はじめに
言葉によって物事、事態、状況は表現される。物事、事態、状況を表現するために言葉は作られる。この双方向の経緯が十全に理解されているとき、われわれは安心してその言葉を使うことができ、受けとることもできる。上代語のヲス(食)やヲスクニ(食国)について、これまでさまざまに論じられてきたが、真意を突いた解釈は得られていない。用例から考えて多分そういう意味なのだろうと説明されているが、どうしてそれらの言葉が作られて使われていたのかというところに腑に落ちない点が残っている。近年のまとめでも、「ヲス(食)も、……[「見す」]のように考えれば、天皇がその土地の食物を体内に取り入れることで、その土地の霊=国魂をその身に引き受け、その鎮めを果たす行為であったと捉えることができる。その土地を支配する能力がなければ、その食物を体内に取り入れることはできない。それを安々と摂取する力こそが、その土地の霊=国魂を鎮めることのできる力とされた。本居宣長が「これ君の御国治め有ち坐すは、物を見るが如く、聞くが如く、知るが如く、食が如く、御身に受け入れ有つ意あればなり」(『古事記伝』七)と説いているのは、いかにも適切である。土地の霊=国魂を「御身に受け入れ有つ」ことが、支配の対象たるべき土地の霊=国魂への鎮めともなりえたのである。天皇の領有・支配する国土が「食す国」と呼ばれるのは、右に述べたところからも明らかであろう。」(『万葉語誌』420頁、この項、多田一臣)とあるばかりである。万50番歌の解説に、「食す国 統治される国の意。「高天原」に対する「天の下」より、さらに政治性、社会性の強い語。「食す」は「食ふ」の敬語。統治者は諸国奉上の五穀を食べることで国々の領知を果すという考えから、治めるの意となった。」(伊藤1983.200頁)とある。説明の域にとどまり証明になっていない。「食す国」思想なる教義を前提にしてヲスという言葉を捉えようとしているかに見える。
ヲス(食)の用例の諸相
ヲス(食)という言葉はその派生形も含めて、上代に特徴的に見られる言葉である。まず、記紀万葉の用例をあげてみる(注1)。
万葉集には動詞形では「食す」のほか、「聞こし食す」という形をとることも多い。そして、「食す国」という特徴的な形が現れている。
打つ麻を 麻続王 海人なれや 伊良虞の嶋の 玉藻刈り食す〔珠藻苅麻須〕(注2)(万23)
うつせみの 命を惜しみ 浪に濡れ 伊良虞の嶋の 玉藻刈り食す〔玉藻苅食〕(万24)
やすみしし 吾ご大王 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤原がうへに 食す国を〔食國乎〕 見したまはむと 都宮は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに ……(万50)
…… 春花の 貴くあらむと 望月の満しけむと 天の下 一は云はく、食す国〔食國〕 四方の人の 大船の 思ひ憑みて …… (万167)
…… 天の下 治めたまひ 一に云はく、掃ひたまひて 食す国を〔食國乎〕 定めたまふと 鶏が鳴く 吾妻の国の 御軍士を 召したまひて …… (万199)
…… 績麻なす 長柄の宮に 真木柱 太高敷きて 食す国を〔食國乎〕 治めたまへば ……(万928)
やすみしし 吾ご大王の 食す国は〔御食國者〕 日本も此間も 同じとそ思ふ(万956)
食す国の〔食國〕 遠の朝廷に 汝等が かく罷りなば 平けく 吾は遊ばむ 手抱きて 我は御在さむ 天皇朕 ……(万973)
…… 天皇の 食す国なれば〔乎須久尓奈礼婆〕 命持ち 立ち別れなば ……(万4006)
…… 大君の 命畏み 食す国の〔乎須久尓能〕 事取り持ちて ……(万4008)
…… 天地の 神相珍なひ 皇御祖の 御霊助けて 遠き代に かかりし事を 朕が御世に 顕はしてあれば 食す国は〔御食國波〕 栄えむものと 神ながら 思ほしめして ……(万4094)
…… もののふの 八十伴の緒を 撫で賜ひ 整へ賜ひ 食す国も〔食國毛〕 四方の人をも あぶさはず 恵み賜へば ……(万4254)
やすみしし 吾ご大王の 聞こし食す〔所聞食〕(注3) 天の下に 国はしも 多にあれども ……(万36)
…… 天雲の 向伏す極み 谷蟆の さ渡る極み 聞こし食す〔企許斯遠周〕 国のまほらぞ ……(万800)
やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子の 聞こし食す〔聞食〕 御食つ国 神風の 伊勢の国は ……(万3234)
高御座 天の日継と すめろきの 神の命の 聞こし食す〔伎己之乎須〕 国のまほらに 山をしも さはに多みと ……(万4089)
天皇の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国は 敵守る 鎮の城そと 聞こし食す〔聞食〕(注3) 四方の国には 人多に 満ちてはあれど ……(万4331)
…… 敷きませる 難波の宮は 聞こし食す〔伎己之乎須〕 四方の国より 奉る 御調の船は ……(万4360)
古事記では、三貴士分治のときの「夜之食国」、その話をなぞらえたと考えられる三皇子分治のときの「食国之政」といった例が登場している。また、日本書紀にもあらわれるが、天皇や皇后、ヤマトタケルが旅先で食事を摂るときにミヲス、ミヲシタマフと言っている(注4)
次に月読命に詔りたまはく、「汝が命は、夜之食国を知らせ〔所知夜之食国矣〕」と事依しき。食を訓みて袁須と云ふ。(記上)
大雀命は、食国の政を執りて白し賜へ〔執食国之政以白賜〕。(応神記)(注5)
尾津前の一つ松の許に到り坐して先御食したまふ時〔先御食之時〕、其地に忘らえし御刀、失せずて猶有りき。(景行記、加藤良平訓、以下同じ)
亦、筑紫の末羅県の玉嶋里に到り坐して、其の河の辺に御食したまふ時〔御食其河辺之時〕、当に四月の上旬ならむ。(仲哀記)
白檮の生に 横臼を作り 横臼に 醸みし大御酒 美味らに聞こしもち食せ〔宇麻良尓岐許志母知袁勢〕 丸がち(応神記、記48)(注6)
日本書紀では、「食国」という形は現れない。
下の持統紀の例に「食を賜ふ」とあるのは、天皇のために用意された食べ物を分け与えたという意味であろう。推古紀の例で片岡にいた飢者に「飲食」を与え、「衣裳」を覆ったあるのは、地位、身分の落差を越えて「真人(ひじり)」であるとの謂いのために用いられているのであろう(注7)。
言ひ訖りて、先づ所帯せる十握剣を食して生す児を〔先食所帯十握剣生児(以下略)〕、瀛津嶋姫と号く。又、九握剣を食して生す児を、湍津姫と号く。又、八握剣を食して生すを、田心姫と号く。……已にして素戔嗚尊、其の頸に嬰げる五百箇の御統の瓊を以て、天渟名井、亦の名は去来之真名井に濯ぎて食す。(神代紀第六段一書第一)
初め大己貴神の、国平けしときに、出雲国の五十狭狭の小汀に行到して飯食せむとす〔而且当飲食〕。(神代紀第八段一書第六、加藤良平訓、以下同じ)
……海路より葦北の小嶋に泊りて進食したまふ〔自海路泊於葦北小嶋而進食〕。(景行紀十八年四月)
……的邑に到りて進食したまふ〔到的邑而進食〕。(景行紀十八年八月)
時に挙燭して進食したまふ〔時挙燭而進食〕。(景行紀四十年是歳)
……尾津の浜に停りて進食したまふ〔停尾津浜而進食〕。(景行紀四十年是歳)
……玉嶋里の小河の側に進食したまふ〔進食於玉嶋里小河之側〕。(神功前紀仲哀九年四月)
臣の子は 栲の袴を 七重をし〔那々陛鳴絁〕 庭に立たして 足結撫だすも(雄略前紀、紀74)
皇太子、視して飲食を与えたまふ〔視之与飲食〕。(推古紀二十一年十二月)
……暫く駕を停めて進食したまふ〔暫停駕而進食〕。(天武紀元年六月)
己巳に、百官の人等に食を賜ふ〔賜百官人等食〕。(持統紀三年)
ヲス(食)という語はどこから生まれたのか
思想大系本古事記に、月読命に事依させた「夜之食国」(記上)について、「食国」は「天皇の食物を献上する国の意で、天皇の支配領域を意味する。ヲスは食う・飲むの敬語形。統治を意味する敬語という説もあるが当らない。」(328頁)とし、食物の献上を象徴する服属儀礼が宮廷でくりかえされたから、それを背景にできた言葉であるとしている。
古典基礎語辞典では、これとは正反対に語義を捉えている。「食す」は、ヲサ(筬)、ヲサ(長)、ヲサム(治)と同根であろうとし、「天皇が統治なさる国の意で「食をす国」と使うことが多く、ヲスは「治む」の尊敬語。すなわちお治めになる意。ヲスは召し上がる意にも用いられたが、これはヲスが、国を思うように統治なさるのと同じように、食物や着物を気の向くままに摂取なさる意から、召し上がる意へと拡大使用されたものか。」(1363頁、この解説、大野晋)としている。
両者は、ヲス(食)という語の解釈における根本的対立であって、論争かまびすしいものかと思われるが、現状ではほとんど前者の主張が通行しており、万葉集の注釈書もそれを採用しているものが多い。
その潮流は、岡田1970.によるところ大であった(注8)。岡田氏は、新嘗祭における地方豪族からの食物供献儀礼を便宜的にニイナメ=ヲスクニ儀礼と名づけ、その歴史的変遷をみることで検証されたと考えて論じきっている(注9)。だが、語学的な論点からは逸れている。岡田氏は当初、ヲス(食)という語について素朴な疑問を提起していた。「(1)天皇の統治をなぜ〝ヲス〟という語で表現し、それが必ず〝食〟という文字によって記されるのか。(2)宣命や『万葉集』の例に……、特殊な場合に限って、神聖な句として用いられる理由は一体どこにあるのだろうか。」(16頁)。この(1)・(2)の問題は解決されないまま、理念ばかり推し進めた議論が行われている。
「食す国」思想が観念されてヲスという言葉がひねり出されて使われるようになった、という発想は本末が転倒してトリック染みている。ヲス(食)という言葉が考えられ、応用されてヲスクニ(食国)という言い方が行われるようになった、と考えるのが常道である。言葉はそれだけで観念である。ヲス(食)という言葉が、「国」に冠してその意義を十全に発することができると思われたから、「食国」という言い方が好まれて使われたということであろう。
そう言って確からしいのは、第一に、万葉集の歌に頻出しているからである。歌でイデオロギーを表明したとしてもかまわないことであるが、それだけを支えに歌われるはずはない。歌はプロパガンダ専用のコミュニケーションツールではなく、聞いた人がなるほどと腑に落ちておもしろがることができる、言葉を巧みに操った言語芸術、それは言語遊戯(Sprachspiel)と呼んでもよいものである。頻出しているのは「神聖な句」だからではなくて、常套句となっているからであろう。
第二に、ヲスはヲスクニ専用の言葉ではなく、記歌謡で飲む・食うの意、紀歌謡で着るの意に用いられている。そうこうしているうちに、ヲスクニという言い方が巧みだと認められたから、定式化して万葉集の歌ばかりか宣命の文句にまで常套句として用いられるようになったものと考えられる。常套句には目新しさはないから、使う時点で重々しい主張をくり広げるものではない。そして、第三に、ヲスクニという言い回しの出発点は、古事記の「夜之食国」を始原とするかもしれないという点である。月読命が統治者として任じられている「夜之食国」という表現を、当時の人はうまいこと言い表しているとおもしろがり、ならばということで万葉集で「食国」という言い回しを多用するようになったと考えられるのである。
ヲスという言葉は、語源的解釈はもとより、語構成についても不明である。時代別国語大辞典には、「ヲスは、上二段居の連用形に敬意を表わすスが接したものかといわれる。原義は占有する・わが物とするの意の尊敬語とみられ、①[飲む・食うの意]②[着るの意]③[統治する・治めるの意]のような意味分化をみる。」(834頁)としている。居の連用形にスが下接したとする説には疑問を投げかける意見が多い。筆者も、助動詞スは未然形に付くのではないかと疑念を抱く。ただ、寡聞にして代替案の提起されたことを知らない。類義語メス(見・召・食)と意味の重なるところが多く、それがミル(見)+ス(尊敬)という語構成のもとに成り立っていると考えられることにより、対照せられているのである。
食す国を 見したまはむ(万50)…自分の物とされる国をご覧になる
天の下 治めたまひ 食す国を 定めたまふ(万199)…天下をお治めになり、自分の物とされる国をお定めになる
吾ご大王の 食す国は 日本も 此間も 同じとそ思ふ(万956)…我が大王さまが自分の物とされる国はヤマトですが、ヤマトもここも、同様にいいところだと思う
食す国の 遠の朝廷に(万973)…大王さまが自分の物とされる国の、中心からは遠く離れているけれども、それでも国の庁舎があるところに
天皇の 食す国なれば 命持ち 立ち別れなば(万4006)…皇統の方が自分の物とする国であるので、そのご命令に従ってあなたとは別れて行くことになったのだが
大君の 命畏み 食す国の 事取り持ちて(万4008)…大王さまのご命令を尊んで、大王さまが自分の物とされている国の任務を帯びて
遠き代に かかりし事を 朕が御世に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして(万4094)…遠い昔にあったこうしたことを、我が御代にも顕してくださったので、我が自分の物とする国は繁栄間違いなしだと、神の御心さながらにお思いなさって
食す国も 四方の人をも あぶさはず 恵み賜へば(万4254)…自分の物とされている国土とそこに暮らす津々浦々の人たちを、残さずにお恵みになるので
やすみしし 吾ご大王の 聞こし食す 天の下に 国はしも 多にあれども(万36)…わが天皇が支配して自分の物とされている天下に、国々はたくさんあるけれど
用例から考える限り、語義として、ヲスは、わが物にする、という意味合いが中心的な位置を占めている。自分の物として飲み、食い、そして着て、統(す)べるのである。国を統べる意に用いることは、国を自分の物としてしまうということである。だから、「居」から派生したとする説があったのであろう。また、メス(見)と語義が近いものであった。そして、語の直接の解釈としては否定的にならざるをえないものの、人間の五感の働きと統治とは、密接にかかわるとの指摘もある(注10)。その対象を、「食国」と見立てた、見なした、ということと一応は考えられる。自分の物にしていることの意であると確認されるのである。
しかるに、国を自分の物とするということなど、本来できるものであろうか。他国を侵略し、占領し、自国であると既成事実化していくことは現実に起きている。とはいえ、国を統治者の“物”と見なすことは、どこまで行っても比喩である。土地を国有化、ないし、王領化したとしても、朕(わ)が物としきれているとは言えない。自然災害は起り得るし、住民がどうふるまうかもわかったものではない。
飲んだり食べたりしてしまったものは、自分の体の中に入ってしまって消化、吸収されることになり、確かに自分の物にしてしまったと言える。紀74歌謡の衣服の例では、身に着けて誰にも渡さなかったことを、「七重をし」という表現で言い当てている。ぐるぐる巻きにして簡単にはほどけないのだから自分の物だと言えるのだろう。とはいえ、剥がそうと思えば剥がせないことはなく、ために例えば「着」字を書いてヲスという訓を付すことには至らなかったのであろう。すなわち、もともと食べるという意味の尊敬語としてヲスという語が誕生し、そこから展開してヲシモノ、ミヲス、ミヲシタマフといった言葉が用いられて語義の拡張が見られ、わが物にすること全般にヲスという語が使われても、その意をよく表す字として「食」字が当てはまるからそのまま使われ続けていると考えられる。
ヲスクニ思想があってニイナメ=ヲスクニ儀礼を生み出し、それに合わせるようにヲス(食)という言葉が生まれたのではないのである。御贄を天皇が食べることが、そのまま直接その献上してきた国を統治したことになるなどとは思われていなかったであろう。都に住んでいれば下級役人でも商工業者でも、遠く離れた地方の産物を日常的に食することになるが、誰もヲスクニを治め奉っているとは思っていなかったであろう。ヲスクニという言い方は短絡的な発想に嵌め込んで成立しているのではなく、言葉を捉え返せばそういうことも言えるだろうとして、万葉集に麗句として用いられたり、一部の宮廷儀礼に導き入れられて国栖奏などとして楽しまれていたものと考えられる(注11)。
では、ヲス(ヲシモノ、ミヲス、ミヲシタマフ)といった使い方から、ヲスクニ(食国)(注12)へと飛躍した、その飛躍を可能とさせた語学的理由はどこにあるのか。問われるべきなのは語学的理由である。言葉は観念そのものだからである。「言語事実を持つ以前に一般的観念について語ることは、牛の前に犂をつける如き転倒である。」(ソシュール)から、ニイナメ=ヲスクニ儀礼なるものを架空している時点で立論に倒錯がある。
ヲスの語学的解釈
語学的理由としてあげられる点は、ヲスという語が、ヲ+ス(尊敬の助動詞)でできあがっていることに限られる。ヲという語は、一つには感動詞ヲがあり、応答、応諾の声に発する。「感動詞「を」とは物事を承認し確認する気持を相手に表明する語であった。」(岩波古語辞典1489頁)。
時に武甕雷神、登ち高倉に謂りて曰はく、「……取りて天孫に献れ」とのたまふ。高倉、「唯唯」と曰すとみて寤めぬ。(神武前紀戊午年六月)
否も諾も 欲しきまにまに 赦すべき 貌見ゆるかも 我れも寄りなむ(万3796)
……と、ただともかくも御心して思さむ方にしなし給へ」とのたまへば、「を」とて立ちぬ。(落窪物語・四)
「いづら、この近江の君、こなたに」と召せば、「を」といとけざやかに聞こえて出で来たり。(源氏物語・行幸)
人の召す御いらへに、男は「よ」と申し、女は「を」と申すなり。(古今著聞集・三三一)
応諾する際に答えとする一音の語には、ほかにウがある。
今日のうちに 否ともうとも 言ひ果てよ 人頼めなる 事なせられそ(信明集)
このウという一語に国譲りの話を展開させたのが、事代主神の話である(注13)。イナセハギという使者が派遣されていた。その話は、底流に、鵜飼の様子から形作られたものであった。ここで、我々は重要なことに気づかなければならない。鵜飼の鵜は、いったんは口に入れた食べもの、獲物のアユを吐き出している。その吐き出したアユは鵜匠の手に渡る。すなわち、贄として献上されるのと同じことが、鵜飼の現場で行われているのである。
鵜匠に鵜は献上して従っている。献上しましたがこれで良いですかと問われ、それで良いと答えることが行われているわけである。ヲ(諾)+ス(尊敬の助動詞)とされているのである。
鵜飼図(岐阻路ノ驛 河渡 長柄川鵜飼舩、渓斎英泉(1791~1848)、横大判錦絵、江戸時代、19世紀、東博展示品)
そして、多数の鵜は、一人の鵜匠の手につながれて操られている。つないでいるのはヲ(緒)である。これがヲスを構成しているヲの二つ目の意である。ヲ(緒)+ス(尊敬の助動詞)の意に解されたとき、鵜匠の手技を表しているとわかるのである。獲物のアユがヲシモノ(食物)として差し出されている。
すなわち、ヲスクニ(食国)とは、そんな、被「国譲り」国を表している。鵜匠が多数の鵜を緒によって操るように、天皇は多数の国を操るのだと喩えている。鵜匠が緒を操るのは巧みで、けっして絡まないようにしながら、もし絡まったら緒は鵜の首を絞めて窒息死させてしまうから、その時には咄嗟に切り離すようにしていた(注14)。それがスブ(統)ことの極意であった。
海神、是に、海の魚を総べ集へて、其の鉤を覓め問ふ。(神代紀第十段一書第一)
機衝を綢繆めたまひて、神祇を礼祭ひたまふ。(垂仁紀二十五年二月)
吾が国を領べ制めたまふ天皇、既に崩りましぬ。(雄略紀二十三年八月)
皇太子、乃ち皇祖母・間人皇后を奉り、并て皇弟等を率て、往きて倭飛鳥河辺行宮に居します。(孝徳紀白雉四年是歳)
綜 祖統反、ヘ、スブ(スヘテ)、ナラフ、フサヌ、イトアハス、モチアソフ、ツムク、ムツフ、キヌタリ、ヲサム(名義抄)
鵜匠は複数羽の鵜をそれぞれ緒でつなぎ、横に並べていた。ナム(並、下二段)(注15)はナム(嘗・舐、下二段)は同音で、連用形はナメ(メは乙類)となる。鵜はアユを口に入れることはできても首結いがあって飲み込んでお腹に入れることはできない。口のなかで舐めることばかりしている。そしてまた、その理由はわからないが、ナメシガハ(鞣革)のことはヲシカハ(韋)とも言った。ここに、ヲスクニ(食国)がニヒナメ(新嘗)と語学的に関係づけられるわけである。
……年毎に船双めて、船腹乾さず、柂檝乾さず、……(仲哀記)
楯並めて〔多々那米弖〕 伊那佐の山の 木の間よも い行き目守らひ 戦へば 吾はや飢ぬ 鵜飼が伴 今助けに来ね(記14)
名けて池辺双槻宮と曰ふ。(用明前紀)
たまきはる 宇智の大野に 馬並めて〔馬數而〕 朝踏ますらむ その草深野(万4)
……塩酢の味、口に在れども嘗めず。(推古紀二十九年二月)
啜 士悦反、入、又市芮反、去、嚼也、奈牟(なむ)、又阿支比利比(あきひりひ)(新撰字鏡)
甞 奈牟(なむ)(金光教最勝王経音義)
酒君、則ち韋の緡を以て其の足に著け、……(仁徳紀四十三年九月)
⾱ 唐韻に云はく、⾱〈⾳は闈、乎之賀波(をしかは)〉は柔し⽪なりといふ。 (和名抄)
鵜飼をめぐるこの言葉の機知をもって、はじめてヲスクニ(食国)がニヒナメ(新嘗)と関係があるとわかる。それは、現代の我々にとってだけでなく、上代の人にとっても、いやむしろ、文字を持たなかった上代の人こそ、それ以外に理解のしようがなかったと言えるのである。そしてまた、ヲスクニという言葉が、「夜之食国」(注16)を始原としていることも明らかにしている。今日、観光目的ではあるがそうであるように、夜に鵜飼が行われていた。すなわち、ツクヨミ(月読命)に「夜之食国」を知行するようにとのイザナキ(伊耶那岐命)のお達しは、鵜飼を夜に行うことにまつわるものである。この場合、篝火で魚を集めて漁をする関係上、満月の月明りは好まれていないようである。あくまでもツクヨミ、つまり、月齢を数えることが「夜之食国」を支配することと密接にかかわることを言っている。古代において、夜間に食料を獲得する営みは他になかったであろう。
おわりに
上代の人たちは、すべてのコト(事)をコト(言)に表して過不足ない言語世界を創りあげていた。言葉以前にいかなる観念もあり得ないであろうことは、社会の構成員の誰か一人ができごとに遭遇したり、夢を見たりした時、その事件や夢を誰にも語らなかったらそれはなかったことと同じことであるのとよく似ている。記録がない時代、記憶にないことは一切なかったことなのである。それは今日の人とて似たようなもので、一時代前のテープレコーダーやバスの車掌や鰯の頭も信心について話してみたところで若い人に通じはしない。少し違うところは、記録されているからそれによってそれらがあったことが確かめられ、学習の機会が残されている点である。とはいえ、今日の人が記紀万葉などのメッセージからいかにメタ・メッセージを構築しようが、逆に上代の人に通じるものではない。上代の人にはヤマトコトバで話してみるしかないのである。上代の人は上代に生きていて、その暮らしの常識の範囲内でしか想像し合うことはなかった。ヤマトコトバはその範囲内で具体的に存在していたのであり、二十歳を過ぎてまで高等教育を受けなければ接することがない抽象名詞など一つもなかったのである。そんな人たちが「夜の食国」と言ってわかり合っている。なぜわかるか。夜、鵜飼をするのが卑近なこととしてあり、鵜がやっていることは贄を献上することとパラレルなことであると誰しも悟っていたからである。上代の文献資料のほとんどを占める記紀万葉を理解するためには、ヤマトコトバのなかで完結するようにヤマトコトバで読むことが肝要である。
(注)
(注1)食べ物のことを指すヲシという語彙が近世まで名残をとどめている。「又、往古には飯を、をしといひし也。『古事紀』『日本紀』等に袁須、袁勢など見え侍るは、是則、食の事なり。今の世に婦人産の時、産棚にをし桶といふ物を飾る。をし桶は、飯器をいへり。……又、鷹に餌をするを、をしするといふも同し意にやあらん。」(越谷吾山・物類称呼・四、国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200002932/viewer/97、漢字等の旧字体は改め、句読点等を付した)。
「食国」の例は、続日本紀の宣命に34例、延喜式・祝詞・大殿祭に1例見える。続日本紀において本文に見られるわけではないから、麗句的な扱いであったと考えられる。決まり文句の麗句を繙くことよりも、その言葉が使われ始めた当初の輝きを見たほうが正確な観測ができると考え、ここではそれらをとりあげない。宣命の例から「食国」についてその思想性を説いてみても、言葉の本質は見抜けず、ただ現代人の思潮の投影になりかねないのではないか。
(注2)次の万24番歌ともども、通常採られない例である。結句は、タマモカリマスとも訓まれている。
(注3)キコシメスとも訓まれている。
(注4)一般には、ミヲシという名詞形を認め、高貴な方が食事をすることの意と考えられている。「食物」はヲシモノと訓まれるところから、ヲス(食)という動詞の連用形名詞、ヲシにさらに接頭語ミ(御)がついたミヲシという名詞を想定し、それをサ変動詞(為)でうける形、ミヲシス、ミヲシシタマフとする訓みが古訓段階から行われている。ヲシだけで敬語なのにさらにミを冠したオミオツケ(御御御付)的な語彙ということらしい。しかし、旅先で食事を摂る時にばかり「飲食」、「進食」、「御食」といった語が使われている。旅先でご当地の旨いものを提供されて食したのではなく、持参している携帯食をその場で加工して食べたものと筆者は考えている。「足柄の坂本に到りて、御粮を食む処に〔於食御粮処〕、……」(景行記)とあるのと同じことをしている。すなわち、糒(ほしいひ)を水に浸して戻して食べたのであり、ミヲスはミ(水)+ヲス(食)の意であったのだろう。すると、ミヲシスという訓みでは高貴な人専用の携帯食を水で戻すことをする、という意味になって齟齬を来す。動詞ミヲスで、水を得てお食事をされることを指すと考える。逆に言えば、水がなければ食べられないのである。「飲食」という用字とその順は含蓄あるものである。拙稿「ミヲシ(進食・御食)のこと─ミヲ(水脈、澪)との関連をめぐって─」参照。
道明寺干飯(左:平瀬徹斎・日本山海名物図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555439/18をトリミング、右:現代)
したがって、兼永筆本の景行記に「御食時」とあるのは、語義の理解に誤りがあると考える。なお、兼永筆本は、仲哀記部分を「御食」としている。また、兼方本以来、神代紀第八段一書第六に「且當飯食」(e国宝https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=101084&content_part_id=001&content_pict_id=002&langId=ja&webView=参照)と訓まれているのも同様である。時代別国語大辞典は、ヲス(食)、ヲシモノ(飲食・食)は載せるが、ミヲシという形は載せていない。
(注5)西郷2006.は、「山海の政」「食国の政」「天つ日継」がセットとして語られており、食国が海産物を贄として貢上する「御食つ国」に関係がある言葉なら「山海の政」と「食国の政」が別置されていることの説明がつかないとしている。「もし「食国」がこうした[万葉集の例に見られる]「御食つ国」にもとづく、あるいはそれとかかわっているのであるなら、ここでなぜ「山海の政」が「食国の政」のなかに入らず別立てとなるか説明できなくなる。むしろ、山野河海のニヘ[贄]の貢納のことをつかさどる「山海の政」は、……一つの独自の領域であったらしく、宮廷の節会にさいしニヘを献ずる吉野の国栖につき、「凡吉野国栖、永勿二課役一」(民部式)とあるのなどからも、その一端がうかがえる。他方、「食国」は食采とか食邑とかの漢語にならってできた語ではなかろうか。むろんヲスは食うの敬語に用いられることもあるが、だからといって食物を献上する国をヲスク二といえるかといえば、日本語の語構成としてそれは無理というほかない。ヲスクニのヲスは、やはり統治する意の敬語とすべきである。」(269~270頁)と疑問をぶちまけている。
(注6)拙稿「吉野の国主(国樔・国栖)の献酒歌について」参照。
(注7)太子は片岡に遊行しているので、ミヲシのために糒を携帯していてそれを分け与えたという意味で、「飲食」という用字にしているのかもしれない。別訓のクラヒモノは、即物的な意として通じる。
(注8)岡田氏の考え方の淵源上には折口信夫氏の考え方がある。「天子様が、すめらみこととしての為事は、此国の田の生り物を、お作りになる事であつた。天つ神のまたしをお受けして、降臨なされて、田をお作りになり、秋になるとまつりをして、田の成り物を、天つ神のお目にかける。此が食国のまつりごとである。食すといふのは、食ふの敬語である。今では、食すを食ふの古語の様に思うて居るが、さうではない。食国とは、召し上りなされる物を作る国、といふ事である。後の、治める国といふ考へも、此処から出てゐる。食すから治める、といふ語が出た事は、疑ひのない事である。天照大神と御同胞でいらせられる処の、月読命の治めて居られる国が、夜の食国といふ事になって居る。此場合は、神の治める国の中で、夜のものといふ意味で、食すは、前とは異つた意味で用ゐられて居る。どうして、かう違ふかと謂ふと、日本の古代には、口で伝承せられたものが多いから、説話者の言語情調や、語感の違ひによつて、意味が分れて行くのである。此は民間伝承の、極めて自然の形であつて、古事記と日本書紀とでは、おなじ様な話に用ゐられている、おなじ言葉でも、其意味は異つて来て居る。時代を経る事が永く、語り伝へる人も亦、多かつたので、かうした事実があるのである。」(折口1995.171~172頁)
主張の是非は本文に譲る。後半部分で、意味が異なってくるのは口承伝承によるためであり、説話者が違えば意味が分かれて来るとしている。無文字時代には言葉の意味に錯綜が起きやすく、文字時代にはそうでもないという傾向を認めることになるが、実際にはそのようなことはないであろう。伝達には、話し手ばかりでなく聞き手の存在も必要である。聞き手がよく理解、納得したときにはじめて伝承される。言葉の意味がさまざまであっては、理解されず伝わらない。伝わっているということは言葉の意味が焦点を結んでいて、話し手と聞き手の間に共通理解があったということである。むしろ文字があったほうが字義による膨らみを容認しやすく、同じ言葉でも多義になることは多いであろう。
(注9)井上1998.、大津1999.、中村2002ab.に、考え方の枠組みを踏襲してそれを展開した説が提起されている。言葉の定義として、「食国とは、文字通りその土地でとれた食物を供して食べてもらうことであり、そこに内包される支配・服属関係を示している。」(大津1999.62頁)などとある。動詞のヲス(食)をクニ(国)に連体形で被らせたヲスクニ(食国)という語が一人歩きしている。お食べになる国、お召し上がりになる国、と表現される言葉は、「文字通り」「食物を供して食べてもらうこと」には全然ならないし、「そこに内包される支配・服属関係」を示すことにもつながらない。和田2020.は、「食国」の神事はいわば稔りの神霊迎えのことで服属儀礼には発展していないとする考え(114~115頁)を述べている。もとより、奈良時代の人はヲスクニと聞いていて、食邑に類するショクコク(食国)という概念用語の漢語を用いているわけではない。
(注10)中村2002b.に、「古代の天皇の統治がこのような「食べもの」、あるいは「食べる」という行為をとおして表現されることについては、やはり本居宣長の次のような説明を素通りするわけにはいくまい。
さて物を見も聞も知も食も、みな他物を身に受入るゝ意同じき故に、見とも聞とも知とも食とも、相通はして云こと多くして、君の御国を治め有ち坐すをも、知とも食とも、聞看とも申すなり、これ君の御国治め有ち坐すは、物を見るが如く、聞くが如く、知るが如く、食すが如く、御身に受入れ有つ意あればなり。
ここには、やはり宣長ならではの、古代世界にたいする端倪すべからざる洞察がしめされている。この宣長によるたった数行の解説を通じて、われわれは、律令期の中央集権的な天皇統治の基本が合理的体系的な法支配、官僚機構、および徴税システムにもとづくという表向きの姿とは裏腹に、それらの文明的な支配装置の底流で、古代人の五官の特性に全面的に依存するような、いわば身体的な統治の技法が最大限活用されていたことを知りうるであろう。」(22頁)とある。この指摘は、実は当たり前のことである。文字という記号操作をしない上代の人々が、身体的感覚を媒介せずに理解できることなどない。
(注11)国栖奏、隼人舞について、大それた見解が行われることがあるが、位置づけからして儀式において余興的なものであったとするのが妥当なところであろう。
また、当然ながら、「食す国」と言って直接的に「国」を食べ物とするのではない。食べ物には動植物いろいろあるが、単純に狩猟・採集によって得られたもの、農耕による穀物や豚のような食用家畜があり、それ以外に、生業の手段に動物を使って食べ物を獲得する、鷹狩や鵜飼のような高度なわざが存在している。「食す国」と、一歩引いた形で言葉が成り立っている点は、間接的に食べることになっている様子を表わしていると見当がつく。
(注12)ヲスクニ(食国)と使うときには、そこに限定性が見出されるとする見方がある。どこからどこまでか限りがあるということである。しかしそれは、ヲス(食)が飲む・食う・着る、の意味においてすでに前提とされていることである。一日に食べられる量は限られているし、そのときに身に着けられる衣装も頑張っても十二単であって、夏場などほとんど着たくないことさえある。「天の下」と「食す国」とどちらが広くあるかという単純な比較では、限定を伴わない「天の下」ということにはなるものの、万36番歌にあるとおり、「天の下」を「吾ご大王」が「聞こし食す」ことになっている。そういう言い方をしてもかまわないのは、大仰な言い方をして持ちあげる歌だからである。ヲスクニという語ばかり見ていても理解には至らない。
「ヲスは食うの敬語に用いられることもあるが、だからといって食物を献上する国をヲスク二といえるかといえば、日本語の語構成としてそれは無理というほかない。」(西郷2006.270頁、上掲(注5))というところがこの問題の核心である。
(注13)拙稿「事代主神の応諾について」参照。
(注14)鵜飼の緒(縄)については、宮部1915.に次のように説明されている。「手縄 檜を細線にし之を綯ひたるものなり。周り三分長凡そ一丈〈但し時々少差あり即ち夏の始め未だ鮎の小なる比は長九尺中頃一と云ふ〉の縄にして其先に「ツモソ」と称する鯨骨にて作れる長一尺二寸の紐を着け、其末を「シマダ」に曲げて其処へ腹掛の緒〈右綯の麻縄にて鵜の胴を翼の下へかけて縛るものなり〉を結び留め、首結の緒〈左綯の麻縄にて鵜の咽を約するもの〉を引通し以て鵜を縛するに用ふるものなり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932610/78~79、漢字の旧字体は改め句読点を付した)。特殊なつくりにしている理由について、可児1966.は、「ヒノキを材料にすると三つの利点がある。第一に水に浸すとさばさばして捌きやすいため、ウが篝火の下で縦横に動いてももつれにくい。第二に引く力に強く耐えることであり、手縄をたぐってウを手もとに引きよせるのにつごうよい。第三に川には障害物が多く、これに手縄がまきつくとウが水上に浮かびあがれず、 溺死する危険がある。この時は間髪をいれず、気合とともに手縄をねじきる必要がある。ヒノキの繊維は、撚りを左にもどすとたやすく切れる。」(101~102頁、漢字の字体を一部改めた)としている。
(注15)伝統的な鵜飼漁をする鵜使いでは、1人で2羽ほどの鵜を使うことが多かった。その場合、ナム(並)ではなくナラブ(並)と形容されるはずである。数多くの鵜を使う場合にも、鵜籠に2羽ずつ入れられてカタライというペアにされ、船べりに立たせる時はそれぞれに定位置があって乱されると喧嘩が起こる。統率がとれなければ鵜飼は成立しないということである。朝廷に関係する贄献上のための鵜飼は、多数の鵜を使うものであったと予想される。
毎年に 鮎し走らば 辟田川 鵜八頭潜けて 川瀬尋ねむ(万4158、大伴家持)
ここに記されている鵜飼が手縄につながれたものか、放ち鵜飼であるかわからない。現代中国の鵜飼が人工繁殖させたカワウを使い、手縄を使用せずに昼間行われている点は本邦と大きく異なる。ヲス(食)という語を得意げに用いていることから鑑みるに、移入された鵜飼が改良されてヲ(緒)につながれることとなったことから誕生した言葉のように感じられる。そしてそれが夜間行われるものであったから、「夜の食国」という言い方へと導かれたと考えられる。日本の鵜飼は集中特化して贄献上のためのアユ捕獲に用いられ、そのために嘴の大きなウミウを捕獲しては使っている。飼い慣らすが飼い慣らしすぎないこと(リバランス)が求められており、動物、自然環境全体への理解が深かったことが指摘されている。卯田2021ab.参照。
卯田2021cは、鵜飼と権力者との関わりについて、吐き出したり応諾させられたりするときの一音ウによって命名されているウ(鵜)や、鵜飼によっても成り立っているヲス(食)というヤマトコトバなど眼中にないためか、「いまのところ野生性と権力は結びつきやすいのではないかと考えている。すなわち、猛禽類などの荒々しい野生動物を手なずける能力があること、あるいはその能力をもつ人間(鵜匠や鷹匠など)を管理下におく力があることを社会に広く知らしめることが、権力の誇示に結びつくと考えられていたのではないだろうか。」(11頁)としている。卯田氏が指摘されているとおり、日本の鵜飼はリバランスが巧みである。ヲスクニ(食国)という言葉も、ただ支配して被支配民を奴隷化することには当てられない。それが毒ならともに食べてともに死ぬ関係でさえある。言葉に言い当てて観念は定着し、テキストとなって具現化して行っては確認されるのくり返しである。ヲスクニ(食国)という言い方が行われて命脈を保ち、いつの時代も百姓が奴隷や農奴ではなかったように、近現代までヲスクニ(食国)的統治は続いていると考える。飼い慣らされてはいるが飼い慣らされすぎてはおらず、よって革命も起こらなかったのだと感じられる。
(注16)石川1921.に、ヲスを支配するという語と解すれば、「『汝命は夜の食国をしらせ』との神語は意味をなさず。知らす国を知らせ、と言ふことになりて、同語を重畳せる拙劣なる語句とならん、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963272/23、漢字の旧字体は改めた)と、尤もな評言が見られる。
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言葉によって物事、事態、状況は表現される。物事、事態、状況を表現するために言葉は作られる。この双方向の経緯が十全に理解されているとき、われわれは安心してその言葉を使うことができ、受けとることもできる。上代語のヲス(食)やヲスクニ(食国)について、これまでさまざまに論じられてきたが、真意を突いた解釈は得られていない。用例から考えて多分そういう意味なのだろうと説明されているが、どうしてそれらの言葉が作られて使われていたのかというところに腑に落ちない点が残っている。近年のまとめでも、「ヲス(食)も、……[「見す」]のように考えれば、天皇がその土地の食物を体内に取り入れることで、その土地の霊=国魂をその身に引き受け、その鎮めを果たす行為であったと捉えることができる。その土地を支配する能力がなければ、その食物を体内に取り入れることはできない。それを安々と摂取する力こそが、その土地の霊=国魂を鎮めることのできる力とされた。本居宣長が「これ君の御国治め有ち坐すは、物を見るが如く、聞くが如く、知るが如く、食が如く、御身に受け入れ有つ意あればなり」(『古事記伝』七)と説いているのは、いかにも適切である。土地の霊=国魂を「御身に受け入れ有つ」ことが、支配の対象たるべき土地の霊=国魂への鎮めともなりえたのである。天皇の領有・支配する国土が「食す国」と呼ばれるのは、右に述べたところからも明らかであろう。」(『万葉語誌』420頁、この項、多田一臣)とあるばかりである。万50番歌の解説に、「食す国 統治される国の意。「高天原」に対する「天の下」より、さらに政治性、社会性の強い語。「食す」は「食ふ」の敬語。統治者は諸国奉上の五穀を食べることで国々の領知を果すという考えから、治めるの意となった。」(伊藤1983.200頁)とある。説明の域にとどまり証明になっていない。「食す国」思想なる教義を前提にしてヲスという言葉を捉えようとしているかに見える。
ヲス(食)の用例の諸相
ヲス(食)という言葉はその派生形も含めて、上代に特徴的に見られる言葉である。まず、記紀万葉の用例をあげてみる(注1)。
万葉集には動詞形では「食す」のほか、「聞こし食す」という形をとることも多い。そして、「食す国」という特徴的な形が現れている。
打つ麻を 麻続王 海人なれや 伊良虞の嶋の 玉藻刈り食す〔珠藻苅麻須〕(注2)(万23)
うつせみの 命を惜しみ 浪に濡れ 伊良虞の嶋の 玉藻刈り食す〔玉藻苅食〕(万24)
やすみしし 吾ご大王 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤原がうへに 食す国を〔食國乎〕 見したまはむと 都宮は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに ……(万50)
…… 春花の 貴くあらむと 望月の満しけむと 天の下 一は云はく、食す国〔食國〕 四方の人の 大船の 思ひ憑みて …… (万167)
…… 天の下 治めたまひ 一に云はく、掃ひたまひて 食す国を〔食國乎〕 定めたまふと 鶏が鳴く 吾妻の国の 御軍士を 召したまひて …… (万199)
…… 績麻なす 長柄の宮に 真木柱 太高敷きて 食す国を〔食國乎〕 治めたまへば ……(万928)
やすみしし 吾ご大王の 食す国は〔御食國者〕 日本も此間も 同じとそ思ふ(万956)
食す国の〔食國〕 遠の朝廷に 汝等が かく罷りなば 平けく 吾は遊ばむ 手抱きて 我は御在さむ 天皇朕 ……(万973)
…… 天皇の 食す国なれば〔乎須久尓奈礼婆〕 命持ち 立ち別れなば ……(万4006)
…… 大君の 命畏み 食す国の〔乎須久尓能〕 事取り持ちて ……(万4008)
…… 天地の 神相珍なひ 皇御祖の 御霊助けて 遠き代に かかりし事を 朕が御世に 顕はしてあれば 食す国は〔御食國波〕 栄えむものと 神ながら 思ほしめして ……(万4094)
…… もののふの 八十伴の緒を 撫で賜ひ 整へ賜ひ 食す国も〔食國毛〕 四方の人をも あぶさはず 恵み賜へば ……(万4254)
やすみしし 吾ご大王の 聞こし食す〔所聞食〕(注3) 天の下に 国はしも 多にあれども ……(万36)
…… 天雲の 向伏す極み 谷蟆の さ渡る極み 聞こし食す〔企許斯遠周〕 国のまほらぞ ……(万800)
やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子の 聞こし食す〔聞食〕 御食つ国 神風の 伊勢の国は ……(万3234)
高御座 天の日継と すめろきの 神の命の 聞こし食す〔伎己之乎須〕 国のまほらに 山をしも さはに多みと ……(万4089)
天皇の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国は 敵守る 鎮の城そと 聞こし食す〔聞食〕(注3) 四方の国には 人多に 満ちてはあれど ……(万4331)
…… 敷きませる 難波の宮は 聞こし食す〔伎己之乎須〕 四方の国より 奉る 御調の船は ……(万4360)
古事記では、三貴士分治のときの「夜之食国」、その話をなぞらえたと考えられる三皇子分治のときの「食国之政」といった例が登場している。また、日本書紀にもあらわれるが、天皇や皇后、ヤマトタケルが旅先で食事を摂るときにミヲス、ミヲシタマフと言っている(注4)
次に月読命に詔りたまはく、「汝が命は、夜之食国を知らせ〔所知夜之食国矣〕」と事依しき。食を訓みて袁須と云ふ。(記上)
大雀命は、食国の政を執りて白し賜へ〔執食国之政以白賜〕。(応神記)(注5)
尾津前の一つ松の許に到り坐して先御食したまふ時〔先御食之時〕、其地に忘らえし御刀、失せずて猶有りき。(景行記、加藤良平訓、以下同じ)
亦、筑紫の末羅県の玉嶋里に到り坐して、其の河の辺に御食したまふ時〔御食其河辺之時〕、当に四月の上旬ならむ。(仲哀記)
白檮の生に 横臼を作り 横臼に 醸みし大御酒 美味らに聞こしもち食せ〔宇麻良尓岐許志母知袁勢〕 丸がち(応神記、記48)(注6)
日本書紀では、「食国」という形は現れない。
下の持統紀の例に「食を賜ふ」とあるのは、天皇のために用意された食べ物を分け与えたという意味であろう。推古紀の例で片岡にいた飢者に「飲食」を与え、「衣裳」を覆ったあるのは、地位、身分の落差を越えて「真人(ひじり)」であるとの謂いのために用いられているのであろう(注7)。
言ひ訖りて、先づ所帯せる十握剣を食して生す児を〔先食所帯十握剣生児(以下略)〕、瀛津嶋姫と号く。又、九握剣を食して生す児を、湍津姫と号く。又、八握剣を食して生すを、田心姫と号く。……已にして素戔嗚尊、其の頸に嬰げる五百箇の御統の瓊を以て、天渟名井、亦の名は去来之真名井に濯ぎて食す。(神代紀第六段一書第一)
初め大己貴神の、国平けしときに、出雲国の五十狭狭の小汀に行到して飯食せむとす〔而且当飲食〕。(神代紀第八段一書第六、加藤良平訓、以下同じ)
……海路より葦北の小嶋に泊りて進食したまふ〔自海路泊於葦北小嶋而進食〕。(景行紀十八年四月)
……的邑に到りて進食したまふ〔到的邑而進食〕。(景行紀十八年八月)
時に挙燭して進食したまふ〔時挙燭而進食〕。(景行紀四十年是歳)
……尾津の浜に停りて進食したまふ〔停尾津浜而進食〕。(景行紀四十年是歳)
……玉嶋里の小河の側に進食したまふ〔進食於玉嶋里小河之側〕。(神功前紀仲哀九年四月)
臣の子は 栲の袴を 七重をし〔那々陛鳴絁〕 庭に立たして 足結撫だすも(雄略前紀、紀74)
皇太子、視して飲食を与えたまふ〔視之与飲食〕。(推古紀二十一年十二月)
……暫く駕を停めて進食したまふ〔暫停駕而進食〕。(天武紀元年六月)
己巳に、百官の人等に食を賜ふ〔賜百官人等食〕。(持統紀三年)
ヲス(食)という語はどこから生まれたのか
思想大系本古事記に、月読命に事依させた「夜之食国」(記上)について、「食国」は「天皇の食物を献上する国の意で、天皇の支配領域を意味する。ヲスは食う・飲むの敬語形。統治を意味する敬語という説もあるが当らない。」(328頁)とし、食物の献上を象徴する服属儀礼が宮廷でくりかえされたから、それを背景にできた言葉であるとしている。
古典基礎語辞典では、これとは正反対に語義を捉えている。「食す」は、ヲサ(筬)、ヲサ(長)、ヲサム(治)と同根であろうとし、「天皇が統治なさる国の意で「食をす国」と使うことが多く、ヲスは「治む」の尊敬語。すなわちお治めになる意。ヲスは召し上がる意にも用いられたが、これはヲスが、国を思うように統治なさるのと同じように、食物や着物を気の向くままに摂取なさる意から、召し上がる意へと拡大使用されたものか。」(1363頁、この解説、大野晋)としている。
両者は、ヲス(食)という語の解釈における根本的対立であって、論争かまびすしいものかと思われるが、現状ではほとんど前者の主張が通行しており、万葉集の注釈書もそれを採用しているものが多い。
その潮流は、岡田1970.によるところ大であった(注8)。岡田氏は、新嘗祭における地方豪族からの食物供献儀礼を便宜的にニイナメ=ヲスクニ儀礼と名づけ、その歴史的変遷をみることで検証されたと考えて論じきっている(注9)。だが、語学的な論点からは逸れている。岡田氏は当初、ヲス(食)という語について素朴な疑問を提起していた。「(1)天皇の統治をなぜ〝ヲス〟という語で表現し、それが必ず〝食〟という文字によって記されるのか。(2)宣命や『万葉集』の例に……、特殊な場合に限って、神聖な句として用いられる理由は一体どこにあるのだろうか。」(16頁)。この(1)・(2)の問題は解決されないまま、理念ばかり推し進めた議論が行われている。
「食す国」思想が観念されてヲスという言葉がひねり出されて使われるようになった、という発想は本末が転倒してトリック染みている。ヲス(食)という言葉が考えられ、応用されてヲスクニ(食国)という言い方が行われるようになった、と考えるのが常道である。言葉はそれだけで観念である。ヲス(食)という言葉が、「国」に冠してその意義を十全に発することができると思われたから、「食国」という言い方が好まれて使われたということであろう。
そう言って確からしいのは、第一に、万葉集の歌に頻出しているからである。歌でイデオロギーを表明したとしてもかまわないことであるが、それだけを支えに歌われるはずはない。歌はプロパガンダ専用のコミュニケーションツールではなく、聞いた人がなるほどと腑に落ちておもしろがることができる、言葉を巧みに操った言語芸術、それは言語遊戯(Sprachspiel)と呼んでもよいものである。頻出しているのは「神聖な句」だからではなくて、常套句となっているからであろう。
第二に、ヲスはヲスクニ専用の言葉ではなく、記歌謡で飲む・食うの意、紀歌謡で着るの意に用いられている。そうこうしているうちに、ヲスクニという言い方が巧みだと認められたから、定式化して万葉集の歌ばかりか宣命の文句にまで常套句として用いられるようになったものと考えられる。常套句には目新しさはないから、使う時点で重々しい主張をくり広げるものではない。そして、第三に、ヲスクニという言い回しの出発点は、古事記の「夜之食国」を始原とするかもしれないという点である。月読命が統治者として任じられている「夜之食国」という表現を、当時の人はうまいこと言い表しているとおもしろがり、ならばということで万葉集で「食国」という言い回しを多用するようになったと考えられるのである。
ヲスという言葉は、語源的解釈はもとより、語構成についても不明である。時代別国語大辞典には、「ヲスは、上二段居の連用形に敬意を表わすスが接したものかといわれる。原義は占有する・わが物とするの意の尊敬語とみられ、①[飲む・食うの意]②[着るの意]③[統治する・治めるの意]のような意味分化をみる。」(834頁)としている。居の連用形にスが下接したとする説には疑問を投げかける意見が多い。筆者も、助動詞スは未然形に付くのではないかと疑念を抱く。ただ、寡聞にして代替案の提起されたことを知らない。類義語メス(見・召・食)と意味の重なるところが多く、それがミル(見)+ス(尊敬)という語構成のもとに成り立っていると考えられることにより、対照せられているのである。
食す国を 見したまはむ(万50)…自分の物とされる国をご覧になる
天の下 治めたまひ 食す国を 定めたまふ(万199)…天下をお治めになり、自分の物とされる国をお定めになる
吾ご大王の 食す国は 日本も 此間も 同じとそ思ふ(万956)…我が大王さまが自分の物とされる国はヤマトですが、ヤマトもここも、同様にいいところだと思う
食す国の 遠の朝廷に(万973)…大王さまが自分の物とされる国の、中心からは遠く離れているけれども、それでも国の庁舎があるところに
天皇の 食す国なれば 命持ち 立ち別れなば(万4006)…皇統の方が自分の物とする国であるので、そのご命令に従ってあなたとは別れて行くことになったのだが
大君の 命畏み 食す国の 事取り持ちて(万4008)…大王さまのご命令を尊んで、大王さまが自分の物とされている国の任務を帯びて
遠き代に かかりし事を 朕が御世に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして(万4094)…遠い昔にあったこうしたことを、我が御代にも顕してくださったので、我が自分の物とする国は繁栄間違いなしだと、神の御心さながらにお思いなさって
食す国も 四方の人をも あぶさはず 恵み賜へば(万4254)…自分の物とされている国土とそこに暮らす津々浦々の人たちを、残さずにお恵みになるので
やすみしし 吾ご大王の 聞こし食す 天の下に 国はしも 多にあれども(万36)…わが天皇が支配して自分の物とされている天下に、国々はたくさんあるけれど
用例から考える限り、語義として、ヲスは、わが物にする、という意味合いが中心的な位置を占めている。自分の物として飲み、食い、そして着て、統(す)べるのである。国を統べる意に用いることは、国を自分の物としてしまうということである。だから、「居」から派生したとする説があったのであろう。また、メス(見)と語義が近いものであった。そして、語の直接の解釈としては否定的にならざるをえないものの、人間の五感の働きと統治とは、密接にかかわるとの指摘もある(注10)。その対象を、「食国」と見立てた、見なした、ということと一応は考えられる。自分の物にしていることの意であると確認されるのである。
しかるに、国を自分の物とするということなど、本来できるものであろうか。他国を侵略し、占領し、自国であると既成事実化していくことは現実に起きている。とはいえ、国を統治者の“物”と見なすことは、どこまで行っても比喩である。土地を国有化、ないし、王領化したとしても、朕(わ)が物としきれているとは言えない。自然災害は起り得るし、住民がどうふるまうかもわかったものではない。
飲んだり食べたりしてしまったものは、自分の体の中に入ってしまって消化、吸収されることになり、確かに自分の物にしてしまったと言える。紀74歌謡の衣服の例では、身に着けて誰にも渡さなかったことを、「七重をし」という表現で言い当てている。ぐるぐる巻きにして簡単にはほどけないのだから自分の物だと言えるのだろう。とはいえ、剥がそうと思えば剥がせないことはなく、ために例えば「着」字を書いてヲスという訓を付すことには至らなかったのであろう。すなわち、もともと食べるという意味の尊敬語としてヲスという語が誕生し、そこから展開してヲシモノ、ミヲス、ミヲシタマフといった言葉が用いられて語義の拡張が見られ、わが物にすること全般にヲスという語が使われても、その意をよく表す字として「食」字が当てはまるからそのまま使われ続けていると考えられる。
ヲスクニ思想があってニイナメ=ヲスクニ儀礼を生み出し、それに合わせるようにヲス(食)という言葉が生まれたのではないのである。御贄を天皇が食べることが、そのまま直接その献上してきた国を統治したことになるなどとは思われていなかったであろう。都に住んでいれば下級役人でも商工業者でも、遠く離れた地方の産物を日常的に食することになるが、誰もヲスクニを治め奉っているとは思っていなかったであろう。ヲスクニという言い方は短絡的な発想に嵌め込んで成立しているのではなく、言葉を捉え返せばそういうことも言えるだろうとして、万葉集に麗句として用いられたり、一部の宮廷儀礼に導き入れられて国栖奏などとして楽しまれていたものと考えられる(注11)。
では、ヲス(ヲシモノ、ミヲス、ミヲシタマフ)といった使い方から、ヲスクニ(食国)(注12)へと飛躍した、その飛躍を可能とさせた語学的理由はどこにあるのか。問われるべきなのは語学的理由である。言葉は観念そのものだからである。「言語事実を持つ以前に一般的観念について語ることは、牛の前に犂をつける如き転倒である。」(ソシュール)から、ニイナメ=ヲスクニ儀礼なるものを架空している時点で立論に倒錯がある。
ヲスの語学的解釈
語学的理由としてあげられる点は、ヲスという語が、ヲ+ス(尊敬の助動詞)でできあがっていることに限られる。ヲという語は、一つには感動詞ヲがあり、応答、応諾の声に発する。「感動詞「を」とは物事を承認し確認する気持を相手に表明する語であった。」(岩波古語辞典1489頁)。
時に武甕雷神、登ち高倉に謂りて曰はく、「……取りて天孫に献れ」とのたまふ。高倉、「唯唯」と曰すとみて寤めぬ。(神武前紀戊午年六月)
否も諾も 欲しきまにまに 赦すべき 貌見ゆるかも 我れも寄りなむ(万3796)
……と、ただともかくも御心して思さむ方にしなし給へ」とのたまへば、「を」とて立ちぬ。(落窪物語・四)
「いづら、この近江の君、こなたに」と召せば、「を」といとけざやかに聞こえて出で来たり。(源氏物語・行幸)
人の召す御いらへに、男は「よ」と申し、女は「を」と申すなり。(古今著聞集・三三一)
応諾する際に答えとする一音の語には、ほかにウがある。
今日のうちに 否ともうとも 言ひ果てよ 人頼めなる 事なせられそ(信明集)
このウという一語に国譲りの話を展開させたのが、事代主神の話である(注13)。イナセハギという使者が派遣されていた。その話は、底流に、鵜飼の様子から形作られたものであった。ここで、我々は重要なことに気づかなければならない。鵜飼の鵜は、いったんは口に入れた食べもの、獲物のアユを吐き出している。その吐き出したアユは鵜匠の手に渡る。すなわち、贄として献上されるのと同じことが、鵜飼の現場で行われているのである。
鵜匠に鵜は献上して従っている。献上しましたがこれで良いですかと問われ、それで良いと答えることが行われているわけである。ヲ(諾)+ス(尊敬の助動詞)とされているのである。
鵜飼図(岐阻路ノ驛 河渡 長柄川鵜飼舩、渓斎英泉(1791~1848)、横大判錦絵、江戸時代、19世紀、東博展示品)
そして、多数の鵜は、一人の鵜匠の手につながれて操られている。つないでいるのはヲ(緒)である。これがヲスを構成しているヲの二つ目の意である。ヲ(緒)+ス(尊敬の助動詞)の意に解されたとき、鵜匠の手技を表しているとわかるのである。獲物のアユがヲシモノ(食物)として差し出されている。
すなわち、ヲスクニ(食国)とは、そんな、被「国譲り」国を表している。鵜匠が多数の鵜を緒によって操るように、天皇は多数の国を操るのだと喩えている。鵜匠が緒を操るのは巧みで、けっして絡まないようにしながら、もし絡まったら緒は鵜の首を絞めて窒息死させてしまうから、その時には咄嗟に切り離すようにしていた(注14)。それがスブ(統)ことの極意であった。
海神、是に、海の魚を総べ集へて、其の鉤を覓め問ふ。(神代紀第十段一書第一)
機衝を綢繆めたまひて、神祇を礼祭ひたまふ。(垂仁紀二十五年二月)
吾が国を領べ制めたまふ天皇、既に崩りましぬ。(雄略紀二十三年八月)
皇太子、乃ち皇祖母・間人皇后を奉り、并て皇弟等を率て、往きて倭飛鳥河辺行宮に居します。(孝徳紀白雉四年是歳)
綜 祖統反、ヘ、スブ(スヘテ)、ナラフ、フサヌ、イトアハス、モチアソフ、ツムク、ムツフ、キヌタリ、ヲサム(名義抄)
鵜匠は複数羽の鵜をそれぞれ緒でつなぎ、横に並べていた。ナム(並、下二段)(注15)はナム(嘗・舐、下二段)は同音で、連用形はナメ(メは乙類)となる。鵜はアユを口に入れることはできても首結いがあって飲み込んでお腹に入れることはできない。口のなかで舐めることばかりしている。そしてまた、その理由はわからないが、ナメシガハ(鞣革)のことはヲシカハ(韋)とも言った。ここに、ヲスクニ(食国)がニヒナメ(新嘗)と語学的に関係づけられるわけである。
……年毎に船双めて、船腹乾さず、柂檝乾さず、……(仲哀記)
楯並めて〔多々那米弖〕 伊那佐の山の 木の間よも い行き目守らひ 戦へば 吾はや飢ぬ 鵜飼が伴 今助けに来ね(記14)
名けて池辺双槻宮と曰ふ。(用明前紀)
たまきはる 宇智の大野に 馬並めて〔馬數而〕 朝踏ますらむ その草深野(万4)
……塩酢の味、口に在れども嘗めず。(推古紀二十九年二月)
啜 士悦反、入、又市芮反、去、嚼也、奈牟(なむ)、又阿支比利比(あきひりひ)(新撰字鏡)
甞 奈牟(なむ)(金光教最勝王経音義)
酒君、則ち韋の緡を以て其の足に著け、……(仁徳紀四十三年九月)
⾱ 唐韻に云はく、⾱〈⾳は闈、乎之賀波(をしかは)〉は柔し⽪なりといふ。 (和名抄)
鵜飼をめぐるこの言葉の機知をもって、はじめてヲスクニ(食国)がニヒナメ(新嘗)と関係があるとわかる。それは、現代の我々にとってだけでなく、上代の人にとっても、いやむしろ、文字を持たなかった上代の人こそ、それ以外に理解のしようがなかったと言えるのである。そしてまた、ヲスクニという言葉が、「夜之食国」(注16)を始原としていることも明らかにしている。今日、観光目的ではあるがそうであるように、夜に鵜飼が行われていた。すなわち、ツクヨミ(月読命)に「夜之食国」を知行するようにとのイザナキ(伊耶那岐命)のお達しは、鵜飼を夜に行うことにまつわるものである。この場合、篝火で魚を集めて漁をする関係上、満月の月明りは好まれていないようである。あくまでもツクヨミ、つまり、月齢を数えることが「夜之食国」を支配することと密接にかかわることを言っている。古代において、夜間に食料を獲得する営みは他になかったであろう。
おわりに
上代の人たちは、すべてのコト(事)をコト(言)に表して過不足ない言語世界を創りあげていた。言葉以前にいかなる観念もあり得ないであろうことは、社会の構成員の誰か一人ができごとに遭遇したり、夢を見たりした時、その事件や夢を誰にも語らなかったらそれはなかったことと同じことであるのとよく似ている。記録がない時代、記憶にないことは一切なかったことなのである。それは今日の人とて似たようなもので、一時代前のテープレコーダーやバスの車掌や鰯の頭も信心について話してみたところで若い人に通じはしない。少し違うところは、記録されているからそれによってそれらがあったことが確かめられ、学習の機会が残されている点である。とはいえ、今日の人が記紀万葉などのメッセージからいかにメタ・メッセージを構築しようが、逆に上代の人に通じるものではない。上代の人にはヤマトコトバで話してみるしかないのである。上代の人は上代に生きていて、その暮らしの常識の範囲内でしか想像し合うことはなかった。ヤマトコトバはその範囲内で具体的に存在していたのであり、二十歳を過ぎてまで高等教育を受けなければ接することがない抽象名詞など一つもなかったのである。そんな人たちが「夜の食国」と言ってわかり合っている。なぜわかるか。夜、鵜飼をするのが卑近なこととしてあり、鵜がやっていることは贄を献上することとパラレルなことであると誰しも悟っていたからである。上代の文献資料のほとんどを占める記紀万葉を理解するためには、ヤマトコトバのなかで完結するようにヤマトコトバで読むことが肝要である。
(注)
(注1)食べ物のことを指すヲシという語彙が近世まで名残をとどめている。「又、往古には飯を、をしといひし也。『古事紀』『日本紀』等に袁須、袁勢など見え侍るは、是則、食の事なり。今の世に婦人産の時、産棚にをし桶といふ物を飾る。をし桶は、飯器をいへり。……又、鷹に餌をするを、をしするといふも同し意にやあらん。」(越谷吾山・物類称呼・四、国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200002932/viewer/97、漢字等の旧字体は改め、句読点等を付した)。
「食国」の例は、続日本紀の宣命に34例、延喜式・祝詞・大殿祭に1例見える。続日本紀において本文に見られるわけではないから、麗句的な扱いであったと考えられる。決まり文句の麗句を繙くことよりも、その言葉が使われ始めた当初の輝きを見たほうが正確な観測ができると考え、ここではそれらをとりあげない。宣命の例から「食国」についてその思想性を説いてみても、言葉の本質は見抜けず、ただ現代人の思潮の投影になりかねないのではないか。
(注2)次の万24番歌ともども、通常採られない例である。結句は、タマモカリマスとも訓まれている。
(注3)キコシメスとも訓まれている。
(注4)一般には、ミヲシという名詞形を認め、高貴な方が食事をすることの意と考えられている。「食物」はヲシモノと訓まれるところから、ヲス(食)という動詞の連用形名詞、ヲシにさらに接頭語ミ(御)がついたミヲシという名詞を想定し、それをサ変動詞(為)でうける形、ミヲシス、ミヲシシタマフとする訓みが古訓段階から行われている。ヲシだけで敬語なのにさらにミを冠したオミオツケ(御御御付)的な語彙ということらしい。しかし、旅先で食事を摂る時にばかり「飲食」、「進食」、「御食」といった語が使われている。旅先でご当地の旨いものを提供されて食したのではなく、持参している携帯食をその場で加工して食べたものと筆者は考えている。「足柄の坂本に到りて、御粮を食む処に〔於食御粮処〕、……」(景行記)とあるのと同じことをしている。すなわち、糒(ほしいひ)を水に浸して戻して食べたのであり、ミヲスはミ(水)+ヲス(食)の意であったのだろう。すると、ミヲシスという訓みでは高貴な人専用の携帯食を水で戻すことをする、という意味になって齟齬を来す。動詞ミヲスで、水を得てお食事をされることを指すと考える。逆に言えば、水がなければ食べられないのである。「飲食」という用字とその順は含蓄あるものである。拙稿「ミヲシ(進食・御食)のこと─ミヲ(水脈、澪)との関連をめぐって─」参照。
道明寺干飯(左:平瀬徹斎・日本山海名物図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555439/18をトリミング、右:現代)
したがって、兼永筆本の景行記に「御食時」とあるのは、語義の理解に誤りがあると考える。なお、兼永筆本は、仲哀記部分を「御食」としている。また、兼方本以来、神代紀第八段一書第六に「且當飯食」(e国宝https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=101084&content_part_id=001&content_pict_id=002&langId=ja&webView=参照)と訓まれているのも同様である。時代別国語大辞典は、ヲス(食)、ヲシモノ(飲食・食)は載せるが、ミヲシという形は載せていない。
(注5)西郷2006.は、「山海の政」「食国の政」「天つ日継」がセットとして語られており、食国が海産物を贄として貢上する「御食つ国」に関係がある言葉なら「山海の政」と「食国の政」が別置されていることの説明がつかないとしている。「もし「食国」がこうした[万葉集の例に見られる]「御食つ国」にもとづく、あるいはそれとかかわっているのであるなら、ここでなぜ「山海の政」が「食国の政」のなかに入らず別立てとなるか説明できなくなる。むしろ、山野河海のニヘ[贄]の貢納のことをつかさどる「山海の政」は、……一つの独自の領域であったらしく、宮廷の節会にさいしニヘを献ずる吉野の国栖につき、「凡吉野国栖、永勿二課役一」(民部式)とあるのなどからも、その一端がうかがえる。他方、「食国」は食采とか食邑とかの漢語にならってできた語ではなかろうか。むろんヲスは食うの敬語に用いられることもあるが、だからといって食物を献上する国をヲスク二といえるかといえば、日本語の語構成としてそれは無理というほかない。ヲスクニのヲスは、やはり統治する意の敬語とすべきである。」(269~270頁)と疑問をぶちまけている。
(注6)拙稿「吉野の国主(国樔・国栖)の献酒歌について」参照。
(注7)太子は片岡に遊行しているので、ミヲシのために糒を携帯していてそれを分け与えたという意味で、「飲食」という用字にしているのかもしれない。別訓のクラヒモノは、即物的な意として通じる。
(注8)岡田氏の考え方の淵源上には折口信夫氏の考え方がある。「天子様が、すめらみこととしての為事は、此国の田の生り物を、お作りになる事であつた。天つ神のまたしをお受けして、降臨なされて、田をお作りになり、秋になるとまつりをして、田の成り物を、天つ神のお目にかける。此が食国のまつりごとである。食すといふのは、食ふの敬語である。今では、食すを食ふの古語の様に思うて居るが、さうではない。食国とは、召し上りなされる物を作る国、といふ事である。後の、治める国といふ考へも、此処から出てゐる。食すから治める、といふ語が出た事は、疑ひのない事である。天照大神と御同胞でいらせられる処の、月読命の治めて居られる国が、夜の食国といふ事になって居る。此場合は、神の治める国の中で、夜のものといふ意味で、食すは、前とは異つた意味で用ゐられて居る。どうして、かう違ふかと謂ふと、日本の古代には、口で伝承せられたものが多いから、説話者の言語情調や、語感の違ひによつて、意味が分れて行くのである。此は民間伝承の、極めて自然の形であつて、古事記と日本書紀とでは、おなじ様な話に用ゐられている、おなじ言葉でも、其意味は異つて来て居る。時代を経る事が永く、語り伝へる人も亦、多かつたので、かうした事実があるのである。」(折口1995.171~172頁)
主張の是非は本文に譲る。後半部分で、意味が異なってくるのは口承伝承によるためであり、説話者が違えば意味が分かれて来るとしている。無文字時代には言葉の意味に錯綜が起きやすく、文字時代にはそうでもないという傾向を認めることになるが、実際にはそのようなことはないであろう。伝達には、話し手ばかりでなく聞き手の存在も必要である。聞き手がよく理解、納得したときにはじめて伝承される。言葉の意味がさまざまであっては、理解されず伝わらない。伝わっているということは言葉の意味が焦点を結んでいて、話し手と聞き手の間に共通理解があったということである。むしろ文字があったほうが字義による膨らみを容認しやすく、同じ言葉でも多義になることは多いであろう。
(注9)井上1998.、大津1999.、中村2002ab.に、考え方の枠組みを踏襲してそれを展開した説が提起されている。言葉の定義として、「食国とは、文字通りその土地でとれた食物を供して食べてもらうことであり、そこに内包される支配・服属関係を示している。」(大津1999.62頁)などとある。動詞のヲス(食)をクニ(国)に連体形で被らせたヲスクニ(食国)という語が一人歩きしている。お食べになる国、お召し上がりになる国、と表現される言葉は、「文字通り」「食物を供して食べてもらうこと」には全然ならないし、「そこに内包される支配・服属関係」を示すことにもつながらない。和田2020.は、「食国」の神事はいわば稔りの神霊迎えのことで服属儀礼には発展していないとする考え(114~115頁)を述べている。もとより、奈良時代の人はヲスクニと聞いていて、食邑に類するショクコク(食国)という概念用語の漢語を用いているわけではない。
(注10)中村2002b.に、「古代の天皇の統治がこのような「食べもの」、あるいは「食べる」という行為をとおして表現されることについては、やはり本居宣長の次のような説明を素通りするわけにはいくまい。
さて物を見も聞も知も食も、みな他物を身に受入るゝ意同じき故に、見とも聞とも知とも食とも、相通はして云こと多くして、君の御国を治め有ち坐すをも、知とも食とも、聞看とも申すなり、これ君の御国治め有ち坐すは、物を見るが如く、聞くが如く、知るが如く、食すが如く、御身に受入れ有つ意あればなり。
ここには、やはり宣長ならではの、古代世界にたいする端倪すべからざる洞察がしめされている。この宣長によるたった数行の解説を通じて、われわれは、律令期の中央集権的な天皇統治の基本が合理的体系的な法支配、官僚機構、および徴税システムにもとづくという表向きの姿とは裏腹に、それらの文明的な支配装置の底流で、古代人の五官の特性に全面的に依存するような、いわば身体的な統治の技法が最大限活用されていたことを知りうるであろう。」(22頁)とある。この指摘は、実は当たり前のことである。文字という記号操作をしない上代の人々が、身体的感覚を媒介せずに理解できることなどない。
(注11)国栖奏、隼人舞について、大それた見解が行われることがあるが、位置づけからして儀式において余興的なものであったとするのが妥当なところであろう。
また、当然ながら、「食す国」と言って直接的に「国」を食べ物とするのではない。食べ物には動植物いろいろあるが、単純に狩猟・採集によって得られたもの、農耕による穀物や豚のような食用家畜があり、それ以外に、生業の手段に動物を使って食べ物を獲得する、鷹狩や鵜飼のような高度なわざが存在している。「食す国」と、一歩引いた形で言葉が成り立っている点は、間接的に食べることになっている様子を表わしていると見当がつく。
(注12)ヲスクニ(食国)と使うときには、そこに限定性が見出されるとする見方がある。どこからどこまでか限りがあるということである。しかしそれは、ヲス(食)が飲む・食う・着る、の意味においてすでに前提とされていることである。一日に食べられる量は限られているし、そのときに身に着けられる衣装も頑張っても十二単であって、夏場などほとんど着たくないことさえある。「天の下」と「食す国」とどちらが広くあるかという単純な比較では、限定を伴わない「天の下」ということにはなるものの、万36番歌にあるとおり、「天の下」を「吾ご大王」が「聞こし食す」ことになっている。そういう言い方をしてもかまわないのは、大仰な言い方をして持ちあげる歌だからである。ヲスクニという語ばかり見ていても理解には至らない。
「ヲスは食うの敬語に用いられることもあるが、だからといって食物を献上する国をヲスク二といえるかといえば、日本語の語構成としてそれは無理というほかない。」(西郷2006.270頁、上掲(注5))というところがこの問題の核心である。
(注13)拙稿「事代主神の応諾について」参照。
(注14)鵜飼の緒(縄)については、宮部1915.に次のように説明されている。「手縄 檜を細線にし之を綯ひたるものなり。周り三分長凡そ一丈〈但し時々少差あり即ち夏の始め未だ鮎の小なる比は長九尺中頃一と云ふ〉の縄にして其先に「ツモソ」と称する鯨骨にて作れる長一尺二寸の紐を着け、其末を「シマダ」に曲げて其処へ腹掛の緒〈右綯の麻縄にて鵜の胴を翼の下へかけて縛るものなり〉を結び留め、首結の緒〈左綯の麻縄にて鵜の咽を約するもの〉を引通し以て鵜を縛するに用ふるものなり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932610/78~79、漢字の旧字体は改め句読点を付した)。特殊なつくりにしている理由について、可児1966.は、「ヒノキを材料にすると三つの利点がある。第一に水に浸すとさばさばして捌きやすいため、ウが篝火の下で縦横に動いてももつれにくい。第二に引く力に強く耐えることであり、手縄をたぐってウを手もとに引きよせるのにつごうよい。第三に川には障害物が多く、これに手縄がまきつくとウが水上に浮かびあがれず、 溺死する危険がある。この時は間髪をいれず、気合とともに手縄をねじきる必要がある。ヒノキの繊維は、撚りを左にもどすとたやすく切れる。」(101~102頁、漢字の字体を一部改めた)としている。
(注15)伝統的な鵜飼漁をする鵜使いでは、1人で2羽ほどの鵜を使うことが多かった。その場合、ナム(並)ではなくナラブ(並)と形容されるはずである。数多くの鵜を使う場合にも、鵜籠に2羽ずつ入れられてカタライというペアにされ、船べりに立たせる時はそれぞれに定位置があって乱されると喧嘩が起こる。統率がとれなければ鵜飼は成立しないということである。朝廷に関係する贄献上のための鵜飼は、多数の鵜を使うものであったと予想される。
毎年に 鮎し走らば 辟田川 鵜八頭潜けて 川瀬尋ねむ(万4158、大伴家持)
ここに記されている鵜飼が手縄につながれたものか、放ち鵜飼であるかわからない。現代中国の鵜飼が人工繁殖させたカワウを使い、手縄を使用せずに昼間行われている点は本邦と大きく異なる。ヲス(食)という語を得意げに用いていることから鑑みるに、移入された鵜飼が改良されてヲ(緒)につながれることとなったことから誕生した言葉のように感じられる。そしてそれが夜間行われるものであったから、「夜の食国」という言い方へと導かれたと考えられる。日本の鵜飼は集中特化して贄献上のためのアユ捕獲に用いられ、そのために嘴の大きなウミウを捕獲しては使っている。飼い慣らすが飼い慣らしすぎないこと(リバランス)が求められており、動物、自然環境全体への理解が深かったことが指摘されている。卯田2021ab.参照。
卯田2021cは、鵜飼と権力者との関わりについて、吐き出したり応諾させられたりするときの一音ウによって命名されているウ(鵜)や、鵜飼によっても成り立っているヲス(食)というヤマトコトバなど眼中にないためか、「いまのところ野生性と権力は結びつきやすいのではないかと考えている。すなわち、猛禽類などの荒々しい野生動物を手なずける能力があること、あるいはその能力をもつ人間(鵜匠や鷹匠など)を管理下におく力があることを社会に広く知らしめることが、権力の誇示に結びつくと考えられていたのではないだろうか。」(11頁)としている。卯田氏が指摘されているとおり、日本の鵜飼はリバランスが巧みである。ヲスクニ(食国)という言葉も、ただ支配して被支配民を奴隷化することには当てられない。それが毒ならともに食べてともに死ぬ関係でさえある。言葉に言い当てて観念は定着し、テキストとなって具現化して行っては確認されるのくり返しである。ヲスクニ(食国)という言い方が行われて命脈を保ち、いつの時代も百姓が奴隷や農奴ではなかったように、近現代までヲスクニ(食国)的統治は続いていると考える。飼い慣らされてはいるが飼い慣らされすぎてはおらず、よって革命も起こらなかったのだと感じられる。
(注16)石川1921.に、ヲスを支配するという語と解すれば、「『汝命は夜の食国をしらせ』との神語は意味をなさず。知らす国を知らせ、と言ふことになりて、同語を重畳せる拙劣なる語句とならん、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963272/23、漢字の旧字体は改めた)と、尤もな評言が見られる。
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思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
中村2002a. 中村生雄「「食国」の思想─天皇の祭儀と「公民(オホミタカラ)統合」─」今谷明編『王権と神祇』思文閣出版、2002年。
中村2002b. 中村生雄「即位儀礼─王の誕生と国家─」『岩波講座 天皇と王権を考える 第五巻 王権と儀礼』岩波書店、2002年。
『万葉語誌』 多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
村上2012. 村上麻佑子「古代日本における『食国』の思想」『日本思想史学』第44号、2012年9月。『日本思想史学』バックナンバーhttp://ajih.jp/backnumber/pdf/44_02_01.pdf
宮部1915. 宮部銀次郎編『美濃名勝案内:附・長良川鵜飼之記』宮部書房、大正4年。
『明治前日本漁業技術史』 日本学士院日本科学史刊行会編『明治前日本漁業技術史』日本学術振興会、昭和34年。
最上1967. 最上孝敬『原始漁法の民俗』岩崎美術社、1967年。
山﨑2014. 山﨑かおり「月読命と夜之食国」『国学院雑誌』第115巻第10号、平成26年10月。
吉田2016. 吉田修作「「天つ日継」と「食す国の政」─ウヂノワキイラツコとオホサザキ─」『比較文化 : 福岡女学院大学大学院人文科学研究科紀要』第13号、2016年3月。福岡女学院学術機関リポジトリhttp://hdl.handle.net/11470/183(『古代王権と恋愛』おうふう、2018年。所収)
和田2020. 和田行弘「大嘗祭の成立」西本昌弘編『日本古代の儀礼と神祇・仏教』塙書房、2020年。