日本書紀古訓オセルについて
日本書紀の古訓にオセルという動詞がある。「臨睨」、「望見」、「瞻望」、「廻望」、「望」、「遥望」、「遠望」、「望瞻」、「遥視」といった用字に対して訓まれている。上から下を見おろすことをいい、また、押シアリの約かとされている(注1)。「押スは平面に密着して力を加える意。そのように、力をこめて下界を見る意。」(大系本日本書紀(一)131頁)と説明がある(注2)。
大系本日本書紀や岩波古語辞典の語構成による説明、押シアリ説は誤りであろう。オセルは、語幹オセに動詞化するルが付いた形と考える。オセとは、曲がった背、猫背のことをいう。「おせたかくて龍のわだかまりたるやうなるものあり」(紙本著色病草紙断簡(背骨の曲がった男)、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/589900)とある。また、オセグムは、背が曲がる、猫背であることをいう。「長高くおせぐみたるもの、赤鬚にて年五十ばかりなる、太刀はき、股貫はきて出できたり。」(宇治拾遺物語・九・五)とある。つまり、オセルとは背を丸めて見ることを言っている(注3)。上の二例にあるとおり、くぐつのように小さく縮こまるのではなく、背の高いものが屈みこむ姿勢を言っている。
「背骨の曲がった男」(病草紙断簡、鎌倉時代、文化庁蔵。文化庁文化財第一課『国有品図版目録』文化庁、2022年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12360121/1/2)
したがって、高いところにのぼって下界を睥睨するようなときに用いられる言葉と推定される。日本書紀の用例にそのように受けとれるならそれで正しいことになる。以下、網羅の保証はないが多くの例を見てみる。
まず、オセルと訓んで確かと思われる例について見る。
A.オセルと訓んで確かと思える例
是の時に、勝速日天忍穂耳尊、天浮橋に立たして臨睨りて曰はく、「彼の地は未平げり。不須也頗傾凶目杵之国か」とのたまひて、……(是時、勝速日天忍穂耳尊、立于天浮橋、而臨睨之曰、彼地未平矣。不須也頗傾凶目杵之国歟、……)(神代紀第九段一書第一)
九月の甲子の朔にして戊辰に、天皇、彼の菟田の高倉山の巓に陟りて、域の中を瞻望りたまふ。(九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。)(神武前紀戊午年九月)
因りて腋上の嗛間丘に登りまして、国の状を廻らし望りて曰はく、「姸哉乎、国を獲つること。……(因登腋上嗛間丘、而廻望国状曰、姸哉乎国之獲矣。)(神武紀三十一年四月)
則ち藤山を越えて、南粟岬を望りたまふ。(則越藤山、以南望粟岬。)(景行紀十八年七月)
亦相模に進して、上総に往せむとす。海を望りて高言して曰はく、「是小き海のみ。立跳にも渡りつべし」とのたまふ。(亦進相模、欲往上総。望海高言曰、是小海耳。可立跳渡。)(景行紀四十年是歳)
故、碓日嶺に登りて、東南を望りて三たび歎きて曰はく、「吾嬬はや」とのたまふ。(故登碓日嶺、而東南望之三歎曰、吾嬬者耶。)(景行紀四十年是歳)
便ち高き岳に登りて、遥に大海を望るに、曠遠くして国も見えず。是に、天皇、神に対へまつりて曰はく、「朕、周望すに、海のみ有りて国無し。……」とのたまふ。(便登高岳、遥望之大海、曠遠而不見国。於是、天皇対神曰、朕周望之、有海無国。)(仲哀紀八年九月)
丁酉に、高台に登りまして遠に望す。時に妃兄媛侍り。西を望りて大きに歎く。……対へて曰さく、「近日、妾、父母を恋ふ情有り。便ち西望るに因りて、自づからに歎かれぬ。……」とまをす。(丁酉、登高台而遠望。時妃兄媛侍之。望西以大歎。……対曰、近日、妾有恋父母之情。便因西望、而自歎矣。……)(応神紀二十二年三月)
時に皇子、山の上より望りて、野の中を瞻たまふに、物有り。其の形廬の如し。乃ち使者を遣して視しむ。(時皇子自山上望之、瞻野中、有物。其形如廬。乃遣使者令視。)(仁徳紀六十二年是歳)
太子、河内国の埴生坂に到りまして醒めたまひぬ。難波を顧み望る。火の光を見して大きに驚く。……則ち更に還りたまひて、当県の兵を発して、従身へまつらしめて、龍田山より踰えたまふ。時に数十人の、兵を執りて追ひ来る有り。太子、遠に望して曰はく、……(太子到河内国埴生坂而醒之。顧望難波。見火光而大驚。……則更還之、発当県兵、令従身、自龍田山踰之。時有数十人執兵追来。太子遠望之曰、……)(履中前紀)
「天浮橋」、「腋上の嗛間丘」、「藤山」、「碓日嶺」、「高き岳」、「高台」、「山の上」、「河内国の埴生坂」、「龍田山」から、葦原中国、「域の中」、「国」、「南粟岬」、「海」、「東南」の平野部、「大海」、「西」、「野の中」、「難波」のほうを見晴らしている。観察者は標高の高いところにいて、見る対象の方が低い。全体を一望のもとに掌握できている。その時、視線は下を向いており、体勢としては少し背中が曲がることになるからオセルという言葉が適当であるとわかる。
応神紀の例で、天皇は見巡らせているからミソナハス、妃の兄媛は西の方角の故郷一点を見つめてうなだれているからオセルと訓んでいる。すなわち、同じ漢字で「望」と書いても、オセルとは訓まない確かな例もある。仲哀紀や応神紀、履中紀の「周望」、「望」、「見」字にオセル以外の訓みがあるのは、必ずしもオセル姿勢になっていないということである。
B.オセルとは訓まないであろう例
更、那羅山を避りて、進みて輪韓河に到りて、埴安彦と河を挟みて屯みて、各相挑む。……埴安彦望みて、彦国葺に問ひて曰はく、……(更避那羅山、而進到輪韓河、与埴安彦挟河屯之、各相挑焉。……埴安彦望之、問彦国葺曰、……)(崇神紀十年九月)
九月の甲子の朔にして戊辰に、周芳の娑麼に到りたまふ。時に天皇、南に望みて、群卿に詔して曰はく、「南の方に烟気多に起つ。必に賊在らむ」とのたまふ。(九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。時天皇南望之、詔群卿曰、於南方烟気多起。必賊将在。)(景行紀十二年九月)
時に湯河板挙、遠く鵠の飛びし方を望みて、追ひ尋ぎて出雲に詣りて捕獲へつ。(時湯河板挙、遠望鵠飛之方、追尋詣出雲而捕獲。)(垂仁紀二十三年十月)
十七年の春三月の戊戌の朔にして己酉に、子湯県に幸して、丹裳小野に遊びたまふ。時に東を望して、左右に謂りて曰はく、「是の国は直く日の出づる方に向けり」とのたまふ。(十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯県、遊于丹裳小野。時東望之、謂左右曰、是国也直向於日出方。)(景行紀十七年三月)
四年の春二月の己未の朔にして甲子に、群臣に詔して曰はく、「朕、高台に登りて、遠に望むに、烟気、域の中に起たず。……七年の夏四月の辛未の朔に、天皇、台の上に居しまして、遠に望みたまふに、烟気多に起つ。(四年春二月己未朔甲子、詔群臣曰、朕登高台、以遠望之、烟気不起於域中。……七年夏四月辛未朔、天皇居台上、而遠望之、烟気多起。)(仁徳紀)
即ち那羅山を越えて、葛城を望みて歌して曰はく、……(即越那羅山、望葛城歌之曰、……)(仁徳紀三十年九月)
今大王、時を留め衆に逆ひて、号位を正しくしたまはずは、臣等、恐るらくは、百姓の望絶えなむことを。……願はくは、大王、群の望に従ひたまひて、強に帝位に即きたまへ。(今大王留時逆衆、不正号位、臣等恐、百姓望絶也。……願大王従群望、強即帝位。)(允恭前紀~元年十二月)
四年の春二月に、天皇、葛城山に射猟したまふ。忽に長き人を見る。来りて丹谷に望めり。面貌容儀、天皇に相似れり。(四年春二月、天皇射猟於葛城山。忽見長人。来望丹谷。面貌容儀、相似天皇。)(雄略紀四年二月)
丙戌に、旦に、朝明郡の迹太川の辺にして、天照太神を望拝みたまふ。(丙戌、旦、於朝明郡迹太川辺、望拝天照太神。)(天武紀元年六月)
「望」を希望のノゾムの意としたり、望み見るのであるが高いところに立っているわけではない場合や、上方や遠方を見たり、河や谷を挟んで反対側を見る時、また、遠く神さまを遥拝する時には背は屈まらないからオセルとは訓まない。景行紀や仁徳紀の烟気を見る場合も、烟気が立ちのぼる様を確認する作業だから、高台から見ていても烟気の立ちのぼるところを目が追い、また、遠くの烟気を探すために頭を動かしていくから、前屈みに固まる姿勢が印象づけられるものではなく、オセルという言い方はふさわしくない。仁徳紀三十年条の「那羅山」から「葛城」を見通す時も、奈良盆地の北側の標高の高いところから、南側の標高の高いところを遠望する様だから首がうなだれることはない。
以上をもってオセルの使い方の基本は概ね定まるが、なお曖昧な例が見られる。次にその例をあげるが、二種に類別されるようである。
C.オセルと訓むか不確かな例
①睥睨しているのか瞭然としない例
是の時に、石瀬河の辺に、人衆聚集へり。是に、天皇遥に望りて、左右に詔して曰はく、「其の集へる者は何人ぞ。若し賊か」とのたまふ。(是時、於石瀬河辺、人衆聚集。於是、天皇遥望之、詔左右曰、其集者何人也。若賊乎。)(景行紀十八年三月)
〈時に天皇、淡路嶋に幸して遊猟したまふ。是に、天皇、西を望すに、数十の麋鹿、海に浮きて来れり。〉(〈時天皇幸淡路嶋、而遊猟之。於是、天皇西望之、数十麋鹿、浮海来之。〉)(応神紀十三年九月)
天皇、高台に居しまして、兄媛が船を望して、歌して曰はく、「淡路嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋々 誰かた去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの」とのたまふ。(天皇居高台、望兄媛之船以歌曰、阿波旎辞摩、異椰敷多那羅弭、阿豆枳辞摩、異椰敷多那羅弭、予呂辞枳辞摩之魔、儾伽多佐例阿羅智之、吉備那流伊慕塢、阿比瀰菟流慕能。)(応神紀二十二年四月)
②見てこわがっている例
臣が兄兄猾の逆をする状は、天孫到りまさむとすと聞りて、即ち兵を起して襲はむとす。皇師の威を望見るに、敢へて敵るまじきことを懼ぢて、乃ち潜に其の兵を伏して、……(臣兄々猾之為逆状也、聞天孫且到、即起兵将襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潜伏其兵、……)(神武前紀戊午年八月)
然るに遥に王船を視りて、予め其の威勢を怖ぢて、心の裏にえ勝つまじきことを知りて、悉に弓矢を捨てて、望み拝みて曰さく、「仰ぎて君が容を視れば、人倫に秀れたまへり。若し神か。姓名を知らむ」とまをす。(然遥視王船、予怖其威勢、而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望拝之曰、仰視君容、秀於人倫。若神之乎。欲知姓名。)(景行紀四十年是歳)
新羅の王、遥に望りて以為へらく、非常の兵、将に己が国を滅さむとすと。讋ぢて志失ひぬ。……(新羅王遥望以為、非常之兵、将滅己国。讋焉失志。……)(神功前紀仲哀九年十月)
是に、倭彦王、遥かに迎へたてまつる兵を望りて、懼然りて色失りぬ。(於是、倭彦王、遥望迎兵、懼然失色。)(継体前紀)
是に、船師、海に満みて多に至る。両国の使人、望瞻りて愕然づ。乃ち還り留る。(於是、船師満海多至。両国使人、望瞻之愕然、乃還留焉。)(推古紀三十一年是歳)
夏四月に、阿陪臣、〈名を闕せり。〉船師一百八十艘を率て、蝦夷を伐つ。齶田・渟代、二郡の蝦夷、望り怖ぢて降はむと乞ふ。(夏四月、阿陪臣、〈闕名。〉率船師一百八十艘、伐蝦夷。齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞降。)(斉明紀四年四月)
C①の、睥睨しているのかはっきりしない例は、Aのオセルと訓んで確かな例としてあげた応神紀二十二年三月条、「望」をミソナハス、オセルと別々に訓んでいる例が参考になる。天皇は高台から遠いところをさまざまに「望す」ことをしているが、隣にいる妃、兄媛は、西の方にある故郷の一点を「望る」ことをしている。対象を見やって動かない場合にオセルという語が用いられている。同様に、仲哀紀八年条の例でも、対象物をはっきり捉えようとして「望る」ことをしているが、見えなかったから他にないかいろいろと探したと強調するため、「周望す」と答えている。まとめると、屈みこむ姿勢に固まって一点を見続ける場合はオセルと訓み、それ以外の首を動かしてあちこち見回すようなときはオセルとは訓まない。
C①の用例で言えば、対象が動かない「人衆聚集」の一点を見続ければオセルと訓み、「数十麋鹿、浮レ海来之。」や「兄媛之船」の動くのを見る場合は、高台から見ていたとしてもオセルとは訓まないとわかる。
C②の、見て怖気づいている例は、言葉とは何かを知るうえでとても興味深いものである。四例目の継体前紀の例に、「望りて、懼然りて」と見える。そう表現している理由は明確で、似た音のオセルとオソルの地口である。こうなると、もはや、視点の高さや対象物をはっきりと捉えているかどうかは二の次になる。音をオセルとオソルに揃え合わせなければならないと直観させられる。言葉とは伝えるためのツールなのだから、音声言語の優位性が適用されて然るべきである。
「皇師の威を望見るに、敢へて敵るまじきことを懼る。(望見皇師之威、懼不敢敵。)」(神武前紀戊午年八月)と句点で切れる。「然るに遥に王船を視りて、予め其の威勢を怖りて、……(然遥視王船、予怖其威勢、……)」(景行紀四十年是歳)、「新羅の王、遥に望りて以為へらく、非常の兵、将に己の国を滅さむとすと。讋りて志失ひぬ。……(新羅王遥望以為、非常之兵、将滅己国。讋焉失志。……)(神功前紀仲哀九年十月)、「両国の使人、望瞻りて愕然る。乃ち還り留る。(両国使人、望瞻之愕然、乃還留焉。)」(推古紀三十一年是歳)、「齶田・渟代、二郡の蝦夷、望り怖りて降はむと乞ふ。(齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞降。)」(斉明紀四年四月)である。古訓では、「威勢を怖れて、」(景行紀四十年十月、熱田本訓)と見える程度で、あまり意識されていない。しかし、言葉を吟味すればオヅよりもオソルと訓んだほうがかなっている。
古典基礎語辞典は、「[オヅは、]相手に直面して恐怖感を抱き、身体的に萎縮してしまう意。[気持ちが萎えることで、どちらかというと、心的また内面的に変化する場合に使われる。]……オソルは、相手に直面していない場合も含めて、危険を予想し、心配したり畏縮したりすることで、特に身体的な変化は伴わない。オビユは、相手に恐怖感を抱く点ではオヅと似ているが、すっかり生気を失ったり、ぶるぶると震えたりなど、身体的変化が顕著に表れる。」(239頁、この項、我妻多賀子)と解説する。すなわち、オヅは怖気づいて委縮すること、オビユはこわいと感じてびくびくすること、オソルは「畏」と書くこともある畏怖の念も含んでおそれをなすこと、という違いがある。
C②の用例は、皆、戦おうにも敵兵の勢力、威勢を一目見て、まともではとてもかなわないと直観している。身体的反応を起こして身動きが取れなくなったり、泡を吹いているわけではない。武装解除して投降したり、策略を案じ潜入して騙し討つ作戦に切り替えている。そのことを表す言葉はオソルである。
神功前紀の例では、これまで「讋ぢて志失ひぬ。(讋焉失志。)」と訓まれており、「讋」字について、書紀集解以来、説文や漢書・武帝紀の顔師古注にある、「讋 失レ気也」を引いているものとされている。しかし、気を失い、心が乱れた、という言い方は、撞着を含んだ畳語的な言い方である。後漢書・班固伝の「陸は讋れ水は慄れ、奔走して来賓せざるは莫し。(莫レ不二陸讋水慄、奔走而来賓一。)」部分の注に、「爾雅曰、讋、懼也。音之渉反」とある。それによるなら、「讋焉失レ志」は恐懼して気が動転した、という意に解することができ、わかりやすい。それはまた、継体前紀の例の、「懼然りて色失りぬ」、怖くなってふだんの表情でなくなった、とも照合するものである。
神田喜一郎氏の言に、「一、古訓の漢土訓詁学上より見て極めて正確なること 一、古訓の一見疑はしきものも、必ず何等かの典拠に本づくものなること」(神田1983.415頁、漢字の旧字体は改めた)とある。他に二点指摘があるが、これら二条を補完する但し書きのようなものである。要するに、古訓は相当に正しく、今の常識で生半可に疑ってかかるほうが浅知恵の賢しらごとである。
(注)
(注1)リを完了の助動詞とする説もある。
(注2)新編全集本日本書紀は、古訓にとらわれずにノゾムといった訓を与えている。中村1993.は、漢字表記においてそのように感じられないとし、「臨睨以下、望、望見等の語は本来、「力を加えて見る」こととは無縁であるから、「オシ有り」は望文生義的な造語であり、削除すべき訓であると結論しておきたい。もちろん、古代における邪視や、見ることの威力への信仰は否定するものではないが、書紀本文はこれとは無関係に、あくまでも字義に即して正確に付訓すべきものと考える。」(81頁)と、古訓自体を存疑としている。
(注3)動詞オセルが名詞オセから派生したと考えるよりも、語幹オセを共にする一群の言葉として、オセ、オセル、オセグムという語が成っていると考えるべきであろう。
(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
神田1983. 神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」『神田喜一郎全集 第二巻』同朋舎出版、昭和58年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2・3・4 日本書紀①・②・③』小学館、1994・1996・1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)~(五)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
中村1993. 中村宗彦「『日本書紀』訓釈十題」『山邊道』第37巻、天理大学国語国文学会、1993年3月。天理大学学術情報リポジトリhttps:/opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3066/(2023年1月25日閲覧)
日本書紀の古訓にオセルという動詞がある。「臨睨」、「望見」、「瞻望」、「廻望」、「望」、「遥望」、「遠望」、「望瞻」、「遥視」といった用字に対して訓まれている。上から下を見おろすことをいい、また、押シアリの約かとされている(注1)。「押スは平面に密着して力を加える意。そのように、力をこめて下界を見る意。」(大系本日本書紀(一)131頁)と説明がある(注2)。
大系本日本書紀や岩波古語辞典の語構成による説明、押シアリ説は誤りであろう。オセルは、語幹オセに動詞化するルが付いた形と考える。オセとは、曲がった背、猫背のことをいう。「おせたかくて龍のわだかまりたるやうなるものあり」(紙本著色病草紙断簡(背骨の曲がった男)、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/589900)とある。また、オセグムは、背が曲がる、猫背であることをいう。「長高くおせぐみたるもの、赤鬚にて年五十ばかりなる、太刀はき、股貫はきて出できたり。」(宇治拾遺物語・九・五)とある。つまり、オセルとは背を丸めて見ることを言っている(注3)。上の二例にあるとおり、くぐつのように小さく縮こまるのではなく、背の高いものが屈みこむ姿勢を言っている。
「背骨の曲がった男」(病草紙断簡、鎌倉時代、文化庁蔵。文化庁文化財第一課『国有品図版目録』文化庁、2022年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12360121/1/2)
したがって、高いところにのぼって下界を睥睨するようなときに用いられる言葉と推定される。日本書紀の用例にそのように受けとれるならそれで正しいことになる。以下、網羅の保証はないが多くの例を見てみる。
まず、オセルと訓んで確かと思われる例について見る。
A.オセルと訓んで確かと思える例
是の時に、勝速日天忍穂耳尊、天浮橋に立たして臨睨りて曰はく、「彼の地は未平げり。不須也頗傾凶目杵之国か」とのたまひて、……(是時、勝速日天忍穂耳尊、立于天浮橋、而臨睨之曰、彼地未平矣。不須也頗傾凶目杵之国歟、……)(神代紀第九段一書第一)
九月の甲子の朔にして戊辰に、天皇、彼の菟田の高倉山の巓に陟りて、域の中を瞻望りたまふ。(九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。)(神武前紀戊午年九月)
因りて腋上の嗛間丘に登りまして、国の状を廻らし望りて曰はく、「姸哉乎、国を獲つること。……(因登腋上嗛間丘、而廻望国状曰、姸哉乎国之獲矣。)(神武紀三十一年四月)
則ち藤山を越えて、南粟岬を望りたまふ。(則越藤山、以南望粟岬。)(景行紀十八年七月)
亦相模に進して、上総に往せむとす。海を望りて高言して曰はく、「是小き海のみ。立跳にも渡りつべし」とのたまふ。(亦進相模、欲往上総。望海高言曰、是小海耳。可立跳渡。)(景行紀四十年是歳)
故、碓日嶺に登りて、東南を望りて三たび歎きて曰はく、「吾嬬はや」とのたまふ。(故登碓日嶺、而東南望之三歎曰、吾嬬者耶。)(景行紀四十年是歳)
便ち高き岳に登りて、遥に大海を望るに、曠遠くして国も見えず。是に、天皇、神に対へまつりて曰はく、「朕、周望すに、海のみ有りて国無し。……」とのたまふ。(便登高岳、遥望之大海、曠遠而不見国。於是、天皇対神曰、朕周望之、有海無国。)(仲哀紀八年九月)
丁酉に、高台に登りまして遠に望す。時に妃兄媛侍り。西を望りて大きに歎く。……対へて曰さく、「近日、妾、父母を恋ふ情有り。便ち西望るに因りて、自づからに歎かれぬ。……」とまをす。(丁酉、登高台而遠望。時妃兄媛侍之。望西以大歎。……対曰、近日、妾有恋父母之情。便因西望、而自歎矣。……)(応神紀二十二年三月)
時に皇子、山の上より望りて、野の中を瞻たまふに、物有り。其の形廬の如し。乃ち使者を遣して視しむ。(時皇子自山上望之、瞻野中、有物。其形如廬。乃遣使者令視。)(仁徳紀六十二年是歳)
太子、河内国の埴生坂に到りまして醒めたまひぬ。難波を顧み望る。火の光を見して大きに驚く。……則ち更に還りたまひて、当県の兵を発して、従身へまつらしめて、龍田山より踰えたまふ。時に数十人の、兵を執りて追ひ来る有り。太子、遠に望して曰はく、……(太子到河内国埴生坂而醒之。顧望難波。見火光而大驚。……則更還之、発当県兵、令従身、自龍田山踰之。時有数十人執兵追来。太子遠望之曰、……)(履中前紀)
「天浮橋」、「腋上の嗛間丘」、「藤山」、「碓日嶺」、「高き岳」、「高台」、「山の上」、「河内国の埴生坂」、「龍田山」から、葦原中国、「域の中」、「国」、「南粟岬」、「海」、「東南」の平野部、「大海」、「西」、「野の中」、「難波」のほうを見晴らしている。観察者は標高の高いところにいて、見る対象の方が低い。全体を一望のもとに掌握できている。その時、視線は下を向いており、体勢としては少し背中が曲がることになるからオセルという言葉が適当であるとわかる。
応神紀の例で、天皇は見巡らせているからミソナハス、妃の兄媛は西の方角の故郷一点を見つめてうなだれているからオセルと訓んでいる。すなわち、同じ漢字で「望」と書いても、オセルとは訓まない確かな例もある。仲哀紀や応神紀、履中紀の「周望」、「望」、「見」字にオセル以外の訓みがあるのは、必ずしもオセル姿勢になっていないということである。
B.オセルとは訓まないであろう例
更、那羅山を避りて、進みて輪韓河に到りて、埴安彦と河を挟みて屯みて、各相挑む。……埴安彦望みて、彦国葺に問ひて曰はく、……(更避那羅山、而進到輪韓河、与埴安彦挟河屯之、各相挑焉。……埴安彦望之、問彦国葺曰、……)(崇神紀十年九月)
九月の甲子の朔にして戊辰に、周芳の娑麼に到りたまふ。時に天皇、南に望みて、群卿に詔して曰はく、「南の方に烟気多に起つ。必に賊在らむ」とのたまふ。(九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。時天皇南望之、詔群卿曰、於南方烟気多起。必賊将在。)(景行紀十二年九月)
時に湯河板挙、遠く鵠の飛びし方を望みて、追ひ尋ぎて出雲に詣りて捕獲へつ。(時湯河板挙、遠望鵠飛之方、追尋詣出雲而捕獲。)(垂仁紀二十三年十月)
十七年の春三月の戊戌の朔にして己酉に、子湯県に幸して、丹裳小野に遊びたまふ。時に東を望して、左右に謂りて曰はく、「是の国は直く日の出づる方に向けり」とのたまふ。(十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯県、遊于丹裳小野。時東望之、謂左右曰、是国也直向於日出方。)(景行紀十七年三月)
四年の春二月の己未の朔にして甲子に、群臣に詔して曰はく、「朕、高台に登りて、遠に望むに、烟気、域の中に起たず。……七年の夏四月の辛未の朔に、天皇、台の上に居しまして、遠に望みたまふに、烟気多に起つ。(四年春二月己未朔甲子、詔群臣曰、朕登高台、以遠望之、烟気不起於域中。……七年夏四月辛未朔、天皇居台上、而遠望之、烟気多起。)(仁徳紀)
即ち那羅山を越えて、葛城を望みて歌して曰はく、……(即越那羅山、望葛城歌之曰、……)(仁徳紀三十年九月)
今大王、時を留め衆に逆ひて、号位を正しくしたまはずは、臣等、恐るらくは、百姓の望絶えなむことを。……願はくは、大王、群の望に従ひたまひて、強に帝位に即きたまへ。(今大王留時逆衆、不正号位、臣等恐、百姓望絶也。……願大王従群望、強即帝位。)(允恭前紀~元年十二月)
四年の春二月に、天皇、葛城山に射猟したまふ。忽に長き人を見る。来りて丹谷に望めり。面貌容儀、天皇に相似れり。(四年春二月、天皇射猟於葛城山。忽見長人。来望丹谷。面貌容儀、相似天皇。)(雄略紀四年二月)
丙戌に、旦に、朝明郡の迹太川の辺にして、天照太神を望拝みたまふ。(丙戌、旦、於朝明郡迹太川辺、望拝天照太神。)(天武紀元年六月)
「望」を希望のノゾムの意としたり、望み見るのであるが高いところに立っているわけではない場合や、上方や遠方を見たり、河や谷を挟んで反対側を見る時、また、遠く神さまを遥拝する時には背は屈まらないからオセルとは訓まない。景行紀や仁徳紀の烟気を見る場合も、烟気が立ちのぼる様を確認する作業だから、高台から見ていても烟気の立ちのぼるところを目が追い、また、遠くの烟気を探すために頭を動かしていくから、前屈みに固まる姿勢が印象づけられるものではなく、オセルという言い方はふさわしくない。仁徳紀三十年条の「那羅山」から「葛城」を見通す時も、奈良盆地の北側の標高の高いところから、南側の標高の高いところを遠望する様だから首がうなだれることはない。
以上をもってオセルの使い方の基本は概ね定まるが、なお曖昧な例が見られる。次にその例をあげるが、二種に類別されるようである。
C.オセルと訓むか不確かな例
①睥睨しているのか瞭然としない例
是の時に、石瀬河の辺に、人衆聚集へり。是に、天皇遥に望りて、左右に詔して曰はく、「其の集へる者は何人ぞ。若し賊か」とのたまふ。(是時、於石瀬河辺、人衆聚集。於是、天皇遥望之、詔左右曰、其集者何人也。若賊乎。)(景行紀十八年三月)
〈時に天皇、淡路嶋に幸して遊猟したまふ。是に、天皇、西を望すに、数十の麋鹿、海に浮きて来れり。〉(〈時天皇幸淡路嶋、而遊猟之。於是、天皇西望之、数十麋鹿、浮海来之。〉)(応神紀十三年九月)
天皇、高台に居しまして、兄媛が船を望して、歌して曰はく、「淡路嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋々 誰かた去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの」とのたまふ。(天皇居高台、望兄媛之船以歌曰、阿波旎辞摩、異椰敷多那羅弭、阿豆枳辞摩、異椰敷多那羅弭、予呂辞枳辞摩之魔、儾伽多佐例阿羅智之、吉備那流伊慕塢、阿比瀰菟流慕能。)(応神紀二十二年四月)
②見てこわがっている例
臣が兄兄猾の逆をする状は、天孫到りまさむとすと聞りて、即ち兵を起して襲はむとす。皇師の威を望見るに、敢へて敵るまじきことを懼ぢて、乃ち潜に其の兵を伏して、……(臣兄々猾之為逆状也、聞天孫且到、即起兵将襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潜伏其兵、……)(神武前紀戊午年八月)
然るに遥に王船を視りて、予め其の威勢を怖ぢて、心の裏にえ勝つまじきことを知りて、悉に弓矢を捨てて、望み拝みて曰さく、「仰ぎて君が容を視れば、人倫に秀れたまへり。若し神か。姓名を知らむ」とまをす。(然遥視王船、予怖其威勢、而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望拝之曰、仰視君容、秀於人倫。若神之乎。欲知姓名。)(景行紀四十年是歳)
新羅の王、遥に望りて以為へらく、非常の兵、将に己が国を滅さむとすと。讋ぢて志失ひぬ。……(新羅王遥望以為、非常之兵、将滅己国。讋焉失志。……)(神功前紀仲哀九年十月)
是に、倭彦王、遥かに迎へたてまつる兵を望りて、懼然りて色失りぬ。(於是、倭彦王、遥望迎兵、懼然失色。)(継体前紀)
是に、船師、海に満みて多に至る。両国の使人、望瞻りて愕然づ。乃ち還り留る。(於是、船師満海多至。両国使人、望瞻之愕然、乃還留焉。)(推古紀三十一年是歳)
夏四月に、阿陪臣、〈名を闕せり。〉船師一百八十艘を率て、蝦夷を伐つ。齶田・渟代、二郡の蝦夷、望り怖ぢて降はむと乞ふ。(夏四月、阿陪臣、〈闕名。〉率船師一百八十艘、伐蝦夷。齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞降。)(斉明紀四年四月)
C①の、睥睨しているのかはっきりしない例は、Aのオセルと訓んで確かな例としてあげた応神紀二十二年三月条、「望」をミソナハス、オセルと別々に訓んでいる例が参考になる。天皇は高台から遠いところをさまざまに「望す」ことをしているが、隣にいる妃、兄媛は、西の方にある故郷の一点を「望る」ことをしている。対象を見やって動かない場合にオセルという語が用いられている。同様に、仲哀紀八年条の例でも、対象物をはっきり捉えようとして「望る」ことをしているが、見えなかったから他にないかいろいろと探したと強調するため、「周望す」と答えている。まとめると、屈みこむ姿勢に固まって一点を見続ける場合はオセルと訓み、それ以外の首を動かしてあちこち見回すようなときはオセルとは訓まない。
C①の用例で言えば、対象が動かない「人衆聚集」の一点を見続ければオセルと訓み、「数十麋鹿、浮レ海来之。」や「兄媛之船」の動くのを見る場合は、高台から見ていたとしてもオセルとは訓まないとわかる。
C②の、見て怖気づいている例は、言葉とは何かを知るうえでとても興味深いものである。四例目の継体前紀の例に、「望りて、懼然りて」と見える。そう表現している理由は明確で、似た音のオセルとオソルの地口である。こうなると、もはや、視点の高さや対象物をはっきりと捉えているかどうかは二の次になる。音をオセルとオソルに揃え合わせなければならないと直観させられる。言葉とは伝えるためのツールなのだから、音声言語の優位性が適用されて然るべきである。
「皇師の威を望見るに、敢へて敵るまじきことを懼る。(望見皇師之威、懼不敢敵。)」(神武前紀戊午年八月)と句点で切れる。「然るに遥に王船を視りて、予め其の威勢を怖りて、……(然遥視王船、予怖其威勢、……)」(景行紀四十年是歳)、「新羅の王、遥に望りて以為へらく、非常の兵、将に己の国を滅さむとすと。讋りて志失ひぬ。……(新羅王遥望以為、非常之兵、将滅己国。讋焉失志。……)(神功前紀仲哀九年十月)、「両国の使人、望瞻りて愕然る。乃ち還り留る。(両国使人、望瞻之愕然、乃還留焉。)」(推古紀三十一年是歳)、「齶田・渟代、二郡の蝦夷、望り怖りて降はむと乞ふ。(齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞降。)」(斉明紀四年四月)である。古訓では、「威勢を怖れて、」(景行紀四十年十月、熱田本訓)と見える程度で、あまり意識されていない。しかし、言葉を吟味すればオヅよりもオソルと訓んだほうがかなっている。
古典基礎語辞典は、「[オヅは、]相手に直面して恐怖感を抱き、身体的に萎縮してしまう意。[気持ちが萎えることで、どちらかというと、心的また内面的に変化する場合に使われる。]……オソルは、相手に直面していない場合も含めて、危険を予想し、心配したり畏縮したりすることで、特に身体的な変化は伴わない。オビユは、相手に恐怖感を抱く点ではオヅと似ているが、すっかり生気を失ったり、ぶるぶると震えたりなど、身体的変化が顕著に表れる。」(239頁、この項、我妻多賀子)と解説する。すなわち、オヅは怖気づいて委縮すること、オビユはこわいと感じてびくびくすること、オソルは「畏」と書くこともある畏怖の念も含んでおそれをなすこと、という違いがある。
C②の用例は、皆、戦おうにも敵兵の勢力、威勢を一目見て、まともではとてもかなわないと直観している。身体的反応を起こして身動きが取れなくなったり、泡を吹いているわけではない。武装解除して投降したり、策略を案じ潜入して騙し討つ作戦に切り替えている。そのことを表す言葉はオソルである。
神功前紀の例では、これまで「讋ぢて志失ひぬ。(讋焉失志。)」と訓まれており、「讋」字について、書紀集解以来、説文や漢書・武帝紀の顔師古注にある、「讋 失レ気也」を引いているものとされている。しかし、気を失い、心が乱れた、という言い方は、撞着を含んだ畳語的な言い方である。後漢書・班固伝の「陸は讋れ水は慄れ、奔走して来賓せざるは莫し。(莫レ不二陸讋水慄、奔走而来賓一。)」部分の注に、「爾雅曰、讋、懼也。音之渉反」とある。それによるなら、「讋焉失レ志」は恐懼して気が動転した、という意に解することができ、わかりやすい。それはまた、継体前紀の例の、「懼然りて色失りぬ」、怖くなってふだんの表情でなくなった、とも照合するものである。
神田喜一郎氏の言に、「一、古訓の漢土訓詁学上より見て極めて正確なること 一、古訓の一見疑はしきものも、必ず何等かの典拠に本づくものなること」(神田1983.415頁、漢字の旧字体は改めた)とある。他に二点指摘があるが、これら二条を補完する但し書きのようなものである。要するに、古訓は相当に正しく、今の常識で生半可に疑ってかかるほうが浅知恵の賢しらごとである。
(注)
(注1)リを完了の助動詞とする説もある。
(注2)新編全集本日本書紀は、古訓にとらわれずにノゾムといった訓を与えている。中村1993.は、漢字表記においてそのように感じられないとし、「臨睨以下、望、望見等の語は本来、「力を加えて見る」こととは無縁であるから、「オシ有り」は望文生義的な造語であり、削除すべき訓であると結論しておきたい。もちろん、古代における邪視や、見ることの威力への信仰は否定するものではないが、書紀本文はこれとは無関係に、あくまでも字義に即して正確に付訓すべきものと考える。」(81頁)と、古訓自体を存疑としている。
(注3)動詞オセルが名詞オセから派生したと考えるよりも、語幹オセを共にする一群の言葉として、オセ、オセル、オセグムという語が成っていると考えるべきであろう。
(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
神田1983. 神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」『神田喜一郎全集 第二巻』同朋舎出版、昭和58年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2・3・4 日本書紀①・②・③』小学館、1994・1996・1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)~(五)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
中村1993. 中村宗彦「『日本書紀』訓釈十題」『山邊道』第37巻、天理大学国語国文学会、1993年3月。天理大学学術情報リポジトリhttps:/opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3066/(2023年1月25日閲覧)