万葉集に載る
額田王の最後の歌は
弓削皇子との間で交わされたもので、巻第二の「相聞」の部立の歌としてよく知られている。
吉野宮に
幸す時に、弓削皇子の額田王に贈り与ふる歌一首〔幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首〕
古に 恋ふる鳥かも
弓絃葉の
御井の上より 鳴き渡り行く〔古尓戀流鳥鴨弓絃葉乃三井能上従鳴濟遊久〕(万111)
額田王の
和へ奉る歌一首
倭京より進り入る〔額田王奉和歌一首
従倭京進入〕
古に 恋ふらむ鳥は
霍公鳥 けだしや鳴きし
吾が
念へるごと〔古尓戀良武鳥者霍公鳥盖哉鳴之吾念流碁騰〕(万112)
吉野より
蘿生せる松が
柯を折り取りて
遣す時に、額田王の奉り入る歌一首〔従吉野折取蘿生松柯遣時額田王奉入歌一首〕
み吉野の 玉松が
枝は
愛しきかも 君が
御言を もちて
通はく〔三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久〕(万113)
万111番歌に対して万112番歌が歌われており、万113番歌はそれと同時、または同時期であろうとされ、同じく吉野宮にいる弓削皇子と倭京にいる額田王という位置関係で歌われている。
すでに説かれているように、弓削皇子が額田王に謎掛けをし、きちんと答えたのが万112・113番歌の「相聞」の実態である。どういう謎掛けをしたかは額田王の和した歌からわかる。ホトトギスである。「古」のことをホトトギスという語が印象づけている。万葉びとには、ホトトギスという言葉のなかにトキ(時)という語を読み取っていた。そして、彼らがホトトギスという語を語構成として考えた形は、語形としてはホト→トギと間髪を入れずに鳴き交わすものとして、語意としてはほとんど時は過ぎるの意として了解されていたと考える。
中国に「霍公鳥」と書いた例はなく、本邦上代に作られたようである。「霍」は「靃」に同じで、説文に、「靃 飛ぶ声也、雨ふりて
雙びて飛ぶ者、其の声靃然たり」とあるが羽音を意識したとは考えにくい。むしろ、「霍霍」の義に声のはやいことを表すことがあり、「霍乱」ははげしい吐瀉をともなう病のことである。鳴いて血を吐くほととぎす、といわれるほど口の中が赤く、その鳴き声ははやく、二羽がならんで掛け合うようにかぶせ気味に鳴い交わしているものと思われていたと推測される。すなわち、上代においては、ホト→トギと聞いたということである。語尾のスは鳥名に多く見られ、ウグイス、カケス、カラスなどと同じ用法である。
そして、ホトトギスという言葉を意味の方から考えると、ホト(ホトホト(殆・幾)の語幹、ホ・トは乙類)+トキ(時、トは乙類、キは甲類)+スグ(過)の約と思われていたと考えられる。ホトホトは白川1995.に、「「ほとんど」の古い形。あることがらが実現しようとする寸前の状態にあること。まだ一歩だけ完全な状態に達していないことをいう。そのような状態にあることを、推測していうこともある。」(680頁)とある
(注1)。
夏の相聞
鳥に寄せたる〔夏相聞 寄鳥〕
春されば
蜾蠃なす野の
霍公鳥 ほとほと妹に 逢はず来にけり〔春之在者酢軽成野之霍公鳥保等穂跡妹尓不相来尓家里〕(万1979)
この歌は、単にホトトギスの音をもってホトホトへと続く序詞にしているばかりであるが、万葉びとの関心は、言葉の音に注がれていることを知ることができる。
トギスは、トキスグの転訛(tökisugu → tökisug → tögisu)と捉えられた。その結果、ホトトギスという鳥の名は、ほとんど時は過ぎるという意味になる。この洒落の意味において、ホトトギスという言葉は興味深く迎え入れられている。アプリオリにホトトギスという言葉があり、それを万葉時代に独自の解釈を行っておもしろがって使い、意味の派生、展開を楽しんでいる。
信濃なる
須我の
荒野に 霍公鳥 鳴く声聞けば 時過ぎにけり〔信濃奈流須我能安良能尓保登等藝須奈久許恵伎氣婆登伎須疑尓家里〕(万3352)
右の一首は、信濃国の歌〔右一首信濃國歌〕
この歌は、スサノヲが
清々しいと言った
須賀の宮の話に準えた歌である。出雲ではなく信濃にあり、八重垣をめぐらせる宮があるようなところではなくて荒れた野である。これはいったいどういうことか。それをホトトギスが鳴いて教えてくれた。ほとんど時は過ぎる、ほとんど時は過ぎる、と鳴いていて、なるほど時間は経過していて、空間的にも離れたところにたどり着いたものだと気づかされた、と歌っている
(注2)。
ホトトギスは、ほとんど時は過ぎるということだから、古いことを示す語とともに用いられている。「
古」という語も該当する
(注3)。
霍公鳥の
喧くを聞きて作る歌一首〔聞霍公鳥喧作歌一首〕
古よ
偲ひにければ 霍公鳥 鳴く声聞きて 恋しきものを〔伊尓之敝欲之怒比尓家礼婆保等登藝須奈久許恵伎吉弖古非之吉物乃乎〕(万4119)
古に 恋ふらむ鳥は
霍公鳥 けだしや鳴きし
吾が
念へるごと(万112)
額田王の万112番歌については、中国の蜀魂伝説と結びつける解釈が、はやくは北村季吟・万葉拾穂抄(秋田県立図書館デジタルアーカイブズhttp://da.apl.pref.akita.jp/lib/item/00010001/ref-C-438484(10/59))から行われてきた。しかし、額田王が中国の逸話を熟知して拡大解釈するほどの勉強家であったとは伝えられておらず、想定することも困難である
(注4)。
左:「弓作り・弦売り」(東坊城和長・職人尽歌合、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541160/21をトリミング)、中:ユズリハ、右:居眠りをする宿直の傍らに置かれた弓、箙に入れられた矢、弦巻(春日権現験記絵摸本、板橋貫雄摸、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287489/10をトリミング)
弓削皇子の歌い掛けに、「
弓絃葉の
御井の上より鳴き渡り行く」とある。弓削という名を負っているから、弓を削り作る人としての言にふさわしくあるべくして弓具に関連する
弓弦つながりの植物を持ち出している。弓絃葉