アヅミ(ミは甲類)という姓名、地名には、記紀に、阿曇という用字が使われている。他の用字は見られない。「曇」字をヅミと訓むのは、上古音に由来するドム→ヅム→ヅミの音転とされている。記紀には阿曇氏にまつわる逸話が散見される。万葉集では「安曇」字になっている。
其の底筒男命・中筒男命・表筒男命、是即ち住吉大神なり。底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等が所祭る神なり。(神代紀第五段一書第六)
十一月に、処処の海人、訕哤きて命に従はず。訕哤、此には佐麼売玖と云ふ。則ち阿曇連の祖大浜宿禰を遣して、其の訕哤を平ぐ。因りて海人の宰とす。故、俗人の諺に曰はく、「佐麼阿摩」といふは、其れ是の縁なり。(応神紀三年十一月)
対へて曰さく、「淡路の野嶋の海人なり。阿曇連浜子 一に云はく、阿曇連黒友といふ。仲皇子の為に太子を追はしむ」とまをす。是に、伏兵を出して囲む。悉に捕ふること得つ。……是の日に、阿曇連浜子を捉ふ。(履中前紀)
夏四月の辛巳の朔丁酉に、阿雲連浜子を召して、詔して曰はく、「汝、仲皇子と共に逆ふることを謀りて、国家を傾けむとす。罪、死に当れり。然るに大きなる恩を垂れたまひて、死を免して墨に科す」とのたまひて、即日に黥む。此に因りて、時人、阿曇目と曰ふ。亦浜子に従へる野嶋の海人等が罪を免して、倭の蒋代屯倉に役ふ。(履中紀元年四月)
是の軍事は、境部臣・阿曇連、先ちて多に新羅の幣物を得しが故に、又大臣を勧む。是を以て、使の旨を待たずして、早く征伐ちつらくのみ。(推古紀三十一年十一月)
壬戌に、観勒僧を以て僧正とす。鞍部徳積を以て僧都とす。即日に、阿曇連名を闕せり。を以て法頭とす。(推古紀三十二年四月)
冬十月の癸卯の朔に、大臣、阿曇連 名を闕せり。・阿倍臣摩侶、二の臣を遣して、天皇に奏さしめて曰さく、「葛城県は、元臣が本居なり。故、其の県に因りて姓名を為せり。是を以て、冀はくは、常に其の県を得りて、臣の封県とせむと欲ふ」とまをす。(推古紀三十二年十月)
乙酉に、百済の使人大仁阿曇連比羅夫、筑紫国より、駅馬に乗りて来て言さく、「百済国、天皇崩りましたりと聞りて、弔使を奉遣せり。……」とまをす。(皇極紀元年正月)
二月の丁亥の朔戊子に、阿曇山背連比邏夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県をして、百済の弔使の所に遣して、彼の消息を問はしむ。(皇極紀元年二月)
庚戌に、翹岐を召して、阿曇山背連の家に安置らしむ。(皇極紀元年二月)
其の阿曇連 名を闕せり。が犯せるは、和徳史が所患有る時に、国造に言して、官物を送らしむ。復、湯部の馬を取れり。(孝徳紀大化二年三月)
或本に、五年の七月に云はく、僧旻法師、阿曇寺に臥病す。是に、天皇、幸して問ひたまふ。仍りて其の手を執りて曰はく、「若し法師今日亡なば、朕従ひて明日に亡なむ」とのたまふといふ。(孝徳紀白雉四年五月是月)
西海使小花下阿曇連頰垂・小山下津臣傴僂、傴僂、此には倶豆磨と云ふ。百済より還りて、駱駝一箇・驢二箇献る。(斉明紀三年是歳)
又、西海使小花下阿曇連頰垂、百済より還りて言さく、「百済、新羅を伐ちて還る、時に、馬自づからに寺の金堂を行道る。昼夜息むこと勿し。唯し草を食む時に止む」とまをす。(斉明四年是歳)
八月、前将軍大花下阿曇比邏夫連・小花下河辺百枝臣等、後将軍大花下阿倍引田比邏夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石等を遣して、百済を救はしむ。(天智前紀斉明七年八月)
五月、大将軍大錦中阿曇比邏夫連等、船師一百七十艘を率て、豊璋等を百済国に送りて、宣勅して、豊璋等を以て其の位を継がしむ。(天智紀元年五月)
秋九月の辛未の朔に、阿曇連頰垂を新羅に遣す。(天智紀九年六月)
元年の春三月の壬辰の朔己酉に、内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇の喪を郭務悰等に告げしむ。(天武紀元年三月)
丙戌に、天皇、大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ。(天武紀十年三月)
十二月の戊寅の朔己卯に、……阿曇連……、五十氏に、姓を賜ひて宿禰と曰ふ。(天武紀十三年十二月)
八月の己亥の朔辛亥に、十八氏の氏、……阿曇。に詔して、其の祖等の墓記を上進らしむ。(持統紀五年八月)
此の三柱の綿津見神は、阿曇連等が祖神を以ていつく神ぞ。故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫ぞ。其の底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前の大神ぞ。(記上)
……安曇外命婦……(万667左注)
……武蔵国の部領防人使掾正六位上安曇宿禰三国……(万4424左注)
安曇廣麻呂 冩紙二百八十張 布七端 絁三匹三丈(正倉院文書、天平十八年四月二日)
阿曇廣麻呂〈寫紙二百枚〉(正倉院文書、天平十八年五月十三日)
氏姓の研究に、阿曇氏(阿曇連)の職掌を強引に決めてかかる説が行われている(注1)。しかし、阿曇連が豪族として台頭していて連続的に物語られているわけではない。ばらばらの破片的な記事が現れるばかりである。上に示した記事から、阿曇氏が取り扱われていたのは、①少童との関係、②海人の統括やかかわり、③海表の軍事にかかわること、④僧の統括者、⑤使者となること、といった点が指摘できよう。それら職掌間の隔たりが収束していく漸近線をもとめるためには、平板な思考から飛躍する必要がありそうである。上代人の持っていた言葉に対する感性を共有することができるかが問われている。以下、順不同で考えて、ヤマトコトバの沃野に分け入って彼らの言語ゲームのあり様を探ってみよう。
最大の難関は、アヅミという名をどうして「曇」字をもって表したのかである。好字令をもって「安曇」へと用字が変更されたかもしれず、二十巻本和名抄の地名表記にも、「安曇 阿都三」(信濃国)とある。しかし、とても特殊な「曇」字を、当初から特有に用いていた理由はわかっていない。「曇」字は漢字としては新しい字のようである。梵語に、法の意に用いられている。ダルマ(dhárma)の訳として、達摩、曇摩、曇無と音写される際に作られたという。梵字のことをいう悉曇文字、釈迦の出家前の名前のゴータマ・シッタールダ(瞿曇悉達多)、紀に見える僧に曇慧(欽明紀十五年二月)、曇徴(推古紀十八年三月)といった法名がつけられている。また、cloudy の意であり、説文新附に、「曇 雲布也。从二日雲一、会意。」とある。雲の布のことを言うとされている。本邦における雲についての形容としては、万葉集にわずかではあるが見られる。
わたつみの 豊旗雲に 入り日見し 今夜の月よ 澄み明かれこそ(万15)(注2)
眉の如 雲居に見ゆる 阿波の山 懸けて漕ぐ舟 泊知らずも(万998)
まそ鏡 照るべき月を 白妙の 雲か隠せる 天つ霧かも(万1079)
夕されば み山を去らぬ 布雲の 何か絶えむと 言ひし児ろばも(万3513)
豊旗、眉、白妙、布と譬えている。現代人にも理解できる表現である。万998番歌は、「眉」は雲にかかるのではなく、その上に見える阿波の山が山脈として連峰形式に見えることを指しているとも解されている。筆者は、「眉」のもこもこ感を「雲」にかけているように感じる。万15番歌の「豊旗」、万1079番歌の「白妙(栲)」や万3513番歌の「布雲」も、即物的にシート一枚が太陽光を遮蔽しているというのではなく、織物の質量感を含意しているように感じられる。
眉(ヨは甲類)は繭(ヨは甲類)と同根の語であろうと推測されている(注3)。眉毛のような毛の集まりは、蚕の繭の毛の集まりのようである。万葉集では、「繭隠り」の用字に「眉隠」(万2495・2991・3258)と記している。紀にも、「眉の上に繭生り、」(神代紀第五段一書第十一)とある。
妹をこそ 相見に来しか 眉引の 横山辺ろの 鹿猪なす思へる(万3531)
しらぬひ 筑紫の綿は 身につけて いまだは着ねど 暖かに見ゆ(万336)
伎倍人の 斑衾に 綿さはだ 入りなましもの 妹が小床に(万3354)
万3531の「眉引の」は「横山」にかかる枕詞とされている。眉を横に長く引くところから類推されているとする。ただ、「横山」は横に長く連なる丘陵を指すようで、そこにはススキなどが生えていたと考えられ、眉毛の様子を醸し出そうとして表現したものとも考えられる。
繭が作られることとは、蚕が蛹を作ることである。たまたまその蛹がたくさんの糸を吐いて作られるものであったため、人間は勝手に活用し始めてしまった。蚕蛾の幼虫が蚕で、その蛹が繭である。蛾であるが、人為的に品種改良してほぼ飛べなくしてしまった。それを人工的に飼育している。人間はあくどいやり方で自然を利用する。人間が手助けをしなければ、自然状態では育つことも繭を作ることも交尾することもできない。
蚕を飼うためには、幼虫に桑の葉を与えつつ、糞や食べかすが多くなれば、上へ行く性質を利用しながら桑を盛った網に変えることをし、衛生管理につとめて育てる。そして、蚕に繭を作らせるためには、蚕が安心して蛹状態に入れるよう、隠れるところを作ってあげる。それをマブシ(蔟)と呼んでいる(注4)。マブシは同音に射翳がある。猟師が鳥獣を待ち伏せして射るために、自らの身を隠しておく遮蔽設備である。和名抄に、「射翳 文選射雉賦に云はく、射翳〈於計反、隠なり、障なり、師説に末布之〉は隠れ射る所以の者なりといふ。」とある。姿を隠すための装置だから同じ言葉で表されており、かつ、その材料となるものも似たものであった。蔟の原初的形態として、葉を落とした木の枝の粗朶をまとめたものが使われていたと考えられる。野蚕がするように環境を整備した。
左:鷹狩での射翳利用(久隅守景・鷹狩図屏風、紙本着色、江戸時代、17世紀、日東紡績蔵、東博展示品)、中:薪を用いた蔟(丹波・丹後・但馬、上垣守国・養蚕秘録、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200021877/58?ln=jaをトリミング)、右:柴漬漁(「於朶漁」、日本捕魚図志、国文学資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200022092/13?ln=jaをトリミング)
この雑木の枝は、シバ(柴)ともいい、かこいふさぐためにいくつも寄せ集めたものは、フシ(柴)と言っている。水に沈めて魚などを居つかせる漁が行われた(注5)。
天の逆手を青柴垣に打ち成して隠りき。柴を訓みて布斯と云ふ。(記上)
因りて海中に八重蒼柴 柴、此には府璽と云ふ。籬を造りて、……(神代紀第九段本文)
槮槑 同、所今反、樹長皃、不志豆介乃木(新撰字鏡)
罧 爾雅に云はく、罧〈蘇蔭反、字は亦、椮に作る〉は之れを涔〈字廉反、又の音は岑、布之都介〉と謂ふといふ。郭璞に曰はく、柴を水中に積み、魚寒くして其の裏に入り、因りて簿を以て囲みて捕へ取るなりといふ。(和名抄)
泉河 水のみわたの ふしつけに 柴間のこほる 冬はきにけり(千載集389)
こばへ集ふ 沼の入江の 藻の下は 人漬けおかぬ 柴にぞありける(山家集1392)
かこいふさいで安全がはかられ、相手に見つからないようにしたものがフシである。誰がそこに身を寄せるかに違いはあっても同じことである。束ねた柴を海や湖沼、河川などの水中に沈めておくのがフシヅケで、そこに集まった魚を網などを併用しながら引き上げれば捕ることができる。まとめると、ある程度の長さの木の枝を束ねたものがフシで、狩猟や漁撈に用いられてフシともマブシとも呼ばれ、養蚕にも使われるようになっている。蚕は繭を作るとき、隠れる性質を持っている。蔟のなかは安全だと知ってそこに隠れ、さらに自らを隠れさせる繭を作る。二重に隠れているのだから、その柴は本当のフシ、マ(真)+ブシ(柴)と呼ぶことができる。結果的に、目隠しのマブシに同じ音となっている。
マブシ(蔟)にマヨ(繭)が見え隠れしている。興味深いことに、人の顔についているマヨ(眉)は目の上についていて、眩しくて目を瞬かせるときに補助をなしている。強い光から目を保護するのに一役買っている。デーゲーム時の野球選手が目の周りに隈取りにしているのは、目のまわりを眉だらけにする作戦である。眉は、マビサシ(目庇・眉庇)の転としてマブシに当たるとも言える。阿曇の「阿」字には屋根の庇、軒の意がある。四阿は庭のあずまやのことをいうが、寄棟造の建物のことも指した。「四阿殿」(続紀・天平十四年正月)とある。眉でもって日光をやわらげ、天気を曇にしようとしている。
金銅製眉庇付冑(千葉県木更津市祇園大塚山古墳出土、古墳時代、5世紀、東博展示品)
また、アヅミという音のアは、田の畔(畦)のことを指すとも考えられる(注6)。アヅミと聞こえれば、ア(畦・畔)+ツミ(積)と連想させられる。畦を積む作業に、人は鍬を用いる。畔を積むことを名に負う阿曇氏は、クハ(鍬)使いのプロフェッショナルということになる。また、ア(畦・畔)+ツミ(柘)とも聞こえる。柘(ミの甲乙不明)とはヤマグワのことである。
この夕 柘のさ枝の 流れ来ば 梁は打たずて 取らずかもあらむ(万386)
桑は主にどこに植えられていたか。日本民俗大辞典に、次のようにある。
畦道に植えている。畦はきちんと固めておかないと、水が漏れ出してしまって水田として機能しなくなる。桑の木を植えて根が張れば、畦として固まって簡単には毀損しない。そんなメリットもある。刃床が一枚の面になっている鍬の刃を使って掘り起こし持ち上げ、床の背を使って土を撫でつけて形を整える。つまり、鍬を使って作った畦に桑を植えた。言葉を理解するうえでこれほどわかりやすいことはない。そうやって体系化された言語としてヤマトコトバは成っている。畦にはほかに稲架のためにトネリコなどが植えられることもあり、同様の景色が生まれていた。
クハ(鍬)という語については、白川1995.に聞き逃せない説がくり広げられている。「人の足のかかとから足先までの形は、柄を装着した「くは」に似ているので、その部分を「くは」といい、かかとを立てて遠く望むことを「くは立つ」という。「企つ」の意である。鍬がもと疌声で地にうちこむものであったように、「くは」は地にうちこむときの擬声語であったかと思われる。」(300頁)とある。眉唾でありながら半分ぐらい信じて構わないのであろう。残りの半分は、クフ(食・囓・咋)に示されるような、歯を立ててかみつくことと関連がありそうである。カイコが歯を立て音を立てて桑の葉を食べる様は、鍬の刃が土にググっと食い込んでいく様子に似ている。鍬使いの上手な虫として、蚕は接眼されて見つめられていたのではないか。そして、かみついたまま放さないことをクハフ(銜・咥)といい、鍬が土を保ち持ち上げることと相似している。hoe がクハという名を有するのは、クハッと音を立てながら土を銜えるように耕すことができるからであろう(注7)。そして、そのクハ(鍬)の最たるものとは、ハ(刃)の鋭利なものである。記紀の時代、「木鍬(コは乙類)」(記歌謡61)という語が見られる(注8)。孤例であるが、筆者は鉄の刃先を持たない木製の鍬のことと考える。すなわち、もともとあった木製のクハが、鉄の刃先を持ったクハに言葉の領分を乗っ取られたものと推測する。
この語学的仮説は、大陸の文明を二段階で受け入れたらしいことから成り立つ。先に水田稲作農耕が中国の江南方面から到来している。稲の種ばかり来ても作り方がわからなければどうにもならない。技術体系全般として稲作が伝わっている。技術指導員に当たる人も渡ってきていたのであろう。水田を作るのにふさわしいスキ(鋤)やクハ(鍬)も同時に伝えられているはずであるが、鉄器を伴っていない。あっても量が少なくて、広まっていなかったと考えられる。縄文時代晩期から弥生時代の初めのこととされている。次の段階で、今度は中国の中原方面から養蚕が伝わっている。蚕とその飼育技術、ならびに飼料となるクハ(桑)の木(マグワ・カラクワ)がもたらされた。技術大系全般の渡来である。在来種の桑はヤマグワと呼ばれている。養蚕のために用いた樹種は、大陸からもたらされたマグワであった。ソウ(桑)(mulberry)の木をクハと呼び、後から柘は山にあるクハだと定め直すに及んでいる。
養蚕技術を伝えようとした人が苗を持ち込んで植えようとしたとき、あたり一面は水田に占領されていた。集落の近くで水没していないのは畦くらいしかない。だからそこに植えた。畦はクハ(鍬)で作っている。土をえぐりとって盛りながら押し延ばしている。ソウ(桑)の木の植樹も畔をどんどん侵食して延びていく。だから、クハと呼ばれることはうまく言い表していると思われた。ヤマトコトバとして腑に落ちて人々の間に定着していった。
ただ、もう少し余計に養蚕を行ってたくさんの絹織物を得るためには、たくさんの蚕を飼う必要があった。そのためには、たくさんクハ(桑)の木を植えなければならない。どこへ植えるか。開墾を行って新しく畑を作るしかない。再びクハ(鍬)が活躍する。畑の古語はハタ(畑・畠)である。養蚕技術をもたらした人は伝承に秦氏といわれている。本邦で生産されたとおぼしい絹のことは、雄略紀に初見である。
十五年に、秦の民を臣連等に分散ちて、各欲の随に駈使らしむ。秦造に委にしめず。是に由りて、秦造酒、甚に以て憂として、天皇に仕へまつる。天皇、愛び寵みたまふ。詔して秦の民を聚りて、秦酒公に賜ふ。公、仍りて百八十種勝を領率ゐて、庸調の絹縑を奉献りて、朝廷に充積む。因りて姓を給ひて禹豆麻佐と曰ふ。一に云はく、禹豆母利麻佐といへるは、皆盈て積める貌なり。十六年の秋七月に、詔して、桑に宜き国県にして桑を殖ゑしむ。又秦の民を散ちて遷して、調庸を献らしむ。(雄略紀十五年~十六年)
秦氏は、秦の始皇帝の末裔ではないかと勘繰られている。その当否は不明である。ハタさんがハタ(機)織りの材料となる生糸を作るために、その生産体系をすべてもたらしたとすると、植えるところはハタ(畑・畠)で正しい。田んぼのハタ(端)の畦に植えていたクハ(桑)を、もっと広いハタ(畑・畠)へと広げた。開墾するには切り株や草の根があるから、木製のみのクハ(鍬)ではなく、鉄製の刃先の付いたクハ(鍬)こそが望ましい。それを秦氏は携行して来ていたから、養蚕は着実に根付いたということになる。それまで低湿地にばかり行われていた稲作が、鉄器付きの農具の出現によって開墾が進み、灌漑設備を整えて沖積世平野へと大規模に展開されていった時と同じということになりそうである。鍬の刃先は桑を畑へ、稲を灌漑設備のある水田へと分化させるのに十分であった。
語学的には次のような仮説にまとめられる。ドミノ式に大陸から技術が伝わってきて、ドミノ式にヤマトコトバが再活性化されている。養蚕文化の到来によって、言葉上と田畑上に分化が生じている(注9)。
すでにあった木製のクハ(鍬)→コクハ(木鍬)
すでにあった在来種クハ(桑)→ヤマグワ(山桑)、ツミ(柘)
田んぼの端の部分のハタ(端)→ハタ(畑・畠)
養蚕のために葉を取るとき、桑はその年に徒長した枝ごと切り取ることが行われた。高くなりすぎると取りにくくなるし、たくさん枝が出たほうが葉の収量は増えるから、切り戻して作られていた。ツミ(柘)というのは、おそらくは同音の罪(ミは甲類)を犯したら、野放しにはされずに一列に並ばされて謹慎処分を受け、坊主頭に刈られていると見立てられたようである。阿曇氏が「曇」字を負い、僧侶と関係する職掌でもあったのは、クハ(桑)の整枝姿とパラレルな関係にあると見極めたからであろう。
桑の葉を畦道で摘んでいる。ア(畦・畔)+ツミ(摘、ミは甲類)と受け取れる。つまり、どのように考えても、アヅミという言葉は上代語にクハ(桑・鍬)と関係している。桑は、蚕の餌である。蚕は人が飼わなければ死んでしまうほどに、カヒ(飼)+コ(子)の意味であるが、「飼ひ子」の「飼ひ」、すなわち、飼料が桑である。カヒ(飼)の真髄を表すものがクハ(桑)である。
たらちねの 母が其の業る 桑すらを 願へば衣に 着るといふものを(万1357)(注10)
なかなかに 人とあらずは 桑子にも ならましものを 玉の緒ばかり(万3086)
筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも(万3350)
結局のところ、アヅミという人がいたら、フシ(柴)を使いこなしながら何かを飼うことに得意な人としてイメージされたらしいと推測される。「飼ふ」という語は、少なからずおもしろい概念である。食物や水を与えて飼育することであるが、ただ観察のために飼育するといったことは上代では普遍的にはあり得ない(注11)。
鳥座立て 飼ひし雁の子 巣立ちなば 檀の岡に 飛び帰り来ね(万182)
さ桧の隈 桧の隈川に 馬駐め 馬に水飲へ 吾外に見む(万3097)
赤駒を 厩に立て 黒駒を 厩に立てて 彼を飼ひ 吾が行くが如 ……(万3278)
百小竹の 三野の王 西の厩に 立てて飼ふ駒 東の 厩に立てて 飼ふ駒は 草こそば 取りて飼ふがに 水こそば 汲みて飼ふがに 何しかも 葦毛の馬の いなき立てつる(万3327)
…… 枕づく 妻屋のうちに 鳥座結ひ 据ゑてそ我が飼ふ 真白斑の鷹(万4154)
是の月に、甫めて鷹甘部を定む。故、時人、其の鷹養ふ処を号けて、鷹甘邑と曰ふ。(仁徳紀四十三年九月是月)
河に至るに及びて、大磐宿禰、馬に河に飲ふ。(雄略紀九年五月)
而るを人に困み事へ、牛馬を飼牧ふ。(顕宗前紀、清寧二年十一月)
官馬は誰が為に飼養へや、命の随に。(武烈前紀仁賢十一年八月)
爰に万が養へる白犬有り。(崇峻前紀用明二年七月)
難波吉士磐金、新羅より至りて鵲二隻を献る。乃ち難波社に養はしむ。(推古紀六年四月)
是歳、百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ。而して終に蕃息らず。(皇極紀二年是歳)
鉗着け 吾が飼ふ駒は 引き出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか(孝徳紀白雉四年是歳、紀115)
飼うことは、動物の親がその子を養い育てることを表し、それを人間が真似て親代わりになって行うことに言った。躰が大きくなる牛馬も、子どものころから飼い馴らすことで人間に従わせることが比較的容易になっている。蚕をコ(甲類)と呼んだのは、その一生すべてに手をかけてあげなければならない存在だったからである。傷ついた野生動物を一時的に保護して面倒を見、経過を観察して野生に返すことではなく、その一生を人間の手中に収めて役に立てようと試みている。人が特定の動物に対してだけ継続的に行う特殊な行為である。対人においてそれと同等のことは、上代語にアマナフ(和)と言った(注12)。
而れども玖賀媛和はず。乃ち強に帷内に近く。(仁徳紀十六年七月)
奏せるを推ね問ひて、相疑ふことを和解はしめよ。(継体紀二十三年四月)
上下和ひ諧れ、(推古紀十二年四月、憲法十五条)
爰に大臣、群臣の和はずして、事を成すこと能はざることを知りて、退りぬ。(舒明前紀)
仲良くすることで、寛大な気持ちをもって相手の言うことを聞き、辛抱して甘受することをいう。なぜ辛抱するのか。ある面で辛抱すれば、他の面で得られるメリットの方が大きいからである。全体的に勘案して得策を選んでいる(注13)。これは、一方向的にもたらされる行為ではない。自分のほうからは誘いの水を向けておいて、相手が好意的に振る舞うことをアマナフと言っている。なつかせることで思い通りに相手を動かせる。結果的にお互いに win-win の関係を築くことができる。立場的には主人とそれよりも低い身分の間柄で起こる。今日的にはパワハラ、モラハラと騒ぎ立てられる状況なのかもしれないが、互いに合意の上に成り立っている。人と家畜との関係に同じである。役牛は命を全うするように大切に育てられ、食べるに困らないどころか、臼に搗かれ釜で煮られたやわらかい飼料が栄養素を補われて与えられ、ふだんから体を洗ってくれたり病気や怪我の手当てもしてくれ、雨風や寒さからも身を守る舎屋が与えられて清潔に保たれる。その代わり、人のために搾乳されたり、労役に就いて荷を運んだり、泥田を耕すのに酷使される。
阿曇連が主人となって飼うことをする。相手は、アヅミが得意なクハを使うものに違いない。蚕を飼うのである。飼うには蔟を使う。マブシという素敵なフシである。同様のフシでも、新式のフシがおおむね6世紀になって現れている。ホフシ(僧)である(注14)。推古紀三十二年条には、ホフシにもいろいろな人がいて、本来、法を遵守するはずの人が祖父を殴打して困ったものだという話になっている。そこで政府はきちんとしようとし、僧を統括するためにとても偉い僧侶によって自浄統制するようにした。そればかりでなく、シビリアンコントロールを図るために阿曇連が選ばれている。上手に飼い、和うべき統括官として、格好の存在と目された。アヅミという変な名を負っているのはそのためであろうということになっている。阿曇連の表示に「闕レ名」とあるのには訳があった。名のほうは問題ではなく、姓のほうが必要だからである。僧の統括者としての役割を表わすためには、アヅミの名に「曇」という字を用いるのがふさわしい。仏教語で法を意味することに書記官は思い至った。あるいは、仏教の伝来と養蚕技術とが近しい人によってもたらされ、ひとまとまりの新しい文化、文明と感じられていたのかもしれない。今日に残る飛鳥時代の絹製品には、繍仏ほか仏教関連の品々がある。法隆寺の品だから残っているのか、それとも、絹製品がそもそも仏教色を有していたからなのか、今となってはわからない。
阿曇連の祭神は、神代紀に、「底津少童命・中津少童命・表津少童命」となっている。ワタツミとは、ワタ(海)+ツ(助詞)+ミ(霊、ミは甲類)の意であろうとされている。ワタツミを「少童」(神代紀第五段一書第六)や「海童」(神武前紀)と記すのは、「童」に神仙の意を加えたものと解されている(注15)。海のことをワタとする理由としては、「渡る」に由来するとする説がある。仏教ともども精神世界の観念さえも海を渡って来たものであり、確かにその意を意識していよう。同時に筆者は、ヤマトコトバ的な「少童」の側面を含んでいると考える。「少童」の実体としてスクナビコナが思い浮かぶ。少名毘古那神は、海を渡って来たとても小さな神であり、羅摩(ガガイモ)の船に乗っていた。ガガイモは実のなかに綿が入っている。朱肉を含ませたり、針山の中綿に用いられた。ワタ(海)をワタ(渡)る「少童」的な神がワタ(綿)の船に乗ってきている。これぞワタツミと洒落ている。
故、大国主神、出雲の御大の御前に坐す時に、波の穂より、天の羅摩の船に乗りて、鵝の皮を内剥ぎに剥ぎて衣服と為て、帰り来る神有り。爾くして、其の名を問へども、問へず。且、従へる諸の神に問へども、皆、「知らず」と白しき。爾くして、たにぐく白して言はく、「此は、久延毘古、必ず知らむ」といふに、即ち久延毘古を召して問ひし時に、答へて白ししく、「此は、神産巣日神の御子、少名毘古那神ぞ」とまをしき。故、爾くして、神産巣日御祖命に白し上げしかば、答へて告らししく、「此は、実に我が子ぞ。子の中に、我が手俣よりくきし子ぞ。故、汝葦原色許男命と兄弟と為りて、其の国を作り堅めむ」とのらしき。故爾より、大穴牟遅と少名毘古那と二柱の神、相並に此の国を堅めき。然くして後は、其の少名毘古那神は、常世国に度りき。(記上)
綿は、木綿以前の時代、多くの場合、「きぬわた」、つまり、真綿のことを言った。新撰字鏡に、「絮綿 和多入」、「裌 古洽反、入未、絮衣也、合乃己呂毛、又綿乃己呂毛」、「複 方六反、入、絮衣也、厚也、除也、被也、和太己呂毛」、和名抄に、「綿絮〈屯字附〉 唐韻に云はく、綿〈武連反、和多〉は絮なりといふ。四声字苑に云はく、絮〈息盧反〉は綿に似て麁く悪しきものなりといふ。唐令に云はく、綿六両を屯〈屯は聚なり。俗に一屯を飛止毛遅と読む〉とすといふ。」とある。繭の糸口を見つけて長繊維の絹糸を引き出すことをせず、中の虫を取り除いて繭の形のままに揉みほぐしたものである。弾力性と保温性があり、袷の衣や布団、座布団(褥)などの中綿に使われている。繭はもともと、蚕が身の外側に綿を着ていたと見て取れる。人はそれをたくさん寄せ集めて袷や衾の表地と裏地との間に挟み込んで中綿とし、その全部を着て用としている。大人になったら蚕(児)としての綿だけでは量が足りなくなったということである。
蚕が一生を生き、繭を結ぶよう、そのすべてのお膳立てをしているのは人間である。蚕を児と思って養育し、アマナフ(和)ことをしている。鍬でアヅミ(畦積)したところへ桑を植え、蚕を飼って、蔟に雲のような様子の繭を結ばせている。
ワタは、動物、人間の腸のことも言う。ハラワタ(大腸)、ホソワタ(小腸)、ミナノワタ(蜷の腸)などという。腸のモコモコしている様態が、袷に入れる中綿に似ているということであろうか。また、ワタ(海)に内蔵されている魚や貝に内蔵されているのもワタ(腸)である。海の中に潜って魚介類を捕っている海人は、ワタの精髄を知悉した人たちである。そんな人たちが応神紀三年十一月のようにさばめき出して、それぞれに勝手なことを始めたら収拾がつかない。それをおさめて管掌する人として、阿曇連が求められた。ワタのツミ(罪)を取り締まることができるのは、ワタツミを信奉し知悉している阿曇連がふさわしい。
阿曇連という人はその名の音、アヅミから、フシを扱うのに慣れているとこじつけられて信じられている。言=事であるとの考えの下では、名は体を表し過たないと思われていた。柴を海に入れてワタとして活用するのには二つの理由がある。第一は、敷粗朶工法により、護岸、防波堤、埋め立て道路などの地盤にするためである。古く弥生時代の壱岐原の辻遺跡の港湾の例が知られる。第二は、漁業への応用である。先述した柴漬漁である。結果、海民全体を掌握することに成功した。柴を使うことで漁民に干渉した話が、応神紀の諺であろう。
サバアマの諺譚では、処々の海人の「さばめき」の争乱を平定し、阿曇連の祖の大浜宿禰が「海人之宰」となったとしている。海人をアマナフ(和)ことに成功したのである。アマをアマナフとは、言い分を聞いて認めつつ、どうしたら希望をかなえさせてあげられるか知恵を出し、海人のさまざまな言葉を覆いつくしてしまうように捉え返してすべてを従わせてしまったということである。サバアマの諺譚で、海人が「さばめく」状態に陥ったのは、捕れ過ぎて困ったとのもの言いであった可能性が高い。上代人によく見られる言語論理術を用い、トートロジカルに解説している(注16)。肝心なのは、阿曇連自身は海人ではない点である。管掌者の立場から海人を統括している。令に規定されるところでは、「刑部省(うたへただすつかさ)」、訴えを糺す司に相当する役割を担っている(注17)。フシと同音の「節」に、事の次第を表わす理の義がある。新訳華厳経音義私記に、「文理 文に合ふ也。又、理は布之と云ふ。又、天文地理也。」、和名抄に、「節 四声字苑に云はく、節〈子結反、不之、今案ふるに、竹に従ふ者は竹節、草に従ふ者は草木節、玉篇に見ゆ〉は草木を擁し腫るる処なりといふ。」とある。竹木のふしくれだったところを2つに割るとそれぞれはぴったり合わさる。そこで、割符に用いられた。そこから節度使といった語が生まれている。阿曇連は、中央政府から派遣されて漁民の平定を促した節度使的役割を担っている。
海人は海の生活者である。海を渡ることが得意な人たちであることが連想される。ならば、阿曇連という海人の管掌者は、海事的な軍事を統帥する役目や、使者としての役目も果たして抜かりないものである。記の歌謡に次のような語り口があるのも、阿曇と海人と使者とが語学的に関連することをよく表している。
八千矛の 神の命は …… 此の鳥も 打ち止めこせね 石塔や 海人馳使 事の語り言も 此をば(記2)
八千矛の 神の命 …… 命は な殺せたまひそ 石塔や 海人馳使 事の語り言も 此をば ……(記3)(注18)
以上、阿曇連の諸相についてみてきた。すべてはアヅミという名に負う職掌であった。名負いの役割から実務が決められている(注19)。主に管掌に当たる中間管理職である。技能が求められているわけではないから、暗愚でさえなければ誰にでも勤まる仕事である。古代の「現代」に当たる天智紀の将軍職や天武紀の文筆職はその限りではない。その際には、「阿曇連闕レ名」ではなく、きちんと名が記されている。すべては言葉(音)によって事が決まっている。人は言葉でものを考える。言葉に従って具現化する方向へも働いていた。職掌のことだけに、という洒落である。
(注)
(注1)管見に及んだ指摘に次のようにある。篠川2016.に、「……阿曇部についてであるが、阿曇部が阿曇連氏の管掌下に置かれた部であったことは、その名からして間違いないと考えられる。またその阿曇部が、海部と同様、海の民を編成した部であったことも、……阿曇連氏の性格からして間違いないところであろう。阿曇(アヅミ)という語が、海積・海人積(アマツミ)の約とみられることも、そのように考えてよいことを示している。」(54頁)、宮島1999.に、「「阿曇」なる氏族名が何を意味するかについて、いまだ定説らしきものはないといっていいが、かつて連を称したことからすると、この呼称が何らかの形で彼ら職掌と結び付いている可能性は大きいといえよう。太田亮(『新編姓氏家系辞書』[秋田書店、1979年。])……によれば、アヅミとはアマ(海)・ツ・ミ(霊)のつづまったもので、すなわち海霊の謂であり、海部の首長の義ではないかとされ、これが今のところ最有力となっているようだが、しかし、ヤマツミ(山祇)に対するものとしてはワタツミ(綿津見)という、海霊を示す語が別にあって、仮にアマツミなる語の存在を認めたにしても、それならばワタツミ・アマツミの微妙な語感の違いや相互関係はどうなるのかなど、不明とすべき点は多い。私見によればアヅミとは、阿曇氏がまさにそうであったように、魚介類を管掌し主宰する漁撈民としての職掌、すなわち「集(聚)む」=アツムの名詞形、「アツメ」に由来する姓氏ではないかと考えられるのである。……『古事記』の海幸山幸説話において、綿津見神は釣針を失くした火遠理命のために「悉に海の大小魚どもを召び集め」て海の幸を管掌した神であった。猿女君起源説話でも、宇治土公を遠祖に戴く猿田彦神同様、伊勢の海人系氏族であった猿女君(天宇受売命)もまた、「悉に鰭の広物、鰭の狭物を追ひ聚め」るなど、両者に共通するのは海の主宰神としての、あらゆる海の幸の管掌・管理であって、それ以外の何物でもない。」(164頁)とある。
(注2)この歌の訓みについては、拙稿「中大兄の三山歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/40096f25187bcf13d2a77224fe00e069など参照。
(注3)同音のマヨ(眉・繭)が同根の語であるとするのは得心されるものであるが、その形について、若干のコメントを付しておく。人類は中国において蚕の家畜化に成功したとされている。その後、品種改良を重ねて今日に至っているが、地域ごとの進化によって中国型、日本型、熱帯型、ヨーロッパ型に大別されている。日本型の古い蚕の例として、皇后さまが飼われている小石丸がよく知られる。多くの日本産の繭の形を見ると、豆の2つ入った落花生の殻のように、中央部に窪みを持っている。しかし、顔にある眉は、窪みがあるとは認められない。舶来当初に楕円形の繭の実物を目にして、眉にならってマヨと名づけたのであろう。古代絹として知られている小石丸も、実は江戸時代の品種である。繭の形については、加工過程により、また玉繭の場合など、さまざまに変わることがあるので、あくまでも傾向があるというにすぎない。
(注4)和名抄に、「蚕 説文に云はく、蚕〈昨含反、俗に𧌩の字に為る、加比古、一に古賀比須と訓む〉は虫にして糸を吐くなりといふ。」、「蚕簿 兼名苑に云はく、簿〈音は薄、衣比良〉は一名に筁〈音は曲〉、蚕を養ふ器なり、蚕を其の上に施し、繭を作らしむ者なりといふ。」とある。箙は、矢をさして背に負う武具である。鏃を容れるところが区分けされている。簿は、蚕が一匹ずつ入って繭を作ることを促すことに力点が置かれた言葉であろう。複数の蚕が1つの繭を作ってしまうと、糸をひき出すとき絡んでしまってうまくいかず、玉繭を綿として利用することが多かった。せっかく苦労して育てて真綿にしかならないのでは残念だから、地方により種々工夫して独特の形をした蔟を拵えていた。江戸時代の農書、養蚕秘録や蚕飼絹篩大成に記録されている。
(注5)金田1986.に、「漬漁業」は、「木、竹、わら等を海中に敷設し、これに集まり又は中にもぐり込んだ水産動物をまき網、曳網、すくい網、釣等の漁法を使用する漁業をいう。」(593頁)と定義されている。魚類等は、流木、流れ藻、水底に沈んだ木の枝などに集まるから、その習性を利用して人工的に行っている。愛知県のウナギ、京都府のブリ仔、島根県のシイラが紹介されている。フナやエビ、カニなどの漁、また、海苔の養殖には盛んに用いられた。
(注6)名とは呼ばれるものだから、「あ」と音に発せられているのを耳に聞いて受け取られることによって始まる。記紀に記されている。
時に素戔嗚尊、春は重播種子し、重播種子、此には璽枳磨枳と云ふ。且畔毀す。毀、此には波那豆と云ふ。秋は天斑駒を放ちて、田の中に伏す。(神代紀第七段本文)
……天照大御神の営田のあを離ち、其の溝を埋み、……(記上)
(注7)名を持つことは、持続的に名を有するということである。ある物や事に名がつけられているからといって、他の地方や他の時代へと引き継がれるという保証はない。それなのに、言葉は時間的・空間的に一定の広がりをもって使用されている。人々に了解されていたから保持されて、他の人や後の人へと引き継がれていく。そのとき大事なのは、言葉の語源的理解ではない。特に無文字の時代においては、言葉を交わしあうときの、互いのなるほど感こそ重要である。その都度その言葉は活性化される。すると、言葉は一義によって成り立つというよりも、インターアクション、トランスアクションとして言葉が交わされる際ごとに、洒落を交えた多義的な定義、再定義が行われることによって、より確かなものとなっていっていたと考えられる。
(注8)新編全集本古事記には、金属製の刃先がついた「木鍬の復元図」(295頁)が挿図として掲げられている。クハでなく、コクハという言葉が使われているのは、刃先部分もまるまる「木」であることが気になっているからであろう。
(注9)ソシュールが言うように、言語は関係である。言葉の生成に遡らせての推考である。
(注10)拙稿「万葉集1357番歌「足乳根乃母之其業桑尚願者衣尓着常云物乎」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/df40abd13b124fdc597112ccad6200ef参照。
(注11)人間が動物を「飼う」ことの意味を考える際、人間が自然に対して行ってきたこととはどういうことかについて思いを致すことなく済ますことはできない。ましてや、現在盛んな自然環境保護や動物愛護運動、生態系の維持や持続可能性社会へのアプローチといった観点からでは、何もわかるものではない。人間自身とは何かという本質的問題に直結する事柄である。
動物の家畜化の歴史においては、愛玩目的の側面と、その家畜から産物や労働力を得ようとする側面の2つが、偏差的に対立項としてあらわれるであろう。秋篠宮2015.に、「ペット化というのは、野生動物でも簡単にできるものがいます。一方家畜化というのは、まとまって一つの均質化したものにしなければいけないわけですから、区別しておいたほうがわかりやすくなるかと思います。」(234頁)とある。古代エジプト王朝や古代ローマ帝国、中国の歴代王朝には、動物園を作ってそのなかでばかり生きてきた動物園動物がいた。ネコが古代エジプトでミイラにされていたり、シフゾウが動物園内で発見されたことはよく知られている。野生動物の見本として展示されている動物園の動物は、観覧者の目を楽しませ、少しく往時のエンペラー的な見方へといざなうものである。時代が下ってからは、愛玩を目的とした飼育、改良が盛んに行われるようになった。猟犬、番犬として出発したはずのイヌに、ペットとして室内で人に抱かれて暮らすものがいる。出目金はよく目が見えず、泳ぐのも苦手である。小川に流したら生きていけない。といって飛ぶことも垂直の枝につかまっていることもできなくなった蚕のように何かを生産するわけではなく、完全に観賞用に品種改良されている。
一方、ウマの家畜改良においては、軍事用や移動用としての意味が基本であった。他に、農民が役畜として農耕に利用するためにも飼われていた。とはいえ、埴輪に造形されるウマは、飾馬として死者の弔いにあずかっている。武士階級では、名馬を所有していること自体に顕示的な意味合いを持つことがあった。今日、馬は競争馬ならびに馬肉生産のための家畜とされることが多い。時代が古いほど、生産のための家畜に対して光が当てられており、逆に現代社会では、毛のないブロイラーが大量に飼育されてメカニカルに鶏卵を取られたり、コンベア上で順次屠殺されていっている実態は、世の中から隠されている。「飼う」本性を見極めなければならない。なお、人間自身の自己家畜化は、食料、都市生活、精神活動のすべてにおいて加速度的に進行しているように感じられる。
(注12)拙稿「十七条憲法の「和」の訓みについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c425bc3b98bd4fe9297e5d6e3befc626など参照。
(注13)近視眼的に嫌がることは、人間の場合その人その人、動物の場合、その動物その動物によって起こることである。経験を積んでくると、アマナフようにされることの方が楽であるとわかるものでもあるが、頑なに嫌がる個体は絶えることがない。現代人に、実経験の価値を疎んずる風潮があるのと、「飼ふ」、「和ふ」という意味合いが十分に理解されていない傾向は、並行関係にあるように感じられる。
(注14)「僧」字に、ホフシという訓がつけられている。法師のホフシの意と考えられている。「法」字にノリと訓む例があり、ノリノシが訓読語として成り立っており、必ずしもホフシと訓まれなければならないというものではない。意図的な考えのもとにホフシと和訓されていると考える。
(注15)新編全集本に、文選・呉都賦「海童」の注に「海神ノ童也」とあるのを引き、海という他界で人間は復活すると信じられていたとする。本邦でそのように信じられていたのか、疑問である。
(注16)拙稿「記紀の諺「さばあま」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/b720a93fa7405435e7a8535d935adaa4など参照。
(注17)拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/bc11138c06bb67c231004b41fc7222bcなど参照。
(注18)拙稿「「事の 語り言も 此をば」考」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/fab4e3a0072c76d727f6cb599cb8049fなど参照。
(注19)松木2006.に、「「名に負ふ」という表現は、名称・呼称としての狭義の名が、その由来・評判等をコトとして背負っていることを意味している……。そして、一方に「名を負う」という表現があるように、名が背負っているコトをも含めて「名」と表現することもあったのである。これが狭義の名と広義の「名」との違いではなかろうか。」(28頁)、「古代における「名」は、各自の自己意識にはたらきかけることを媒介にして、伝承や語り(コト)と支配秩序とをつなぐ結節点であったのである。」(48頁)とある。これらの考えは、社会学における主観性─間主観性─客観性の議論に包括されるように思われる。もう少し噛み砕いて言えば、「名」を含めた言葉は、すなわち事柄であるとしたのが無文字社会の規範であったから、そのとおりに従おうとして従っていたと説明できる。
(引用文献)
秋篠宮2015. 秋篠宮文仁ほか「総合討論」松井章編『野生から家畜へ─食のフォーラム33─』ドメス出版、2015年。
金田1986. 金田禎之『日本漁具・漁法図説(増補改訂版)』成山堂書店、昭和61年
篠川2016. 篠川賢「古代阿曇氏小考」『日本常民文化紀要』第三十一輯、成城大学大学院文学研究科、平成28年3月。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
日本民俗大辞典 福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄編『日本民俗大辞典 上』吉川弘文館、1999年。
松木2006. 松木俊暁『言説空間としての大和政権─日本古代の伝承と権力─』山川出版社、2006年。
宮島1999. 宮島正人『海神宮訪問神話の研究─阿曇王権神話論─』和泉書院、1999年。
※本稿は、2018年10月稿を2023年8月に改稿、図の取捨を行いつつルビ化したものである。
其の底筒男命・中筒男命・表筒男命、是即ち住吉大神なり。底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等が所祭る神なり。(神代紀第五段一書第六)
十一月に、処処の海人、訕哤きて命に従はず。訕哤、此には佐麼売玖と云ふ。則ち阿曇連の祖大浜宿禰を遣して、其の訕哤を平ぐ。因りて海人の宰とす。故、俗人の諺に曰はく、「佐麼阿摩」といふは、其れ是の縁なり。(応神紀三年十一月)
対へて曰さく、「淡路の野嶋の海人なり。阿曇連浜子 一に云はく、阿曇連黒友といふ。仲皇子の為に太子を追はしむ」とまをす。是に、伏兵を出して囲む。悉に捕ふること得つ。……是の日に、阿曇連浜子を捉ふ。(履中前紀)
夏四月の辛巳の朔丁酉に、阿雲連浜子を召して、詔して曰はく、「汝、仲皇子と共に逆ふることを謀りて、国家を傾けむとす。罪、死に当れり。然るに大きなる恩を垂れたまひて、死を免して墨に科す」とのたまひて、即日に黥む。此に因りて、時人、阿曇目と曰ふ。亦浜子に従へる野嶋の海人等が罪を免して、倭の蒋代屯倉に役ふ。(履中紀元年四月)
是の軍事は、境部臣・阿曇連、先ちて多に新羅の幣物を得しが故に、又大臣を勧む。是を以て、使の旨を待たずして、早く征伐ちつらくのみ。(推古紀三十一年十一月)
壬戌に、観勒僧を以て僧正とす。鞍部徳積を以て僧都とす。即日に、阿曇連名を闕せり。を以て法頭とす。(推古紀三十二年四月)
冬十月の癸卯の朔に、大臣、阿曇連 名を闕せり。・阿倍臣摩侶、二の臣を遣して、天皇に奏さしめて曰さく、「葛城県は、元臣が本居なり。故、其の県に因りて姓名を為せり。是を以て、冀はくは、常に其の県を得りて、臣の封県とせむと欲ふ」とまをす。(推古紀三十二年十月)
乙酉に、百済の使人大仁阿曇連比羅夫、筑紫国より、駅馬に乗りて来て言さく、「百済国、天皇崩りましたりと聞りて、弔使を奉遣せり。……」とまをす。(皇極紀元年正月)
二月の丁亥の朔戊子に、阿曇山背連比邏夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県をして、百済の弔使の所に遣して、彼の消息を問はしむ。(皇極紀元年二月)
庚戌に、翹岐を召して、阿曇山背連の家に安置らしむ。(皇極紀元年二月)
其の阿曇連 名を闕せり。が犯せるは、和徳史が所患有る時に、国造に言して、官物を送らしむ。復、湯部の馬を取れり。(孝徳紀大化二年三月)
或本に、五年の七月に云はく、僧旻法師、阿曇寺に臥病す。是に、天皇、幸して問ひたまふ。仍りて其の手を執りて曰はく、「若し法師今日亡なば、朕従ひて明日に亡なむ」とのたまふといふ。(孝徳紀白雉四年五月是月)
西海使小花下阿曇連頰垂・小山下津臣傴僂、傴僂、此には倶豆磨と云ふ。百済より還りて、駱駝一箇・驢二箇献る。(斉明紀三年是歳)
又、西海使小花下阿曇連頰垂、百済より還りて言さく、「百済、新羅を伐ちて還る、時に、馬自づからに寺の金堂を行道る。昼夜息むこと勿し。唯し草を食む時に止む」とまをす。(斉明四年是歳)
八月、前将軍大花下阿曇比邏夫連・小花下河辺百枝臣等、後将軍大花下阿倍引田比邏夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石等を遣して、百済を救はしむ。(天智前紀斉明七年八月)
五月、大将軍大錦中阿曇比邏夫連等、船師一百七十艘を率て、豊璋等を百済国に送りて、宣勅して、豊璋等を以て其の位を継がしむ。(天智紀元年五月)
秋九月の辛未の朔に、阿曇連頰垂を新羅に遣す。(天智紀九年六月)
元年の春三月の壬辰の朔己酉に、内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇の喪を郭務悰等に告げしむ。(天武紀元年三月)
丙戌に、天皇、大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ。(天武紀十年三月)
十二月の戊寅の朔己卯に、……阿曇連……、五十氏に、姓を賜ひて宿禰と曰ふ。(天武紀十三年十二月)
八月の己亥の朔辛亥に、十八氏の氏、……阿曇。に詔して、其の祖等の墓記を上進らしむ。(持統紀五年八月)
此の三柱の綿津見神は、阿曇連等が祖神を以ていつく神ぞ。故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫ぞ。其の底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前の大神ぞ。(記上)
……安曇外命婦……(万667左注)
……武蔵国の部領防人使掾正六位上安曇宿禰三国……(万4424左注)
安曇廣麻呂 冩紙二百八十張 布七端 絁三匹三丈(正倉院文書、天平十八年四月二日)
阿曇廣麻呂〈寫紙二百枚〉(正倉院文書、天平十八年五月十三日)
氏姓の研究に、阿曇氏(阿曇連)の職掌を強引に決めてかかる説が行われている(注1)。しかし、阿曇連が豪族として台頭していて連続的に物語られているわけではない。ばらばらの破片的な記事が現れるばかりである。上に示した記事から、阿曇氏が取り扱われていたのは、①少童との関係、②海人の統括やかかわり、③海表の軍事にかかわること、④僧の統括者、⑤使者となること、といった点が指摘できよう。それら職掌間の隔たりが収束していく漸近線をもとめるためには、平板な思考から飛躍する必要がありそうである。上代人の持っていた言葉に対する感性を共有することができるかが問われている。以下、順不同で考えて、ヤマトコトバの沃野に分け入って彼らの言語ゲームのあり様を探ってみよう。
最大の難関は、アヅミという名をどうして「曇」字をもって表したのかである。好字令をもって「安曇」へと用字が変更されたかもしれず、二十巻本和名抄の地名表記にも、「安曇 阿都三」(信濃国)とある。しかし、とても特殊な「曇」字を、当初から特有に用いていた理由はわかっていない。「曇」字は漢字としては新しい字のようである。梵語に、法の意に用いられている。ダルマ(dhárma)の訳として、達摩、曇摩、曇無と音写される際に作られたという。梵字のことをいう悉曇文字、釈迦の出家前の名前のゴータマ・シッタールダ(瞿曇悉達多)、紀に見える僧に曇慧(欽明紀十五年二月)、曇徴(推古紀十八年三月)といった法名がつけられている。また、cloudy の意であり、説文新附に、「曇 雲布也。从二日雲一、会意。」とある。雲の布のことを言うとされている。本邦における雲についての形容としては、万葉集にわずかではあるが見られる。
わたつみの 豊旗雲に 入り日見し 今夜の月よ 澄み明かれこそ(万15)(注2)
眉の如 雲居に見ゆる 阿波の山 懸けて漕ぐ舟 泊知らずも(万998)
まそ鏡 照るべき月を 白妙の 雲か隠せる 天つ霧かも(万1079)
夕されば み山を去らぬ 布雲の 何か絶えむと 言ひし児ろばも(万3513)
豊旗、眉、白妙、布と譬えている。現代人にも理解できる表現である。万998番歌は、「眉」は雲にかかるのではなく、その上に見える阿波の山が山脈として連峰形式に見えることを指しているとも解されている。筆者は、「眉」のもこもこ感を「雲」にかけているように感じる。万15番歌の「豊旗」、万1079番歌の「白妙(栲)」や万3513番歌の「布雲」も、即物的にシート一枚が太陽光を遮蔽しているというのではなく、織物の質量感を含意しているように感じられる。
眉(ヨは甲類)は繭(ヨは甲類)と同根の語であろうと推測されている(注3)。眉毛のような毛の集まりは、蚕の繭の毛の集まりのようである。万葉集では、「繭隠り」の用字に「眉隠」(万2495・2991・3258)と記している。紀にも、「眉の上に繭生り、」(神代紀第五段一書第十一)とある。
妹をこそ 相見に来しか 眉引の 横山辺ろの 鹿猪なす思へる(万3531)
しらぬひ 筑紫の綿は 身につけて いまだは着ねど 暖かに見ゆ(万336)
伎倍人の 斑衾に 綿さはだ 入りなましもの 妹が小床に(万3354)
万3531の「眉引の」は「横山」にかかる枕詞とされている。眉を横に長く引くところから類推されているとする。ただ、「横山」は横に長く連なる丘陵を指すようで、そこにはススキなどが生えていたと考えられ、眉毛の様子を醸し出そうとして表現したものとも考えられる。
繭が作られることとは、蚕が蛹を作ることである。たまたまその蛹がたくさんの糸を吐いて作られるものであったため、人間は勝手に活用し始めてしまった。蚕蛾の幼虫が蚕で、その蛹が繭である。蛾であるが、人為的に品種改良してほぼ飛べなくしてしまった。それを人工的に飼育している。人間はあくどいやり方で自然を利用する。人間が手助けをしなければ、自然状態では育つことも繭を作ることも交尾することもできない。
蚕を飼うためには、幼虫に桑の葉を与えつつ、糞や食べかすが多くなれば、上へ行く性質を利用しながら桑を盛った網に変えることをし、衛生管理につとめて育てる。そして、蚕に繭を作らせるためには、蚕が安心して蛹状態に入れるよう、隠れるところを作ってあげる。それをマブシ(蔟)と呼んでいる(注4)。マブシは同音に射翳がある。猟師が鳥獣を待ち伏せして射るために、自らの身を隠しておく遮蔽設備である。和名抄に、「射翳 文選射雉賦に云はく、射翳〈於計反、隠なり、障なり、師説に末布之〉は隠れ射る所以の者なりといふ。」とある。姿を隠すための装置だから同じ言葉で表されており、かつ、その材料となるものも似たものであった。蔟の原初的形態として、葉を落とした木の枝の粗朶をまとめたものが使われていたと考えられる。野蚕がするように環境を整備した。
左:鷹狩での射翳利用(久隅守景・鷹狩図屏風、紙本着色、江戸時代、17世紀、日東紡績蔵、東博展示品)、中:薪を用いた蔟(丹波・丹後・但馬、上垣守国・養蚕秘録、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200021877/58?ln=jaをトリミング)、右:柴漬漁(「於朶漁」、日本捕魚図志、国文学資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200022092/13?ln=jaをトリミング)
この雑木の枝は、シバ(柴)ともいい、かこいふさぐためにいくつも寄せ集めたものは、フシ(柴)と言っている。水に沈めて魚などを居つかせる漁が行われた(注5)。
天の逆手を青柴垣に打ち成して隠りき。柴を訓みて布斯と云ふ。(記上)
因りて海中に八重蒼柴 柴、此には府璽と云ふ。籬を造りて、……(神代紀第九段本文)
槮槑 同、所今反、樹長皃、不志豆介乃木(新撰字鏡)
罧 爾雅に云はく、罧〈蘇蔭反、字は亦、椮に作る〉は之れを涔〈字廉反、又の音は岑、布之都介〉と謂ふといふ。郭璞に曰はく、柴を水中に積み、魚寒くして其の裏に入り、因りて簿を以て囲みて捕へ取るなりといふ。(和名抄)
泉河 水のみわたの ふしつけに 柴間のこほる 冬はきにけり(千載集389)
こばへ集ふ 沼の入江の 藻の下は 人漬けおかぬ 柴にぞありける(山家集1392)
かこいふさいで安全がはかられ、相手に見つからないようにしたものがフシである。誰がそこに身を寄せるかに違いはあっても同じことである。束ねた柴を海や湖沼、河川などの水中に沈めておくのがフシヅケで、そこに集まった魚を網などを併用しながら引き上げれば捕ることができる。まとめると、ある程度の長さの木の枝を束ねたものがフシで、狩猟や漁撈に用いられてフシともマブシとも呼ばれ、養蚕にも使われるようになっている。蚕は繭を作るとき、隠れる性質を持っている。蔟のなかは安全だと知ってそこに隠れ、さらに自らを隠れさせる繭を作る。二重に隠れているのだから、その柴は本当のフシ、マ(真)+ブシ(柴)と呼ぶことができる。結果的に、目隠しのマブシに同じ音となっている。
マブシ(蔟)にマヨ(繭)が見え隠れしている。興味深いことに、人の顔についているマヨ(眉)は目の上についていて、眩しくて目を瞬かせるときに補助をなしている。強い光から目を保護するのに一役買っている。デーゲーム時の野球選手が目の周りに隈取りにしているのは、目のまわりを眉だらけにする作戦である。眉は、マビサシ(目庇・眉庇)の転としてマブシに当たるとも言える。阿曇の「阿」字には屋根の庇、軒の意がある。四阿は庭のあずまやのことをいうが、寄棟造の建物のことも指した。「四阿殿」(続紀・天平十四年正月)とある。眉でもって日光をやわらげ、天気を曇にしようとしている。
金銅製眉庇付冑(千葉県木更津市祇園大塚山古墳出土、古墳時代、5世紀、東博展示品)
また、アヅミという音のアは、田の畔(畦)のことを指すとも考えられる(注6)。アヅミと聞こえれば、ア(畦・畔)+ツミ(積)と連想させられる。畦を積む作業に、人は鍬を用いる。畔を積むことを名に負う阿曇氏は、クハ(鍬)使いのプロフェッショナルということになる。また、ア(畦・畔)+ツミ(柘)とも聞こえる。柘(ミの甲乙不明)とはヤマグワのことである。
この夕 柘のさ枝の 流れ来ば 梁は打たずて 取らずかもあらむ(万386)
桑は主にどこに植えられていたか。日本民俗大辞典に、次のようにある。
くわ 桑 クワ科に属し、元来、熱帯から温帯地域にかけて生育する喬木性、または灌木性の植物。桑を畑一面に植栽するようになったのは明治時代になってからである。それまでは畑の畦に植えるアゼクワ、屋敷周りに植えるクネクワなどで、桑の収量は少なかった。養蚕業が発達する明治以降、畑が桑園化して収量も増大していった。……(552~553頁、この項板橋春夫)
畦道に植えている。畦はきちんと固めておかないと、水が漏れ出してしまって水田として機能しなくなる。桑の木を植えて根が張れば、畦として固まって簡単には毀損しない。そんなメリットもある。刃床が一枚の面になっている鍬の刃を使って掘り起こし持ち上げ、床の背を使って土を撫でつけて形を整える。つまり、鍬を使って作った畦に桑を植えた。言葉を理解するうえでこれほどわかりやすいことはない。そうやって体系化された言語としてヤマトコトバは成っている。畦にはほかに稲架のためにトネリコなどが植えられることもあり、同様の景色が生まれていた。
クハ(鍬)という語については、白川1995.に聞き逃せない説がくり広げられている。「人の足のかかとから足先までの形は、柄を装着した「くは」に似ているので、その部分を「くは」といい、かかとを立てて遠く望むことを「くは立つ」という。「企つ」の意である。鍬がもと疌声で地にうちこむものであったように、「くは」は地にうちこむときの擬声語であったかと思われる。」(300頁)とある。眉唾でありながら半分ぐらい信じて構わないのであろう。残りの半分は、クフ(食・囓・咋)に示されるような、歯を立ててかみつくことと関連がありそうである。カイコが歯を立て音を立てて桑の葉を食べる様は、鍬の刃が土にググっと食い込んでいく様子に似ている。鍬使いの上手な虫として、蚕は接眼されて見つめられていたのではないか。そして、かみついたまま放さないことをクハフ(銜・咥)といい、鍬が土を保ち持ち上げることと相似している。hoe がクハという名を有するのは、クハッと音を立てながら土を銜えるように耕すことができるからであろう(注7)。そして、そのクハ(鍬)の最たるものとは、ハ(刃)の鋭利なものである。記紀の時代、「木鍬(コは乙類)」(記歌謡61)という語が見られる(注8)。孤例であるが、筆者は鉄の刃先を持たない木製の鍬のことと考える。すなわち、もともとあった木製のクハが、鉄の刃先を持ったクハに言葉の領分を乗っ取られたものと推測する。
この語学的仮説は、大陸の文明を二段階で受け入れたらしいことから成り立つ。先に水田稲作農耕が中国の江南方面から到来している。稲の種ばかり来ても作り方がわからなければどうにもならない。技術体系全般として稲作が伝わっている。技術指導員に当たる人も渡ってきていたのであろう。水田を作るのにふさわしいスキ(鋤)やクハ(鍬)も同時に伝えられているはずであるが、鉄器を伴っていない。あっても量が少なくて、広まっていなかったと考えられる。縄文時代晩期から弥生時代の初めのこととされている。次の段階で、今度は中国の中原方面から養蚕が伝わっている。蚕とその飼育技術、ならびに飼料となるクハ(桑)の木(マグワ・カラクワ)がもたらされた。技術大系全般の渡来である。在来種の桑はヤマグワと呼ばれている。養蚕のために用いた樹種は、大陸からもたらされたマグワであった。ソウ(桑)(mulberry)の木をクハと呼び、後から柘は山にあるクハだと定め直すに及んでいる。
養蚕技術を伝えようとした人が苗を持ち込んで植えようとしたとき、あたり一面は水田に占領されていた。集落の近くで水没していないのは畦くらいしかない。だからそこに植えた。畦はクハ(鍬)で作っている。土をえぐりとって盛りながら押し延ばしている。ソウ(桑)の木の植樹も畔をどんどん侵食して延びていく。だから、クハと呼ばれることはうまく言い表していると思われた。ヤマトコトバとして腑に落ちて人々の間に定着していった。
ただ、もう少し余計に養蚕を行ってたくさんの絹織物を得るためには、たくさんの蚕を飼う必要があった。そのためには、たくさんクハ(桑)の木を植えなければならない。どこへ植えるか。開墾を行って新しく畑を作るしかない。再びクハ(鍬)が活躍する。畑の古語はハタ(畑・畠)である。養蚕技術をもたらした人は伝承に秦氏といわれている。本邦で生産されたとおぼしい絹のことは、雄略紀に初見である。
十五年に、秦の民を臣連等に分散ちて、各欲の随に駈使らしむ。秦造に委にしめず。是に由りて、秦造酒、甚に以て憂として、天皇に仕へまつる。天皇、愛び寵みたまふ。詔して秦の民を聚りて、秦酒公に賜ふ。公、仍りて百八十種勝を領率ゐて、庸調の絹縑を奉献りて、朝廷に充積む。因りて姓を給ひて禹豆麻佐と曰ふ。一に云はく、禹豆母利麻佐といへるは、皆盈て積める貌なり。十六年の秋七月に、詔して、桑に宜き国県にして桑を殖ゑしむ。又秦の民を散ちて遷して、調庸を献らしむ。(雄略紀十五年~十六年)
秦氏は、秦の始皇帝の末裔ではないかと勘繰られている。その当否は不明である。ハタさんがハタ(機)織りの材料となる生糸を作るために、その生産体系をすべてもたらしたとすると、植えるところはハタ(畑・畠)で正しい。田んぼのハタ(端)の畦に植えていたクハ(桑)を、もっと広いハタ(畑・畠)へと広げた。開墾するには切り株や草の根があるから、木製のみのクハ(鍬)ではなく、鉄製の刃先の付いたクハ(鍬)こそが望ましい。それを秦氏は携行して来ていたから、養蚕は着実に根付いたということになる。それまで低湿地にばかり行われていた稲作が、鉄器付きの農具の出現によって開墾が進み、灌漑設備を整えて沖積世平野へと大規模に展開されていった時と同じということになりそうである。鍬の刃先は桑を畑へ、稲を灌漑設備のある水田へと分化させるのに十分であった。
語学的には次のような仮説にまとめられる。ドミノ式に大陸から技術が伝わってきて、ドミノ式にヤマトコトバが再活性化されている。養蚕文化の到来によって、言葉上と田畑上に分化が生じている(注9)。
すでにあった木製のクハ(鍬)→コクハ(木鍬)
すでにあった在来種クハ(桑)→ヤマグワ(山桑)、ツミ(柘)
田んぼの端の部分のハタ(端)→ハタ(畑・畠)
養蚕のために葉を取るとき、桑はその年に徒長した枝ごと切り取ることが行われた。高くなりすぎると取りにくくなるし、たくさん枝が出たほうが葉の収量は増えるから、切り戻して作られていた。ツミ(柘)というのは、おそらくは同音の罪(ミは甲類)を犯したら、野放しにはされずに一列に並ばされて謹慎処分を受け、坊主頭に刈られていると見立てられたようである。阿曇氏が「曇」字を負い、僧侶と関係する職掌でもあったのは、クハ(桑)の整枝姿とパラレルな関係にあると見極めたからであろう。
桑の葉を畦道で摘んでいる。ア(畦・畔)+ツミ(摘、ミは甲類)と受け取れる。つまり、どのように考えても、アヅミという言葉は上代語にクハ(桑・鍬)と関係している。桑は、蚕の餌である。蚕は人が飼わなければ死んでしまうほどに、カヒ(飼)+コ(子)の意味であるが、「飼ひ子」の「飼ひ」、すなわち、飼料が桑である。カヒ(飼)の真髄を表すものがクハ(桑)である。
たらちねの 母が其の業る 桑すらを 願へば衣に 着るといふものを(万1357)(注10)
なかなかに 人とあらずは 桑子にも ならましものを 玉の緒ばかり(万3086)
筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも(万3350)
結局のところ、アヅミという人がいたら、フシ(柴)を使いこなしながら何かを飼うことに得意な人としてイメージされたらしいと推測される。「飼ふ」という語は、少なからずおもしろい概念である。食物や水を与えて飼育することであるが、ただ観察のために飼育するといったことは上代では普遍的にはあり得ない(注11)。
鳥座立て 飼ひし雁の子 巣立ちなば 檀の岡に 飛び帰り来ね(万182)
さ桧の隈 桧の隈川に 馬駐め 馬に水飲へ 吾外に見む(万3097)
赤駒を 厩に立て 黒駒を 厩に立てて 彼を飼ひ 吾が行くが如 ……(万3278)
百小竹の 三野の王 西の厩に 立てて飼ふ駒 東の 厩に立てて 飼ふ駒は 草こそば 取りて飼ふがに 水こそば 汲みて飼ふがに 何しかも 葦毛の馬の いなき立てつる(万3327)
…… 枕づく 妻屋のうちに 鳥座結ひ 据ゑてそ我が飼ふ 真白斑の鷹(万4154)
是の月に、甫めて鷹甘部を定む。故、時人、其の鷹養ふ処を号けて、鷹甘邑と曰ふ。(仁徳紀四十三年九月是月)
河に至るに及びて、大磐宿禰、馬に河に飲ふ。(雄略紀九年五月)
而るを人に困み事へ、牛馬を飼牧ふ。(顕宗前紀、清寧二年十一月)
官馬は誰が為に飼養へや、命の随に。(武烈前紀仁賢十一年八月)
爰に万が養へる白犬有り。(崇峻前紀用明二年七月)
難波吉士磐金、新羅より至りて鵲二隻を献る。乃ち難波社に養はしむ。(推古紀六年四月)
是歳、百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ。而して終に蕃息らず。(皇極紀二年是歳)
鉗着け 吾が飼ふ駒は 引き出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか(孝徳紀白雉四年是歳、紀115)
飼うことは、動物の親がその子を養い育てることを表し、それを人間が真似て親代わりになって行うことに言った。躰が大きくなる牛馬も、子どものころから飼い馴らすことで人間に従わせることが比較的容易になっている。蚕をコ(甲類)と呼んだのは、その一生すべてに手をかけてあげなければならない存在だったからである。傷ついた野生動物を一時的に保護して面倒を見、経過を観察して野生に返すことではなく、その一生を人間の手中に収めて役に立てようと試みている。人が特定の動物に対してだけ継続的に行う特殊な行為である。対人においてそれと同等のことは、上代語にアマナフ(和)と言った(注12)。
而れども玖賀媛和はず。乃ち強に帷内に近く。(仁徳紀十六年七月)
奏せるを推ね問ひて、相疑ふことを和解はしめよ。(継体紀二十三年四月)
上下和ひ諧れ、(推古紀十二年四月、憲法十五条)
爰に大臣、群臣の和はずして、事を成すこと能はざることを知りて、退りぬ。(舒明前紀)
仲良くすることで、寛大な気持ちをもって相手の言うことを聞き、辛抱して甘受することをいう。なぜ辛抱するのか。ある面で辛抱すれば、他の面で得られるメリットの方が大きいからである。全体的に勘案して得策を選んでいる(注13)。これは、一方向的にもたらされる行為ではない。自分のほうからは誘いの水を向けておいて、相手が好意的に振る舞うことをアマナフと言っている。なつかせることで思い通りに相手を動かせる。結果的にお互いに win-win の関係を築くことができる。立場的には主人とそれよりも低い身分の間柄で起こる。今日的にはパワハラ、モラハラと騒ぎ立てられる状況なのかもしれないが、互いに合意の上に成り立っている。人と家畜との関係に同じである。役牛は命を全うするように大切に育てられ、食べるに困らないどころか、臼に搗かれ釜で煮られたやわらかい飼料が栄養素を補われて与えられ、ふだんから体を洗ってくれたり病気や怪我の手当てもしてくれ、雨風や寒さからも身を守る舎屋が与えられて清潔に保たれる。その代わり、人のために搾乳されたり、労役に就いて荷を運んだり、泥田を耕すのに酷使される。
阿曇連が主人となって飼うことをする。相手は、アヅミが得意なクハを使うものに違いない。蚕を飼うのである。飼うには蔟を使う。マブシという素敵なフシである。同様のフシでも、新式のフシがおおむね6世紀になって現れている。ホフシ(僧)である(注14)。推古紀三十二年条には、ホフシにもいろいろな人がいて、本来、法を遵守するはずの人が祖父を殴打して困ったものだという話になっている。そこで政府はきちんとしようとし、僧を統括するためにとても偉い僧侶によって自浄統制するようにした。そればかりでなく、シビリアンコントロールを図るために阿曇連が選ばれている。上手に飼い、和うべき統括官として、格好の存在と目された。アヅミという変な名を負っているのはそのためであろうということになっている。阿曇連の表示に「闕レ名」とあるのには訳があった。名のほうは問題ではなく、姓のほうが必要だからである。僧の統括者としての役割を表わすためには、アヅミの名に「曇」という字を用いるのがふさわしい。仏教語で法を意味することに書記官は思い至った。あるいは、仏教の伝来と養蚕技術とが近しい人によってもたらされ、ひとまとまりの新しい文化、文明と感じられていたのかもしれない。今日に残る飛鳥時代の絹製品には、繍仏ほか仏教関連の品々がある。法隆寺の品だから残っているのか、それとも、絹製品がそもそも仏教色を有していたからなのか、今となってはわからない。
阿曇連の祭神は、神代紀に、「底津少童命・中津少童命・表津少童命」となっている。ワタツミとは、ワタ(海)+ツ(助詞)+ミ(霊、ミは甲類)の意であろうとされている。ワタツミを「少童」(神代紀第五段一書第六)や「海童」(神武前紀)と記すのは、「童」に神仙の意を加えたものと解されている(注15)。海のことをワタとする理由としては、「渡る」に由来するとする説がある。仏教ともども精神世界の観念さえも海を渡って来たものであり、確かにその意を意識していよう。同時に筆者は、ヤマトコトバ的な「少童」の側面を含んでいると考える。「少童」の実体としてスクナビコナが思い浮かぶ。少名毘古那神は、海を渡って来たとても小さな神であり、羅摩(ガガイモ)の船に乗っていた。ガガイモは実のなかに綿が入っている。朱肉を含ませたり、針山の中綿に用いられた。ワタ(海)をワタ(渡)る「少童」的な神がワタ(綿)の船に乗ってきている。これぞワタツミと洒落ている。
故、大国主神、出雲の御大の御前に坐す時に、波の穂より、天の羅摩の船に乗りて、鵝の皮を内剥ぎに剥ぎて衣服と為て、帰り来る神有り。爾くして、其の名を問へども、問へず。且、従へる諸の神に問へども、皆、「知らず」と白しき。爾くして、たにぐく白して言はく、「此は、久延毘古、必ず知らむ」といふに、即ち久延毘古を召して問ひし時に、答へて白ししく、「此は、神産巣日神の御子、少名毘古那神ぞ」とまをしき。故、爾くして、神産巣日御祖命に白し上げしかば、答へて告らししく、「此は、実に我が子ぞ。子の中に、我が手俣よりくきし子ぞ。故、汝葦原色許男命と兄弟と為りて、其の国を作り堅めむ」とのらしき。故爾より、大穴牟遅と少名毘古那と二柱の神、相並に此の国を堅めき。然くして後は、其の少名毘古那神は、常世国に度りき。(記上)
綿は、木綿以前の時代、多くの場合、「きぬわた」、つまり、真綿のことを言った。新撰字鏡に、「絮綿 和多入」、「裌 古洽反、入未、絮衣也、合乃己呂毛、又綿乃己呂毛」、「複 方六反、入、絮衣也、厚也、除也、被也、和太己呂毛」、和名抄に、「綿絮〈屯字附〉 唐韻に云はく、綿〈武連反、和多〉は絮なりといふ。四声字苑に云はく、絮〈息盧反〉は綿に似て麁く悪しきものなりといふ。唐令に云はく、綿六両を屯〈屯は聚なり。俗に一屯を飛止毛遅と読む〉とすといふ。」とある。繭の糸口を見つけて長繊維の絹糸を引き出すことをせず、中の虫を取り除いて繭の形のままに揉みほぐしたものである。弾力性と保温性があり、袷の衣や布団、座布団(褥)などの中綿に使われている。繭はもともと、蚕が身の外側に綿を着ていたと見て取れる。人はそれをたくさん寄せ集めて袷や衾の表地と裏地との間に挟み込んで中綿とし、その全部を着て用としている。大人になったら蚕(児)としての綿だけでは量が足りなくなったということである。
蚕が一生を生き、繭を結ぶよう、そのすべてのお膳立てをしているのは人間である。蚕を児と思って養育し、アマナフ(和)ことをしている。鍬でアヅミ(畦積)したところへ桑を植え、蚕を飼って、蔟に雲のような様子の繭を結ばせている。
ワタは、動物、人間の腸のことも言う。ハラワタ(大腸)、ホソワタ(小腸)、ミナノワタ(蜷の腸)などという。腸のモコモコしている様態が、袷に入れる中綿に似ているということであろうか。また、ワタ(海)に内蔵されている魚や貝に内蔵されているのもワタ(腸)である。海の中に潜って魚介類を捕っている海人は、ワタの精髄を知悉した人たちである。そんな人たちが応神紀三年十一月のようにさばめき出して、それぞれに勝手なことを始めたら収拾がつかない。それをおさめて管掌する人として、阿曇連が求められた。ワタのツミ(罪)を取り締まることができるのは、ワタツミを信奉し知悉している阿曇連がふさわしい。
阿曇連という人はその名の音、アヅミから、フシを扱うのに慣れているとこじつけられて信じられている。言=事であるとの考えの下では、名は体を表し過たないと思われていた。柴を海に入れてワタとして活用するのには二つの理由がある。第一は、敷粗朶工法により、護岸、防波堤、埋め立て道路などの地盤にするためである。古く弥生時代の壱岐原の辻遺跡の港湾の例が知られる。第二は、漁業への応用である。先述した柴漬漁である。結果、海民全体を掌握することに成功した。柴を使うことで漁民に干渉した話が、応神紀の諺であろう。
サバアマの諺譚では、処々の海人の「さばめき」の争乱を平定し、阿曇連の祖の大浜宿禰が「海人之宰」となったとしている。海人をアマナフ(和)ことに成功したのである。アマをアマナフとは、言い分を聞いて認めつつ、どうしたら希望をかなえさせてあげられるか知恵を出し、海人のさまざまな言葉を覆いつくしてしまうように捉え返してすべてを従わせてしまったということである。サバアマの諺譚で、海人が「さばめく」状態に陥ったのは、捕れ過ぎて困ったとのもの言いであった可能性が高い。上代人によく見られる言語論理術を用い、トートロジカルに解説している(注16)。肝心なのは、阿曇連自身は海人ではない点である。管掌者の立場から海人を統括している。令に規定されるところでは、「刑部省(うたへただすつかさ)」、訴えを糺す司に相当する役割を担っている(注17)。フシと同音の「節」に、事の次第を表わす理の義がある。新訳華厳経音義私記に、「文理 文に合ふ也。又、理は布之と云ふ。又、天文地理也。」、和名抄に、「節 四声字苑に云はく、節〈子結反、不之、今案ふるに、竹に従ふ者は竹節、草に従ふ者は草木節、玉篇に見ゆ〉は草木を擁し腫るる処なりといふ。」とある。竹木のふしくれだったところを2つに割るとそれぞれはぴったり合わさる。そこで、割符に用いられた。そこから節度使といった語が生まれている。阿曇連は、中央政府から派遣されて漁民の平定を促した節度使的役割を担っている。
海人は海の生活者である。海を渡ることが得意な人たちであることが連想される。ならば、阿曇連という海人の管掌者は、海事的な軍事を統帥する役目や、使者としての役目も果たして抜かりないものである。記の歌謡に次のような語り口があるのも、阿曇と海人と使者とが語学的に関連することをよく表している。
八千矛の 神の命は …… 此の鳥も 打ち止めこせね 石塔や 海人馳使 事の語り言も 此をば(記2)
八千矛の 神の命 …… 命は な殺せたまひそ 石塔や 海人馳使 事の語り言も 此をば ……(記3)(注18)
以上、阿曇連の諸相についてみてきた。すべてはアヅミという名に負う職掌であった。名負いの役割から実務が決められている(注19)。主に管掌に当たる中間管理職である。技能が求められているわけではないから、暗愚でさえなければ誰にでも勤まる仕事である。古代の「現代」に当たる天智紀の将軍職や天武紀の文筆職はその限りではない。その際には、「阿曇連闕レ名」ではなく、きちんと名が記されている。すべては言葉(音)によって事が決まっている。人は言葉でものを考える。言葉に従って具現化する方向へも働いていた。職掌のことだけに、という洒落である。
(注)
(注1)管見に及んだ指摘に次のようにある。篠川2016.に、「……阿曇部についてであるが、阿曇部が阿曇連氏の管掌下に置かれた部であったことは、その名からして間違いないと考えられる。またその阿曇部が、海部と同様、海の民を編成した部であったことも、……阿曇連氏の性格からして間違いないところであろう。阿曇(アヅミ)という語が、海積・海人積(アマツミ)の約とみられることも、そのように考えてよいことを示している。」(54頁)、宮島1999.に、「「阿曇」なる氏族名が何を意味するかについて、いまだ定説らしきものはないといっていいが、かつて連を称したことからすると、この呼称が何らかの形で彼ら職掌と結び付いている可能性は大きいといえよう。太田亮(『新編姓氏家系辞書』[秋田書店、1979年。])……によれば、アヅミとはアマ(海)・ツ・ミ(霊)のつづまったもので、すなわち海霊の謂であり、海部の首長の義ではないかとされ、これが今のところ最有力となっているようだが、しかし、ヤマツミ(山祇)に対するものとしてはワタツミ(綿津見)という、海霊を示す語が別にあって、仮にアマツミなる語の存在を認めたにしても、それならばワタツミ・アマツミの微妙な語感の違いや相互関係はどうなるのかなど、不明とすべき点は多い。私見によればアヅミとは、阿曇氏がまさにそうであったように、魚介類を管掌し主宰する漁撈民としての職掌、すなわち「集(聚)む」=アツムの名詞形、「アツメ」に由来する姓氏ではないかと考えられるのである。……『古事記』の海幸山幸説話において、綿津見神は釣針を失くした火遠理命のために「悉に海の大小魚どもを召び集め」て海の幸を管掌した神であった。猿女君起源説話でも、宇治土公を遠祖に戴く猿田彦神同様、伊勢の海人系氏族であった猿女君(天宇受売命)もまた、「悉に鰭の広物、鰭の狭物を追ひ聚め」るなど、両者に共通するのは海の主宰神としての、あらゆる海の幸の管掌・管理であって、それ以外の何物でもない。」(164頁)とある。
(注2)この歌の訓みについては、拙稿「中大兄の三山歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/40096f25187bcf13d2a77224fe00e069など参照。
(注3)同音のマヨ(眉・繭)が同根の語であるとするのは得心されるものであるが、その形について、若干のコメントを付しておく。人類は中国において蚕の家畜化に成功したとされている。その後、品種改良を重ねて今日に至っているが、地域ごとの進化によって中国型、日本型、熱帯型、ヨーロッパ型に大別されている。日本型の古い蚕の例として、皇后さまが飼われている小石丸がよく知られる。多くの日本産の繭の形を見ると、豆の2つ入った落花生の殻のように、中央部に窪みを持っている。しかし、顔にある眉は、窪みがあるとは認められない。舶来当初に楕円形の繭の実物を目にして、眉にならってマヨと名づけたのであろう。古代絹として知られている小石丸も、実は江戸時代の品種である。繭の形については、加工過程により、また玉繭の場合など、さまざまに変わることがあるので、あくまでも傾向があるというにすぎない。
(注4)和名抄に、「蚕 説文に云はく、蚕〈昨含反、俗に𧌩の字に為る、加比古、一に古賀比須と訓む〉は虫にして糸を吐くなりといふ。」、「蚕簿 兼名苑に云はく、簿〈音は薄、衣比良〉は一名に筁〈音は曲〉、蚕を養ふ器なり、蚕を其の上に施し、繭を作らしむ者なりといふ。」とある。箙は、矢をさして背に負う武具である。鏃を容れるところが区分けされている。簿は、蚕が一匹ずつ入って繭を作ることを促すことに力点が置かれた言葉であろう。複数の蚕が1つの繭を作ってしまうと、糸をひき出すとき絡んでしまってうまくいかず、玉繭を綿として利用することが多かった。せっかく苦労して育てて真綿にしかならないのでは残念だから、地方により種々工夫して独特の形をした蔟を拵えていた。江戸時代の農書、養蚕秘録や蚕飼絹篩大成に記録されている。
(注5)金田1986.に、「漬漁業」は、「木、竹、わら等を海中に敷設し、これに集まり又は中にもぐり込んだ水産動物をまき網、曳網、すくい網、釣等の漁法を使用する漁業をいう。」(593頁)と定義されている。魚類等は、流木、流れ藻、水底に沈んだ木の枝などに集まるから、その習性を利用して人工的に行っている。愛知県のウナギ、京都府のブリ仔、島根県のシイラが紹介されている。フナやエビ、カニなどの漁、また、海苔の養殖には盛んに用いられた。
(注6)名とは呼ばれるものだから、「あ」と音に発せられているのを耳に聞いて受け取られることによって始まる。記紀に記されている。
時に素戔嗚尊、春は重播種子し、重播種子、此には璽枳磨枳と云ふ。且畔毀す。毀、此には波那豆と云ふ。秋は天斑駒を放ちて、田の中に伏す。(神代紀第七段本文)
……天照大御神の営田のあを離ち、其の溝を埋み、……(記上)
(注7)名を持つことは、持続的に名を有するということである。ある物や事に名がつけられているからといって、他の地方や他の時代へと引き継がれるという保証はない。それなのに、言葉は時間的・空間的に一定の広がりをもって使用されている。人々に了解されていたから保持されて、他の人や後の人へと引き継がれていく。そのとき大事なのは、言葉の語源的理解ではない。特に無文字の時代においては、言葉を交わしあうときの、互いのなるほど感こそ重要である。その都度その言葉は活性化される。すると、言葉は一義によって成り立つというよりも、インターアクション、トランスアクションとして言葉が交わされる際ごとに、洒落を交えた多義的な定義、再定義が行われることによって、より確かなものとなっていっていたと考えられる。
(注8)新編全集本古事記には、金属製の刃先がついた「木鍬の復元図」(295頁)が挿図として掲げられている。クハでなく、コクハという言葉が使われているのは、刃先部分もまるまる「木」であることが気になっているからであろう。
(注9)ソシュールが言うように、言語は関係である。言葉の生成に遡らせての推考である。
(注10)拙稿「万葉集1357番歌「足乳根乃母之其業桑尚願者衣尓着常云物乎」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/df40abd13b124fdc597112ccad6200ef参照。
(注11)人間が動物を「飼う」ことの意味を考える際、人間が自然に対して行ってきたこととはどういうことかについて思いを致すことなく済ますことはできない。ましてや、現在盛んな自然環境保護や動物愛護運動、生態系の維持や持続可能性社会へのアプローチといった観点からでは、何もわかるものではない。人間自身とは何かという本質的問題に直結する事柄である。
動物の家畜化の歴史においては、愛玩目的の側面と、その家畜から産物や労働力を得ようとする側面の2つが、偏差的に対立項としてあらわれるであろう。秋篠宮2015.に、「ペット化というのは、野生動物でも簡単にできるものがいます。一方家畜化というのは、まとまって一つの均質化したものにしなければいけないわけですから、区別しておいたほうがわかりやすくなるかと思います。」(234頁)とある。古代エジプト王朝や古代ローマ帝国、中国の歴代王朝には、動物園を作ってそのなかでばかり生きてきた動物園動物がいた。ネコが古代エジプトでミイラにされていたり、シフゾウが動物園内で発見されたことはよく知られている。野生動物の見本として展示されている動物園の動物は、観覧者の目を楽しませ、少しく往時のエンペラー的な見方へといざなうものである。時代が下ってからは、愛玩を目的とした飼育、改良が盛んに行われるようになった。猟犬、番犬として出発したはずのイヌに、ペットとして室内で人に抱かれて暮らすものがいる。出目金はよく目が見えず、泳ぐのも苦手である。小川に流したら生きていけない。といって飛ぶことも垂直の枝につかまっていることもできなくなった蚕のように何かを生産するわけではなく、完全に観賞用に品種改良されている。
一方、ウマの家畜改良においては、軍事用や移動用としての意味が基本であった。他に、農民が役畜として農耕に利用するためにも飼われていた。とはいえ、埴輪に造形されるウマは、飾馬として死者の弔いにあずかっている。武士階級では、名馬を所有していること自体に顕示的な意味合いを持つことがあった。今日、馬は競争馬ならびに馬肉生産のための家畜とされることが多い。時代が古いほど、生産のための家畜に対して光が当てられており、逆に現代社会では、毛のないブロイラーが大量に飼育されてメカニカルに鶏卵を取られたり、コンベア上で順次屠殺されていっている実態は、世の中から隠されている。「飼う」本性を見極めなければならない。なお、人間自身の自己家畜化は、食料、都市生活、精神活動のすべてにおいて加速度的に進行しているように感じられる。
(注12)拙稿「十七条憲法の「和」の訓みについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c425bc3b98bd4fe9297e5d6e3befc626など参照。
(注13)近視眼的に嫌がることは、人間の場合その人その人、動物の場合、その動物その動物によって起こることである。経験を積んでくると、アマナフようにされることの方が楽であるとわかるものでもあるが、頑なに嫌がる個体は絶えることがない。現代人に、実経験の価値を疎んずる風潮があるのと、「飼ふ」、「和ふ」という意味合いが十分に理解されていない傾向は、並行関係にあるように感じられる。
(注14)「僧」字に、ホフシという訓がつけられている。法師のホフシの意と考えられている。「法」字にノリと訓む例があり、ノリノシが訓読語として成り立っており、必ずしもホフシと訓まれなければならないというものではない。意図的な考えのもとにホフシと和訓されていると考える。
(注15)新編全集本に、文選・呉都賦「海童」の注に「海神ノ童也」とあるのを引き、海という他界で人間は復活すると信じられていたとする。本邦でそのように信じられていたのか、疑問である。
(注16)拙稿「記紀の諺「さばあま」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/b720a93fa7405435e7a8535d935adaa4など参照。
(注17)拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/bc11138c06bb67c231004b41fc7222bcなど参照。
(注18)拙稿「「事の 語り言も 此をば」考」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/fab4e3a0072c76d727f6cb599cb8049fなど参照。
(注19)松木2006.に、「「名に負ふ」という表現は、名称・呼称としての狭義の名が、その由来・評判等をコトとして背負っていることを意味している……。そして、一方に「名を負う」という表現があるように、名が背負っているコトをも含めて「名」と表現することもあったのである。これが狭義の名と広義の「名」との違いではなかろうか。」(28頁)、「古代における「名」は、各自の自己意識にはたらきかけることを媒介にして、伝承や語り(コト)と支配秩序とをつなぐ結節点であったのである。」(48頁)とある。これらの考えは、社会学における主観性─間主観性─客観性の議論に包括されるように思われる。もう少し噛み砕いて言えば、「名」を含めた言葉は、すなわち事柄であるとしたのが無文字社会の規範であったから、そのとおりに従おうとして従っていたと説明できる。
(引用文献)
秋篠宮2015. 秋篠宮文仁ほか「総合討論」松井章編『野生から家畜へ─食のフォーラム33─』ドメス出版、2015年。
金田1986. 金田禎之『日本漁具・漁法図説(増補改訂版)』成山堂書店、昭和61年
篠川2016. 篠川賢「古代阿曇氏小考」『日本常民文化紀要』第三十一輯、成城大学大学院文学研究科、平成28年3月。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
日本民俗大辞典 福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄編『日本民俗大辞典 上』吉川弘文館、1999年。
松木2006. 松木俊暁『言説空間としての大和政権─日本古代の伝承と権力─』山川出版社、2006年。
宮島1999. 宮島正人『海神宮訪問神話の研究─阿曇王権神話論─』和泉書院、1999年。
※本稿は、2018年10月稿を2023年8月に改稿、図の取捨を行いつつルビ化したものである。