(承前)
当麻曼荼羅は、極楽浄土を観想するためにある。観想することで、極楽往生のよすがになると考えられている。さらに簡便にした浄土教の思想、信仰は、南無阿弥陀仏という六字名号(ろくじのみょうごう)を心に思い、口で唱えることである。念仏を行えば極楽往生できるとされている。「南無(なむ)」とは、それにつづける対象に、心から帰依して身も心もおすがりすること、帰命(きみょう)することである。霊異記・上・第三十に、「観音の名号と称礼して曰く、『南无(なむ)、銅銭万貫、白米万石、好き女(をみな)多(あまた)、徳施せよ』といふ」とある。今日でも、お仏壇の前でナームーと手を合わせてお参りしている。この南無習慣こそ、一般民衆を含めた多くの人々にとって、日本浄土教の真髄ではないかと筆者は考える。すべてはナムの話なのではないか。
ナムという語は、上代に、並(竝)の意と、嘗(舐)の意とがあった。並(竝)の用例は、万葉集に、「舟並(なめ)て」(万36)、「馬並て」(万239)、記に、「たたなめて」(記14歌謡)といった例が見られる。嘗(舐)の用例は、推古紀に「塩酢の味(あぢはひ)、口に在れども嘗めず」(推古紀二十九年二月条)などとある。当麻曼荼羅の菩薩たちは並んでいるし、宴会を催していて飲み食いしているようでもある。どうやら、ナムとは、酔っ払って頭を左右に揺らすトラ、それは、ネコの小さな体に大きな頭のついた動物についてよく表している言葉のようである。そしてまた、ナムという語は、皮をなめす(鞣・滑)という意味にも使われたのではないか。鞣し革の技法は、現在では薬品処理にて行われているが、のびしょうじ『皮革(かわ)の歴史と民俗』(解放出版社、2009年)によると、「獣皮加工の要点は(イ)腐敗防止 (ロ)柔軟化 (ハ)収縮変形防止にある。化学的には皮蛋白(コラーゲン蛋白質組織)の安定化、すなわち①膠質の除去、②脱脂にあった。しかしながら……前近代日本の皮革業は、今日でいう語の正確な意味での鞣しは部分的にしか成立せず、専ら獣皮組成を物理的に加工(叩く・擦る・揉むの繰り返し)することをもって鞣しと呼んできた(「皮革業」『部落史用語辞典』)。これらをも鞣しと呼んでいいとすれば中世皮革の鞣し技術の一般的到達点は……板目皮[生皮(きがわ)]作りであったということができるのである」(56頁)。「現在の視点をもって生皮と鞣革を峻別しておかなければならない。広義の鞣しを段階を追って示せば①腐敗防止 ②不可逆性(革が皮に戻らない) ③軟化処理 ④鞣製の四つがある。現実には毛皮と脱毛皮、染色工程なども不可欠なものとして加わるので、種々の組み合わせが起きるが、原理としては右の四段階を考えることができる。『生皮干皮』は①②段階を経たものと位置づけられる。またそれで当時の牛馬皮需要の要求に応えられるものであった」(273頁)とある。鎧に大量に使用される小札作りには、生皮を藍染め・燻し・漆塗りした。色付けのための二次加工が、結果的に皮の鞣し工程に含まれてしまうことになっていたとされている。
仁賢紀や延喜式には次のようにある。
六年の秋九月の己酉の朔の壬子に、日鷹吉士(ひたかのきし)を遣して、高麗(こま)に使して巧手者(てひと)を召さしめたまふ。……是歳、日鷹吉士、高麗より還りて、工匠(てひと)須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)等を献る。今、倭国の山辺郡の額田邑(ぬかたのむら)の熟皮高麗(かはをしのこま・にひりのこま)は、是れ其の後なり。(仁賢紀六年条)
牛の皮一張〈長さ六尺五寸、広さ五尺五寸〉、毛を除(おろ)すに一人、膚肉(たなしし)を除すに一人、水に浸し潤し釈(くた)すに一人、曝(ほ)し涼(さら)し踏み柔(やわら)ぐるに四人。皺文(ひきはだ)に染むる革一張〈長広は上に同じくせよ〉、樫の皮を採るに一人、麹・塩を合せ和(か)ちて染め造るに四人。鹿の皮一張〈長さ四尺五寸、広さ三尺〉、毛を除し、曝し涼すに一人、膚宍(たなしし)を除し、浸し釈すに一人、削り曝し、、脳(なずき)を和ちて搓(たも)み乾かすに一人半。■(白の下に七)(くり)に染むる革一張〈長広は上に同じくせよ〉、焼き柔げ熏烟(くすぶ)るに一人、染め造るに二人。(延喜式・内蔵寮式)
韉(したぐら)裏馬革〈表皮に准へ寮に在る者を用ゐよ〉。馬皮を熟す油〈枚別一合三尺、主殿寮に請へ〉。(同・左右馬式)
革を作る料、油一合、塩三合、糟三升。(同・内匠寮式)
小林行雄『古代の技術』(塙書房、昭和37年)や、前沢和之「古代の皮革」大阪歴史学会編『古代国家の形成と展開』(吉川弘文館、1976年)、永瀬康博『皮革産業史の研究』(名著出版、1992年)、松井章『歴史時代の動物考古学』同編『環境考古学マニュアル』(同成社、2003年)に、脳漿鞣しの技術が行われていたことが述べられている。油鞣しもあったことが延喜式記事からわかる。何の油かは未詳である。筆者は、今、虎の毛皮についてのみ考えており、輸入された毛皮がそのまま利用できる状態であったのか、あるいは、熟皮高麗によって再加工を施したのか、気になるところである。外国からのプレゼント品なので、生皮ではなく加工品であったかと思われる。敷物に用いられた羆の毛皮も、蝦夷から加工品として献上されたかと思われる。松井章『環境考古学への招待』(岩波書店(岩波新書)、2005年)に、「[佐々木史郎氏による北方民族の皮鞣し技法の要旨によると、]皮鞣しとは死んだ動物の皮を剥ぎ、不要な脂肪分やタンパク質を除去して、コラーゲンという柔軟性に富んだ繊維を残す作業である。皮鞣しをしないと高温多湿の日本では皮が硬化し、カビを生じたり腐敗しかねない。その技法には、ひたすら水に漬けて柔らかくして、引き上げてからヘラで脂肪を除去することを繰り返したり、微生物の巣であるトイレの便槽へつけ込んで、腐敗しやすい脂肪やタンパク質を分解させ、それがコラーゲン繊維を痛める寸前で引き上げて水洗いして乾かすことを繰り返し、余分な油脂や脂肪分をヘラですいて揉み和らげる古いアジア的手法が広く行われた。その後、ツングース系の民族から生皮に腐敗しやすいトナカイの脳やサケの魚卵を塗り込んで、トイレに漬け込むのと同様に不要な脂肪やタンパク質を脳や魚卵の腐敗と同時に分解させ、コラーゲン繊維を痛める前に水ですすいで洗い流すツングース的手法が広がったという」(135~136頁)。とある。(ネット上では、高瀬克範「皮革利用史の研究動向」『日本古代学 第1号』(明治大学日本古代学教育・研究センター、2009 年 3 月)がご覧になれます。実際に獣肉処理を行う画像の付された解説のあるサイトもあります。)
飛鳥時代のヤマトの人たちは、毛皮、皮革を利用している。応神紀に、鹿子水門(かこのみなと)の地名譚と日向(ひむか)の諸県君牛(もろがたのきみうし)の女(むすめ)髪長媛(かみながひめ)貢上譚との合体説話が割注形式で記されている。そのなかに、
時に天皇、淡路島に幸して、遊猟(かり)したまふ。是に、天皇、西(にしのかた)を望(みそなは)すに、数十(とをあまり)の麋鹿(おほしか)、海に浮きて来たれり。便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。天皇、左右(もとこひと)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「其(かれ)、何(いか)なる麋鹿ぞ。巨海(おおうみ)に泛びて多(さは)に来る」とのたまふ。爰(ここ)に、左右共に視(み)て奇(あやし)びて、則り使を遣して察(み)しむ。使者(つかひ)至りて見るに、皆人なり。唯だ角著(つ)ける鹿(か)の皮を以て、衣服とせらくのみ。問ひて曰く、「誰人(たれ)ぞ」といふ。対へて曰(まを)さく、「諸県君牛、是れ年耆(お)いて、致仕(まかりさ)ると雖も、朝(みかど)を忘るること得ず。故、己が女、髪長媛を以て貢上(たてまつ)る」とまをす。(応神紀十三年三月条)
とある。素直に読めば、角のついた鹿の頭部を含めた毛皮を被り着ていたということになる。地球は丸いから、岸から少しばかり離れると、海に少しばかり浮かぶ船の姿は見えなくなり、船上の麋鹿の上体の姿だけしか見えず、泳いでいるように見えたということになる。動物の毛皮を剥いで、腐敗防止や軟化処理する鞣し技法が古くから行われていた。そして、諸県君牛という人は、「牛」は地方長官の「大人(うし)」の意であろうが、牛が麋鹿に代わることの面白さを逸話に含めている。麋鹿とあるのは、第一に、ヤクシカのような小型の鹿の頭部では、人は頭に被れないからであろうし、第二に、頭が体に比して大きかったことを示唆するものでもあろう。被り物の様子を指しているらしい。つまり、せんとくんになっている。せんとくんも、意図してかどうかはわからないが、体に比して頭が大きい(追補注1)。
鹿の毛皮(小松茂美編『日本絵巻大成5 粉河寺縁起』中央公論社、昭和52年、22~23頁より)
ヤマトの人は、牛馬鹿などの死体から毛皮、皮革を作り出して利用している。人間は同じ動物として、また、家畜として飼われていた場合は特にかわいそうで、ナームーという気持ちになる。言葉として適っている。ただ、鞣しに関しては、特殊技能集団の民俗語であるし、皮肉なことに、仏教の殺生の戒律との関係から、タブー視されたり、その職業が賤民視される傾向があり、文献にほとんど見られない。新撰字鏡に、「啜 士悦反、入、又市▼(草冠に国構にヌ)反、去。嚼?也、奈牟(なむ)、又阿支比利比(あきひりひ)」とある。
皮を鞣すことは、別の語で、ネル(練・錬・煉)ともいう。このネルという語は、①絹・木・皮・金属をしなやかになめらかに使い勝手の良いようにすることと、②練り歩く意味とが兼ねて用いられている。管見ながら、その語義解釈に精通された議論は見られない。白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)に、「四段。ねばり強さを与えるために、強い力を加えてきたえること。『ねやす』ともいう。糸・布・土・金属などの類に対して、加工するときにも用いる。またそのように、ものを強く握ることをいう。『ねり』はその名詞形。『ねりぎぬ』『ねりかね』はその加工したもの。『とねる』『くねる』『ひねる』はのちの派生語である。『ねらふ』は『ねる(徐歩)』の再活用形。気づかれないように、注意深く目的物をうかがうことをいう」(594頁)とある。鍛錬と徐歩とを同義と見ておられるらしいが、意味するところが伝わってこない。
砧うち(東博の漆工のパネル、描割の説明図より(砧蒔絵硯箱、室町時代、16世紀))
筆者は、トラ(虎)をもって、鍛錬と徐歩との通義を理解する。トラという動物は、本性としてなわばりを確かなものとするために、あの縦縞模様(動物学的には横縞)を揺らしながら、同じ道を行ったり来たりする。常同行動と呼ばれるもので、檻に入れられると狭いために他にはけ口がないようである。倭の人たちは、中国や朝鮮半島の人たちからトラの様子を聞き知っていたのであろうが、彼らのトラ観は、トラを檻に入れて観察したところによる点も大きかったと思われる。古代エジプトでは、紀元前2000年頃には、チターやライオンを狩猟や戦争に使うために飼っており、古代のインドでもライオンやヒョウ、トラ、ゾウが飼われていたとされている。中国や朝鮮半島の飼育の例は不勉強である(Baratay, Eric/ Elisabeth Hardouin-Fugier 2002 (translated by Oliver Welsh), Zoo: A History of Zoological Gardens in the West, Reaktion Bookに、‘In the fourteenth century BC, the emperors of China collected animals from various regions and gathered them together in their palaces. In the ninth century BC, Emperor Wen-Wang established a park of 375 hectares ― called the Garden of Intelligence since it was thought of as a divine creation ― for hunting and fishing.’(17p)とある。Emperor Wen-Wangは、周の文王のことかと思われるが、いかなる文献を引いたものであるのか、筆者にはわからないのでお教え頂けると幸いである。)が、論語・季氏に、「虎兕(こぢ)◎(木偏に甲)(かふ)より出で」とあり、白川静『字統』(平凡社、1985年)に、「饕餮は虎を文様化した、左右の展開図である。……金文の図象に虎形を用いるものがあるのは、古く虎の飼養に関与した部族がいたのであろう」(275頁)とある。また、万葉集に、
…… 韓国(からくに)の 虎といふ神を 生取りに 八頭(やつ)取り持ち来(き) その皮を ……(万3885)
とある。また、紫式部日記に、「宮は、殿抱きたてまつりたまひて、御佩刀(みはかし)小少将の君、虎の頭(かしら)宮の内侍とりて、御さきにまゐる」とあり、産湯に浸かる時の無病息災のおまじないに、虎の頭(の毛皮か張りぼてか)を使っている。
饕餮文甗(青銅、中国、西周時代、前11~10世紀、東博展示品、坂本キク氏寄贈)
トラはネコの仲間であるが、頭と体の比率がネコよりも大きく感じられる。右に左に頭を振りながら、すなわち、オモネリ(阿、面+練)ながら往還する。縞模様の付き方が顔の部分と胴体とでは異なるので、お面を被っているように感じられる。お練供養で二十五菩薩が、橋の上を獣道のごとく往還するのと対照される光景である。天武紀朱鳥元年四月条に、新羅からの調に、「虎豹皮(とらなかつかみのかは)」が入っている。輸入されて珍重されていた。トラの毛皮は見事なデザインである。敷物として、また、馬具の障泥(あおり)にもよく用いられた。行きつ戻りつするところから、きちんと帰って来られるようにとのお呪いの意味もあったのではなかろうか。続日本紀に、「文武(ぶんぶ)百寮(ひゃくれう)六位已下、虎・豹・羆の皮と金・銀とを用ゐて、鞍の具、并せて横刀の帯の端に飾ることを禁(いさ)む」(霊亀元年(715)九月己卯朔日条)とある。正倉院には、熊の毛皮で作られた障泥や、海豹(アザラシ)とされていたがそうではなくてネコ科のトラやヒョウではないかとの意見のある毛皮を使った韉などが残る。(出口公長・竹之内一昭・奥村章・小澤正実「正倉院宝物特別調査報告 皮革製宝物材質調査」・出口公長「正倉院宝物に見る皮革の利用と技術」宮内庁正倉院事務所編『正倉院紀要第28号』同発行、平成18年、ならびに、竹之内一昭・奥村章・福永重治・向久保健蔵・実森康宏・ジョリージョンソン・本出ますみ「正倉院宝物特別調査 毛材質調査報告」宮内庁正倉院事務所編『正倉院紀要第32号』同発行、平成27年を参照した。)
アムールトラ(シズカ号。この個体はメスの中でも小さく、オスは倍ぐらいに見えるという。トラの亜種のなかでは、南に生息するスマトラトラなどよりも、北に生息するアムールトラのほうが大きいとされる。多摩動物公園にて)
戟に逃げ惑う虎(画像石、後漢時代、1~2世紀、東博展示品)
虎の毛皮(小松茂美、前掲書、34頁より)
虎の毛皮(犬追物図屏風(桃山時代、17世紀、東博展示品)より)
村上貞助筆、東韃地方紀行から「舩廬中置酒」(文化8年(1811)、国立公文書館蔵展示品。左上のクマ毛皮上の人物が間宮林蔵。ほか華人(?)はトラの毛皮に座る。)
虎(とら、トは甲類)というヤマトコトバは、トラという生物を実見しないままに名づけられている。毛皮の輸入品を目にし、どういう生き物であるか、その大きさ、鳴き声、生態を話に聞き、虎(コ)と伝えられたにも関わらず、ヤマトの人は、トラと命名している。語源をめぐっては苦しい解釈が行われている。吉田夏彦編著『語源辞典 動物編』(東京堂出版、平成13年)に、「トラ(虎)は、朝鮮から中国周辺部にかけての大陸語で、それが日本に伝わり、古くいわれたタイラを和語で解釈するようになった。すなわち、獲物に忍び寄ってぱっと捕らえる猛獣をトラ(取ら)だと考えたのは、猫をトラといったり、蠅取りグモをトラといったりする地方があることからも類推できるという。朝鮮語起源の語に日本的解釈を施した二重構造の語源説を認めざるをえないであろう」(173~174頁)とある。tiger → タイラ → トラ & 取ら、という説らしい。
筆者は、トラ(虎)という語は、トネリ(舎人)同様、いわゆる和訓であると考える。名の由来は、蕩(とら)かせるものとしてトラと名づけられたのであろう。トラク・トラカス(蕩)には、①ばらばらになること、金属などを高熱によって溶解すること、②惑わされて本心を失わせたり、心をやわらげてうっとりさせたり、舌に甘く感じておいしいときの形容にいう、の二義が挙げられている。ネル(練・錬・煉)に見た二義の兼ね合わせとよく対照している。新撰字鏡に、「仳 疋視反、平、別也、分也、醜面也、和加留(わかる)、又止良久(とらく)」とあり、神武紀には意味深長な例が載る。
初めて、天皇、天基(あまつひつぎ)を草創(はじ)めたまふ日に、大伴氏の遠祖(とほつおや)道臣命(みちのおみのみこと)、大来目部(おほくめら)を帥ゐて、密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃(はら)ひ蕩(とらか)せり。(神武紀元年正月条)
トラ(虎)は、銅鑼(どら)のように驚くほど大きな声を発し、凶暴に襲い掛かってくるが、ふだんは行ったり来たりを繰り返している。そして、ネコ型ロボット以上に頭が大きくて、左右に阿っている。酔っぱらいのことをトラと称するのは、通説にいう動物の名から取られた語ではない。酔っぱらいの左右に頭を揺らし倒しながら大声をあげてみたり、喧嘩っぱやくなったりすること、それは蕩(とら)けている状態である。先に酔っぱらいをトラという語に譬え、それを後からよく似ていると伝えられたのでコ(虎)に当ててみたということであろう。左右にかしげている当麻曼荼羅の菩薩たちの描かれ方とは、大宴会の席の酔っぱらいとも、虎の皮毛の縦縞斑模様とも同じである。菩薩の肌の黄金色と、それ以外の暗黒色との縦縞が阿っている。そして、口のなかで味わうときに舌を使ってぐるぐるっと回す仕草をするのは、ナム(嘗・舐)でも、ナメス(鞣・滑)でも、トラカス(蕩)でもある。今日でも、とろけるマグロの大トロを、なめるようにして食べ、左手には酒杯を抱きながら、同じ口で俗人は、ナム(南無)と唱えて極楽往生を願っている。ナムの音は、嘗めるような口使い、舌使いで発せられる。お練供養で菩薩のお面を着けるなり被るなりすると、頭の大きさが身体に比べて一回り大きくなる。ネコがトラになるわけである。そして、連なって、ナム(竝・並)ことになっている。すなわち、ナム(竝・並・嘗・舐・鞣・滑・南無)という語も、二義を兼ね合わせて成立している。食レポの起源は、お練供養(迎講・来迎会・迎接会)にある。
源氏物語・鈴虫に、「うしろの方に法花のまだらかけ奉りて」とあるマダラは曼荼羅の音便脱落である。法華曼荼羅は、霊山で法華経を説く会座を図示した図で仏菩薩が蓮華の開いた形に配されている。例えば、絹本法華曼荼羅図(愛知県大府市、延命寺蔵)のような図像である。ここに、曼荼羅は斑(まだら)模様と見立てられているのであろう。推古紀二十年是歳条に、「斑白(まだら)」、「斑皮(まだら)」、「白斑(しろまだら)」とある。虎の毛皮は縦縞斑模様としてとても素敵である。当時、シマウマは知られない。和名抄に、「斑瓜 兼名苑に云はく、虎蹯、一名、豹貍首〈末太良宇利(まだらうり)〉は、黄斑文瓜也といふ」、「幔 唐韻に云はく、幔〈莫半反、俗名如、字は本朝式に斑、之れを万太(図書寮本名義抄により「不」字を「太」の誤りと見る通説に従う)良万久(まだらまく)と読む〉は帷幔也といふ」などとある。幔については、運動会や卒業式で用いられる紅白幕や、歌舞伎の定式幕のように、縦のストライプが続くものをいう。斑瓜という語は、新来のスイカに取って代わられてほとんど見られなくなったようである。ほかには、地層や貝殻文、マダラカマドウマ、アサギマダラに垣間見られるものの、今日でも規制線に用いられるほどインパクトのある黄色と黒色の縞々は、虎柄を措いてほかにない。筆者は、両界曼荼羅図ほかにではなく、当麻曼荼羅図に黄色い菩薩の並み座る、あるいは来迎図に並み進む様子にこそ、マダラのマダラたる本質として虎の縦縞斑柄、虎斑(とらふ)を見出す。「とらふ(捕・捉)」である。本邦において、儀軌を離れて曼荼羅という言葉が多様に用いられた理由の一端は、マダラという音による連想にあるのであろう。
お練供養を行う日を、奈良盆地にレンゾといった。ラ行始まりの言葉が飛鳥時代に遡るとは通常説明しづらく、「練道」説、「連座」説、また、「蓮座」説があげられる。しかしながら、なお、頭音の脱落形かもしれない点を指摘しておきたい。漢語ではなく、ヤマトコトバに起源する可能性である。お練供養は春の農休み一般を包含するものではないが、お練供養から言葉が生れたと仮定するならば、怠け者の節供働きを戒めるところから生れたのかもしれない。すなわち、きちんと休まなければ、稔りの秋になっても穫るものもトラレヌゾと言って、トラ(虎)を略してレヌゾとなり、レンゾに音便化した。掛けことばの戒め語とする戯れである。稲架の様子は、遠目に見れば、トラの縦縞模様に見える。大切なもののことをいう虎の子、すなわち、舎利(米粒を含んだ籾)を懐いている。本論に述べたとおり、稲架は、トネリコとの関係から、須賀の宮に垣根、釘貫と同様と見、仏教に伝え聞く欄楯の譬えではないかと提起した。その際、回廊化して櫺(連子)窓をもつようになったことも指摘した。レンジとレンゾは音がよく似ている。
稲架(生田緑地にて、キヌヒカリ。左へ進むトラに見える。)
アムールトラ(シズカ号、再掲)
当麻寺のお練供養が春の水田稲作農耕の始まりの前日に行われるのは、秋の豊作、稲架の並んだ姿を二十五菩薩の連なりのうちに思い描いたということなのではないか。農作業の終わった翌日に実見できるものである。米粒を嘗めること、つまり、新嘗祭の予祝として、レンゾは存在したということになる。米は蒸して食べられていたのか、炊いて食べられていたのか意見が分かれているが、ジャポニカ種の粘り気のあるものの話で、バターの話に似てねばねばしていて、ナム(嘗)と表現されてしかるべきものと感じられたようである。仏教の浄土信仰のパフォーマンス、お練供養とは、欄楯、稲架ともに、内に舎利を秘めたものである。民俗の観念、知恵との合作であったらしい。状況から言っても、ひとり源信に負うものではなかった。当麻寺のそれに中将姫が出てきたり、弘法寺の迎講に阿弥陀仏像本体が動いたり、バリエーションに富むのは、それぞれの地方のそれぞれの人びとが、それなりの信仰、伝承、アイデアをもって適宜臨んできたことを示すものであろう。
張子の虎と、ほぼ張子の虎(つづく)
描かれた欄楯の例(象牙細工、ベグラム出土、クシャーン朝、1世紀、アフガニスタン国立美術館蔵)
「黄金のアフガニスタン展」(東博、~2016年6月19日(日))にて、精巧な象牙細工に欄楯を見ることができます。半開きの扉のなかに女性がさまざまにくつろいでいる光景が描かれています。扉以外のところの柵は欄楯で、釘貫式です。縦杭に横貫が通っていることがわかります。インド由来の象牙製品には、仏教的な題材が用いられているとのことです。(2016.5.15記)
当麻曼荼羅は、極楽浄土を観想するためにある。観想することで、極楽往生のよすがになると考えられている。さらに簡便にした浄土教の思想、信仰は、南無阿弥陀仏という六字名号(ろくじのみょうごう)を心に思い、口で唱えることである。念仏を行えば極楽往生できるとされている。「南無(なむ)」とは、それにつづける対象に、心から帰依して身も心もおすがりすること、帰命(きみょう)することである。霊異記・上・第三十に、「観音の名号と称礼して曰く、『南无(なむ)、銅銭万貫、白米万石、好き女(をみな)多(あまた)、徳施せよ』といふ」とある。今日でも、お仏壇の前でナームーと手を合わせてお参りしている。この南無習慣こそ、一般民衆を含めた多くの人々にとって、日本浄土教の真髄ではないかと筆者は考える。すべてはナムの話なのではないか。
ナムという語は、上代に、並(竝)の意と、嘗(舐)の意とがあった。並(竝)の用例は、万葉集に、「舟並(なめ)て」(万36)、「馬並て」(万239)、記に、「たたなめて」(記14歌謡)といった例が見られる。嘗(舐)の用例は、推古紀に「塩酢の味(あぢはひ)、口に在れども嘗めず」(推古紀二十九年二月条)などとある。当麻曼荼羅の菩薩たちは並んでいるし、宴会を催していて飲み食いしているようでもある。どうやら、ナムとは、酔っ払って頭を左右に揺らすトラ、それは、ネコの小さな体に大きな頭のついた動物についてよく表している言葉のようである。そしてまた、ナムという語は、皮をなめす(鞣・滑)という意味にも使われたのではないか。鞣し革の技法は、現在では薬品処理にて行われているが、のびしょうじ『皮革(かわ)の歴史と民俗』(解放出版社、2009年)によると、「獣皮加工の要点は(イ)腐敗防止 (ロ)柔軟化 (ハ)収縮変形防止にある。化学的には皮蛋白(コラーゲン蛋白質組織)の安定化、すなわち①膠質の除去、②脱脂にあった。しかしながら……前近代日本の皮革業は、今日でいう語の正確な意味での鞣しは部分的にしか成立せず、専ら獣皮組成を物理的に加工(叩く・擦る・揉むの繰り返し)することをもって鞣しと呼んできた(「皮革業」『部落史用語辞典』)。これらをも鞣しと呼んでいいとすれば中世皮革の鞣し技術の一般的到達点は……板目皮[生皮(きがわ)]作りであったということができるのである」(56頁)。「現在の視点をもって生皮と鞣革を峻別しておかなければならない。広義の鞣しを段階を追って示せば①腐敗防止 ②不可逆性(革が皮に戻らない) ③軟化処理 ④鞣製の四つがある。現実には毛皮と脱毛皮、染色工程なども不可欠なものとして加わるので、種々の組み合わせが起きるが、原理としては右の四段階を考えることができる。『生皮干皮』は①②段階を経たものと位置づけられる。またそれで当時の牛馬皮需要の要求に応えられるものであった」(273頁)とある。鎧に大量に使用される小札作りには、生皮を藍染め・燻し・漆塗りした。色付けのための二次加工が、結果的に皮の鞣し工程に含まれてしまうことになっていたとされている。
仁賢紀や延喜式には次のようにある。
六年の秋九月の己酉の朔の壬子に、日鷹吉士(ひたかのきし)を遣して、高麗(こま)に使して巧手者(てひと)を召さしめたまふ。……是歳、日鷹吉士、高麗より還りて、工匠(てひと)須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)等を献る。今、倭国の山辺郡の額田邑(ぬかたのむら)の熟皮高麗(かはをしのこま・にひりのこま)は、是れ其の後なり。(仁賢紀六年条)
牛の皮一張〈長さ六尺五寸、広さ五尺五寸〉、毛を除(おろ)すに一人、膚肉(たなしし)を除すに一人、水に浸し潤し釈(くた)すに一人、曝(ほ)し涼(さら)し踏み柔(やわら)ぐるに四人。皺文(ひきはだ)に染むる革一張〈長広は上に同じくせよ〉、樫の皮を採るに一人、麹・塩を合せ和(か)ちて染め造るに四人。鹿の皮一張〈長さ四尺五寸、広さ三尺〉、毛を除し、曝し涼すに一人、膚宍(たなしし)を除し、浸し釈すに一人、削り曝し、、脳(なずき)を和ちて搓(たも)み乾かすに一人半。■(白の下に七)(くり)に染むる革一張〈長広は上に同じくせよ〉、焼き柔げ熏烟(くすぶ)るに一人、染め造るに二人。(延喜式・内蔵寮式)
韉(したぐら)裏馬革〈表皮に准へ寮に在る者を用ゐよ〉。馬皮を熟す油〈枚別一合三尺、主殿寮に請へ〉。(同・左右馬式)
革を作る料、油一合、塩三合、糟三升。(同・内匠寮式)
小林行雄『古代の技術』(塙書房、昭和37年)や、前沢和之「古代の皮革」大阪歴史学会編『古代国家の形成と展開』(吉川弘文館、1976年)、永瀬康博『皮革産業史の研究』(名著出版、1992年)、松井章『歴史時代の動物考古学』同編『環境考古学マニュアル』(同成社、2003年)に、脳漿鞣しの技術が行われていたことが述べられている。油鞣しもあったことが延喜式記事からわかる。何の油かは未詳である。筆者は、今、虎の毛皮についてのみ考えており、輸入された毛皮がそのまま利用できる状態であったのか、あるいは、熟皮高麗によって再加工を施したのか、気になるところである。外国からのプレゼント品なので、生皮ではなく加工品であったかと思われる。敷物に用いられた羆の毛皮も、蝦夷から加工品として献上されたかと思われる。松井章『環境考古学への招待』(岩波書店(岩波新書)、2005年)に、「[佐々木史郎氏による北方民族の皮鞣し技法の要旨によると、]皮鞣しとは死んだ動物の皮を剥ぎ、不要な脂肪分やタンパク質を除去して、コラーゲンという柔軟性に富んだ繊維を残す作業である。皮鞣しをしないと高温多湿の日本では皮が硬化し、カビを生じたり腐敗しかねない。その技法には、ひたすら水に漬けて柔らかくして、引き上げてからヘラで脂肪を除去することを繰り返したり、微生物の巣であるトイレの便槽へつけ込んで、腐敗しやすい脂肪やタンパク質を分解させ、それがコラーゲン繊維を痛める寸前で引き上げて水洗いして乾かすことを繰り返し、余分な油脂や脂肪分をヘラですいて揉み和らげる古いアジア的手法が広く行われた。その後、ツングース系の民族から生皮に腐敗しやすいトナカイの脳やサケの魚卵を塗り込んで、トイレに漬け込むのと同様に不要な脂肪やタンパク質を脳や魚卵の腐敗と同時に分解させ、コラーゲン繊維を痛める前に水ですすいで洗い流すツングース的手法が広がったという」(135~136頁)。とある。(ネット上では、高瀬克範「皮革利用史の研究動向」『日本古代学 第1号』(明治大学日本古代学教育・研究センター、2009 年 3 月)がご覧になれます。実際に獣肉処理を行う画像の付された解説のあるサイトもあります。)
飛鳥時代のヤマトの人たちは、毛皮、皮革を利用している。応神紀に、鹿子水門(かこのみなと)の地名譚と日向(ひむか)の諸県君牛(もろがたのきみうし)の女(むすめ)髪長媛(かみながひめ)貢上譚との合体説話が割注形式で記されている。そのなかに、
時に天皇、淡路島に幸して、遊猟(かり)したまふ。是に、天皇、西(にしのかた)を望(みそなは)すに、数十(とをあまり)の麋鹿(おほしか)、海に浮きて来たれり。便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。天皇、左右(もとこひと)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「其(かれ)、何(いか)なる麋鹿ぞ。巨海(おおうみ)に泛びて多(さは)に来る」とのたまふ。爰(ここ)に、左右共に視(み)て奇(あやし)びて、則り使を遣して察(み)しむ。使者(つかひ)至りて見るに、皆人なり。唯だ角著(つ)ける鹿(か)の皮を以て、衣服とせらくのみ。問ひて曰く、「誰人(たれ)ぞ」といふ。対へて曰(まを)さく、「諸県君牛、是れ年耆(お)いて、致仕(まかりさ)ると雖も、朝(みかど)を忘るること得ず。故、己が女、髪長媛を以て貢上(たてまつ)る」とまをす。(応神紀十三年三月条)
とある。素直に読めば、角のついた鹿の頭部を含めた毛皮を被り着ていたということになる。地球は丸いから、岸から少しばかり離れると、海に少しばかり浮かぶ船の姿は見えなくなり、船上の麋鹿の上体の姿だけしか見えず、泳いでいるように見えたということになる。動物の毛皮を剥いで、腐敗防止や軟化処理する鞣し技法が古くから行われていた。そして、諸県君牛という人は、「牛」は地方長官の「大人(うし)」の意であろうが、牛が麋鹿に代わることの面白さを逸話に含めている。麋鹿とあるのは、第一に、ヤクシカのような小型の鹿の頭部では、人は頭に被れないからであろうし、第二に、頭が体に比して大きかったことを示唆するものでもあろう。被り物の様子を指しているらしい。つまり、せんとくんになっている。せんとくんも、意図してかどうかはわからないが、体に比して頭が大きい(追補注1)。
鹿の毛皮(小松茂美編『日本絵巻大成5 粉河寺縁起』中央公論社、昭和52年、22~23頁より)
ヤマトの人は、牛馬鹿などの死体から毛皮、皮革を作り出して利用している。人間は同じ動物として、また、家畜として飼われていた場合は特にかわいそうで、ナームーという気持ちになる。言葉として適っている。ただ、鞣しに関しては、特殊技能集団の民俗語であるし、皮肉なことに、仏教の殺生の戒律との関係から、タブー視されたり、その職業が賤民視される傾向があり、文献にほとんど見られない。新撰字鏡に、「啜 士悦反、入、又市▼(草冠に国構にヌ)反、去。嚼?也、奈牟(なむ)、又阿支比利比(あきひりひ)」とある。
皮を鞣すことは、別の語で、ネル(練・錬・煉)ともいう。このネルという語は、①絹・木・皮・金属をしなやかになめらかに使い勝手の良いようにすることと、②練り歩く意味とが兼ねて用いられている。管見ながら、その語義解釈に精通された議論は見られない。白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)に、「四段。ねばり強さを与えるために、強い力を加えてきたえること。『ねやす』ともいう。糸・布・土・金属などの類に対して、加工するときにも用いる。またそのように、ものを強く握ることをいう。『ねり』はその名詞形。『ねりぎぬ』『ねりかね』はその加工したもの。『とねる』『くねる』『ひねる』はのちの派生語である。『ねらふ』は『ねる(徐歩)』の再活用形。気づかれないように、注意深く目的物をうかがうことをいう」(594頁)とある。鍛錬と徐歩とを同義と見ておられるらしいが、意味するところが伝わってこない。
砧うち(東博の漆工のパネル、描割の説明図より(砧蒔絵硯箱、室町時代、16世紀))
筆者は、トラ(虎)をもって、鍛錬と徐歩との通義を理解する。トラという動物は、本性としてなわばりを確かなものとするために、あの縦縞模様(動物学的には横縞)を揺らしながら、同じ道を行ったり来たりする。常同行動と呼ばれるもので、檻に入れられると狭いために他にはけ口がないようである。倭の人たちは、中国や朝鮮半島の人たちからトラの様子を聞き知っていたのであろうが、彼らのトラ観は、トラを檻に入れて観察したところによる点も大きかったと思われる。古代エジプトでは、紀元前2000年頃には、チターやライオンを狩猟や戦争に使うために飼っており、古代のインドでもライオンやヒョウ、トラ、ゾウが飼われていたとされている。中国や朝鮮半島の飼育の例は不勉強である(Baratay, Eric/ Elisabeth Hardouin-Fugier 2002 (translated by Oliver Welsh), Zoo: A History of Zoological Gardens in the West, Reaktion Bookに、‘In the fourteenth century BC, the emperors of China collected animals from various regions and gathered them together in their palaces. In the ninth century BC, Emperor Wen-Wang established a park of 375 hectares ― called the Garden of Intelligence since it was thought of as a divine creation ― for hunting and fishing.’(17p)とある。Emperor Wen-Wangは、周の文王のことかと思われるが、いかなる文献を引いたものであるのか、筆者にはわからないのでお教え頂けると幸いである。)が、論語・季氏に、「虎兕(こぢ)◎(木偏に甲)(かふ)より出で」とあり、白川静『字統』(平凡社、1985年)に、「饕餮は虎を文様化した、左右の展開図である。……金文の図象に虎形を用いるものがあるのは、古く虎の飼養に関与した部族がいたのであろう」(275頁)とある。また、万葉集に、
…… 韓国(からくに)の 虎といふ神を 生取りに 八頭(やつ)取り持ち来(き) その皮を ……(万3885)
とある。また、紫式部日記に、「宮は、殿抱きたてまつりたまひて、御佩刀(みはかし)小少将の君、虎の頭(かしら)宮の内侍とりて、御さきにまゐる」とあり、産湯に浸かる時の無病息災のおまじないに、虎の頭(の毛皮か張りぼてか)を使っている。
饕餮文甗(青銅、中国、西周時代、前11~10世紀、東博展示品、坂本キク氏寄贈)
トラはネコの仲間であるが、頭と体の比率がネコよりも大きく感じられる。右に左に頭を振りながら、すなわち、オモネリ(阿、面+練)ながら往還する。縞模様の付き方が顔の部分と胴体とでは異なるので、お面を被っているように感じられる。お練供養で二十五菩薩が、橋の上を獣道のごとく往還するのと対照される光景である。天武紀朱鳥元年四月条に、新羅からの調に、「虎豹皮(とらなかつかみのかは)」が入っている。輸入されて珍重されていた。トラの毛皮は見事なデザインである。敷物として、また、馬具の障泥(あおり)にもよく用いられた。行きつ戻りつするところから、きちんと帰って来られるようにとのお呪いの意味もあったのではなかろうか。続日本紀に、「文武(ぶんぶ)百寮(ひゃくれう)六位已下、虎・豹・羆の皮と金・銀とを用ゐて、鞍の具、并せて横刀の帯の端に飾ることを禁(いさ)む」(霊亀元年(715)九月己卯朔日条)とある。正倉院には、熊の毛皮で作られた障泥や、海豹(アザラシ)とされていたがそうではなくてネコ科のトラやヒョウではないかとの意見のある毛皮を使った韉などが残る。(出口公長・竹之内一昭・奥村章・小澤正実「正倉院宝物特別調査報告 皮革製宝物材質調査」・出口公長「正倉院宝物に見る皮革の利用と技術」宮内庁正倉院事務所編『正倉院紀要第28号』同発行、平成18年、ならびに、竹之内一昭・奥村章・福永重治・向久保健蔵・実森康宏・ジョリージョンソン・本出ますみ「正倉院宝物特別調査 毛材質調査報告」宮内庁正倉院事務所編『正倉院紀要第32号』同発行、平成27年を参照した。)
アムールトラ(シズカ号。この個体はメスの中でも小さく、オスは倍ぐらいに見えるという。トラの亜種のなかでは、南に生息するスマトラトラなどよりも、北に生息するアムールトラのほうが大きいとされる。多摩動物公園にて)
戟に逃げ惑う虎(画像石、後漢時代、1~2世紀、東博展示品)
虎の毛皮(小松茂美、前掲書、34頁より)
虎の毛皮(犬追物図屏風(桃山時代、17世紀、東博展示品)より)
村上貞助筆、東韃地方紀行から「舩廬中置酒」(文化8年(1811)、国立公文書館蔵展示品。左上のクマ毛皮上の人物が間宮林蔵。ほか華人(?)はトラの毛皮に座る。)
虎(とら、トは甲類)というヤマトコトバは、トラという生物を実見しないままに名づけられている。毛皮の輸入品を目にし、どういう生き物であるか、その大きさ、鳴き声、生態を話に聞き、虎(コ)と伝えられたにも関わらず、ヤマトの人は、トラと命名している。語源をめぐっては苦しい解釈が行われている。吉田夏彦編著『語源辞典 動物編』(東京堂出版、平成13年)に、「トラ(虎)は、朝鮮から中国周辺部にかけての大陸語で、それが日本に伝わり、古くいわれたタイラを和語で解釈するようになった。すなわち、獲物に忍び寄ってぱっと捕らえる猛獣をトラ(取ら)だと考えたのは、猫をトラといったり、蠅取りグモをトラといったりする地方があることからも類推できるという。朝鮮語起源の語に日本的解釈を施した二重構造の語源説を認めざるをえないであろう」(173~174頁)とある。tiger → タイラ → トラ & 取ら、という説らしい。
筆者は、トラ(虎)という語は、トネリ(舎人)同様、いわゆる和訓であると考える。名の由来は、蕩(とら)かせるものとしてトラと名づけられたのであろう。トラク・トラカス(蕩)には、①ばらばらになること、金属などを高熱によって溶解すること、②惑わされて本心を失わせたり、心をやわらげてうっとりさせたり、舌に甘く感じておいしいときの形容にいう、の二義が挙げられている。ネル(練・錬・煉)に見た二義の兼ね合わせとよく対照している。新撰字鏡に、「仳 疋視反、平、別也、分也、醜面也、和加留(わかる)、又止良久(とらく)」とあり、神武紀には意味深長な例が載る。
初めて、天皇、天基(あまつひつぎ)を草創(はじ)めたまふ日に、大伴氏の遠祖(とほつおや)道臣命(みちのおみのみこと)、大来目部(おほくめら)を帥ゐて、密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃(はら)ひ蕩(とらか)せり。(神武紀元年正月条)
トラ(虎)は、銅鑼(どら)のように驚くほど大きな声を発し、凶暴に襲い掛かってくるが、ふだんは行ったり来たりを繰り返している。そして、ネコ型ロボット以上に頭が大きくて、左右に阿っている。酔っぱらいのことをトラと称するのは、通説にいう動物の名から取られた語ではない。酔っぱらいの左右に頭を揺らし倒しながら大声をあげてみたり、喧嘩っぱやくなったりすること、それは蕩(とら)けている状態である。先に酔っぱらいをトラという語に譬え、それを後からよく似ていると伝えられたのでコ(虎)に当ててみたということであろう。左右にかしげている当麻曼荼羅の菩薩たちの描かれ方とは、大宴会の席の酔っぱらいとも、虎の皮毛の縦縞斑模様とも同じである。菩薩の肌の黄金色と、それ以外の暗黒色との縦縞が阿っている。そして、口のなかで味わうときに舌を使ってぐるぐるっと回す仕草をするのは、ナム(嘗・舐)でも、ナメス(鞣・滑)でも、トラカス(蕩)でもある。今日でも、とろけるマグロの大トロを、なめるようにして食べ、左手には酒杯を抱きながら、同じ口で俗人は、ナム(南無)と唱えて極楽往生を願っている。ナムの音は、嘗めるような口使い、舌使いで発せられる。お練供養で菩薩のお面を着けるなり被るなりすると、頭の大きさが身体に比べて一回り大きくなる。ネコがトラになるわけである。そして、連なって、ナム(竝・並)ことになっている。すなわち、ナム(竝・並・嘗・舐・鞣・滑・南無)という語も、二義を兼ね合わせて成立している。食レポの起源は、お練供養(迎講・来迎会・迎接会)にある。
源氏物語・鈴虫に、「うしろの方に法花のまだらかけ奉りて」とあるマダラは曼荼羅の音便脱落である。法華曼荼羅は、霊山で法華経を説く会座を図示した図で仏菩薩が蓮華の開いた形に配されている。例えば、絹本法華曼荼羅図(愛知県大府市、延命寺蔵)のような図像である。ここに、曼荼羅は斑(まだら)模様と見立てられているのであろう。推古紀二十年是歳条に、「斑白(まだら)」、「斑皮(まだら)」、「白斑(しろまだら)」とある。虎の毛皮は縦縞斑模様としてとても素敵である。当時、シマウマは知られない。和名抄に、「斑瓜 兼名苑に云はく、虎蹯、一名、豹貍首〈末太良宇利(まだらうり)〉は、黄斑文瓜也といふ」、「幔 唐韻に云はく、幔〈莫半反、俗名如、字は本朝式に斑、之れを万太(図書寮本名義抄により「不」字を「太」の誤りと見る通説に従う)良万久(まだらまく)と読む〉は帷幔也といふ」などとある。幔については、運動会や卒業式で用いられる紅白幕や、歌舞伎の定式幕のように、縦のストライプが続くものをいう。斑瓜という語は、新来のスイカに取って代わられてほとんど見られなくなったようである。ほかには、地層や貝殻文、マダラカマドウマ、アサギマダラに垣間見られるものの、今日でも規制線に用いられるほどインパクトのある黄色と黒色の縞々は、虎柄を措いてほかにない。筆者は、両界曼荼羅図ほかにではなく、当麻曼荼羅図に黄色い菩薩の並み座る、あるいは来迎図に並み進む様子にこそ、マダラのマダラたる本質として虎の縦縞斑柄、虎斑(とらふ)を見出す。「とらふ(捕・捉)」である。本邦において、儀軌を離れて曼荼羅という言葉が多様に用いられた理由の一端は、マダラという音による連想にあるのであろう。
お練供養を行う日を、奈良盆地にレンゾといった。ラ行始まりの言葉が飛鳥時代に遡るとは通常説明しづらく、「練道」説、「連座」説、また、「蓮座」説があげられる。しかしながら、なお、頭音の脱落形かもしれない点を指摘しておきたい。漢語ではなく、ヤマトコトバに起源する可能性である。お練供養は春の農休み一般を包含するものではないが、お練供養から言葉が生れたと仮定するならば、怠け者の節供働きを戒めるところから生れたのかもしれない。すなわち、きちんと休まなければ、稔りの秋になっても穫るものもトラレヌゾと言って、トラ(虎)を略してレヌゾとなり、レンゾに音便化した。掛けことばの戒め語とする戯れである。稲架の様子は、遠目に見れば、トラの縦縞模様に見える。大切なもののことをいう虎の子、すなわち、舎利(米粒を含んだ籾)を懐いている。本論に述べたとおり、稲架は、トネリコとの関係から、須賀の宮に垣根、釘貫と同様と見、仏教に伝え聞く欄楯の譬えではないかと提起した。その際、回廊化して櫺(連子)窓をもつようになったことも指摘した。レンジとレンゾは音がよく似ている。
稲架(生田緑地にて、キヌヒカリ。左へ進むトラに見える。)
アムールトラ(シズカ号、再掲)
当麻寺のお練供養が春の水田稲作農耕の始まりの前日に行われるのは、秋の豊作、稲架の並んだ姿を二十五菩薩の連なりのうちに思い描いたということなのではないか。農作業の終わった翌日に実見できるものである。米粒を嘗めること、つまり、新嘗祭の予祝として、レンゾは存在したということになる。米は蒸して食べられていたのか、炊いて食べられていたのか意見が分かれているが、ジャポニカ種の粘り気のあるものの話で、バターの話に似てねばねばしていて、ナム(嘗)と表現されてしかるべきものと感じられたようである。仏教の浄土信仰のパフォーマンス、お練供養とは、欄楯、稲架ともに、内に舎利を秘めたものである。民俗の観念、知恵との合作であったらしい。状況から言っても、ひとり源信に負うものではなかった。当麻寺のそれに中将姫が出てきたり、弘法寺の迎講に阿弥陀仏像本体が動いたり、バリエーションに富むのは、それぞれの地方のそれぞれの人びとが、それなりの信仰、伝承、アイデアをもって適宜臨んできたことを示すものであろう。
張子の虎と、ほぼ張子の虎(つづく)
描かれた欄楯の例(象牙細工、ベグラム出土、クシャーン朝、1世紀、アフガニスタン国立美術館蔵)
「黄金のアフガニスタン展」(東博、~2016年6月19日(日))にて、精巧な象牙細工に欄楯を見ることができます。半開きの扉のなかに女性がさまざまにくつろいでいる光景が描かれています。扉以外のところの柵は欄楯で、釘貫式です。縦杭に横貫が通っていることがわかります。インド由来の象牙製品には、仏教的な題材が用いられているとのことです。(2016.5.15記)