古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

弓削皇子の吉野に遊ばす時の歌と春日王の和歌(万242~244番歌)について

2023年08月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻三に弓削皇子ゆげのみこの吉野での歌とそれに和した春日王かすがのおほきみの歌があり、別伝一首が付されている。

  弓削皇子ゆげのおほきみ、吉野に遊ぶ時の御歌一首
 たぎの上の 三船みふねの山に る雲の 常にあらむと が思はなくに(万242)
  春日王かすがのおほきみこたまつる歌一首
 おほきみは 千歳ちとせさむ 白雲しらくもも 三船の山に ゆる日あらめや(万243)
  或本の歌一首
 み吉野の 御船みふねの山に 立つ雲の 常にあらむと 我が思はなくに(万244)
  右の一首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ

  弓削皇子遊吉野時御歌一首
 瀧上之三船乃山尓居雲乃常将有等和我不念久尓
  春日王奉和歌一首
 王者千歳二麻佐武白雲毛三船乃山尓絶日安良米也
  或本歌一首
 三吉野之御船乃山尓立雲之常将在跡我思莫苦二
  右一首柿本朝臣人麿之謌集出

 万242番歌について、土佐2020.の整理に、「滝の上の 三船の山に 居る雲の」が「常にあらむ」にかかるか、「常にあらむと 我が思はなくに」全体にかかるかという解釈の違いによって、「雲」を常住不変の喩とするか、変化流転の喩とするか、意味が変わってくるとされている(注1)。しかし、それらは「居る雲の」の助詞「の」を通説にノヨウニの意ととっているからであり、格助詞として解しても不都合はないもので、土佐2020.は、「表層の解釈としては、「滝の上の三船の山に居る雲常にあるだろう、と私は思わないのに」で充分だろう。」(555~556頁)としている。
 登場する助詞「と」は下に「思ふ」という引用語が承けるように、引用構文とされるものである(注2)。「常にあるだろうと(は)私は思わないのに」という簡潔な言い回しである。引用を表しているのだから、その上の「滝の上の 三船の山に 居る雲の」は、「と」以前に掛かっているとするのが自然である。つまり、「居る雲の」の助詞「の」は第一義的に主格であると考えられる。ノヨウニの意と解する現状では、「滝の上の三船の山に居る雲のように(何かが)常にあるだろうとは私は思わないのに」ととっていて、その何かについて「我が命」のようなものを強引に設定して無常感のようなものを持ち出して説明している。
 今日までの説に、弓削皇子病弱説なるものがあり、27歳ぐらいで亡くなっているから無常感を抱いていたとするのであるが、輿に乗せられて行くにせよ病弱な人が吉野へ赴くものだろうか。また、古代において享年二十七が短命とも思われない。
 一般に、吉野は懐風藻に見立てられているところから神仙世界、雲は道教や仏教など外来思想に基づく造形であるとされている。それを推し進めると、土佐2020.に見られる念の入った訳出が行われることになる。
「(世間一般では、吉野を永遠なる神仙世界と見ており、吉野の雲も永遠にそこにあるものと考えているだろうが)いま滝の上の三船の山に居るあの雲が、いつも必ずあの場所にあるだろうとは、(たとえ人々がそう言っても、世間はともかく)この私は思わないのになあ。」(557~558頁)
「(他がどうであろうと)王は永遠の存在でいらっしゃるでしょう。(三船の山にいる雲がいつまでもあるはずがない、と仰るけれども)その白雲だって、三船の山の上から消えてなくなってしまう日が本当にあるでしょうか。(私はそんな日は来ないと思います。)」(570頁)
 そして、「弓削皇子は仏教的な視点に立つことで、古代性と道教思想が織り成してきた一般的見解を退けてみせた。対する春日王は、弓削が否定した古代性と道教思想を盾に取って、王権讃美と吉野讃美を行った。……弓削皇子と春日王の二首は、結果的に吉野の雲をめぐる問答といった趣を呈しているが、それが仏教的雲と道教的雲の対立という趣向になっている点に、外来思想をパロディ化する高度な知的遊戯性を認めるべきであろう。」(570~571頁)と結論づけている。現代人による作り話である。
 歌そのものを素直に聞いた時、そのように汲みとらなければならない理由は見られず、左注が付いているわけでもない。説明がなければわからない歌が歌われたとは考えられないし、もしそのように伝えたいのならそのように歌えば良く、そうしていない点は確認されるべきであろう(注3)
 「雲」を変化流転の喩とすることも難しい。「居る雲」と表現されている。「流るる雲」、「立つ雲」とあれば、流れて行ったり歩いて行ったりしそうであるが、腰を落ち着けて座っている雲は動きそうにない。
 構文は定式である。歌意は定式のうえに立って検討されなければならない。「滝の上の三船の山に居る雲が常にあるだろうとは私は思はないのに」と述べて何を言っているのか、それ自体をきちんと見極めることである。問題点はいくつかある。上代語「たぎ(瀧)(ギは甲類)」は、「水がわき立ち、激しく流れる所。激流。」(岩波古語辞典794頁)の意で、「たぎつ」と同根の語である。瀑布のことは「垂水たるみ」と言っていた。
 「滝のうへの」と訓まれているが、「うへ」はものの表面、近接した所、あたり、ほとり、接する上部などのことを指す。川の急流のものの表面、上面に「三船の山」があるとするのは、論理的に厳密性をきわめれば変な言い方である。水上に三つの船が浮かんでいる、その「三船」という名を負った「山」が、という意に捉えられるのであるが、急流に船は止まらずに流されるであろう。条件節であるべき上の句のなかにおいてすでに矛盾が生じてしまう。滝は激流だからその上の山ごと流される。雲も居なくなることは必定である。
 用字の「上」は、上面のことではなく、ほとり、あたりの意であると考えられる。ヘ(ヘは乙類)と一音に訓むのが字余りも解消されて適当であろう。「河のの」という例がしばしば見られる。川のほとりには、川の流れの緩急にかかわらず必ずあるものがある。両岸である。

 河のの ゆつ岩群いはむらに 草さず 常にもがもな 常処女とこをとめにて(万22)
 河の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢こせ春野はるのは(万56)
 川の上の いつの花の いつもいつも 来ませ背子せこ 時じけめやも(万1931)

 両サイドに岸はあるから二つセットにあるものが選ばれて言葉となっている。ツラ(面)は顔を横から見た時のもので、左右にあるからツラツラとなる。また、イツモイツモとも連なっている(注4)
 すなわち、「たぎの 三船みふねの……」とつづく言葉の列に諧謔を感じている。吉野にミフネノヤマという名の山があって、それをおもしろがるために歌が歌われている。「たぎ(ギは甲類)」に両岸あるとは、どちら側もタギ状態にあること、すなわち、言葉に、タギタギシであると感じている。「たぎたぎし(ギは甲類)」は、足がよくきかない、歩きにくい、の意である。曲りくねっていて上下左右を問わずに凹凸があることをいうタギが語基である。

 やがて、屋形野やかたのとばりの宮にいでますに、車駕みくるまける道つち深浅たぎたぎしかりき。悪しき路のこころを取りて、当麻たぎまと謂ふ。くにひと多支多支斯たぎたぎしと云ふ。(常陸風土記・行方郡)
 然れども、今、が足歩むこと得ずして、たぎたぎしく成りぬ。(景行記)

 これが弓削皇子の言いたい洒落である。「たぎ」のほとりの両岸はたぎたぎしくて進まないから船は係留されてどんなに流れが速くなろうが流されることはない。その名を負っている「三船の山」なのだから、そこに「居る雲」は座っているようにある。「居る雲」と連体修飾しているのは、「滝の上の 三船の山」という言葉の性質に不動性が備わっているからである。言葉は事柄と同じとする上代の言霊信仰に従って述べられている。「居る」、すなわち、尻を据えて座っているからすぐには動かない。「或本歌一首」には「立つ」雲と変えられているのは、ここが強調箇所であることを示すためである。ヒントのために万244番歌は付け加えられている(注5)
 川の両岸に「三船」が係留されていたとするには少し問題がある。一つの岸に一艘ずつなら両岸に計二艘のはずである。あと一艘はどこに係留されていたのだろうか。この「滝」とされる急流は山間部にある。二筋の流れがY字状に合流しているところを表しているのであろう。そう考えるとY字形の川のほとりは三つの岸を持っていることになり、確かに「三船」を係留することにかなっている。それらが流れ出てきている山が「三船の山」なのである。
 ミフネというのだから「御船」、天皇の乗船するような大切な船である。係留は確実に行われている。だから流されることはないはずであるが、歌の作者にして歌い手は弓削皇子である。弓削とは弓を削り作る人のことである。皇子が弓作り職人であったということではなく、その名を負っているということが大事である。言葉は事柄と同じとする上代の言霊信仰に従って述べられている。弓を削っていくさまを見れば、まっすぐであった材がほんの少しずつ湾曲させられていって最終的にひどく曲げられてしまう。それは、川の浸食に同じである。と形を変えるというのが、弓削皇子が習い性となったものの考え方である。名の体現こそ上代の人のアイデンティティの発露であった。そのことは題詞にきちんと明記されている。「弓削皇子吉野時御歌一首」である(注6)。この「遊」字は、注釈書によってアソブ、イデマスの訓に分かれている。
 古典基礎語辞典に、「あそぶ【遊ぶ】」の「解説」に、「日常の業(仕事・任務)から離れた場に身を置いて、解放された身心を活発に動かして楽しむ。奏楽・歌舞・宴会・行楽・舟遊び・遊猟・碁など、その行為は多岐にわたる。上代で既にアソブ内容がさまざまであることを考えると、神事の際の舞楽が原初的なアソビ(遊び)であったとするよりも、奏楽や歌舞が最も頻繁に行われるアソビで、それが神事においても行われたということと思われる。」(30~31頁、この項、白井清子)とある。そしてまた、この動詞の未然形に、上代の尊敬の助動詞「す」の付いた形でも用いられた。やがて一語化して「なさる」の意へと展開していくものである。 

 かしこし、我が天皇すめらみことなほ其の大御琴おほみことあそばせ。(仲哀記)
……  み雪る 冬のあしたは 刺柳さしやなぎ 根張ねはあづさを 御手おほみてに 取らし賜ひて 遊ばしし 我がおほきみを ……(万3324)

 この題詞も「歌」とあるから「遊」はアソバスと訓むものと考えられる。吉野へ出掛けているのも天皇が行幸に遊ばされたのに随伴したもので、その際に弓削皇子がお遊びになった歌であろう。精神的に日常的な思考から解放された活動として歌が作られている。この歌が日常的な思考とは少し異なるものであることを予感させてくれている。歌は酒の席での座興であり、言葉遊びに徹していることをきちんと伝えている。すなわち、これは大喜利の歌である。
 それを反映して、「常にあらむ」とは思えない境地に考え至っている。酔っぱらったら「常にあらむ」ものである。そのことを歌ってふさわしいのは、弓削と名に負う弓削皇子である。弓削皇子という名の限りにおいて、と移ろうのであり、そうならざるを得ないよね、と頓智的に主張している。そうでしょう、ご一同様、と皆におもしろい話を披露している。「遊」の歌なのである。
 それに対して、春日王という人が現れて「奉和歌一首」を歌っている。
 諸説に、万243番歌の「おほきみ」を弓削皇子のことを指すとしている。しかし、オホキミと呼ぶのは第一義的には天皇のことである。常套表現としてワガオホキミ、ワゴオホキミなどと使われ、私にとってのオホキミ(「王」「皇」「大王」「大皇」)に当たるあなた様、の意に用いられている。前提なく歌われる場合の「おほきみは 神にし座せば」(万235)等のオホキミは、天皇のことを指している(注7)。単にオホキミの寿命の長からんことを言っている場合も天皇にまつわる言い方である。下の例は、それぞれ、天智天皇、元正天皇である。

 あまはら け見れば おほきみの 御寿みいのちは長く あまらしたり(万147)
 大皇おほきみは 常磐ときはさむ 橘の 殿の橘 ひたりにして(万4064)

 だからといって、万243番歌が、千年天皇でいらっしゃると寿いだ歌だと考えることはできない。弓削の皇子の大喜利の歌に「和」したことにならないからである。そしてまた、万243番歌の「おほきみ」は、弓削皇子を指すものではない。なぜといって、今元気にしていて歌を歌い終わった人はユゲノミコ・・であってユゲノオホキミ・・・・ではないのである。ユゲノミコは、座興の席で自分の名前の「弓削」をもって弓をたわみ曲げる意味の歌を作っているのだからそれに準じなくてはならない。洒落の通じないつまらない歌ではどうしようもない。
 「おほきみ」が誰のことを歌っているかという問いは、歌の作者がカスガノオホキミ・・・・であることで直ちに解消されよう。一般にオホキミは千年もいらっしゃるとされるものだから、不肖わたくしカスガノオホキミも長くこの世にあるのでございましょう、とおちゃらけている。弓削皇子が弓作りのことを歌にしたように、春日王も自らの名によって歌を作っている。

 いすかみ 布留ふるを過ぎて 薦枕こもまくら 高橋過ぎ 物さはに 大宅おほやけ過ぎ 春日はるひ 春日かすがを過ぎ つまごもる 小佐保をさほを過ぎ ……(武烈前紀、紀94)
 八島国やしまくに 妻きかねて 春日はるひの 春日かすがの国に くはを ありと聞きて ……(継体紀七年九月、紀96)
 春日はるひを 春日かすがの山の 高座たかくらの 御笠みかさの山に 朝さらず 雲居くもゐたなびき ……(万372)

 「春日かすが」は「春日はるひ」、「春日はるひ」は「春日かすが」と常套的に思われていたことからして、日がつながっていることを表すと考えていたようである。春の日には霞が立ち、日が長くなったことを表すばかりでなく、新しい春の日、新年のことをも含み表している。必ず日はめぐるものであって、結果、新しい年も訪れる。春日王は春日という名を負っているがために、「千歳に座さむ」と具現化して述べて許されるわけである。言葉は事柄と同じとする上代の言霊信仰によっている。
 春日王の歌に、弓削皇子が提題した「滝」云々の件が見られないが、反駁していないわけではない。彼は「奉和」をしている。どのように「こた」えているか。彼の名のカスガが、日が連結されて必ず次の日につながっているように、その連結用具のことをも表していると思われていたようである。それをかすがひ(ヒは甲類)という。鎹は建築用語に材木と材木とをつなぎとめるために打ち込む両端の曲がった大きな釘のことをいうほか、つなぎとめるもの一般を指し、「子は鎹」とは夫婦をつなぎとめるものの例えとされ、戸締りの掛けがねのことも言った。新撰字鏡に、「錄 力玉反、具藉也、弟也、加須加比かすがひ」、「銈銢 二字、加須加比かすがひ」、名義抄に、「鎹 カスカヒ」、催馬楽・東屋あづまやに、「かすがひも とざしもあらばこそ その殿戸とのと われささめ おし開いてませ 我や人妻ひとづま」とある。
鎹(平城宮跡資料館展示品)
 掛けて動かないようにするということで、掛けておく船、停泊させている船のことは、掛船かかりぶね(係船、懸船)と呼ばれている。「春日はるひの 春日かすが」と「日」が必ず掛かり続いていくように、鎹(カスガ(春日)+ヒ(日))としての面目から、戸を鎖しかためるためにある鐶同様、船を掛かり止めるための戕牁かし(牫牱)は揺るがないと主張している。戕牁かし(牫牱)の語源は定まらないが、仮に動詞にカスという語を想定するなら、カス+ガ(処)なる場所とは舫い杭が打ち込まれているところということになる。すなわち、弓削皇子の言うようにたとえ川の流路が変って戕牁が打たれた部分を水が流れることがあっても、非常に深く打ち込まれているから、吉野宮近くの急流に係留されている船が流されることはない。その三船の山の上にかかる白雲も絶えることはない。すべては我が名、カスガのごとくであると言い放っている。
牂牱モヤイクイ」(金沢兼光・和漢船用集、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200018378/viewer/427をトリミング)
 ただし、これだけの意味の歌を春日王という人がしゃしゃり出てきて「奉和」したとは考えられない。反論の歌を歌ったとしても大喜利の場は白けるばかりである。頓智の上塗りを重ねるだけでは興趣に欠けるところがある。弓削皇子が思いついた着想の新しさに匹敵しないことでもある。
 この歌で、春日王は春日王独自のおもしろい着想から歌っているものと思われる。
 彼はカスガという名である。酒の席でカスと言えば酒糟(酒粕)のことが思い起こされる。和名抄に、「糟 説文に云はく、糟〈子労反、賀須かす〉は酒滓なりといふ。」とある。酒糟が千年あるとするのなら、当然、お酒のほうも千年ある。酒造りには玄米を精白して白米にすることが求められる。わけてもおいしい酒にするには、その精白の度合いを高めなければならない(精米歩合(%)は低下)。精白することは古語に「しらぐ(精・白)」と言った。新撰字鏡に、「精𥹁粺□𥽘𦥶𦥬業毇 八字、よね志良久しらく」、和名抄に、「粺米 楊氏漢語抄に云はく、粺米〈之良介与祢しらげよね、上は傍卦反、去声の軽、把と同じ〉は精米なりといふ。」、「𥽦米 唐韻に云はく、𥽦〈上は蔵洛反、作と同じ、漢語抄に末之良介乃与祢ましらげのよねと云ふ〉は精細米なりといふ。」とある。だから「白雲しらぐも」へと話が続いている(注8)
酒槽サカフ子」(金沢兼光・和漢船用集、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200018378/viewer/363をトリミング)
 長くつづけてたくさん醸造していくのだから、酒槽さかぶねはうずたかく積みあがるほどになる。そのとおり眼前にはミフネノヤマがある。ミフネ(三槽)と思えば数多く酒槽があることと思えるし、ミフネ(御槽)と思えばさぞかしおいしいお酒が醸されていると思える。いずれにせよ、酒糟があり続けることは酒があり続けることであってそれが絶える日などないのである。「白雲」は酒のことを表す隠喩にもなっていて、酒宴にふさわしい酒讃歌、酒寿ぎ歌となっている。
 ここに至って弓削皇子の歌の趣旨である座興、酔っぱらって「遊」の次元にある歌に対して「奉和」した歌としてふさわしいことが確かめられる(注9)
 この二首(三首)に対して諸説に、「無常」感の表明と捉えられてきていた(注10)が、そのようなところは微塵もない。すべては言葉「遊」びに歌われている。題詞は歌の歌われた状況設定を簡潔にして的確に、しかも細大漏らさず言い当てている。その点を顧みずに弓削皇子を悲劇の皇子、病弱な人と推論しても始まらない。道教的神仙思想や仏教的無常感などといった外来思想の反映であると大上段に構えてみても、歌が歌われた「遊」のフレームと交わるところはない。

(注)
(注1)澤瀉1958.にも同じく解説されている。ともに賀茂真淵・万葉考に、「げに高山の雲は常にたえぬを見」とあると引いているが、「げに高山の雲は常にあらぬを見る見る人の世の常なきをおもひ給ふなり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992920/346)と見える。また、山田1943.、井手1993.参照。
(注2)引用の「と」の例をあげる。

 韓人からひとの ころもむと云ふ 紫の 心にみて 思ほゆるかも(万569)
 今更いまさらに いもに逢はめやと 思へかも ここだが胸 いぶせくあるらむ(万611)
 恋は今は あらじとわれは おもへるを 何処いづくの恋そ つかみかかれる(万695)
 後瀬山のちせやま 後も逢はむと おもへこそ 死ぬべきものを 今日けふまでもけれ(万739)
 遠くあらば わびてもあらむを 里近く ありと聞きつつ 見ぬがすべなさ(万757)
 狂語たはことか 逆言およづれことか 隠口こもりくの 泊瀬はつせの山に いほりせりといふ(万1408)
 解衣とききぬの 思ひ乱れて 恋ふれども 何のゆゑそと 問ふ人もなし(万2969)
 あしひきの 山よりづる 月待つと 人には言ひて 妹待つわれを(万3002)
 防人さきもりに 行くはと 問ふ人を 見るがともしさ 物ひもせず(万4425)

 佐佐木1999.のいう「引用構文」(対立項に「継起構文」)、竹内2005.のいう「引用構文第Ⅰ類」である。広義に捉えて「広義の引用」という呼び方も行われている。今日、カギ括弧で括ることが行われている。
 なお、竹内2005.は別に「~ム(意志)+ト」による構文をあげているが、万242番歌のムは推量を表す。
(注3)常なることの比喩とも常ならぬことの比喩とも取れるとする説が池田2008.にある。
(注4)万22番歌の原文に、「河上乃湯津盤村二草武左受常丹毛冀名常處女煮手」とある。「常」字が二つあるからそれを同じに訓んでカハノヘ構文の典型例に倣うべきと考えられる。現状の訓が誤りである点については他日を期したい。
(注5)初句に「み吉野の」とあったり「御船」と書くものは平凡な歌である。これは、万242番歌は機知に富んだ歌い方をしていることを指し示すためのメモとして機能している。人麻呂歌集に類歌が載っていて参考までにあげたということか。同様にヒントの提示としての異伝記載としては、万25番歌につづく「或る本の歌」(万26)がある。
(注6)万葉集の題詞、左注における「遊」字の使用法は、アソブ内容を指し示す形での提示が多い。「遊獦みかり」(万3題詞・20題詞・1028題詞)、「交遊とも」(万680題詞・3914左注)、「遊覧」(万853題詞・3991題詞・3993題詞・4036題詞・4046題詞・4187題詞・4199題詞・999左注)、「遊行女婦うかれめ」(1492題詞・966左注・4047左注)、「野遊のあそび」(万1880題詞・3808左注)、「遊芸」(万3969題詞)、「遊行」(万90左注・3835左注)、「望遊」(万1472左注)、「出遊いでます」(万415題詞)、「出遊いであそぶ」(万3835左注)、「遊宴うたげ」(万4057左注・4062左注)とある。
 これらは、「遊」の行為が目的的によくわかるものである。狩猟したり見物したり散策したりするといったことである。アソブという語がいろいろ多岐に用いられるうちの何をしているかがわかる。課題とされる万242番歌題詞の「遊」の意味内容について考えるために、その前後に出てくる「遊」字の例を見てみる。

 天皇御-遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首(万235題詞)
 長皇子遊獦路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉(万239題詞)
 弓削皇子遊吉野時御歌一首(万242題詞)
 上宮聖徳皇子出遊竹原井之時、見龍田山死人悲傷御作歌一首(万415題詞)
 遊於松浦河序(万853題詞)

 万235番歌は、天皇の「御遊」、お出まし、行幸である。万239番歌で「獦路の池に遊ぶ」のは狩猟が目的である。万415番歌の「出遊」は万3835番左注に同じく散策である。万853番歌は、序のなかに「遊覧」とあってその意味ととれる。
 万235番歌に天皇の「御遊」としてイデマスという訓を与えている。万242番歌の「遊」について、神堀1997.は、お出かけになることと見、大浦2004.は、宮廷からの遊離と見ているが、それが「吉野」という行幸いでましの地であったとしても、「遊」にイデマスという訓を与えることは憚られる。弓削皇子が友人らを伴ってピクニックなり、静養なりを目的に吉野へ出掛けたとするよりも、天皇の吉野宮行幸に皆付き従って行っていて、そのときにグループで何かアソビをしていると考えた方が蓋然性が高い。題詞だけからはその内容、目的がはっきりしない例であるから、歌の内容とこもごもに意味を定立させていると考え及ぶことが求められる。なぜなら、万葉集の題詞表記の仕方は、簡にして要を得ることを目指していたと認められるからである。
(注7)万205番歌に「おほきみは 神にし座せば」とあり、それは弓削皇子に対する挽歌であり、そのオホキミは弓削皇子である。万204番の長歌に対する反歌であり、「やすみしし わごおほきみ 高光る 日の皇子 ……」で始まっている。作者は「置始東人おきそのあづまひと」であり、下男が挽歌を作っているのだから許容されたのであろう。
(注8)「白雲」を漢籍出典語と解して穆天子伝・白雲謡に求める説(井手1993.203頁)があるが、巻5・812番歌の題詞にある「白雲之什」は藤原房前が遠い便りのことを示す形容として書簡文に認めたものであって、春日王の歌の中身に絡めることは牽強付会である。
(注9)土佐2009.に、万242・243番歌は二首一連で、「「応答」なくしては、場の秩序を回復することができない」(162頁)としているが誤りである。万20・21番歌の場合は、「天皇遊猟蒲生野時額田王作歌」→「皇太子答御歌」であり、「作」→「答」の状況設定は「天皇遊猟蒲生野時」だから事前のネタ合わせが読み取れるが、当該歌では、「弓削皇子遊吉野時御歌」→「春日王奉和歌」であり、「作」→「和」の基盤に「遊」があって、その主語は歌の作者「弓削皇子」であり、一人で勝手に始めている。
(注10)弓削皇子挽歌の「又短歌一首」に、「ささなみの 志賀しがさされ波 しくしくに 常にと君が おもほせりける」(万206)とあり、「常に」は弓削皇子の生前の口癖だったとする説がある。万242番歌が人口に膾炙していたと考えられて、言葉尻を捉えたのであろう。万242番歌のおもしろさのひとつ、「滝」に両岸あるからタギタギシという諧謔を踏まえて「しくしくに」とくり返し言葉が使われている。「ささなみ」、「さされ波」にも反復がある。「常に」という語は万242番歌に出てきても、「常に」とは「思はなくに」だったのだから、この万206番歌の挽歌の言葉づかいとは異なる。万242番歌の言葉づかいに遡って同じ含意があるとは言い切れない。皇子様は常変わりなくありたいと思っておられましたのに残念です、というのはお悔やみの言葉にはなっても、弓削皇子その人へ向けた個別の追悼歌にはならない。世の大半の人は健康でいたいと思っている。

(引用・参考文献)
池田2008. 池田三枝子「《景》のゆらぎ─「喩」としての力─」『古代文学』第47号、2008年。
井手1993. 井手至『遊文録 萬葉篇一』和泉書院、1993年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
岩野1990. 岩野圭子「弓削皇子の歌〈巻三の二四二番〉についての一考察」『国文目白』第30号、日本女子大学国語国文学会、平成2年12月。
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澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈』中央公論社、昭和33年。
影山1999. 影山尚之「弓削皇子の歌」神野志隆光・坂本信幸企画・監修『セミナー万葉の歌人と作品 第三巻』和泉書院、1999年。
神堀1997. 神堀忍「萬葉集における「遊」をめぐって─「( )遊」・「遊( )」と「アソブ」・「カル」など─」『国文学』第75巻、関西大学国文学会、1997年3月。関西大学学術リポジトリhttp://hdl.handle.net/10112/2457
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』 角川学芸出版、2011年。
佐佐木1999. 佐佐木隆『萬葉集と上代語』ひつじ書房、1999年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
竹内2005. 竹内史郎「上代語における助詞トによる構文の諸相」国語語彙史研究会編『国語語彙史の研究 二十四』和泉書院、平成17年。
土佐2009. 土佐秀里「ボケる歌、突っこむ歌─万葉歌における応答の機能─」『文芸と批評』第10巻第10号(通巻100号)、文芸と批評の会、2009年11月。
土佐2020. 土佐秀里『律令国家と言語文化』汲古書院、令和2年。(「弓削皇子遊吉野歌の論─無常の雲と神仙の雲─」『古代研究』第29号、平成8年1月。)
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
山田1943. 山田孝雄『万葉集講義 巻第三』宝文館、昭和18年。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1880320)

※本稿は、2021年7月稿を2023年8月に整理改稿し、またルビ化したものである。

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