万葉集巻第二の久米禅師と石川郎女の相聞歌は、一・二・二首の計五首から成る。多田2009.の現代語訳を添えて掲出する。
久米禅師の、石川郎女を娉ひし時の歌五首
久米禅師が石川郎女に妻問いした時の歌五首
み薦苅る 信濃の真弓 吾が引かば 貴人さびて 否と言はむかも 〈禅師〉(万96)
み薦を刈る信濃の真弓を引くように私があなたの心を引いたら、あなたは貴人らしくいやだというだろうかなあ。〔禅師〕
み薦苅る 信濃の真弓 引かずして 強佐留行事を〔強佐留行事乎〕 知ると言はなくに〈郎女〉(万97)
み薦を刈る信濃の真弓を引きもしないで、強佐留行事を知っているなどと誰が言えましょう。〔郎女〕
梓弓 引かばまにまに 依らめども 後の心を 知りかてぬかも〈郎女〉(万98)
梓弓を引くように私の心を引いたならあなたの誘いのままに従おうと思うが、後々のあなたの心がわかりかねることだ。〔郎女〕
梓弓 弦緒取り佩け 引く人は 後の心を 知る人そ引く〈禅師〉(万99)
梓弓に弓弦を取り掛けて引くように、あなたの心を引く人は後々までのたしかな心を知る人が引くのだ。〔禅師〕
東人の 荷向の篋の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも 〈禅師〉(万100)
東国の人の奉る荷前の箱を縛る綱のように、あなたは私の心にしっかりと乗りかかってしまったことだ。〔禅師〕
これらの歌は、万葉集巻二の相聞の部類に載せられている。題詞によって、お坊さんが女性を口説いている歌と目されている。先行研究(注1)では、主に、万97番歌の4句目、「強作留行事乎」を何と訓むか、また、集中の「石川郎女」とは誰のことで同名の人が何人いるのか、といった点が議論されてきた。歌群全体の構成としては次のように評釈されている。
のちの藤原朝に創作され、まえの時代の部分に据えられたとする考えは想像に過ぎない。反証の可能性がないため、理解が及ばないとなるとたやすく論じられることが多い。筆者は、仮にのちの藤原朝に創作されたなら藤原朝に記録されたはずであると考える。あたかもあったことかのように偽る理由はなく、偽ってかまわないとする嘘つきの発想が常態化していたとも思われないからである。そんなことが罷り通っていたら、無文字時代に何が真実で何が虚偽かを判別することができなくなり、世界はカオスに陥る。万葉集に収められている歌は妄言や妖言ではない。言葉は事柄と相即であるとした言霊信仰のもとにあった時代において、広く公に歌われた歌であって、二人の間だけで交わされたのではなく、周りで聞く人がいた。だから歌集に断りなく採られている。
この歌群を考える上で求められるのは全体の枠組みである。題詞のもとに設定が明示されている。「久米禅師、娉二石川郎女一時歌五首」である。「娉」はアトフ、ヨバフ、ツマドフなどと訓まれる(注2)。相聞の部立に属している。「娉」の時の歌に、譬えとしてなぜか弓が持ち出されている。譬えが成立している理由を正しく認識する必要がある。そして、最後の万100番歌では、弓の話から荷向(荷前)の篋(箱)の話にすり替わっている。当時の人によくわかるものとして理解されたから、歌が歌われて聞き留められたということであろう。万96~100番歌のすべてに通底する共通認識とはどのようなものであったか。
歌をやりとりしている二人は久米禅師と石川郎女である。この二人がどのような人であったか不明である。不明であるにも関わらず、歌として成り立っていて万葉集に録されている。知られていない人が意味ありげに相聞の歌を歌い合っていて当時の人の心に届いたということは、当時の人はその名からどのような人であったか理解していたということであろう。名は体を表す。言葉と事柄とが相即の関係にあるからである。
久米禅師と久米を名のるということは、兵卒にして久米歌(来目歌)に知られるように歌謡に与る人である(注3)。伝承として確かに残されている。
故、爾くして、天忍日命・天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天のはじ弓を取り持ち、天の真鹿児矢を手挟み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、此は大伴連等が祖ぞ、天津久米命、此は久米直等が祖ぞ。(記上)
是を来目歌と謂ふ。今、楽府に此の歌を奏ふときには、猶手量の大きさ小ささ、及び音声の巨さ細さ有り。此れ古の遺式なり。(神武前紀戊午年八月)
凡て諸の御謡をば、皆来目歌と謂ふ。此は歌へる者を的取して名くるなり。(神武前紀戊午年十二月)
久米氏の祖である天津久米命は、弓矢を持った出で立ちで登場している。「天のはじ弓」と「天の真鹿児矢」である。本歌群には「真弓」と「梓弓」が出ている。「禅師」については、仏教語大辞典に、「①坐禅を修行する人。……②禅定に通達した高僧。③法師に対する敬称。高僧一般に用いられた敬称。朝廷からの諡名。日本の古代では禅師は特に修験があり、病をいやし、福を招く、特殊の僧侶に冠せられる敬称で、後世の禅宗の高僧を称するものとは区別される。またこれを行者とよぶこともある。道鏡が禅師といわれたのは呪術力をもっていたからである。……」(854頁)とある。
一般に、久米禅師については③の意を採り、久米氏族出身の修験の法師とされている。しかし、座禅をしていないかはわからず、この万96~100番の歌は禅問答のようにも見受けられる。また、②の意味で、ゆたかなこころをもって歌問答をしているとも思われる。僧侶として戒律のもとに慎んでいて、実際にセクシャルなことを企てているわけではないらしいと受け取れる。説文に「娉 問ふなり」とあり、しなよく問うことを表していると見える。「法師すらかくうたう」のではなく、そのやりとりが阿吽の呼吸のごとく、あたかも息の合った夫婦のように呼び合っているから「娉」と記しているのではないか。
相手は石川郎女である。この人がどのような人物であったか、文字時代の考えでは高貴な女性であることぐらいしか定められない。「郎女」はもともと、天皇や皇族を父、皇族関係を母として生まれた女性のことである。それを愛称に使うこともあった。無文字時代の人の言語感覚によれば、イシカハという名から想像されるのは、その言葉(音)のなかに潜んでいるシカ(鹿)と綽名された人ではないか。それが確からしいのは、イシカハは石革の意にもとることができるからである。石と革でできたものに石帯、今日の飾りベルトがあげられ、バックル部分は鉸具と呼ばれて同音の鹿児を連想させる。ここに登場している石川郎女という呼び名の郎女は愛称かもしれないけれど、ある程度高位の身分であることが予感され、その身なりにゴージャスな石と革でできたベルトを用いていて不思議ではない。和名抄に、「革帯 唐衣服令に云はく、革帯に玉鈎〈今案ふるに革帯は其の付くる所、金玉、石角等を以て名と為、故に白玉帯、隠文帯、馬脳帯、波斯馬脳帯、紀伊石帯、出雲石帯、越石帯、斑犀帯、烏犀帯、散豆帯等の名有り、其の体に、純方、丸鞆、櫛上等の名有り、革帯は是れ其の惣名なり〉つけよといふ。」とある。
紺玉帯(正倉院宝物、宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012014&index=24をトリミング)
相手が高位の女性であるという設定は、最初の万96番歌に反映されている。禅師は、「貴人さびて 否と言はむかも」と歌いかけている。「貴人」は高位な人である。そしてウマヒトはケンタウルス(?)のような馬人である。鹿のはずなのに馬ぶって「否」と言う、と洒落ている。馬が鳴き声を上げることは「嘶く」という。新撰字鏡に、「嘽 土干反、馬平勞也、阿波久、又馬伊奈久」とある。否と鳴くという意に解せられるからそういうことを言っている。枕詞「み薦苅る」として出ているコモ(菰)は大型の抽水植物で、その葉を使って編み作ったものが筵類になる薦である。また、馬の飼葉にも使われていた(注4)。「信濃の真弓 吾が引かば」と仮定条件を示している久米禅師は、久米部に属しているらしく感じられるから弓の話をしているのであろうし、歩兵だから弓を引くには引くが、発射するかどうかは騎乗の指揮官の指図を待つことになる。真弓の産地として信濃は知られていた。さあどうしましょうかと、相手にボールを投げている。
み薦苅る 信濃の真弓 吾が引かば 貴人さびて 否と言はむかも 〈禅師〉(万96)
み薦を刈る信濃の真弓を私が引いたら、あなたは騎乗する指揮官らしく、馬のようにイナと鳴いて止めるのでしょうかねえ。
これに対して馬にあてがわれた鹿なる石川郎女は、当意即妙に切り返している。
み薦苅る 信濃の真弓 引かずして 強佐留行事乎 知ると言はなくに〈郎女〉(万97)
元暦校本万葉集巻二(古川本)(彩箋墨書、平安時代、11世紀、東博展示品)
四句目の訓には諸説ある。シヒザルワザヲ説の中西1978.は、「み薦を刈る信濃特産のあの弓を引くようにとおっしゃるけれど、気をひいて強いもなさらない事を、どうして私が知りましょう。」(103頁)と訳し、「強」を「弦」、「佐」を「作」の誤写とみてヲハクルワザヲと訓む説の新大系文庫本は、「(みこも刈る)信濃の真弓をお引きもしないで、弦をつける方法を知っているなどと言わないものですのに。」(125頁)と訳している。「佐」をザと濁音に訓む例は見られず、原文「強」字を強いて「弦」字に改める理由もわからない。
それ以外にシヒサルワザヲと訓む説があり、間宮2001.は、「(……弓を引くように)あなたは私の気を実際に引きもしないのに、私が自分の気持ちに反して無理に断る(貴人ぶってイヤと言う)ことを、あなたは知るわけがない。」(47~48頁)、室伏1972.は、「名の高い信濃の真弓を引いてみない、それではないが、私の心を引いてみることもしないで、無理にあなたの申し出を拒否するかどうか、前もって分るとは言えませんよ。否か応かは引いてみなければ分りませぬ。」(25頁)と訳している。
「行事」については万498・1759番歌にその用字例があり、ワザと訓むことで諸説一致している。このワザという言葉について、正確な理解が求められる。白川1995.に、「ある特定の意味を含む行為をいう 。その行為者を「わざをき」、呪詛的な行為の結果としてもたらされる不幸を「わざはひ」という。」(800頁)、古典基礎語辞典に、「ワザは、ワザハヒ(災い、戒める神意のきざしの意)、ワザヲキ(俳優、神意をうかがうために神前で演技をする人の意)のワザに同じである。原義は隠された神意の意で、それの顕在化としての術、また行事をいう。したがって、行いや行事を意味するといっても、それは普通と違って、深い意味や意図が込められているものをいう。」(1331頁、この項、我妻多賀子)とある。これらの指摘は安直な訳を牽制している。時代別国語大辞典に、「①事柄。事態。次第。……②行為。しわざ。おこない。……③習慣化した行動。仕事。……④技芸。所作。技術。」(817頁)と具体例を分類するが、深い意味、意図が伴わない事柄や動作について、それをワザと呼ぶことはない。万97番歌の「行事」においても、深い意味、意図が伴っており、特別感が表れているはずである。ワザを単にコトと現代語変換するのは誤りである(注5)。いくつか例をあげる。
且常に哭き泣つるを以て行とす。(神代紀第五段本文)
是の時に、其の子事代主神、遊行きて出雲国の三穂……の碕に在す。釣魚するを以て楽とす。或いは曰く、遊鳥するを楽とすといふ。(神代紀第九段本文)
其の後に、聖の業逾高く、王の風転盛りなり。(崇神紀七年二月)
陛下、国を饗しろ)しめして、徳行、広く天下に聞ゆ。(顕宗紀二年八月)
万機を総摂りて、天皇事行たまふ。(用明紀元年正月)
汝等習ふ業、何故か就らざる。(敏達紀元年五月)
群臣信无くは、万の事悉に敗れなむ。(推古紀十二年四月)
塞上恒に作悪す。(皇極紀元年二月)
凡そ百済・新羅の風俗、死亡者有るときは、……(皇極紀元年五月)
蘇我臣、専国の政を擅にして、多に行無礼す。(皇極紀元年是歳)
噫、入鹿、極甚だ愚癡にして、専行暴悪す。(皇極紀二年十一月)
今のみの 行事にはあらず〔行事庭不有〕 古の 人そまさりて 哭にさへ泣きし(万498)
あしひきの 山にし居れば 風流なみ 吾がするわざを〔吾為類和射乎〕 とがめたまふな(万721)
…… この山を 領く神の 昔より 禁めぬ行事ぞ〔不禁行事叙〕 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな(万1759)
水を多み 上田に種蒔き 稗を多み 択擢えし業そ〔択擢之業曽〕 吾が独り寝る(万2999)
古に ありけるわざの〔有家流和射乃〕 くすばしき 事と言ひ継ぐ ……(万4211)
いざ子ども 狂業なせそ〔多波和射奈世曽〕 天地の 固めし国そ 大和島根は(万4487)
行法し難かりしが為にして初めし事なり。(東大寺諷誦文稿平安初期点)
我れ三宝を供養する事に財物を須ゐむとす。(金光明最勝王経・六、西大寺本平安初期点)
忽然と一たび笑むに千万の態あり。(白氏文集・四、天永四年点)
性矜り荘るを愛し、行歩に艶なる姿態ありて、男の心を動す。(蘇婆呼童子請問経・蘇磨呼請問法相分第三)
シヒサルワザと訓んで無理に拒むことと解するのは、シヒサルコトではない理由を説明できないので誤りである。同じことは、シヒザルワザヲと訓んで無理強いすることがないことという解にも当てはまる。ほかの訓み方が求められている。可能性としてコハサルワザヲがある。
「強」字はコハシ(コは乙類)を示すから、「乞はさる行事を」の意である。求める、欲しがる、祈る、願うの意の「乞ふ(コは乙類)」、「さ」は軽い敬意を表す助動詞スの未然形、「る」は一般に自発・可能・受身・尊敬の助動詞と呼ばれるものの連体形である。乞い求め願う技法のことで、おねだりのために姿態をつくることである。女性がするテクニックを我々は共通認識している。しなを作って男性に対する。「信濃の真弓」を承ける語としてふさわしい。相手をメロメロにさせる態度を取るには極意あるワザが必要である。「乞ふ」に助動詞スがつく用例は古事記の歌謡に見える。同じく男女のやりとりのことを歌っている。
…… 前妻が 肴乞はさば 立ち蕎麦の 実の無けくを こきし削ゑね 後妻が 肴乞はさば いち榊 実の多けくを こきだ削ゑね ……(記9)
庶幾 僥倖也、又尚、己比祢加波久波(新撰字鏡)
弓といへば品なきものを、梓弓、真弓、槻弓、品も求めず、品も求めず。(神楽歌16)
み薦苅る 信濃の真弓 引かずして 乞はさる行事を 知ると言はなくに〈郎女〉(万97)
(み薦苅る)信濃の真弓を引いてもみないで、どのようにしなを作ってお願いしてくるかなんて、知っているとは言えないじゃないの。
マコモダケ(ポット園芸のため肥大していない)
久米禅師は石川郎女に歌いかけるにあたって「み薦苅る」と始めていた。「み薦苅る」とはコモ(菰)を刈ること、それは薦の葉を刈って秣にしようと始めたことであったが、受け取った石川郎女は別の用途を考えたようである。筵を編むためというよりも、今日言われるマコモダケの収穫を暗示したものである。マコモダケはまた、菰角と呼ばれる。黒穂病菌により茎が肥大化したもので、それを食用にした。その黒い胞子は眉墨など化粧品として利用された。お化粧してしなを作ろうというのである。石川郎女は女性だから、ものの見方を変えて「み薦苅る 信濃の真弓 引く」を捉え、眉引きのことだと合点している。換骨奪胎して話を発展させている。そして、次に、お化粧をしたら準備が整ったから臆せず男と対することはできるが、後々、何かを乞うたとき、それをかなえるだけの胆は据わっているかを問うて次の歌を歌っている。
梓弓 引かばまにまに 依らめども 後の心を 知りかてぬかも〈郎女〉(万98)
梓弓を引いたならば、その引くままに従いますけれども、結婚後のあなたの心のことは知ることができないことよ。
それに対して久米禅師は、「後の心」の意を展開させて使っている。彼は禅師であり、法師の一員であって、死後のことについて語っているのであろう。行く末の意から死後のことにまで発展させている。
娘子らが 後のしるしと 黄楊小櫛 生ひかはり生ひて 靡きけらしも(万4212)
然らば、乃ち後生言はまく、吾二人国を破れりといはむ。是、後葉の悪しき名なり。(舒明前紀)
但し其の葬事は、軽易なるを用ゐむ。(天智紀八年十月)
梓弓 弦緒取り佩け 引く人は 後の心を 知る人そ引く〈禅師〉(万99)
梓弓に弓弦を取り掛けて引く人とは、梓弓で占いをする梓巫女のように死者の言葉を知るように、「後の心」を知っている人が引くものですよ。
「み薦苅る 信濃の真弓」で投げかけた問いかけは、「梓弓」として返ってきている。石川郎女は真弓と同等に梓弓を用いたのであろうが、今後は、逆に、久米禅師が換骨奪胎して新しい意味に置き換えて捉えている。梓弓は、武具、戯芸具としてばかりでなく、巫女が霊を憑依するときにも用いられた。特に梓巫女と呼ばれ、神の依代として梓の木製の弓の弦を台の上で鳴らし、霊を口寄せした。イチコ(イタコ)の口寄せはその民間習俗の流れによるものであろう(注6)。太鼓や琴、鈴を使う巫女の様子は絵巻物からも窺うことができ、神降ろし、憑依のために音曲が用いられている。それが古代に遡れるものか、どのようなあり様だったかなど確かではないものの、万葉歌の言葉に「梓弓」が「よる」、「爪ひく」、「音」といった語とともに用いられ、武具ではなく楽器の用途となっていることに垣間見ることができる(注7)。
梓弓を使う「くちよせみこ」(人倫訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592445/16をトリミング)
アヅサユミとは、アダ(他)+ウサ(儲)+ユミ(弓)のことを思わせ、儲弦の整った弓のこと、控えとしてきちんと揃えてあるもの、いつまでも修繕して引き続けることができるものである。だから「弦緒取り佩け」と断っている。石川郎女は梓弓を持ち出して先のことはわからないと歌ったが、先のことがわかるように準備されたものこそアヅサユミと呼ぶのであると言って事の必然性を説き据えている。万95番歌の「貴人」から「弦」へと続く流れは、仁徳紀二十二年正月条の歌謡にすでに見える。
貴人の 立つる言立 儲弦 絶え間継がむに 並べてもかも(紀46)(注8)
相手は石川郎女である。石帯というベルトを想起して歌いかけていた。ヲ(緒)だろう、と歌いかけつつヲ(諾)だろう、と言っていたわけである。その頓智が石川郎女に通じて上手にお愛想を返してくれている。万96番歌に「否」(「嘶く」)で始めた歌問答は、万100番歌で「緒」(「諾」)でまとめている(注9)。
否も諾も 欲しき随に 赦すべき 貌見ゆるかも 我も依りなむ(万3796)
何為むと 違ひは居らむ 否も諾も 友のなみなみ 我も依りなむ(万3798)
相見ては 千歳や去ぬる 否諾かも 我や然念ふ 君をし待たむ(万2539)
又人のめす御いらへには、男は「よ」と申、女は「を」と申也。(古今著聞集三三一)
東人の 荷向の篋の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも 〈禅師〉(万100)
東国の人の奉るときに荷前の箱をきちんと縛って荷崩れしないようにする緒のように諾と答えて、あなたは私の心にしっかりと乗りかかってしまったことだ。
箱の荷を馬にとめる(渓斎英泉・木曽街道六拾九次、廿弌 木曽街道追分宿浅間山眺望、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1306229/1をトリミング)
万100番歌の「妹は心に乗りにけるかも」は常套句である(注10)。弓の話から一転して荷物の緒の話になっている。「東人」へ意識が向かったのは、アヅサユミ(梓弓)と音が通じるからでも、信濃が出ていたからでもあろう。ここで、久米禅師は荷向(荷前)の使いがごとき役を演じて、馬に荷を載せて縛りつけていると歌っている。久米氏は雑兵的役割だから、馬を扱う馬子にも想念上なり得るのであり、禅師だから荷前の使いが天皇陵に絹製品を奉る役にかなうのである。万99番歌の「後の心」が死後のことを言っていたことが確かめられる。
「荷向の篋」と断っている。「荷向」とは、荷前の使いとして知られる陵墓への幣の奉納のことである。律令制下では、毎年諸国からの貢物(調)として絹や綿が納められたが、そのうち、あらかじめ伊勢大神宮などと諸陵墓へ納める分を取っておき、それを12月に荷前の使いとして諸所へ派遣して奉った。残りは天皇が受領するという形式だったため、その年の初物は伊勢大神宮や諸陵墓が受けていると捉えられた。延喜式の「荷前」の傍訓には、伊勢大神宮、祝詞にハツニ、ハツヲ、ハツホ、陰陽寮にノサキとある。神前供献の場合は前者の3例の訓で、山陵供献の場合はノサキと訓んでいる(注11)。12月の行事でハツホとあっても稲の初穂には当たらない。延喜式・中務省式に、「凡そ十二月に諸陵に幣を奉らんには、……、凡そ諸陵に幣を供ふる使の大舎人は、……」とあり、幣にする絹製品が供献されていて、それを「荷前」と呼んでいる。
いま、歌を歌っているのは久米禅師である。陵墓をお守りする役目を実際に担っていたのかは不明ながら、その名の意味するところとなっている。令義解・職員令に、「諸陵司 正一人。掌らむこと、陵の霊を祭らむこと〈謂はく、十二月、荷前の幣を奉るは是なりといふ。〉」とある。東国から調として絹を貢進していて、それは陵墓に納められるものであるという認識があり、「東人の 荷向の篋」という表現が人々にすぐに通じるものとなっていた。久米禅師が荷向(荷前)とかかわりがある点は、陵墓との関わりとともに、久米舞の舞手である点からも理解される。幣(ヒは甲類)と舞(ヒは甲類)とは同音である。
この歌問答は禅問答であった。最初からヲ(緒、諾)という結論は見えており、だから「否」というカマをかけて歌い出していたのである。どう転んだって承諾するよりほかはないから、何重にも「妹は心に乗りにけるかも」の状態だと詠じている。
これらの歌の応酬は、題詞にある「娉」がうまく行った、ないし、うまく行っていない、といった恋の行方を示すものではなく、「娉」の舞台設定自体を語っている。「娉」とはどういうことなのか、それを「相聞」という歌の形式で解説している。歌い出しに始まり歌い終わりへと展開する恋の駆け引きの話でもない。双方の、名が体を表す歌の応酬をしている。すべて話(咄・噺・譚)として構成、成立している。話ばかりが上代の人にとって関心事であった。現実の恋話ではないから二首を一度に贈ることがあり、作者名を歌の下に記す例外的措置がとられている。言葉の理屈ばかりが連なった相聞歌、それが万96~100番歌であるといえる(注12)。
(注)
(注1)月岡2016.に、先行研究と問題提起が整理されている。そして、歌群全体に見ると、「男→女・女→男・男」という問答と呼応するように、「真弓→真弓・梓弓→梓弓」という切り替えが起こってやりとりが移り変わる点が問題であると提起している。
(注2)大谷2020.は、「「娉」 の用例からは正式な婚姻を意味する確例は認められず、少なくとも求婚の段階であるといえる。『説文解字』の字義[「娉 訪也」]に即していうならば、男性が女性を尋ねること、婚姻について問い合わせることであり、婚姻関係を目指して行われる前段階の行為を指し示す語である。……久米禅師と石川郎女の応酬は、婚姻関係の成立を目指すことが歌のテーマとして設定されているといえる……。ただし、現実的な婚姻は社会的な慣習の中にあるため、男女が恋歌を掛け合って自由に結婚できるものではない。そのことからいえば、「娉」とは自由な恋愛を前提とした求婚のことであり、それは恋歌内部で完結する仮想現実の中で行われる恋愛(擬似的な恋愛)なのだといえる。」(18頁)としている。
(注3)雅楽に久米舞が知られ、令集解に記載されているものの、記紀においては歌ってはいるが舞ってはいない。
(注4)枕詞「み薦苅る」は原文に「水薦苅」「三薦苅」とあり、コモに「薦」字が当てられている。薦は草かんむりに廌という字で、説文に「廌 解廌獣也。山牛に似て一角。古者訟を決むるに、不直なる者に触れしむ。象形、豸省に从ふ。凡そ廌の属は皆廌に从ふ」とある。廌は、獬豸などとも呼ばれる一種の神獣で、形は鹿や馬に似た一角獣である。曲直をただちに知って邪人に触れるとされて裁判官を想起させた。ここでも久米禅師は判断を仰いでいる。拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」の「法王」項参照。用字に従って用いられた枕詞の一例である。
(注5)佐竹2000.に、「言語学上、厳密な意味で、類義語は存在しても、同義語というものは存在しえない」(230頁)とある。
(注6)文献に「白頭嫗取二梓弓之折一」(政事要略・巻七〇、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2561029/39)とあるが北野天神縁起に鳴弦をする男の姿が見える。「四ノ御許者覡女也、卜占、神遊、寄絃、由〈一作口〉寄之上手也」(新猿楽記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11606610/8)とあるところは巫女が梓弓を用いていた確例であろう。
(注7)一般には「梓弓」という語を実際の弓のことと、枕詞「梓弓」、言葉を導く用法とするものとに分けて捉えることが行われている。枕詞と考えるとき、その縁語から「音」、「引く」、「張る」(「春」)、「よる」(「よ」)に掛かるとされる。近年、枕詞は、意味がかさなりすぎて重くて訳しきれないものであると理解されるようになってきている。「梓弓」という語を置くことで全体の基調を決めているということである。
「梓弓」を楽器として見ている万葉集の例をあげる。神降ろしに琴を「控」く(仲哀記)ことで神は「依る」こととなるから掛かるとされる。そして、「梓弓」も「音」を出して行く「末」の事を言として聞くことができて「寄る」ことになる。万1930番歌では、「引く」と音がするはずなのに何も言わないことを示す「莫告藻」を言い立てている。梓弓は楽器で、本来音がするところから照射された使い方であろう。
梓弓 末はし知らず しかれども まさかは君に 寄りにしものを(万2985)
梓弓 引きみ緩へみ 思ひ見て すでに心は 寄りにしものを(万2986)
今さらに 何をか思はむ 梓弓 引きみ緩へみ 寄りにしものを(万2989)
梓弓 欲良の山辺の 繁かくに 妹ろを立てて さ寝処払ふも(万3489)
梓弓 末は寄り寝む 現在こそ 人目を多み 汝を間に置けれ(万3490)
梓弓 爪引く夜音の 遠音にも 君が御幸を 聞かくし好しも(万531)
…… 狂言か 人の云ひつる 逆言か 人の告げつる 梓弓 爪引く夜音の 遠音にも 聞けば悲しみ ……(万4214)
梓弓 引津の辺なる 莫告藻の 花咲くまでに 逢はぬ君かも(万1930)
…… 玉梓の 使の言へば 梓弓 声に聞きて〈一は云はく、声のみ聞きて〉 言はむ術 為むすべ知らに 声のみを 聞きてあり得ねば ……(万207)
…… 霧こそは 夕に立ちて 朝は 失すと言へ 梓弓 音聞く吾も おほに見し 事悔しきを ……(万217)
(注8)この紀46歌謡についての詳解は、天皇と皇后の一連の歌合戦を含めて検討されなければならない。ここでは、この歌が、循環論法で歌われている点についてのみ述べておく。「立つる言立」と同語反復の示すとおり、タツルなるツル(弦・蔓)があってそれが儲弦であろうこと、また、仁徳朝に近時の「貴人」としては菟道稚郎子が思い浮かび、太子(儲君)に立てられていたことがあり、弓弦と天皇位とにともにスペアをもうけていることが歌われている。
(注9)万96~99番歌に、弓を引くことばかりを歌っていたのが一転、「荷向の篋の 荷の緒」のことになっていて、諸注釈において、禅師が郎女を手に入れた喜びを独詠的に歌っていると解されることが多い。それまでの「相聞」を終えて別時に歌ったものが添付されたとする見方まである。月岡2016.は、この贈答歌群の綴じ目となる万100番歌は、大浦2008.が祈念祭の祝詞の詞章、「陸より往く路は、荷の緒縛ひ堅めて、磐ね木ね履みさくみて、馬の爪の至り留まる限り、長道間なく立ち続けて、……」を挙げているように、テキスト外に存在する「共通認識」を前提として利用して、最終的に弦から荷の緒へと落ち着かせているとしているとしている。
筆者は、「共通認識」はヤマトコトバそれ自体に内在すると考えている。背後に鹿馬論争が控えていたように、鹿は「東」という語と関係が深い。ヤマトタケルが東国から帰るとき、「あづまはや」と歎いている。景行記に、「……還り上り幸す時、足柄の坂本に到りて、御粮食す処に、其の坂の神、白き鹿に化りて来立つ。爾して、即ち、其の咋ひ遺せる蒜の片端を以て待ち打てば、其の目に中りて、乃ち打ち殺しき。故、其の坂に登り立ちて、三たび歎きて詔りたまひて云はく、「あづまはや」といひき。故、其の国を号けて阿豆麻と謂ふ。」とある。鹿の目に当ったからアヅマというのだ、と伝えられている。イシカハノイラツメ(石川郎女)さんよ、図星だろうと謂わんとしている。そして、万100番歌は、「緒」は「諾」であると落ちを示して、一連の歌合戦をまとめる役割を果たしているのである。
(注10)拙稿「万葉集における「心」に「乗る」表現について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ec57a18928f352ad15a1394cf65702f8参照。中西1978.に、「緒が固く結ばれた状態を乗る比喩とする。馬に乗せる状態ではない。」(104頁)とある。しかし、なぜ他の緒ではなく、「東人の 荷向の篋の 荷の緒」に限定されているのか説明がない。「乗る」ものの代表に馬があるから、馬に人が乗るのではなく荷鞍を載せてゆわいつけていることを指している。
(注11)荷前の制については、大津1999.、岡田1970.、服藤1991.、伊藤2016.、吉江2018.などに論じられている。
藤波本神祇令の書き入れに、「延喜同私記云調庸荷前先条神祇号相甞祭後奉□山陵号荷前也諸國雑物為任宛國用」とある。「条」字は諸解説書に「祭」ととっている。筆者は、「延喜同私記に云はく、調庸荷前、先条の神祇は相甞祭と号け後に奉る。山陵に□は荷前と号くる也。諸国の雑物、任に国用に宛てんと為る也といふ。」と訓んでおく。相嘗祭の後に大嘗祭(新嘗祭)があるという意味に解した。
荷前の制によって延喜式・祝詞・春日祭に、「……大海に船満ち続けて、陸より往く道は、荷の緒縛ひ堅めて、……」と作られている。船荷を陸路で運ぶ場合、馬に載せたと考えられる。春日祭だから、延喜式の傍訓の区分けに従うなら、「荷の緒」とはいえその「荷前」はハツニ、ハツヲ、ハツホと訓み、厳密にはノサキではないことになる。伴信友・比古婆衣・巻之九に、「荷前とは諸国の御調の絹布の類をはじめ、くさぐさの中の最物を撰びて取分置きて其をまづ天照大御神宮に奉り給ひ、又相嘗に預り給ふ神たちの幣物にも奉り給ひ、また御世々々の山陵に奉り給ひさて其の残りを天皇の受納領す御事になむありける、……荷前とは……荷の先にて早物といはむが如し〈仙覚の萬葉集注釈に、……実は荷前と初穂と同物にはあらず〉四方の国々より進る御調物の荷の先に早く到来れるをまづ神に奉られむ料に取分たるを云ふ称なり」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991315/98~99、漢字の旧字体等は改めた)とある。
なお、吉村1997.は、万100番歌の「東人」により、「四方国のなかでも東国の調や東人の荷前が特別の性格を負わされていたこと」を指摘している。しかし、万100番歌では「信濃」の「真弓」、「梓弓」からの連想、語呂合わせによって「東人」や大切な品である「荷向」という語が導かれている。すなわち、むしろ逆に、この歌の妥当性を上代の人が観念的に認め合った結果、東国の調に特別な意味を付与していったと考える。
(注12)そんな歌の応酬をして何がおもしろいのか、という素朴な疑問も生じるかもしれない。歌を歌い合っているのに何ら前進していないのは変ではないかとする向きである。かかる違和感は、思考方法の異なりからもたらされる。無文字時代において言葉は音声のみに依っている。文字時代のもとに暮らす我々とは異なる感覚で言葉を使っていた。文字で記録できるようになったとき、言葉は記号となり、記号は抽象的な思考、演算を生む。そうなってはじめて前進的な思考を体得する。無文字時代の上代人は、言葉を確かめることに終始して堂々巡りするのに飽きるところがない。言っていることが正しいのか、聞いていることが正しいのか、それを何によって確かめるのか。言葉のなかで自己循環する論理的定義を間断なく行うしか術がなかった。具体的思考という原理に基づいて、言葉も、説話も、歌も、依って立つ足元を据え直しながらつくられていた。文字(表意文字)が得られた時、言語活動が大転換した様子は想像に難くない。上代の人は我々とは異文化の世界に暮らす人たちであった。記紀万葉を知るためには、我々は自らのものの考え方を脇へ置き、虚心坦懐にして残されている創られた話(咄・噺・譚)に耳を傾けなければならない。
(引用・参考文献)
明川1981. 明川忠夫「巫女「小町」覚書」『同志社国文学』第18号、1981年3月。同志社大学学術リポジトリhttp://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004950
伊藤1995. 伊藤博『萬葉集釈注一』集英社、1995年。
伊藤2016. 伊藤循『古代天皇制と辺境』同成社、2016年。
大浦2008. 大浦誠士『万葉集の様式と表現─伝達可能な造形としての〈心〉─』笠間書院、平成20年。
大谷2020. 大谷歩「久米禅師と石川郎女の贈答歌」『万葉古代学研究年報』第18号、2020年3月。奈良県立万葉文化館・万葉古代学研究年報http://www.manyo.jp/ancient/report/
大津1999. 大津透『古代の天皇制』岩波書店、1999年。
岡田1970. 岡田精司『古代王権の祭祀と神話』塙書房、1970年。
春日1942. 春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究 本文篇』斯道文庫、1942年。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885585)
佐竹2000. 佐竹昭広『萬葉集抜書』岩波書店(岩波現代文庫)、2000年。(1980年刊。初出は、佐竹昭広「古代の言語における内部言語形式の問題」久松潜一編『古事記大成 第3巻─言語文化篇─』平凡社、1957年。今西祐一郎・出雲路修・大谷雅夫・谷川恵一・上野英二編『佐竹昭広集 第2巻 ─言語の深奥─』(岩波書店、2009年)に所収。)
時代別国語大辞典 上代語編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
蘇磨呼童子請問経 築島裕・小林芳規・月本雅幸・松本光隆「仁和寺蔵蘇磨呼童子請問経承暦三年点釈文」『訓点語と訓点資料』第95輯、平成7年3月。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
月岡2016. 月岡道晴「梓弓と真弓─久米禅師と石川郎女との問答歌─」『国語と国文学』第93巻第11号(通号1116号)、平成28年11月。
東大寺諷誦文稿 小林真由美「東大寺諷誦文稿注釈(二):41行〜79行」『成城國文學論集』第37号、2015年3月。成城大学学術情報リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1109/00003412/
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
服藤1991. 服藤早苗『家成立史の研究─祖先祭祀・女・子ども─』校倉書房、1991年。
佛教語大辞典 中村元『佛教語大辞典 縮刷版』東京書籍、昭和56年。
間宮2001. 間宮厚司『万葉難訓歌の研究』法政大学出版局、2001。
室伏1972. 室伏秀平『万葉異見』古川書房、1972年。
吉江2018. 吉江崇『日本古代宮廷社会の儀礼と天皇』塙書房、2018年。
吉村1997. 吉村武彦「都と夷(ひな)・東国─古代日本のコスモロジーに関する覚書─」『萬葉集研究 第二十一集』塙書房、平成9年。
※本稿は、2022年2月稿を2023年8月にルビ形式にしたものである。
久米禅師の、石川郎女を娉ひし時の歌五首
久米禅師が石川郎女に妻問いした時の歌五首
み薦苅る 信濃の真弓 吾が引かば 貴人さびて 否と言はむかも 〈禅師〉(万96)
み薦を刈る信濃の真弓を引くように私があなたの心を引いたら、あなたは貴人らしくいやだというだろうかなあ。〔禅師〕
み薦苅る 信濃の真弓 引かずして 強佐留行事を〔強佐留行事乎〕 知ると言はなくに〈郎女〉(万97)
み薦を刈る信濃の真弓を引きもしないで、強佐留行事を知っているなどと誰が言えましょう。〔郎女〕
梓弓 引かばまにまに 依らめども 後の心を 知りかてぬかも〈郎女〉(万98)
梓弓を引くように私の心を引いたならあなたの誘いのままに従おうと思うが、後々のあなたの心がわかりかねることだ。〔郎女〕
梓弓 弦緒取り佩け 引く人は 後の心を 知る人そ引く〈禅師〉(万99)
梓弓に弓弦を取り掛けて引くように、あなたの心を引く人は後々までのたしかな心を知る人が引くのだ。〔禅師〕
東人の 荷向の篋の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも 〈禅師〉(万100)
東国の人の奉る荷前の箱を縛る綱のように、あなたは私の心にしっかりと乗りかかってしまったことだ。〔禅師〕
これらの歌は、万葉集巻二の相聞の部類に載せられている。題詞によって、お坊さんが女性を口説いている歌と目されている。先行研究(注1)では、主に、万97番歌の4句目、「強作留行事乎」を何と訓むか、また、集中の「石川郎女」とは誰のことで同名の人が何人いるのか、といった点が議論されてきた。歌群全体の構成としては次のように評釈されている。
以上五首は、鎖のようにからみあって連なりながら、柱が始めと中と終わりの三か所にあって、しかも、最後が最も高く盛り上がって、終わるべきかたちで終わっている。どうやら、五首には、男女が妻問い(共寝)をなしとげる時の模範的なやりとりを示す歌として語り継がれる歴史があったらしい。そこには、法師すらかくうたうという意識を伴う享受の姿勢もあったのかもしれない。
この場合、五首の男と女とがともに伝未詳の人で、「久米禅師」は、古くから歌儛や物語の伝承に深くかかわった氏族久米氏にちなみの名であること、また、「石川郎女」も、のちの藤原朝に、複数の男性と多彩な戯歌を交わしたなまめかしい女〝石川郎女〟(一〇七~一〇・一二六~九)の風姿を連想させることなどが興味をひく。磐姫皇后の四首(八五~八)と同様、この五首にも〝埋もれた作者〟があり、「久米禅師」と「石川郎女」とは、藤原朝の頃、その作者によって作り出された物語上の人物であった可能性が高い。(伊藤1995.258~259頁)
この場合、五首の男と女とがともに伝未詳の人で、「久米禅師」は、古くから歌儛や物語の伝承に深くかかわった氏族久米氏にちなみの名であること、また、「石川郎女」も、のちの藤原朝に、複数の男性と多彩な戯歌を交わしたなまめかしい女〝石川郎女〟(一〇七~一〇・一二六~九)の風姿を連想させることなどが興味をひく。磐姫皇后の四首(八五~八)と同様、この五首にも〝埋もれた作者〟があり、「久米禅師」と「石川郎女」とは、藤原朝の頃、その作者によって作り出された物語上の人物であった可能性が高い。(伊藤1995.258~259頁)
のちの藤原朝に創作され、まえの時代の部分に据えられたとする考えは想像に過ぎない。反証の可能性がないため、理解が及ばないとなるとたやすく論じられることが多い。筆者は、仮にのちの藤原朝に創作されたなら藤原朝に記録されたはずであると考える。あたかもあったことかのように偽る理由はなく、偽ってかまわないとする嘘つきの発想が常態化していたとも思われないからである。そんなことが罷り通っていたら、無文字時代に何が真実で何が虚偽かを判別することができなくなり、世界はカオスに陥る。万葉集に収められている歌は妄言や妖言ではない。言葉は事柄と相即であるとした言霊信仰のもとにあった時代において、広く公に歌われた歌であって、二人の間だけで交わされたのではなく、周りで聞く人がいた。だから歌集に断りなく採られている。
この歌群を考える上で求められるのは全体の枠組みである。題詞のもとに設定が明示されている。「久米禅師、娉二石川郎女一時歌五首」である。「娉」はアトフ、ヨバフ、ツマドフなどと訓まれる(注2)。相聞の部立に属している。「娉」の時の歌に、譬えとしてなぜか弓が持ち出されている。譬えが成立している理由を正しく認識する必要がある。そして、最後の万100番歌では、弓の話から荷向(荷前)の篋(箱)の話にすり替わっている。当時の人によくわかるものとして理解されたから、歌が歌われて聞き留められたということであろう。万96~100番歌のすべてに通底する共通認識とはどのようなものであったか。
歌をやりとりしている二人は久米禅師と石川郎女である。この二人がどのような人であったか不明である。不明であるにも関わらず、歌として成り立っていて万葉集に録されている。知られていない人が意味ありげに相聞の歌を歌い合っていて当時の人の心に届いたということは、当時の人はその名からどのような人であったか理解していたということであろう。名は体を表す。言葉と事柄とが相即の関係にあるからである。
久米禅師と久米を名のるということは、兵卒にして久米歌(来目歌)に知られるように歌謡に与る人である(注3)。伝承として確かに残されている。
故、爾くして、天忍日命・天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天のはじ弓を取り持ち、天の真鹿児矢を手挟み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、此は大伴連等が祖ぞ、天津久米命、此は久米直等が祖ぞ。(記上)
是を来目歌と謂ふ。今、楽府に此の歌を奏ふときには、猶手量の大きさ小ささ、及び音声の巨さ細さ有り。此れ古の遺式なり。(神武前紀戊午年八月)
凡て諸の御謡をば、皆来目歌と謂ふ。此は歌へる者を的取して名くるなり。(神武前紀戊午年十二月)
久米氏の祖である天津久米命は、弓矢を持った出で立ちで登場している。「天のはじ弓」と「天の真鹿児矢」である。本歌群には「真弓」と「梓弓」が出ている。「禅師」については、仏教語大辞典に、「①坐禅を修行する人。……②禅定に通達した高僧。③法師に対する敬称。高僧一般に用いられた敬称。朝廷からの諡名。日本の古代では禅師は特に修験があり、病をいやし、福を招く、特殊の僧侶に冠せられる敬称で、後世の禅宗の高僧を称するものとは区別される。またこれを行者とよぶこともある。道鏡が禅師といわれたのは呪術力をもっていたからである。……」(854頁)とある。
一般に、久米禅師については③の意を採り、久米氏族出身の修験の法師とされている。しかし、座禅をしていないかはわからず、この万96~100番の歌は禅問答のようにも見受けられる。また、②の意味で、ゆたかなこころをもって歌問答をしているとも思われる。僧侶として戒律のもとに慎んでいて、実際にセクシャルなことを企てているわけではないらしいと受け取れる。説文に「娉 問ふなり」とあり、しなよく問うことを表していると見える。「法師すらかくうたう」のではなく、そのやりとりが阿吽の呼吸のごとく、あたかも息の合った夫婦のように呼び合っているから「娉」と記しているのではないか。
相手は石川郎女である。この人がどのような人物であったか、文字時代の考えでは高貴な女性であることぐらいしか定められない。「郎女」はもともと、天皇や皇族を父、皇族関係を母として生まれた女性のことである。それを愛称に使うこともあった。無文字時代の人の言語感覚によれば、イシカハという名から想像されるのは、その言葉(音)のなかに潜んでいるシカ(鹿)と綽名された人ではないか。それが確からしいのは、イシカハは石革の意にもとることができるからである。石と革でできたものに石帯、今日の飾りベルトがあげられ、バックル部分は鉸具と呼ばれて同音の鹿児を連想させる。ここに登場している石川郎女という呼び名の郎女は愛称かもしれないけれど、ある程度高位の身分であることが予感され、その身なりにゴージャスな石と革でできたベルトを用いていて不思議ではない。和名抄に、「革帯 唐衣服令に云はく、革帯に玉鈎〈今案ふるに革帯は其の付くる所、金玉、石角等を以て名と為、故に白玉帯、隠文帯、馬脳帯、波斯馬脳帯、紀伊石帯、出雲石帯、越石帯、斑犀帯、烏犀帯、散豆帯等の名有り、其の体に、純方、丸鞆、櫛上等の名有り、革帯は是れ其の惣名なり〉つけよといふ。」とある。
紺玉帯(正倉院宝物、宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000012014&index=24をトリミング)
相手が高位の女性であるという設定は、最初の万96番歌に反映されている。禅師は、「貴人さびて 否と言はむかも」と歌いかけている。「貴人」は高位な人である。そしてウマヒトはケンタウルス(?)のような馬人である。鹿のはずなのに馬ぶって「否」と言う、と洒落ている。馬が鳴き声を上げることは「嘶く」という。新撰字鏡に、「嘽 土干反、馬平勞也、阿波久、又馬伊奈久」とある。否と鳴くという意に解せられるからそういうことを言っている。枕詞「み薦苅る」として出ているコモ(菰)は大型の抽水植物で、その葉を使って編み作ったものが筵類になる薦である。また、馬の飼葉にも使われていた(注4)。「信濃の真弓 吾が引かば」と仮定条件を示している久米禅師は、久米部に属しているらしく感じられるから弓の話をしているのであろうし、歩兵だから弓を引くには引くが、発射するかどうかは騎乗の指揮官の指図を待つことになる。真弓の産地として信濃は知られていた。さあどうしましょうかと、相手にボールを投げている。
み薦苅る 信濃の真弓 吾が引かば 貴人さびて 否と言はむかも 〈禅師〉(万96)
み薦を刈る信濃の真弓を私が引いたら、あなたは騎乗する指揮官らしく、馬のようにイナと鳴いて止めるのでしょうかねえ。
これに対して馬にあてがわれた鹿なる石川郎女は、当意即妙に切り返している。
み薦苅る 信濃の真弓 引かずして 強佐留行事乎 知ると言はなくに〈郎女〉(万97)
元暦校本万葉集巻二(古川本)(彩箋墨書、平安時代、11世紀、東博展示品)
四句目の訓には諸説ある。シヒザルワザヲ説の中西1978.は、「み薦を刈る信濃特産のあの弓を引くようにとおっしゃるけれど、気をひいて強いもなさらない事を、どうして私が知りましょう。」(103頁)と訳し、「強」を「弦」、「佐」を「作」の誤写とみてヲハクルワザヲと訓む説の新大系文庫本は、「(みこも刈る)信濃の真弓をお引きもしないで、弦をつける方法を知っているなどと言わないものですのに。」(125頁)と訳している。「佐」をザと濁音に訓む例は見られず、原文「強」字を強いて「弦」字に改める理由もわからない。
それ以外にシヒサルワザヲと訓む説があり、間宮2001.は、「(……弓を引くように)あなたは私の気を実際に引きもしないのに、私が自分の気持ちに反して無理に断る(貴人ぶってイヤと言う)ことを、あなたは知るわけがない。」(47~48頁)、室伏1972.は、「名の高い信濃の真弓を引いてみない、それではないが、私の心を引いてみることもしないで、無理にあなたの申し出を拒否するかどうか、前もって分るとは言えませんよ。否か応かは引いてみなければ分りませぬ。」(25頁)と訳している。
「行事」については万498・1759番歌にその用字例があり、ワザと訓むことで諸説一致している。このワザという言葉について、正確な理解が求められる。白川1995.に、「ある特定の意味を含む行為をいう 。その行為者を「わざをき」、呪詛的な行為の結果としてもたらされる不幸を「わざはひ」という。」(800頁)、古典基礎語辞典に、「ワザは、ワザハヒ(災い、戒める神意のきざしの意)、ワザヲキ(俳優、神意をうかがうために神前で演技をする人の意)のワザに同じである。原義は隠された神意の意で、それの顕在化としての術、また行事をいう。したがって、行いや行事を意味するといっても、それは普通と違って、深い意味や意図が込められているものをいう。」(1331頁、この項、我妻多賀子)とある。これらの指摘は安直な訳を牽制している。時代別国語大辞典に、「①事柄。事態。次第。……②行為。しわざ。おこない。……③習慣化した行動。仕事。……④技芸。所作。技術。」(817頁)と具体例を分類するが、深い意味、意図が伴わない事柄や動作について、それをワザと呼ぶことはない。万97番歌の「行事」においても、深い意味、意図が伴っており、特別感が表れているはずである。ワザを単にコトと現代語変換するのは誤りである(注5)。いくつか例をあげる。
且常に哭き泣つるを以て行とす。(神代紀第五段本文)
是の時に、其の子事代主神、遊行きて出雲国の三穂……の碕に在す。釣魚するを以て楽とす。或いは曰く、遊鳥するを楽とすといふ。(神代紀第九段本文)
其の後に、聖の業逾高く、王の風転盛りなり。(崇神紀七年二月)
陛下、国を饗しろ)しめして、徳行、広く天下に聞ゆ。(顕宗紀二年八月)
万機を総摂りて、天皇事行たまふ。(用明紀元年正月)
汝等習ふ業、何故か就らざる。(敏達紀元年五月)
群臣信无くは、万の事悉に敗れなむ。(推古紀十二年四月)
塞上恒に作悪す。(皇極紀元年二月)
凡そ百済・新羅の風俗、死亡者有るときは、……(皇極紀元年五月)
蘇我臣、専国の政を擅にして、多に行無礼す。(皇極紀元年是歳)
噫、入鹿、極甚だ愚癡にして、専行暴悪す。(皇極紀二年十一月)
今のみの 行事にはあらず〔行事庭不有〕 古の 人そまさりて 哭にさへ泣きし(万498)
あしひきの 山にし居れば 風流なみ 吾がするわざを〔吾為類和射乎〕 とがめたまふな(万721)
…… この山を 領く神の 昔より 禁めぬ行事ぞ〔不禁行事叙〕 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな(万1759)
水を多み 上田に種蒔き 稗を多み 択擢えし業そ〔択擢之業曽〕 吾が独り寝る(万2999)
古に ありけるわざの〔有家流和射乃〕 くすばしき 事と言ひ継ぐ ……(万4211)
いざ子ども 狂業なせそ〔多波和射奈世曽〕 天地の 固めし国そ 大和島根は(万4487)
行法し難かりしが為にして初めし事なり。(東大寺諷誦文稿平安初期点)
我れ三宝を供養する事に財物を須ゐむとす。(金光明最勝王経・六、西大寺本平安初期点)
忽然と一たび笑むに千万の態あり。(白氏文集・四、天永四年点)
性矜り荘るを愛し、行歩に艶なる姿態ありて、男の心を動す。(蘇婆呼童子請問経・蘇磨呼請問法相分第三)
シヒサルワザと訓んで無理に拒むことと解するのは、シヒサルコトではない理由を説明できないので誤りである。同じことは、シヒザルワザヲと訓んで無理強いすることがないことという解にも当てはまる。ほかの訓み方が求められている。可能性としてコハサルワザヲがある。
「強」字はコハシ(コは乙類)を示すから、「乞はさる行事を」の意である。求める、欲しがる、祈る、願うの意の「乞ふ(コは乙類)」、「さ」は軽い敬意を表す助動詞スの未然形、「る」は一般に自発・可能・受身・尊敬の助動詞と呼ばれるものの連体形である。乞い求め願う技法のことで、おねだりのために姿態をつくることである。女性がするテクニックを我々は共通認識している。しなを作って男性に対する。「信濃の真弓」を承ける語としてふさわしい。相手をメロメロにさせる態度を取るには極意あるワザが必要である。「乞ふ」に助動詞スがつく用例は古事記の歌謡に見える。同じく男女のやりとりのことを歌っている。
…… 前妻が 肴乞はさば 立ち蕎麦の 実の無けくを こきし削ゑね 後妻が 肴乞はさば いち榊 実の多けくを こきだ削ゑね ……(記9)
庶幾 僥倖也、又尚、己比祢加波久波(新撰字鏡)
弓といへば品なきものを、梓弓、真弓、槻弓、品も求めず、品も求めず。(神楽歌16)
み薦苅る 信濃の真弓 引かずして 乞はさる行事を 知ると言はなくに〈郎女〉(万97)
(み薦苅る)信濃の真弓を引いてもみないで、どのようにしなを作ってお願いしてくるかなんて、知っているとは言えないじゃないの。
マコモダケ(ポット園芸のため肥大していない)
久米禅師は石川郎女に歌いかけるにあたって「み薦苅る」と始めていた。「み薦苅る」とはコモ(菰)を刈ること、それは薦の葉を刈って秣にしようと始めたことであったが、受け取った石川郎女は別の用途を考えたようである。筵を編むためというよりも、今日言われるマコモダケの収穫を暗示したものである。マコモダケはまた、菰角と呼ばれる。黒穂病菌により茎が肥大化したもので、それを食用にした。その黒い胞子は眉墨など化粧品として利用された。お化粧してしなを作ろうというのである。石川郎女は女性だから、ものの見方を変えて「み薦苅る 信濃の真弓 引く」を捉え、眉引きのことだと合点している。換骨奪胎して話を発展させている。そして、次に、お化粧をしたら準備が整ったから臆せず男と対することはできるが、後々、何かを乞うたとき、それをかなえるだけの胆は据わっているかを問うて次の歌を歌っている。
梓弓 引かばまにまに 依らめども 後の心を 知りかてぬかも〈郎女〉(万98)
梓弓を引いたならば、その引くままに従いますけれども、結婚後のあなたの心のことは知ることができないことよ。
それに対して久米禅師は、「後の心」の意を展開させて使っている。彼は禅師であり、法師の一員であって、死後のことについて語っているのであろう。行く末の意から死後のことにまで発展させている。
娘子らが 後のしるしと 黄楊小櫛 生ひかはり生ひて 靡きけらしも(万4212)
然らば、乃ち後生言はまく、吾二人国を破れりといはむ。是、後葉の悪しき名なり。(舒明前紀)
但し其の葬事は、軽易なるを用ゐむ。(天智紀八年十月)
梓弓 弦緒取り佩け 引く人は 後の心を 知る人そ引く〈禅師〉(万99)
梓弓に弓弦を取り掛けて引く人とは、梓弓で占いをする梓巫女のように死者の言葉を知るように、「後の心」を知っている人が引くものですよ。
「み薦苅る 信濃の真弓」で投げかけた問いかけは、「梓弓」として返ってきている。石川郎女は真弓と同等に梓弓を用いたのであろうが、今後は、逆に、久米禅師が換骨奪胎して新しい意味に置き換えて捉えている。梓弓は、武具、戯芸具としてばかりでなく、巫女が霊を憑依するときにも用いられた。特に梓巫女と呼ばれ、神の依代として梓の木製の弓の弦を台の上で鳴らし、霊を口寄せした。イチコ(イタコ)の口寄せはその民間習俗の流れによるものであろう(注6)。太鼓や琴、鈴を使う巫女の様子は絵巻物からも窺うことができ、神降ろし、憑依のために音曲が用いられている。それが古代に遡れるものか、どのようなあり様だったかなど確かではないものの、万葉歌の言葉に「梓弓」が「よる」、「爪ひく」、「音」といった語とともに用いられ、武具ではなく楽器の用途となっていることに垣間見ることができる(注7)。
梓弓を使う「くちよせみこ」(人倫訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592445/16をトリミング)
アヅサユミとは、アダ(他)+ウサ(儲)+ユミ(弓)のことを思わせ、儲弦の整った弓のこと、控えとしてきちんと揃えてあるもの、いつまでも修繕して引き続けることができるものである。だから「弦緒取り佩け」と断っている。石川郎女は梓弓を持ち出して先のことはわからないと歌ったが、先のことがわかるように準備されたものこそアヅサユミと呼ぶのであると言って事の必然性を説き据えている。万95番歌の「貴人」から「弦」へと続く流れは、仁徳紀二十二年正月条の歌謡にすでに見える。
貴人の 立つる言立 儲弦 絶え間継がむに 並べてもかも(紀46)(注8)
相手は石川郎女である。石帯というベルトを想起して歌いかけていた。ヲ(緒)だろう、と歌いかけつつヲ(諾)だろう、と言っていたわけである。その頓智が石川郎女に通じて上手にお愛想を返してくれている。万96番歌に「否」(「嘶く」)で始めた歌問答は、万100番歌で「緒」(「諾」)でまとめている(注9)。
否も諾も 欲しき随に 赦すべき 貌見ゆるかも 我も依りなむ(万3796)
何為むと 違ひは居らむ 否も諾も 友のなみなみ 我も依りなむ(万3798)
相見ては 千歳や去ぬる 否諾かも 我や然念ふ 君をし待たむ(万2539)
又人のめす御いらへには、男は「よ」と申、女は「を」と申也。(古今著聞集三三一)
東人の 荷向の篋の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも 〈禅師〉(万100)
東国の人の奉るときに荷前の箱をきちんと縛って荷崩れしないようにする緒のように諾と答えて、あなたは私の心にしっかりと乗りかかってしまったことだ。
箱の荷を馬にとめる(渓斎英泉・木曽街道六拾九次、廿弌 木曽街道追分宿浅間山眺望、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1306229/1をトリミング)
万100番歌の「妹は心に乗りにけるかも」は常套句である(注10)。弓の話から一転して荷物の緒の話になっている。「東人」へ意識が向かったのは、アヅサユミ(梓弓)と音が通じるからでも、信濃が出ていたからでもあろう。ここで、久米禅師は荷向(荷前)の使いがごとき役を演じて、馬に荷を載せて縛りつけていると歌っている。久米氏は雑兵的役割だから、馬を扱う馬子にも想念上なり得るのであり、禅師だから荷前の使いが天皇陵に絹製品を奉る役にかなうのである。万99番歌の「後の心」が死後のことを言っていたことが確かめられる。
「荷向の篋」と断っている。「荷向」とは、荷前の使いとして知られる陵墓への幣の奉納のことである。律令制下では、毎年諸国からの貢物(調)として絹や綿が納められたが、そのうち、あらかじめ伊勢大神宮などと諸陵墓へ納める分を取っておき、それを12月に荷前の使いとして諸所へ派遣して奉った。残りは天皇が受領するという形式だったため、その年の初物は伊勢大神宮や諸陵墓が受けていると捉えられた。延喜式の「荷前」の傍訓には、伊勢大神宮、祝詞にハツニ、ハツヲ、ハツホ、陰陽寮にノサキとある。神前供献の場合は前者の3例の訓で、山陵供献の場合はノサキと訓んでいる(注11)。12月の行事でハツホとあっても稲の初穂には当たらない。延喜式・中務省式に、「凡そ十二月に諸陵に幣を奉らんには、……、凡そ諸陵に幣を供ふる使の大舎人は、……」とあり、幣にする絹製品が供献されていて、それを「荷前」と呼んでいる。
いま、歌を歌っているのは久米禅師である。陵墓をお守りする役目を実際に担っていたのかは不明ながら、その名の意味するところとなっている。令義解・職員令に、「諸陵司 正一人。掌らむこと、陵の霊を祭らむこと〈謂はく、十二月、荷前の幣を奉るは是なりといふ。〉」とある。東国から調として絹を貢進していて、それは陵墓に納められるものであるという認識があり、「東人の 荷向の篋」という表現が人々にすぐに通じるものとなっていた。久米禅師が荷向(荷前)とかかわりがある点は、陵墓との関わりとともに、久米舞の舞手である点からも理解される。幣(ヒは甲類)と舞(ヒは甲類)とは同音である。
この歌問答は禅問答であった。最初からヲ(緒、諾)という結論は見えており、だから「否」というカマをかけて歌い出していたのである。どう転んだって承諾するよりほかはないから、何重にも「妹は心に乗りにけるかも」の状態だと詠じている。
これらの歌の応酬は、題詞にある「娉」がうまく行った、ないし、うまく行っていない、といった恋の行方を示すものではなく、「娉」の舞台設定自体を語っている。「娉」とはどういうことなのか、それを「相聞」という歌の形式で解説している。歌い出しに始まり歌い終わりへと展開する恋の駆け引きの話でもない。双方の、名が体を表す歌の応酬をしている。すべて話(咄・噺・譚)として構成、成立している。話ばかりが上代の人にとって関心事であった。現実の恋話ではないから二首を一度に贈ることがあり、作者名を歌の下に記す例外的措置がとられている。言葉の理屈ばかりが連なった相聞歌、それが万96~100番歌であるといえる(注12)。
(注)
(注1)月岡2016.に、先行研究と問題提起が整理されている。そして、歌群全体に見ると、「男→女・女→男・男」という問答と呼応するように、「真弓→真弓・梓弓→梓弓」という切り替えが起こってやりとりが移り変わる点が問題であると提起している。
(注2)大谷2020.は、「「娉」 の用例からは正式な婚姻を意味する確例は認められず、少なくとも求婚の段階であるといえる。『説文解字』の字義[「娉 訪也」]に即していうならば、男性が女性を尋ねること、婚姻について問い合わせることであり、婚姻関係を目指して行われる前段階の行為を指し示す語である。……久米禅師と石川郎女の応酬は、婚姻関係の成立を目指すことが歌のテーマとして設定されているといえる……。ただし、現実的な婚姻は社会的な慣習の中にあるため、男女が恋歌を掛け合って自由に結婚できるものではない。そのことからいえば、「娉」とは自由な恋愛を前提とした求婚のことであり、それは恋歌内部で完結する仮想現実の中で行われる恋愛(擬似的な恋愛)なのだといえる。」(18頁)としている。
(注3)雅楽に久米舞が知られ、令集解に記載されているものの、記紀においては歌ってはいるが舞ってはいない。
(注4)枕詞「み薦苅る」は原文に「水薦苅」「三薦苅」とあり、コモに「薦」字が当てられている。薦は草かんむりに廌という字で、説文に「廌 解廌獣也。山牛に似て一角。古者訟を決むるに、不直なる者に触れしむ。象形、豸省に从ふ。凡そ廌の属は皆廌に从ふ」とある。廌は、獬豸などとも呼ばれる一種の神獣で、形は鹿や馬に似た一角獣である。曲直をただちに知って邪人に触れるとされて裁判官を想起させた。ここでも久米禅師は判断を仰いでいる。拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」の「法王」項参照。用字に従って用いられた枕詞の一例である。
(注5)佐竹2000.に、「言語学上、厳密な意味で、類義語は存在しても、同義語というものは存在しえない」(230頁)とある。
(注6)文献に「白頭嫗取二梓弓之折一」(政事要略・巻七〇、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2561029/39)とあるが北野天神縁起に鳴弦をする男の姿が見える。「四ノ御許者覡女也、卜占、神遊、寄絃、由〈一作口〉寄之上手也」(新猿楽記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11606610/8)とあるところは巫女が梓弓を用いていた確例であろう。
(注7)一般には「梓弓」という語を実際の弓のことと、枕詞「梓弓」、言葉を導く用法とするものとに分けて捉えることが行われている。枕詞と考えるとき、その縁語から「音」、「引く」、「張る」(「春」)、「よる」(「よ」)に掛かるとされる。近年、枕詞は、意味がかさなりすぎて重くて訳しきれないものであると理解されるようになってきている。「梓弓」という語を置くことで全体の基調を決めているということである。
「梓弓」を楽器として見ている万葉集の例をあげる。神降ろしに琴を「控」く(仲哀記)ことで神は「依る」こととなるから掛かるとされる。そして、「梓弓」も「音」を出して行く「末」の事を言として聞くことができて「寄る」ことになる。万1930番歌では、「引く」と音がするはずなのに何も言わないことを示す「莫告藻」を言い立てている。梓弓は楽器で、本来音がするところから照射された使い方であろう。
梓弓 末はし知らず しかれども まさかは君に 寄りにしものを(万2985)
梓弓 引きみ緩へみ 思ひ見て すでに心は 寄りにしものを(万2986)
今さらに 何をか思はむ 梓弓 引きみ緩へみ 寄りにしものを(万2989)
梓弓 欲良の山辺の 繁かくに 妹ろを立てて さ寝処払ふも(万3489)
梓弓 末は寄り寝む 現在こそ 人目を多み 汝を間に置けれ(万3490)
梓弓 爪引く夜音の 遠音にも 君が御幸を 聞かくし好しも(万531)
…… 狂言か 人の云ひつる 逆言か 人の告げつる 梓弓 爪引く夜音の 遠音にも 聞けば悲しみ ……(万4214)
梓弓 引津の辺なる 莫告藻の 花咲くまでに 逢はぬ君かも(万1930)
…… 玉梓の 使の言へば 梓弓 声に聞きて〈一は云はく、声のみ聞きて〉 言はむ術 為むすべ知らに 声のみを 聞きてあり得ねば ……(万207)
…… 霧こそは 夕に立ちて 朝は 失すと言へ 梓弓 音聞く吾も おほに見し 事悔しきを ……(万217)
(注8)この紀46歌謡についての詳解は、天皇と皇后の一連の歌合戦を含めて検討されなければならない。ここでは、この歌が、循環論法で歌われている点についてのみ述べておく。「立つる言立」と同語反復の示すとおり、タツルなるツル(弦・蔓)があってそれが儲弦であろうこと、また、仁徳朝に近時の「貴人」としては菟道稚郎子が思い浮かび、太子(儲君)に立てられていたことがあり、弓弦と天皇位とにともにスペアをもうけていることが歌われている。
(注9)万96~99番歌に、弓を引くことばかりを歌っていたのが一転、「荷向の篋の 荷の緒」のことになっていて、諸注釈において、禅師が郎女を手に入れた喜びを独詠的に歌っていると解されることが多い。それまでの「相聞」を終えて別時に歌ったものが添付されたとする見方まである。月岡2016.は、この贈答歌群の綴じ目となる万100番歌は、大浦2008.が祈念祭の祝詞の詞章、「陸より往く路は、荷の緒縛ひ堅めて、磐ね木ね履みさくみて、馬の爪の至り留まる限り、長道間なく立ち続けて、……」を挙げているように、テキスト外に存在する「共通認識」を前提として利用して、最終的に弦から荷の緒へと落ち着かせているとしているとしている。
筆者は、「共通認識」はヤマトコトバそれ自体に内在すると考えている。背後に鹿馬論争が控えていたように、鹿は「東」という語と関係が深い。ヤマトタケルが東国から帰るとき、「あづまはや」と歎いている。景行記に、「……還り上り幸す時、足柄の坂本に到りて、御粮食す処に、其の坂の神、白き鹿に化りて来立つ。爾して、即ち、其の咋ひ遺せる蒜の片端を以て待ち打てば、其の目に中りて、乃ち打ち殺しき。故、其の坂に登り立ちて、三たび歎きて詔りたまひて云はく、「あづまはや」といひき。故、其の国を号けて阿豆麻と謂ふ。」とある。鹿の目に当ったからアヅマというのだ、と伝えられている。イシカハノイラツメ(石川郎女)さんよ、図星だろうと謂わんとしている。そして、万100番歌は、「緒」は「諾」であると落ちを示して、一連の歌合戦をまとめる役割を果たしているのである。
(注10)拙稿「万葉集における「心」に「乗る」表現について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ec57a18928f352ad15a1394cf65702f8参照。中西1978.に、「緒が固く結ばれた状態を乗る比喩とする。馬に乗せる状態ではない。」(104頁)とある。しかし、なぜ他の緒ではなく、「東人の 荷向の篋の 荷の緒」に限定されているのか説明がない。「乗る」ものの代表に馬があるから、馬に人が乗るのではなく荷鞍を載せてゆわいつけていることを指している。
(注11)荷前の制については、大津1999.、岡田1970.、服藤1991.、伊藤2016.、吉江2018.などに論じられている。
藤波本神祇令の書き入れに、「延喜同私記云調庸荷前先条神祇号相甞祭後奉□山陵号荷前也諸國雑物為任宛國用」とある。「条」字は諸解説書に「祭」ととっている。筆者は、「延喜同私記に云はく、調庸荷前、先条の神祇は相甞祭と号け後に奉る。山陵に□は荷前と号くる也。諸国の雑物、任に国用に宛てんと為る也といふ。」と訓んでおく。相嘗祭の後に大嘗祭(新嘗祭)があるという意味に解した。
荷前の制によって延喜式・祝詞・春日祭に、「……大海に船満ち続けて、陸より往く道は、荷の緒縛ひ堅めて、……」と作られている。船荷を陸路で運ぶ場合、馬に載せたと考えられる。春日祭だから、延喜式の傍訓の区分けに従うなら、「荷の緒」とはいえその「荷前」はハツニ、ハツヲ、ハツホと訓み、厳密にはノサキではないことになる。伴信友・比古婆衣・巻之九に、「荷前とは諸国の御調の絹布の類をはじめ、くさぐさの中の最物を撰びて取分置きて其をまづ天照大御神宮に奉り給ひ、又相嘗に預り給ふ神たちの幣物にも奉り給ひ、また御世々々の山陵に奉り給ひさて其の残りを天皇の受納領す御事になむありける、……荷前とは……荷の先にて早物といはむが如し〈仙覚の萬葉集注釈に、……実は荷前と初穂と同物にはあらず〉四方の国々より進る御調物の荷の先に早く到来れるをまづ神に奉られむ料に取分たるを云ふ称なり」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991315/98~99、漢字の旧字体等は改めた)とある。
なお、吉村1997.は、万100番歌の「東人」により、「四方国のなかでも東国の調や東人の荷前が特別の性格を負わされていたこと」を指摘している。しかし、万100番歌では「信濃」の「真弓」、「梓弓」からの連想、語呂合わせによって「東人」や大切な品である「荷向」という語が導かれている。すなわち、むしろ逆に、この歌の妥当性を上代の人が観念的に認め合った結果、東国の調に特別な意味を付与していったと考える。
(注12)そんな歌の応酬をして何がおもしろいのか、という素朴な疑問も生じるかもしれない。歌を歌い合っているのに何ら前進していないのは変ではないかとする向きである。かかる違和感は、思考方法の異なりからもたらされる。無文字時代において言葉は音声のみに依っている。文字時代のもとに暮らす我々とは異なる感覚で言葉を使っていた。文字で記録できるようになったとき、言葉は記号となり、記号は抽象的な思考、演算を生む。そうなってはじめて前進的な思考を体得する。無文字時代の上代人は、言葉を確かめることに終始して堂々巡りするのに飽きるところがない。言っていることが正しいのか、聞いていることが正しいのか、それを何によって確かめるのか。言葉のなかで自己循環する論理的定義を間断なく行うしか術がなかった。具体的思考という原理に基づいて、言葉も、説話も、歌も、依って立つ足元を据え直しながらつくられていた。文字(表意文字)が得られた時、言語活動が大転換した様子は想像に難くない。上代の人は我々とは異文化の世界に暮らす人たちであった。記紀万葉を知るためには、我々は自らのものの考え方を脇へ置き、虚心坦懐にして残されている創られた話(咄・噺・譚)に耳を傾けなければならない。
(引用・参考文献)
明川1981. 明川忠夫「巫女「小町」覚書」『同志社国文学』第18号、1981年3月。同志社大学学術リポジトリhttp://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004950
伊藤1995. 伊藤博『萬葉集釈注一』集英社、1995年。
伊藤2016. 伊藤循『古代天皇制と辺境』同成社、2016年。
大浦2008. 大浦誠士『万葉集の様式と表現─伝達可能な造形としての〈心〉─』笠間書院、平成20年。
大谷2020. 大谷歩「久米禅師と石川郎女の贈答歌」『万葉古代学研究年報』第18号、2020年3月。奈良県立万葉文化館・万葉古代学研究年報http://www.manyo.jp/ancient/report/
大津1999. 大津透『古代の天皇制』岩波書店、1999年。
岡田1970. 岡田精司『古代王権の祭祀と神話』塙書房、1970年。
春日1942. 春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究 本文篇』斯道文庫、1942年。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885585)
佐竹2000. 佐竹昭広『萬葉集抜書』岩波書店(岩波現代文庫)、2000年。(1980年刊。初出は、佐竹昭広「古代の言語における内部言語形式の問題」久松潜一編『古事記大成 第3巻─言語文化篇─』平凡社、1957年。今西祐一郎・出雲路修・大谷雅夫・谷川恵一・上野英二編『佐竹昭広集 第2巻 ─言語の深奥─』(岩波書店、2009年)に所収。)
時代別国語大辞典 上代語編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
蘇磨呼童子請問経 築島裕・小林芳規・月本雅幸・松本光隆「仁和寺蔵蘇磨呼童子請問経承暦三年点釈文」『訓点語と訓点資料』第95輯、平成7年3月。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
月岡2016. 月岡道晴「梓弓と真弓─久米禅師と石川郎女との問答歌─」『国語と国文学』第93巻第11号(通号1116号)、平成28年11月。
東大寺諷誦文稿 小林真由美「東大寺諷誦文稿注釈(二):41行〜79行」『成城國文學論集』第37号、2015年3月。成城大学学術情報リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1109/00003412/
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
服藤1991. 服藤早苗『家成立史の研究─祖先祭祀・女・子ども─』校倉書房、1991年。
佛教語大辞典 中村元『佛教語大辞典 縮刷版』東京書籍、昭和56年。
間宮2001. 間宮厚司『万葉難訓歌の研究』法政大学出版局、2001。
室伏1972. 室伏秀平『万葉異見』古川書房、1972年。
吉江2018. 吉江崇『日本古代宮廷社会の儀礼と天皇』塙書房、2018年。
吉村1997. 吉村武彦「都と夷(ひな)・東国─古代日本のコスモロジーに関する覚書─」『萬葉集研究 第二十一集』塙書房、平成9年。
※本稿は、2022年2月稿を2023年8月にルビ形式にしたものである。