(承前)
(注1)
お練供養(迎講(むかえこう)、来迎会、迎接会(ごうしょうえ))がいつ頃から行われていたかについて、確かなところはわからない。文献としては、栄花物語(1024~1028頃)・巻第十五・うたがひに、「六波羅蜜寺、雲林院(うりむゐん)の菩提講などの折節の迎講などにもおぼし急がせ給ふ」、大日本国法華経験記(1040~1044頃)・巻下・八三に、「弥陀迎接の相を構へて、極楽荘厳の儀を顕すせり〈世に迎講と云ふ〉」などとある。そして、古事談(1212~1215頃)・巻三・二七に、「迎講は、恵心僧都の始め給ふ事也、三寸の小仏を脇足(けふそく)の上に立てて、脇足の足に緒を付けて、引き寄せ引き寄せして啼泣(ていきふ)し給ひけり。寛印供奉それを見て智発して、丹後の迎講をば始め行ふ。云々」とある。これら文献と、仮面の残存物などから、発起人として源信の名が取り沙汰されている。關信子「迎講・来迎会・ねり供養;主役の迎講阿弥陀像を中心に」龍谷大学龍谷ミュージアム・毎日新聞社・京都新聞社編『特別展 極楽へのいざない;練り供養をめぐる美術』(同社発行、2013年)に、「『迎講(むかえこう)』とは、後世『来迎会』『ねり供養』などと呼ばれる行事のもととなった野外・仮面・宗教劇で、恵心僧都源信(九四二~一〇一七)が始めた。……この[極楽往生の]一連の描写を脚本として演じたものが迎講であり、絵画化すると“阿弥陀聖衆来迎図”となる。迎講は、命が尽きてから極楽浄土で目が開くまでの不安に満ちた旅、この世からあの世への時空を越えて移り住むという壮大な旅の予行演習として、ベストセラー作家源信が考案したと考えられる」(134頁)と断定されている。平賀源内が土用の丑の日にウナギを食べる風習を作ったように、源信という仏教パフォーマンスのプロデューサーによって、お練供養という行事が新規に作り出されたとするのである。關先生のお考えをもう少し紹介すると、關信子『仏像歳時記』(東京堂出版、2013年)に次のようにある。
[岡山県牛窓の]弘法寺の行事は、先に見た木版画などに「踟供養(ねりくよう)」と書かれていることから、この名称が使われている。おもしろいのは、地元の方々が、この難しい「踟」の字を普通に誰でも読めると思っておられることで、行事の時期には「踟供養」と書いた幟(のぼり)がそこここに立つ。私が知る限り、現在もこの字を使っている所はほかに無い。しかし、一般によく目にする「練供養」は実は当て字(同音の漢字を借りた仮借)で、「踟供養」か「邌供養」が正しいのである。「踟」は、“たちもとほる”“ためらう”、「邌」は“おもむろ”“ゆっくり”という意味なので、迎講のゆっくり歩くという行為を的確に表している。當麻寺の行事をはじめ、歴史的にはこのどちらかが使われていた。弘法寺の行事は、[彦根のひおにゃんやディズニーランドのミッキーのような一種の着ぐるみで]阿弥陀像が出御されるという点でも、伝統的に忠実だが、名称の点でも伝統を守っているのである。(97頁)
大和では、この時期に、[當麻寺のほか]矢田寺や久米寺でも同様の行事が行われ、それらも「れんぞ」と呼ばれている。さらに、この時期に神社で行われる行事もれんぞと呼ばれており、れんぞは、春の野に出てお弁当を食べる農家の休日、と理解されていた。つまり、このような骨休めの時期に合わせて、人々を阿弥陀浄土へ誘(いざな)う行事が定着したと考えられる。れんぞの語源は、折口信夫説の「練道」ではなく、「連座」説を支持したい。(90~91頁)
源信は、……阿弥陀仏の一行があの世からこの世へ死者を迎えに来る「来迎」の有様を戸外で演じ、「往生」のための縁(よすが)にしようとした。それが、「迎講(むかえこう)」である。ちなみに、同じテーマを絵画化したものが「阿弥陀衆生(しゅうじゅ)来迎図」、通称「来迎図」である。(92頁)
源信が始めた頃の来迎劇は、主役の阿弥陀仏も、脇役の聖衆(観音菩薩や勢至菩薩をはじめとするもろもろの菩薩や比丘のこと。後世は二十五菩薩と呼ぶことが多い)も面をかぶり、仲間同士で演じ合うような小規模のものだったが、次第に専門の楽人が加わって楽器を演奏するなど、規模が拡大した。開催目的が、自分たちが往生を確信するためのイメージトレーニング、いわば臨終の予行演習から、布教へと変化し、娯楽性も加味されたのである。(92頁)
面を付けて橋の上を歩くのは危ない上に、菩薩に扮装した人の中には、「お迎え」を願って参加された高齢者もおられ、みな介添人に手を引かれている。(102頁)
とある。
筆者の疑問は言葉にある。ネリクヨウ、レンゾといった言葉は、どこからか誰からか言われ出して続いている。源信が創作して広めようとしたとすると、キャッチフレーズとして端的に一言でまとめなければ宣伝効果は薄れる。「迎講」と呼んだのか、「来迎会」と呼んだのか、「迎接会」と呼んだのか、それを民衆に理解させるために「お練供養」と訳したのか不明である。仮に発生を源信一人に負うとすると、広告代理店ならずとも、お祭りのタイトル名もあやふやではプロデューサーとしてどうなのであろうか。關先生は、当初は仲間同士で行う小規模なものと仮定されている。何によっておられるか、管見にして筆者にはわからない。また、誰がどのように大規模化させたのか、どのような史料があるのかわからない。美術史的な裏付けについても知らず、ご教示頂ければ幸いである。
他の文献では、今昔物語集(平安末期頃)・巻第十五、丹後国迎講を始めし聖人、往生せる語(こと)第廿三に、「[丹後の国の聖人、大江清定と云ふ其の国の]守(かみ)に値(あひ)て云はく、『此の国に迎講と云ふ事をなむ始めむと思ひ給ふるを、己が力一つにては難叶(かなへがた)くなむ侍る。然れば、此の事、力を令加(くはへしめ)給ひなむや』と」、また、拾遺往生伝(1111頃)・巻下・二六、永観伝にも、「これより先、中山の吉田寺において、迎接(がうせふ)の講を修せり。その菩薩の装束廿具、羅縠(らこく)錦綺を裁(た)ちて、丹青朱紫を施せり。これ乃ち、四方に馳せ求めて、年ごとに営み設けたるものなり」とあり、とても準備が大変なことを物語っている。フェスティバル実行委員会をたち上げて、首尾よく手配を重ねないと、なかなか滞りなくはできそうにない大行事である。源信というお坊さんが考えて実施した、と一括りで語ることは難しい。古事談の記事は鵜呑みにできないと考える。
關先生の解説の中に、ネリクヨウの漢字について触れられている。けれども、踟供養、練供養のいずれが適正な文字であるかと発想し、踟は、踟躕、たちもとほることを表すからそれが正しいというお考えは、逆言すれば、迎講のゆっくり歩くという行為をしか名称が表現しておらず、他の含みを残さない物言いになってしまう。地域差、時代差はあれ、それらの文字をいずれも使っていたこと、それを史実として平たく受け止めることが歴史研究の規準に従うことであろう。とりわけ、漢字を体系的に読めるわけではない一般民衆のことを考えるなら、ネリクヨウという音こそが、注目すべき対象なのではなかろうか。
さらに、レンゾという言葉に至っては、民俗宗教との習合や、民衆の知恵のもつれのようなことがあったと想定しなければ、およそ現れない言葉といえる。その場合、關先生もお考えのとおり、レンゾという謎の言葉が後から生れたとは考えにくい。レンゾという風習にかぶさる形でお練供養は行われたか、人々がお練供養をレンゾと言い当てたその呼称であると考えるのが妥当であろう。語源説は反証が不可能な形而上学のため、何を言っても許される。しかし、「連座」とは同席に連なり座ることも指すものの、令義解・獄令・公坐相連条に、「凡そ公坐相連(くざさうれん)。〈謂はく、律に依る。同司、公坐を犯す者は、即ち四等連坐に為(つく)れといふ〉」とある。皆で休めば怖くないという屁理屈をもって春の休日の名に選んだと考えるのは、センスが悪いので筆者にはもやもやしたものが残る。福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄編『日本民俗大辞典 下』(吉川弘文館、2000年)に、浦西勉先生の「れんぞ」の解説が載る。
奈良盆地を中心にして行われる春先の農休みのこと。れんどとも呼ぶ。地域によって日が異なるが、大体三月から五月にかけての特定の一日を休みとする。たいてい、その地域の寺社の祭礼に合わせてれんぞの日が決まっている。たとえば法隆寺れんぞは三月二十二日、おおやまとれんぞは四月一日、神武さんれんぞは四月三日、三輪れんぞは四月九日、お大師さんれんぞは四月二十一日、矢田れんぞは四月二十三・二十四日、八十八夜れんぞは五月二日、久米れんぞは五月八日、当麻れんぞは五月十四日である。これらはすべて寺社の祭礼の日に因んで広域にわたり、農休みとしている。特に当麻れんぞは、当麻寺にて二十五菩薩が極楽堂から娑婆堂へ行列する来迎練供養(らいごうねりくよう)と呼ばれる行事がある。れんぞということばは、一説にはこの練供養のなまったものではないかといわれる。このれんぞの日、親戚に御馳走したり、餅や団子をこしらえて持って行ったりする。また、嫁入りした者は、夫や子供を連れて里帰りもする。また、この日の餅を「れんぞの苦餅(にがもち)」とも呼び、これからいよいよ水田の苦労が待ち受けているためにこう呼ぶ。水田の耕作が始まろうとする一つの節目で、このようにれんぞということばで明確に水田耕作の開始を意識する地方も珍しい。(814頁)
当麻寺に関しては、当麻曼荼羅(浄土変相図・観経曼荼羅)は、綴織りのため中国唐時代、8世紀の伝来品である可能性が濃厚とされる。尾形充彦「綴織當麻曼荼羅図の織り組織について」奈良国立博物館編『特別展 當麻寺;浄土へのあこがれ』奈良国立博物館・読売新聞社、平成25年)に、「當麻曼荼羅が綴織りであることを追確認し、織組織を二十倍のマイクロスコープで観察調査して、正倉院裂と比較することによって、中国中原の優れた技術で作られた渡来品であると判断した。この、絹糸遣いが優れている絵画のように精緻な大型の綴織りは、八世紀の末頃に中国で製作され日本へ将来されたと考えられる」(244頁)とある。浄土教自体は、中国では晋代に、廬山の慧遠(334~416)による白蓮社に多数の信奉者を得ている。仏典では、無量寿経・阿弥陀如来四十八願、来迎引接願、観無量寿経・阿弥陀如来十六願に、九品来迎が記される。浄土教の考えを図解した綴織当麻曼荼羅将来以降、当麻寺に、今日見られるようなお練供養が行われるようになったとされる。ただし、いわゆる「お迎え」など、ほんまかいなと思う人も、お祭り好きなら参加するであろう。また、この世からあの世への“引っ越し”(橋渡り)に関心を集約させられるほど、浄土教的な考えが一般に根づいていたと言い切れるとも思われない。民衆の大多数が浄土思想に洗脳されていたとは考えにくいのである。皆がどっぷり浸っていたのなら、逆に布教目的の来迎図は要らないのではなかろうか。
むろん、浄土教の思想、「厭離穢土、欣求浄土」の考えは流行っていたと認められる。おそらく、法華経も華厳経も流行っていたのであろう。そうなると、流行り廃りの問題であるとも思われる。死ぬのが嫌であるとか、怖いとか、地獄へ行くのは勘弁してほしいというのは肌感覚としてわかるが、病気や怪我、災害が今日とは比べ物にならないほど日常茶飯事であった時代にあって、極楽へ行きたいとは願っても、それは行ければいいのであって、その途中の“引っ越し”(渡り方)に焦点が絞られる点が腑に落ちない。關先生の仰る「この世からあの世への時空を越えて移り住むという壮大な旅」とは、死出の旅路、冥途の旅(last journey)のことであろう。ヤマトコトバのタビ(旅・羈旅)の原義は、それを含むものではない。last journey が練り歩くような鈍行である点についても、不勉強で納得が行かない。中世には、古代にあの世へ往くのに使っていた、古墳に見られる埴輪の馬には乗れなくなったということであろうか。しかし、中世に舎人は殉死したのであろうか。
我が国に伝来した仏教においても、阿弥陀仏による西方(さいほう)極楽浄土以外に、弥勒菩薩による兜率天(とそつてん)浄土、釈迦による霊山(りょうぜん)浄土、維摩居士による妙喜(みょうぎ)浄土、観音による補陀落浄土などといろいろである。なぜ極楽浄土がもてはやされたかについては、多くの議論が行われているので省略する。それらの観念を受け入れて信じたかどうかについて、何を以て信じていたことの証左とするのかは、実は確かではないように感じられる。奈良時代以降に発願した写経は多く残り、それによって功徳を積むことになったとの見解もかなり正しいのであろう。しかし、字の書けない庶民レベルでどうであったか、なお不明である。
もともとの民俗宗教で他界観に近い形のものほど、わかりやすくて受け入れやすかったと推測されるが、それがはたして「常世国(とこよのくに)」と呼ばれるものであったのか、また、常世国とはどのようなものか、それもまた不明瞭である。記では、「少名毘古那神は、常世国に度(わた)りき」(記上)、「御毛沼命(みけぬのみこと)は、浪の穂を跳(ふ)みて常世国に渡り坐し」(記上)、「名は多遅摩毛理(たぢまもり)を以て、常世国に遣して、ときじくのかくの木実(このみ)を求めしめき」(垂仁記)などとある。「常世」としては、「常世の長鳴鳥」(記上)、「常世の思金神」(記上)などともある。また、皇極紀三年七月条には、アゲハの幼虫を「常世の神」と崇めた似非宗教の逸話が載る。万葉集では、万650番歌の「大伴宿禰三依の離(さか)りてまた逢ふを歓ぶ歌一首」に、「常世国」、万1740・1741番歌の「水江(みづのえ)の浦島の子を詠める一首併せて短歌」に、「常世」、「常世辺(とこよへ)」とある。それらが、今日一般にいわれる“あの世”のことなのか、よくわからない。時間はかかっているが、還ってきてしまっているからである。
田道間守(たぢまもり)、是に泣(いさ)ち悲歎(なげ)きて曰(まを)さく、「命(おほみこと)を天朝(みかど)に受(うけたまは)りて、遠くより絶域(はるかくに)に往(まか)る。万里(とほ)く浪を蹈(ほ)みて、遥(はるか)に弱水(よわのみづ)を度(わた)る。是の常世国は、神仙(ひじり)の秘区(かくれたるくに)、俗(ただひと)の臻(いた)らむ所に非ず。是を以て、往来(ゆきかよ)ふ間に、自づかに十年に経(な)りぬ。豈期(おも)ひきや、独り峻(たか)き瀾(なみ)を凌ぎて、更(また)本土(もとのくに)に向(まうでこ)むといふことを。然るに、聖帝(ひじりのみかど)の神霊(みたまのふゆ)に頼りて、僅(わづか)に還り来(まうく)ること得たり。……」とまをす。(垂仁紀九十九年明年三月条)
多遅摩毛理(田道間守)の「往来」とは、journey ではなく、travel なのであろうか。これを脚本とした橋渡り行事は、管見にして知らない。それでも、行って還ってくる逸話には、お練供養と共通点があるような気がする。
五来重「二十五菩薩練供養と『生まれかわり』」『五来重著作集8 宗教歳時史』(法蔵館、2009年)では、「迎講というのは、はじめは生きた人の長寿と健康と安楽死と、そして死後の往生を願うものであった。これが浄土教の浸透とともに死者の往生だけになり、近世・近代にはショー化してしまった。……大和の人々が『当麻のレンゾ』に物に憑かれたように集まっていくのも、この古い迎講の擬死再生に結縁して現世の幸福や来世の安楽をねがった、祖先以来の心意伝承にうながされたものと私は見ている」(97頁)、「当麻寺縁起と中将姫説話」『五来重著作集4 寺社縁起と伝承文化』(法蔵館、2008年)では、「従来、恵心僧都が始めたとか、丹後天橋立の普甲寺の僧がはじめたとか、二河白道が元であるとかいわれたこの儀礼も、その源は日本固有宗教の山岳信仰にある。たまたま当麻寺には当麻曼荼羅があったためにこれが浄土教化して、迎講の形をとったのである。しかしその宗教意識はあくまでも擬死再生で、いまも厄年のものが菩薩の衣装と面をつけて橋がかり往来すれば、厄が落ちるという滅罪信仰がある。これが平安時代には曼陀羅道にはいって蓮座に乗って坐り、光背を立ててもらえば、『往生した』という擬死儀礼を表現したとおもわれる。これを平安時代と推定できるのは、発見された多数の蓮座と光背が、平安中期または末期の様式をもっているからにほかならない。しかしここで光背が擬往生者の背に立てられたのは、むしろ山岳信仰で教理化された即身成仏の表現ではなかったかともおもわれる」(67~68頁)というお考えを唱えられている。さらに、五来重『日本人の地獄と極楽』(吉川弘文館、2013年)には次のようにまとめられている。
当麻寺には白鳳の仏像、天平の建築や曼荼羅があるのに、藤原時代の文献にあらわれない不思議な寺である。藤原時代に入れば外護者の当麻氏はおとろえたが、それに代る支持者がなければ、鎌倉時代まで存続することはできなかったであろうし、いわんや現在われわれがこの寺や曼荼羅を見ることはなかったであろう。その支持者はおそらく記録をのこさぬ聖(ひじり)や庶民であったらしく、その信仰の遺品とおぼしきいものが曼荼羅堂の屋根裏にのこっていた。それらは、平安中期と推定される立像用船型挙身光背六十面と、坐像用挙身光背十面と台座三十台ほどであった。これらには枘穴(ほぞあな)がないので仏像の光背や台座でないことはあきらかである。文字がついてないから、その形態や類似の儀礼から類推するほかはないが、これを当麻寺の迎講(むかえこう)と関連づけるならば、往生者または成仏者がこの上に坐る儀礼があったことを想定される。……平安中期の光背と台座は、橋掛りをわたって曼荼羅堂へ入った信者が、蓮台座に坐り、光背を立てられて往生者となる儀礼にもちいられたものであろうと思われる。これは逆修(ぎゃくしゅ)という儀礼に相当するもので、生きているあいだに一旦死んだことにして葬式供養をおこない、それから再生すれば、一切の罪穢は消滅して、健康で長生きするばかりでなく、死ねば往生疑いなしという信仰であった。私はこれを擬死再生(ぎしさいせい)儀礼と名づけているが、迎講では彼岸に極楽浄土がなければならないので、曼荼羅堂や阿弥陀堂がこれにあてられたのである。(43~44頁)
筆者は、この議論について、「常世国」との関係から魅力を感じるものの、その信憑性については別に論ずることにしたい。お練供養の行列は、もともと、本堂、娑婆堂のどちらを出発点にしてどちらを折り返し点にしていたのか、記録にわからない。五来先生のご指摘では、あるときから逆転したということなのであろうか。
いずれにせよ、諸々総合して考えると、源信一人の手によってお練供養が創作されて人々の間に定着していったとする言説は、かなり怪しいと言わざるを得ない。人々の価値観、世界観が一世代の間にドラスティックに変わる現代とは違い、また、カルト宗教でもなさそうなので、かりそめにも他界観を含んだ宗教劇が、すぐに馴染んでいくとは考えにくい。生真面目な考察はそぐわないように思われる。お練供養みたいな劇場参加型の村祭りをたまたま企画したら、面白いから来年もまたやろうということになった。その程度の、いわば自然発生的な経緯を含めて考えるべき事柄ではなかろうか。何かしら人々に“受ける”ドラマと思われたから、お金を払ってまで演じたいと感じられたのであろうし、しらけて引いてしまうこともなく連綿と続けられてきたのであろう。宗教哲学を大上段に振りかざして国分寺・国分尼寺跡が各国に残った、というのと異なり、なぜか列島のなかに点々と残っているに過ぎない不思議なお祭りである。人々に何が受けたのかが、探求されてしかるべき要点である。
当麻寺に関しては、宗派が真言宗と浄土宗の並立になっていることや、開山が聖徳太子の異母弟の麻呂古王と伝えられている点、金堂にはみごとな弥勒仏坐像が安置され、奈良時代建立の東塔、奈良~平安時代建立の西塔がそびえるなど、整理のつかない点が多い。本尊の綴織当麻曼荼羅は、観無量寿経を絵解きした変相図であるとされている。中央に阿弥陀浄土図、左端に韋提希婦人(いだいけぶにん)が釈迦に極楽浄土を願う物語(序分義)、右端に極楽浄土を阿弥陀如来を観想するための十三の方法(定善義)、下端に生前の行いによって分かれる九品九生の極楽浄土(散善義)ならびに縁起文が描かれている。唐代の善導(613~681)の著した観無量寿経疏の考えと一致するとされている。周囲にめぐらされたコママンガがそれを示している。主眼は絵解きにあるのではなく、阿弥陀浄土を“観想”するための曼荼羅である。すなわち、実際に死んでいく際に「お迎え」が来るところを表した阿弥陀来迎図、山越阿弥陀図、二十五菩薩来迎図などとは絵のモチーフが異なる。来迎引接の劇的な瞬間を描いて強くアピールするものではない。お面をかぶって行列して行うパフォーマンスと、実のところ直接にはつながらない曼荼羅ということになる。
中野政樹・平田寛・関口正之編著『日本美術全集第7巻 曼陀羅と来迎図;平安の絵画・工芸Ⅰ』(講談社、1991年)に、百橋明穂先生の解説文として、「日本では浄土教の広がりとともに、観経変の中でも九品往生の説話が大きく取り上げられて来迎図(らいごうず)として発展したが、やがて鎌倉時代に入り、浄土宗西山派の証空(しょうくう)(1177~1247)などがこの当麻曼陀羅の存在を大きく取り上げて宣揚し、図像解説書や『当麻曼陀羅縁起』なども作られて、再び大いに流布転写されるようになった」(221頁)と指摘されている。縮刷版が出回った。お練供養を跡づける来迎図と、当麻曼荼羅図とは、歴史的に見ても図像として別の流れである。来迎の考えと無関係に、はなから当麻曼荼羅は拝まれていたに違いあるまい(補注1)。そこへにわかに迎講が行われることとなった。そう考えると、レンゾという言葉は蓮華座をいう「蓮座」説もありうることになるが、筆者の関心の中心は漢字音にではなく、ヤマトコトバの音にある。
当麻曼荼羅図と、その部分(鎌倉時代、14世紀、東博展示品、人見楽子氏寄贈)
当麻曼荼羅図(絹本着色、鎌倉時代、14世紀、東博展示品)
この当麻曼荼羅図をよくよくみると、とても四角い。周囲はコマ漫画である。人見楽子氏寄贈東博本の場合は、さらにその外側に結縁者の記名欄もあるが、右側途中で終っている。中央の一全体図は、智光曼荼羅や清海曼荼羅と呼ばれる浄土変相図の類種ではあるが、中央の阿弥陀三尊像の、まわりに控えている34菩薩像の描かれ方が気になる。たくさんの菩薩が描かれていてとても賑やかである。菩薩たちの姿は、三尊同様、お顔やはだけた上半身は黄金色に塗られている。綴織当麻曼荼羅の金糸使いを、金泥を使って模写したところが当麻曼荼羅図の新しさなのであろう。頭髪や着衣、輪郭、背景はそれに対比して暗色に描かれており、全体的にみると縦縞模様になっている。菩薩たちは顔を右に左に向け、また、上体までも傾けくねらせており、互いに話をしている様が動的に描かれている。倶会楽を表しているのであろう。その結果、三尊の周りを黄と黒の縦縞模様のトラが周回しているように見えてくる。菩薩の一躰一躰も頭を振り振りしているようで、トラに見立てられる。ヘレン・バンナーマンの『ちびくろサンボ』にある、トラが椰子の木の周りを回ってバターができましたという話を思い出させる。ぐるぐるまわる光景は、色彩を別にすれば、踊念仏にも近しい。
踊念仏(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、180頁より)(つづく)
(注1)
お練供養(迎講(むかえこう)、来迎会、迎接会(ごうしょうえ))がいつ頃から行われていたかについて、確かなところはわからない。文献としては、栄花物語(1024~1028頃)・巻第十五・うたがひに、「六波羅蜜寺、雲林院(うりむゐん)の菩提講などの折節の迎講などにもおぼし急がせ給ふ」、大日本国法華経験記(1040~1044頃)・巻下・八三に、「弥陀迎接の相を構へて、極楽荘厳の儀を顕すせり〈世に迎講と云ふ〉」などとある。そして、古事談(1212~1215頃)・巻三・二七に、「迎講は、恵心僧都の始め給ふ事也、三寸の小仏を脇足(けふそく)の上に立てて、脇足の足に緒を付けて、引き寄せ引き寄せして啼泣(ていきふ)し給ひけり。寛印供奉それを見て智発して、丹後の迎講をば始め行ふ。云々」とある。これら文献と、仮面の残存物などから、発起人として源信の名が取り沙汰されている。關信子「迎講・来迎会・ねり供養;主役の迎講阿弥陀像を中心に」龍谷大学龍谷ミュージアム・毎日新聞社・京都新聞社編『特別展 極楽へのいざない;練り供養をめぐる美術』(同社発行、2013年)に、「『迎講(むかえこう)』とは、後世『来迎会』『ねり供養』などと呼ばれる行事のもととなった野外・仮面・宗教劇で、恵心僧都源信(九四二~一〇一七)が始めた。……この[極楽往生の]一連の描写を脚本として演じたものが迎講であり、絵画化すると“阿弥陀聖衆来迎図”となる。迎講は、命が尽きてから極楽浄土で目が開くまでの不安に満ちた旅、この世からあの世への時空を越えて移り住むという壮大な旅の予行演習として、ベストセラー作家源信が考案したと考えられる」(134頁)と断定されている。平賀源内が土用の丑の日にウナギを食べる風習を作ったように、源信という仏教パフォーマンスのプロデューサーによって、お練供養という行事が新規に作り出されたとするのである。關先生のお考えをもう少し紹介すると、關信子『仏像歳時記』(東京堂出版、2013年)に次のようにある。
[岡山県牛窓の]弘法寺の行事は、先に見た木版画などに「踟供養(ねりくよう)」と書かれていることから、この名称が使われている。おもしろいのは、地元の方々が、この難しい「踟」の字を普通に誰でも読めると思っておられることで、行事の時期には「踟供養」と書いた幟(のぼり)がそこここに立つ。私が知る限り、現在もこの字を使っている所はほかに無い。しかし、一般によく目にする「練供養」は実は当て字(同音の漢字を借りた仮借)で、「踟供養」か「邌供養」が正しいのである。「踟」は、“たちもとほる”“ためらう”、「邌」は“おもむろ”“ゆっくり”という意味なので、迎講のゆっくり歩くという行為を的確に表している。當麻寺の行事をはじめ、歴史的にはこのどちらかが使われていた。弘法寺の行事は、[彦根のひおにゃんやディズニーランドのミッキーのような一種の着ぐるみで]阿弥陀像が出御されるという点でも、伝統的に忠実だが、名称の点でも伝統を守っているのである。(97頁)
大和では、この時期に、[當麻寺のほか]矢田寺や久米寺でも同様の行事が行われ、それらも「れんぞ」と呼ばれている。さらに、この時期に神社で行われる行事もれんぞと呼ばれており、れんぞは、春の野に出てお弁当を食べる農家の休日、と理解されていた。つまり、このような骨休めの時期に合わせて、人々を阿弥陀浄土へ誘(いざな)う行事が定着したと考えられる。れんぞの語源は、折口信夫説の「練道」ではなく、「連座」説を支持したい。(90~91頁)
源信は、……阿弥陀仏の一行があの世からこの世へ死者を迎えに来る「来迎」の有様を戸外で演じ、「往生」のための縁(よすが)にしようとした。それが、「迎講(むかえこう)」である。ちなみに、同じテーマを絵画化したものが「阿弥陀衆生(しゅうじゅ)来迎図」、通称「来迎図」である。(92頁)
源信が始めた頃の来迎劇は、主役の阿弥陀仏も、脇役の聖衆(観音菩薩や勢至菩薩をはじめとするもろもろの菩薩や比丘のこと。後世は二十五菩薩と呼ぶことが多い)も面をかぶり、仲間同士で演じ合うような小規模のものだったが、次第に専門の楽人が加わって楽器を演奏するなど、規模が拡大した。開催目的が、自分たちが往生を確信するためのイメージトレーニング、いわば臨終の予行演習から、布教へと変化し、娯楽性も加味されたのである。(92頁)
面を付けて橋の上を歩くのは危ない上に、菩薩に扮装した人の中には、「お迎え」を願って参加された高齢者もおられ、みな介添人に手を引かれている。(102頁)
とある。
筆者の疑問は言葉にある。ネリクヨウ、レンゾといった言葉は、どこからか誰からか言われ出して続いている。源信が創作して広めようとしたとすると、キャッチフレーズとして端的に一言でまとめなければ宣伝効果は薄れる。「迎講」と呼んだのか、「来迎会」と呼んだのか、「迎接会」と呼んだのか、それを民衆に理解させるために「お練供養」と訳したのか不明である。仮に発生を源信一人に負うとすると、広告代理店ならずとも、お祭りのタイトル名もあやふやではプロデューサーとしてどうなのであろうか。關先生は、当初は仲間同士で行う小規模なものと仮定されている。何によっておられるか、管見にして筆者にはわからない。また、誰がどのように大規模化させたのか、どのような史料があるのかわからない。美術史的な裏付けについても知らず、ご教示頂ければ幸いである。
他の文献では、今昔物語集(平安末期頃)・巻第十五、丹後国迎講を始めし聖人、往生せる語(こと)第廿三に、「[丹後の国の聖人、大江清定と云ふ其の国の]守(かみ)に値(あひ)て云はく、『此の国に迎講と云ふ事をなむ始めむと思ひ給ふるを、己が力一つにては難叶(かなへがた)くなむ侍る。然れば、此の事、力を令加(くはへしめ)給ひなむや』と」、また、拾遺往生伝(1111頃)・巻下・二六、永観伝にも、「これより先、中山の吉田寺において、迎接(がうせふ)の講を修せり。その菩薩の装束廿具、羅縠(らこく)錦綺を裁(た)ちて、丹青朱紫を施せり。これ乃ち、四方に馳せ求めて、年ごとに営み設けたるものなり」とあり、とても準備が大変なことを物語っている。フェスティバル実行委員会をたち上げて、首尾よく手配を重ねないと、なかなか滞りなくはできそうにない大行事である。源信というお坊さんが考えて実施した、と一括りで語ることは難しい。古事談の記事は鵜呑みにできないと考える。
關先生の解説の中に、ネリクヨウの漢字について触れられている。けれども、踟供養、練供養のいずれが適正な文字であるかと発想し、踟は、踟躕、たちもとほることを表すからそれが正しいというお考えは、逆言すれば、迎講のゆっくり歩くという行為をしか名称が表現しておらず、他の含みを残さない物言いになってしまう。地域差、時代差はあれ、それらの文字をいずれも使っていたこと、それを史実として平たく受け止めることが歴史研究の規準に従うことであろう。とりわけ、漢字を体系的に読めるわけではない一般民衆のことを考えるなら、ネリクヨウという音こそが、注目すべき対象なのではなかろうか。
さらに、レンゾという言葉に至っては、民俗宗教との習合や、民衆の知恵のもつれのようなことがあったと想定しなければ、およそ現れない言葉といえる。その場合、關先生もお考えのとおり、レンゾという謎の言葉が後から生れたとは考えにくい。レンゾという風習にかぶさる形でお練供養は行われたか、人々がお練供養をレンゾと言い当てたその呼称であると考えるのが妥当であろう。語源説は反証が不可能な形而上学のため、何を言っても許される。しかし、「連座」とは同席に連なり座ることも指すものの、令義解・獄令・公坐相連条に、「凡そ公坐相連(くざさうれん)。〈謂はく、律に依る。同司、公坐を犯す者は、即ち四等連坐に為(つく)れといふ〉」とある。皆で休めば怖くないという屁理屈をもって春の休日の名に選んだと考えるのは、センスが悪いので筆者にはもやもやしたものが残る。福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄編『日本民俗大辞典 下』(吉川弘文館、2000年)に、浦西勉先生の「れんぞ」の解説が載る。
奈良盆地を中心にして行われる春先の農休みのこと。れんどとも呼ぶ。地域によって日が異なるが、大体三月から五月にかけての特定の一日を休みとする。たいてい、その地域の寺社の祭礼に合わせてれんぞの日が決まっている。たとえば法隆寺れんぞは三月二十二日、おおやまとれんぞは四月一日、神武さんれんぞは四月三日、三輪れんぞは四月九日、お大師さんれんぞは四月二十一日、矢田れんぞは四月二十三・二十四日、八十八夜れんぞは五月二日、久米れんぞは五月八日、当麻れんぞは五月十四日である。これらはすべて寺社の祭礼の日に因んで広域にわたり、農休みとしている。特に当麻れんぞは、当麻寺にて二十五菩薩が極楽堂から娑婆堂へ行列する来迎練供養(らいごうねりくよう)と呼ばれる行事がある。れんぞということばは、一説にはこの練供養のなまったものではないかといわれる。このれんぞの日、親戚に御馳走したり、餅や団子をこしらえて持って行ったりする。また、嫁入りした者は、夫や子供を連れて里帰りもする。また、この日の餅を「れんぞの苦餅(にがもち)」とも呼び、これからいよいよ水田の苦労が待ち受けているためにこう呼ぶ。水田の耕作が始まろうとする一つの節目で、このようにれんぞということばで明確に水田耕作の開始を意識する地方も珍しい。(814頁)
当麻寺に関しては、当麻曼荼羅(浄土変相図・観経曼荼羅)は、綴織りのため中国唐時代、8世紀の伝来品である可能性が濃厚とされる。尾形充彦「綴織當麻曼荼羅図の織り組織について」奈良国立博物館編『特別展 當麻寺;浄土へのあこがれ』奈良国立博物館・読売新聞社、平成25年)に、「當麻曼荼羅が綴織りであることを追確認し、織組織を二十倍のマイクロスコープで観察調査して、正倉院裂と比較することによって、中国中原の優れた技術で作られた渡来品であると判断した。この、絹糸遣いが優れている絵画のように精緻な大型の綴織りは、八世紀の末頃に中国で製作され日本へ将来されたと考えられる」(244頁)とある。浄土教自体は、中国では晋代に、廬山の慧遠(334~416)による白蓮社に多数の信奉者を得ている。仏典では、無量寿経・阿弥陀如来四十八願、来迎引接願、観無量寿経・阿弥陀如来十六願に、九品来迎が記される。浄土教の考えを図解した綴織当麻曼荼羅将来以降、当麻寺に、今日見られるようなお練供養が行われるようになったとされる。ただし、いわゆる「お迎え」など、ほんまかいなと思う人も、お祭り好きなら参加するであろう。また、この世からあの世への“引っ越し”(橋渡り)に関心を集約させられるほど、浄土教的な考えが一般に根づいていたと言い切れるとも思われない。民衆の大多数が浄土思想に洗脳されていたとは考えにくいのである。皆がどっぷり浸っていたのなら、逆に布教目的の来迎図は要らないのではなかろうか。
むろん、浄土教の思想、「厭離穢土、欣求浄土」の考えは流行っていたと認められる。おそらく、法華経も華厳経も流行っていたのであろう。そうなると、流行り廃りの問題であるとも思われる。死ぬのが嫌であるとか、怖いとか、地獄へ行くのは勘弁してほしいというのは肌感覚としてわかるが、病気や怪我、災害が今日とは比べ物にならないほど日常茶飯事であった時代にあって、極楽へ行きたいとは願っても、それは行ければいいのであって、その途中の“引っ越し”(渡り方)に焦点が絞られる点が腑に落ちない。關先生の仰る「この世からあの世への時空を越えて移り住むという壮大な旅」とは、死出の旅路、冥途の旅(last journey)のことであろう。ヤマトコトバのタビ(旅・羈旅)の原義は、それを含むものではない。last journey が練り歩くような鈍行である点についても、不勉強で納得が行かない。中世には、古代にあの世へ往くのに使っていた、古墳に見られる埴輪の馬には乗れなくなったということであろうか。しかし、中世に舎人は殉死したのであろうか。
我が国に伝来した仏教においても、阿弥陀仏による西方(さいほう)極楽浄土以外に、弥勒菩薩による兜率天(とそつてん)浄土、釈迦による霊山(りょうぜん)浄土、維摩居士による妙喜(みょうぎ)浄土、観音による補陀落浄土などといろいろである。なぜ極楽浄土がもてはやされたかについては、多くの議論が行われているので省略する。それらの観念を受け入れて信じたかどうかについて、何を以て信じていたことの証左とするのかは、実は確かではないように感じられる。奈良時代以降に発願した写経は多く残り、それによって功徳を積むことになったとの見解もかなり正しいのであろう。しかし、字の書けない庶民レベルでどうであったか、なお不明である。
もともとの民俗宗教で他界観に近い形のものほど、わかりやすくて受け入れやすかったと推測されるが、それがはたして「常世国(とこよのくに)」と呼ばれるものであったのか、また、常世国とはどのようなものか、それもまた不明瞭である。記では、「少名毘古那神は、常世国に度(わた)りき」(記上)、「御毛沼命(みけぬのみこと)は、浪の穂を跳(ふ)みて常世国に渡り坐し」(記上)、「名は多遅摩毛理(たぢまもり)を以て、常世国に遣して、ときじくのかくの木実(このみ)を求めしめき」(垂仁記)などとある。「常世」としては、「常世の長鳴鳥」(記上)、「常世の思金神」(記上)などともある。また、皇極紀三年七月条には、アゲハの幼虫を「常世の神」と崇めた似非宗教の逸話が載る。万葉集では、万650番歌の「大伴宿禰三依の離(さか)りてまた逢ふを歓ぶ歌一首」に、「常世国」、万1740・1741番歌の「水江(みづのえ)の浦島の子を詠める一首併せて短歌」に、「常世」、「常世辺(とこよへ)」とある。それらが、今日一般にいわれる“あの世”のことなのか、よくわからない。時間はかかっているが、還ってきてしまっているからである。
田道間守(たぢまもり)、是に泣(いさ)ち悲歎(なげ)きて曰(まを)さく、「命(おほみこと)を天朝(みかど)に受(うけたまは)りて、遠くより絶域(はるかくに)に往(まか)る。万里(とほ)く浪を蹈(ほ)みて、遥(はるか)に弱水(よわのみづ)を度(わた)る。是の常世国は、神仙(ひじり)の秘区(かくれたるくに)、俗(ただひと)の臻(いた)らむ所に非ず。是を以て、往来(ゆきかよ)ふ間に、自づかに十年に経(な)りぬ。豈期(おも)ひきや、独り峻(たか)き瀾(なみ)を凌ぎて、更(また)本土(もとのくに)に向(まうでこ)むといふことを。然るに、聖帝(ひじりのみかど)の神霊(みたまのふゆ)に頼りて、僅(わづか)に還り来(まうく)ること得たり。……」とまをす。(垂仁紀九十九年明年三月条)
多遅摩毛理(田道間守)の「往来」とは、journey ではなく、travel なのであろうか。これを脚本とした橋渡り行事は、管見にして知らない。それでも、行って還ってくる逸話には、お練供養と共通点があるような気がする。
五来重「二十五菩薩練供養と『生まれかわり』」『五来重著作集8 宗教歳時史』(法蔵館、2009年)では、「迎講というのは、はじめは生きた人の長寿と健康と安楽死と、そして死後の往生を願うものであった。これが浄土教の浸透とともに死者の往生だけになり、近世・近代にはショー化してしまった。……大和の人々が『当麻のレンゾ』に物に憑かれたように集まっていくのも、この古い迎講の擬死再生に結縁して現世の幸福や来世の安楽をねがった、祖先以来の心意伝承にうながされたものと私は見ている」(97頁)、「当麻寺縁起と中将姫説話」『五来重著作集4 寺社縁起と伝承文化』(法蔵館、2008年)では、「従来、恵心僧都が始めたとか、丹後天橋立の普甲寺の僧がはじめたとか、二河白道が元であるとかいわれたこの儀礼も、その源は日本固有宗教の山岳信仰にある。たまたま当麻寺には当麻曼荼羅があったためにこれが浄土教化して、迎講の形をとったのである。しかしその宗教意識はあくまでも擬死再生で、いまも厄年のものが菩薩の衣装と面をつけて橋がかり往来すれば、厄が落ちるという滅罪信仰がある。これが平安時代には曼陀羅道にはいって蓮座に乗って坐り、光背を立ててもらえば、『往生した』という擬死儀礼を表現したとおもわれる。これを平安時代と推定できるのは、発見された多数の蓮座と光背が、平安中期または末期の様式をもっているからにほかならない。しかしここで光背が擬往生者の背に立てられたのは、むしろ山岳信仰で教理化された即身成仏の表現ではなかったかともおもわれる」(67~68頁)というお考えを唱えられている。さらに、五来重『日本人の地獄と極楽』(吉川弘文館、2013年)には次のようにまとめられている。
当麻寺には白鳳の仏像、天平の建築や曼荼羅があるのに、藤原時代の文献にあらわれない不思議な寺である。藤原時代に入れば外護者の当麻氏はおとろえたが、それに代る支持者がなければ、鎌倉時代まで存続することはできなかったであろうし、いわんや現在われわれがこの寺や曼荼羅を見ることはなかったであろう。その支持者はおそらく記録をのこさぬ聖(ひじり)や庶民であったらしく、その信仰の遺品とおぼしきいものが曼荼羅堂の屋根裏にのこっていた。それらは、平安中期と推定される立像用船型挙身光背六十面と、坐像用挙身光背十面と台座三十台ほどであった。これらには枘穴(ほぞあな)がないので仏像の光背や台座でないことはあきらかである。文字がついてないから、その形態や類似の儀礼から類推するほかはないが、これを当麻寺の迎講(むかえこう)と関連づけるならば、往生者または成仏者がこの上に坐る儀礼があったことを想定される。……平安中期の光背と台座は、橋掛りをわたって曼荼羅堂へ入った信者が、蓮台座に坐り、光背を立てられて往生者となる儀礼にもちいられたものであろうと思われる。これは逆修(ぎゃくしゅ)という儀礼に相当するもので、生きているあいだに一旦死んだことにして葬式供養をおこない、それから再生すれば、一切の罪穢は消滅して、健康で長生きするばかりでなく、死ねば往生疑いなしという信仰であった。私はこれを擬死再生(ぎしさいせい)儀礼と名づけているが、迎講では彼岸に極楽浄土がなければならないので、曼荼羅堂や阿弥陀堂がこれにあてられたのである。(43~44頁)
筆者は、この議論について、「常世国」との関係から魅力を感じるものの、その信憑性については別に論ずることにしたい。お練供養の行列は、もともと、本堂、娑婆堂のどちらを出発点にしてどちらを折り返し点にしていたのか、記録にわからない。五来先生のご指摘では、あるときから逆転したということなのであろうか。
いずれにせよ、諸々総合して考えると、源信一人の手によってお練供養が創作されて人々の間に定着していったとする言説は、かなり怪しいと言わざるを得ない。人々の価値観、世界観が一世代の間にドラスティックに変わる現代とは違い、また、カルト宗教でもなさそうなので、かりそめにも他界観を含んだ宗教劇が、すぐに馴染んでいくとは考えにくい。生真面目な考察はそぐわないように思われる。お練供養みたいな劇場参加型の村祭りをたまたま企画したら、面白いから来年もまたやろうということになった。その程度の、いわば自然発生的な経緯を含めて考えるべき事柄ではなかろうか。何かしら人々に“受ける”ドラマと思われたから、お金を払ってまで演じたいと感じられたのであろうし、しらけて引いてしまうこともなく連綿と続けられてきたのであろう。宗教哲学を大上段に振りかざして国分寺・国分尼寺跡が各国に残った、というのと異なり、なぜか列島のなかに点々と残っているに過ぎない不思議なお祭りである。人々に何が受けたのかが、探求されてしかるべき要点である。
当麻寺に関しては、宗派が真言宗と浄土宗の並立になっていることや、開山が聖徳太子の異母弟の麻呂古王と伝えられている点、金堂にはみごとな弥勒仏坐像が安置され、奈良時代建立の東塔、奈良~平安時代建立の西塔がそびえるなど、整理のつかない点が多い。本尊の綴織当麻曼荼羅は、観無量寿経を絵解きした変相図であるとされている。中央に阿弥陀浄土図、左端に韋提希婦人(いだいけぶにん)が釈迦に極楽浄土を願う物語(序分義)、右端に極楽浄土を阿弥陀如来を観想するための十三の方法(定善義)、下端に生前の行いによって分かれる九品九生の極楽浄土(散善義)ならびに縁起文が描かれている。唐代の善導(613~681)の著した観無量寿経疏の考えと一致するとされている。周囲にめぐらされたコママンガがそれを示している。主眼は絵解きにあるのではなく、阿弥陀浄土を“観想”するための曼荼羅である。すなわち、実際に死んでいく際に「お迎え」が来るところを表した阿弥陀来迎図、山越阿弥陀図、二十五菩薩来迎図などとは絵のモチーフが異なる。来迎引接の劇的な瞬間を描いて強くアピールするものではない。お面をかぶって行列して行うパフォーマンスと、実のところ直接にはつながらない曼荼羅ということになる。
中野政樹・平田寛・関口正之編著『日本美術全集第7巻 曼陀羅と来迎図;平安の絵画・工芸Ⅰ』(講談社、1991年)に、百橋明穂先生の解説文として、「日本では浄土教の広がりとともに、観経変の中でも九品往生の説話が大きく取り上げられて来迎図(らいごうず)として発展したが、やがて鎌倉時代に入り、浄土宗西山派の証空(しょうくう)(1177~1247)などがこの当麻曼陀羅の存在を大きく取り上げて宣揚し、図像解説書や『当麻曼陀羅縁起』なども作られて、再び大いに流布転写されるようになった」(221頁)と指摘されている。縮刷版が出回った。お練供養を跡づける来迎図と、当麻曼荼羅図とは、歴史的に見ても図像として別の流れである。来迎の考えと無関係に、はなから当麻曼荼羅は拝まれていたに違いあるまい(補注1)。そこへにわかに迎講が行われることとなった。そう考えると、レンゾという言葉は蓮華座をいう「蓮座」説もありうることになるが、筆者の関心の中心は漢字音にではなく、ヤマトコトバの音にある。
当麻曼荼羅図と、その部分(鎌倉時代、14世紀、東博展示品、人見楽子氏寄贈)
当麻曼荼羅図(絹本着色、鎌倉時代、14世紀、東博展示品)
この当麻曼荼羅図をよくよくみると、とても四角い。周囲はコマ漫画である。人見楽子氏寄贈東博本の場合は、さらにその外側に結縁者の記名欄もあるが、右側途中で終っている。中央の一全体図は、智光曼荼羅や清海曼荼羅と呼ばれる浄土変相図の類種ではあるが、中央の阿弥陀三尊像の、まわりに控えている34菩薩像の描かれ方が気になる。たくさんの菩薩が描かれていてとても賑やかである。菩薩たちの姿は、三尊同様、お顔やはだけた上半身は黄金色に塗られている。綴織当麻曼荼羅の金糸使いを、金泥を使って模写したところが当麻曼荼羅図の新しさなのであろう。頭髪や着衣、輪郭、背景はそれに対比して暗色に描かれており、全体的にみると縦縞模様になっている。菩薩たちは顔を右に左に向け、また、上体までも傾けくねらせており、互いに話をしている様が動的に描かれている。倶会楽を表しているのであろう。その結果、三尊の周りを黄と黒の縦縞模様のトラが周回しているように見えてくる。菩薩の一躰一躰も頭を振り振りしているようで、トラに見立てられる。ヘレン・バンナーマンの『ちびくろサンボ』にある、トラが椰子の木の周りを回ってバターができましたという話を思い出させる。ぐるぐるまわる光景は、色彩を別にすれば、踊念仏にも近しい。
踊念仏(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』中央公論社、1988年、180頁より)(つづく)