古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

弓削皇子と額田王の贈答歌(万111~113)

2024年03月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集に載る額田王ぬかたのおほきみの最後の歌は弓削皇子ゆげのみことの間で交わされたもので、巻第二の「相聞」の部立の歌としてよく知られている。

  吉野宮にいでます時に、弓削皇子の額田王に贈り与ふる歌一首〔幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首〕
 いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉ゆずるはの 御井みゐの上より 鳴き渡り行く〔古尓戀流鳥鴨弓絃葉乃三井能上従鳴濟遊久〕(万111)
  額田王のこたへ奉る歌一首 倭京やまとのみやこよりたてまつり入る〔額田王奉和歌一首 従倭京進入
 いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥ほととぎす けだしや鳴きし おもへるごと〔古尓戀良武鳥者霍公鳥盖哉鳴之吾念流碁騰〕(万112)
  吉野よりこけせる松がを折り取りてつかはす時に、額田王の奉り入る歌一首〔従吉野折取蘿生松柯遣時額田王奉入歌一首〕
 み吉野の 玉松がは しきかも 君が御言みことを もちてかよはく〔三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久〕(万113)

 万111番歌に対して万112番歌が歌われており、万113番歌はそれと同時、または同時期であろうとされ、同じく吉野宮にいる弓削皇子と倭京にいる額田王という位置関係で歌われている。
 すでに説かれているように、弓削皇子が額田王に謎掛けをし、きちんと答えたのが万112・113番歌の「相聞」の実態である。どういう謎掛けをしたかは額田王の和した歌からわかる。ホトトギスである。「古」のことをホトトギスという語が印象づけている。万葉びとには、ホトトギスという言葉のなかにトキ(時)という語を読み取っていた。そして、彼らがホトトギスという語を語構成として考えた形は、語形としてはホト→トギと間髪を入れずに鳴き交わすものとして、語意としてはほとんど時は過ぎるの意として了解されていたと考える。
 中国に「霍公鳥」と書いた例はなく、本邦上代に作られたようである。「霍」は「靃」に同じで、説文に、「靃 飛ぶ声也、雨ふりてならびて飛ぶ者、其の声靃然たり」とあるが羽音を意識したとは考えにくい。むしろ、「霍霍」の義に声のはやいことを表すことがあり、「霍乱」ははげしい吐瀉をともなう病のことである。鳴いて血を吐くほととぎす、といわれるほど口の中が赤く、その鳴き声ははやく、二羽がならんで掛け合うようにかぶせ気味に鳴い交わしているものと思われていたと推測される。すなわち、上代においては、ホト→トギと聞いたということである。語尾のスは鳥名に多く見られ、ウグイス、カケス、カラスなどと同じ用法である。
 そして、ホトトギスという言葉を意味の方から考えると、ホト(ホトホト(殆・幾)の語幹、ホ・トは乙類)+トキ(時、トは乙類、キは甲類)+スグ(過)の約と思われていたと考えられる。ホトホトは白川1995.に、「「ほとんど」の古い形。あることがらが実現しようとする寸前の状態にあること。まだ一歩だけ完全な状態に達していないことをいう。そのような状態にあることを、推測していうこともある。」(680頁)とある(注1)

   夏の相聞
  鳥に寄せたる〔夏相聞 寄鳥〕
 春されば 蜾蠃すがるなす野の 霍公鳥ほととぎす ほとほと妹に 逢はず来にけり〔春之在者酢軽成野之霍公鳥保等穂跡妹尓不相来尓家里〕(万1979)

 この歌は、単にホトトギスの音をもってホトホトへと続く序詞にしているばかりであるが、万葉びとの関心は、言葉の音に注がれていることを知ることができる。
 トギスは、トキスグの転訛(tökisugu → tökisug → tögisu)と捉えられた。その結果、ホトトギスという鳥の名は、ほとんど時は過ぎるという意味になる。この洒落の意味において、ホトトギスという言葉は興味深く迎え入れられている。アプリオリにホトトギスという言葉があり、それを万葉時代に独自の解釈を行っておもしろがって使い、意味の派生、展開を楽しんでいる。

 信濃なる 須我すが荒野あらのに 霍公鳥 鳴く声聞けば 時過ぎにけり〔信濃奈流須我能安良能尓保登等藝須奈久許恵伎氣婆登伎須疑尓家里〕(万3352)
  右の一首は、信濃国の歌〔右一首信濃國歌〕

 この歌は、スサノヲが清々すがすがしいと言った須賀すがの宮の話に準えた歌である。出雲ではなく信濃にあり、八重垣をめぐらせる宮があるようなところではなくて荒れた野である。これはいったいどういうことか。それをホトトギスが鳴いて教えてくれた。ほとんど時は過ぎる、ほとんど時は過ぎる、と鳴いていて、なるほど時間は経過していて、空間的にも離れたところにたどり着いたものだと気づかされた、と歌っている(注2)
 ホトトギスは、ほとんど時は過ぎるということだから、古いことを示す語とともに用いられている。「いにしへ」という語も該当する(注3)

  霍公鳥のくを聞きて作る歌一首〔聞霍公鳥喧作歌一首〕
 いにしへよ しのひにければ 霍公鳥 鳴く声聞きて 恋しきものを〔伊尓之敝欲之怒比尓家礼婆保等登藝須奈久許恵伎吉弖古非之吉物乃乎〕(万4119)
 いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥ほととぎす けだしや鳴きし おもへるごと(万112)

 額田王の万112番歌については、中国の蜀魂伝説と結びつける解釈が、はやくは北村季吟・万葉拾穂抄(秋田県立図書館デジタルアーカイブズhttp://da.apl.pref.akita.jp/lib/item/00010001/ref-C-438484(10/59))から行われてきた。しかし、額田王が中国の逸話を熟知して拡大解釈するほどの勉強家であったとは伝えられておらず、想定することも困難である(注4)
左:「弓作り・弦売り」(東坊城和長・職人尽歌合、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541160/21をトリミング)、中:ユズリハ、右:居眠りをする宿直の傍らに置かれた弓、箙に入れられた矢、弦巻(春日権現験記絵摸本、板橋貫雄摸、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287489/10をトリミング)
 弓削皇子の歌い掛けに、「弓絃葉ゆずるは御井みゐの上より鳴き渡り行く」とある。弓削という名を負っているから、弓を削り作る人としての言にふさわしくあるべくして弓具に関連する弓弦ゆづるつながりの植物を持ち出している。弓絃葉ゆづるはは今日いうユズリハ、トウダイグサ科の常緑高木である。春に出た新葉が大きく整った頃に古い葉が落ちて、もとからある葉が新しい葉に譲っているように見えるのでその名がついたとされている(注5)。また、その用字に見られるように、上代の人の考えの中では弓弦と関係を持っていそうである。弓の弦は弦巻に巻いて控えとしていた。葉が控えとしてあることがユズリハの意なら、弓弦が弦巻に巻かれていることは言葉の義によく合致している。言葉は事柄であるとする上代の人たちの考え方にかない、わかりやすいものであったろう。
 弦巻のように巻くもので「御井みゐ」と呼ばれる井戸と関係がありそうな事柄は、井戸滑車のことと推測される。円形に従って同じように蔓が巻きつけられている。「御井みゐ」には、滑車を備えた車井戸を有するものがあったものと考えられる。車井戸では、一つの甕(桶)が登場するとき、もう一つの甕(桶)は落ちていく。ユズリハの落葉に擬せられる。
 考古学では、出土品が見られず、絵巻物などの絵画資料に描かれることがないから、井戸に滑車を用いた例は近世になって出現したとされている(注6)。しかし、万葉歌の比喩的用法を鑑みるに、上代にすでに存在していたとしなければならない。前近代のものの考え方として、技術が知られていないから使われていなかったととると事を見誤ることになる。船の帆をあげる滑車が使われていたのは、他に代替できずに航行に欠かせない必須アイテムだったためである。井戸の場合、滑車を細工して作ることとその便益とを比べた時、人力で引き揚げることが可能で、身近な井戸に設置した場合に子どもが遊ぶと危険で、ほかに撥ね釣瓶井戸にする方法も知られていたから、中古・中世にかえって廃れていたと考えたほうが妥当であろう。古墳時代の形象埴輪に象ったものがいまだ見られないので、それ以降に移入されたものかと思われる(注7)
左:一乗谷朝倉氏遺跡の復原井戸、中:灰陶井戸(前漢時代、前3~後1世紀、茂木計一郎氏寄贈、愛知県陶磁美術館展示品)、右:漢代の井戸(明器、左から偃師県中州大渠・洛陽焼溝・洛陽唐寺門出土、余静・王涛 「両漢墓葬出土陶井的考古類型学研究」中国人民大学復印報刊資料http://rdbk1.ynlib.cn:6251/qw/Paper/531527#anchorListをトリミング結合)
 明器の「漢代の井戸」に見られるもののうち、左と中はいわゆる車井戸、右は轆轤井戸である。前者は甕(桶)がロープの端にそれぞれ付けられていて片方が下りればもう片方が上がる仕組みである。後者はロープの片方に甕(桶)が付けられていて、もう片方は人が握り、幅広の滑車を利用して体重をかけて楽に引き上げる仕掛けである。いま、弓削皇子が「弓絃葉ゆずるは御井みゐ」と言っているのは前者に当たる。片方が上がればもう片方が下がる。ユズリハの新葉、旧葉のように、呼応、連動するメカニズムである。その時、滑車はきしむ音をあげる。その音は何の鳥が鳴いている声と聞きなすか。間髪を入れずに声をあげていると目される鳥は、ホト→トギと鳴くと思われていたホトトギスである。そのホトトギスは、ほとんど時を過ぎる、の意であるとも思われていたから、弓削皇子は「いにしへに恋ふる鳥かも」と形容しているのである。その謎掛けは倭京にいる額田王にすぐに通じ、一・二句目がほとんど同じ「和歌」を返し奉っている。
 また、万113番歌の題詞、「従吉野‐取蘿生松柯遣時、額田王奉入歌一首」にある「蘿生松柯」は、コケのついた松の枝のこととする説と、サルオガセの巻きついた松の枝とする説(注8)がある。和名抄に、「蘿 唐韻に云はく、蘿〈魯何反、日本紀私記に蘿は比加介ひかげと云ふ〉は女蘿なりといふ。雑要决に云はく、松蘿は一名に女蘿といふ。〈万豆乃古介まつのこけ、一に佐流乎加世さるをがせと云ふ〉」とある。サルオガセは樹皮に付着して懸垂する糸状の地衣類のことである。命名の由来は、サル(猿)+ヲ(麻)+カセ(桛)の意であろう。ヲガセ(麻桛)は麻糸を桛木かせきに巻きつけていく様子を示している。森のなかでそのような様が見られるからには人のすることでなく、木登り上手な猿の仕業であろうと考えてその名があるのだろう。ここでは、松の枝に何らかの地衣類の付いたものを弓削皇子が折り取って、吉野から都にいる額田王のもとへ贈ったことに対し、彼女は歌を返しているように受け取れるから、弓削皇子と額田王との間で二度やりとりされていると考えられないこともない(注9)。 
左:ナガサルオガセ(Shu Suehiro様「ボタニックガーデン」https://www.botanic.jp/plants-na/nasaru.htm)、中:桛で糸を巻く(板橋貫雄模、春日権現験記・第9軸、明治3年(1870)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287494/9をトリミング)、右:鹿杖かせづゑ(同、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287494/5をトリミング)(注10)
 なぜそのような桛木が送られているのか。額田王はこれまでずっと行幸に参加してきた。内閣官房付きの歌人である。場を盛り上げるために歌を歌う大役を担い十分な活躍を見せてきた。けれども、今回の吉野行幸には参加していない。足が不自由になって同道できなかったのである。都にとどまっている彼女に吉野の状況を伝えつつ、慰みにもなる贈り物として考えられるのは杖である。そこで、鹿杖かせづゑが求められ、洒落で鹿角のような枝分かれした桛木が贈られている。
 なぜわざわざ「蘿」の着生したものを選んでいるのか。サル(猿・猨)で思い浮かぶ「いにしへ」話はサルタヒコ(猿田毘古神、猨田彦神)のことである。衢にいて道案内をする神である。杖の役割にふさわしいと考えられる。樹種に「松」である点は、松葉が二股に分かれた形姿をしているから、鹿杖の先が分かれていることを示すのにちょうどいいと考えられたからであろう。ひょっとすると額田王は骨折かなにかしていて、松葉杖を必要としていたということかもしれないが、鹿杖の松葉杖転用例はこれまでのところ知られてはいない。今後の研究課題である。
 すなわち、万113番歌の題詞の主語は弓削皇子で、万111番歌が贈られたときに使者の手に持たせた品であると考えることができる。サルオガセのついた松の枝、すなわち、鹿杖に当たる桛木を手にし、記憶としては万111番歌を持たせて遣わされている(注11)。だから、万112番歌を返しているし、そのためには、確かにこの使者は用命をきちんと果たしていると確かめられなければならないわけであるが、それができているということが、「君が御言みことを持ちてかよはく」と確認している。あなたの従者はちゃんとお使いを果しましたよ、という受取証として万113番歌は機能している。
 和名抄の記事にあるように、「蘿」は松に着いた苔のことであり、また、サルオガセでもあると認識されていたようである。「従吉野‐取蘿生松柯」と状況説明されている。吉野については、その地の名がヨシノということをもって、ヨ(節・代)+シノ(篠)の意に解されて、何世代にも渡って長く続く誉れある地と持て囃された(注12)。したがって、吉野の地にあって、常盤木にして永久を思わせる松の木に、さらに苔生している枝、その苔の一種がサルオガセであるが、それを折り取って都へと贈ったとすれば、なるほど弓削皇子の謎掛けで言いたいことは、ものすごく古い時代からずっと続いていることを表したいのだとわかる。「君が代」と同様の使い方であり、万葉集にも例がある。

   寧樂宮ならのみや
  和銅四年歳次辛亥、河辺宮人かはべのみやひとの姫島の松原に嬢子をとめかばねを見て悲しび嘆きて作る歌二首〔寧樂宮/和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫嶋松原見嬢子屍悲嘆作歌二首〕
 妹が名は 千代に流れむ 姫島の 子松こまつうれに こけすまでに〔妹之名者千代尓将流姫嶋之子松之末尓蘿生萬代尓〕(万228)

 弓削皇子は、額田王の長寿を祝うためではなく、万111番歌の謎掛けのヒントとして「蘿生松柯」を寄こして来た(注13)。ずいぶん洒落たことをするじゃないかと額田王は弓削皇子に言いたかった。それが万113番歌である。形容詞ハシの用例を並べてみる。

 み吉野の 玉松がは しきかも 君が御言みことを もちてかよはく(万113)
  宴席に雪、月、梅の花を詠む歌一首〔宴席詠雪月梅花歌一首〕
 雪の上に 照れる月夜つくよに 梅の花 折りて贈らむ しきもがも〔由吉乃宇倍尓天礼流都久欲尓烏梅能播奈乎理天於久良牟波之伎故毛我母〕(万4134)
  右の一首は、十二月、大伴宿祢家持の作〔右一首十二月大伴宿祢家持作〕

 ハシは、いとしい、可憐だ、慕わしい、愛らしい、といった意である。「しき」にはちょっと気の利いたことをしたくなるというもので、花の咲いている枝を折り取ってプレゼントにしてみるような、そんな相手が欲しいと言っている。額田王も、「蘿生松柯」を折り取ってくるとなんて粋なことをするねえと、ハシという言葉で形容している。
 万113番歌の題詞にある「蘿生松柯」は、「君が御言みことを持ちてかよはく」ことの「御言みこと」、すなわち、謎掛けの歌である万111番歌の問いについて、それを解くための重要なヒントとして働いている。「蘿生松柯」は、ものすごく古い時代からずっと続いて来ている、さて、それを表す鳥はなーんだ? と問うています、と重ねて示しているわけである。額田王はヒントなしに答えがわかって万112番歌を歌い、「蘿生松柯」を目にしてなかなかやるねえと思い、万113番歌を追って歌ったのであろう。すなわち、吉野宮と倭京とのやりとりは一回きりである。若い弓削皇子が、ヤマトコトバの言語遊戯のルールのなかで謎掛け形式の歌を贈ることにより、都にとどまったままの老練な歌詠み、額田王の無聊を慰めた、そのやりとりを録したのがこの相聞歌であった。

(注)
(注1)月野2001.は、以下にあげる万3352番歌を引き、「「時過ぎにけり」と聞くことのできる霍公鳥だからこそ、やがて「懐旧」の鳥と理解されるに至ったと考えておきたい。」(9頁)としている。筆者の説は、ホト→トギと間髪を入れず呼応する声であると名を見立てたことと、ほとんど時は過ぎるとの意を名が表しているとすることとの合わせ技と見ている。拙稿「万葉集のホトトギス歌について」参照。
 上代の人にとって、ホトトギスの鳴き声ではなく、ホトトギスという呼び名にしか関心がなかったと考える。なぜなら、彼らが世界を表すのに使うのは言葉であり、その言葉は音声言語でしかなく、なぜそう呼ばれるようになったかは当時すでに不明であったが、彼らなりに考えて共通認識として分かち合おうとしていたに違いないからである。すなわち、世界を言葉によって表すのと表裏一体の関係にあること、言葉が世界を表すことに関心の中心があった。
(注2)この歌についても拙稿「万葉集のホトトギス歌について」参照。
(注3)ムカシは「」で、自分や自分の知る人が体験した出来事から時間が経過して、目の前の現実とは離れて記憶のなかにのみとどめられている過去のことであるのに対して、イニシヘは「にし」のことで、過ぎ去ってしまっていて伝承などで耳にすることはあっても、再確認することのできない遥か遠い過去のことを表している。万111・112番歌の「いにしへ」を諸説のようにたかだか20年前の天武天皇代の壬申の乱のことととるのは、言葉の義に合わない。万111・112番歌の「いにしへ」について、契沖・万葉代匠記(初稿本)に、「天武のもろともにみゆきしたまひし折をこひおほしめすとなるへし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979062/220~221)として以来、天武天皇代の吉野行幸時、ないしは、壬申の乱前の天武天皇の吉野雌伏のこと、あるいはまた、天智天皇の近江大津宮時代のことを言っているとする説が行われている。21世紀のものでも、阿蘇2006.、多田2009.、梶川2009.、新大系文庫本萬葉集などに見られる。また、影山2022.は、額田王にとって亡夫でもある天武天皇のことを偲ぶものであるとしている。
 年を重ねた人が若いころを懐かしんだとして、それをイニシヘと言っていた可能性はきわめて低い。当人は生きているから、「にし」ていないからである。岩波古語辞典に、「過ぎ去って遠くへ消え入ってしまったことが確実だと思われるあたり、の意。奈良・平安時代には、主として、遠くて自分が実地に知らない遙かな過去、忘れられた過去などの意に多く使われた」(124頁)との指摘がある。
 記紀万葉時代のホトトギスにまつわる「いにしへ」話として代表的なものとしては、田道間守たぢまもり(多遅摩毛理)の話がある。常世国とこよのくにに橘の実を求め帰還してみると、時間は経過していて捧げるべき垂仁天皇はすでに亡くなっていた。ほとんど時は過ぎる状態が生じていた。実地では知らないが話としてそう伝えられている。結局、田道間守自身は後追い自殺をしている。「にし」のことである。万葉集でホトトギスがタチバナとともに使われる例が多いのは、その話が人々のあいだで共通に認識されていたからである。

 大和やまとには 鳴きてからむ 霍公鳥 が鳴くごとに き人おもほゆ〔山跡庭啼而香将来霍公鳥汝鳴毎無人所念〕(万1956)

 この歌は、ナキ(鳴)とナキ(亡)との掛詞に過ぎないかもしれないが、垂仁天皇の御陵は奈良市佐紀にあって「大和」のことである。田道間守もその御陵で叫び哭いて自死している。
(注4)月野2001.や影山2022.は否定的見解を述べており、触れていない注釈書もある。だが多くは、中国の故事に触れて説明しようとしている。21世紀に入ってからのものでも、阿蘇2006.、多田2009.、梶川2009.、伊藤2009.、廣川2019.に見られる。中国の伝説を知るには、中国人から直接、ないしは間接に話を聞くか、書物を読んで目にするか、いずれかがなければならない。そのことは日本の伝説を知る要件と何ら変わるところではない。日本の昔話は幼少期から聞かされていたと考えられる。額田王もそうして知ったであろう。古事記も日本書紀も成立する前に成人している。そして、額田王の歌には、口誦性が指摘されている。文字で書いて歌が作られているわけではなく、口に出して暗誦しながら一首として世に送り出している。身﨑1998.は「〈口誦〉から〈記載〉への和歌史の転換期をいきぬいた」(42頁)、梶川2009.は当該歌について「明らかに文字で遣り取りされた歌だ」(268頁)としているが、誤認である。彼女は生涯、文字の読み書きをしなかったであろう。律令制にもとづいた文書主義的なお役所仕事が始められた頃に、額田王はこの最後の歌を歌っている。年配の女性が必要もないのに一から字の読み書きを勉強を始め、ふだんは借り受けられない舶来の書物まで手にして読むことができたとは考えにくい。蜀魂伝説を知ったのは華陽国志・蜀志に所載のものそのものではなく、引用文を参照したとしても、よほど吹きこまれなければ通暁することはないであろう。説文に「巂 周燕也。从隹、屮象其冠也。㕯声。一曰蜀王望帝、婬其相妻、慙亡去、為子巂鳥。故蜀人聞子巂鳴、皆起云望帝。」、芸文類聚・巻六に「十州忠曰。蜀王杜宇、自号望帝。」、文選・蜀都賦の「碧出萇之血、鳥生杜宇之魄。」部分の注に「蜀記曰。昔有人、姓杜名宇。王蜀号曰望帝。宇死。俗説云。宇化為子規。子規鳥名也。蜀人聞子規鳴皆曰望帝。」と見えはするが、学究精神を持ち合わせていなければわかるものではない。我が国でこの逸話をヒントに記されたものとしては、菅家後集・叙意一百韻の「啼声鵑杜乱」部分があげられている。飛鳥時代に文化人のサロンがあり、「香炉峰の雪いかならむ」などと言って悦に入っていたのに似た事例として蜀王望帝の逸話が楽しまれていたとは知られず、行幸にも参加できなくなっている額田王のまわりで行われたとも思われない。
 伝来した中国の書物を読んで理解したとして、鳥名のホトトギスを、万葉集に「霍公鳥」と記しているが、中国の書物にそのような字面を見出すことはできず、「子〓(圭偏に鳥)」、「杜宇」、「子鵑鳥」、「杜鵑」、「巂」などと見える。なぜそれらの用字を万葉集が用いずに「霍公鳥」とばかり記すのか、説明されたことはない。
 現代の研究者は、長期間にわたる学習経験を経ているが、万葉歌人の歌詠みはそうではなかった。まずもって学校というものがない。ひとり博覧強記なことを言ったからといって、聞く側にそれを勉強する気がなかったら、その場においてコミュニケーションは成り立たない。一般民でもわかるから声を出して歌うことができる。したがって、通じない歌は記録されることはない。弓削皇子と額田王の間だけで通じたのだという考え方は棄却されなければならない。人々の間で歌われた歌を書いて残そうとする営みにおいて、当事者にしかわからないものは、その最初の書記化の段階のおいて記録して残そうとはしない。多くの人に理解されたから伝えて残そうという意欲が起こり、題詞や左注をつけて状況を説明し理解の助けとしている。蜀魂伝説は七夕伝説とは違い、他に用例がなく、後代にほとんど続いていない。当時の人々に共有されていた常識ではなかった。現代人にとってよくわからない歌があると、すぐに漢詩文の影響を指摘しようとする向きがある。しかし、万葉集が歌われた人々の間は、歌界と呼ぶに近く、学界と呼ぶには遠いところであったろう。
(注5)万葉集には他に一首、ユヅルハの例が見られる。

   譬喩歌〔譬喩謌〕
 へか 阿自久麻あじくまやまの 弓絃葉ゆづるはの ふふまる時に 風吹かずかも〔安杼毛敝可阿自久麻夜末乃由豆流波乃布敷麻留等伎尓可是布可受可母〕(万3572)

 他の語源説に、葉の形が弓の弦のようだとする説もある。また、ウツル(移)は古語にユツルとも言ったことと関係するかもしれない。弓弦の例とユツル(移)の例をあげる。ユツル(移)の例が月とともに用いられるのは、時の移ろいを月齢、太陰暦で数えていたことからイメージを膨らませているものと考えられる。

 梓弓あづさゆみ すゑ原野はらのに 鷹狩とがりする 君が弓弦ゆづるの 絶えむとおもへや〔梓弓末之腹野尓鷹田為君之弓食之将絶跡念甕屋〕(万2638)
  池辺王いけべのおほきみうたげうたふ歌一首〔池邊王宴誦謌一首〕
 松の葉に 月はゆつりぬ 黄葉もみちばの 過ぐれや君が 逢はぬ夜の多き〔松之葉尓月者由移去黄葉乃過哉君之不相夜多焉〕(万623)
 まそ鏡 清き月夜つくよの ゆつりなば おもひはまず 恋こそされ〔真素鏡清月夜之湯徙去者念者不止戀社益〕(万2670)
 ぬばたまの 夜渡る月の ゆつりなば さらにや妹に 吾が恋ひらむ〔烏玉乃夜渡月之湯移去者更哉妹尓吾戀将居〕(万2673)
 天の原 富士の柴山 くれの 時ゆつりなば 逢はずかもあらむ〔安麻乃波良不自能之婆夜麻己能久礼能等伎由都利奈波阿波受可母安良牟〕(万3355)

(注6)鐘方2003.に、「日本では、滑車による揚水が近世までみられないようなので、このような[井戸滑車を備えるべき]構築物がそれ以前の井桁上に存在した可能性はほとんどない。」(13~14頁)としている。
(注7)滑車が出土しないからなかったと考えることができないのは、轆轤が出土しないからといっても轆轤挽きしたとしか考えられない器が残されているとき轆轤はあったと想定されることと対比すれば理解できよう。
(注8)21世紀のものとしては、阿蘇2006.、多田2009.、伊藤2009.、新大系文庫本萬葉集などに採られている。
(注9)二度のやりとりがあったとする説は、伊藤1995.、菊地1997.、身﨑1998.に見られる。
(注10)鹿の角は枝分かれしていてかせのようになっているから、鹿の古名をカセギといい、その形状を示す杖を鹿杖かせづゑという。枝分かれしている方を下にして地面につけるのか、上にして儀仗のように構えるのか区別がある。宮本2011.、網野1993.参照。弓削皇子は枝分かれしている方を下にして額田王に使ってもらうことを期待していると考える。現代の介護用品にも四つ脚のものが用いられている。
杖の諸相(賀茂祭縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542592/21をトリミング)
(注11)古くから枝に消息文を挟んで往来したとする説がある。梓の木の枝に挟んだことがあったから、その代わりに松の枝が選ばれているというのである。武田1956.は、「上古まだ文字の無かつた時代には、使者を遣わすに、草木の枝などを持たせて遣わした。使者は、その持参した物に寄せて口上を述べたので、これが寄物陳思、乃至序詞、枕詞の起原になるのである。後世になつて文を通わすようになつても、これを草木の枝につけることが残り、漸次手紙の方が主になつても、正月の懸想文などは花の枝につけたのであった。今、吉野から玉松の枝が君の御言を持つて通つたというのは、その枝に御言が寄せられて来たことを言う。文が松枝につけられてあつたという解釈は、かならずしも誤りではないが、松が枝をほめた本意はそこには無い。」(369頁、漢字の旧字体は改めた)と評している。額田王のこの歌を「文筆に依つて作られた知的成立に依る」(367頁)と考えているため、ふみが松の枝に付けられているという想定が先に立っている。21世紀の解説書でも、阿蘇2006.、多田2009.、伊藤2009.、新大系文庫本万葉集に見られる。しかし、そう考えることの難点は、わざわざ「蘿生松柯」と限り断る必然性がない点である。湿度充満の木に挟んだら墨も滲みかねない。伝達に不要な情報を題詞に記した理由も不明となる。(注4)で述べたように額田王は文字を読まなかった。ふみが送り届けられたり、木簡代わりにされたのではなく、吉野宮から使者が暗記して行って額田王へ口頭で伝えた。そのとき、弓削皇子の言葉の意味合いをよく伝えるために小道具として「蘿生松柯」を持たされていた。「君が御言みことをもちてかよはく」とは、言葉の内容の真相をそれを以てよく伝えている、という意味である。
(注12)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」、「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」など参照。
(注13)通説に、「蘿生松柯」をプレゼントしたことについて、額田王の長寿を祈るものとする説があるが、他の行幸の例でもせいぜい一週間程度の吉野宮滞在時に、わざわざ使者を遣わせて長生きしてくださいと言った理由を説明するものはない。

(引用・参考文献)
網野1993. 網野善彦『異形の王権』平凡社(平凡社ライブラリー)、1993年。
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第一巻』笠間書院、2006年。
伊藤1995. 伊藤博『萬葉集釈注一』集英社、1995年。
伊藤2009. 伊藤博訳注『新版 万葉集一 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡1985. 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第二』有斐閣、昭和60年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
影山2022. 影山尚之『萬葉集の言語表現』和泉書院、2022年。
梶川2009. 梶川信行『額田王─熟田津に船乗りせむと─』ミネルヴァ書房、2009年。
鐘方2003. 鐘方正樹『井戸の考古学』同成社、2003年。
菊地1997. 菊地義裕「額田王と季節観─弓削皇子との贈答歌の発想─」古典と民俗学の会編『古典と民俗学論集─櫻井満先生追悼─』おうふう、平成9年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 三』角川書店、昭和31年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
月野2001. 月野文子「弓削皇子と額田王の贈答歌─どのように「懐旧」を読み取るか─」『香椎潟』福岡女子大学国文学会、平成13年12月。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
廣川2019. 廣川晶輝「中国故事受容と和歌表現」上野誠・大浦誠士・村田右富実編『万葉をヨム─方法論の今とこれから─』笠間書房、令和元年。
身﨑1998. 身﨑壽『額田王─万葉歌人の誕生─』塙書房、1998年。(「いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎす」『萬葉』第133号、平成元年9月。萬葉学会・学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/1989)
宮本2011. 宮本常一『山に生きる人びと』河出書房新社(河出文庫)、2011年。
吉井1976. 吉井巖『天皇の系譜と神話二』塙書房、1976年。
洛陽焼溝漢墓 中国科学院考古研究所編輯『中国田野考古報告集 考古学専刊 丁種第六号 洛陽焼溝漢墓 洛陽区考古発掘隊』科学出版社出版、1959年。(北九州中国書店、1982年再刊)

※本稿は、いずれも中途半端で誤りの多い2021年7月・2022年12月稿を改稿、整頓したものである。

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