題材
応神天皇に名易えの話が載る。
故、建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)、其の太子(おほみこ)を率(ゐ)て、禊(みそぎ)せむと為て、淡海と若狭との国を経歴(へ)し時に、高志(こし)の前(みちのくち)の角鹿(つぬが)に仮宮を造りて坐しき。爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢(いめ)に見えて云ひしく、「吾が名を以て、御子の御名に易へまく欲し」といひき。爾に言禱(ことほ)きて白(まを)ししく、「恐(かしこ)し、命(みこと)の随(まにま)に易へ奉らむ」とまをしき。亦、其の神の詔(のりたま)ひしく、「明日(くつるひ)の旦(あした)に、浜に幸(いでま)すべし。名を易へし幣(まひ)を献らむ」とのりたまひき。故、其の旦に浜に幸行(いでま)しし時、鼻を毀(こほ)てる入鹿魚(いるか)、既に一浦(ひとうら)に依りき。是に御子、神に白(まを)さしめて云ひしく、「我に御食(みけ)の魚(な)を賜へり」といひき。故、亦、其の御名を称へて、御食津大神(みけつおほかみ)と号(なづ)けき。故、今に気比大神(けひのおほかみ)と謂ふ。亦、其の入鹿魚の鼻の血、臰(くさ)し。故、其の浦を号けて血浦(ちぬら)と謂ひき。今に都奴賀(つぬが)と謂ふ。(仲哀記)
日本書紀に、名前を取り替えたのならば、元の名がそれぞれであったはずなのに、そうはなっていない。よって、「未詳」であると注している。
初め天皇、在孕(はらま)れたまひて、天神地祇(あまつかみくにつかみ)、三韓(みつのからくに)に授けたまへり。既に産(あ)れませるときに、宍(しし)、腕(ただむき)の上に生(お)ひたり。其の形、鞆(ほむた)の如し。是、皇太后(おほきさき)の雄(をを)しき装(よそひ)したまひて鞆(ほむた)を負(は)きたまへるに肖(あ)えたまへり。肖、此には阿叡(あえ)と云ふ。故、其の名(みな)を称へて誉田天皇(ほむたのすめらみこと)と謂(まを)す。上古(いにしへ)の時の俗(ひと)、鞆を号(い)ひて褒武多(ほむた)と謂ふ。一に云はく、初め天皇、太子(ひつぎのみこ)と為りて、越国(こしのくに)に行(いでま)して、角鹿(つぬが)の笥飯大神(けひのおほかみ)を拜祭(をが)みたてまつりたまふ。時に大神と太子、名を相易へたまふ。故、大神を号けて去来紗別神と曰(まを)す。太子を誉田別尊と名くといふ。然らば、大神の本の名は誉田別神、太子の元(はじめ)の名は去来紗別尊と謂すべし。然れども見る所無くして、未だ詳らかならず。(応神即位前紀)
この分注記事から、紀を編纂した当時の人にとっても、すでに意味が理解できなくなっていたとされている。短絡的な解釈である。当時、過去数百年以上の歴史をまとめ、日本書紀を編纂してしまうほどの人たちが、その程度の理解にとどまっていたとは考えにくい。むしろ筆者は、晦渋な編纂者が、事実を知りつつ、ここは謎掛け部分ですよと記したいがために、無用な注をつけていると考えている。わからなければわからないままにしておけばいいし、小賢しい輩なら記述自体を改竄すればいい。確かに、当時も、頓智のきかない人にはわからなかったであろう。それをからかっていると思われる。
夢のお告げ
古事記に、「以二吾名一、欲レ易二御子之御名一。」というのは、夢の中の話である。夢に現れたのは、「伊奢沙和気大神」か、「伊奢沙和気大神之命」である。「大神之命」という神名の呼び方は他に見えない。ミコトは名前の尊称であるとともに、ミ(御)+コト(言)の意でもある。偉い人の言うことは、そのとおり実現することが多いから、言=事であるとする言霊信仰に適うことになる。そこで、伊耶那岐命(いざなきのみこと)とか、倭建命(やまとたけるのみこと)という名前ができあがっている。しかし、「天照大御神之命以」(記上)とあるのは、「天照大御神の命(みこと=仰ること)を以て」の意である。すぐ後ろにも、「恐、随レ命易奉」とある「命」は、御言(みこと)の意である。「亦其神詔」とあって「亦其神之命詔」とはない。したがって、この部分の訓みは、次のようになければならない。
爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢に見えて云ひしく、……(爾坐其地伊奢沙和気大神之命、見於夜夢云、……)
新編全集本古事記は、「爾(しか)くして、其地(そこ)に坐(いま)す伊奢沙和気大神之命(いざさわけのおほかみのみこと)、夜(よる)の夢(いめ)に見(み)えて云(い)ひしく、……」(253頁)と訓み、頭注に、「気比大神の名だが、神名の下に「命」をつけるのは異例であり、問題が残る。ミコトは神名でなく、夢の託宣の言葉を指すとする説もあるが、言葉の意とするのでは「夢に見え」ということと合わない。」(252頁)とする。「夢(いめ、メは乙類)」という語は、イ(寐)+メ(目)とする捉え方から、目で見るものだから静止画なり動画なり、映像であろうと考えているようである。しかし、そうなるとそもそも、夢のお告げという言い方が成り立たなくなる。そうではあるまい。お告げで神さまが伝えてくれていることも、やはり夢に見るという言い方で表現していると考えられる。後述の神武記の高倉下の見た夢、垂仁記の御夢の覚しの話も同様である。
「夜」の「夢」に「伊奢沙和気大神」が「見」えて「命(みこと)」=御言を「云」っている。この夢で大切なのは、伊奢沙和気大神の姿かたちや立ち居振る舞いではない。伊奢沙和気大神の云っている言葉である。だから、「命(みこと)」という語を丁寧に使っている。夢に見えたのは神の姿ではないのか、という反論もあろうが、この逸話のテーマは名前のことである。名前とは、言葉である。無文字文化にあって、言葉とはすべて音声である。「云」っていることが「命(みこと)」として発せられ、それを恭しく聞いているのが、付添い人で神の託宣を聞く役目の武内宿禰である。武内宿禰が神さまのお言葉を聞いて、それを太子に伝達している。仰られたことを伝えていく言葉とは、御言(「命」)である。大切なのは、神さまの仰ることをきちんと聞いてきちんと伝えることである(注1)。
其の横刀(たち)を獲し所由を問ひしに、高倉下(たかくらじ)が答へて曰ひしく、「己が夢(いめ)に云ひしく、『天照大神・高木神の二柱の神の命(みこと)を以て、建御雷神を召して詔はく、「葦原中国は、……」とのりたまふ。……』といふ。……」といひき。(神武記)
爾くして天皇の愁へ歎きて神牀(かむどこ)に坐しし夜に、大物主大神(おほものぬしのおほかみ)、御夢(みいめ)に顕れて曰ひしく、「是は我が御心ぞ。……」といひき。(崇神記)
是に、天皇患ひ賜ひて、御寝(みね)しませる時、御夢に覚(さと)して曰さく、「我が宮を天皇の御舎(みあらか)の如(ごと)修理(つくりをさ)めたまはば、御子必ず真事問はむ」とまをす。(垂仁記)
真福寺本古事記(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185383/6をトリミング)
神武記の例の「高倉下答曰『己夢云、「天照大神・……」』」部分の「云」字は、諸本に「云」とあるのを「之」と校異するテキストが多い。しかし、真福寺本の当該字は、「之」にも「云」にもとれる曖昧な字体である。筆者には、どちらかといえば「云」に見える。内容的にも、夢に見たのは神さまの間の会話のやり取りである。「天照大神・高木神二柱之神命以」とあるように、「命」は御言のことである。二柱の神が仰られたことを伝えていって建御雷神を招集している。最終的に、「故、夢の教の如く、旦に己が倉を見れば……」とある。教えとは夢のお告げのことである。すべて言っていることばかりだから、夢の中で神さまたちが「云」っているとするのが適当であろう。夢は見るものであるけれど、神さまどうしの会話を聞いているのだから「云」と考えるのがふさわしい。
新編全集本古事記頭注に、「原文「夢之」とあり、「之」は不読で、夢に見たことにはの意。「夢云」の本文を採用し、夢で建御雷神(たけみかずちのかみ)が言うことにはの意とする説があるが、この段階ではまだ建御雷神の名は出てきておらず、無理がある。」(146頁)とする。建御雷神の言葉だけが夢に「云」われているわけではなく、天照大神・高木神の二柱の神の命(みこと)、すなわち、言うことを以て建御雷神が登場している。結論の建御雷神の言葉だけを取り出すこと自体、ナンセンスと言わざるを得ない。夢の中で神さまたちがいうことには、の意と考えるのに支障はない。その夢に映像は重要ではなく、音声だけで十分である。ラジオの夢を高倉下は見ている。
ナ(名)とナ(魚)
仲哀記に、「以二吾名一、欲レ易二御子之御名一。」→「於レ我給二御食之魚一。」へと展開している。それを、ナ(名)とナ(魚)との交換であろうかとする説は従来より指摘されている。「我に御食(みけ)の魚(な)を給へり。」と訓むテキストも存在する。大系本古事記、思想大系本古事記、古典文学全集本古事記、尾崎1972.、次田1980.、中村2009.などである。一方、どうしても納得がいかないということで、「魚」をウヲ(イヲ)と訓むテキストも多い。古典集成本古事記、新編全集本古事記、新校古事記などである。
藤澤2016.に、論点が整理されている。「大神の申し出は『以二吾名一欲レ易二御子之御名一。』というものであり、これについては以下の三通りの解釈が考えられる。
〔一〕吾が名と太子の名を交換したい。 (大神←→太子)
〔二〕吾が名を太子に差し上げたい。 (大神―→太子)
〔三〕吾が名に太子の名を賜りたい。 (大神←―太子)」(44頁)
としている。〔一〕説に、思想大系本古事記、〔二〕説に、新編全集本古事記、〔三〕説に、本居宣長・古事記伝があるとする(注2)。
この名易えの場面は、太子の命名の由来とも関わるとする阪下2002.は、ナという一語の名と魚との両義性が話の肝腎な点であるとする。
この説話全体の意味から肝腎なのは、太子の言葉の「魚」がすでに食物化したイルカをさすにとどまらず、謎かけとして示された神託への見事な解答となっていることであろう。それは、「神は私に御食の魚を下さった。(神のいう「吾名」は名ではなくてこの魚だったのだ)」と補うことができる。実は太子はナの両義性、名と魚の変換関係をはっきりよみ解いたとして差支えなく、そのこと自体、太子の成年への到達を語るものであった。かくして太子が神をたたえてみずから「御食津大神」と命名するに及び、魚と名の交換・贈与は完了する。結局、大神は「御子之御名」ではなく、太子からあらたな名を贈られたことになる。古代における命名・賜名は命名者と被名者(物) との関係更新のしるしであった。それよりすれば、太子の名を負うことと太子に命名されることとは全く同一の意義を示すものとしてよい。(22頁)
そして、「気比(けひ)」という大神の名は、「易(かへ)」という語の音転であることによっているとされている。西郷2006.も踏襲する。仮に「気比(けひ)」という言葉が「易(かへ)」ることと関係するなら、宇佐八幡が嘘八幡であるかのような逸話が、もっと多く伝えられて良いように思われるが他に見られない。そして、日本書紀の分注にあげられている疑問点は、これまでの諸説同様、解消されていない。大神の本の名は誉田別神(ほむたわけのかみ)、太子の元の名は去来紗別尊(いざさわけのみこと)でなくてはならないのではないか、という問いに答えられていない。
太子のもとの名
太子のもとの名は何であったか。応神記を遡ってみていくと、上にあげた「御子」、「其の太子」、「其の御子」とあり、仲哀記の皇統譜に出生譚が記されている。
又、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)是は大后なり。を娶りて生ませる御子、品夜和気命(ほむやわけのみこと)、次に大鞆和気命(おほともわけのみこと)、亦の名は品陀和気命(ほむたわけのみこと)。二柱。此の太子の御名、大鞆和気命と負はせる所以は、初め生れまししし時、鞆(とも)の如き宍(しし)、御腕(みただむき)に生(な)りき。故、其の御名に著(つ)けき。是を以て腹の中に坐して国を知らすぞ。(仲哀記)
鞆をつけた射手(年中行事図屏風、住吉如慶(1599~1670)筆、紙本着色、江戸時代、17世紀、東博展示品)
鞆をつけた挂甲武人埴輪(群馬県太田市飯塚町出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)
わざわざ、「此太子之御名、所三-以負二大鞆和気命一者、」とされて説明が付されている。奇異な「負」字が記されて説明されている。名負いの者として、「大鞆和気命」はあった。そして、そのことによって、「是以知下坐二腹中一国上也。」とある。その名前が付されていることから、お腹の中にありながら国を治めた。そう理解されなければ、上代の人と共通の認識に立ったとは言えない。名は体を表していると述べられている。そして、この皇統譜以降、名は語られていない。
応神天皇の出生の経緯は、神功皇后の新羅親征の話として語り継がれてきている。「神の命(みこと)」として、「凡そ此の国は、汝(な)が命(みこと)の御腹に坐す御子の知らさむ国なり。」と武内宿禰に教え覚らせている。「此の国」は倭の国のことである。本居宣長・古事記伝にも、「此ノ国は、上文に、玆天ノ下者とありしと同くて、皇国なり、【書紀に、汝不レ得二其国ヲ一、唯今云々、其ノ子有獲とあるに依れば、三韓を指るが如くにも聞ゆれど、然には非ず、かの書紀の汝ハ不レ得二其国ヲ一も、此記には玆天ノ下者云々とこそはあれ、】」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041637/200)とある。そこで、お腹の中に身籠ったまま、いわゆる鎮懐石をあてて産まれないようにしておいて新羅(「其の国」)へ親征した。そのようなことが現実に、ないし、科学的に可能かどうか、それは“話(咄・噺・譚)”とは無関係である。そういう“話”として聞かされ伝えられ知られているから、そういうものとして認められていた。
「腹中」の訓み
皇統譜に「腹中」とある個所を、今日までハラヌチ(腹の内)という訓み方をしている。しかし、太安万侶は、「中」という用字で記している。紀には、ホムタノスメタミコトに「胎中誉田天皇」・「胎中之帝」(継体紀六年四月条)、「胎中天皇」(継体紀二十三年四月条)と記されている。近似の用法であろう。ウチ(内)ではなく、ナカ(中)であることが特別な事柄なのではないか。
記の用字法において、「中」と「内」とは峻別されていると考える。それぞれ、固有名詞に使われている。
「中」…天御中主神、中津綿津見神、中筒之男命(中筒男)、胸形之中津宮、倭田中直、葦原中国、中臣連、田中臣、剣池之中岡、大中津日子命、須売伊呂大中日子王、帯中津日子命、息長真若中比売、大中比売命(大中津比売命)、中日売命、額田大中日子命、忍坂大中比売、田井之中比売、田宮之中比売、中日子王、忍坂之大中津比売命、墨江之中津王、田井中比売、橘之中比売命、春日中若子、中津王
「内」…凡川内国造、内色許男命、内色許売命、河内青玉、味師内宿禰、建内宿禰(建内宿禰命)、河内(川内)、川内之若子比売
この両者の間に、ナカ(中)とウチ(内)の言葉の交ることはない。「中」と書いたらナカ、「内」と書いたらウチ(uti)と決めている。そうしているのなら、一般名詞に使う際にも、「中」はナカ、「内」はウチと区別していると考えられる。例えば、「宮の中を臨むこと得ず」(仁徳記)と、「宮の内に参ゐ入りし時」(神武記)、「仍りて宮の内に召し入れて」(顕宗記)とでは、はっきりとニュアンスの違いがあることを知る。「宮内」は、その内部に入ることを言っており、囲いの内側へ入ることを指す。それは、「殿内」(記上、神武記)という記し方に同じである。他方、「宮中」は、内部に入ることがない。それは、「国の中に烟(けぶり)発(た)たず」、「後に国の中を見るに」(仁徳記)にある「国中」同様、傍観している。その場合、隔てがあっては見ることができない。隔てがないところ、戸や垣根、障害物がないところから見ている。つまり、「外(そと)」に対する「内(うち)」ではない。
他の例の、「衣中服鎧」(応神記)、「其衣中甲」(応神記)、「衣中服甲」(安康記)といった一連の表現について、防弾チョッキを内装しているから、「中」をウチと読んでいるテキストが多い。内側に隠してという印象をつけたいためであろう。しかし、「衣」を重ね着する場合、上着と下着の間に着るのなら、ナカ(中)に着ていると考えればいいのではないか。それは、「頂髪中」(仲哀記)とある個所を、「頂髪(たきふさ)の中(なか)」と読んで違和感のないことに同じである。「海中」(記上)、「火中」(垂仁記)、「野中」(垂仁記、景行記)、「庭中」(仁徳記)の「中」もナカと読んで問題ない。
したがって、仲哀記の当該「腹中」箇所は、ハラ(腹)のナカ(中)と読むべきであると知れる。
大津渟中倉之長峡(おほつのぬなくらのながを)(神功紀元年二月)
三国の坂中井〈中、此には那と云ふ。〉に聘(むか)へて、……(継体前紀)
渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)(欽明紀十五年正月、後の敏達天皇)
天渟中〈渟中、此には農難(ぬな)と云ふ〉原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)(天武前紀)
遠近(をちこち)の 磯の中なる 白玉を 人に知らえず 見むよしもがも(万1300)
第1~4例で、仮名遣いとして、「中」をナと訓んでいる。ナカ(中)はナ+カ(処)の意であろうとされている。類義語のウチ(内)は、ソト(外)に対して、ある範囲に包まれている内部をいい、ナカ(中)は本来、ものの中間、中くらい、その間柄のことを言っていたという。ただし、ものとものとの間にあることとは、両側のものが大きければ包み囲まれる様子となり、容易にナカ(中)にウチ(内)のような義が生じ得る。それが第5例である。磯の大きな巌の間に白玉があると言っている。応神記に連続する例として、「山谷之中」、「山谷之間」という表記がなされており、同じ意味であると考えられる。
太子のもとの名のトリック
さて、それでは、「胎中天皇」とも記されることのあった太子(応神天皇)のもとの名は、何であろうか。ふつうなら生れていて乳母に抱っこされ、名前が付けられて呼ばれていたであろうときに、お腹の中にいるのだから名前が付けられていない。これは異常事態である。あるべき名がない。名がない子どもとしてお腹の中にいた。ナ(名)はナ(無)かった。ナ(腹、中)にあった。ナ(己)にはどうすることもできない。それをどうにかしたいとき、決意・希望の助詞ナが使われよう。それらすべてが実情である。すなわち、太子の元の名とは、ナ?&ナ!である。
ナ(己)については、次のような例がある。
大己貴神(おほなむちのかみ)(紀)=大汝神(おほなむちのかみ)(播磨風土記飾磨郡)=大汝(おほなむち)(万4106)=大穴道(おほなむち)(万1247)=大名持神(おほなもちのかみ)(出典未詳)
常世辺(とこよへ)に 住むべきものを 剣刀(つるぎたち) 己(な)が心から 鈍(おそ)やこの君(万1741)
…… 己(な)が父に 似ては鳴かず 己(な)が母に 似ては鳴かず ……(万1755)
…… 己が母を 取らくを知らに 己が父を 取らくを知らに ……(万3239)
第2例の万1741番歌は、「剣刀」はナ(刃)の意でナにかかる枕詞である。常世の国辺に住んで安楽に居られるものを、自分で間抜けなことをしでかしているよと歌っている。その「己(な)」を二人称と見る説もあるが、一人称と二人称の呼び方が重なる例は数多い。問答をする際に、相手の立場に立って言えば、ワレ(吾)もワタシ(私)もボク(僕)もジブン(自分)も二人称となる。第3・4例も同様である。
実際、古事記において、応神天皇は太子時代、名前をもって呼ばれていない。「御子」、「其の太子」、「其の御子」とされている。どう呼ばれていたか。ナであろう。彼は幼少のころ、ナと呼ばれていた。ナという語に名と魚の両義性を求めていたのではなく、ナという語の根本概念、自己撞着を起した状態をもって、綽名とされてそう呼ばれている。したがって、彼は、角鹿(つぬが)において、ナに包括されている呪縛から抜け出そうとしていた。そういう洒落を言っている。ナという言葉の、ナ(腹、中)とナ(名)とナ(無)とナ(魚)といった多義性を面白がっている。
魚のことをナという例は、万葉集にも見られる。
帯日姫(たらしひめ) 神の命(みこと)の 魚(な)釣らすと 御(み)立たしせりし 石を誰(たれ)見き(万869)
この歌は、記紀の逸話に依っている。仲哀記には、帯日売命(たらしひめのみこと)(神功皇后)がご飯粒でアユを釣ったとする話になっている。
亦、筑紫の末羅県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと)に到り坐して、其の河の辺(へ)に御食(みをし)せし時は、四月(うづき)の上旬(はじめ)に当りき。爾くして、其の河中の磯に坐して、御裳(みも)の糸を抜き取り、飯粒(いひぼ)を以て餌(ゑ)と為て、其の河の年魚(あゆ)を釣りき。其の河の名は、小河と謂ふ。亦、其の磯の名は、勝門比売(かちとひめ)と謂ふぞ。故、四月の上旬の時に、女人(をみな)の裳の糸を抜き、粒(いひぼ)を以て餌と為て、年魚を釣ること、今に至るまで絶えず。(仲哀記)
どうしてこのような釣りの逸話が作られているのか。それは、彼女のお腹のなかにいた御子のことをナと呼んでいたからであろう。釣ったナ(魚)はアユ(年魚)である。このアユという語は、アユ(肖)と同じ言葉である。ナ(中)、ナ(魚)、ナ(名)のそれぞれの似ていること、写像としてあることを言いたいから、アユ(鮎、肖)という語をもって示している。仲哀紀には、「皇太后(おほきさき)の雄(をを)しき装(よそひ)したまひて鞆(ほむた)を負(は)きたまへるに肖(あ)えたまへり。」と、きちんと「肖ゆ」という言葉を使って述べている。さほどに、ナと神功皇后のナ(お腹の中)とは密接な結びつきを孕んでいる。
「お腹(なか)」という語は、日葡辞書(1603~04)に、「Vonaca. ヲナカ(御中)」とあり、婦人語とされている。古い文献例は見られないようで、腹の内部のことはただハラというのがふつうであったらしい。今でも、胃腸が痛いことをハライタと言っている。ただし、白川1995.に、「はら〔腹〕 人や動物などの腹部をいう。「原」「平」などと同源。身体の中で最も広く平らなところである。」(631頁)とある。すると、脹らんだお腹のことは、ハラの概念と異なってくる。最も象徴的な膨らんだお腹は、臨月の妊婦のそれである。問題は、腹の中身である。中身についてとやかく言おうとしているから、記に「腹中」、紀に「胎中」という特異な表記が出現している。口語としてナカ、または、ナという言い方があったのではないか。それは、この話でいえば、水族でありながら哺乳類で胎生のイルカを持ち出して語られていることからも窺える。妊娠中のイルカであれば、ナ(魚)でありつつ、ナ(中=腹・胎)にナ(魚)(児の魚)を包んでいる。タナゴ的な様相になっている。配役にイルカを登場させた第一の理由である。このからくりによって、お腹の大きな女性(雌イルカ)は、妊娠しているのかメタボなのかわからないことになる。神功皇后のお腹の中の胎児であった応神天皇がナ(胎中)として入っていたのが、代わりとして胃袋にナ(食物)を詰め込むことで同じ状態を保つことができる。これは、ナ(中)とナ(魚)との交換である。
ナからの脱出
御子(応神天皇)は、ナ(己、自分)のナ(名前)において弄ばれていることに気がついた。無理して胎中にあったのだから、出て行きたくてたまらなかったのである。古語に、動詞イヅ(出)である。
越の海の 角鹿(つぬが)の浜ゆ 大船に 真梶(まかぢ)貫きおろし 鯨魚(いさな)取り 海路(うなぢ)に出でて あへきつつ ……(万366)
「いで」という語には、感動詞の、さあ、の意がある。古典基礎語辞典に、「動詞イヅ(出づ、ダ下二)の古い命令形イデから出た語。上代から例があり、中古を中心によく使われている。」(130頁、この項、我妻多賀子)としている。上代の使用例としては、相手に向って呼びかけるときの場合(さあ。どうぞ。)、自分が行動を起そうとするときの場合(いざ。それっ。どれ。)、自分に対してであるが承服しがたい場合(いや。さあどうだか。)といった分類が行われている。時代別国語大辞典では、「①他に対して何らかの行動を乞い求める場合。……②自己の意志を強調する場合。……③自分に対して問いかけ、疑いをこめる場合。」と分類され、「【考】類語にイザがあり、イデと同じとみる説がある。②にはイザと重なる面があるけれども、①と③はイザにはない。」(84頁)とある。それぞれ1つずつ例をあげる。
圧乞(いで)、戸母(とじ)、其の蘭(あららぎ)一茎(ひともと)。(允恭紀二年二月)
この川に 朝菜洗ふ子 汝れも我れも よちをぞ持てる いで子給(たば)りに(万3440)
いで如何に ここだはなはだ 利心(とごころ)の 失するまで思ふ 恋ふらくのゆゑ(万2400)
時代別国語大辞典にいう①の意と同じ用例として、「…… 夕(ゆふべ)になれば いざ寝よと 手を携(たづさ)はり ……」(万904)の「いざ」という例があると思うがどうなのであろうか。大野編、前掲書に、感動詞の「いざ」は、「動詞イザナフ(誘ふ)の語幹。勧誘・行動開始の時などに発する語で、上代から確例がある。」(109頁)とある。また、イデの③の使い方は、さあどうだかわからない、と言いよどむ言葉のイサによく似ている。
…… 愛(は)しきやし 今日やも子らに 不知(いさ)にとや 思はえてある ……(万3791)
すると、イデという語は、イザとイサとによってまかなわれることになる。語の由来としてイザとイサは異なけれど、鯨のことは古語にイサである。「俗(くにひと)、鯨を云ひて伊佐(いさ)と為す。」(壹岐風土記逸文)とある。音声言語のうちでも口語的な性格の強い発語の言葉について、用法が異なるとして峻別できるものではない。もとより、上代の人たちが、言葉遊びに興じていたからといって。それを言葉の乱れとして咎めだての対象とされるものではない。
現代語で、「さあ」と言った時、「さあ、やるか」は自分がやるのか、相手にやらせるのか、どちらでも構わないし、やるものか、という拒絶の言としても成り立っている。そのような義の古語イザには、「さあ」の短縮形のサという語もある。それらを連結させたイザサという語は、自らを奮い立たせて何か新しい境地へと向かう際の掛け声を表すことになるし、相手に誘いかける時の重々しい働きかけの掛け声とも捉えられる。はたまた、どうしたらよいのか躊躇、逡巡するときの発語ともなり得るであろう。
「御子」は、わざわざ越の国へ赴いて何をしようとしていたのか。一般に成人式、成年儀礼の意味があるとされている(注3)。そういう言い方をするならばそのとおりであろう。母親の庇護から離れ、独立した一人前の人間として生きて行こうとしていた。そのためには、負っているナ(中、腹)というナ(名)をどうにかしなければならない。母親あっての「御子」なのであるが、「御子」でありつつ独り立ちしたい。ダブルバインドから抜け出すにはどうしたらいいのか。そのとき、気比大神が夢に現れて、うまいことを提案してくれたのである。その名は、笥飯(けひ)である。食べ物のことである。お腹の子どもの代わりに、お腹に食べ物を入れればいい。そうすれば、あなたはナ(中、腹)という名を負ったままでも、ナ(己)として一人前になれる。だからさっそく、ナ(魚)を献上しましょう、ということとなっている。
蚊帳のある御殿(春日権現験記第七軸、板橋貫雄模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287492/11をトリミング)
イルカ=入る蚊
イルカ(「入鹿魚」)であった理由の第二は、太子と武内宿禰とは、出張先で仮宮を建てて泊まっているからである。いつもの御殿ではない。ボンボンはふだん宮殿で暮らしている。蚊帳で囲われているから、母胎に包まれているのと同じ境遇にある。蚊に食われることはない。しかし、出先の仮宮では、蚊帳がないから蚊取線香になるような松葉などを燻べて凌ぐわけだが、どうしても部屋の中に蚊が入ってきてしまう。イルカ(「入る蚊」)である(注4)。夜、なかなか熟睡できない。今日、レム睡眠とノンレム睡眠とが循環して眠りが構成されていることが知られ、レム睡眠の際に頭脳が活動して夢を見ることが多いことが知られている。(ノンレム睡眠中でも夢を見ることはあるらしく、夢に濃淡もあるらしいが、本稿とは関係ないので深入りしない。)蚊が入って熟睡できないから、夢を見がちになる。付き添いの建内宿禰とて同様である。刺されたら痒いから、バチバチ叩く。叩かれて死ぬ蚊は、鼻を人の体の中に入れたまま潰されるから、鼻がへし折られて血まみれの状態になる。だから、角鹿の海岸に打ち寄せられていたイルカは、「鼻を毀てる」こととなり、その浦は「血浦」と名付けられている。地震が関係してイルカが浜に打ち上げられている例が知られ、また、イルカを捕獲するには、追い込み漁を伴いながら頭部を銛で突くこともある。神奈川県横浜市稲荷山貝塚(縄文時代)からは、イルカの骨が多数出土している(注5)。しかし、実際の漁法や解体作業と、「鼻を毀てる」という表現とは結びつかないと思われる。なお、イルカの呼吸器は、ハナ(端)と呼ばれる口先の部分にではなく、頭の上にある。
バンドウイルカ頭骨(横浜市金沢区称名寺貝塚、縄文時代中期末~後期初頭、横浜市歴史博物館展示品)
バンドウイルカ?(新江ノ島水族館)
なるほどである。御殿暮らしばかりでは知り得ない体験である。世の中には蚊がいて、食うか食われるかの自然の営みをしている。食べ物が手に入るのは当たり前だと思っていてはいけない。「御食(みけ)の魚(な)」はそういう自然の営み、民百姓の生業をもって生れている。飛躍的な悟りである。それは成年儀礼に当たると言えばそのとおりである。ただし、儀式化した行事を意味するのではなく、本当に体験して理解したということを示している。体験を経験としてフレーミングし、物語へと昇華している。それを言葉として表しているのが、この名易えの話である。ナ(中、腹)というナ(名)は普通名詞だから変えられないが、それをナ(魚、菜)であると捉え返せば呪縛から逃れられるのである。嫌な綽名を付けられても、意味を読み替えて克服する人は生きる力の強い人である。
クラインの壺、鞆
胎中にあるままの坊やは、世間知らずである。与えられた過保護の呪縛から解き放たれなくてはならない。抜け出すには、イザ、サ、と掛け声をかけて発奮し、自ら鼓舞して生きようとしなければならない。そんな状況の時に、イザ+サという神さまが夢に現れた。あなた、名前、易えようか? まったくもって「恐(かしこ)し」、賢いことである。頓智が冴えわたっている。翌朝、浦へ行ってみると、「御食の魚」が「依」っていた。依っているのだからそれに依って何とでも考えればいい。これは、「御食の魚」なのだ、自分の名のナ(中、腹)は、これからは、ナ(魚、菜)に当たるものにしよう。それはまるで、クラインの壺(クラインの瓶)(注6)をぐるりとめぐったも同じであるが、ナ(己)を相対化して鳥瞰することができたのである。雌イルカのお腹の中に子イルカのいるのを見て悟ったものと思われる。
鞆(正倉院宝物復元模型品、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
鞆形のクラインの壺(山下1999.9頁)
ホムタノスメラミコトのホムタ(鞆)は、トモ(鞆)のことである。紀の分注に、「上古時俗、号レ鞆謂二褒武多一」とある。今はトモ(鞆)といい、昔はホムタと言ったとする。弓を射る時に左手に当てておいて、弓弦が手を痛めないようにする防具である。黒漆塗りの皮製で、正税帳からすると鹿ないし馬の皮を使うようである(注7)。正倉院に残るものは、牡鹿の白い毛やマコモなどの詰め物を入れて膨らませてあるという(注8)。鹿は、雌鹿はメカ、子鹿はカゴ、牡鹿をシカと呼び分けていた。記に、「角鹿(つぬが)」という設定をことさらにしているのは、シカ(牡鹿)にしか角が生えないため、その毛皮を使った鞆のことが念頭にあるからである。鞆は外皮に牡鹿の皮、なかに牡鹿の白毛を入れている。シカ(牡鹿)の毛皮を剥いで、裏返してくるりと丸めまとめたようなものである。シカは「然(しか)」と同音である。鞆とはすべてシカ(牡鹿)でできた然なるものである。
シカ(♂、奈良公園、2月)
鞆の図(伴信友・鞆考補証、国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533543/9をトリミング)。また、高木正朝・日本古義(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563733/65~67)に展開図有り。
話に唐突にイルカが出てきていた。浦に打ち上げられていたのが他の魚ではなくイルカだった第三の理由は、鞆が入れ子のシカ(牡鹿)ゆえである。牡鹿が子を孕むことはないから、面白味が増している。御子が胎内に宿った時、「我が大神」が「天照大神の御心」として、また、「底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神」だと称して教えてくれている。
……亦、建内宿禰、沙庭に居て神の命(みこと)を請ひき。是に教へ覚したまふ状(さま)、具(つぶさ)に先の日の如く、「凡そ此の国は、汝命の御腹(みはら)に坐す御子の知らさむ国ぞ」とさとしめたまひき。爾に建内宿禰白さく、「恐(かしこ)し。我が大神、其の神の腹に坐す御子は、何(いづ)れの子(こ)ぞ」とまをせば、答へて詔りたまはく、「男子(をのこご)ぞ」とのりたまひき。(仲哀記)
わざわざ建内宿禰が問い掛けて、大神が答える問答となっている。話として性別を確かにしたい点は、シカ(牡鹿、然)を強調する伏線となる。そして、「入鹿魚」と記している。当て字に魚類であることを示すために添え字が付けられている。手紙が入っている魚のことは、中国の故事に鯉素という。鹿が入っている魚のような形をしたものとは、鞆であろう。太安万侶は字が読めたから、そのような当て字をしているのであるが、イルカ=イル(入)+カ(鹿)という語感は識字能力とは無関係に、人々に共有され得る。みなヤマトコトバである。これは語源という意味ではない。古代の人は連想ゲームを楽しんでいたということである。イルカという水族は、カ(鹿)がイル(入)状態、入れ子構造状態のものであると洒落を言っているのである。そして、「鼻を毀てる入鹿魚」とは、イルカの鼻先に穴をあけてくるりと尾を回し通したら、まるで鞆のような形になると空想している。(その際、位相幾何学的な曲面まで考慮していたかは定かではないが、ナという言葉の循環を楽しんでいることから、概念としては理解していたように思われる。)
鞆とは、外身も中身もトモ(共、伴)にシカ(牡鹿)であるから確かなものである。新撰字鏡に、「切々 敬也、憂也、太志加尓(たしかに)」などとある。タ+シカ(然)+ニの語構成であろう。確かなものとは、田において、然(しか)と確実な収量が見込まれる田のこと、すなわち、美田を指す。ホムタを「誉田」と記したときの義は、おいしいお米をたくさん収穫できる確かな田のことである。種籾を蒔いておいて秋に確かに一粒万倍に稔りを得ることができる田こそ、ホムタ(誉田)である。外もシカ(牡鹿の皮)、中もシカ(牡鹿の毛)なるものは鞆である。よって、ホムタというのは、御食(みけ)の謂いでありつつ鞆(とも)の謂いである。そして、ムタやトモという語は、~と一緒、という意味である。ナ(名)において、ナ(中、腹)とナ(魚、菜)とが一緒なことを自己循環的に表わす語としてふさわしい。
ムタという語は、助詞のノやガをともなう連体修飾をうけて、副詞句を作る。~とともに、~のままに、~につれて、の意である。「波のむた」(万133)、「風のむた」(万119)、「神のみた」(万1804)、「君がむた」(万3773)、「人のむた」(万3871)などとある。波や風や神や君や人に包まれ懐かれて一緒になってもまれていくことになる。「波のむた」という言い方によく表れているように、波は寄せては返すもので、ぐるりと循環することを可とすることをいう。
まとめ
ナ(中)というだけのナ(名)であった御子は、ナのままでありながらナ(魚)と易えて、ナ(己)たるものとして、いろいろなナと一緒にもまれて行った。この名易えの話は、日本書紀の分注の謎掛けにあるとおり、「然らば、大神の本の名は誉田別神、太子の元(はじめ)の名は去来紗別尊と謂すべし。」として詳らかである。太子の名はナ(中)でありつつ、「いざ、さ」と「角鹿」まで出掛けてきている。大神の名はナ(魚)でありつつ、そうそうと答える「しか(然)」であり、「ほむた」でも「とも」でもあるような鹿が中に入っているようなものである。
埴輪 鞆(群馬県伊勢崎市上植木本町恵下2622出土、古墳時代、東京国立博物館研究情報アーカイブズ)
以上、ナというヤマトコトバの位相幾何学を述べた。鞆という弓の防具がシカの毛皮を裏返してくるりと丸めて端を貫き通す作業を実地に行ってみれば、「然(しか)」なりと納得されることであろう(注9)。上代の人にとって、世界はヤマトコトバでできていた。これほど頓智の利いた言葉を喋っていながらただやり過ごすことはなかろう。人々は興趣を覚え、わざわざ鞆を単独の形として面白がって埴輪にして遊んでいる。形象埴輪とは何か。考古学では出土するモノを出発点として当時の人々のことを考えようとするが、残るものについては考え、無いものについては考えない。あるものについても、なぜそれがあるのか、現代人の視点、歴史学や民俗学からしか考えが及ばない。籠手形埴輪は乏しいのに、なぜ鞆形埴輪があるのか、素朴な疑問さえ浮上していないように思われる。しかし、古代の人は、鞆を埴輪に作って悦に入っていた。その所以について、名易えの話として古事記は雄弁に語ってくれている。古代の人は、ヤマトコトバで考えていたのであった。
(注)
(注1)「伊奢沙和気大神之命」を伊奢沙和気大神の御言(みこと)の意と論証されているものとして、阪下2002.がある。また、誰の夢に託宣を聞かせてくれたのかについては、本居宣長・古事記伝に、「此は太子の御夢には非で御供人の夢なるべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041637/227)とし、武内宿禰の夢であるとする。後文に、「御子、令レ白二于神一云」とあって、第三者を介して神さまに伝えている。その第三者とは、神と人とをつなぐ御言持ちとなる御供人、巫覡者である武内宿禰であろう。夢のなかでの問答においても、大神の問いに対して「言禱(ことほ)き」て巫覡の役割を果たしている。
(注2)藤澤2016.は、「『古事記』の当該条の「易名」は、実際には名の交換ではなく、太子が一方的に大神の名を吸収したことになっている。『古事記』では天皇の立場の優位をより一層強く押し出すため、互いの名の交換ではなく、太子への名の献上という形をとったのである。すなわち、大神の「易名」の申し出は、名を献上することによる服属の申し出だった、という文脈になっているのである。」(56頁)とする。
また、烏谷2016.にも論点整理があり、当該個所は、「「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と読み、その解釈には⑴神が太子の名を自分の名として替える ⑵神の名をもって太子の名に替える ⑶ともに名を交換するの三説がある。」(335~336頁)とする。そして、⑴説に本居宣長・古事記伝、⑵説に次田1924.、中島1930.、⑶説に西宮1991.があるとする。
西宮氏は、発表時期によって訓読を変更している。西宮1991.には、「私は、古事記をこう読めば分ると思う。すなわち、誉田別の名とイザサワケの名とではなく、大鞆和気の名とイザサワケの名と交換したものと読むのである。すると御子は新たにイザサワケの名を貰ったわけで、「「イザ」(さァ)、サ(神稲)をどうぞ」の名で、「鞆」と同音の「誉田」(美田の意)という新名義への転換の契機を与えたものと読むのである。」(74頁)とある。
烏谷2016.は、⑵の立場に立つようである。「夢の中で詔られた伊奢沙和気大神命の「獻二易レ名之幣一。」の言葉は、天照の御心を受けた天命・受命であり、名易えによって御子の名に権威が与えられ、翌朝浜にうちあげられた幣の入鹿は、天からの受命の君に降された祥瑞であり、符言に相当するものであろう。したがって「私の名をあなたに差上げて、あなたの名としたい。」と解釈するのがよいと思われる。」(339頁)とある。
藤澤2016.や烏谷2016.の論考は、文脈をいかに解釈するかという問題ばかりに目が行っている。単に“解釈”の問題であるとするなら、言=事とする言霊信仰は揺らぎ、上代の人々はニーチェのような人ばかりであったことになってしまう。およそ言語の体をなさなくなる。
(注3)御子が越の国へ禊ぎへ行ったことと名前を変えることによって、立派な大人となって天下を治めるのにふさわしい存在となった考える傾向は、読みの細部こそ違え、今日の研究者の間に定説のように語られている。元服式に幼名を改めることの意義を説き、解いたかのように考えている。主だった議論を紹介しておく。
……太子は武内宿禰にともなわれて淡海若狭を遍歴した後、角鹿でみそぎをする。話の上では戦における死の機れを浄めるためということになるが、これも儀礼的な死の期間に課せられる試練を克服した後に、水の生命力によってよみがえるという復活儀礼の段取をこのように語ったのであろう。次いで角鹿のケヒノ大神が名を易えることを申し出、その礼にイルカが御食として太子に献上される。わかりにくいところのある話だが、名を易えることが、成年式を経ておとなとして再誕したことの証として欠かせない儀礼的手続きであったことを想起すれば、物語構造におけるこの話の意義は諒解できるだろう。みそぎの場所が角鹿であり、ケヒノ大神が登場することには深いわけがある。この神は角鹿笥飯浦の地名を名とした地主神である。御食の魚を献上したから御食つ大神と名づけたという話になっているが、ケヒノ大神は元来そうした性格をおびていたのだろう。角鹿は越前に属するが若狭に接しており、若狭から越にかけての海陸の交通の要路に位置していた。志摩淡路と並ぶ御食つ国若狭の調の大部分は海産物で占められるが、それらは角鹿を経由して都に運ばれたらしい。ケヒノ大神は若狭から越にかけてのこの一帯をうしはく御食つ神であったのだろう。従って御食の魚献上の話は、この一帯の、御食つ国としての服従を意味する。さらにケヒノ大神にはもう一つ、大陸交通の裏玄関の守り神という役割があった。潮流の関係で、越の海岸には意図的にせよ不本意にせよ、大陸からの船が到来することが稀ではなかった。(倉塚1986.82頁)
……そこで名換えの神事が行なわれたことを語っている。すなわち神の名「イザサワケ」と皇子の名を取りかえたというのである。とすれば、この名換えをした後の神名「ミケツ」あるいは「ケヒ」が、かつての皇子の名であったことになる(「記」は鼻のやぶれた魚<いるか>を名にかけて、ミケの名を賜ったとしゃれた語呂合せをしているので話の筋が混乱している)。ミケは御食、ケヒとは食霊の意で、ともにこの皇子が本来、穀霊を意味する幼名を持っていたことが知られ、かつそうした名が瑞穂の国の天皇や皇子たちに類例の多いことは改めて論ずるまでもない。たとえば神武の海上東征伝説で語られている、浪の秀を踏んでトコヨに行ったミケヌノミコトや、神武自身の別名ワカミケヌのごときはその著例であり、そこに神武(ミケヌ)と応神(ミケツ)の名の上での対応が見られるばかりでなく、海の国トコヨから渡り来る穀霊的日の御子という伝承観念もまた類型を同じくしている。換言すれば、これこそ瑞穂の国に君臨する偉大な天皇の霊能を詮表する神話的観念であると云えよう。ただし、そのように即位物語が神話的であるということは、必ずしもそれぞれの天皇が非実在であることを意味しない。神話は特定の実在者の性能に対する説明的 theory であり類型的称讃であるからである。トコヨから喪船で渡って来た皇子がミソギをしてこの世に再生し、イザサワケノ大神の社前で神の名を自分の名としたということは、もっとも典型的な成人式の儀礼であり、カリスマ的社会における「名取り」である。あるいは原始的な即位儀礼と解釈してもよい。いずれにするも、神との交霊による新しい人格の成立を意味している。トコヨからの喪船の旅も、そうした儀礼による新天皇の出現を説明したものにほかならない。(三品1972.120~121頁)
……気比大神は漁撈民に尊崇された、海の幸を内容とした食物神であったことがわかる。あるいは、この神は、魚群を湾に追い込むことのある海豚を原体とする神であったのかもしれない。「應神天皇の誕生」の物語で、「我に御食の魚給へり」というのが、ただ一つの應神天皇の発言であるが、禊ぎの後の魚の摂取をうかがわせる場面でのこの発言は、即位の大嘗祭で聖なる稲を食べて稲の司祭となりえたと同様、漁撈民社会での豊饒祭の聖餐の場面での支配者誕生を告げる発言の響きがある。浦一面に寄せられた、鼻を傷つけた海豚は、祭りの日に舟ばたを叩く音におどされて、湾の浅瀬にのりあげ殺害された聖なる魚の姿であったのかも知れない。私は気比大神による名の授与の話を、漁撈民社会における豊饒祭を下敷きにした、支配者儀礼の名残を示すものと受けとりたいのである。ともあれ、気比大神の鎮座する角鹿の地が、若狭から越前にかけての漁撈民の中心となる聖域であったことは十分に推定できる。(吉井1992.203~204頁)
(注4)仮宮に蚊が入ることに触れた上代の記述に、景行記の酒折宮の話がある。拙稿「「かがなべて」考」に論じた。
(注5)横浜市歴史博物館2016.に、「湾内に入ってきたイルカを仕留めるには銛漁法が有効だ。称名寺貝塚でも最盛期には大型の銛が作られるようになる。併せてヤスを使うことにも積極的であった。イルカの群れがやって来たからといって必ずしも捕獲できるとは限らない。ソロモン諸島のイルカの追い込み漁では、成功率20%。5回の4回は獲物なしで浜にもどったと言う報告がある(竹川1995a.)。称名寺貝塚の人々も同じように、あるいはそれ以上に厳しい状況の中で、生き抜いてきたのであろう。」(33頁)とある。
モリ頭・ヤス頭(シカ角製、都筑区南堀貝塚・獣骨や角製、金沢区称名寺貝塚、横浜市歴史博物館展示品)
竹川1995b.に、「何時間もかかって、群を囲い込みながら村までやってくると、浜では女たちがカヌーを用意して待ち構えている。総勢五〇艘近くのカヌーがラグーンの中にならぶ様子は壮観である。最後は人々が歓声をあげながら海に飛び込み、浅瀬に追い詰めたイルカを次つぎに抱きかかえカヌーに乗せていく。」(97~98頁)とある。
田辺2011.は、『伊東誌』(寛永二年(1849))を引いている。そこには、「陸地成(ママ)平生用る地曳網の場に至れば、後掛と云て幾重にも地曳網にて懸廻し、手近くなると両村より若者大勢出て、曳ころばしという太き縄網にて懸廻し陸地へしめつけ、数人海中へ飛入、かの入鹿を抱上るなり。」とある。屈強な若者が水深の浅いところに追い込まれたイルカを抱きかかえるようにして浜に持ち上げるというのである。究極の追い込み漁で、銛で突く必要はないらしい。そして、後はその他の人が解体作業を行う。昭和時代の写真でも、頭を落とし、内臓を取り出している。浜辺が鮮血で染まる。記に、「血浦」と称したというのは理解されるところである。
なお、イルカの中身をえぐって皮を使った道具があったかどうか不明である。筆者は、あるものは何でも利用していたからあるであろうと推測しているが、不勉強で知らない。お教え頂けると幸いである。
鮭の鞋(左:アミューズミュージアム展示品、右:ナナイ族の伝統品、東洋文庫ミュージアム展示品)
(注6)教科書を引用する。川崎2001.に、「自分自身との交差をもつものも曲面の仲間に入れることによって、向き付け不可能な閉曲面を考えることができる。典型的なものは、クラインの壺(klein bottle)といわれるものである。これは、ジェットエンジンのカバーのような曲面で、空気の取り入れ口に続く風洞を延ばして、自己交差を許して、カバーの外に導き、ジェットの吹き出し口に逆に取り付けたものである。」(43頁)とある。なお、4次元空間では自分自身との交わりをはずすことができるという。
(注7)正倉院文書には、「鞆」と「𩎒」について次の記事が見える。○に番号は、大日本古文書の巻、後の数字はページを表わす。「𩎒」字は、諸橋轍次『大漢和辞典』に字義未詳とされ、また、大日本古文書に「干」を「于」に作る例もある。
𩎒肆拾巻料稲壱拾柒束弐把 壱巻料稲肆把参分〈鹿韋長九寸 広五寸 直稲三把二分 緒鹿洗皮長二尺三寸 広五分 直稲一把〉(①六一二)天平六年十二月二十四日、尾張国正税帳
鞆肆拾勾〈別長九寸 広九寸〉料皮壱張半〈一張長四尺、広三尺、一張長三尺、広二尺、〉直稲拾伍束〈一張直十束 一張直五束〉(②六九)天平十年二月十八日、駿河国正税帳
𩎒肆拾巻料馬皮壱枚半〈一長四尺 広三尺 一長三尺 広二尺 巻別長九寸 広五寸〉直稲壱拾伍束〈一枚十束 一枚五束〉(②一一九)天平十年、駿河国正税帳
𩎒手牛革壱枚〈長五尺 広三尺四寸 巻別長四寸五分 広一寸五分〉直稲柒拾束 縫糸捌拾条〈卌条別長二尺四寸 卌条別長一尺五寸 巻別長短各一条〉成斤壱両直稲参束柒把〈一斤直六十束〉緒洗韋半枚〈長二尺三寸 広二尺 巻別長二尺三寸 広五分〉直稲肆束(②一一九)天平十年、駿河国正税帳
𩎒壱拾口料𩎒手牛皮壱条〈長四尺五寸 広一寸五分〉価稲捌束(②一九二)天平十一年、伊豆国正税帳
……正丁、兵士、左手鞆〓(㐽のメの代わりに人)疵三(②二七五)天平十二年、越前国江沼郡山背郷計帳
伊勢貞丈・四季草(安永7年(1778))(早稲田大学古典籍総合データベースhttp://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wa03/wa03_00367/wa03_00367_0002/wa03_00367_0002_p0017.jpg)に、「貞治の頃既に鞆付て弓射るやう知人少きやうになりたり。今の世に知る人なきはことわりなり。」とあるほどに、早く廃れて知られなくなったものである。
(注8)関根1989.は、正倉院文書に残る正税帳の記事から、鞆本体の材質は、「鹿革または馬皮の可能性が強いだろう。院蔵の一例によれば、長一一・五㌢、幅約七㌢であるから、右の一巻料の皮を二等分して四寸五分×五寸のもの二枚を重ねて巴形に截り、心(牡鹿白毛やマコモ「材質調査」)を入れ、縫合せたと考えられる。」(124~125頁)としている。
(注9)「巴(ともゑ)」という言葉があり、鞆に描かれていた絵のこととする説と、鞆の形を描いた絵とする説とがある。筆者は、鞆の皮の上に鞆の形を絵として描いていたと考える。鞆がクラインの壺として認識されていたとするなら、絵を描くことも自己循環的になっていて正解である。後に、文様として二つ巴や三つ巴が作られていくが、もとは自己完結的に一つ巴文として鞆に描かれていたであろう。
左一つ巴文(「旅から旅の着物のおはなし」様(http://tabikaratabi.pro.tok2.com/cgi-bin/c-board.cgi?cmd=all;page=10;id=monnyoujitenn)
巴文軒丸瓦(仙台城跡出土、仙台市ホームページhttp://www.city.sendai.jp/shisekichosa/kurashi/manabu/kyoiku/inkai/bunkazai/bunkazai/joseki/kawara.html)
三つ巴文が瓦の軒に見えるようになるのは、武具としての鞆が廃れていった平安時代の終わりごろからのようである。そのへんの心理的事情については、後考を俟ちたい。
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※本稿は、2017年2月稿を2019年12月に改稿したものである。
応神天皇に名易えの話が載る。
故、建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)、其の太子(おほみこ)を率(ゐ)て、禊(みそぎ)せむと為て、淡海と若狭との国を経歴(へ)し時に、高志(こし)の前(みちのくち)の角鹿(つぬが)に仮宮を造りて坐しき。爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢(いめ)に見えて云ひしく、「吾が名を以て、御子の御名に易へまく欲し」といひき。爾に言禱(ことほ)きて白(まを)ししく、「恐(かしこ)し、命(みこと)の随(まにま)に易へ奉らむ」とまをしき。亦、其の神の詔(のりたま)ひしく、「明日(くつるひ)の旦(あした)に、浜に幸(いでま)すべし。名を易へし幣(まひ)を献らむ」とのりたまひき。故、其の旦に浜に幸行(いでま)しし時、鼻を毀(こほ)てる入鹿魚(いるか)、既に一浦(ひとうら)に依りき。是に御子、神に白(まを)さしめて云ひしく、「我に御食(みけ)の魚(な)を賜へり」といひき。故、亦、其の御名を称へて、御食津大神(みけつおほかみ)と号(なづ)けき。故、今に気比大神(けひのおほかみ)と謂ふ。亦、其の入鹿魚の鼻の血、臰(くさ)し。故、其の浦を号けて血浦(ちぬら)と謂ひき。今に都奴賀(つぬが)と謂ふ。(仲哀記)
日本書紀に、名前を取り替えたのならば、元の名がそれぞれであったはずなのに、そうはなっていない。よって、「未詳」であると注している。
初め天皇、在孕(はらま)れたまひて、天神地祇(あまつかみくにつかみ)、三韓(みつのからくに)に授けたまへり。既に産(あ)れませるときに、宍(しし)、腕(ただむき)の上に生(お)ひたり。其の形、鞆(ほむた)の如し。是、皇太后(おほきさき)の雄(をを)しき装(よそひ)したまひて鞆(ほむた)を負(は)きたまへるに肖(あ)えたまへり。肖、此には阿叡(あえ)と云ふ。故、其の名(みな)を称へて誉田天皇(ほむたのすめらみこと)と謂(まを)す。上古(いにしへ)の時の俗(ひと)、鞆を号(い)ひて褒武多(ほむた)と謂ふ。一に云はく、初め天皇、太子(ひつぎのみこ)と為りて、越国(こしのくに)に行(いでま)して、角鹿(つぬが)の笥飯大神(けひのおほかみ)を拜祭(をが)みたてまつりたまふ。時に大神と太子、名を相易へたまふ。故、大神を号けて去来紗別神と曰(まを)す。太子を誉田別尊と名くといふ。然らば、大神の本の名は誉田別神、太子の元(はじめ)の名は去来紗別尊と謂すべし。然れども見る所無くして、未だ詳らかならず。(応神即位前紀)
この分注記事から、紀を編纂した当時の人にとっても、すでに意味が理解できなくなっていたとされている。短絡的な解釈である。当時、過去数百年以上の歴史をまとめ、日本書紀を編纂してしまうほどの人たちが、その程度の理解にとどまっていたとは考えにくい。むしろ筆者は、晦渋な編纂者が、事実を知りつつ、ここは謎掛け部分ですよと記したいがために、無用な注をつけていると考えている。わからなければわからないままにしておけばいいし、小賢しい輩なら記述自体を改竄すればいい。確かに、当時も、頓智のきかない人にはわからなかったであろう。それをからかっていると思われる。
夢のお告げ
古事記に、「以二吾名一、欲レ易二御子之御名一。」というのは、夢の中の話である。夢に現れたのは、「伊奢沙和気大神」か、「伊奢沙和気大神之命」である。「大神之命」という神名の呼び方は他に見えない。ミコトは名前の尊称であるとともに、ミ(御)+コト(言)の意でもある。偉い人の言うことは、そのとおり実現することが多いから、言=事であるとする言霊信仰に適うことになる。そこで、伊耶那岐命(いざなきのみこと)とか、倭建命(やまとたけるのみこと)という名前ができあがっている。しかし、「天照大御神之命以」(記上)とあるのは、「天照大御神の命(みこと=仰ること)を以て」の意である。すぐ後ろにも、「恐、随レ命易奉」とある「命」は、御言(みこと)の意である。「亦其神詔」とあって「亦其神之命詔」とはない。したがって、この部分の訓みは、次のようになければならない。
爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢に見えて云ひしく、……(爾坐其地伊奢沙和気大神之命、見於夜夢云、……)
新編全集本古事記は、「爾(しか)くして、其地(そこ)に坐(いま)す伊奢沙和気大神之命(いざさわけのおほかみのみこと)、夜(よる)の夢(いめ)に見(み)えて云(い)ひしく、……」(253頁)と訓み、頭注に、「気比大神の名だが、神名の下に「命」をつけるのは異例であり、問題が残る。ミコトは神名でなく、夢の託宣の言葉を指すとする説もあるが、言葉の意とするのでは「夢に見え」ということと合わない。」(252頁)とする。「夢(いめ、メは乙類)」という語は、イ(寐)+メ(目)とする捉え方から、目で見るものだから静止画なり動画なり、映像であろうと考えているようである。しかし、そうなるとそもそも、夢のお告げという言い方が成り立たなくなる。そうではあるまい。お告げで神さまが伝えてくれていることも、やはり夢に見るという言い方で表現していると考えられる。後述の神武記の高倉下の見た夢、垂仁記の御夢の覚しの話も同様である。
「夜」の「夢」に「伊奢沙和気大神」が「見」えて「命(みこと)」=御言を「云」っている。この夢で大切なのは、伊奢沙和気大神の姿かたちや立ち居振る舞いではない。伊奢沙和気大神の云っている言葉である。だから、「命(みこと)」という語を丁寧に使っている。夢に見えたのは神の姿ではないのか、という反論もあろうが、この逸話のテーマは名前のことである。名前とは、言葉である。無文字文化にあって、言葉とはすべて音声である。「云」っていることが「命(みこと)」として発せられ、それを恭しく聞いているのが、付添い人で神の託宣を聞く役目の武内宿禰である。武内宿禰が神さまのお言葉を聞いて、それを太子に伝達している。仰られたことを伝えていく言葉とは、御言(「命」)である。大切なのは、神さまの仰ることをきちんと聞いてきちんと伝えることである(注1)。
其の横刀(たち)を獲し所由を問ひしに、高倉下(たかくらじ)が答へて曰ひしく、「己が夢(いめ)に云ひしく、『天照大神・高木神の二柱の神の命(みこと)を以て、建御雷神を召して詔はく、「葦原中国は、……」とのりたまふ。……』といふ。……」といひき。(神武記)
爾くして天皇の愁へ歎きて神牀(かむどこ)に坐しし夜に、大物主大神(おほものぬしのおほかみ)、御夢(みいめ)に顕れて曰ひしく、「是は我が御心ぞ。……」といひき。(崇神記)
是に、天皇患ひ賜ひて、御寝(みね)しませる時、御夢に覚(さと)して曰さく、「我が宮を天皇の御舎(みあらか)の如(ごと)修理(つくりをさ)めたまはば、御子必ず真事問はむ」とまをす。(垂仁記)
真福寺本古事記(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185383/6をトリミング)
神武記の例の「高倉下答曰『己夢云、「天照大神・……」』」部分の「云」字は、諸本に「云」とあるのを「之」と校異するテキストが多い。しかし、真福寺本の当該字は、「之」にも「云」にもとれる曖昧な字体である。筆者には、どちらかといえば「云」に見える。内容的にも、夢に見たのは神さまの間の会話のやり取りである。「天照大神・高木神二柱之神命以」とあるように、「命」は御言のことである。二柱の神が仰られたことを伝えていって建御雷神を招集している。最終的に、「故、夢の教の如く、旦に己が倉を見れば……」とある。教えとは夢のお告げのことである。すべて言っていることばかりだから、夢の中で神さまたちが「云」っているとするのが適当であろう。夢は見るものであるけれど、神さまどうしの会話を聞いているのだから「云」と考えるのがふさわしい。
新編全集本古事記頭注に、「原文「夢之」とあり、「之」は不読で、夢に見たことにはの意。「夢云」の本文を採用し、夢で建御雷神(たけみかずちのかみ)が言うことにはの意とする説があるが、この段階ではまだ建御雷神の名は出てきておらず、無理がある。」(146頁)とする。建御雷神の言葉だけが夢に「云」われているわけではなく、天照大神・高木神の二柱の神の命(みこと)、すなわち、言うことを以て建御雷神が登場している。結論の建御雷神の言葉だけを取り出すこと自体、ナンセンスと言わざるを得ない。夢の中で神さまたちがいうことには、の意と考えるのに支障はない。その夢に映像は重要ではなく、音声だけで十分である。ラジオの夢を高倉下は見ている。
ナ(名)とナ(魚)
仲哀記に、「以二吾名一、欲レ易二御子之御名一。」→「於レ我給二御食之魚一。」へと展開している。それを、ナ(名)とナ(魚)との交換であろうかとする説は従来より指摘されている。「我に御食(みけ)の魚(な)を給へり。」と訓むテキストも存在する。大系本古事記、思想大系本古事記、古典文学全集本古事記、尾崎1972.、次田1980.、中村2009.などである。一方、どうしても納得がいかないということで、「魚」をウヲ(イヲ)と訓むテキストも多い。古典集成本古事記、新編全集本古事記、新校古事記などである。
藤澤2016.に、論点が整理されている。「大神の申し出は『以二吾名一欲レ易二御子之御名一。』というものであり、これについては以下の三通りの解釈が考えられる。
〔一〕吾が名と太子の名を交換したい。 (大神←→太子)
〔二〕吾が名を太子に差し上げたい。 (大神―→太子)
〔三〕吾が名に太子の名を賜りたい。 (大神←―太子)」(44頁)
としている。〔一〕説に、思想大系本古事記、〔二〕説に、新編全集本古事記、〔三〕説に、本居宣長・古事記伝があるとする(注2)。
この名易えの場面は、太子の命名の由来とも関わるとする阪下2002.は、ナという一語の名と魚との両義性が話の肝腎な点であるとする。
この説話全体の意味から肝腎なのは、太子の言葉の「魚」がすでに食物化したイルカをさすにとどまらず、謎かけとして示された神託への見事な解答となっていることであろう。それは、「神は私に御食の魚を下さった。(神のいう「吾名」は名ではなくてこの魚だったのだ)」と補うことができる。実は太子はナの両義性、名と魚の変換関係をはっきりよみ解いたとして差支えなく、そのこと自体、太子の成年への到達を語るものであった。かくして太子が神をたたえてみずから「御食津大神」と命名するに及び、魚と名の交換・贈与は完了する。結局、大神は「御子之御名」ではなく、太子からあらたな名を贈られたことになる。古代における命名・賜名は命名者と被名者(物) との関係更新のしるしであった。それよりすれば、太子の名を負うことと太子に命名されることとは全く同一の意義を示すものとしてよい。(22頁)
そして、「気比(けひ)」という大神の名は、「易(かへ)」という語の音転であることによっているとされている。西郷2006.も踏襲する。仮に「気比(けひ)」という言葉が「易(かへ)」ることと関係するなら、宇佐八幡が嘘八幡であるかのような逸話が、もっと多く伝えられて良いように思われるが他に見られない。そして、日本書紀の分注にあげられている疑問点は、これまでの諸説同様、解消されていない。大神の本の名は誉田別神(ほむたわけのかみ)、太子の元の名は去来紗別尊(いざさわけのみこと)でなくてはならないのではないか、という問いに答えられていない。
太子のもとの名
太子のもとの名は何であったか。応神記を遡ってみていくと、上にあげた「御子」、「其の太子」、「其の御子」とあり、仲哀記の皇統譜に出生譚が記されている。
又、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)是は大后なり。を娶りて生ませる御子、品夜和気命(ほむやわけのみこと)、次に大鞆和気命(おほともわけのみこと)、亦の名は品陀和気命(ほむたわけのみこと)。二柱。此の太子の御名、大鞆和気命と負はせる所以は、初め生れまししし時、鞆(とも)の如き宍(しし)、御腕(みただむき)に生(な)りき。故、其の御名に著(つ)けき。是を以て腹の中に坐して国を知らすぞ。(仲哀記)
鞆をつけた射手(年中行事図屏風、住吉如慶(1599~1670)筆、紙本着色、江戸時代、17世紀、東博展示品)
鞆をつけた挂甲武人埴輪(群馬県太田市飯塚町出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)
わざわざ、「此太子之御名、所三-以負二大鞆和気命一者、」とされて説明が付されている。奇異な「負」字が記されて説明されている。名負いの者として、「大鞆和気命」はあった。そして、そのことによって、「是以知下坐二腹中一国上也。」とある。その名前が付されていることから、お腹の中にありながら国を治めた。そう理解されなければ、上代の人と共通の認識に立ったとは言えない。名は体を表していると述べられている。そして、この皇統譜以降、名は語られていない。
応神天皇の出生の経緯は、神功皇后の新羅親征の話として語り継がれてきている。「神の命(みこと)」として、「凡そ此の国は、汝(な)が命(みこと)の御腹に坐す御子の知らさむ国なり。」と武内宿禰に教え覚らせている。「此の国」は倭の国のことである。本居宣長・古事記伝にも、「此ノ国は、上文に、玆天ノ下者とありしと同くて、皇国なり、【書紀に、汝不レ得二其国ヲ一、唯今云々、其ノ子有獲とあるに依れば、三韓を指るが如くにも聞ゆれど、然には非ず、かの書紀の汝ハ不レ得二其国ヲ一も、此記には玆天ノ下者云々とこそはあれ、】」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041637/200)とある。そこで、お腹の中に身籠ったまま、いわゆる鎮懐石をあてて産まれないようにしておいて新羅(「其の国」)へ親征した。そのようなことが現実に、ないし、科学的に可能かどうか、それは“話(咄・噺・譚)”とは無関係である。そういう“話”として聞かされ伝えられ知られているから、そういうものとして認められていた。
「腹中」の訓み
皇統譜に「腹中」とある個所を、今日までハラヌチ(腹の内)という訓み方をしている。しかし、太安万侶は、「中」という用字で記している。紀には、ホムタノスメタミコトに「胎中誉田天皇」・「胎中之帝」(継体紀六年四月条)、「胎中天皇」(継体紀二十三年四月条)と記されている。近似の用法であろう。ウチ(内)ではなく、ナカ(中)であることが特別な事柄なのではないか。
記の用字法において、「中」と「内」とは峻別されていると考える。それぞれ、固有名詞に使われている。
「中」…天御中主神、中津綿津見神、中筒之男命(中筒男)、胸形之中津宮、倭田中直、葦原中国、中臣連、田中臣、剣池之中岡、大中津日子命、須売伊呂大中日子王、帯中津日子命、息長真若中比売、大中比売命(大中津比売命)、中日売命、額田大中日子命、忍坂大中比売、田井之中比売、田宮之中比売、中日子王、忍坂之大中津比売命、墨江之中津王、田井中比売、橘之中比売命、春日中若子、中津王
「内」…凡川内国造、内色許男命、内色許売命、河内青玉、味師内宿禰、建内宿禰(建内宿禰命)、河内(川内)、川内之若子比売
この両者の間に、ナカ(中)とウチ(内)の言葉の交ることはない。「中」と書いたらナカ、「内」と書いたらウチ(uti)と決めている。そうしているのなら、一般名詞に使う際にも、「中」はナカ、「内」はウチと区別していると考えられる。例えば、「宮の中を臨むこと得ず」(仁徳記)と、「宮の内に参ゐ入りし時」(神武記)、「仍りて宮の内に召し入れて」(顕宗記)とでは、はっきりとニュアンスの違いがあることを知る。「宮内」は、その内部に入ることを言っており、囲いの内側へ入ることを指す。それは、「殿内」(記上、神武記)という記し方に同じである。他方、「宮中」は、内部に入ることがない。それは、「国の中に烟(けぶり)発(た)たず」、「後に国の中を見るに」(仁徳記)にある「国中」同様、傍観している。その場合、隔てがあっては見ることができない。隔てがないところ、戸や垣根、障害物がないところから見ている。つまり、「外(そと)」に対する「内(うち)」ではない。
他の例の、「衣中服鎧」(応神記)、「其衣中甲」(応神記)、「衣中服甲」(安康記)といった一連の表現について、防弾チョッキを内装しているから、「中」をウチと読んでいるテキストが多い。内側に隠してという印象をつけたいためであろう。しかし、「衣」を重ね着する場合、上着と下着の間に着るのなら、ナカ(中)に着ていると考えればいいのではないか。それは、「頂髪中」(仲哀記)とある個所を、「頂髪(たきふさ)の中(なか)」と読んで違和感のないことに同じである。「海中」(記上)、「火中」(垂仁記)、「野中」(垂仁記、景行記)、「庭中」(仁徳記)の「中」もナカと読んで問題ない。
したがって、仲哀記の当該「腹中」箇所は、ハラ(腹)のナカ(中)と読むべきであると知れる。
大津渟中倉之長峡(おほつのぬなくらのながを)(神功紀元年二月)
三国の坂中井〈中、此には那と云ふ。〉に聘(むか)へて、……(継体前紀)
渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)(欽明紀十五年正月、後の敏達天皇)
天渟中〈渟中、此には農難(ぬな)と云ふ〉原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)(天武前紀)
遠近(をちこち)の 磯の中なる 白玉を 人に知らえず 見むよしもがも(万1300)
第1~4例で、仮名遣いとして、「中」をナと訓んでいる。ナカ(中)はナ+カ(処)の意であろうとされている。類義語のウチ(内)は、ソト(外)に対して、ある範囲に包まれている内部をいい、ナカ(中)は本来、ものの中間、中くらい、その間柄のことを言っていたという。ただし、ものとものとの間にあることとは、両側のものが大きければ包み囲まれる様子となり、容易にナカ(中)にウチ(内)のような義が生じ得る。それが第5例である。磯の大きな巌の間に白玉があると言っている。応神記に連続する例として、「山谷之中」、「山谷之間」という表記がなされており、同じ意味であると考えられる。
太子のもとの名のトリック
さて、それでは、「胎中天皇」とも記されることのあった太子(応神天皇)のもとの名は、何であろうか。ふつうなら生れていて乳母に抱っこされ、名前が付けられて呼ばれていたであろうときに、お腹の中にいるのだから名前が付けられていない。これは異常事態である。あるべき名がない。名がない子どもとしてお腹の中にいた。ナ(名)はナ(無)かった。ナ(腹、中)にあった。ナ(己)にはどうすることもできない。それをどうにかしたいとき、決意・希望の助詞ナが使われよう。それらすべてが実情である。すなわち、太子の元の名とは、ナ?&ナ!である。
ナ(己)については、次のような例がある。
大己貴神(おほなむちのかみ)(紀)=大汝神(おほなむちのかみ)(播磨風土記飾磨郡)=大汝(おほなむち)(万4106)=大穴道(おほなむち)(万1247)=大名持神(おほなもちのかみ)(出典未詳)
常世辺(とこよへ)に 住むべきものを 剣刀(つるぎたち) 己(な)が心から 鈍(おそ)やこの君(万1741)
…… 己(な)が父に 似ては鳴かず 己(な)が母に 似ては鳴かず ……(万1755)
…… 己が母を 取らくを知らに 己が父を 取らくを知らに ……(万3239)
第2例の万1741番歌は、「剣刀」はナ(刃)の意でナにかかる枕詞である。常世の国辺に住んで安楽に居られるものを、自分で間抜けなことをしでかしているよと歌っている。その「己(な)」を二人称と見る説もあるが、一人称と二人称の呼び方が重なる例は数多い。問答をする際に、相手の立場に立って言えば、ワレ(吾)もワタシ(私)もボク(僕)もジブン(自分)も二人称となる。第3・4例も同様である。
実際、古事記において、応神天皇は太子時代、名前をもって呼ばれていない。「御子」、「其の太子」、「其の御子」とされている。どう呼ばれていたか。ナであろう。彼は幼少のころ、ナと呼ばれていた。ナという語に名と魚の両義性を求めていたのではなく、ナという語の根本概念、自己撞着を起した状態をもって、綽名とされてそう呼ばれている。したがって、彼は、角鹿(つぬが)において、ナに包括されている呪縛から抜け出そうとしていた。そういう洒落を言っている。ナという言葉の、ナ(腹、中)とナ(名)とナ(無)とナ(魚)といった多義性を面白がっている。
魚のことをナという例は、万葉集にも見られる。
帯日姫(たらしひめ) 神の命(みこと)の 魚(な)釣らすと 御(み)立たしせりし 石を誰(たれ)見き(万869)
この歌は、記紀の逸話に依っている。仲哀記には、帯日売命(たらしひめのみこと)(神功皇后)がご飯粒でアユを釣ったとする話になっている。
亦、筑紫の末羅県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと)に到り坐して、其の河の辺(へ)に御食(みをし)せし時は、四月(うづき)の上旬(はじめ)に当りき。爾くして、其の河中の磯に坐して、御裳(みも)の糸を抜き取り、飯粒(いひぼ)を以て餌(ゑ)と為て、其の河の年魚(あゆ)を釣りき。其の河の名は、小河と謂ふ。亦、其の磯の名は、勝門比売(かちとひめ)と謂ふぞ。故、四月の上旬の時に、女人(をみな)の裳の糸を抜き、粒(いひぼ)を以て餌と為て、年魚を釣ること、今に至るまで絶えず。(仲哀記)
どうしてこのような釣りの逸話が作られているのか。それは、彼女のお腹のなかにいた御子のことをナと呼んでいたからであろう。釣ったナ(魚)はアユ(年魚)である。このアユという語は、アユ(肖)と同じ言葉である。ナ(中)、ナ(魚)、ナ(名)のそれぞれの似ていること、写像としてあることを言いたいから、アユ(鮎、肖)という語をもって示している。仲哀紀には、「皇太后(おほきさき)の雄(をを)しき装(よそひ)したまひて鞆(ほむた)を負(は)きたまへるに肖(あ)えたまへり。」と、きちんと「肖ゆ」という言葉を使って述べている。さほどに、ナと神功皇后のナ(お腹の中)とは密接な結びつきを孕んでいる。
「お腹(なか)」という語は、日葡辞書(1603~04)に、「Vonaca. ヲナカ(御中)」とあり、婦人語とされている。古い文献例は見られないようで、腹の内部のことはただハラというのがふつうであったらしい。今でも、胃腸が痛いことをハライタと言っている。ただし、白川1995.に、「はら〔腹〕 人や動物などの腹部をいう。「原」「平」などと同源。身体の中で最も広く平らなところである。」(631頁)とある。すると、脹らんだお腹のことは、ハラの概念と異なってくる。最も象徴的な膨らんだお腹は、臨月の妊婦のそれである。問題は、腹の中身である。中身についてとやかく言おうとしているから、記に「腹中」、紀に「胎中」という特異な表記が出現している。口語としてナカ、または、ナという言い方があったのではないか。それは、この話でいえば、水族でありながら哺乳類で胎生のイルカを持ち出して語られていることからも窺える。妊娠中のイルカであれば、ナ(魚)でありつつ、ナ(中=腹・胎)にナ(魚)(児の魚)を包んでいる。タナゴ的な様相になっている。配役にイルカを登場させた第一の理由である。このからくりによって、お腹の大きな女性(雌イルカ)は、妊娠しているのかメタボなのかわからないことになる。神功皇后のお腹の中の胎児であった応神天皇がナ(胎中)として入っていたのが、代わりとして胃袋にナ(食物)を詰め込むことで同じ状態を保つことができる。これは、ナ(中)とナ(魚)との交換である。
ナからの脱出
御子(応神天皇)は、ナ(己、自分)のナ(名前)において弄ばれていることに気がついた。無理して胎中にあったのだから、出て行きたくてたまらなかったのである。古語に、動詞イヅ(出)である。
越の海の 角鹿(つぬが)の浜ゆ 大船に 真梶(まかぢ)貫きおろし 鯨魚(いさな)取り 海路(うなぢ)に出でて あへきつつ ……(万366)
「いで」という語には、感動詞の、さあ、の意がある。古典基礎語辞典に、「動詞イヅ(出づ、ダ下二)の古い命令形イデから出た語。上代から例があり、中古を中心によく使われている。」(130頁、この項、我妻多賀子)としている。上代の使用例としては、相手に向って呼びかけるときの場合(さあ。どうぞ。)、自分が行動を起そうとするときの場合(いざ。それっ。どれ。)、自分に対してであるが承服しがたい場合(いや。さあどうだか。)といった分類が行われている。時代別国語大辞典では、「①他に対して何らかの行動を乞い求める場合。……②自己の意志を強調する場合。……③自分に対して問いかけ、疑いをこめる場合。」と分類され、「【考】類語にイザがあり、イデと同じとみる説がある。②にはイザと重なる面があるけれども、①と③はイザにはない。」(84頁)とある。それぞれ1つずつ例をあげる。
圧乞(いで)、戸母(とじ)、其の蘭(あららぎ)一茎(ひともと)。(允恭紀二年二月)
この川に 朝菜洗ふ子 汝れも我れも よちをぞ持てる いで子給(たば)りに(万3440)
いで如何に ここだはなはだ 利心(とごころ)の 失するまで思ふ 恋ふらくのゆゑ(万2400)
時代別国語大辞典にいう①の意と同じ用例として、「…… 夕(ゆふべ)になれば いざ寝よと 手を携(たづさ)はり ……」(万904)の「いざ」という例があると思うがどうなのであろうか。大野編、前掲書に、感動詞の「いざ」は、「動詞イザナフ(誘ふ)の語幹。勧誘・行動開始の時などに発する語で、上代から確例がある。」(109頁)とある。また、イデの③の使い方は、さあどうだかわからない、と言いよどむ言葉のイサによく似ている。
…… 愛(は)しきやし 今日やも子らに 不知(いさ)にとや 思はえてある ……(万3791)
すると、イデという語は、イザとイサとによってまかなわれることになる。語の由来としてイザとイサは異なけれど、鯨のことは古語にイサである。「俗(くにひと)、鯨を云ひて伊佐(いさ)と為す。」(壹岐風土記逸文)とある。音声言語のうちでも口語的な性格の強い発語の言葉について、用法が異なるとして峻別できるものではない。もとより、上代の人たちが、言葉遊びに興じていたからといって。それを言葉の乱れとして咎めだての対象とされるものではない。
現代語で、「さあ」と言った時、「さあ、やるか」は自分がやるのか、相手にやらせるのか、どちらでも構わないし、やるものか、という拒絶の言としても成り立っている。そのような義の古語イザには、「さあ」の短縮形のサという語もある。それらを連結させたイザサという語は、自らを奮い立たせて何か新しい境地へと向かう際の掛け声を表すことになるし、相手に誘いかける時の重々しい働きかけの掛け声とも捉えられる。はたまた、どうしたらよいのか躊躇、逡巡するときの発語ともなり得るであろう。
「御子」は、わざわざ越の国へ赴いて何をしようとしていたのか。一般に成人式、成年儀礼の意味があるとされている(注3)。そういう言い方をするならばそのとおりであろう。母親の庇護から離れ、独立した一人前の人間として生きて行こうとしていた。そのためには、負っているナ(中、腹)というナ(名)をどうにかしなければならない。母親あっての「御子」なのであるが、「御子」でありつつ独り立ちしたい。ダブルバインドから抜け出すにはどうしたらいいのか。そのとき、気比大神が夢に現れて、うまいことを提案してくれたのである。その名は、笥飯(けひ)である。食べ物のことである。お腹の子どもの代わりに、お腹に食べ物を入れればいい。そうすれば、あなたはナ(中、腹)という名を負ったままでも、ナ(己)として一人前になれる。だからさっそく、ナ(魚)を献上しましょう、ということとなっている。
蚊帳のある御殿(春日権現験記第七軸、板橋貫雄模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287492/11をトリミング)
イルカ=入る蚊
イルカ(「入鹿魚」)であった理由の第二は、太子と武内宿禰とは、出張先で仮宮を建てて泊まっているからである。いつもの御殿ではない。ボンボンはふだん宮殿で暮らしている。蚊帳で囲われているから、母胎に包まれているのと同じ境遇にある。蚊に食われることはない。しかし、出先の仮宮では、蚊帳がないから蚊取線香になるような松葉などを燻べて凌ぐわけだが、どうしても部屋の中に蚊が入ってきてしまう。イルカ(「入る蚊」)である(注4)。夜、なかなか熟睡できない。今日、レム睡眠とノンレム睡眠とが循環して眠りが構成されていることが知られ、レム睡眠の際に頭脳が活動して夢を見ることが多いことが知られている。(ノンレム睡眠中でも夢を見ることはあるらしく、夢に濃淡もあるらしいが、本稿とは関係ないので深入りしない。)蚊が入って熟睡できないから、夢を見がちになる。付き添いの建内宿禰とて同様である。刺されたら痒いから、バチバチ叩く。叩かれて死ぬ蚊は、鼻を人の体の中に入れたまま潰されるから、鼻がへし折られて血まみれの状態になる。だから、角鹿の海岸に打ち寄せられていたイルカは、「鼻を毀てる」こととなり、その浦は「血浦」と名付けられている。地震が関係してイルカが浜に打ち上げられている例が知られ、また、イルカを捕獲するには、追い込み漁を伴いながら頭部を銛で突くこともある。神奈川県横浜市稲荷山貝塚(縄文時代)からは、イルカの骨が多数出土している(注5)。しかし、実際の漁法や解体作業と、「鼻を毀てる」という表現とは結びつかないと思われる。なお、イルカの呼吸器は、ハナ(端)と呼ばれる口先の部分にではなく、頭の上にある。
バンドウイルカ頭骨(横浜市金沢区称名寺貝塚、縄文時代中期末~後期初頭、横浜市歴史博物館展示品)
バンドウイルカ?(新江ノ島水族館)
なるほどである。御殿暮らしばかりでは知り得ない体験である。世の中には蚊がいて、食うか食われるかの自然の営みをしている。食べ物が手に入るのは当たり前だと思っていてはいけない。「御食(みけ)の魚(な)」はそういう自然の営み、民百姓の生業をもって生れている。飛躍的な悟りである。それは成年儀礼に当たると言えばそのとおりである。ただし、儀式化した行事を意味するのではなく、本当に体験して理解したということを示している。体験を経験としてフレーミングし、物語へと昇華している。それを言葉として表しているのが、この名易えの話である。ナ(中、腹)というナ(名)は普通名詞だから変えられないが、それをナ(魚、菜)であると捉え返せば呪縛から逃れられるのである。嫌な綽名を付けられても、意味を読み替えて克服する人は生きる力の強い人である。
クラインの壺、鞆
胎中にあるままの坊やは、世間知らずである。与えられた過保護の呪縛から解き放たれなくてはならない。抜け出すには、イザ、サ、と掛け声をかけて発奮し、自ら鼓舞して生きようとしなければならない。そんな状況の時に、イザ+サという神さまが夢に現れた。あなた、名前、易えようか? まったくもって「恐(かしこ)し」、賢いことである。頓智が冴えわたっている。翌朝、浦へ行ってみると、「御食の魚」が「依」っていた。依っているのだからそれに依って何とでも考えればいい。これは、「御食の魚」なのだ、自分の名のナ(中、腹)は、これからは、ナ(魚、菜)に当たるものにしよう。それはまるで、クラインの壺(クラインの瓶)(注6)をぐるりとめぐったも同じであるが、ナ(己)を相対化して鳥瞰することができたのである。雌イルカのお腹の中に子イルカのいるのを見て悟ったものと思われる。
鞆(正倉院宝物復元模型品、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
鞆形のクラインの壺(山下1999.9頁)
ホムタノスメラミコトのホムタ(鞆)は、トモ(鞆)のことである。紀の分注に、「上古時俗、号レ鞆謂二褒武多一」とある。今はトモ(鞆)といい、昔はホムタと言ったとする。弓を射る時に左手に当てておいて、弓弦が手を痛めないようにする防具である。黒漆塗りの皮製で、正税帳からすると鹿ないし馬の皮を使うようである(注7)。正倉院に残るものは、牡鹿の白い毛やマコモなどの詰め物を入れて膨らませてあるという(注8)。鹿は、雌鹿はメカ、子鹿はカゴ、牡鹿をシカと呼び分けていた。記に、「角鹿(つぬが)」という設定をことさらにしているのは、シカ(牡鹿)にしか角が生えないため、その毛皮を使った鞆のことが念頭にあるからである。鞆は外皮に牡鹿の皮、なかに牡鹿の白毛を入れている。シカ(牡鹿)の毛皮を剥いで、裏返してくるりと丸めまとめたようなものである。シカは「然(しか)」と同音である。鞆とはすべてシカ(牡鹿)でできた然なるものである。
シカ(♂、奈良公園、2月)
鞆の図(伴信友・鞆考補証、国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533543/9をトリミング)。また、高木正朝・日本古義(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563733/65~67)に展開図有り。
話に唐突にイルカが出てきていた。浦に打ち上げられていたのが他の魚ではなくイルカだった第三の理由は、鞆が入れ子のシカ(牡鹿)ゆえである。牡鹿が子を孕むことはないから、面白味が増している。御子が胎内に宿った時、「我が大神」が「天照大神の御心」として、また、「底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神」だと称して教えてくれている。
……亦、建内宿禰、沙庭に居て神の命(みこと)を請ひき。是に教へ覚したまふ状(さま)、具(つぶさ)に先の日の如く、「凡そ此の国は、汝命の御腹(みはら)に坐す御子の知らさむ国ぞ」とさとしめたまひき。爾に建内宿禰白さく、「恐(かしこ)し。我が大神、其の神の腹に坐す御子は、何(いづ)れの子(こ)ぞ」とまをせば、答へて詔りたまはく、「男子(をのこご)ぞ」とのりたまひき。(仲哀記)
わざわざ建内宿禰が問い掛けて、大神が答える問答となっている。話として性別を確かにしたい点は、シカ(牡鹿、然)を強調する伏線となる。そして、「入鹿魚」と記している。当て字に魚類であることを示すために添え字が付けられている。手紙が入っている魚のことは、中国の故事に鯉素という。鹿が入っている魚のような形をしたものとは、鞆であろう。太安万侶は字が読めたから、そのような当て字をしているのであるが、イルカ=イル(入)+カ(鹿)という語感は識字能力とは無関係に、人々に共有され得る。みなヤマトコトバである。これは語源という意味ではない。古代の人は連想ゲームを楽しんでいたということである。イルカという水族は、カ(鹿)がイル(入)状態、入れ子構造状態のものであると洒落を言っているのである。そして、「鼻を毀てる入鹿魚」とは、イルカの鼻先に穴をあけてくるりと尾を回し通したら、まるで鞆のような形になると空想している。(その際、位相幾何学的な曲面まで考慮していたかは定かではないが、ナという言葉の循環を楽しんでいることから、概念としては理解していたように思われる。)
鞆とは、外身も中身もトモ(共、伴)にシカ(牡鹿)であるから確かなものである。新撰字鏡に、「切々 敬也、憂也、太志加尓(たしかに)」などとある。タ+シカ(然)+ニの語構成であろう。確かなものとは、田において、然(しか)と確実な収量が見込まれる田のこと、すなわち、美田を指す。ホムタを「誉田」と記したときの義は、おいしいお米をたくさん収穫できる確かな田のことである。種籾を蒔いておいて秋に確かに一粒万倍に稔りを得ることができる田こそ、ホムタ(誉田)である。外もシカ(牡鹿の皮)、中もシカ(牡鹿の毛)なるものは鞆である。よって、ホムタというのは、御食(みけ)の謂いでありつつ鞆(とも)の謂いである。そして、ムタやトモという語は、~と一緒、という意味である。ナ(名)において、ナ(中、腹)とナ(魚、菜)とが一緒なことを自己循環的に表わす語としてふさわしい。
ムタという語は、助詞のノやガをともなう連体修飾をうけて、副詞句を作る。~とともに、~のままに、~につれて、の意である。「波のむた」(万133)、「風のむた」(万119)、「神のみた」(万1804)、「君がむた」(万3773)、「人のむた」(万3871)などとある。波や風や神や君や人に包まれ懐かれて一緒になってもまれていくことになる。「波のむた」という言い方によく表れているように、波は寄せては返すもので、ぐるりと循環することを可とすることをいう。
まとめ
ナ(中)というだけのナ(名)であった御子は、ナのままでありながらナ(魚)と易えて、ナ(己)たるものとして、いろいろなナと一緒にもまれて行った。この名易えの話は、日本書紀の分注の謎掛けにあるとおり、「然らば、大神の本の名は誉田別神、太子の元(はじめ)の名は去来紗別尊と謂すべし。」として詳らかである。太子の名はナ(中)でありつつ、「いざ、さ」と「角鹿」まで出掛けてきている。大神の名はナ(魚)でありつつ、そうそうと答える「しか(然)」であり、「ほむた」でも「とも」でもあるような鹿が中に入っているようなものである。
埴輪 鞆(群馬県伊勢崎市上植木本町恵下2622出土、古墳時代、東京国立博物館研究情報アーカイブズ)
以上、ナというヤマトコトバの位相幾何学を述べた。鞆という弓の防具がシカの毛皮を裏返してくるりと丸めて端を貫き通す作業を実地に行ってみれば、「然(しか)」なりと納得されることであろう(注9)。上代の人にとって、世界はヤマトコトバでできていた。これほど頓智の利いた言葉を喋っていながらただやり過ごすことはなかろう。人々は興趣を覚え、わざわざ鞆を単独の形として面白がって埴輪にして遊んでいる。形象埴輪とは何か。考古学では出土するモノを出発点として当時の人々のことを考えようとするが、残るものについては考え、無いものについては考えない。あるものについても、なぜそれがあるのか、現代人の視点、歴史学や民俗学からしか考えが及ばない。籠手形埴輪は乏しいのに、なぜ鞆形埴輪があるのか、素朴な疑問さえ浮上していないように思われる。しかし、古代の人は、鞆を埴輪に作って悦に入っていた。その所以について、名易えの話として古事記は雄弁に語ってくれている。古代の人は、ヤマトコトバで考えていたのであった。
(注)
(注1)「伊奢沙和気大神之命」を伊奢沙和気大神の御言(みこと)の意と論証されているものとして、阪下2002.がある。また、誰の夢に託宣を聞かせてくれたのかについては、本居宣長・古事記伝に、「此は太子の御夢には非で御供人の夢なるべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041637/227)とし、武内宿禰の夢であるとする。後文に、「御子、令レ白二于神一云」とあって、第三者を介して神さまに伝えている。その第三者とは、神と人とをつなぐ御言持ちとなる御供人、巫覡者である武内宿禰であろう。夢のなかでの問答においても、大神の問いに対して「言禱(ことほ)き」て巫覡の役割を果たしている。
(注2)藤澤2016.は、「『古事記』の当該条の「易名」は、実際には名の交換ではなく、太子が一方的に大神の名を吸収したことになっている。『古事記』では天皇の立場の優位をより一層強く押し出すため、互いの名の交換ではなく、太子への名の献上という形をとったのである。すなわち、大神の「易名」の申し出は、名を献上することによる服属の申し出だった、という文脈になっているのである。」(56頁)とする。
また、烏谷2016.にも論点整理があり、当該個所は、「「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と読み、その解釈には⑴神が太子の名を自分の名として替える ⑵神の名をもって太子の名に替える ⑶ともに名を交換するの三説がある。」(335~336頁)とする。そして、⑴説に本居宣長・古事記伝、⑵説に次田1924.、中島1930.、⑶説に西宮1991.があるとする。
西宮氏は、発表時期によって訓読を変更している。西宮1991.には、「私は、古事記をこう読めば分ると思う。すなわち、誉田別の名とイザサワケの名とではなく、大鞆和気の名とイザサワケの名と交換したものと読むのである。すると御子は新たにイザサワケの名を貰ったわけで、「「イザ」(さァ)、サ(神稲)をどうぞ」の名で、「鞆」と同音の「誉田」(美田の意)という新名義への転換の契機を与えたものと読むのである。」(74頁)とある。
烏谷2016.は、⑵の立場に立つようである。「夢の中で詔られた伊奢沙和気大神命の「獻二易レ名之幣一。」の言葉は、天照の御心を受けた天命・受命であり、名易えによって御子の名に権威が与えられ、翌朝浜にうちあげられた幣の入鹿は、天からの受命の君に降された祥瑞であり、符言に相当するものであろう。したがって「私の名をあなたに差上げて、あなたの名としたい。」と解釈するのがよいと思われる。」(339頁)とある。
藤澤2016.や烏谷2016.の論考は、文脈をいかに解釈するかという問題ばかりに目が行っている。単に“解釈”の問題であるとするなら、言=事とする言霊信仰は揺らぎ、上代の人々はニーチェのような人ばかりであったことになってしまう。およそ言語の体をなさなくなる。
(注3)御子が越の国へ禊ぎへ行ったことと名前を変えることによって、立派な大人となって天下を治めるのにふさわしい存在となった考える傾向は、読みの細部こそ違え、今日の研究者の間に定説のように語られている。元服式に幼名を改めることの意義を説き、解いたかのように考えている。主だった議論を紹介しておく。
……太子は武内宿禰にともなわれて淡海若狭を遍歴した後、角鹿でみそぎをする。話の上では戦における死の機れを浄めるためということになるが、これも儀礼的な死の期間に課せられる試練を克服した後に、水の生命力によってよみがえるという復活儀礼の段取をこのように語ったのであろう。次いで角鹿のケヒノ大神が名を易えることを申し出、その礼にイルカが御食として太子に献上される。わかりにくいところのある話だが、名を易えることが、成年式を経ておとなとして再誕したことの証として欠かせない儀礼的手続きであったことを想起すれば、物語構造におけるこの話の意義は諒解できるだろう。みそぎの場所が角鹿であり、ケヒノ大神が登場することには深いわけがある。この神は角鹿笥飯浦の地名を名とした地主神である。御食の魚を献上したから御食つ大神と名づけたという話になっているが、ケヒノ大神は元来そうした性格をおびていたのだろう。角鹿は越前に属するが若狭に接しており、若狭から越にかけての海陸の交通の要路に位置していた。志摩淡路と並ぶ御食つ国若狭の調の大部分は海産物で占められるが、それらは角鹿を経由して都に運ばれたらしい。ケヒノ大神は若狭から越にかけてのこの一帯をうしはく御食つ神であったのだろう。従って御食の魚献上の話は、この一帯の、御食つ国としての服従を意味する。さらにケヒノ大神にはもう一つ、大陸交通の裏玄関の守り神という役割があった。潮流の関係で、越の海岸には意図的にせよ不本意にせよ、大陸からの船が到来することが稀ではなかった。(倉塚1986.82頁)
……そこで名換えの神事が行なわれたことを語っている。すなわち神の名「イザサワケ」と皇子の名を取りかえたというのである。とすれば、この名換えをした後の神名「ミケツ」あるいは「ケヒ」が、かつての皇子の名であったことになる(「記」は鼻のやぶれた魚<いるか>を名にかけて、ミケの名を賜ったとしゃれた語呂合せをしているので話の筋が混乱している)。ミケは御食、ケヒとは食霊の意で、ともにこの皇子が本来、穀霊を意味する幼名を持っていたことが知られ、かつそうした名が瑞穂の国の天皇や皇子たちに類例の多いことは改めて論ずるまでもない。たとえば神武の海上東征伝説で語られている、浪の秀を踏んでトコヨに行ったミケヌノミコトや、神武自身の別名ワカミケヌのごときはその著例であり、そこに神武(ミケヌ)と応神(ミケツ)の名の上での対応が見られるばかりでなく、海の国トコヨから渡り来る穀霊的日の御子という伝承観念もまた類型を同じくしている。換言すれば、これこそ瑞穂の国に君臨する偉大な天皇の霊能を詮表する神話的観念であると云えよう。ただし、そのように即位物語が神話的であるということは、必ずしもそれぞれの天皇が非実在であることを意味しない。神話は特定の実在者の性能に対する説明的 theory であり類型的称讃であるからである。トコヨから喪船で渡って来た皇子がミソギをしてこの世に再生し、イザサワケノ大神の社前で神の名を自分の名としたということは、もっとも典型的な成人式の儀礼であり、カリスマ的社会における「名取り」である。あるいは原始的な即位儀礼と解釈してもよい。いずれにするも、神との交霊による新しい人格の成立を意味している。トコヨからの喪船の旅も、そうした儀礼による新天皇の出現を説明したものにほかならない。(三品1972.120~121頁)
……気比大神は漁撈民に尊崇された、海の幸を内容とした食物神であったことがわかる。あるいは、この神は、魚群を湾に追い込むことのある海豚を原体とする神であったのかもしれない。「應神天皇の誕生」の物語で、「我に御食の魚給へり」というのが、ただ一つの應神天皇の発言であるが、禊ぎの後の魚の摂取をうかがわせる場面でのこの発言は、即位の大嘗祭で聖なる稲を食べて稲の司祭となりえたと同様、漁撈民社会での豊饒祭の聖餐の場面での支配者誕生を告げる発言の響きがある。浦一面に寄せられた、鼻を傷つけた海豚は、祭りの日に舟ばたを叩く音におどされて、湾の浅瀬にのりあげ殺害された聖なる魚の姿であったのかも知れない。私は気比大神による名の授与の話を、漁撈民社会における豊饒祭を下敷きにした、支配者儀礼の名残を示すものと受けとりたいのである。ともあれ、気比大神の鎮座する角鹿の地が、若狭から越前にかけての漁撈民の中心となる聖域であったことは十分に推定できる。(吉井1992.203~204頁)
(注4)仮宮に蚊が入ることに触れた上代の記述に、景行記の酒折宮の話がある。拙稿「「かがなべて」考」に論じた。
(注5)横浜市歴史博物館2016.に、「湾内に入ってきたイルカを仕留めるには銛漁法が有効だ。称名寺貝塚でも最盛期には大型の銛が作られるようになる。併せてヤスを使うことにも積極的であった。イルカの群れがやって来たからといって必ずしも捕獲できるとは限らない。ソロモン諸島のイルカの追い込み漁では、成功率20%。5回の4回は獲物なしで浜にもどったと言う報告がある(竹川1995a.)。称名寺貝塚の人々も同じように、あるいはそれ以上に厳しい状況の中で、生き抜いてきたのであろう。」(33頁)とある。
モリ頭・ヤス頭(シカ角製、都筑区南堀貝塚・獣骨や角製、金沢区称名寺貝塚、横浜市歴史博物館展示品)
竹川1995b.に、「何時間もかかって、群を囲い込みながら村までやってくると、浜では女たちがカヌーを用意して待ち構えている。総勢五〇艘近くのカヌーがラグーンの中にならぶ様子は壮観である。最後は人々が歓声をあげながら海に飛び込み、浅瀬に追い詰めたイルカを次つぎに抱きかかえカヌーに乗せていく。」(97~98頁)とある。
田辺2011.は、『伊東誌』(寛永二年(1849))を引いている。そこには、「陸地成(ママ)平生用る地曳網の場に至れば、後掛と云て幾重にも地曳網にて懸廻し、手近くなると両村より若者大勢出て、曳ころばしという太き縄網にて懸廻し陸地へしめつけ、数人海中へ飛入、かの入鹿を抱上るなり。」とある。屈強な若者が水深の浅いところに追い込まれたイルカを抱きかかえるようにして浜に持ち上げるというのである。究極の追い込み漁で、銛で突く必要はないらしい。そして、後はその他の人が解体作業を行う。昭和時代の写真でも、頭を落とし、内臓を取り出している。浜辺が鮮血で染まる。記に、「血浦」と称したというのは理解されるところである。
なお、イルカの中身をえぐって皮を使った道具があったかどうか不明である。筆者は、あるものは何でも利用していたからあるであろうと推測しているが、不勉強で知らない。お教え頂けると幸いである。
鮭の鞋(左:アミューズミュージアム展示品、右:ナナイ族の伝統品、東洋文庫ミュージアム展示品)
(注6)教科書を引用する。川崎2001.に、「自分自身との交差をもつものも曲面の仲間に入れることによって、向き付け不可能な閉曲面を考えることができる。典型的なものは、クラインの壺(klein bottle)といわれるものである。これは、ジェットエンジンのカバーのような曲面で、空気の取り入れ口に続く風洞を延ばして、自己交差を許して、カバーの外に導き、ジェットの吹き出し口に逆に取り付けたものである。」(43頁)とある。なお、4次元空間では自分自身との交わりをはずすことができるという。
(注7)正倉院文書には、「鞆」と「𩎒」について次の記事が見える。○に番号は、大日本古文書の巻、後の数字はページを表わす。「𩎒」字は、諸橋轍次『大漢和辞典』に字義未詳とされ、また、大日本古文書に「干」を「于」に作る例もある。
𩎒肆拾巻料稲壱拾柒束弐把 壱巻料稲肆把参分〈鹿韋長九寸 広五寸 直稲三把二分 緒鹿洗皮長二尺三寸 広五分 直稲一把〉(①六一二)天平六年十二月二十四日、尾張国正税帳
鞆肆拾勾〈別長九寸 広九寸〉料皮壱張半〈一張長四尺、広三尺、一張長三尺、広二尺、〉直稲拾伍束〈一張直十束 一張直五束〉(②六九)天平十年二月十八日、駿河国正税帳
𩎒肆拾巻料馬皮壱枚半〈一長四尺 広三尺 一長三尺 広二尺 巻別長九寸 広五寸〉直稲壱拾伍束〈一枚十束 一枚五束〉(②一一九)天平十年、駿河国正税帳
𩎒手牛革壱枚〈長五尺 広三尺四寸 巻別長四寸五分 広一寸五分〉直稲柒拾束 縫糸捌拾条〈卌条別長二尺四寸 卌条別長一尺五寸 巻別長短各一条〉成斤壱両直稲参束柒把〈一斤直六十束〉緒洗韋半枚〈長二尺三寸 広二尺 巻別長二尺三寸 広五分〉直稲肆束(②一一九)天平十年、駿河国正税帳
𩎒壱拾口料𩎒手牛皮壱条〈長四尺五寸 広一寸五分〉価稲捌束(②一九二)天平十一年、伊豆国正税帳
……正丁、兵士、左手鞆〓(㐽のメの代わりに人)疵三(②二七五)天平十二年、越前国江沼郡山背郷計帳
伊勢貞丈・四季草(安永7年(1778))(早稲田大学古典籍総合データベースhttp://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wa03/wa03_00367/wa03_00367_0002/wa03_00367_0002_p0017.jpg)に、「貞治の頃既に鞆付て弓射るやう知人少きやうになりたり。今の世に知る人なきはことわりなり。」とあるほどに、早く廃れて知られなくなったものである。
(注8)関根1989.は、正倉院文書に残る正税帳の記事から、鞆本体の材質は、「鹿革または馬皮の可能性が強いだろう。院蔵の一例によれば、長一一・五㌢、幅約七㌢であるから、右の一巻料の皮を二等分して四寸五分×五寸のもの二枚を重ねて巴形に截り、心(牡鹿白毛やマコモ「材質調査」)を入れ、縫合せたと考えられる。」(124~125頁)としている。
(注9)「巴(ともゑ)」という言葉があり、鞆に描かれていた絵のこととする説と、鞆の形を描いた絵とする説とがある。筆者は、鞆の皮の上に鞆の形を絵として描いていたと考える。鞆がクラインの壺として認識されていたとするなら、絵を描くことも自己循環的になっていて正解である。後に、文様として二つ巴や三つ巴が作られていくが、もとは自己完結的に一つ巴文として鞆に描かれていたであろう。
左一つ巴文(「旅から旅の着物のおはなし」様(http://tabikaratabi.pro.tok2.com/cgi-bin/c-board.cgi?cmd=all;page=10;id=monnyoujitenn)
巴文軒丸瓦(仙台城跡出土、仙台市ホームページhttp://www.city.sendai.jp/shisekichosa/kurashi/manabu/kyoiku/inkai/bunkazai/bunkazai/joseki/kawara.html)
三つ巴文が瓦の軒に見えるようになるのは、武具としての鞆が廃れていった平安時代の終わりごろからのようである。そのへんの心理的事情については、後考を俟ちたい。
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※本稿は、2017年2月稿を2019年12月に改稿したものである。