古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

日本書紀冒頭部の「薄靡(タナビク)」をめぐって─古訓と釈日本紀の理解のために─

2023年08月29日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 一

 日本書紀の冒頭には次のようにある(注1)

 いにしへ天地あめつちいまわかれず、陰陽めをわかれざりしとき、渾沌まろかれたること鶏子とりのこごとくして、溟涬ほのかにしてきざしふふめり。すみあきらかなるものは、薄靡たなびきてあめり、かさなりにごれるものは、淹滞つつゐてつちるにおよびて、くはしくたへなるがへるはあふやすく、かさなりにごれるがりたるはかたまがたし。

 「薄靡」をタナビクと訓むことは、平安時代の日本紀講書の段階から疑問が呈され、現在に至っている。釈日本紀・巻第十六・秘訓一に次のようにある。

・薄靡(タナヒキテ)
私記曰。問。薄靡又有旧説哉。答。又説、カス〈ミ〉ナヒキテ。是借名之本説也。
又問。此序文自清陽者已下、至地後定、皆是淮南子天文訓之文也。修史者、引以為天地渾沌之序。公望案、彼書、薄靡為薄歴。高誘注云、風揚塵之皃也。若如此文者、夕ナヒク止読者、与彼相違也。如何。
答。此書、或変本文、便従倭訓、或有倭漢相合者也。今是取倭訓、便用彼文也。未三必尽従本書之訓。然則、暫忘彼文、猶タナヒク止可読也。

 神野志1998.の解説を示す。

 問いは、『淮南子』の文によって書かれたものとして理解しようとすれば、風が塵を揚げるさまと受け取るべきであり、それと、タナビクということばとは合わないという。タナビクは、雲や霞が薄く層をなして横に引くことをいうのであり、その疑問はもっともであった。これに対して、答えは、文は便宜的なものであり、タナビクという語が本来のものだとする。文のほうに、ことば(倭訓)と合わないところがでるのに対しては、暫くその文を忘れよという。漢文とは別なものになることを自覚しつつ、それでよいとするのである(注2)。(57頁)

 今日、日本書紀として残っているエクリチュール(書かれたもの)について、それを“テキスト”として中心に据えている。しかし、日本書紀が書かれた当時においては、書かれるということは史上ほとんど初めてのことで、特殊特異なことであった。多くの議論の盲点はそこである。彼らの言語は基本的に無文字であった。
 ひとつの思考実験を試みよう。

➀ Umë saka zu te öföwösödöri naku.
     ↓
➁ 梅咲かずておほをそどり鳴く
     ↓
➂ (➌)梅花不開而烏啼
     ↓
   ➋ 梅花の開かずして烏啼けり
     ↓
   ➊ Ume saka zu site ofowosodori nake ri.

 上代においてふだん行われていた言語活動は➀の形である。空中を飛び交う声でしかなかった。そのとき➁は行われていない。執筆者はいきなり➂として記した。日本書紀において日本書紀風の「書く」行為が行われた。書かれてしまっている「日本書紀」を目にして理解しようとしたのが講書の場である。彼ら生徒は、もはや文字時代に突入していて漢文訓読を当たり前のこととしている。➂(➌)の漢文(?)を訳すという作業に取りかかることになる。それがいわゆる「訓読」である。➁に至ることを目標としつつ、レクチャーの際には➊で先生に答えてもらい(注3)、「烏」に「於保乎曽等里」などとメモしていたと想定される(注4)。当然、生徒からは疑問の声があがる。「烏」はなにゆえオホヲソドリなのかと。例えば、仮に淮北子・鳥問訓なる篇立があり、そこに「梅花不開而烏啼」という文章があって、ただ crow という鳥の種類を表すだけであるのなら、単にそのまま引いていることになる。漢籍文からは慌てん坊の鳥の意など出て来ないではないか、と疑うのである。先生はこれに答えて言う。これは漢籍文ではなく日本書紀であり、漢文訓読の方法を使うこと、すなわち、漢文訓読のフィルターをかけて見ることはひとまず措いて、今に伝えられている執筆者の志向のほうを尊重してほしいと。
 オホヲソドリと呼ばれる鳥は、ヤマトにはいても漢語としてあるわけではない。ただし、漢籍にカラスのことを言っていても、カラスの行水と言われる行動をとるように慌てた動作をする。それをもってヤマトコトバに、カラスのことをオホヲソドリと別称しているらしい状況がある。だから、日本書紀執筆者はそのままに書いてしまったというわけである。肝心なのは、ヤマトの人の間で理解し合えることである。執筆当時の人にとっては概ね通じるものであったからそのままにしていた。時代が下り意味不明になっても、「烏」はカラスと訓むのではなく、古訓として受け継がれているオホヲソドリと訓むべきだと先生は伝えている。
 問題の本質は、講書の段階から行われている「訓読」なるものは、生徒の立場において➂(➌)を中心に据えて行われているという点である。しかし、日本書紀を記した人は、①(≒➊)を中心に据えて考えていて、講書の時の先生も同じ立場であった。生徒がときおり、誤解して、➋の「梅花の開かずしてカラス・・・啼けり」かと考えるから、それは違うよと正すのが先生の仕事であった。
 先生と生徒では、書かれているエクリチュールを「テキスト」として見るか、ヤマトコトバで考えたときの言葉の音を「テキスト」として見るか、依って立つところが違っている。今、エクリチュールとして残されている文章しかないからそれに依るほかないが、それでもって一面的に均そうとしては、音が「テキスト」であったもともとが歪められてしばしば誤解を生み、全体が掌握できなくなる。漢籍を真似して書かれたらしい部分が見つかると、日本書紀執筆者が漢文を誤解していると判断し、誤りを正そうとする賢しらな態度で臨んでしまう。

 和語が漢字で書きえた前提には、漢文を訓読すること、つまり漢語をみずからのことばで訓むという営みがあった。《和語を─漢字で─書く》ことと《漢文を─和語で─訓む》ことは、いわば表裏一体の関係にあるといえよう。その点において口頭による漢文の訓読は、和語を書くことの文字法と切り離せない関係にあったのではないかと思う。(西條1998.233頁(注5)

 自動翻訳機でさえ、日本語を中国語訳したものをさらに日本語に訳し直すと、もとの文とは違うものに仕上がる。漢文訓読体と呼ばれる生硬な口調の日本語が起こったり、ジャパニッシュと呼ばれるまがいものの英語も発生する。表と裏とは一体ではなく、多分にずれているのが本来の姿である。なおかつ、音でしか存在しないヤマトコトバを漢字で書いて、その漢文のようなものを再びヤマトコトバの音に直すことはなかなか難しい。西條氏の右のテーゼは、寺子屋以降の読み書きにある○×的な発想ゆえに誤りとなる。文脈を無視してあえて正しいとするなら、「漢語をみずからのことばで訓む」ことをした結果において、「薄靡」を漢籍文から引き離してタナビクの意とする営みがあったということになる(注6)。それが、日本書紀の執筆者の理解であり、正解ということになる。先生は伝えられて知っているから、字面に拘泥しないようにと生徒に教えている。講書は、あくまでも日本書紀に書いてあることを理解しようとするために行われ、引いてきたであろう漢籍を理解しようとするものではない。

 二

 タナビクという言葉を記すにあたり、日本書紀の執筆者は、淮南子にある「薄靡」で通じるところがあると考えたからそのまま書いている。タナビクという語は、霞・雲・霧・煙などが薄く層を成してなびくことをいう。語構成としてタナ(棚)+ヒク(引)と分析され、横に引きなびくことを指していると考えられている。これと漢語の「薄靡」(注7)では意味に少しずれがあるため、そうは訓まないのではないかと講書の生徒は考えた。
 しかし、「薄」という字には別の意味もある。「薄」は、養蚕の時に蚕に営巣させる道具、いわゆるまぶしのことも指す。史記・絳侯周勃世家第二十七に、「勃、はくきよくを織るを以て生と為す。(勃、以薄曲生。)」とあり、索隠に「謂、勃本以蚕薄生業也。韋昭云、北方謂薄為曲。許慎注淮南云、曲、葦薄也。郭璞注方言云、植、懸曲柱也。音直吏反。」とある。礼記・月令・季春に、「是の月や、野虞やぐに命じて桑柘さうしやを伐る無からしむ。鳴鳩めいきう、其の羽をち、たいしよう、桑にくだる。きよくきよきやうを具ふ。(是月也,命野虞桑柘。鳴鳩払其羽、戴勝降于桑。具曲・植・籧・筐。)」とあって養蚕の道具が示されている。蔟を「曲」、蚕架を「植」、桑を食べさせるために蚕を入れておく籠の丸いものを「籧」、四角いものを「筐」と言った。蔟にあたるものを「薄」と言ったり「曲」と言ったりするのは、薄の字の意にあるくさむらに見立てられる姿をしていて、一つずつ絡まずに繭を結ぶように凹凸を付けて屈曲させているものだからであろう。そして、それを蚕架ともいう蚕棚に何段にも並べ置いて繭を作らせている。
左:蔟のタナビク図(奥の吊棚、上垣守国・養蚕秘録(西村中和・速水春暁斎画)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2556953/1/24をトリミング)、右:折藁蔟の図(営繭えいけん用に使用、藁蔟折機わらまぶしおりきで製作(注8)、農林水産省「蚕糸業」『明治150年 明治期の農林水産業発展の歩み』https://www.maff.go.jp/j/meiji150/you/02.htmlをトリミング)
 つまり、ただ「薄靡」という字面を目にしたならば、何段にも棚に引き置かれている様子を指していると思ってもおかしくないのである。蔟を棚に引き並べて蚕を置くと、繭という雲のようなものがたくさんできることになっている。だから「薄靡」=タナビクである。
 その証拠に、この日本書紀冒頭の文章は、「鶏子とりのこ」の如きことから説き始められている。「」(コは甲類)の話である。「」もコは甲類である。カイコとは飼ひ子の意で、カイコガを飼育しているわけであるが、家畜化されたカイコガは成虫になってもほとんど飛ぶことができない。コを育てても大人にはならないから、コと呼ぶのにまことにふさわしい。ニハトリ(鶏)も成鳥になってもほとんど飛べないから、似た者どうしのなぞ掛けになっている(注9)。コのうちの蚕は、高いところへ上って繭たるコとなって雲のようにたなびいている。上の方に棚に段々に置かれた技術的理由は、蚕が湿気や寒さを嫌い、また、たくさん飼うのに効率的でもあったためである。
他方、下の方に濁っていったものは「」(コは甲類)くなっている。「さけ」(応神紀十九年十月)、「醴 四声字苑に云はく、醴〈音は礼、古佐計こさけ〉は一日一宿の酒なりといふ。」(和名抄)という例がある。状態としては粒子であり、「」(コは甲類)である。「淤泥 ……比地乃古ひぢのこ」(新訳華厳経音義私記)という例がある。下に沈み濁るものは、いくら濃くなっても粉のままだからなかなか固まらない。そういうコという言葉(ヤマトコトバ)の両義的な謂れを説明する次第として、淮南子の文章を下引きにしつつ、元の意とは変えてしまいオリジナルの文章を作っている。世界はコから生まれたのだと、至極とっつきやすい言い分で話を起していたのであった。
 「薄靡」は蚕の営巣の様子を示している。たまたま目にした淮南子の文章に「薄靡」とあったのをそのまま使ったとしても、タナビクを漢字で書くための用字にすぎない。考え落ちになるから漢字表記としている。同時代の表記に古事記や万葉集があり、皆苦労して書き表そうとしている。ヤマトコトバを文字化するために漢字を使った痕跡が残されているのである。漢籍を勉強するためにヤマトコトバを使ったのとどちらが先かを問うことは、当時の社会全体の文化的傾向を大掴みにするのに必要なことではあっても、この文章で議論するのは適さない。日本書紀を書いているだけで、漢籍の淮南子を講釈したり、その思想を開陳したりしているわけではない。日本書紀の執筆者は、当時でも専門的に外交文書を読むことをしていた「東西やまとかふちのもろもろのふひと」(敏達紀元年五月)や、中国語の通訳であった「通事をさ」(推古紀十五年七月)とは別種の仕事をしている。
 そのことは、実は釈日本紀の先生の答えに示されていて明らかである。

答。此書、或変本文、便従倭訓、或有倭漢相合者也。今是取倭訓、便用彼文也。未必尽従本書之訓。然則、暫忘彼文、猶タナヒク読也。
(大意)この日本書紀という書物は、あるときはもとの漢籍にある文に変えて、すなわち倭訓に従っています。またあるときには、倭と漢と義がぴったり合っていることもあります。この箇所は倭訓に取るところで、すなわち、彼の地の淮南子の文字面を用いているだけです。時代的にまだ漢文訓読が進んでいたわけではなくて、必ずしも全部が全部、もとの書物の意で訓んだものに従っているわけではありません。だから、しばらくのところは彼の地の淮南子の文のことは忘れて、なおタナビクと読むべきなのです。

 「未必尽従本書之訓。然則、暫忘彼文、猶タナヒク読也。」は、漢文訓読が進んでいなかった時に先に和語を漢字で表し出してしまったことによって、平安時代の現状としては、執筆時の個別事例に対して理解が行き届かない側面があることを認めており、後考を俟とうではないかと生徒に諭しているのであった。
 これが、日本書紀を理解するために訓もうとした平安時代の実相である。ところが今日、理解と倭訓とが別のものと見られ、「漢文の向こうの「倭訓」の物語」(福田1999.197頁)が虚構として構築されたのだと論じられている(注10)。また、「「旧説」[古訓]は、伝えられてきたということ自体において意味をもち……「旧説」は理の通らなさにかかわらず、「旧説」であるということだけで意味がある」(神野志2007.196頁)と切って捨てられている。日本書紀(という和文)─万葉集と同等のもの─の訓読(注11)なのに漢文訓読と誤られ、後から「倭訓」を作った、「旧説」は理が通らない、と筋違いの非難を受けている(注12)。知恵を絞って日本書紀を書いた人も、その意味するところを理解して伝承しようとした人も、努力が報われていない。賢しらな現代の研究者は、日本書紀執筆者の洒落に接近する気配さえなく、自らが知識の確かなることをもって強弁することを教鞭としているようである(注13)

(注)
(注1)冒頭部分の原文は、「古天地未剖陰陽不分渾沌如鶏子溟涬而含牙及其清陽者薄靡而為天重濁者淹滞而為地精妙之合搏易重濁之凝埸難故天先成而地後定然後神聖生其中焉……」とある。その訓みについては、拙稿「日本書紀冒頭部の訓みについて─原文の「搏」や「埸(堨)」とは何か─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2836f8be437ba9abb1a6d157fc9eb3c4を参照されたい。
(注2)神野志2007.194頁にも使われる「便宜的」という言い方が何によるのか不明である。
(注3)講書の場では、声を出して読み上げられていたとされている。
(注4)乾2017.は、「文体」に「ウタ文体」、「日用文書文体(変体漢文)」、「漢文(中国語文)」という分類をし、「ことば」に「発想されることば」、「書記されることば」、「表記体(書記されたことば)」、「読まれることば」という形があるとしている(23頁の表)。「文体」は韻文(ウタ)と散文に分類してかまわないが、「発想されることば」とは無文字文化における唯一の言葉、声(音声言語)のことである。そして、声に出して使う言葉はすべて生活の言葉であろう。また、「書記されることば」は「表記体(書記されたことば)」と同じこととしか考えられず、「読まれることば」とは文字に書かれた言葉を再び声に戻したものであると思う。
(注5)青木2016.も、「漢語を和語に直したものか、和語を漢語で記したものかは、一見して表裏の関係にあると思われる。」(229頁)としている。漢語を和語に訳そうとする方向と、和語を漢語で記そうとする方向は異なり、別の機会において行われ、ただちに一対一対応にしたり、それを目指したとは限られず、逸脱─本稿で注目している─も多くありながらやがて相互に参照する傾向に収斂するようになって行ったと考える。
 中田1954.に、「訓読を記(録)する書込み方法[訓点]などまだなかったころは、おそらく……まるまる訓練を記憶して行く方法をもつて盛んに暗誦して行ったものであらう。必ず書込まねばならぬとするのは、後世の学徒の癖となつたのであつて、当初からそれを口移しに暗誦しようとする態度は古代の人々の方針であつたのである。そしてそこに養はれた読解の力の異常な深さは、直観的に訓読語序を看破し得たのであつて、その深度……は、……「漢文は国語文体の一種である……」[といえるもので、]その裏面には師資相伝の訓読口授があつたわけであるが、後世の学者の到底想像し得ないほど強い暗誦の力と直観の力がその裏面に存したことを思はなくてはならぬのである。」(60頁、漢字の旧字体は改めた)とし、奈良時代の漢文訓読のさまを推測している。言葉が声であった時─声でしかないことが前提の時─には、漢字という文字とヤマトコトバという声との間に、今日では想像できないほど直観的な洞察をもって対峙する緊張関係があったように思う。
(注6)「みずからのことば」にしているのだから、和製英語と同じく誤解ではない。積極的、肯定的な誤読である。西澤2001.に、「「漢語」も「日本語」も同じ文字(漢字)で書かれており、しかも両者は〈訓読〉という回路によって地続きにされていた。……しかし、それは「漢語」(中国語)がすなわち「日本語」の一部であることを意味するものではない。むしろ、事実はその逆で、普遍的な文字言語としての漢語の内部に、徐々に、固有の「日本語」を書くための領域が成り立っていったというべきである。結論から言えば、列島の人間は、「漢語」に食らいつき、「漢語」に寄生し、そして、ついには「漢語」を内側から食い破るようにして自らの固有の文字言語を獲得したのである。」(186頁)とある。筆者は、そのような前進的で漸進的な歴史観に立たない。結果的に仮名を作りあげて広汎に通行する固有の文字言語を獲得したのだろうが、記紀万葉の書記段階において、それぞれに固有の書記方法をとっていたのであって、文字言語として確立しているかといえば、「訓めるか」が議論されるほどに定まっていない。定まっている必要性が求められていなかったと言ったほうが適切であろう。「漢語」の意味を無視して勝手な使い方をすることに憚りがない。覚えている人がいるのだから併用すればいいし、そもそも大したことを言っているわけではないからどうだっていいのである。話半分に聞いておけ、という言い方があるとおり、“話”とは適当に付き合うのが賢明な態度である。そしてまた、洒落や頓智話について解説を求めるのは野暮なことである。
(注7)「漢語」という言い方には曖昧なところがある。漢字で書いてある言葉で、特に漢土において使われている用法のものとしておくのが穏当であろう。「薄靡」=ハクビは漢語であり、「薄靡」=タナビクは漢語ではなくておそらく和語なのであるが、字面に拘って認めたがらず、誤用していると思考する癖がついている。中途半端な勉強が徒になっている。
(注8)いつごろから「機」で作っていたか不明ながら、筵機、畳機が高機たかはた伝来当時から並行されていたと推測されるため、古代に大陸から伝来した養蚕技術のなかに含まれていたであろうことは容易に想像できる。
(注9)そういう論理学的知性を上代人は持ち合わせていた。無文字時代だから照らし合わせに使う文字を持たず、声に発した言葉が確かかどうか検証する術に乏しかった。住む地域が異なり、たまにしか顔を合わさない人どうしでも言葉が通じるようにするにはどうしたらいいか。言葉(音)が考え落ちになっているなら、当該の言葉は妥当性、正当性を自ら主張することになり、保証となるとみなされたことであろう。「こと和平やはす」(記)ことが盛んに持て囃されたのは、ヤマトの版図の拡大とはすなわち、ヤマトコトバの通じる世界─考え落ちの頓智が通じる領域─の安定、拡大のことであったからである。ヤマト語族の住んでいる範囲がヤマトの国であった。
(注10)「和語」は、基本的には、列島にもともと音としてあるヤマトコトバのことを指している。福田1999.が使う「倭訓」は、漢字で書かれた日本書紀を訓読する際に求められた、伝承されている言葉のうち、漢字の字面どおりの「漢語」の意味とは違ったり、いやに長かったりするもののことを指しているようである。ほかに、もともとのヤマトコトバにはなかったが、漢籍文を訓読するにあたり、新たに作ったと思しき「和語」に見せかけた言葉があり、「和訓」と通称されている。「けだし」といった言葉はもとからはなく、漢文の訓読によって生まれたものであろうと考えられている。山田1935.参照。
(注11)万葉集に「左右」(万180ほか)とあるのをマデと訓むのと頓智のレベルは同等である。
(注12)神野志2008.は、紀は陰陽のコスモロジー、記はムスヒのコスモロジーによって成り立っていて、両者はまったく別物であると主唱している。考え方からして的外れである。「理」とは何かについて無反省であってはならない。我々の「理」に甘んじるのではなく、日本書紀の執筆者の「理」に通じなければ、当然ながら日本書紀を理解したことにはならない。
(注13)関1997.は、史学の立場から講書とその成果である日本書紀私記について、次のように述べている。

 [私記にある]訓注は書紀の和訳ではなくして上古口伝・古書・師説等に基いて得られた書紀以前の古語である。而して[講書を行った]博士はかゝる方法論を此学独自のものとして充分なる自覚の下に遂行してゐる。是に於てか吾々は此の日本書紀講義[=講書]を以て史学・・なりと断定するに躊躇しない。そして、それは訓読即ち古語への復原を第一の段階とするものであつたのである。訓詁説、訳語説は全く追放されねばならない。(264頁)

 関氏の言い回しについては若干の注釈が必要であろう。「史学」、「訓詁」についての考え方である。

 書紀撰修の材料となった……帝紀とか旧辞とか呼ばれるもの……が何よりも先づ歴史として国家の根源を教へるものであり、古語を以て純美質樸なりし上古之風を記したものであつた……。而して、特殊なものを除けば、是等以外に記録物は存せず、書紀の材料も是のみであり、従つて、書紀の本文を古語に復原せしめれば、それは自ら古記録の再現であり、延いては古伝承の再生以外の何物でもない。此の関係こそ、古語への復原が古代史再建となり得る所以に外ならない。(263頁)
 訓詁学とは言ふ迄もなく、秦の焚書坑儒の後に出でて古経の正しい解釈を伝へん為めに経典に注疏を施す事を努めた漢唐学者の学風の謂ひである。従つて訓詁とは意味の不明又は難解に化した古語・・に就いて、現代語・・・を以て注解を加へるの謂ひであり、飽くまで語学的とも謂ふべき学問領域に属する。……[講書の]訓読の対象は書紀の本文であるが、それは決して意義不明でもなければ、古語に化しても居ない。 漢文学の蔚然として興った弘仁天長以来の貴族朝臣にとつて、書紀の文章が難解であつたとは何としても考へられないであらう。(250~251頁)

 筆者は次のように捉え返したい。講書においてなされた、もっぱら日本書紀の訓みについての問答は、日本書紀の執筆者が書きたかった和語について示そうとしたものである。意味が不明または難解なものと化したエクリチュールについて、ヤマトコトバをもって注解を加えている。漢籍をアンチョコに使って書き上げた日本書紀の漢語の用法は、漢文学に通暁して賢くなった人が当たり前と思っていることとは異なるところがあるから、上古口伝・古書・師説等によって書紀当時の言葉を伝え、理解してもらおうとしたのである。すなわち、どういうことを意図して漢字の字面を使って日本書紀を書いたのか、執筆当時の事情がすでにわからなくなっていたから、それを語学的に伝えていこうとした。それが講書の目的であり、訓詁学の意味するところと何ら変わらない。その末に復元された日本書紀の言葉は、「こと」=「こと」であって、辻褄の合う話(story)として構成されている。そこに、メタ・ストーリー、すなわち、本来的な意味での history(歴史)は存しない。日本書紀の執筆者が編年体で書こうとしたのは、コトでしかないヤマトコトバを使いながら、文字を使ってしまったがゆえに“歴史”の体裁にしなければならず、無理を承知でその扉をこじ開けようと企図したということだろう。“書く”ということは歴史を記すということと等価である。話(咄・噺・譚)は、話していれば済むものである。日本書紀を歴史書と思いこみ、すなわち、“読む”ことをしてしまう我々は、随所に違和感を覚え、妙なものを喰わされたと感じるのである。

(引用・参考文献)
青木2016. 青木周平「訓読がひらくもの」『青木周平著作集 下巻 古代文献の受容史研究』おうふう、平成28年。
乾2017. 乾義彦「文字と「ことば」」『日本語書記用文体の成立基盤』塙書房、2017年。
神野志1998. 神野志隆光「神話の思想史・覚書」伊藤博・稲岡耕二編『萬葉集研究 第二十二集』塙書房、平成10年。
神野志2007. 神野志隆光『漢字テキストとしての古事記』東京大学出版会、2007年。
神野志2008. 神野志隆光『古事記の世界観』吉川弘文館、2008年。
西條1998. 西條勉「「~(之)時」の構文と、その文体的位相」『古事記の文字法』笠間書院、平成10年。
関1997. 関晃「上代に於ける日本書紀講読の研究」『日本古代の政治と文化 関晃著作集第五』吉川弘文館、1997年。
中田1954. 中田祝夫『古点本の国語学的研究』大日本雄弁会講談社、昭和29年。
西澤2001. 西澤一光「上代書記体系の多元性をめぐって」伊藤博・稲岡耕二編『萬葉集研究 第二十五集』塙書房、平成13年。
福田1999. 福田武史「「倭訓」の創出」神野志隆光編『古事記の現在』笠間書院、平成11年。
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、昭和10年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1173586

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