仁徳紀十一年の茨田堤の造成の件は、次のように記されている。
冬十月に、宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。又将に北の河の澇を防かむとして、茨田堤を築く。是の時に、両処の築かば乃ち壊れて塞ぎ難き有り。時に天皇、夢みたまはく、神有しまして誨へて曰したまはく、「武蔵人強頸・河内人茨田連衫子 衫子、此には莒呂母能古と云ふ。二人を以て河伯を祭らば、必ず塞かるること獲てむ」とのたまふ。則ち二人を覓めて得つ。因りて河神を祷る爰に強頸、泣ち悲びて、水に没りて死ぬ。乃ち其の堤成りぬ。唯し衫子のみは全匏両箇を取りて、塞き難き水に臨む。乃ち両箇の匏を取りて、水の中に投て、請ひて曰はく、「河神、崇ぎて、吾を以て幣とせり。是を以て、今吾、来れり。必ず我を得む欲はば、是の匏を沈めてな泛せそ。則ち吾、真の神と知りて親ら水の中に入らむ。若し匏を沈むること得ずは、自づからに偽の神と知らむ。何ぞ徒に吾が身を亡さむ」といふ。是に、飄風忽に起りて、匏を引きて水に没む。匏、浪の上に転ひつつ沈まず。則ち潝々に汎りつつ遠く流る。是を以て衫子、死なずと雖も其の堤亦成りぬ。是、衫子の幹に因りて、其の身亡びざらくのみ。故、時人、其の両処を号けて、強頸断間・衫子断間と曰ふ。(仁徳紀十一年十月)
直前の四月条に、田圃が少なく川の流れが滞って、少しでも雨が続くと海水が逆流して洪水になっているから治水事業を行うようにと詔している。放水路を開削し、堤防を築いて国土強靭化を図るようにせよというのである。それに続くのがこの話である。一種の人身供犠説話とみなされている。神に対して人間を捧げること、人柱を立てることによって、堤防を完成させることができると信じられており、そのストーリーなのであるという(注1)。けれども、人身御供によってうまくいったと主張したい説話であるとは一概に断定できない。天皇の夢に、河伯(河神)に人間を祭れば決壊した2カ所は塞ぐことができると告げられてそのようにしようとした。1人は泣きながら仰せに従い、その堤は完成した。もう1人は瓢箪2個を手に取って、ウケヒをして河神に対峙している。自分が欲しいのなら瓢箪2つを沈めてみろ、沈んだら真の神だから仰せのとおりにしよう、沈まなかったら偽りの神だ、と言い放っている。結果として瓢箪は沈まなかった。ウケヒの内容として、沈まなかったのだから、天皇の夢に出てきた河神は偽りの神であるとわかったとする。ただし、それは、天皇の夢のお告げがいかがわしいものであったことしか証明していない。
将来のことを占うのに、仁徳紀十一年十月条に、夢占とウケヒの2つが対立している。結果だけ捉えるなら、夢占は一勝一敗、ウケヒはそのとおりであったということになる。とはいえ、ウケヒのとおり河神を偽りの神であるとわかっても、偽りの神に従う必要がなくなったことで堤が完成することの保証にはならない。「……二人以祭二於河伯一、必獲レ塞」という文章は、論理学的には、二人を捧げれば必ず堤防は完成するということだけである。捧げなかった時、堤防がどうなるかについては一切触れられていない。だから、河内人茨田連衫子が人柱にならなくても堤防は完成した。言い換えると、夢占自体は全否定されたことにはなっていない(注2)。
これは奇妙なことである。いったい何を語りたい記事なのか。大陸伝来の新しい土木技術との関係も絡むと推量されているが、話の中身にその片鱗すら見られない。平板な思考では了解されない(注3)。
事態は「将レ防二北河之澇一、以築二茨田堤一」時のことである。2カ所、堤を築こうにも築けないところがあった。天皇の夢により、連れて来られた2人の名をとって、強頸断間・衫子断間と呼ばれるに至っている。強頸や衫子という人名は、それとわかる共通の意味が見出せる。ハイカラ(high collar)である。
左:しがらみ、右:しがらみの想定復元図(河原口坊中遺跡、神奈川県海老名市、弥生中期~後期、約2100~1750年前、「発掘された日本列島2016」展展示パネル、構造体の名を「しがらみ」、漁法の名を「えり」と呼ぶ。)
服装のうち、トップスの首回りの襟の立っていることを表している(注4)。上代にエリ(襟・衿)という言葉は文献上存しないようであるが、それをエリと呼ぶようになったのは、漁具のエリ(魞)との共通性からと思われる。水中に竹などで簀を立て回して、魚がその立て杭にしたがってあるところに集まるようにして置き、集まったところを手網などを使って一網打尽に捕獲する仕掛けである。魞は弥生時代には見られる漁法である。
便ち其の襟を取りて引き墮し、……(天武紀元年六月)
…… 勝鹿の 真間の手児名が 麻衣に 青衿着け 直さ麻を 裳には織り着て ……(万1807)
衿 呂窮反、去、領衣の上縁也。帬也。己呂毛乃久比乃毛止保之(新撰字鏡)
衿 釈名に云はく、衿〈音は領、古呂毛乃久比〉は頸なり、頸を擁く所以なり、襟〈音は金〉は禁なり、前に交へて風寒きを禁禦する所以なりといふ。(和名抄)
辞書類に、杭と頸とを同根とする解釈は行われていないが、ヒ・ビはともに甲類である。襟を立てたものと魞を立てたものとは、衣の頸を立てたものと杭を立てたものとして形態に共通性がある。無文字文化に言葉はすなわち音であったから、音の共通する言葉はたとえその出発点や視点は違っても、同じ概念を表すものと認識するべく志向していたと考えられる。堤を作るために杭を立てるべしとして、その名を負った名の人物を人柱にせよというのが天皇の夢のお告げであった。
作っているのは堤である。動詞ツツム(包・裹)には、土を盛って流れを堰き止めることと、何かにくるみ包んでおし隠し、外から見えないようにする意がある。河の水を堤で包んでしまうわけである。ツツミの自乗が起きている(注5)。
坡陂 同作、普何反、平、坎也。以レ土壅レ水也。道緩也。佐加、又牟(与?)久、豆々牟(新撰字鏡)
裹褁 正音、古禍反、上借、古臥反、去、苞也。纏也。豆々牟(新撰字鏡)
苞括〈苞、字在二草部一、炰為レ包、補殽反、果衣也。婦懐仼於己為レ子也。十月而生也。又為胞字在二囚部一。胞、補支反、腹肉(内?)也。親兄弟也。褁、又裹同、倭言二都々牟一。又、胞言二子栖一也〉(新訳華厳経音義私記)
燃ゆる火も 取りて褁みて 袋には 入ると言はずや 面知るを雲(万160)
乃ち草を以て児を裹みて、海辺に棄てて、……(神代紀第十段本文)
ツツムの同音に「障(恙)む」がある。妨げられる、差し支えるの意である。古典基礎語辞典の「つつ・む【包む・裹む】」の項に、「ツツシム(慎む)のツツと同根。」(796頁、この項、西郷喜久子)、「つつ・む【慎む】」の項に、「ツツム(包む)を心情表現に用いたもの。……人に見聞きされ取り沙汰されるのが不都合な自分の気持ちや行為があらわにならないようにする意。また、相手の思惑や周囲の人目・外聞をはばかって、行為をおしとどめる意。」(796頁、この項、依田瑞穂)とある。
石上 零るとも雨に 関まめや 妹に逢はむと 言ひてしものを(万664)
藪波の 里に宿借り 春雨に 隠り障むと 妹に告げつや(万4138)
上の2例は、雨が障害となり、蟄居して外出しないことを言っている。水による隔てをツツミと表すことは、河の堤の意と重なってきてとても巧みな表現といえる。
今、堤の造成に障みが生じている。話の主題がツツミなのだと知れる。「澇」を防ごうとしたのが事の発端であった。「澇む」とは水が入りひたること、浸水することを言う。
此の田は、天旱するに漑せ難く、水潦するに浸み易し。(安閑紀元年七月)
澇来田皇女(応神紀二年正月)
人名「澇来田皇女」は、記の「高目郎女」からコムクタと訓むべきで、コは甲類とされる。コム(コは甲類)は同音に「子産む」がある。仁徳紀に、茨田堤の鴈の卵の話が載る。
五十年春三月の壬辰の朔丙申に、河内の人、奏して言さく、「茨田堤に、鴈産めり」とまをす。即日に、使を遣はして視しむ。曰さく、「既に実なり」とまをす。天皇、是に、歌して武内宿禰に問ひて曰はく、
たまきはる 内の朝臣 汝こそは 世の遠人 汝こそは 国の長人 秋津嶋 倭の国に 鴈産むと 汝は聞かずや(紀62)
武内宿禰、答歌して曰さく、
やすみしし 我が大君 宜な宜な 我を問はすな 秋津嶋 倭の国に 鴈産むと 我は聞かず(紀63)(仁徳紀五十年三月)
茨田というところはぬかるんでいて、排水の便の悪いところであったらしい。鴈にとってコム(澇)地はコム(子産)のに都合が良かったという話に仕上がっている。そこを水利事業によって放水路を築こうとした。むろん、単に堤を高く作るだけでなく、まず濠を掘って深い溝(渠)を作り、排水の便を良くし、しかる後その両側に堤を築いたものと考えられる。最初に浚渫、つまり、川掘りをした。
カハホリはコウモリのことである。和名抄に、「蝙蝠〈天鼠矢附〉 本草に云はく、蝙蝠〈辺福の二音〉は一名に伏翼といふ〈加波保利〉。方言に云はく、蟙䘃〈織墨の二音〉といふ。蘇敬に天鼠矢〈伏翼虫の名なり〉と曰ふ。」とある。岩波古語辞典に、「川守りの意という」(324頁)とする。いわゆる語源的解釈からは不明、不詳とされよう。ただ、川にコウモリが飛び交う姿は日常的に目にする光景である。天皇の夢枕に現れた河伯(河神)はコウモリを想定していた可能性がある。コウモリは翼手目で飛膜が発達し、翼をバタバタばたつかせて飛ぶ。かぎ状の指を使って木や岩に逆さにぶら下がり、飛膜で体を包むようにして休んでいる。だから、河の堤を表す存在としてコウモリが捉えられる。その場合、川守りの意と考えられるが、止まるとき、飛膜で包みきれているのか微妙なところがある。川守りというなら川の水すべてを守らなければならないが、水が漏れることがありそうである。その時、コウモリは川漏りとなる。漏れるの古語は四段活用の、漏る、である。衫子のウケヒに、「真神」か「偽神」かの二者択一を迫っていたのは、川守りか川漏りかの違いを見極めようとする所為であった。それが証拠に、衫子を引っ張り出した人夫たちは、堤を作るために土を盛っていた人たちである。土木作業員は川盛りといえる。すべてはモリという言葉に収斂している。
オリイオオコウモリ(上野動物園展示)
すなわち、川は、包むことで守るのであるが、障むことになると漏るものである。
こま野の物語は、何ばかりをかしき事もなく、言葉も古めき、見所多からぬも、月に昔を思ひ出でて、虫ばみたる蝙蝠取り出でて、「もと見し駒に」と言ひ訪ねたるが、あはれなるなり。(枕草子・274段)
「昨夜のかはほりを落として。これは風ぬるくこそありけれ」とて、御扇置きたまひて、昨日うたた寝したまへりし御座のあたりを立ち止まりて見たまふに、……(源氏物語・若菜下)
扇は用ゐて風涼を取り、塵粉を去る所の者を謂ふ也。(令集解・職員令・主殿寮)(注6)
蝙蝠は扇を意味する。折り畳み式の扇には、板を綴じた檜扇と紙を張った蝙蝠扇があり、それぞれ冬扇、夏扇と呼ばれている。新訳華厳音義私記に、「扇 音仙、訓安布枝」、新撰字鏡に、「扇 阿不木」、和名抄に、「扇 四声字苑に云はく、扇〈式戦反、玉篇に𥰢に作る、竹部に在り。阿布岐〉は風を取る所以なりといふ。兼名苑に云はく、扇は一名に箑〈音は接、字は亦た䈉に作る〉といふ。」とある。蝙蝠扇は扇ぐもので、風を送って涼しくした。骨7本に紙を張ったところがコウモリの姿に似ており、夏に使い、冬にはしまわれた。後世の末広のことを指すとされる。この形容は非常に趣きがあり、センスが高い(注7)。紙は鳥子紙と呼ばれる黄色い紙が貼られていた。仁徳紀五十年三月条は、鳥の卵の話であった。そこから捉え返してみると、仁徳紀十一年条は、鳥子紙が衫子を仰いで幣帛としようと夢に現れたのだということになっている。したがって、衫子の発語は、原文に「河神崇之以レ吾為レ幣」とある。「崇」字は諸注釈に「祟る」と意改しているが、原字のままで誤りはない。「河神」を蝙蝠のことと見るから、アフグに「崇(仰)ぐ」と「扇ぐ」とを掛けて洒落としている。コウモリは逆さにぶら下がってとまるから、自分のことを仰ぎ見ているのだといい、蝙蝠扇で風を送るところから扇いでいて、話の展開に「飄風」へと進んでいる。ヤマトコトバにいっさい齟齬は生じていない。
動物のコウモリが逆さにぶら下がって体を包むさまは、扇が冬にしまわれるように、畳まれているところを思わせつつ、衣を身にまとっているように見える。コウモリの翼は皮でできている。カハゴロモ(皮衣・裘)である。川守りにせよ川漏りにせよ、カハ(川)にいてカハ(皮)に身を包んでいる。
忍壁皇子に献る歌一首 仙人の形を詠めり
とこしへに 夏冬行けや 裘 扇放たぬ 山に住む人(万1682)(注8)
「全匏両箇」とある。オフシは凡しの意とされる。まるのままのヒョウタンのことを表している。歴博2004.に、「弥生時代から古代へ時代が新しくなるにつれ、ヒョウタンは一気に多様化した。遺跡からの出土事例は多くなり、形や大きさの変化に富んだものになった。これは日本に持ち込まれるヒョウタンが多系統になったことと、ヒョウタンがどのような品種とも交雑するためであろう。平城京からは、多数のヒョウタンの果実が出土しており、首の長いフラスコ型のものから、球形や西洋ナシの形をしたものまで多彩である。」(50頁)、「ヒョウタンとして現代では最もよく知られているひさご形は、史料からも出土例からも中世に初めて記録され、日本列島におけるヒョウタンの歴史ではかなり新しい。くびれた独特の形状が容器としても装飾品としても親しまれ、くびれに紐をかけやすいことも手伝って急速に普及していった。」(52頁)とある。古代の「全匏」の形状は、球形から西洋ナシの形に近い偏りのあるボールのようなものをイメージすればよいのであろう(注9)。
オフシは同音に啞があり、ものが言えないこと、啞者のことを言う。新撰字鏡に、「喑瘖 同、於唅反、於禁二反、跳也。唶也。大呼也。於不志」、和名抄に、「瘖瘂 説文に云はく、瘖瘂〈音鵶の二音、於布之〉は言ふこと能はざるなりといふ。」とある。これらの意から語学的に帰納すれば、完形の丸っこいヒョウタンのことを指していると理解される。音が出ないヒサゴだから、オフシヒサゴと言ってわかりやすい。対して、音の出るものは、胴をもった太鼓ということになろう。太鼓類は、古く一括して鼓と言った(注10)。今、川に堤を設けようとして苦戦している。太鼓のような形で皮の張っていないものを持ち出して、「ツツミのないカハ」という言辞が真であるならば沈むはずで、偽であるなら泛ぶはずだと誓言している。この場合、ウケヒにときどきある「勝ちさび」型の誓約ではなく、自明の提題を示している。ツツミのないカハは堤のない川であり、鼓に皮がないということである。鼓に皮がないのは皮に包まれていないということであって、叩くことはできず音は出せない。オフシ(啞)ということになる。
左:ヒョウタン(山口県美東町長登銅山跡遺跡水場遺構復元模型、長登銅山文化交流館、「いちご畑よ永遠に」ブログ様https://ameblo.jp/yuutunarutouha/entry-12468625240.html)、右:有孔鍔付土器太鼓説(府中郷土の森博物館展示品)
「全匏」は完形のヒサゴであるが、植物の実のことをそのままいうのではなく、容器として用いられたもののうち、縦割りのスプーンに当たる柄杓でも、横割りの器でもなく、まるのままを用いて蔓部分を除いて中の種子を取り出した後、液体や唐辛子などを入れて栓を付けたボトルのことを指す。栓のことは、和名抄に、「栓 四声字苑に云はく、栓〈山員反、岐久岐〉は木釘なりといふ。」とあり、また、クヒとも呼ばれた。天皇の夢に現れた河神は、武蔵人強頸を人柱にしたように、「全匏」を見ればそこに付いている栓も人柱に欲しているはずであるという論理である。栓を取って護岸造成の基礎杭にしてしまうから、「全匏」といえども水が入って沈むであろうと言い放っている。河神が本物ならそうなり、蝙蝠扇の力を以てして烈風に流して水が入って没するに違いなかろうとする。「両箇」は前田本傍訓にフタツラとある。川に堤を築く場合、川の両側にそれぞれ築かなければならない。だから、このウケヒに、丸い匏は2つ必要とされるのである。ここで言っている鼓は、共鳴器の胴(筒)をもち、一面にのみ皮の張られたものと了解される。
川上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(万56)
「川上」は両岸ある。顔に左右両面あるのと同じである。それをツラツラという言葉に置き換えて面白がっている。
「是因二衫子之幹一、其身非レ亡耳」とあり、「幹」をとり上げている。奮励することや、勇ましい功績のことを言う。確かに衫子は、天皇の夢枕にあらわれた河伯と対峙するほどに勇ましいことをやってのけている。ただし、それによる結果は、自分の身を亡ぼさずに済んだというにすぎない。白川1995.に、「〔新撰字鏡〕に「証勇なり、伊佐牟」とあり、証はのち證とも通ずる字で、いまは證の新字体とされているものであるが、いずれにも「勇む」という訓はなく、またいずれにも「諫む」という訓がある。「勇なり」は誤訓とすべきであるが、この「いさむ」を同源とする意識があったのかも知れない。」(110頁)とある。名義抄のアクセントからは、勇む(功む)と禁む(諫む)は別語として扱われることが多い。同源であるかどうかはさておき、洒落は成立する。言葉は使うためにある(注11)。ここでも、衫子の勇敢さを述べていると同時に、衫子が天皇の夢に対して諫言、禁呵したことにも通じている。イサミのイサを、不知、否の意と捉え得るのである。この仮定が正しいと言えるのは、武蔵人強頸は、命に従うままに「泣ち悲びて水に没りて死ぬ。」とあることから証明される。泣ちるとは激しく泣くことであるが、いやだいやだと相手の言うこと、全体の状況にあらがって否定、抵抗する意味を含んでいる。イサの意の捉え返しによって、武蔵人強頸と河内人茨田連衫子の命運は180度違った。それは、同じくクビと呼び習わされているものであっても、人体の側の首と、衣服の側の衣の首とが対照せられるものであることに対応している。武蔵人と断られているのは、実際に今の東京都や神奈川県に当たる東国の人が動員されていたことを示すものとは判定できない。そうではなく、ムザシについて、「難波吉士身刺」(舒明前紀)のように記すことがあったから、地面に身を刺すように思われた。強頸という名が杭に相当して人柱をイメージさせたから、わざわざ武蔵人と設定されている。言葉が先にあって話が作られている(注12)。
河神は衫子を幣と指定したという話である。幣(ヒは甲類)という語は、神へ代償として捧げる品をいい、タマヒモノ(賜物)の上下の音を脱した形であるとする説もある。その当否は不明である。マヒ(ヒは甲類)という言葉には、幣と舞とがある。ここでも、「浪の上に転ひつつ沈まず。」と訓んでいる。
宿禰、則ち事有らむことを畏りて、馬一匹を以て、吾襲に授けて礼幣とす。(允恭紀五年七月)
…… 橘の 花を居散らし 終日に 鳴けど聞きよし 幣はせむ 遠くな行きそ 我が屋戸の 花橘に 住みわたれ鳥(万1755)
悉に御調を捧げて、且種々の楽器を張へて、難波より京に至るまでに、或いは哭き泣ち、或いは儛ひ歌ひ、遂に殯宮に参会ふ。(允恭紀四十二年正月)
天皇の夢に、衫子をマヒ(幣)にするように告げられたが、衫子は自らの代償の捧げものとして、栓の付いた「全匏両箇」を持ち出している。つまり、幣の幣である。真の神ならば栓は杭として使われて沈むはずだが、偽の神なら水上を転ひつつも沈まないといい、そのとおりマヒ(舞)続けた。だから「全匏両箇」のようなものでも幣の幣として通用した。何ともいい加減だから偽りの神であると知れ、偽りの神には偽りの幣で十分にかなったことになっている。衫子のウィットに富んだウケヒによって、彼は人柱にならずに済んだのであった。
以上が、仁徳紀十一年十月条の茨田堤築造話である。言葉をもって言葉を説明する辞書的役割を果たしている。史話(history)は話(story)でできている。そして、話は言葉でできている。すべてはヤマトコトバのアネクドート anecdote である。今日の歴史学や神話学の解釈の枠組を当てはめてみても、場面設定以外に迫ることはできない。よって、何が語られているのか要領が得られていないのであった。
(注)
(注1)人身御供と人柱とは、定期的な祭祀か臨時のものか、神の食べ物として捧げられるか否か、に相違があって、同じカテゴリーの下には含まれないとする考えが高木2018.にある。
(注2)上田1959.に、「……農耕生活の発展とともに変質する共同体結合の矛盾と対立が、常に異質的な信仰を導入し、かつ来臨する神の多様性を促進していく契機をなしたことである。こうした信仰変異は、たとえば、「仁徳天皇紀」十一年十月の条にみえる茨田連衫子が、河神の真偽をこころみて、犠牲より逃れ、また「皇極天皇紀」三年七月の条にみえる大生部多の常世神信仰の普及、さらに「常陸国風土記」にみえる夜刀神の祭祀などその基盤には発展度の差があっても、いずれも共同体の矛盾的対立の中で、そのワクをこえてゆく思想の動向を伝えるものであることに変りはない。」(178頁)とある。逸話の羅列のような紀の記事を、200年の時代を飛び越え、さらに民俗探訪の風土記の記述に併せて論じてわかった気になっても仕方がない。構造的理解ではなく、まずは1つ1つの記事についてよく読むことが求められている。言葉の感性が豊かであった無文字時代の上代人には、言語活動上の論理学的性格には見逃せないものがある。
(注3)吉井1976.に、「難波地方の開拓が帰化人の技術にまつところが多かったであろうと考えることは通説と言ってよいが、茨田郡および豊島郡の秦人は、おそらく、伴造氏族としての茨田連および豊島連に管掌せられていた帰化人技術者集団と考えてよく、難波の水を制する役割が彼らに課せられていたのであろう。茨田連の伴造氏族としての性格が新技術にかかわるものであったこと、それが、衫子の物語を生みだす要因でもあったことが考えられるのである。」(251頁)、山田1989.に、「もともとヒョウタンは沈まない。それを逆手にとったコロモノコの姿には、仁徳紀に出ている築堤、治水の技術をたくわえた河内王朝人の「合理主義」がうかがえる。帰化人の技術をいかした治水策による生産力の向上が、河内王朝の基礎である。そこで、コロモノコのヒョウタン譚は、仲哀記以前のヒョウタンと水神との結びつきがくずれる区切りであったと、みることができる。」(100頁)とある。いずれも解釈の可能性を指摘するだけで、突拍子もない説話を生み出した契機について問うていない。容器として処理したヒョウタンは、中に水を満杯に入れるとペットボトルのようには水没しないものの、一部を残して水面下に沈むものである。人が川を泳いで渡る際に浮子に使ったとするのは、栓をして中の空気が漏れないようにしたものである。
他方、神に対する生贄つながりから、景行記の弟橘媛の説話などと併せて論じることも行われている。しかし、一方は自らが生贄になる話、他方は生贄が強要されて、うち一人は対抗する話である。個別具体的な話が展開されており、言いたい事柄はそれぞれであろう。発想はとても豊かである。弟橘媛の説話が、ヒ(乙類)の話であることは、拙稿「記紀のオトタチバナ説話について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3ed85f9584a8dc8bdea873cc9eb67423・https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/5d38b742aac75d1c30eef9ed6102266b参照。
(注4)エリと呼ばれるものに、盤領と方領がある。ここで検討しているのは、胡服の影響からつくられた上着の袍や襖、狩衣、水干などの首周りに詰襟となっている盤領の方である。頸─杭、襟─魞の関係である。
(注5)土嚢の歴史について、筆者は不勉強で知らない。
(注6)職員令・主殿寮に「掌らむこと、供御の輿輦、蓋笠、繖扇、帷帳、湯沐のこと、……(掌。供御輿輦。蓋笠。繖扇。帷帳。湯沐。……)」とあって、「扇」は「繖」と並べられており、今日の扇子に当たるものであるかどうか確定できない。翳の類とする見解が、標注令義解校本(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562907/5~6)、新釈令義解(早稲田大学図書館古典籍総合データベースhttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wa03/wa03_06374/wa03_06374_0005/wa03_06374_0005_p0015.jpg)、訳註日本律令(332~333頁、この項、坂本太郎)に見られる。令集解に、「蓋笠。繖扇。〈謂。繖々蓋。問。繖々蓋者。其意何。若如二繖之蓋一歟。扇団扇也。釈云。上思爛反。野王案。繖即蓋也。見二唐衣服令一。或云。繖似レ扇而大者。非也。音蘇旦反。扇団扇也。扇謂所下用取二風涼一去中塵粉上者也。音戸戦反。穴云。繖謂手繖々蓋也。唐儀制令云。皇太子繖者是。跡云。繖者蓋。言二手繖之蓋一耳。扇者阿布岐。古記云。陸詞曰。繖蓋也。音蘇旦反。扇隠羽也。伴云。家語。孔子将レ雨无レ蓋是也。今時繖也。〉」とある部分である。
(注7)通説に、扇は本邦発祥のもので、檜扇にはじまり、紙を張った扇に展開したとされている。現在遺物が残る風雅なモノから捉えられている。しかし、人類がいかに道具を作り出していったかに思いを致せば、道端にコウモリの死骸を見つけ、羽部分をもぎ取って焚きつけの風起こしに用いたことに始まるであろうことは直感させられる。蝙蝠扇という名を、紙張扇の転であるとする説は、巧みに洒落を言って笑わせたものであろう。
(注8)仙人の絵を見て詠んだ歌ではない点については、拙稿「万1682番歌の「仙人」=コウモリ説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/948dac5fbf74363dc8a280a951c67fb9参照。
(注9)民俗学に、ヒョウタンを神霊の宿るところとする考えがある。仁徳紀のこの説話、ならびに、六十七年条に、匏は神霊の容器とする考えの発露と位置づけられている。いくつかの説話にそのような伝承がみられるからといって、すべからくヒョウタンは神霊の宿るところであると結論づけるのには無理がある。もしそのとおりなら、さまざまな言い伝えにもっと普遍的にたくさん見られてしかるべきであろう。ヒョウタンに神霊が入っていると本気で信じられ続けていたら、唐辛子を入れて蕎麦に振りかける際に呪文でも唱えることになっていたであろう。
(注10)本邦では、膜鳴楽器のことをみなツヅミと呼んでいたと考えられる。和名抄に、「……枹……兼名苑に云はく、槌は一名に枹〈音は浮、字は亦た桴に作る。俗に豆々美乃波知と云ふ。〉は大鼓を撃つ所以なりといふ。」とあり、バチで叩くものはツヅミであろう。今日知られる雅楽の鼓は、中央にくびれがあって、両サイドに胴が膨らんだもので、両端に皮を間接的に張ったものである。文献上は、推古紀二十年に百済の味摩之が伎楽を伝えた際に伝えられた呉鼓が最初である。神功紀十三年の「此の御酒を 醸みけむ人は その鼓 臼に立てて ……」(紀33歌謡)にある「菟豆彌」は、一面のみを膜とする太鼓状のものであると推測される。いま推定している仁徳朝のものも、今日なら太鼓と呼ばれるものであろう。なお、ヒョウタンを使った楽器としては体鳴楽器のマラカスが知られるが、本邦で古代に用いられたことは知られない。
埴輪 太鼓を叩く男子(群馬県伊勢崎市境上武士出土、古墳時代、6世紀、東博展示品、この例は両面に皮を張ったものを造形している。)
(注11)野間2018.は、「言語学は言語場のリアリティから遠く離れ、〈心的実在たることばが意味を持っていて、意味を伝える〉という形で、謂わば二〇〇〇年に亘る神話を記号論的に完成させ、言語形而上学の神殿に遊ぶことになる。さらに、かの神殿からは人文思想の神々が羽ばたいてゆくのである。」(119頁)と辛辣に批判する。人間が言葉に意味の同一性を求めたがる時、自己循環的な定義に陥って洒落を繰り返したことは、上代に音声言語としてのみあったヤマトコトバが、“意味”の担保要件とするのにかなった巧みな手法であったといえる。
(注12)現実に「武蔵人強頸」という人がいたことを否定するものではない。話(咄・噺・譚)が書いてあるのであって、それ以上のことはわからない。無文字時代に記憶されるのは、話(咄・噺・譚)である。話(咄・噺・譚)だけ残して内容はどうでもいいのかと迫る向きもあろうが、落語や講談、歌舞伎などを鑑賞して、“歴史”的重要性が乏しいと却下するのは愚かである。“文献”は、取るに足らない日常の当たり前のすべてを伝えてはくれない。
(引用文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
上田1959. 上田正昭『日本古代国家成立史の研究』青木書店、1959年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
高木2018. 高木敏雄『人身御供論』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2018年(初出1925年)。
白川1995. 白川静『字訓 改訂版』平凡社、1995年。
野間2018. 野間秀樹『言語存在論』東京大学出版会、2018年。
訳注日本律令 律令研究会編『訳註日本律令十 令義解訳註篇二』東京堂出版、平成元年。
山田1989. 山田宗睦『花 古事記─植物の日本誌─』八坂書房、1989年。
吉井1976. 吉井巌『天皇の系譜と神話 二』塙書房、昭和51年。
歴博2004. 国立歴史民俗博物館編『海をわたった華花─ヒョウタンからアサガオまで─』同発行、2004年。
※本稿は、2019年2月稿を2021年9月に訂正し、2023年5月にルビ形式にしたものである。
冬十月に、宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。又将に北の河の澇を防かむとして、茨田堤を築く。是の時に、両処の築かば乃ち壊れて塞ぎ難き有り。時に天皇、夢みたまはく、神有しまして誨へて曰したまはく、「武蔵人強頸・河内人茨田連衫子 衫子、此には莒呂母能古と云ふ。二人を以て河伯を祭らば、必ず塞かるること獲てむ」とのたまふ。則ち二人を覓めて得つ。因りて河神を祷る爰に強頸、泣ち悲びて、水に没りて死ぬ。乃ち其の堤成りぬ。唯し衫子のみは全匏両箇を取りて、塞き難き水に臨む。乃ち両箇の匏を取りて、水の中に投て、請ひて曰はく、「河神、崇ぎて、吾を以て幣とせり。是を以て、今吾、来れり。必ず我を得む欲はば、是の匏を沈めてな泛せそ。則ち吾、真の神と知りて親ら水の中に入らむ。若し匏を沈むること得ずは、自づからに偽の神と知らむ。何ぞ徒に吾が身を亡さむ」といふ。是に、飄風忽に起りて、匏を引きて水に没む。匏、浪の上に転ひつつ沈まず。則ち潝々に汎りつつ遠く流る。是を以て衫子、死なずと雖も其の堤亦成りぬ。是、衫子の幹に因りて、其の身亡びざらくのみ。故、時人、其の両処を号けて、強頸断間・衫子断間と曰ふ。(仁徳紀十一年十月)
直前の四月条に、田圃が少なく川の流れが滞って、少しでも雨が続くと海水が逆流して洪水になっているから治水事業を行うようにと詔している。放水路を開削し、堤防を築いて国土強靭化を図るようにせよというのである。それに続くのがこの話である。一種の人身供犠説話とみなされている。神に対して人間を捧げること、人柱を立てることによって、堤防を完成させることができると信じられており、そのストーリーなのであるという(注1)。けれども、人身御供によってうまくいったと主張したい説話であるとは一概に断定できない。天皇の夢に、河伯(河神)に人間を祭れば決壊した2カ所は塞ぐことができると告げられてそのようにしようとした。1人は泣きながら仰せに従い、その堤は完成した。もう1人は瓢箪2個を手に取って、ウケヒをして河神に対峙している。自分が欲しいのなら瓢箪2つを沈めてみろ、沈んだら真の神だから仰せのとおりにしよう、沈まなかったら偽りの神だ、と言い放っている。結果として瓢箪は沈まなかった。ウケヒの内容として、沈まなかったのだから、天皇の夢に出てきた河神は偽りの神であるとわかったとする。ただし、それは、天皇の夢のお告げがいかがわしいものであったことしか証明していない。
将来のことを占うのに、仁徳紀十一年十月条に、夢占とウケヒの2つが対立している。結果だけ捉えるなら、夢占は一勝一敗、ウケヒはそのとおりであったということになる。とはいえ、ウケヒのとおり河神を偽りの神であるとわかっても、偽りの神に従う必要がなくなったことで堤が完成することの保証にはならない。「……二人以祭二於河伯一、必獲レ塞」という文章は、論理学的には、二人を捧げれば必ず堤防は完成するということだけである。捧げなかった時、堤防がどうなるかについては一切触れられていない。だから、河内人茨田連衫子が人柱にならなくても堤防は完成した。言い換えると、夢占自体は全否定されたことにはなっていない(注2)。
これは奇妙なことである。いったい何を語りたい記事なのか。大陸伝来の新しい土木技術との関係も絡むと推量されているが、話の中身にその片鱗すら見られない。平板な思考では了解されない(注3)。
事態は「将レ防二北河之澇一、以築二茨田堤一」時のことである。2カ所、堤を築こうにも築けないところがあった。天皇の夢により、連れて来られた2人の名をとって、強頸断間・衫子断間と呼ばれるに至っている。強頸や衫子という人名は、それとわかる共通の意味が見出せる。ハイカラ(high collar)である。
左:しがらみ、右:しがらみの想定復元図(河原口坊中遺跡、神奈川県海老名市、弥生中期~後期、約2100~1750年前、「発掘された日本列島2016」展展示パネル、構造体の名を「しがらみ」、漁法の名を「えり」と呼ぶ。)
服装のうち、トップスの首回りの襟の立っていることを表している(注4)。上代にエリ(襟・衿)という言葉は文献上存しないようであるが、それをエリと呼ぶようになったのは、漁具のエリ(魞)との共通性からと思われる。水中に竹などで簀を立て回して、魚がその立て杭にしたがってあるところに集まるようにして置き、集まったところを手網などを使って一網打尽に捕獲する仕掛けである。魞は弥生時代には見られる漁法である。
便ち其の襟を取りて引き墮し、……(天武紀元年六月)
…… 勝鹿の 真間の手児名が 麻衣に 青衿着け 直さ麻を 裳には織り着て ……(万1807)
衿 呂窮反、去、領衣の上縁也。帬也。己呂毛乃久比乃毛止保之(新撰字鏡)
衿 釈名に云はく、衿〈音は領、古呂毛乃久比〉は頸なり、頸を擁く所以なり、襟〈音は金〉は禁なり、前に交へて風寒きを禁禦する所以なりといふ。(和名抄)
辞書類に、杭と頸とを同根とする解釈は行われていないが、ヒ・ビはともに甲類である。襟を立てたものと魞を立てたものとは、衣の頸を立てたものと杭を立てたものとして形態に共通性がある。無文字文化に言葉はすなわち音であったから、音の共通する言葉はたとえその出発点や視点は違っても、同じ概念を表すものと認識するべく志向していたと考えられる。堤を作るために杭を立てるべしとして、その名を負った名の人物を人柱にせよというのが天皇の夢のお告げであった。
作っているのは堤である。動詞ツツム(包・裹)には、土を盛って流れを堰き止めることと、何かにくるみ包んでおし隠し、外から見えないようにする意がある。河の水を堤で包んでしまうわけである。ツツミの自乗が起きている(注5)。
坡陂 同作、普何反、平、坎也。以レ土壅レ水也。道緩也。佐加、又牟(与?)久、豆々牟(新撰字鏡)
裹褁 正音、古禍反、上借、古臥反、去、苞也。纏也。豆々牟(新撰字鏡)
苞括〈苞、字在二草部一、炰為レ包、補殽反、果衣也。婦懐仼於己為レ子也。十月而生也。又為胞字在二囚部一。胞、補支反、腹肉(内?)也。親兄弟也。褁、又裹同、倭言二都々牟一。又、胞言二子栖一也〉(新訳華厳経音義私記)
燃ゆる火も 取りて褁みて 袋には 入ると言はずや 面知るを雲(万160)
乃ち草を以て児を裹みて、海辺に棄てて、……(神代紀第十段本文)
ツツムの同音に「障(恙)む」がある。妨げられる、差し支えるの意である。古典基礎語辞典の「つつ・む【包む・裹む】」の項に、「ツツシム(慎む)のツツと同根。」(796頁、この項、西郷喜久子)、「つつ・む【慎む】」の項に、「ツツム(包む)を心情表現に用いたもの。……人に見聞きされ取り沙汰されるのが不都合な自分の気持ちや行為があらわにならないようにする意。また、相手の思惑や周囲の人目・外聞をはばかって、行為をおしとどめる意。」(796頁、この項、依田瑞穂)とある。
石上 零るとも雨に 関まめや 妹に逢はむと 言ひてしものを(万664)
藪波の 里に宿借り 春雨に 隠り障むと 妹に告げつや(万4138)
上の2例は、雨が障害となり、蟄居して外出しないことを言っている。水による隔てをツツミと表すことは、河の堤の意と重なってきてとても巧みな表現といえる。
今、堤の造成に障みが生じている。話の主題がツツミなのだと知れる。「澇」を防ごうとしたのが事の発端であった。「澇む」とは水が入りひたること、浸水することを言う。
此の田は、天旱するに漑せ難く、水潦するに浸み易し。(安閑紀元年七月)
澇来田皇女(応神紀二年正月)
人名「澇来田皇女」は、記の「高目郎女」からコムクタと訓むべきで、コは甲類とされる。コム(コは甲類)は同音に「子産む」がある。仁徳紀に、茨田堤の鴈の卵の話が載る。
五十年春三月の壬辰の朔丙申に、河内の人、奏して言さく、「茨田堤に、鴈産めり」とまをす。即日に、使を遣はして視しむ。曰さく、「既に実なり」とまをす。天皇、是に、歌して武内宿禰に問ひて曰はく、
たまきはる 内の朝臣 汝こそは 世の遠人 汝こそは 国の長人 秋津嶋 倭の国に 鴈産むと 汝は聞かずや(紀62)
武内宿禰、答歌して曰さく、
やすみしし 我が大君 宜な宜な 我を問はすな 秋津嶋 倭の国に 鴈産むと 我は聞かず(紀63)(仁徳紀五十年三月)
茨田というところはぬかるんでいて、排水の便の悪いところであったらしい。鴈にとってコム(澇)地はコム(子産)のに都合が良かったという話に仕上がっている。そこを水利事業によって放水路を築こうとした。むろん、単に堤を高く作るだけでなく、まず濠を掘って深い溝(渠)を作り、排水の便を良くし、しかる後その両側に堤を築いたものと考えられる。最初に浚渫、つまり、川掘りをした。
カハホリはコウモリのことである。和名抄に、「蝙蝠〈天鼠矢附〉 本草に云はく、蝙蝠〈辺福の二音〉は一名に伏翼といふ〈加波保利〉。方言に云はく、蟙䘃〈織墨の二音〉といふ。蘇敬に天鼠矢〈伏翼虫の名なり〉と曰ふ。」とある。岩波古語辞典に、「川守りの意という」(324頁)とする。いわゆる語源的解釈からは不明、不詳とされよう。ただ、川にコウモリが飛び交う姿は日常的に目にする光景である。天皇の夢枕に現れた河伯(河神)はコウモリを想定していた可能性がある。コウモリは翼手目で飛膜が発達し、翼をバタバタばたつかせて飛ぶ。かぎ状の指を使って木や岩に逆さにぶら下がり、飛膜で体を包むようにして休んでいる。だから、河の堤を表す存在としてコウモリが捉えられる。その場合、川守りの意と考えられるが、止まるとき、飛膜で包みきれているのか微妙なところがある。川守りというなら川の水すべてを守らなければならないが、水が漏れることがありそうである。その時、コウモリは川漏りとなる。漏れるの古語は四段活用の、漏る、である。衫子のウケヒに、「真神」か「偽神」かの二者択一を迫っていたのは、川守りか川漏りかの違いを見極めようとする所為であった。それが証拠に、衫子を引っ張り出した人夫たちは、堤を作るために土を盛っていた人たちである。土木作業員は川盛りといえる。すべてはモリという言葉に収斂している。
オリイオオコウモリ(上野動物園展示)
すなわち、川は、包むことで守るのであるが、障むことになると漏るものである。
こま野の物語は、何ばかりをかしき事もなく、言葉も古めき、見所多からぬも、月に昔を思ひ出でて、虫ばみたる蝙蝠取り出でて、「もと見し駒に」と言ひ訪ねたるが、あはれなるなり。(枕草子・274段)
「昨夜のかはほりを落として。これは風ぬるくこそありけれ」とて、御扇置きたまひて、昨日うたた寝したまへりし御座のあたりを立ち止まりて見たまふに、……(源氏物語・若菜下)
扇は用ゐて風涼を取り、塵粉を去る所の者を謂ふ也。(令集解・職員令・主殿寮)(注6)
蝙蝠は扇を意味する。折り畳み式の扇には、板を綴じた檜扇と紙を張った蝙蝠扇があり、それぞれ冬扇、夏扇と呼ばれている。新訳華厳音義私記に、「扇 音仙、訓安布枝」、新撰字鏡に、「扇 阿不木」、和名抄に、「扇 四声字苑に云はく、扇〈式戦反、玉篇に𥰢に作る、竹部に在り。阿布岐〉は風を取る所以なりといふ。兼名苑に云はく、扇は一名に箑〈音は接、字は亦た䈉に作る〉といふ。」とある。蝙蝠扇は扇ぐもので、風を送って涼しくした。骨7本に紙を張ったところがコウモリの姿に似ており、夏に使い、冬にはしまわれた。後世の末広のことを指すとされる。この形容は非常に趣きがあり、センスが高い(注7)。紙は鳥子紙と呼ばれる黄色い紙が貼られていた。仁徳紀五十年三月条は、鳥の卵の話であった。そこから捉え返してみると、仁徳紀十一年条は、鳥子紙が衫子を仰いで幣帛としようと夢に現れたのだということになっている。したがって、衫子の発語は、原文に「河神崇之以レ吾為レ幣」とある。「崇」字は諸注釈に「祟る」と意改しているが、原字のままで誤りはない。「河神」を蝙蝠のことと見るから、アフグに「崇(仰)ぐ」と「扇ぐ」とを掛けて洒落としている。コウモリは逆さにぶら下がってとまるから、自分のことを仰ぎ見ているのだといい、蝙蝠扇で風を送るところから扇いでいて、話の展開に「飄風」へと進んでいる。ヤマトコトバにいっさい齟齬は生じていない。
動物のコウモリが逆さにぶら下がって体を包むさまは、扇が冬にしまわれるように、畳まれているところを思わせつつ、衣を身にまとっているように見える。コウモリの翼は皮でできている。カハゴロモ(皮衣・裘)である。川守りにせよ川漏りにせよ、カハ(川)にいてカハ(皮)に身を包んでいる。
忍壁皇子に献る歌一首 仙人の形を詠めり
とこしへに 夏冬行けや 裘 扇放たぬ 山に住む人(万1682)(注8)
「全匏両箇」とある。オフシは凡しの意とされる。まるのままのヒョウタンのことを表している。歴博2004.に、「弥生時代から古代へ時代が新しくなるにつれ、ヒョウタンは一気に多様化した。遺跡からの出土事例は多くなり、形や大きさの変化に富んだものになった。これは日本に持ち込まれるヒョウタンが多系統になったことと、ヒョウタンがどのような品種とも交雑するためであろう。平城京からは、多数のヒョウタンの果実が出土しており、首の長いフラスコ型のものから、球形や西洋ナシの形をしたものまで多彩である。」(50頁)、「ヒョウタンとして現代では最もよく知られているひさご形は、史料からも出土例からも中世に初めて記録され、日本列島におけるヒョウタンの歴史ではかなり新しい。くびれた独特の形状が容器としても装飾品としても親しまれ、くびれに紐をかけやすいことも手伝って急速に普及していった。」(52頁)とある。古代の「全匏」の形状は、球形から西洋ナシの形に近い偏りのあるボールのようなものをイメージすればよいのであろう(注9)。
オフシは同音に啞があり、ものが言えないこと、啞者のことを言う。新撰字鏡に、「喑瘖 同、於唅反、於禁二反、跳也。唶也。大呼也。於不志」、和名抄に、「瘖瘂 説文に云はく、瘖瘂〈音鵶の二音、於布之〉は言ふこと能はざるなりといふ。」とある。これらの意から語学的に帰納すれば、完形の丸っこいヒョウタンのことを指していると理解される。音が出ないヒサゴだから、オフシヒサゴと言ってわかりやすい。対して、音の出るものは、胴をもった太鼓ということになろう。太鼓類は、古く一括して鼓と言った(注10)。今、川に堤を設けようとして苦戦している。太鼓のような形で皮の張っていないものを持ち出して、「ツツミのないカハ」という言辞が真であるならば沈むはずで、偽であるなら泛ぶはずだと誓言している。この場合、ウケヒにときどきある「勝ちさび」型の誓約ではなく、自明の提題を示している。ツツミのないカハは堤のない川であり、鼓に皮がないということである。鼓に皮がないのは皮に包まれていないということであって、叩くことはできず音は出せない。オフシ(啞)ということになる。
左:ヒョウタン(山口県美東町長登銅山跡遺跡水場遺構復元模型、長登銅山文化交流館、「いちご畑よ永遠に」ブログ様https://ameblo.jp/yuutunarutouha/entry-12468625240.html)、右:有孔鍔付土器太鼓説(府中郷土の森博物館展示品)
「全匏」は完形のヒサゴであるが、植物の実のことをそのままいうのではなく、容器として用いられたもののうち、縦割りのスプーンに当たる柄杓でも、横割りの器でもなく、まるのままを用いて蔓部分を除いて中の種子を取り出した後、液体や唐辛子などを入れて栓を付けたボトルのことを指す。栓のことは、和名抄に、「栓 四声字苑に云はく、栓〈山員反、岐久岐〉は木釘なりといふ。」とあり、また、クヒとも呼ばれた。天皇の夢に現れた河神は、武蔵人強頸を人柱にしたように、「全匏」を見ればそこに付いている栓も人柱に欲しているはずであるという論理である。栓を取って護岸造成の基礎杭にしてしまうから、「全匏」といえども水が入って沈むであろうと言い放っている。河神が本物ならそうなり、蝙蝠扇の力を以てして烈風に流して水が入って没するに違いなかろうとする。「両箇」は前田本傍訓にフタツラとある。川に堤を築く場合、川の両側にそれぞれ築かなければならない。だから、このウケヒに、丸い匏は2つ必要とされるのである。ここで言っている鼓は、共鳴器の胴(筒)をもち、一面にのみ皮の張られたものと了解される。
川上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(万56)
「川上」は両岸ある。顔に左右両面あるのと同じである。それをツラツラという言葉に置き換えて面白がっている。
「是因二衫子之幹一、其身非レ亡耳」とあり、「幹」をとり上げている。奮励することや、勇ましい功績のことを言う。確かに衫子は、天皇の夢枕にあらわれた河伯と対峙するほどに勇ましいことをやってのけている。ただし、それによる結果は、自分の身を亡ぼさずに済んだというにすぎない。白川1995.に、「〔新撰字鏡〕に「証勇なり、伊佐牟」とあり、証はのち證とも通ずる字で、いまは證の新字体とされているものであるが、いずれにも「勇む」という訓はなく、またいずれにも「諫む」という訓がある。「勇なり」は誤訓とすべきであるが、この「いさむ」を同源とする意識があったのかも知れない。」(110頁)とある。名義抄のアクセントからは、勇む(功む)と禁む(諫む)は別語として扱われることが多い。同源であるかどうかはさておき、洒落は成立する。言葉は使うためにある(注11)。ここでも、衫子の勇敢さを述べていると同時に、衫子が天皇の夢に対して諫言、禁呵したことにも通じている。イサミのイサを、不知、否の意と捉え得るのである。この仮定が正しいと言えるのは、武蔵人強頸は、命に従うままに「泣ち悲びて水に没りて死ぬ。」とあることから証明される。泣ちるとは激しく泣くことであるが、いやだいやだと相手の言うこと、全体の状況にあらがって否定、抵抗する意味を含んでいる。イサの意の捉え返しによって、武蔵人強頸と河内人茨田連衫子の命運は180度違った。それは、同じくクビと呼び習わされているものであっても、人体の側の首と、衣服の側の衣の首とが対照せられるものであることに対応している。武蔵人と断られているのは、実際に今の東京都や神奈川県に当たる東国の人が動員されていたことを示すものとは判定できない。そうではなく、ムザシについて、「難波吉士身刺」(舒明前紀)のように記すことがあったから、地面に身を刺すように思われた。強頸という名が杭に相当して人柱をイメージさせたから、わざわざ武蔵人と設定されている。言葉が先にあって話が作られている(注12)。
河神は衫子を幣と指定したという話である。幣(ヒは甲類)という語は、神へ代償として捧げる品をいい、タマヒモノ(賜物)の上下の音を脱した形であるとする説もある。その当否は不明である。マヒ(ヒは甲類)という言葉には、幣と舞とがある。ここでも、「浪の上に転ひつつ沈まず。」と訓んでいる。
宿禰、則ち事有らむことを畏りて、馬一匹を以て、吾襲に授けて礼幣とす。(允恭紀五年七月)
…… 橘の 花を居散らし 終日に 鳴けど聞きよし 幣はせむ 遠くな行きそ 我が屋戸の 花橘に 住みわたれ鳥(万1755)
悉に御調を捧げて、且種々の楽器を張へて、難波より京に至るまでに、或いは哭き泣ち、或いは儛ひ歌ひ、遂に殯宮に参会ふ。(允恭紀四十二年正月)
天皇の夢に、衫子をマヒ(幣)にするように告げられたが、衫子は自らの代償の捧げものとして、栓の付いた「全匏両箇」を持ち出している。つまり、幣の幣である。真の神ならば栓は杭として使われて沈むはずだが、偽の神なら水上を転ひつつも沈まないといい、そのとおりマヒ(舞)続けた。だから「全匏両箇」のようなものでも幣の幣として通用した。何ともいい加減だから偽りの神であると知れ、偽りの神には偽りの幣で十分にかなったことになっている。衫子のウィットに富んだウケヒによって、彼は人柱にならずに済んだのであった。
以上が、仁徳紀十一年十月条の茨田堤築造話である。言葉をもって言葉を説明する辞書的役割を果たしている。史話(history)は話(story)でできている。そして、話は言葉でできている。すべてはヤマトコトバのアネクドート anecdote である。今日の歴史学や神話学の解釈の枠組を当てはめてみても、場面設定以外に迫ることはできない。よって、何が語られているのか要領が得られていないのであった。
(注)
(注1)人身御供と人柱とは、定期的な祭祀か臨時のものか、神の食べ物として捧げられるか否か、に相違があって、同じカテゴリーの下には含まれないとする考えが高木2018.にある。
(注2)上田1959.に、「……農耕生活の発展とともに変質する共同体結合の矛盾と対立が、常に異質的な信仰を導入し、かつ来臨する神の多様性を促進していく契機をなしたことである。こうした信仰変異は、たとえば、「仁徳天皇紀」十一年十月の条にみえる茨田連衫子が、河神の真偽をこころみて、犠牲より逃れ、また「皇極天皇紀」三年七月の条にみえる大生部多の常世神信仰の普及、さらに「常陸国風土記」にみえる夜刀神の祭祀などその基盤には発展度の差があっても、いずれも共同体の矛盾的対立の中で、そのワクをこえてゆく思想の動向を伝えるものであることに変りはない。」(178頁)とある。逸話の羅列のような紀の記事を、200年の時代を飛び越え、さらに民俗探訪の風土記の記述に併せて論じてわかった気になっても仕方がない。構造的理解ではなく、まずは1つ1つの記事についてよく読むことが求められている。言葉の感性が豊かであった無文字時代の上代人には、言語活動上の論理学的性格には見逃せないものがある。
(注3)吉井1976.に、「難波地方の開拓が帰化人の技術にまつところが多かったであろうと考えることは通説と言ってよいが、茨田郡および豊島郡の秦人は、おそらく、伴造氏族としての茨田連および豊島連に管掌せられていた帰化人技術者集団と考えてよく、難波の水を制する役割が彼らに課せられていたのであろう。茨田連の伴造氏族としての性格が新技術にかかわるものであったこと、それが、衫子の物語を生みだす要因でもあったことが考えられるのである。」(251頁)、山田1989.に、「もともとヒョウタンは沈まない。それを逆手にとったコロモノコの姿には、仁徳紀に出ている築堤、治水の技術をたくわえた河内王朝人の「合理主義」がうかがえる。帰化人の技術をいかした治水策による生産力の向上が、河内王朝の基礎である。そこで、コロモノコのヒョウタン譚は、仲哀記以前のヒョウタンと水神との結びつきがくずれる区切りであったと、みることができる。」(100頁)とある。いずれも解釈の可能性を指摘するだけで、突拍子もない説話を生み出した契機について問うていない。容器として処理したヒョウタンは、中に水を満杯に入れるとペットボトルのようには水没しないものの、一部を残して水面下に沈むものである。人が川を泳いで渡る際に浮子に使ったとするのは、栓をして中の空気が漏れないようにしたものである。
他方、神に対する生贄つながりから、景行記の弟橘媛の説話などと併せて論じることも行われている。しかし、一方は自らが生贄になる話、他方は生贄が強要されて、うち一人は対抗する話である。個別具体的な話が展開されており、言いたい事柄はそれぞれであろう。発想はとても豊かである。弟橘媛の説話が、ヒ(乙類)の話であることは、拙稿「記紀のオトタチバナ説話について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3ed85f9584a8dc8bdea873cc9eb67423・https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/5d38b742aac75d1c30eef9ed6102266b参照。
(注4)エリと呼ばれるものに、盤領と方領がある。ここで検討しているのは、胡服の影響からつくられた上着の袍や襖、狩衣、水干などの首周りに詰襟となっている盤領の方である。頸─杭、襟─魞の関係である。
(注5)土嚢の歴史について、筆者は不勉強で知らない。
(注6)職員令・主殿寮に「掌らむこと、供御の輿輦、蓋笠、繖扇、帷帳、湯沐のこと、……(掌。供御輿輦。蓋笠。繖扇。帷帳。湯沐。……)」とあって、「扇」は「繖」と並べられており、今日の扇子に当たるものであるかどうか確定できない。翳の類とする見解が、標注令義解校本(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562907/5~6)、新釈令義解(早稲田大学図書館古典籍総合データベースhttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wa03/wa03_06374/wa03_06374_0005/wa03_06374_0005_p0015.jpg)、訳註日本律令(332~333頁、この項、坂本太郎)に見られる。令集解に、「蓋笠。繖扇。〈謂。繖々蓋。問。繖々蓋者。其意何。若如二繖之蓋一歟。扇団扇也。釈云。上思爛反。野王案。繖即蓋也。見二唐衣服令一。或云。繖似レ扇而大者。非也。音蘇旦反。扇団扇也。扇謂所下用取二風涼一去中塵粉上者也。音戸戦反。穴云。繖謂手繖々蓋也。唐儀制令云。皇太子繖者是。跡云。繖者蓋。言二手繖之蓋一耳。扇者阿布岐。古記云。陸詞曰。繖蓋也。音蘇旦反。扇隠羽也。伴云。家語。孔子将レ雨无レ蓋是也。今時繖也。〉」とある部分である。
(注7)通説に、扇は本邦発祥のもので、檜扇にはじまり、紙を張った扇に展開したとされている。現在遺物が残る風雅なモノから捉えられている。しかし、人類がいかに道具を作り出していったかに思いを致せば、道端にコウモリの死骸を見つけ、羽部分をもぎ取って焚きつけの風起こしに用いたことに始まるであろうことは直感させられる。蝙蝠扇という名を、紙張扇の転であるとする説は、巧みに洒落を言って笑わせたものであろう。
(注8)仙人の絵を見て詠んだ歌ではない点については、拙稿「万1682番歌の「仙人」=コウモリ説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/948dac5fbf74363dc8a280a951c67fb9参照。
(注9)民俗学に、ヒョウタンを神霊の宿るところとする考えがある。仁徳紀のこの説話、ならびに、六十七年条に、匏は神霊の容器とする考えの発露と位置づけられている。いくつかの説話にそのような伝承がみられるからといって、すべからくヒョウタンは神霊の宿るところであると結論づけるのには無理がある。もしそのとおりなら、さまざまな言い伝えにもっと普遍的にたくさん見られてしかるべきであろう。ヒョウタンに神霊が入っていると本気で信じられ続けていたら、唐辛子を入れて蕎麦に振りかける際に呪文でも唱えることになっていたであろう。
(注10)本邦では、膜鳴楽器のことをみなツヅミと呼んでいたと考えられる。和名抄に、「……枹……兼名苑に云はく、槌は一名に枹〈音は浮、字は亦た桴に作る。俗に豆々美乃波知と云ふ。〉は大鼓を撃つ所以なりといふ。」とあり、バチで叩くものはツヅミであろう。今日知られる雅楽の鼓は、中央にくびれがあって、両サイドに胴が膨らんだもので、両端に皮を間接的に張ったものである。文献上は、推古紀二十年に百済の味摩之が伎楽を伝えた際に伝えられた呉鼓が最初である。神功紀十三年の「此の御酒を 醸みけむ人は その鼓 臼に立てて ……」(紀33歌謡)にある「菟豆彌」は、一面のみを膜とする太鼓状のものであると推測される。いま推定している仁徳朝のものも、今日なら太鼓と呼ばれるものであろう。なお、ヒョウタンを使った楽器としては体鳴楽器のマラカスが知られるが、本邦で古代に用いられたことは知られない。
埴輪 太鼓を叩く男子(群馬県伊勢崎市境上武士出土、古墳時代、6世紀、東博展示品、この例は両面に皮を張ったものを造形している。)
(注11)野間2018.は、「言語学は言語場のリアリティから遠く離れ、〈心的実在たることばが意味を持っていて、意味を伝える〉という形で、謂わば二〇〇〇年に亘る神話を記号論的に完成させ、言語形而上学の神殿に遊ぶことになる。さらに、かの神殿からは人文思想の神々が羽ばたいてゆくのである。」(119頁)と辛辣に批判する。人間が言葉に意味の同一性を求めたがる時、自己循環的な定義に陥って洒落を繰り返したことは、上代に音声言語としてのみあったヤマトコトバが、“意味”の担保要件とするのにかなった巧みな手法であったといえる。
(注12)現実に「武蔵人強頸」という人がいたことを否定するものではない。話(咄・噺・譚)が書いてあるのであって、それ以上のことはわからない。無文字時代に記憶されるのは、話(咄・噺・譚)である。話(咄・噺・譚)だけ残して内容はどうでもいいのかと迫る向きもあろうが、落語や講談、歌舞伎などを鑑賞して、“歴史”的重要性が乏しいと却下するのは愚かである。“文献”は、取るに足らない日常の当たり前のすべてを伝えてはくれない。
(引用文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
上田1959. 上田正昭『日本古代国家成立史の研究』青木書店、1959年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
高木2018. 高木敏雄『人身御供論』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2018年(初出1925年)。
白川1995. 白川静『字訓 改訂版』平凡社、1995年。
野間2018. 野間秀樹『言語存在論』東京大学出版会、2018年。
訳注日本律令 律令研究会編『訳註日本律令十 令義解訳註篇二』東京堂出版、平成元年。
山田1989. 山田宗睦『花 古事記─植物の日本誌─』八坂書房、1989年。
吉井1976. 吉井巌『天皇の系譜と神話 二』塙書房、昭和51年。
歴博2004. 国立歴史民俗博物館編『海をわたった華花─ヒョウタンからアサガオまで─』同発行、2004年。
※本稿は、2019年2月稿を2021年9月に訂正し、2023年5月にルビ形式にしたものである。