鋭くしていたであろう。つまり、磨いでいた。

 あまがは やす川原かはらと さだめてし かみきほはば ぎてたなく(万2033)
 中国の伝説を受け入れるに当たり、天の川は天の安の川原だと定められた。織女に逢うためには天の川を渡らなくてはならないが、川幅が広くて渡ることができない。そこで、堰止めている栓を開けて水を抜き、川幅を狭くしようと思う。神々は競い合って我先にと流れ出ていくことになるだろう。樋管から出てくる神を突き刺そうと矛の刃を磨いで待つことなどしない。競い合ってどんどん流れてくれれば、天の川を渡って織女に逢いに行くことができるから。

 七夕の話は伝来したもので、この国に受容されるときに話がアレンジされている。年に一度、七月七日の夜のことである。漢土のように織女が鵲の橋を車で渡って牽牛に逢いに行くのではなく、牽牛が船を漕いで、あるいは徒歩で川を渡って織女に逢いに行くことになっている。そのアレンジの一つに、設定の天の川を天の安の川原と定めようとする傾きがあった。天の安の川原は、川原が八洲、八重洲になっていて、入り組んで互いには行き来できない構造となっていた。神々は取っ組み合いの喧嘩をすることができないから円満に話し合い、知恵を出し合うことができ、アマテラスが石屋籠りから出てくる算段を導き出せたのである。そのおかげで世界は再び明るくなっている。それが安の川原の規定である。流れを塞き止めてある。これでは川を渡れないから、栓を抜いて放流してみようと思う。ついては神々にはウォータースライダーを勢いよく滑って行ってほしい。武烈天皇のように悪質ないたずらなどしない。願いは川の水嵩を減らして向こう岸へ渡り、織女に会うことなのだから。
 そして今、折しも庚辰かのえたつの年の恭仁京遷都に向けてえだつことが行われている。「ふたぎの宮」だと思われた「布当ふたぎの宮」と呼ばれたところへ遷都して新たに恭仁京としようとしている。恭仁くにみやことは国の都の意味である。現在の国家体制の首都というばかりでなく、歴史的、思想的に、開闢したヤマトの国のそもそもの都であるというスローガンのもと遷都している。天の安の川原の有り様が再認識されて人々の心にありありと蘇っている。だからこのような歌が歌われて、人々は理解、納得して聞いたのであった。
 二・三句目は、「……と 定めてし」と訓むのがよいであろう。

 天地あめつちと 別れし時ゆ ひさかたの あまつしるしと さだめてし 天の川原に ……〔天地跡別之時従久方乃天驗常定大王天之河原尓……〕(万2092)

 四句目の「神競者」の「競」字の訓には、キホフ、アラソフが候補である。たくさんの神々、「八十神やそがみ」、「八十万神やそよろづのかみ」は、互いにきそいあう傾向にある。稲羽の八上比売やがみひめと結婚しようとして先をあらそって進んでいる。いちばん遅れをとったのが、袋を負わされた大穴牟遅神であった(記上)。古語のアラソフは、強く抵抗して自分の考えをおし通そうとすること、キホフははげしい勢いで先を争うこと、負けまいと張り合うことである。先をあらそうと言うが、それは古語のキホフことそのものである。八十神たちが互いに競争して他に先んじようとすることはキホフことである。当該歌でも我先にと樋管から出て行こうとするに違いないから、「神しきほはば」と訓むと考える。「きほへば」(競ったので)ではなく「きほはば」(競ったら)なのは、架空の話をくり広げているからである。
 五句目の「待無」については、「無」を形容詞のナシとすると動詞からは続かないから棄却される。助動詞ムとすると字義に合わず控えられたであろう。打消の助動詞「ず」のク語法、ナク、ナクニが候補となる。ここで、土佐2021.は次のように言う。

 同じ助動詞「ぬ(ず)」のク語法でも、「なくに」は文末用法がかなり多い(約百二十例)のに対して、「なく」の場合は、「〜なく思ふ」とか「〜なくも」というように、下に動詞や助動詞が下接する文中用法が中心であって、文末用法はきわめて少ないという違いがある。しかもその少数の文末用法はすべて「~の知らなく」という用法(十三例)のみに極度に偏るという顕著な傾向を示している。つまり、「知らなく」は鞏固な型を有する定型句・定型表現となっており、この用法だけが例外的にナク止めを許容していると考えられる。その定型から外れる「待たなく」は集中の異例となるので、「なくに」に較べると穏当な訓とは言い難い。(36頁)

 そして、「事告無」(万2370)をコトモツゲナク、「公無勝」をキミニアヘナクとする訓を否定的に考えている。
 けれども、「なく」の形は「ず」を含む全体を名詞化するために用いられたク語法である。そこへ「に」が続くと、詠嘆(……しないことだなあ)、逆接(……しないのに)、順接(……しないから)という意味合いになる。「知らなく」は知らないこと、「知らなくに」は知らないことだなあ、知らないことだのに、といった意味合いになる。次の例では「来鳴かなく」まででいったん区切るための用法である。来て鳴くことはない。そのことは、……と続いている。

 此間ここにして 背向そがひに見ゆる わが背子せこが 垣内かきつの谷に 明けされば はりのさ枝に 夕されば 藤の繁みに はろはろに 鳴く霍公鳥ほととぎす わが屋戸やどの 植木うゑきたちばな 花に散る 時をまだしみ 鳴かなく〔伎奈加奈久〕 そこはうらみず しかれども 谷片付かたつきて 家居いへゐせる 君が聞きつつ 告げなくもし(万4207)

 さらに正確を期するには、次の例がわかりやすい。

 うつつには うべも逢はなく いめにさへ 何しか人の ことしげけむ(万2848或本)

 現実にはもっともなことに逢うことはない、それに加えて夢でさえ、どうして不条理にも人の噂がうるさいのだろう、の意である。「現には うべも逢はなく」と「夢にさへ 何しか人の 言の繁けむ」とは次元の違う話である。その次元の違いを示すために、ク語法を使って句切れを作っている。名詞化しているのだから体言止めと同じ効果がある。
 「……の知らなく」という形で文末に用いられているのは、「知る」が自動詞、わかる、の義で、理解の範疇外であること、ワカンナイと投げていることを表すからであろう。すなわち、「……なく」の形で強烈な否定を表して名詞化している場合には、「に」と続けて余韻をもって詠嘆、逆接、順接へと結びつけることなどできないところがあるのを物語っていよう。
 当該万2033番歌でも、余韻をもって続けるべきかどうかという意味合いによって、「待たなく」と訓むか、「待たなくに」と訓むかは判断されるべきである。
 神様を串刺しにしようと刃を磨いで待っていることなど、初めから想定の範囲外である。強烈な否定を表すには、「に」と続けることなく「待たなく」と切れていることがふさわしい。
 以上、難訓とされてきた万2033番歌の訓みを呈示した。上のように訓んで正しいことは、それが「庚辰年」、彼の役の年のこと、恭仁京遷都のことと深くかかわっていることに証明される。「布当ふたぎの宮」=「ふたぎの宮」、つまり、天の安の川原を作るのに川を堰き止め栓をしていたことに負っている。恭仁京遷都の年だからこそ人々の関心が高まっていて、七夕歌にも観念を膨らませることができた。難訓を解く鍵として左注があり、左注の意味を解く鍵として歌がある。その点は特に難訓歌でなくても同じことである。題詞と歌とが密接な関係にあって、設定された枠組みのもとで歌が歌われている。歌は発語をもってなされたのだから、誰々がいついつに曰く、「……」の体で記されることで、はじめて納得されるものである。ただ歌だけを抜き出して感傷に耽っているのは論外であるし、どうしてその歌が題詞によって拘束されてあるのか説明がつかない場合は、真の理解に至っていないのである。

(注)
(注1)粂川1966.はインパクトの大きな論文で、天武九年説を優勢にした。けれども、万葉集の「左注」の筆を疑うことなくに受け取ったもので浅慮のそしりを免れ得ない。そもそも万葉集中に干支年だけで記した例は、粂川氏もあげているように、万7番歌の左注、「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年・・・幸比良宮大御歌、但紀曰、五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯、三月戊寅朔天皇幸吉野宮而肆宴焉、庚辰日天皇幸近江之平浦」と、万4260番歌の題詞、「壬申年・・・之乱平定以後歌二首」に限られている。例外的な書き方がされるのは七世紀だからといい、また、墓誌銘の書き方とあわせて、万2033番歌の左注も七世紀のものであろうというが、何の証明にもなっていない。万4240番歌の題詞は壬申の乱のことを示したいから「壬申年(之乱)」と書いてある。壬申の乱を天武元年の乱とは言わない。万4260・4261番歌の「壬申年之乱平定以後歌二首」は「大君は神にしませば」を歌う歌であり、一首目は壬申の乱時の大将軍が作者であることが要件の歌である。拙稿「「大君は神にしませば」歌(万4260・4261)の語用論的解釈」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/8db7eabcb5ae3c6ca200ba6cddabfc76参照。そう記さなければわからないから必然的にそう記しているのであって、単に紀年の方法としてそうしているわけではない。
 本稿で考えるような頓智的な干支の記し方の例としては、天寿国繍帳の銘文にある「癸酉」がある。拙稿「天寿国繍帳の銘文を内部から読む」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/e7eca55b2958f071765392022c43f66cほか参照。
(注2)柿本人麻呂歌集がどのようなものなのか、記されている歌から歌の性格は推測することはできるが、実態がどのようなものであったかは証明しようのないことである。万葉集を編纂した人が、世相を諷喩するような問題作の出所を紛らせるためにそう書いたとしても何の不思議もない。歌の内容によって、秘密警察に知られたらまずいという気持ちがあったとしたら、ごまかすのに好都合なのが柿本人麻呂歌集であった。そこにたくさんの歌が記されていて、たまに三方沙弥(万2315)、石川君子(万2742)といった作者名が伝えられる程度であるから、差し込んでもわからない。後は歌と左注をよく読んでご理解くださいと留め置かれたと筆者は推測する。
(注3)人麻呂歌集について、後藤1961.は次の歌を例としてあげて述べている。

  忍壁皇子に献る歌一首 仙人やまひとかたを詠めり
 とこしへに 夏冬けや かはごろも あふぎはなたぬ 山に住む人(万1682)

「人麻呂集の歌であるが、慶雲二年(七〇五)に薨去された忍壁皇子に奉った歌であるから、奈良京(七一〇~)に入る前の作であることはあきらかである。このような神仙思想にもとづく歌が奈良京以前にも存在するのであるから、よりポピュラーな神仙思想的題材たる七夕伝説が歌の素材にならなかったなどとは考えられないのである。」(130~131頁)。万1862番歌は、神仙思想に基づいたものではなく、山に住むコウモリの死骸を見つけて「仙人やまひとかた」と呼び、年中、裘にも扇にも使えるものだと詠んだ歌である。拙稿「万1682番歌の「仙人」=コウモリ説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/948dac5fbf74363dc8a280a951c67fb9参照。
 七夕歌がいつ頃から定着していたかについては、山上憶良が広めたのをメルクマールとする説があるもののここでは考えない。すべての歌を解し尽くした後に考えればよいことであり、その時には自ずと整理できている。歌の解釈がままならないのに議論しても憶測ばかりで建設的ではない。
(注4)カノ(彼・他)は、遠称の指示代名詞カが格助詞ノを伴った連体詞である。用例は少ない。近世には、直接言うのを憚って遠回しに言うときに用いられている。
(注5)拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d0d5cf0a4d2b25a651a0ebd895f8f7da参照。
(注6)「三刃みつはの矛」はフォーク状の矛のことかとされるが、水に関係する場所だから「罔象女みつはのめ」(紀)、「弥都波能みつはの売神めのかみ」(記)と合致させているのであろう。「次小便。化‐為神。名曰罔象女。」(神代紀第五段一書第四)、「次於尿成神名、弥都波能売神」(記上)とある。

(引用・参考文献)
阿蘇2009. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第5巻』笠間書房、2009年。
伊藤1975. 伊藤博『万葉集の表現と方法 上』塙書房、昭和50年。
稲岡1976. 稲岡耕二『萬葉表記論』塙書房、昭和51年。
大久保1980. 大久保正『万葉集の諸相』明治書院、昭和55年。
粂川1966. 粂川定一「人麿歌集庚辰年考」『国語国文』第35巻第10号、1966年10月。
後藤1961. 後藤利雄『人麿の歌集とその成立』至文堂、昭和36年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解4』筑摩書房、2009年。
土佐2021. 土佐秀里「人麻呂歌集「庚辰年七夕歌」訓釈考」『古代中世文学論考』第45集、新典社、令和3年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注・原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。

この記事についてブログを書く
« 恭仁京遷都について─万葉集か... | トップ | 古事記の大山守命反乱譚の「... »