万葉集において、「心」に「乗る」という表現が見られる。「心に乗りて」、「乗りにし心」、「妹は心に乗りにけるかも」の3つの形がある。
「心に乗りて」
ももしきの 大宮人は 多かれど 情に乗りて 念ほゆる妹(万691)
赤駒を 厩に立て 黒駒を 厩に立てて それを飼ひ 吾が行くが如 思ひ妻 心に乗りて 高山の 峯のたをりに 射目立てて 鹿猪待つが如 床敷きて 吾が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
ま愛しみ 寝れば言に出 さ寝なへば 心の緒ろに 乗りて愛しも(万3466)
白雲の 絶えにし妹を あぜせろと 心に乗りて ここば愛しけ(万3517)
「乗りにし心」
楽浪の 志賀津の浦の 船乗りに 乗りにし心 常忘らえず(万1398)
百伝ふ 八十の島廻を 漕ぐ船に 乗りにし心 忘れかねつも(万1399)
「妹は心に乗りにけるかも」
東人の 荷向の篋の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも〈禅師〉(万100)
春されば 垂り柳の とををにも 妹は心に 乗りにけるかも (万1896)
宇治川の 瀬々のしき波 しくしくに 妹は心に 乗りにけるかも (万2427)
大船に 葦荷刈り積み しみみにも 妹は心に 乗りにけるかも (万2748)
駅路に 引舟渡し 直乗に 妹は心に 乗りにけるかも (万2749)
漁りする 海人の檝の音 ゆくらかに 妹は心に 乗りにけるかも (万3174)
「乗る」という語について、今日までの語義解釈には一貫性を欠いたところがある。森田1989.に、「のる〔乗る 載る〕自動詞 ある事物(A)が他のもの(B)の上に位置し、Bに身をあずける。」(915頁)とする。それがノルという語の原初的形態であろう。船や馬に乗って、船や馬に身を任せることである。以下の例に不審となるところはない。
潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻を(万42)
塩津山 うち越え行けば 我が乗れる 馬そ爪づく 家恋ふらしも(万365)
臣の女の 櫛笥に乗れる 鏡なす ……(万509)
御食つ国 志摩の海人ならし 真熊野の 小船に乗りて 沖辺漕ぐ見ゆ(万1033)
あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人童女らが 乗れる船見ゆ(万1063)
君に恋ひ 寝ねぬ朝明に 誰が乗れる 馬の足音そ 吾に聞かする(万2654)
おのれゆゑ 詈らえて居れば 𩣭馬の 面高夫駄に 乗りて来べしや(万3098)
…… ぬばたまの 黒馬に乗りて 川の瀬を 七瀬渡りて ……(万3303)
大船に 妹乗るものに あらませば 羽ぐくみ持ちて 行かましものを(万3579)
…… 海人の少女は 小船乗り つららに浮けり ……(万3627)
虎に乗り 古屋を越えて 青淵に 鮫龍取り来む 剣大刀もが(万3833)
夏の夜は 道たづたづし 船に乗り 川の瀬ごとに 棹さし上れ(万4062)
ところが、「心」に「乗る」意については、すぐさま転義が起こったように解釈されている。白川1995.に、「舟や車、馬などに乗る。旅行や出行のときに用いるものを乗物という。自分を乗せたものの動きにすべてをまかせる。心に乗り移る状態についてもいう。〔万葉〕にこの意の用法が多い。」(602頁)とする(注1)。「心」に「乗る」という比喩的表現を得るに当たり、憑依するとか、心にのしかかって来て困るという意に転じていると解している。しかし、言葉の精神史的視座からすると、上代に安易な転義が生じたとは考えにくい。乗っている人と乗物との関係が意味的に逆転し、主客がひっくり返ってしまうからである。任せて頼りきる対象が船や馬であり、「心」もその延長線上に対象としてあると認識していたと考えられる。「道(路)に乗る」という言い方もあり、それは道なりに進むという意味である。
海原の 路に乗りてや 吾が恋ひ居らむ 大船の ゆたにあるらむ 人の児ゆゑに(万2367)
道に任せて進んでいる。船や馬に乗る人が乗り物に身を任せることと同じである。よって、「心」に「乗る」場合だけ、乗物に当たる「心」のほうが乗り主の意向に従わされるという感触はあり得ない。船なら底板一枚下は海であり、いつ抜けて溺れるかもしれず、風向きにより思いもしない方向へ進むこともあるであろう。馬ならいつ暴れ出すか知れず、そのとき振り飛ばされても仕方なく、また、道草を食われてちっとも進まないこともあるかもしれない。それでもそんな船や馬に身をゆだねてみている。それがノル(乗)である。今日でも誘いに乗る、話に乗る、景気の波に乗る、という場合に同じである。万葉集の「乗る」の例は、すべて任せゆだねる意を含むと定めて解釈し直す必要がある。結果的に、「心に乗る」では「心」が船や馬同様、動きの主体としてたち現れなければならない。
実際の万葉集の例で検証していく。「心に乗りて」については、心に乗りかかって離れず、見方を変えれば、相手が心を占領していることと解釈されることが多い(注2)。そのように転義を安易に認めなくても、本義をもって理解されるのではないか。用字をそろえて再掲する。
ももしきの 大宮人は 多かれど 心に乗りて 思ほゆる妹(万691)
赤駒を 厩に立て 黒駒を 厩に立てて それを飼ひ 吾が行くが如 思ひ妻 心に乗りて 高山の 峯のたをりに 射目立てて 鹿猪待つが如 床敷きて 吾が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
ま愛しみ 寝れば言に出 さ寝なへば 心の緒ろに 乗りて愛しも(万3466)
白雲の 絶えにし妹を あぜせろと 心に乗りて ここば愛しけ(万3517)
万691番歌は、題詞に、「大伴宿祢家持、娘子に贈る歌二首」とある。「ももしきの大宮人は多かれど思ほゆる君」は「娘子」一人だけであるというところが歌の主眼である。たくさんいる宮廷女性のなかで自然と思い出されるのは彼女だけである、と自らの心を内省した状況を言葉にし、家持はその気持ちを「娘子」に送信している。その際、「心に乗りて」という修辞を挿入している。自分の心を船に譬えてみて、自分の心に身を任せてかまわないとした人は「妹」ただ一人であったと歌っている。すなわち、内省を表明すること自体、とてもナイーブな感情表現でありつつ、少しでも我のある女性であれば家持に全面的には心をゆだねることはなく、自己主張することがあるものだが、「娘子」にはそういうところが(本当はあったかもしれないが家持には)見えなかった。大宮人には選ばれたきれいな人や賢い人が多いけれど、変なプライドを持たずに自分のことを100パーセント頼ってくる「妹」のことが忘れられないと言っている。だからこそ自然と思い出されてくるのである。
恋愛は男女二人の関係で成り立っている。自分が好きな相手のことを追い求めるのも一つのあり方だが、相手から好かれて自分のことを大事にしてくれる場合、それは自分の好み、顔がタイプであるとか一緒にいたら他人に自慢できるとか情熱的な恋といったこととは別問題で、その人との関係を永続的なものにすると穏やかな気持ちが得られるものである。それこそ心の問題だから、「心に乗りて」という表現は正鵠を射たものであると言える。
万3278番歌は、赤駒黒駒を厩で大切に育てて馴れさせて主人の言うことをよく聞くように飼っており、乗馬した時、人馬一体となって進むことができるほどである。恋人が私の心に乗って身を任せていて、まことに相思相愛の関係にある。そして、射目を設けてシカやイノシシを待つように床を敷いて来訪を待っているのだから、番犬よ今日はいいから吠えるなよと歌っている。反歌も番犬的な存在に言い聞かせている。
葦垣の 末掻き別けて 君越ゆと 人にな告げそ 事はたな知れ(万3279)
これらの歌は、相手を脅かすなと自戒を込めて言っているものなのかもしれない。
万3466歌は、共寝をすると人の噂が立って精神的に疲れる。かといって会わないで一人寝をすると、相手は私の心をつなぎとめている舫綱を伝って乗ってくるように始終思われて疲れる、と言っている。「心の緒」という言い方は、万葉集の題詞のうちに「正述心緒」といったものが見られるから、その「心緒」の訓読語かとする説もある。ただし、万3466番歌に題詞はなく、他に例も見られないので、上のように独特な言い回しであると考えた方がよい。乗物にまつわる「緒」といえば、船の舫綱や駒つなぎの綱があげられる。綱渡りをしてこちらの心へ乗りこんでくると言っている。
万3517番歌は、別れてしまった元カノが、何故いつまでも自分の心に乗っていて身を任された気でいなければならないのか、自分の気持ちの動揺ぶりを思って歌っている。誰も乗っていないはずの船や馬であるはずなのに、いまだに自分の心に乗っていて、どこかへ行こうとするかのような誤った感覚が湧いてきて悲しいと言っている。
これらが、「心に乗る」の意である。「乗る」の原義にある、乗った乗物(船や馬など)に身を任せる意を含んで解釈して意を尽くすことができている。四首すべて、自分の「心」という乗物に相手が乗ってくることを、被乗者の側から歌い、乗られた心を乗られた本人が顧みる形となっている(注3)。とてもナイーブな感情表現である。心に乗り遷る、心にのしかかって離れない、などといった転義として扱うことは、微妙な表現を失わせる誤訳であり、そのような大雑把な把握は少なくとも万葉時代には行われていないと考える。
次に「乗りにし心」について検証する。
楽浪の 志賀津の浦の 船乗りに 乗りにし心 常忘らえず(万1398)
百伝ふ 八十の島廻を 漕ぐ船に 乗りにし心 忘れかねつも(万1399)
「乗りにし心」という表現は「船」と絡めた比喩表現として行われている。「船に寄す」の歌である。いずれも三句目までは序詞である。ところが、現行の注釈書では、万1398番歌は、さざなみの志賀の津の浦で船に乗った、そのようにあの人が乗った心は忘れられない、万1399番歌は、ももしきのたくさんの島々をめぐり漕ぐ船に乗るように、あの人の乗った私の心を忘れることができない、などと訳されることが多い。さらには自分の気持ちに乗った恋人のことが忘れられないとまで解されている(注4)。しかし、これらの歌の眼目は、「乗りにし心常忘らえず」、「乗りにし心忘れかねつも」である。忘れられないの目的語は「心」である。「乗りにし心」とは、「乗り」(動詞「乗る」の連用形)+「に」(完了の助動詞「ぬ」の連用形)+「し」(過去の助動詞「き」の連体形)+「心」(名詞)である。過ぎ去り終わっている自分の心のことが忘れられないと言っている。それは、恋人と一心同体になったときの心のことを指している。蜜月の時の甘く高揚した思いを忘れられないと歌っているのである。乗物として自分の心があり、そこへいとしい相手が確かに乗ってきていた。今となっては取り戻すことはできない自分の「心」である。自分の「心」なのだから継続しているはずなのに継続していない。恋の相手は別の「心」に乗り換えたのである。その喪失感を歌い込もうとして使われている修辞法である(注5)。
その点は、「妹は心に乗りにけるかも」という常套句にも通じる。妹は私の心に乗り、私の心に身を任せてしまったのかもしれない、と、自らの心を船のような乗物に譬えながら対象化して語る語り口である。「乗りにし心」は時間的な相対性があったから対象化して可とされたが、「乗りにけるかも」は、逆に対象化するために、最後にカモという終助詞と目されている詠嘆表現が付けられている。
東人の 荷向の篋の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも(万100)
春されば 垂り柳の とををにも 妹は心に 乗りにけるかも (万1896)
宇治川の 瀬々のしき波 しくしくに 妹は心に 乗りにけるかも (万2427)
大船に 葦荷苅り積み しみみにも 妹は心に 乗りにけるかも (万2748)
駅路に 引船渡し 直乗に 妹は心に 乗りにけるかも (万2749)
漁りする 海人の檝の音 ゆくらかに 妹は心に 乗りにけるかも (万3174)
朸に緒で括る(福富草紙、15世紀、クリーブランド博物館https://scrolls.uchicago.edu/view-scroll/138をトリミング)
万100番歌は、東の人が都まで遠路はるばる荷物を運ぶ、そのためには棄損しないように箱に入れて運ぶのだが、そのとき、担い棒の先につけた荷の箱をとめる紐がぐるぐるに回し渡されるように、ちょっとやそっとでは外れないように彼女は私の心に乗って身を任せてしまったことだなあ、と歌っている。何重にも「緒」をかけ渡しているということは、何度彼女に自分みたいなものでいいのかと問うても「諾」と答えてくる、そういう状況であることを表している(注6)。万1896番歌は、春になるとしだれて芽吹く柳の枝のたわむように、彼女は私の心に乗って身を任せ、ブランコ状態でいることよ、と歌っている。体格のいい男性と小柄な女性がくり広げる夜のスポーツを思い起こさせる。「とをを」とあって、ここでも「諾」の声が聞こえている。万2427番歌は、宇治川の瀬ごとに折り重なってどんどん寄せてくる波のように、絶えることなく彼女は私の心に身を任せ及んだことだなあ、と歌っている。声をあげて歌われた歌なのだから、「瀬々」のしき波とは、「背々」のしき波、すなわち、ねえあなた、ねえあなた、とくり返し呼びかけてくる女性の声を喩えている。万2748番歌は、大きな船に刈った葦を積み、ぎっしりと隙間がなくなるほどである。それほどまでに、彼女は私の心にすべて頼り切って乗ったことだなあ、と歌っている。葦は茅葺き家屋の屋根や家の周りにめぐらす垣根の材料だから、二人の新居を構える気でいっぱいだということである。万2749番歌は、駅制で駅に来るまでは馬に乗り、次の駅からはまた馬に乗るが、その間に遮っている川を、引船を渡して船の乗って乗物に乗りっぱなしである、それほどに彼女は私の心に頼り切ってずっと乗ってしまっていることだなあ、と歌っている。万3174番歌は、漁をする海人の船檝の音がゆっくりではあるが着実にリズムを刻んで響き続くように、彼女は私の心に着々と任せきって乗ったことだなあ、と歌っている。形容は序詞で完結していて、船檝の音と乗ることとは直接にはつながらないとする考え(注7)もあるが、メトロノームのように響く音を肌身近くに感じたことはないだろうか。相手の心臓の鼓動音である。とても官能的な隠喩のもとに「心に乗る」という表現を駆使するに至っている。
以上のように解釈することが、「乗る」という原義を捉えていて正しいと考える。彼女が私の心を占めた→私の心は彼女で夢中、という意味ではない。あくまでも、彼女の方が任せきるように全面的な信頼感をもって依存してきている。「妹」とあるからすべて男性が詠んだ歌である。女性の依頼心を見て取ることが可能であるが、ならば逆に、男性が母性的な女性に対して「心に乗りにけるかも」と言ったことがあるかといえば、万葉集には登場していない。一般的な傾向として、体格的に大きな男性に対して小さな女性が「乗る」と表現されることはあっても、その反対は歌の詞として不釣り合いに感じられる。そんな場合、「心は妹に寄りにけるかも」という表現が行われている(注8)。
秋の野の 尾花が末の 生ひ靡き 心は妹に 寄りにけるかも(万2242)
明日香川 瀬々の珠藻の うち靡き 情には妹に 因りにけるかも(万3267)
これらの歌中の「心」は作者の男性の心である。
以上、「心」に「乗る」といった場合の「乗る」の解釈の誤謬を正した。
(注)
(注1)白川1995.はまた、「国語の「のる」は、あるものにとりついて、それとともに移動し、その力を利用する意がある。「乗ずる」という語義に近い。」(同頁)と指摘している。この指摘は正しいのだから、すべての「乗る」例に適用できないか思慮を深める必要があった。古典基礎語辞典にも、「直接に物の上に位置をとり、身を預ける意。馬・車・船などの上または中に身を置いて、その動きに身をまかせること。また、その上にいて下の物を操る場合にもいう。「心に乗る」は、相手がいつも自分の心の上にいて、自分の心の動きを操ること、つまり自分が強く相手にひかれてとらわれている状態をいう。また、……」(957頁、この項、依田瑞穂)としていて、語釈にまとまりがない。
(注2)多田2009b.に、「「心に乗る」は、相手のことで心が満たされてしまった状態の形容。」(371頁)、稲岡2006.に、「心に乗りかかって離れないことを言うのであろう。」(397頁)、水島1986.に、「深く心にかかって。相手のことが自分の心から離れないのである。」(325頁)、古典大系本aに、「心にかかって。」(297頁)、古典大系本cに、「心を占めて。心を占領して。」(364頁)、新大系文庫本に、「「心に乗る」は、自分の心を完全に占めてしまう意。」(409頁)、新編全集本bに、「思ひ妻心に乗りて─愛する妻のことが自分の心に乗りかかって念頭から離れないことをいう。」(416頁)、古典集成本aに、「心にしっかりと食い込んで。」(327頁)、木下1983.に、「心ニ乗ルは、まるで相手が自分の心に覆いかぶさったように思われ、他事を顧みる余裕がないばかりであることをいう。」(322頁)、伊藤1996a.に、「心にしっかりと食いこんで。「心に乗る」は相手が心に乗っかって自分を独占してしまうことをいう。」(611頁)、伊藤1997.に、「「心に乗る」は心に乗っかって全体を支配する、の意。男が女の心についていう例に限られる。」(135頁)、阿蘇2006.に、「心に乗りて 思ほゆる 恋する相手のことで自分の心がいっぱいになる意。」(707頁)などとある。
(注3)万3278番歌は、前半の馬を飼って馬に乗って行くといった部分は男の歌と思しく、後半の床を敷いて待つのは女の歌と思しい。その点について議論があるが、ここではひとまず、「心に乗りて」は、女である「思ひ妻」が男の「心に乗」るものと解する。
(注4)万1398番歌は、実のところ今日の注釈書に理解が定まっていない。「乗りにし心」について諸書の指摘は次のとおりである。稲岡2002.に、「舟に乗って漕ぎ出した時のこころ。……新婚当初の気持ちを忘れぬ男の歌。」(267頁)、渡瀬1985.に、「船に乗って漕ぎに漕いだその折の良い心持。女と結ばれた時の気持の意を寓する。」(372頁)、多田2009a.に、「「乗る」は、こちらの意志とは無関係に、対象がおのずとこちらの心に依り憑いてしまう意。」(166頁)、古典大系本bに、「相手にひかれていつも気にかかっている心持。」(264頁)、新編全集本aに、「自分を信頼し任せきった彼女の心。」(273頁)、伊藤1996b.に、「いとしい女が荷物として乗りこんでしまって重荷となった心の状態。」(400頁)、古典集成本bに、「自分の心にしっかりと食い込んでしまって、忘れられない状態をいう。」(273頁)、阿蘇2008.に、「相手に引かれれていつも気にかかっている心持ち。相手が乗りかかったように、自分の心にしっかりと食込んでしまって、忘れられない状態をいう。」(391頁)とある。
(注5)鈴木1990.に、「自然物象が歌中にひきよせられたとき、それはもはや単なる外在的な自然なのではなく、心象的自然にほかならない。外界の素材に向かう精神の働きかけが、さらに内面において統一的に再構成される。かくしてこの対応構造は、イマジネーションというきわめて内面的な作用を意味する。結局、和歌におけるこの表現構造とは、イマジネーションに対して節度ある論理的な統制を加えていることになる。そして、外界の物象への独自な認識把提から、その物象は単なる現実とはむしろ対立的であり、そこに和歌は表現上一種の虚構の機構をもつことになる。」(74頁)とある。筆者には、その意味するところが十分に理解できない。自然科学者が言いそうな外在的な自然なるものが自然の観念として古代に存在したのであろうか。逆にまた、ひとりよがりのイマジネーションを繰り広げて精神異常者扱いされずに他の人と認識を共有できるものなのか。言葉とは何か、に思いを致せば、至極当たり前のことを理屈づけているにすぎない物言いである。「虚構の機構」でない和歌があるとすれば、単に凡作にすぎないのではないか。
(注6)大浦2008.に、「一〇〇番歌の「荷の緒」は荷前の荷を結い付ける緒であり、物象叙述に包摂されるようでありながら、「荷の緒にも」はその裏側の「しっかりと」の意を含み持って「乗りにけるかも」に係る修飾語として働き、物象部と心象部が解け合っているかのような様相を呈している。」(34頁)とする。そのように解釈した場合、ニモのモの文法的扱いはどのようなものなのか、筆者にはよくわからない。また、物象から心象への転換を可能ならしめている「共通認識」として祈年祭や春日祭の祝詞に見える諸国からの貢物の上進があったとし、「「荷前の箱の荷の緒」という物象も祈年祭の祝詞のような詞章を背負った物象と考えられるのであり、その場合「荷の緒にも」への転換の契機は「荷前」という物象そのものの持つ指標性の中に、既に存在していることになる。」(38頁)としている。
「荷の緒縛ひ堅めて」(延喜式・祝詞・祈年祭)という詞章は、それほど人口に膾炙したものであったのだろうか。集中にこの一首しか見られない点は不可解に映る。このような飛躍のある表現についての説明として不足を感じる。筆者はその祝詞が成立する基盤として、令制の荷前の制、調を山陵に供献するしきたりがあったものと考える。また、共通認識としては、万96~100番歌の歌群を通じた事柄として、別の事項を含めなければ真の理解に至らないと考える。拙稿「久米禅師と石川郎女の問答歌─万96~100番歌─について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/615e2f4ad282ce6158fd2bbdbddcd866参照。
(注7)北住1953.。
(注8)影山2017.に、「妹が心に乗りにけるかも」と「心は妹によりにけるかも」とを比較し、前者に豊かな表現力を見て取っている。そこに、「「乗る」動作と親和する事物の選択が多様にあったことが汎用を促進したものと解される」(300頁)とするが、表現を生成論から見る場合、船や馬に「乗る」ことが先にあり、その比喩として「心」に「乗る」と言っているのであって、それを反転させて何かを論じようとするのは倒錯に陥っていないだろうか。また、「「乗る」の意義を「ある物体の上方もしくは表面に別の物体(人)が移動する」と言い換えることが許されるならば、他者からも視覚的に認知可能な状態がこの動詞の示すところなので、内省的な「よる」との差異は鮮明になる。」(同頁)とするが、「乗る」の意義は、森田1989.の定義、「のる〔乗る 載る〕自動詞 ある事物(A)が他のもの(B)の上に位置し、Bに身をあずける。」のとおりであり、言い換えることは許されない。身をあずけるという点が、「乗る」の原義に深く根付いていることを弁えなければならない。表現方法の検討には、「心」に「乗る」という表現にひそむ内省性に着眼し、自分の心を対象化する表現方法である点にこそ脚光を当てるべきである。
(引用文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第1巻』笠間書院、2006年。
阿蘇2008. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第4巻』笠間書院、2008年。
伊藤1996a. 伊藤博『萬葉集釋注二』集英社、1996年。
伊藤1996b. 伊藤博『萬葉集釋注四』集英社、1996年。
伊藤1997. 伊藤博『萬葉集釋注七』集英社、1997年。
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集二』明治書院、平成14年。
稲岡2006. 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集三』明治書院、平成18年。
大浦2008. 大浦誠士『万葉集の様式と表現─伝達可能な造形としての〈心〉─』笠間書院、平成20年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
影山2017. 影山尚之『歌のおこない─万葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。
北住1953. 北住敏夫「『萬葉集』における心情表現の特性─「心に乗る」「乗りにし心」といふいひ方について─」『萬葉』第7号、昭和28年4月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1953
木下1983. 木下正俊『萬葉集全注 巻第四』有斐閣、昭和58年。
古典集成本a 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集一』新潮社、昭和51年。
古典集成本b 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集二』新潮社、昭和53年。
古典大系本a 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集1』岩波書店、昭和32年。
古典大系本b 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系5 萬葉集2』岩波書店、昭和34年。
古典大系本c 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系6 萬葉集3』岩波書店、昭和35年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集本a 小島憲之・木下正俊・東野治之校注訳『新編日本古典文学全集7 萬葉集2』小学館、1995年。
新編全集本b 小島憲之・木下正俊・東野治之校注訳『新編日本古典文学全集8 萬葉集3』小学館、1995年。
鈴木1990. 鈴木日出男『古代和歌史論』東京大学出版会、平成2年。
多田2009a. 多田一臣『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
多田2009b. 多田一臣『万葉集全解5』筑摩書房、2009年。
水島1986. 水島義治『萬葉集全注 巻第十四』有斐閣、昭和61年。
森田1989. 森田良行『基礎日本語辞典』角川書店、1989年。
渡瀬1985. 渡瀬昌忠『萬葉集全注 巻七』有斐閣、昭和60年。
※本稿は、2018年4月稿の細かな誤りを2023年8月に正して補筆し、ルビ化したものである。
「心に乗りて」
ももしきの 大宮人は 多かれど 情に乗りて 念ほゆる妹(万691)
赤駒を 厩に立て 黒駒を 厩に立てて それを飼ひ 吾が行くが如 思ひ妻 心に乗りて 高山の 峯のたをりに 射目立てて 鹿猪待つが如 床敷きて 吾が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
ま愛しみ 寝れば言に出 さ寝なへば 心の緒ろに 乗りて愛しも(万3466)
白雲の 絶えにし妹を あぜせろと 心に乗りて ここば愛しけ(万3517)
「乗りにし心」
楽浪の 志賀津の浦の 船乗りに 乗りにし心 常忘らえず(万1398)
百伝ふ 八十の島廻を 漕ぐ船に 乗りにし心 忘れかねつも(万1399)
「妹は心に乗りにけるかも」
東人の 荷向の篋の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも〈禅師〉(万100)
春されば 垂り柳の とををにも 妹は心に 乗りにけるかも (万1896)
宇治川の 瀬々のしき波 しくしくに 妹は心に 乗りにけるかも (万2427)
大船に 葦荷刈り積み しみみにも 妹は心に 乗りにけるかも (万2748)
駅路に 引舟渡し 直乗に 妹は心に 乗りにけるかも (万2749)
漁りする 海人の檝の音 ゆくらかに 妹は心に 乗りにけるかも (万3174)
「乗る」という語について、今日までの語義解釈には一貫性を欠いたところがある。森田1989.に、「のる〔乗る 載る〕自動詞 ある事物(A)が他のもの(B)の上に位置し、Bに身をあずける。」(915頁)とする。それがノルという語の原初的形態であろう。船や馬に乗って、船や馬に身を任せることである。以下の例に不審となるところはない。
潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻を(万42)
塩津山 うち越え行けば 我が乗れる 馬そ爪づく 家恋ふらしも(万365)
臣の女の 櫛笥に乗れる 鏡なす ……(万509)
御食つ国 志摩の海人ならし 真熊野の 小船に乗りて 沖辺漕ぐ見ゆ(万1033)
あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人童女らが 乗れる船見ゆ(万1063)
君に恋ひ 寝ねぬ朝明に 誰が乗れる 馬の足音そ 吾に聞かする(万2654)
おのれゆゑ 詈らえて居れば 𩣭馬の 面高夫駄に 乗りて来べしや(万3098)
…… ぬばたまの 黒馬に乗りて 川の瀬を 七瀬渡りて ……(万3303)
大船に 妹乗るものに あらませば 羽ぐくみ持ちて 行かましものを(万3579)
…… 海人の少女は 小船乗り つららに浮けり ……(万3627)
虎に乗り 古屋を越えて 青淵に 鮫龍取り来む 剣大刀もが(万3833)
夏の夜は 道たづたづし 船に乗り 川の瀬ごとに 棹さし上れ(万4062)
ところが、「心」に「乗る」意については、すぐさま転義が起こったように解釈されている。白川1995.に、「舟や車、馬などに乗る。旅行や出行のときに用いるものを乗物という。自分を乗せたものの動きにすべてをまかせる。心に乗り移る状態についてもいう。〔万葉〕にこの意の用法が多い。」(602頁)とする(注1)。「心」に「乗る」という比喩的表現を得るに当たり、憑依するとか、心にのしかかって来て困るという意に転じていると解している。しかし、言葉の精神史的視座からすると、上代に安易な転義が生じたとは考えにくい。乗っている人と乗物との関係が意味的に逆転し、主客がひっくり返ってしまうからである。任せて頼りきる対象が船や馬であり、「心」もその延長線上に対象としてあると認識していたと考えられる。「道(路)に乗る」という言い方もあり、それは道なりに進むという意味である。
海原の 路に乗りてや 吾が恋ひ居らむ 大船の ゆたにあるらむ 人の児ゆゑに(万2367)
道に任せて進んでいる。船や馬に乗る人が乗り物に身を任せることと同じである。よって、「心」に「乗る」場合だけ、乗物に当たる「心」のほうが乗り主の意向に従わされるという感触はあり得ない。船なら底板一枚下は海であり、いつ抜けて溺れるかもしれず、風向きにより思いもしない方向へ進むこともあるであろう。馬ならいつ暴れ出すか知れず、そのとき振り飛ばされても仕方なく、また、道草を食われてちっとも進まないこともあるかもしれない。それでもそんな船や馬に身をゆだねてみている。それがノル(乗)である。今日でも誘いに乗る、話に乗る、景気の波に乗る、という場合に同じである。万葉集の「乗る」の例は、すべて任せゆだねる意を含むと定めて解釈し直す必要がある。結果的に、「心に乗る」では「心」が船や馬同様、動きの主体としてたち現れなければならない。
実際の万葉集の例で検証していく。「心に乗りて」については、心に乗りかかって離れず、見方を変えれば、相手が心を占領していることと解釈されることが多い(注2)。そのように転義を安易に認めなくても、本義をもって理解されるのではないか。用字をそろえて再掲する。
ももしきの 大宮人は 多かれど 心に乗りて 思ほゆる妹(万691)
赤駒を 厩に立て 黒駒を 厩に立てて それを飼ひ 吾が行くが如 思ひ妻 心に乗りて 高山の 峯のたをりに 射目立てて 鹿猪待つが如 床敷きて 吾が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
ま愛しみ 寝れば言に出 さ寝なへば 心の緒ろに 乗りて愛しも(万3466)
白雲の 絶えにし妹を あぜせろと 心に乗りて ここば愛しけ(万3517)
万691番歌は、題詞に、「大伴宿祢家持、娘子に贈る歌二首」とある。「ももしきの大宮人は多かれど思ほゆる君」は「娘子」一人だけであるというところが歌の主眼である。たくさんいる宮廷女性のなかで自然と思い出されるのは彼女だけである、と自らの心を内省した状況を言葉にし、家持はその気持ちを「娘子」に送信している。その際、「心に乗りて」という修辞を挿入している。自分の心を船に譬えてみて、自分の心に身を任せてかまわないとした人は「妹」ただ一人であったと歌っている。すなわち、内省を表明すること自体、とてもナイーブな感情表現でありつつ、少しでも我のある女性であれば家持に全面的には心をゆだねることはなく、自己主張することがあるものだが、「娘子」にはそういうところが(本当はあったかもしれないが家持には)見えなかった。大宮人には選ばれたきれいな人や賢い人が多いけれど、変なプライドを持たずに自分のことを100パーセント頼ってくる「妹」のことが忘れられないと言っている。だからこそ自然と思い出されてくるのである。
恋愛は男女二人の関係で成り立っている。自分が好きな相手のことを追い求めるのも一つのあり方だが、相手から好かれて自分のことを大事にしてくれる場合、それは自分の好み、顔がタイプであるとか一緒にいたら他人に自慢できるとか情熱的な恋といったこととは別問題で、その人との関係を永続的なものにすると穏やかな気持ちが得られるものである。それこそ心の問題だから、「心に乗りて」という表現は正鵠を射たものであると言える。
万3278番歌は、赤駒黒駒を厩で大切に育てて馴れさせて主人の言うことをよく聞くように飼っており、乗馬した時、人馬一体となって進むことができるほどである。恋人が私の心に乗って身を任せていて、まことに相思相愛の関係にある。そして、射目を設けてシカやイノシシを待つように床を敷いて来訪を待っているのだから、番犬よ今日はいいから吠えるなよと歌っている。反歌も番犬的な存在に言い聞かせている。
葦垣の 末掻き別けて 君越ゆと 人にな告げそ 事はたな知れ(万3279)
これらの歌は、相手を脅かすなと自戒を込めて言っているものなのかもしれない。
万3466歌は、共寝をすると人の噂が立って精神的に疲れる。かといって会わないで一人寝をすると、相手は私の心をつなぎとめている舫綱を伝って乗ってくるように始終思われて疲れる、と言っている。「心の緒」という言い方は、万葉集の題詞のうちに「正述心緒」といったものが見られるから、その「心緒」の訓読語かとする説もある。ただし、万3466番歌に題詞はなく、他に例も見られないので、上のように独特な言い回しであると考えた方がよい。乗物にまつわる「緒」といえば、船の舫綱や駒つなぎの綱があげられる。綱渡りをしてこちらの心へ乗りこんでくると言っている。
万3517番歌は、別れてしまった元カノが、何故いつまでも自分の心に乗っていて身を任された気でいなければならないのか、自分の気持ちの動揺ぶりを思って歌っている。誰も乗っていないはずの船や馬であるはずなのに、いまだに自分の心に乗っていて、どこかへ行こうとするかのような誤った感覚が湧いてきて悲しいと言っている。
これらが、「心に乗る」の意である。「乗る」の原義にある、乗った乗物(船や馬など)に身を任せる意を含んで解釈して意を尽くすことができている。四首すべて、自分の「心」という乗物に相手が乗ってくることを、被乗者の側から歌い、乗られた心を乗られた本人が顧みる形となっている(注3)。とてもナイーブな感情表現である。心に乗り遷る、心にのしかかって離れない、などといった転義として扱うことは、微妙な表現を失わせる誤訳であり、そのような大雑把な把握は少なくとも万葉時代には行われていないと考える。
次に「乗りにし心」について検証する。
楽浪の 志賀津の浦の 船乗りに 乗りにし心 常忘らえず(万1398)
百伝ふ 八十の島廻を 漕ぐ船に 乗りにし心 忘れかねつも(万1399)
「乗りにし心」という表現は「船」と絡めた比喩表現として行われている。「船に寄す」の歌である。いずれも三句目までは序詞である。ところが、現行の注釈書では、万1398番歌は、さざなみの志賀の津の浦で船に乗った、そのようにあの人が乗った心は忘れられない、万1399番歌は、ももしきのたくさんの島々をめぐり漕ぐ船に乗るように、あの人の乗った私の心を忘れることができない、などと訳されることが多い。さらには自分の気持ちに乗った恋人のことが忘れられないとまで解されている(注4)。しかし、これらの歌の眼目は、「乗りにし心常忘らえず」、「乗りにし心忘れかねつも」である。忘れられないの目的語は「心」である。「乗りにし心」とは、「乗り」(動詞「乗る」の連用形)+「に」(完了の助動詞「ぬ」の連用形)+「し」(過去の助動詞「き」の連体形)+「心」(名詞)である。過ぎ去り終わっている自分の心のことが忘れられないと言っている。それは、恋人と一心同体になったときの心のことを指している。蜜月の時の甘く高揚した思いを忘れられないと歌っているのである。乗物として自分の心があり、そこへいとしい相手が確かに乗ってきていた。今となっては取り戻すことはできない自分の「心」である。自分の「心」なのだから継続しているはずなのに継続していない。恋の相手は別の「心」に乗り換えたのである。その喪失感を歌い込もうとして使われている修辞法である(注5)。
その点は、「妹は心に乗りにけるかも」という常套句にも通じる。妹は私の心に乗り、私の心に身を任せてしまったのかもしれない、と、自らの心を船のような乗物に譬えながら対象化して語る語り口である。「乗りにし心」は時間的な相対性があったから対象化して可とされたが、「乗りにけるかも」は、逆に対象化するために、最後にカモという終助詞と目されている詠嘆表現が付けられている。
東人の 荷向の篋の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも(万100)
春されば 垂り柳の とををにも 妹は心に 乗りにけるかも (万1896)
宇治川の 瀬々のしき波 しくしくに 妹は心に 乗りにけるかも (万2427)
大船に 葦荷苅り積み しみみにも 妹は心に 乗りにけるかも (万2748)
駅路に 引船渡し 直乗に 妹は心に 乗りにけるかも (万2749)
漁りする 海人の檝の音 ゆくらかに 妹は心に 乗りにけるかも (万3174)
朸に緒で括る(福富草紙、15世紀、クリーブランド博物館https://scrolls.uchicago.edu/view-scroll/138をトリミング)
万100番歌は、東の人が都まで遠路はるばる荷物を運ぶ、そのためには棄損しないように箱に入れて運ぶのだが、そのとき、担い棒の先につけた荷の箱をとめる紐がぐるぐるに回し渡されるように、ちょっとやそっとでは外れないように彼女は私の心に乗って身を任せてしまったことだなあ、と歌っている。何重にも「緒」をかけ渡しているということは、何度彼女に自分みたいなものでいいのかと問うても「諾」と答えてくる、そういう状況であることを表している(注6)。万1896番歌は、春になるとしだれて芽吹く柳の枝のたわむように、彼女は私の心に乗って身を任せ、ブランコ状態でいることよ、と歌っている。体格のいい男性と小柄な女性がくり広げる夜のスポーツを思い起こさせる。「とをを」とあって、ここでも「諾」の声が聞こえている。万2427番歌は、宇治川の瀬ごとに折り重なってどんどん寄せてくる波のように、絶えることなく彼女は私の心に身を任せ及んだことだなあ、と歌っている。声をあげて歌われた歌なのだから、「瀬々」のしき波とは、「背々」のしき波、すなわち、ねえあなた、ねえあなた、とくり返し呼びかけてくる女性の声を喩えている。万2748番歌は、大きな船に刈った葦を積み、ぎっしりと隙間がなくなるほどである。それほどまでに、彼女は私の心にすべて頼り切って乗ったことだなあ、と歌っている。葦は茅葺き家屋の屋根や家の周りにめぐらす垣根の材料だから、二人の新居を構える気でいっぱいだということである。万2749番歌は、駅制で駅に来るまでは馬に乗り、次の駅からはまた馬に乗るが、その間に遮っている川を、引船を渡して船の乗って乗物に乗りっぱなしである、それほどに彼女は私の心に頼り切ってずっと乗ってしまっていることだなあ、と歌っている。万3174番歌は、漁をする海人の船檝の音がゆっくりではあるが着実にリズムを刻んで響き続くように、彼女は私の心に着々と任せきって乗ったことだなあ、と歌っている。形容は序詞で完結していて、船檝の音と乗ることとは直接にはつながらないとする考え(注7)もあるが、メトロノームのように響く音を肌身近くに感じたことはないだろうか。相手の心臓の鼓動音である。とても官能的な隠喩のもとに「心に乗る」という表現を駆使するに至っている。
以上のように解釈することが、「乗る」という原義を捉えていて正しいと考える。彼女が私の心を占めた→私の心は彼女で夢中、という意味ではない。あくまでも、彼女の方が任せきるように全面的な信頼感をもって依存してきている。「妹」とあるからすべて男性が詠んだ歌である。女性の依頼心を見て取ることが可能であるが、ならば逆に、男性が母性的な女性に対して「心に乗りにけるかも」と言ったことがあるかといえば、万葉集には登場していない。一般的な傾向として、体格的に大きな男性に対して小さな女性が「乗る」と表現されることはあっても、その反対は歌の詞として不釣り合いに感じられる。そんな場合、「心は妹に寄りにけるかも」という表現が行われている(注8)。
秋の野の 尾花が末の 生ひ靡き 心は妹に 寄りにけるかも(万2242)
明日香川 瀬々の珠藻の うち靡き 情には妹に 因りにけるかも(万3267)
これらの歌中の「心」は作者の男性の心である。
以上、「心」に「乗る」といった場合の「乗る」の解釈の誤謬を正した。
(注)
(注1)白川1995.はまた、「国語の「のる」は、あるものにとりついて、それとともに移動し、その力を利用する意がある。「乗ずる」という語義に近い。」(同頁)と指摘している。この指摘は正しいのだから、すべての「乗る」例に適用できないか思慮を深める必要があった。古典基礎語辞典にも、「直接に物の上に位置をとり、身を預ける意。馬・車・船などの上または中に身を置いて、その動きに身をまかせること。また、その上にいて下の物を操る場合にもいう。「心に乗る」は、相手がいつも自分の心の上にいて、自分の心の動きを操ること、つまり自分が強く相手にひかれてとらわれている状態をいう。また、……」(957頁、この項、依田瑞穂)としていて、語釈にまとまりがない。
(注2)多田2009b.に、「「心に乗る」は、相手のことで心が満たされてしまった状態の形容。」(371頁)、稲岡2006.に、「心に乗りかかって離れないことを言うのであろう。」(397頁)、水島1986.に、「深く心にかかって。相手のことが自分の心から離れないのである。」(325頁)、古典大系本aに、「心にかかって。」(297頁)、古典大系本cに、「心を占めて。心を占領して。」(364頁)、新大系文庫本に、「「心に乗る」は、自分の心を完全に占めてしまう意。」(409頁)、新編全集本bに、「思ひ妻心に乗りて─愛する妻のことが自分の心に乗りかかって念頭から離れないことをいう。」(416頁)、古典集成本aに、「心にしっかりと食い込んで。」(327頁)、木下1983.に、「心ニ乗ルは、まるで相手が自分の心に覆いかぶさったように思われ、他事を顧みる余裕がないばかりであることをいう。」(322頁)、伊藤1996a.に、「心にしっかりと食いこんで。「心に乗る」は相手が心に乗っかって自分を独占してしまうことをいう。」(611頁)、伊藤1997.に、「「心に乗る」は心に乗っかって全体を支配する、の意。男が女の心についていう例に限られる。」(135頁)、阿蘇2006.に、「心に乗りて 思ほゆる 恋する相手のことで自分の心がいっぱいになる意。」(707頁)などとある。
(注3)万3278番歌は、前半の馬を飼って馬に乗って行くといった部分は男の歌と思しく、後半の床を敷いて待つのは女の歌と思しい。その点について議論があるが、ここではひとまず、「心に乗りて」は、女である「思ひ妻」が男の「心に乗」るものと解する。
(注4)万1398番歌は、実のところ今日の注釈書に理解が定まっていない。「乗りにし心」について諸書の指摘は次のとおりである。稲岡2002.に、「舟に乗って漕ぎ出した時のこころ。……新婚当初の気持ちを忘れぬ男の歌。」(267頁)、渡瀬1985.に、「船に乗って漕ぎに漕いだその折の良い心持。女と結ばれた時の気持の意を寓する。」(372頁)、多田2009a.に、「「乗る」は、こちらの意志とは無関係に、対象がおのずとこちらの心に依り憑いてしまう意。」(166頁)、古典大系本bに、「相手にひかれていつも気にかかっている心持。」(264頁)、新編全集本aに、「自分を信頼し任せきった彼女の心。」(273頁)、伊藤1996b.に、「いとしい女が荷物として乗りこんでしまって重荷となった心の状態。」(400頁)、古典集成本bに、「自分の心にしっかりと食い込んでしまって、忘れられない状態をいう。」(273頁)、阿蘇2008.に、「相手に引かれれていつも気にかかっている心持ち。相手が乗りかかったように、自分の心にしっかりと食込んでしまって、忘れられない状態をいう。」(391頁)とある。
(注5)鈴木1990.に、「自然物象が歌中にひきよせられたとき、それはもはや単なる外在的な自然なのではなく、心象的自然にほかならない。外界の素材に向かう精神の働きかけが、さらに内面において統一的に再構成される。かくしてこの対応構造は、イマジネーションというきわめて内面的な作用を意味する。結局、和歌におけるこの表現構造とは、イマジネーションに対して節度ある論理的な統制を加えていることになる。そして、外界の物象への独自な認識把提から、その物象は単なる現実とはむしろ対立的であり、そこに和歌は表現上一種の虚構の機構をもつことになる。」(74頁)とある。筆者には、その意味するところが十分に理解できない。自然科学者が言いそうな外在的な自然なるものが自然の観念として古代に存在したのであろうか。逆にまた、ひとりよがりのイマジネーションを繰り広げて精神異常者扱いされずに他の人と認識を共有できるものなのか。言葉とは何か、に思いを致せば、至極当たり前のことを理屈づけているにすぎない物言いである。「虚構の機構」でない和歌があるとすれば、単に凡作にすぎないのではないか。
(注6)大浦2008.に、「一〇〇番歌の「荷の緒」は荷前の荷を結い付ける緒であり、物象叙述に包摂されるようでありながら、「荷の緒にも」はその裏側の「しっかりと」の意を含み持って「乗りにけるかも」に係る修飾語として働き、物象部と心象部が解け合っているかのような様相を呈している。」(34頁)とする。そのように解釈した場合、ニモのモの文法的扱いはどのようなものなのか、筆者にはよくわからない。また、物象から心象への転換を可能ならしめている「共通認識」として祈年祭や春日祭の祝詞に見える諸国からの貢物の上進があったとし、「「荷前の箱の荷の緒」という物象も祈年祭の祝詞のような詞章を背負った物象と考えられるのであり、その場合「荷の緒にも」への転換の契機は「荷前」という物象そのものの持つ指標性の中に、既に存在していることになる。」(38頁)としている。
「荷の緒縛ひ堅めて」(延喜式・祝詞・祈年祭)という詞章は、それほど人口に膾炙したものであったのだろうか。集中にこの一首しか見られない点は不可解に映る。このような飛躍のある表現についての説明として不足を感じる。筆者はその祝詞が成立する基盤として、令制の荷前の制、調を山陵に供献するしきたりがあったものと考える。また、共通認識としては、万96~100番歌の歌群を通じた事柄として、別の事項を含めなければ真の理解に至らないと考える。拙稿「久米禅師と石川郎女の問答歌─万96~100番歌─について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/615e2f4ad282ce6158fd2bbdbddcd866参照。
(注7)北住1953.。
(注8)影山2017.に、「妹が心に乗りにけるかも」と「心は妹によりにけるかも」とを比較し、前者に豊かな表現力を見て取っている。そこに、「「乗る」動作と親和する事物の選択が多様にあったことが汎用を促進したものと解される」(300頁)とするが、表現を生成論から見る場合、船や馬に「乗る」ことが先にあり、その比喩として「心」に「乗る」と言っているのであって、それを反転させて何かを論じようとするのは倒錯に陥っていないだろうか。また、「「乗る」の意義を「ある物体の上方もしくは表面に別の物体(人)が移動する」と言い換えることが許されるならば、他者からも視覚的に認知可能な状態がこの動詞の示すところなので、内省的な「よる」との差異は鮮明になる。」(同頁)とするが、「乗る」の意義は、森田1989.の定義、「のる〔乗る 載る〕自動詞 ある事物(A)が他のもの(B)の上に位置し、Bに身をあずける。」のとおりであり、言い換えることは許されない。身をあずけるという点が、「乗る」の原義に深く根付いていることを弁えなければならない。表現方法の検討には、「心」に「乗る」という表現にひそむ内省性に着眼し、自分の心を対象化する表現方法である点にこそ脚光を当てるべきである。
(引用文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第1巻』笠間書院、2006年。
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影山2017. 影山尚之『歌のおこない─万葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。
北住1953. 北住敏夫「『萬葉集』における心情表現の特性─「心に乗る」「乗りにし心」といふいひ方について─」『萬葉』第7号、昭和28年4月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1953
木下1983. 木下正俊『萬葉集全注 巻第四』有斐閣、昭和58年。
古典集成本a 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集一』新潮社、昭和51年。
古典集成本b 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集二』新潮社、昭和53年。
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古典大系本b 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系5 萬葉集2』岩波書店、昭和34年。
古典大系本c 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系6 萬葉集3』岩波書店、昭和35年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集本a 小島憲之・木下正俊・東野治之校注訳『新編日本古典文学全集7 萬葉集2』小学館、1995年。
新編全集本b 小島憲之・木下正俊・東野治之校注訳『新編日本古典文学全集8 萬葉集3』小学館、1995年。
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多田2009a. 多田一臣『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
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水島1986. 水島義治『萬葉集全注 巻第十四』有斐閣、昭和61年。
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渡瀬1985. 渡瀬昌忠『萬葉集全注 巻七』有斐閣、昭和60年。
※本稿は、2018年4月稿の細かな誤りを2023年8月に正して補筆し、ルビ化したものである。