(承前)
記(2)、紀(1)・(2)の例は、黄泉国との関係からケガレとされている。記(2)の「汚垢(けがれ)に因りて成れる神」は、「八十禍津日神(やそまがつひのかみ)」と「大禍津日神(おほまがつひのかみ)」のことである。この個所については、本居宣長・古事記伝に、「因ノ字は、所到の上にある意に看(ミ)て、時之汚垢(トキノケガレ)とつゞけて心得べし。……文のまゝに看(ミ)ては、いたくことたがへり、」とある。これは、本居宣長の曲解である。「初めて中つ瀬に堕(お)りかづきて滌(すす)ぎたまふ時、成り坐せる神の名は、」として挙げられている。滌いでいて「所二成坐一神」とある「坐」字は、他に敬語を用いていないため不審とされている。しかし、他の神は滌いだ時に初めて現れた神、「此二神」は「穢繁国」=「黄泉国」ですでに現れていた神である。その差を「坐」字は示している。伊邪那伎命の身にまとわりついて付いてきてしまった神と考えれば、「因」字も「坐」字も了解される。
この二神の名義、「八十禍津日神」と「大禍津日神」については、マガはナホ(直)の反対で、曲がっていることを指している。白川1995.に、「「まがこと」とは邪悪なことをいう。神意に反する行為によって生ずる「わざはひ」、不都合なことを意味する。……「曲(まが)る」「曲(まが)ふ」の語幹とみるべきである。」(687~688頁)、古典基礎語辞典に、「マガは、マガル(曲がる)と同根で、原始的な信仰においては凶とされることを表す。マガ(禍)コト(言・事)は、不吉な言葉や不吉な出来事の意。ヨゴト(寿詞)・ヨゴト(吉事)の対義語。」(1098頁、この項、須山名保子)とある。少し考察が必要なようである。
允恭天皇時代に盟神探湯(くがたち)が行われた場所を、「味白檮(あまかし)の言八十禍津日(ことやそまがつひ)の前」(允恭記)、「味橿丘(あまかしのをか)の辞禍戸𥑐(ことのまがへのさき)」(允恭四年九月)と呼んでいる。虚偽、虚言をあぶりだすことに見合う地名と考えられている。氏姓の曲がりを正そうとしている。熱湯泥に手を入れたり、焼いて赤くなった斧を掌にあて、「実(まこと)」が問われた。マガコト→マコトが求められたのである。マガコトに邪悪性や凶事性が感じられるのは、神意によるものではなく、コトが曲げられているからである。だから困る。言葉は世界のすべてを語る。事を曲げて言としていたら、世界に秩序は失われて支離滅裂になる。だからそれは、悪であり、凶である。言=事とする言霊信仰に反するということである。
八十禍津日神と大禍津日神は、「穢繁国」、つまり、黄泉国ですでに現れていて、伊邪那伎命の身にまとわりついて来てしまった神である。黄泉国で起こっていたことを思い出せば、マジックが起っていた。黒き御鬘を投げたら蒲子(えびかづら)になったとか、湯津つま櫛を投げたら笋(たかむな)になったとされていた。それぞれ似ているものが連想されるとともに、それぞれのもととなる素材をあげている。鬘には葵祭で用いられるフタバアオイなどのように、草木が利用されていた。そのなかでもエビカヅラをあげているのは、秋に色づいて劇的に変化するところが好まれているのであろう。櫛の歯が林立するところは、雨後のタケノコのようである。そればかりでなく、櫛の材料にタケが用いられていたことから笋が好まれているのであろう。エビカヅラから鬘、タケから櫛が作られることはあるが、その逆はない。不可逆的なことをあたかも起こりうるかのように描写する世界、それが黄泉国であった。その最たることとは、亡くなってしまって葬られた伊邪那美命自身が、蘇ろうと思った点である。「還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ。」と試みていた。命あるものはみな死ぬのであり、不可逆的である。その大前提を曲げるようなことが起こるところが、黄泉国である。「其の穢繁(しけ)しき国に[伊邪那伎命ガ]到りたまひし時、汚垢(けがれ)に因りて成れる神なり」とあるのは、言い得ている。「八十禍津日神」と「大禍津日神」は、決して伊邪那伎命(伊弉冉尊)の死体から成った神ではないし、「死に因りて成れる神」でもない。「死」という概念から、「八十禍津日神」と「大禍津日神」という象徴、記号が成ったとする話を創りあげることはありえない。文字のなかった時代である。抽象概念から抽象概念を導く形式的操作をされては、聞く側は書き留めでもしなければ混乱して訳が分からず、互いに了解しあえる話にならないからである(注9)。
新撰字鏡の、「蕪 穢也、荒也、志介志(しけし)」の語義は、同じく新撰字鏡に、「穢 薉同、於癈反、去、蕉悪也」とあるのにほぼ等しい。整然としていなければならない田畑の植え付けにおいて、雑草が紛れ生えていることを言っている。たいへんな労力を集中して水田稲作を行い、イネ単体の繁茂を目指しているのに、ヒエやクワイやその他雑草がほうぼうに生え出てきている。允恭天皇代の盟神探湯に、氏姓の来歴を偽って喧伝することが禍(まが)なことであって正さなければならないほどに、青人草はてんでばらばらに乱れ生えていた。同じように、黄泉国の「事戸を度(わた)す」(記上)、「絶妻之誓建(ことどわた)す」(神代紀第五段一書第六)際に、伊邪那美命(伊弉冉尊)が「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」(記上)、「吾は当に汝が治す国民(ひとくさ)、日に千頭縊り殺さむ」(神代紀第五段一書第六)と言い出している。わざわざヒトクサと形容しているのは、「蕪」、「薉」、「蕉悪」の意を伝えるためであろう。そして、黄泉国との間に石を引いて遮断するということは、可逆性を断って整序を保つということである。事の独り歩きを許さず、門限で閉ざすことによって、事は言との一致を復活することができるのである(注10)。そしてまた、いわゆるヨミガヘル(蘇・甦)という語も、ただ生き返るという意味ではなく、混沌を断って秩序ある世界に立ち戻ることをいう言葉であったと理解される。完全に死んでしまった人、心肺停止が続いた人、干し鰒に加工されたアワビが生き返るのではなく、危うくなったものが生き返ること、それがヨミガヘルである。
時に、日羅(にちら)、身の光、火焰(ほのほ)の如きもの有り。是に由りて徳爾(とくに)等、恐りて殺さず。遂に十二月の晦に、光を失ふを候(うかが)ひて殺しつ。日羅、更に蘇生(よみがへ)りて曰く、「此は是、我が駈使奴等(つかひやつこら)が為せるなり。新羅には非ず」といふ。言ひ畢りて死(みう)せぬ。(敏達紀十二年是歳)
或る娘子(をとめ)等の、褁(つつ)める乾鰒(ほしあはび)を贈りて戯(たはぶ)れに通観僧(つうくわんほふし)の咒願(じゅぐわん)を請ひし時に通観の作る歌一首
海神(わたつみ)の 沖に持ち行きて 放つとも うれむそこれが よみがへりなむ(万327)
整序を保つということは、雑草は無くなるということに当たり、「蕪」でなくなると言っている。このように、黄泉国の語りには、整序、不可逆性の乱れが一貫したテーマとして述べられている。「黄泉国」を単に死者の国の表現されたものと捉える(注11)のは誤りである。無文字時代にあった上代人のヤマトコトバの言葉遣いは、きわめて厳密な論理学のような思考を表している。
残る紀(1)の「吾が身の濁穢(けがらはしきもの)」、紀(2)の「其の穢悪(けがらはしきもの)」は、「滌(あら)ひ去(う)てむ」、「濯ぎ除(はら)はむ」対象である。それは、肌に泥がついたとか、衣が汚れて異臭を放っているということではない。気持ちの面で、よろしくないところへ行ったから気が滅入っている、嫌なものを見たのが目に焼き付いて鬱陶しい、そういった感情を浄化しようというのである。以上のことから考えると、記(2)、紀(1)・(2)の例は黄泉国に行ってそこがケガレていた、あるいは、その光景を目にしたがためにケガレたと考えるのが適当である。ケガレの源泉は、黄泉国が不可逆なことを可逆にしようとするほどに整序を欠いている点にある。伊邪那伎命(伊弉冉尊)の死、ならびにその死体、あるいは死という概念一般に発するものではない。死=穢れとする観念は、上代にはなかったというのが実情と考えられる。
以上、上代におけるケガレの観念がいかなるものか見てきた。およそ観念を理解するのに、文献に残る言葉とその使い方を決め手とすることは常道である。古代のことを知るためには、ロゴスを探ることが先決である。
(注)
(注1)ただし、「[「けがす」ハ]「穢(け)」「褻(け)」を語根とするもので、清浄をそこなうことをいう。仮名書きの例をみないが、〔神楽歌、神上(かみあげ)、或説〕「すべ神はよき日祭れば明日よりは朱(あけ)の衣(ころも)をけころもにせむ」の「けころも」は「褻衣」の意であり、〔万葉〕の「毛許呂裳(けころも)」〔一九一〕もその意であるから、ケは乙類音と考えてよい。」(316頁)としている。漢字の「穢」と「褻」に、意に通じるところがあるとみている。名義抄の訓に、「褻」にケカルとあるところによるものであろうか。説文に、「褻 私服也。衣に从ひ執声。詩に、是褻袢也、と曰ふ。」とある。ふだん着のことである。褻は、なれる(慣・馴・狎)意味である。「褻狎」はなれること、「褻瀆」はなれけがすこと、「褻器」はなれた容器、つまり、おまるのことである。なれる(褻)と、親しき仲に礼儀がなくなるところから、けがれていると感じるかもしれないが、もとの意味が「穢」と通じているわけではない。「毛許呂裳(けころも)」(万191)は確かに「褻衣」の意であろうが、ふだん着が穢れた衣であるというわけではあるまい。
毛許呂裳(けころも)を 春秋(とき)[=時と解キとの掛詞]片設(ま)けて 幸しし 宇陀の大野は 思ほえむかも(万191)
「穢」をケと一音で訓む例も知られない。上代に見られる言葉、ケガル、ケガス、ケガレ、ケガラハシの語根に、ケ(褻、ケは乙類)を想定することには無理があると考える。ケガレの概念が中古に大きく展開、転換した結果として、聖俗二元的な思想に至り、名義抄において、「褻」の訓にケカルとあるのではないかと考える。
(注2)高取1993.に、「政府は一ヵ所にまとめて埋葬せよといっているのに、民間ではあちらこちら勝手に散らし埋めるものが多いということになる。これは死穢を忌むことが強いとか弱いというのではなく、どういう状態にあることが忌むべきことなのか、禁忌の内容にさまざまなもののあったことを推測させる。日本人は昔から死穢を忌んできたと一律に断定してしまう前に、死の忌みそのもののありようについて、具体的に考えてみる必要は多分にあると思われる。」(197頁)、「死の忌みについて、民間では意外に無頓着な面もあったのに、貴族たちだけが神経質であり、過度に敏感であったとすると、その原因は彼らの地位の特殊性にもとめねばならないし、当然のこととして、外来の文化、思想の影響を考えなければならない。」(283頁)とある。正しい姿勢である。しかし、成清2003.には、「[死は、]律令制の成立以前から畏るべき忌憚の対象として認識されていたことは間違いないだろう。しかもそれは一部の支配階層のみの認識ではなく、日本社会の総体としての認識と考えてよいであろう。」(195~196頁)と従来からの考え方に留まっている。
殯が積極的に行われていた実例から考えると、伊藤2002.に、「この時代は、生と死が対立したものではなく、連続性があるものと考えられており、生者と死者との距離感が非常に近かったこ[ママ]という事実を暗示している」(5頁)、「死を生の連続性の中で捉えており、死体そのものに対する恐れの観念は希薄だったようである。」(同頁)とするのは正しいであろう。また、「『大化の薄葬令』以降、奈良時代末から平安時代初めにかけ、朝廷側の死体に対する「ケガレ」観念が大きく変化したのは事実であろうと思われる。」(6頁)とすることも蓋然性が高い。律令・假寧令に「服假」として規定されているものは、喪に服して弔うために休暇を与えるというものである。死の穢れに触れているから出社するなというインフルエンザ、触穢的発想とは違っていた。その当初の考え方は変わり、平安時代に入ってから穢れを忌みに結び付けるようになり、拡大解釈が起こるようになっていったとみる。
(注3)万葉集に「穢」字は、「穢(きたなき)屋戸(やど)」(万759)、「今日の夕月夜 不穢(きよく)照るらむ」(万1874)と用いられている。ケガレ系の言葉は使われていない。
(注4)記(2)の例の「穢繁」は、西宮1990.にケガレシゲキと訓んでいるが、新撰字鏡に、「蕪 穢也、荒也、志介志(しけし)」とあり、神道大系本、西郷2005.などにシケシキと訓むのに従った。
(注5)筆者は、基本的に“語源”を問うという立場に立たない。記紀万葉を伝えていた上代、特に飛鳥時代において、人々がその言葉はそういう意味合いからそう呼ばれているのであろうと納得されていたと思われる“語感”をもとにしてヤマトコトバを研究している。ケガレ(穢)という言葉について、どうしてケガレ、ケガル、ケガス、ケガラハシといった音により、心が乱れるような汚れ感や、きたならしさの自覚を表していると感じられたのかについては、稿を改めて論ずる。
(注6)現実の都市化とそこに住む人々の“心の都市化”とは並行して起こるものでありつつ、“心の都市化”は情報社会化とその管理化を惹起するものである。その結果、時代性を獲得して社会を一元化に導く傾向が強い。
(注7)土生田1998.に、古墳時代後期に、古墳に追葬するために石室内に入り込むことによって、腐乱死体を実見する経験が多くなり、恐れの気持ちが生まれたことから、膿わき蛆たかる穢れた世界として黄泉国の観念が成立し、それは同時に死穢観の成立したことを意味しているとしている(300頁)。このような図式的解釈は、近現代人が特有に行うものの見方の枠組みによっている。生を正とし、死を不正としている。当たり前の話だが、腐乱死体を実見することなど、横穴式石室に追葬が行われるよりもはるか太古から、常態として至るところにあった。野垂れ死にして放置されたままの死体に膿がわいて蛆がたかることなど、旧石器時代以来、一貫して目にしていた。同じ事態は、鎌倉時代であれ、戦国時代であれ、とてもよく見られ、江戸時代に一気に見られなくなった。そして、切腹が儀式化している。平安時代に死穢を忌み嫌ったとされるのも、平安京の宮廷社会や斎宮など、自然から隔離された場所に起こった現象である。「脳化社会」(養老孟司)にいる我々が、死体に膿わき蛆たかることを卑近に目にしていた人たちの感性に近づくためには、まずは自らの感性の方を否定してかからなければならない。
(注8)拙稿「大化二年三月の甲申の詔の「愚俗」と「祓除(はらへ)」について」参照。
(注9)無文字時代におけるヤマトコトバのあり様について言及している。文字を持たなかったとき、ヤマトの人々は約束事として、言っていることと起っている事とが同じになるように努めた。言=事とする言霊信仰である。そうしないと、言語活動に確かさが担保されない。逆に言えば、言語活動は事柄と一致しなければならないという制約に囚われていた。これはとても興味深い状況である。言葉に発した時、その言葉が確かであると理解されるために、その言葉のなかに自ら塗り込めて言及することが行われていた。言葉が自己説明を含んで発せられるのである。それは、話している言葉がそのまま辞書的な定義を行って説明し続けていることになる。それにより、聞いた話がその場において、なるほどそのとおりであると腑に落ちる仕組みになっている。いわば、アハ体験を引き起こすなぞなぞ的な話しっぷりである。「無端事(あとなしごと)」(天武紀朱鳥元年正月)と呼ばれている。話をするに当たり、言葉の独り歩きを抑止することにつながる。内容から解放されて命題間において形式的に操作することを拒むのである。対して、文字が流入して慣れ親しんでくると、例えば、万葉後期には、漢籍に学んだ記号変換、五行思想に「金」=「秋」であるからとして、季節のアキを表すのに「金」字に採用している。言語活動は、文字、漢籍という担保を得て、いちいち自らを拘束する必要がなくなった。言霊信仰は薄れていき、自己定義的に物語られてきた言い伝えを忘れていくことになった。文字時代が到来すると、あっという間に記紀に伝わる伝承は、人々に理解不能な話になってしまった。
言語がこのように束縛を受けながら用いられていたことが他の民族にあったのか、勉強不足で筆者は知らない。記紀万葉などから顧みることのできる飛鳥時代の言語活動は、「形式的操作」(ジャン・ピアジェ)の段階に至らないままにあった。仮説演繹的思考は行われず、言い伝えに伝えられている類型をなぞらえる形でのみ、その時とその時以降のことを語って理解しようとする傾向にあった。ひとりで真新しい仮説を立てて考えをめぐらすことは、言=事となるべき共同体にあって行われなかったのである。もちろん、伝承の類型を自らに都合よく解釈し、言=事であると主張することは行われており、それが通用しやすいのは、政治の中枢にいた天皇周辺であった。無文字であるヤマトコトバは、権力の集中に多分に貢献するほど政治的色彩が強かった。例えば、初期万葉の雑歌は、額田王のような代詠歌人によって歌われた。彼女は政権のスポークスマンと化していて、同時代的なイデオロギーを喧伝していた。それが多くの人々に受け入れられたのは、当時の共通認識であった言い伝えの内容になぞらえて歌われていたからである。人々は得心が行き、翼賛した。ただし、繰り返しになるが、何か斬新な発想から語りかけるものではなく、言い伝えの範囲に限られて思考されていた。なぞなぞ的なものの考えが重んじられて、いかに知恵ある捻り方ができるか、そればかりが問われていた。文字時代になって訪れた律令制の、知識中心主義の世界とはまったく異質なものであった。
(注10)記に、「黄泉国」に入るところに、「自殿縢戸出向之時」とある。「殿縢戸」は、「殿の縢戸(さしど)」と訓み、門を限って閉ざすことのできる装置になっていると考えられる。退出時の「事戸を度(わた)す」(記上)、「絶妻之誓建(ことどわた)す」(神代紀第五段一書第六)に対応した仕掛けである。話の始まりに戸のカギを開け、終わりに鎖している。新編全集本古事記に、「殿舎の戸はたいてい錠のかかるもののはずであり、疑問が残る。」(44頁頭注)とあるのは考えすぎで、話をわかりやすくするために言っている。
(注11)「黄泉国」は死の世界であるというのが今日までの一般的な解釈であるが、(注9)にも述べたとおり、無文字時代の言語活動において、抽象的な事柄を抽象的な事柄へと写像変換させて事足れりとすることは皆無であったと考える。記号という象徴の操作に明け暮れることはできなかった。一人そのような考えをめぐらせても、誰かに伝える際、書いて伝えることはなく、当然図表もグラフも持ちあわせていない。話して伝えるしかない。話して伝えるとき、相手が分からなければその話はそこで途絶える。それは、比喩的に言えば、算数と数学の違いである。算数に鶴亀算は、未知数xを表すことがない。文字を持たないということは、このxという記号による思考が行われないということである。記号の操作が、具体的なものに裏打ちされた段階に留まっている。目の前の事象をお話の次元の譬え話に仕立てることはできても、それはあくまでも譬え話で、その譬え話はよくよく考えてみれば具体的な事象に還流される。音声言語にのみよっている言葉が抽象的な概念操作に没頭してしまうと、聞く側が納得するに至らず、納得されなければ記憶されることはなく、したがって伝承されることもない。具体的な何かを表しているから、なるほどうまいことを言うね、とその場で理解されて記憶され、伝承されてきた。ほかに絡繰りがあるとは考えられない。創世神話であるとか、それに続く天皇制の正統性を説くための話であると捉えたがる傾向があるが、ただの丸暗記で覚え切れる性質のものではない。だからこそ、神代紀には別伝が多数残されている。
考古学に、横穴式古墳のことを「黄泉国」と表したとする主張は当たらない。話として全然うまいことを言っていない。もし仮にそうだとしてみると、話のセンスはレベルがあまりにも低い。誰が好き好んでそのような変てこな“言い換え”的な譬え話(?)を作るだろうか。横穴式の古墳のお祭り(?)のことを物語にしたとして、面白くもない話を言い伝えていくに耐えるスタミナは、話の中にも外にも存在しない。「黄泉国」の話は、それとは別の、当時新たに馴染むようになったライフスタイルについて、譬え話として“表現”しているものであろう。それが何を表していたものかについては、別に論ずる。そこまで至ってはじめて、ようやく無文字文化の機知に富んだ思惟に近づけたことになる。
(引用文献)
伊藤2002.伊藤信博「穢れと結界に関する一考察―「ケガレ」と「ケ」―」名古屋大学大学院国際言語文化研究科編『言語文化論集』第24巻第1号、2002年11月(http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8691032_po_itoh.pdf?contentNo=1&alternativeNo=)
大本2013.大本敬久『触穢の成立―日本古代における「穢」観念の変遷―』創風社出版、2013年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
西郷2005.西郷信綱『古事記注釈 第一巻』筑摩書房、2005年。
白川1995.白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
神道大系本 『神道大系 古典編一 古事記』神道大系編纂会、昭和52年。
高取1993.高取正男『神道の成立』平凡社(平凡社ライブラリー)、1993年。
土谷1986.土谷博通「古代における穢について―特に記紀より見たその用法―」『国学院雑誌』第87巻第11号、昭和61年11月。
成清2003.成清弘和『女性と穢れの歴史』塙書房、2003年。
西宮1990.西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成二年。
土生田1998.土生田純之『黄泉国の成立』学生社、1998年。
記(2)、紀(1)・(2)の例は、黄泉国との関係からケガレとされている。記(2)の「汚垢(けがれ)に因りて成れる神」は、「八十禍津日神(やそまがつひのかみ)」と「大禍津日神(おほまがつひのかみ)」のことである。この個所については、本居宣長・古事記伝に、「因ノ字は、所到の上にある意に看(ミ)て、時之汚垢(トキノケガレ)とつゞけて心得べし。……文のまゝに看(ミ)ては、いたくことたがへり、」とある。これは、本居宣長の曲解である。「初めて中つ瀬に堕(お)りかづきて滌(すす)ぎたまふ時、成り坐せる神の名は、」として挙げられている。滌いでいて「所二成坐一神」とある「坐」字は、他に敬語を用いていないため不審とされている。しかし、他の神は滌いだ時に初めて現れた神、「此二神」は「穢繁国」=「黄泉国」ですでに現れていた神である。その差を「坐」字は示している。伊邪那伎命の身にまとわりついて付いてきてしまった神と考えれば、「因」字も「坐」字も了解される。
この二神の名義、「八十禍津日神」と「大禍津日神」については、マガはナホ(直)の反対で、曲がっていることを指している。白川1995.に、「「まがこと」とは邪悪なことをいう。神意に反する行為によって生ずる「わざはひ」、不都合なことを意味する。……「曲(まが)る」「曲(まが)ふ」の語幹とみるべきである。」(687~688頁)、古典基礎語辞典に、「マガは、マガル(曲がる)と同根で、原始的な信仰においては凶とされることを表す。マガ(禍)コト(言・事)は、不吉な言葉や不吉な出来事の意。ヨゴト(寿詞)・ヨゴト(吉事)の対義語。」(1098頁、この項、須山名保子)とある。少し考察が必要なようである。
允恭天皇時代に盟神探湯(くがたち)が行われた場所を、「味白檮(あまかし)の言八十禍津日(ことやそまがつひ)の前」(允恭記)、「味橿丘(あまかしのをか)の辞禍戸𥑐(ことのまがへのさき)」(允恭四年九月)と呼んでいる。虚偽、虚言をあぶりだすことに見合う地名と考えられている。氏姓の曲がりを正そうとしている。熱湯泥に手を入れたり、焼いて赤くなった斧を掌にあて、「実(まこと)」が問われた。マガコト→マコトが求められたのである。マガコトに邪悪性や凶事性が感じられるのは、神意によるものではなく、コトが曲げられているからである。だから困る。言葉は世界のすべてを語る。事を曲げて言としていたら、世界に秩序は失われて支離滅裂になる。だからそれは、悪であり、凶である。言=事とする言霊信仰に反するということである。
八十禍津日神と大禍津日神は、「穢繁国」、つまり、黄泉国ですでに現れていて、伊邪那伎命の身にまとわりついて来てしまった神である。黄泉国で起こっていたことを思い出せば、マジックが起っていた。黒き御鬘を投げたら蒲子(えびかづら)になったとか、湯津つま櫛を投げたら笋(たかむな)になったとされていた。それぞれ似ているものが連想されるとともに、それぞれのもととなる素材をあげている。鬘には葵祭で用いられるフタバアオイなどのように、草木が利用されていた。そのなかでもエビカヅラをあげているのは、秋に色づいて劇的に変化するところが好まれているのであろう。櫛の歯が林立するところは、雨後のタケノコのようである。そればかりでなく、櫛の材料にタケが用いられていたことから笋が好まれているのであろう。エビカヅラから鬘、タケから櫛が作られることはあるが、その逆はない。不可逆的なことをあたかも起こりうるかのように描写する世界、それが黄泉国であった。その最たることとは、亡くなってしまって葬られた伊邪那美命自身が、蘇ろうと思った点である。「還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ。」と試みていた。命あるものはみな死ぬのであり、不可逆的である。その大前提を曲げるようなことが起こるところが、黄泉国である。「其の穢繁(しけ)しき国に[伊邪那伎命ガ]到りたまひし時、汚垢(けがれ)に因りて成れる神なり」とあるのは、言い得ている。「八十禍津日神」と「大禍津日神」は、決して伊邪那伎命(伊弉冉尊)の死体から成った神ではないし、「死に因りて成れる神」でもない。「死」という概念から、「八十禍津日神」と「大禍津日神」という象徴、記号が成ったとする話を創りあげることはありえない。文字のなかった時代である。抽象概念から抽象概念を導く形式的操作をされては、聞く側は書き留めでもしなければ混乱して訳が分からず、互いに了解しあえる話にならないからである(注9)。
新撰字鏡の、「蕪 穢也、荒也、志介志(しけし)」の語義は、同じく新撰字鏡に、「穢 薉同、於癈反、去、蕉悪也」とあるのにほぼ等しい。整然としていなければならない田畑の植え付けにおいて、雑草が紛れ生えていることを言っている。たいへんな労力を集中して水田稲作を行い、イネ単体の繁茂を目指しているのに、ヒエやクワイやその他雑草がほうぼうに生え出てきている。允恭天皇代の盟神探湯に、氏姓の来歴を偽って喧伝することが禍(まが)なことであって正さなければならないほどに、青人草はてんでばらばらに乱れ生えていた。同じように、黄泉国の「事戸を度(わた)す」(記上)、「絶妻之誓建(ことどわた)す」(神代紀第五段一書第六)際に、伊邪那美命(伊弉冉尊)が「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」(記上)、「吾は当に汝が治す国民(ひとくさ)、日に千頭縊り殺さむ」(神代紀第五段一書第六)と言い出している。わざわざヒトクサと形容しているのは、「蕪」、「薉」、「蕉悪」の意を伝えるためであろう。そして、黄泉国との間に石を引いて遮断するということは、可逆性を断って整序を保つということである。事の独り歩きを許さず、門限で閉ざすことによって、事は言との一致を復活することができるのである(注10)。そしてまた、いわゆるヨミガヘル(蘇・甦)という語も、ただ生き返るという意味ではなく、混沌を断って秩序ある世界に立ち戻ることをいう言葉であったと理解される。完全に死んでしまった人、心肺停止が続いた人、干し鰒に加工されたアワビが生き返るのではなく、危うくなったものが生き返ること、それがヨミガヘルである。
時に、日羅(にちら)、身の光、火焰(ほのほ)の如きもの有り。是に由りて徳爾(とくに)等、恐りて殺さず。遂に十二月の晦に、光を失ふを候(うかが)ひて殺しつ。日羅、更に蘇生(よみがへ)りて曰く、「此は是、我が駈使奴等(つかひやつこら)が為せるなり。新羅には非ず」といふ。言ひ畢りて死(みう)せぬ。(敏達紀十二年是歳)
或る娘子(をとめ)等の、褁(つつ)める乾鰒(ほしあはび)を贈りて戯(たはぶ)れに通観僧(つうくわんほふし)の咒願(じゅぐわん)を請ひし時に通観の作る歌一首
海神(わたつみ)の 沖に持ち行きて 放つとも うれむそこれが よみがへりなむ(万327)
整序を保つということは、雑草は無くなるということに当たり、「蕪」でなくなると言っている。このように、黄泉国の語りには、整序、不可逆性の乱れが一貫したテーマとして述べられている。「黄泉国」を単に死者の国の表現されたものと捉える(注11)のは誤りである。無文字時代にあった上代人のヤマトコトバの言葉遣いは、きわめて厳密な論理学のような思考を表している。
残る紀(1)の「吾が身の濁穢(けがらはしきもの)」、紀(2)の「其の穢悪(けがらはしきもの)」は、「滌(あら)ひ去(う)てむ」、「濯ぎ除(はら)はむ」対象である。それは、肌に泥がついたとか、衣が汚れて異臭を放っているということではない。気持ちの面で、よろしくないところへ行ったから気が滅入っている、嫌なものを見たのが目に焼き付いて鬱陶しい、そういった感情を浄化しようというのである。以上のことから考えると、記(2)、紀(1)・(2)の例は黄泉国に行ってそこがケガレていた、あるいは、その光景を目にしたがためにケガレたと考えるのが適当である。ケガレの源泉は、黄泉国が不可逆なことを可逆にしようとするほどに整序を欠いている点にある。伊邪那伎命(伊弉冉尊)の死、ならびにその死体、あるいは死という概念一般に発するものではない。死=穢れとする観念は、上代にはなかったというのが実情と考えられる。
以上、上代におけるケガレの観念がいかなるものか見てきた。およそ観念を理解するのに、文献に残る言葉とその使い方を決め手とすることは常道である。古代のことを知るためには、ロゴスを探ることが先決である。
(注)
(注1)ただし、「[「けがす」ハ]「穢(け)」「褻(け)」を語根とするもので、清浄をそこなうことをいう。仮名書きの例をみないが、〔神楽歌、神上(かみあげ)、或説〕「すべ神はよき日祭れば明日よりは朱(あけ)の衣(ころも)をけころもにせむ」の「けころも」は「褻衣」の意であり、〔万葉〕の「毛許呂裳(けころも)」〔一九一〕もその意であるから、ケは乙類音と考えてよい。」(316頁)としている。漢字の「穢」と「褻」に、意に通じるところがあるとみている。名義抄の訓に、「褻」にケカルとあるところによるものであろうか。説文に、「褻 私服也。衣に从ひ執声。詩に、是褻袢也、と曰ふ。」とある。ふだん着のことである。褻は、なれる(慣・馴・狎)意味である。「褻狎」はなれること、「褻瀆」はなれけがすこと、「褻器」はなれた容器、つまり、おまるのことである。なれる(褻)と、親しき仲に礼儀がなくなるところから、けがれていると感じるかもしれないが、もとの意味が「穢」と通じているわけではない。「毛許呂裳(けころも)」(万191)は確かに「褻衣」の意であろうが、ふだん着が穢れた衣であるというわけではあるまい。
毛許呂裳(けころも)を 春秋(とき)[=時と解キとの掛詞]片設(ま)けて 幸しし 宇陀の大野は 思ほえむかも(万191)
「穢」をケと一音で訓む例も知られない。上代に見られる言葉、ケガル、ケガス、ケガレ、ケガラハシの語根に、ケ(褻、ケは乙類)を想定することには無理があると考える。ケガレの概念が中古に大きく展開、転換した結果として、聖俗二元的な思想に至り、名義抄において、「褻」の訓にケカルとあるのではないかと考える。
(注2)高取1993.に、「政府は一ヵ所にまとめて埋葬せよといっているのに、民間ではあちらこちら勝手に散らし埋めるものが多いということになる。これは死穢を忌むことが強いとか弱いというのではなく、どういう状態にあることが忌むべきことなのか、禁忌の内容にさまざまなもののあったことを推測させる。日本人は昔から死穢を忌んできたと一律に断定してしまう前に、死の忌みそのもののありようについて、具体的に考えてみる必要は多分にあると思われる。」(197頁)、「死の忌みについて、民間では意外に無頓着な面もあったのに、貴族たちだけが神経質であり、過度に敏感であったとすると、その原因は彼らの地位の特殊性にもとめねばならないし、当然のこととして、外来の文化、思想の影響を考えなければならない。」(283頁)とある。正しい姿勢である。しかし、成清2003.には、「[死は、]律令制の成立以前から畏るべき忌憚の対象として認識されていたことは間違いないだろう。しかもそれは一部の支配階層のみの認識ではなく、日本社会の総体としての認識と考えてよいであろう。」(195~196頁)と従来からの考え方に留まっている。
殯が積極的に行われていた実例から考えると、伊藤2002.に、「この時代は、生と死が対立したものではなく、連続性があるものと考えられており、生者と死者との距離感が非常に近かったこ[ママ]という事実を暗示している」(5頁)、「死を生の連続性の中で捉えており、死体そのものに対する恐れの観念は希薄だったようである。」(同頁)とするのは正しいであろう。また、「『大化の薄葬令』以降、奈良時代末から平安時代初めにかけ、朝廷側の死体に対する「ケガレ」観念が大きく変化したのは事実であろうと思われる。」(6頁)とすることも蓋然性が高い。律令・假寧令に「服假」として規定されているものは、喪に服して弔うために休暇を与えるというものである。死の穢れに触れているから出社するなというインフルエンザ、触穢的発想とは違っていた。その当初の考え方は変わり、平安時代に入ってから穢れを忌みに結び付けるようになり、拡大解釈が起こるようになっていったとみる。
(注3)万葉集に「穢」字は、「穢(きたなき)屋戸(やど)」(万759)、「今日の夕月夜 不穢(きよく)照るらむ」(万1874)と用いられている。ケガレ系の言葉は使われていない。
(注4)記(2)の例の「穢繁」は、西宮1990.にケガレシゲキと訓んでいるが、新撰字鏡に、「蕪 穢也、荒也、志介志(しけし)」とあり、神道大系本、西郷2005.などにシケシキと訓むのに従った。
(注5)筆者は、基本的に“語源”を問うという立場に立たない。記紀万葉を伝えていた上代、特に飛鳥時代において、人々がその言葉はそういう意味合いからそう呼ばれているのであろうと納得されていたと思われる“語感”をもとにしてヤマトコトバを研究している。ケガレ(穢)という言葉について、どうしてケガレ、ケガル、ケガス、ケガラハシといった音により、心が乱れるような汚れ感や、きたならしさの自覚を表していると感じられたのかについては、稿を改めて論ずる。
(注6)現実の都市化とそこに住む人々の“心の都市化”とは並行して起こるものでありつつ、“心の都市化”は情報社会化とその管理化を惹起するものである。その結果、時代性を獲得して社会を一元化に導く傾向が強い。
(注7)土生田1998.に、古墳時代後期に、古墳に追葬するために石室内に入り込むことによって、腐乱死体を実見する経験が多くなり、恐れの気持ちが生まれたことから、膿わき蛆たかる穢れた世界として黄泉国の観念が成立し、それは同時に死穢観の成立したことを意味しているとしている(300頁)。このような図式的解釈は、近現代人が特有に行うものの見方の枠組みによっている。生を正とし、死を不正としている。当たり前の話だが、腐乱死体を実見することなど、横穴式石室に追葬が行われるよりもはるか太古から、常態として至るところにあった。野垂れ死にして放置されたままの死体に膿がわいて蛆がたかることなど、旧石器時代以来、一貫して目にしていた。同じ事態は、鎌倉時代であれ、戦国時代であれ、とてもよく見られ、江戸時代に一気に見られなくなった。そして、切腹が儀式化している。平安時代に死穢を忌み嫌ったとされるのも、平安京の宮廷社会や斎宮など、自然から隔離された場所に起こった現象である。「脳化社会」(養老孟司)にいる我々が、死体に膿わき蛆たかることを卑近に目にしていた人たちの感性に近づくためには、まずは自らの感性の方を否定してかからなければならない。
(注8)拙稿「大化二年三月の甲申の詔の「愚俗」と「祓除(はらへ)」について」参照。
(注9)無文字時代におけるヤマトコトバのあり様について言及している。文字を持たなかったとき、ヤマトの人々は約束事として、言っていることと起っている事とが同じになるように努めた。言=事とする言霊信仰である。そうしないと、言語活動に確かさが担保されない。逆に言えば、言語活動は事柄と一致しなければならないという制約に囚われていた。これはとても興味深い状況である。言葉に発した時、その言葉が確かであると理解されるために、その言葉のなかに自ら塗り込めて言及することが行われていた。言葉が自己説明を含んで発せられるのである。それは、話している言葉がそのまま辞書的な定義を行って説明し続けていることになる。それにより、聞いた話がその場において、なるほどそのとおりであると腑に落ちる仕組みになっている。いわば、アハ体験を引き起こすなぞなぞ的な話しっぷりである。「無端事(あとなしごと)」(天武紀朱鳥元年正月)と呼ばれている。話をするに当たり、言葉の独り歩きを抑止することにつながる。内容から解放されて命題間において形式的に操作することを拒むのである。対して、文字が流入して慣れ親しんでくると、例えば、万葉後期には、漢籍に学んだ記号変換、五行思想に「金」=「秋」であるからとして、季節のアキを表すのに「金」字に採用している。言語活動は、文字、漢籍という担保を得て、いちいち自らを拘束する必要がなくなった。言霊信仰は薄れていき、自己定義的に物語られてきた言い伝えを忘れていくことになった。文字時代が到来すると、あっという間に記紀に伝わる伝承は、人々に理解不能な話になってしまった。
言語がこのように束縛を受けながら用いられていたことが他の民族にあったのか、勉強不足で筆者は知らない。記紀万葉などから顧みることのできる飛鳥時代の言語活動は、「形式的操作」(ジャン・ピアジェ)の段階に至らないままにあった。仮説演繹的思考は行われず、言い伝えに伝えられている類型をなぞらえる形でのみ、その時とその時以降のことを語って理解しようとする傾向にあった。ひとりで真新しい仮説を立てて考えをめぐらすことは、言=事となるべき共同体にあって行われなかったのである。もちろん、伝承の類型を自らに都合よく解釈し、言=事であると主張することは行われており、それが通用しやすいのは、政治の中枢にいた天皇周辺であった。無文字であるヤマトコトバは、権力の集中に多分に貢献するほど政治的色彩が強かった。例えば、初期万葉の雑歌は、額田王のような代詠歌人によって歌われた。彼女は政権のスポークスマンと化していて、同時代的なイデオロギーを喧伝していた。それが多くの人々に受け入れられたのは、当時の共通認識であった言い伝えの内容になぞらえて歌われていたからである。人々は得心が行き、翼賛した。ただし、繰り返しになるが、何か斬新な発想から語りかけるものではなく、言い伝えの範囲に限られて思考されていた。なぞなぞ的なものの考えが重んじられて、いかに知恵ある捻り方ができるか、そればかりが問われていた。文字時代になって訪れた律令制の、知識中心主義の世界とはまったく異質なものであった。
(注10)記に、「黄泉国」に入るところに、「自殿縢戸出向之時」とある。「殿縢戸」は、「殿の縢戸(さしど)」と訓み、門を限って閉ざすことのできる装置になっていると考えられる。退出時の「事戸を度(わた)す」(記上)、「絶妻之誓建(ことどわた)す」(神代紀第五段一書第六)に対応した仕掛けである。話の始まりに戸のカギを開け、終わりに鎖している。新編全集本古事記に、「殿舎の戸はたいてい錠のかかるもののはずであり、疑問が残る。」(44頁頭注)とあるのは考えすぎで、話をわかりやすくするために言っている。
(注11)「黄泉国」は死の世界であるというのが今日までの一般的な解釈であるが、(注9)にも述べたとおり、無文字時代の言語活動において、抽象的な事柄を抽象的な事柄へと写像変換させて事足れりとすることは皆無であったと考える。記号という象徴の操作に明け暮れることはできなかった。一人そのような考えをめぐらせても、誰かに伝える際、書いて伝えることはなく、当然図表もグラフも持ちあわせていない。話して伝えるしかない。話して伝えるとき、相手が分からなければその話はそこで途絶える。それは、比喩的に言えば、算数と数学の違いである。算数に鶴亀算は、未知数xを表すことがない。文字を持たないということは、このxという記号による思考が行われないということである。記号の操作が、具体的なものに裏打ちされた段階に留まっている。目の前の事象をお話の次元の譬え話に仕立てることはできても、それはあくまでも譬え話で、その譬え話はよくよく考えてみれば具体的な事象に還流される。音声言語にのみよっている言葉が抽象的な概念操作に没頭してしまうと、聞く側が納得するに至らず、納得されなければ記憶されることはなく、したがって伝承されることもない。具体的な何かを表しているから、なるほどうまいことを言うね、とその場で理解されて記憶され、伝承されてきた。ほかに絡繰りがあるとは考えられない。創世神話であるとか、それに続く天皇制の正統性を説くための話であると捉えたがる傾向があるが、ただの丸暗記で覚え切れる性質のものではない。だからこそ、神代紀には別伝が多数残されている。
考古学に、横穴式古墳のことを「黄泉国」と表したとする主張は当たらない。話として全然うまいことを言っていない。もし仮にそうだとしてみると、話のセンスはレベルがあまりにも低い。誰が好き好んでそのような変てこな“言い換え”的な譬え話(?)を作るだろうか。横穴式の古墳のお祭り(?)のことを物語にしたとして、面白くもない話を言い伝えていくに耐えるスタミナは、話の中にも外にも存在しない。「黄泉国」の話は、それとは別の、当時新たに馴染むようになったライフスタイルについて、譬え話として“表現”しているものであろう。それが何を表していたものかについては、別に論ずる。そこまで至ってはじめて、ようやく無文字文化の機知に富んだ思惟に近づけたことになる。
(引用文献)
伊藤2002.伊藤信博「穢れと結界に関する一考察―「ケガレ」と「ケ」―」名古屋大学大学院国際言語文化研究科編『言語文化論集』第24巻第1号、2002年11月(http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8691032_po_itoh.pdf?contentNo=1&alternativeNo=)
大本2013.大本敬久『触穢の成立―日本古代における「穢」観念の変遷―』創風社出版、2013年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
西郷2005.西郷信綱『古事記注釈 第一巻』筑摩書房、2005年。
白川1995.白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
神道大系本 『神道大系 古典編一 古事記』神道大系編纂会、昭和52年。
高取1993.高取正男『神道の成立』平凡社(平凡社ライブラリー)、1993年。
土谷1986.土谷博通「古代における穢について―特に記紀より見たその用法―」『国学院雑誌』第87巻第11号、昭和61年11月。
成清2003.成清弘和『女性と穢れの歴史』塙書房、2003年。
西宮1990.西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成二年。
土生田1998.土生田純之『黄泉国の成立』学生社、1998年。