古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

允恭紀の衣通郎姫説話の歌謡について

2022年05月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
はじめに

 允恭紀に、允恭天皇の衣通郎姫(そとほしのいらつめ)通いと皇后(忍坂大中姫命(おしさかのおほなかつひめのみこと))の嫉妬にまつわる長い話がある。記には見られないもので、歌謡を伴っている。衣通郎姫は皇后の妹に当たる。この話の位置づけ、意義についてはほとんど解明されていない(注1)
 話の発端は七年十二月の新築祝いの宴の席においてである。「讌于新室」で、天皇が「親之撫琴」して「皇后起儛」った後、「不礼事」して「奉娘子」をためらった。逡巡の揚げ句、結局、「不已而奏言」して「妾弟、名弟姫焉」を推挙した。皇后の妹はとても美しかった。
 紀では、その妹のことをソトホシノイラツメと通称している(注2)。その後、衣通郎姫が姉である皇后(きさき)を憚って、在所の近江の坂田からなかなか上京しなかったこと、その間に舎人の中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)が策を講じて来させた件があり、藤原に殿屋を構築してそこへ居住させて天皇は夜這いに行こうとしたことがあった。けれども、その時は皇后がお産の夜であり、あまりにもひどいと恨み節が聞こえたために宥めることとなって行かずじまいになっていた。その後、藤原宮へ運ぶことがあり、互いに歌を交わし合っている。その歌が皇后の知るところとなり、再び恨みを買い、衣通郎姫は王居を離れたいと言ったために、今度は河内の茅渟に宮室をこしらえている。そして、九年二月、八月、十月、十年正月と天皇は遊猟と称して出向いたところ、回数が多すぎて人民の負担が多くなっていると皇后に諫められている。それからは稀にしか訪れなくなったが、次に十一年三月に行った時には衣通郎姫が歌を歌い、天皇はその歌を聞かせてはならないと言い含めている。話の最後に、藤原宮にいたときに藤原部を定めたという事績が付け加えられている。

 七年の冬十二月の壬戌の日の朔に、新室にひむろうたげす。天皇、みみづかみこときたまふ。皇后きさきちてひたまふ。儛ひたまふこと既に終りて、礼事ゐやのことまをしたまはず。当時とき風俗ひと宴会うたげたまふに、儛ふ者、儛ひ終りて、則ち自ら座長くらかみむかひてまをさく、「娘子をみな奉る」とまをす。時に天皇、皇后にかたりて曰はく、「何ぞ常の礼を失へる」とのたまふ。皇后、かしこまりたまひて、また起ちて儛したまふ。儛したまひふことをはりて言したまはく、「娘子奉る」とまをしたまふ。天皇、即ち皇后に問ひて曰はく、「奉る娘子は誰ぞ。姓字かばねなを知らむと欲ふ」とのたまふ。皇后、むこと獲ずしてまをして言したまはく、「やつこいろど、名は弟姫おとひめ」 とまをしたまふ。弟姫、容姿かほ絶妙すぐれてならび無し。其のうるはしき色、とほしてれり。是を以て、時の人、号けて衣通郎姫そとほしのいらつめまをす。天皇のみこころざし、衣通郎姫にけたまへり。 故、皇后を強ひてたてまつらしめたまふ。皇后、しろしめして、たやすく礼事言したまはず。ここに天皇、歓喜よろこびたまひて、則ち明日くるつひ使者つかひつかはして弟姫をす。
 時に弟姫、いろはに随ひて、近江あふみの坂田にはべり。弟姫、皇后のみこころかしこみて、参向まうこず。又重ねて七たび喚す。猶固くいなびてまういたらず。是に、天皇、悦びたまはず。而して復、ひとり舎人とねり中臣烏賊津使主なかとみのいかつのおみみことのりして曰はく、「皇后のたてまつる娘子弟姫、喚せどもまうこず。いまし、自らまかりて、弟姫を召しまうきたれらば、必ずあつたまひものせむ」とのたまふ。爰に烏賊津使主、おほみことを承りて退まかる。ほしひきぬうちつつみて、坂田に到る。弟姫が庭の中に伏して言さく、「天皇の命を以て召す」とまをす。弟姫、対へて曰く、「あに天皇の命をかしこまりまうさざらむや。ただ皇后の志をやぶらむことを欲はざらくのみ。やつかれ、身ぬといふとも、参赴まうでじ」といふ。時に烏賊津使主、対へて言さく、「やつかれ、既に天皇の命をうけたまはりしく、必ず召しまうこ。若し将て来ずは必ず罪せむとのたまひき。故、返りて極刑ころさるるよりは、寧ろ庭に伏して死なまくのみ」とまをす。仍りて七日なぬかるまでに、庭の中に伏せり。飲食くらひもの与ふれどもくらはず。しのびふつころの中の糒をく。是に、弟姫、以為おもはく、妾、皇后のねたみたまはむに因りて、既に天皇の命をこばむ。また君の忠臣ただしきひとうしなはば、是亦妾が罪なりとおもひて、則ち烏賊津使主に従ひて来。やまとの春日に到りて、櫟井いちひゐの上にかれいひすく。弟姫、みづかみきを使主に賜ひて、其のこころやすむ。使主、即日そのひに、みやこまういたる。弟姫を倭直やまとのあたひ吾子籠あごこの家に留めて、天皇に復命かへりことまをす。天皇、大きに歓びたまひて、烏賊津使主をめて、敦く寵みたまふ。然るに皇后のみおもへりくもあらず。是を以て、宮中みやのうちに近けずして、則ちこと殿屋とのを藤原にててはべらしむ。大泊瀬おほはつせの天皇すめらみことらしますあたりて、天皇、始めて藤原宮にいでます。皇后、聞しめして恨みて曰はく、「妾、初め結髪かみなひしより、後宮きさきのみやはべること、既に多年さはのとしを経ぬ。甚しきかな、天皇、今妾こうみて、死生しにいきむこと、相なかばなり。何の故にか、今夕こよひに当りても、必ず藤原に幸す」とのたまひて、乃ち自ら出でて、産殿うぶどのを焼きてみうせむとす。天皇、聞しめして、大きに驚きて曰はく、「われあやまちたり」とのたまひて、因りて皇后の意を慰めこしらへたまふ。
 八年の春二月に、藤原に幸す。密に衣通郎姫の消息あるかたちたまふ。是夕こよひ、衣通郎姫、天皇をしのひたてまつりて独り居り。其の天皇のいでませることを知らずして、うたよみして曰く、
 我が背子せこが べきよひなり ささがねの 蜘蛛のおこなひ 今夕こよひしるしも(紀65)
といふ。天皇、是の歌をきこしめして、則ち感情めでたまふみこころ おはします。而して歌して日はく、
 ささらがた 錦の紐を 解きけて 数多あまたは寝ずに ただ一夜ひとよのみ(紀66)
とのたまふ。明旦くるつあしたに、天皇、井のほとりの桜のはなみそこなはして、歌して曰はく、
 花ぐはし 桜ので こと愛でば 早くは愛でず 我が愛づる子ら(紀67)
とのたまふ。皇后、聞しめして、また大きに恨みたまふ。是に、衣通郎姫、まをしてまをさく、「やつこ、常に王宮おほみやちかつきて、昼夜相ぎて、陛下きみ威儀みよそほひむと欲ふ。然れども皇后は、妾がいろねなり。妾に因りてつねに陛下を恨みたまふ。亦妾が為にくるしびたまふ。是を以て、ねがはくは、王宮を離れて、遠くはべらむと欲ふ。若し皇后のねたみたまふみこころ少しくまむか」とまをす。天皇、則ちたちどころ宮室みや河内かふち茅渟ちぬ興造てて、衣通郎姫を居らしめたまふ。此に因りて、しばしば日根野ひねの遊猟かりしたまふ。
 九年の春二月に、茅渟宮に幸す。秋八月に、茅渟に幸す。冬十月に、茅渟に幸す。
 十年の春正月に、茅渟に幸す。是に、皇后、奏して言したまはく、「妾、毫毛けのすゑばかりも、弟姫を嫉むに非ず。然れども恐るらくは、陛下すめらみこと、屢茅渟に幸すこと、是、百姓おほみたからくるしびならむか。仰願ねがはくは、車駕いでましの数をめたまへ」とまをしたまふ。是の後に、希有まれに幸す。
 十一年の春三月の癸卯の朔丙午に、渟宮ぬのみやいでます。衣通郎姫、うたよみしてはく、
  とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海のはまの 寄る時時ときときを(紀68)
 時に天皇、衣通郎姫にかたりてのたまはく、「是の歌、あだしひとになかせそ。皇后、聞きたまはば必ず大きに恨みたまはむ」とのたまふ。かれ、時の人、浜藻をなづけて「奈能利曽毛なのりそも」とへり。
 是より先に、衣通郎姫、藤原宮に居りし時、天皇、大伴室屋連おほとものむろやのむらじに詔して曰ひしく、「朕、このごろ美麗かほよ嬢子をみなを得たり。是、皇后の母弟おもはらからなり。朕が心にことめぐしとおもふ。糞はくは其の名を後葉のちのよに伝へむと欲ふこと、奈何いかに」とのたまひき。室屋連、みことのりまにまに奏すことゆるされぬ。則ち諸国造等くにぐにのみやつこらおほせて、衣通郎姫の為に、藤原部ふぢはらべを定む。(允恭紀七~十一年)

 本稿では、紀65~67歌謡を中心に論じる。



 我が背子せこが べきよひなり ささがねの 蜘蛛のおこなひ 今夕こよひしるしも(紀65)
 和餓勢故餓 勾倍枳予臂奈利 佐瑳餓泥能 区茂能於虚奈比 虚予比辞流辞毛
 私の夫の訪れそうな夕である。笹の根もとの蜘蛛の巣をかける様子が、今、はっきり見える。(大系本333頁)
 今夜は我が夫がきっとおいでになる夜です。〈ささがねの〉蜘蛛くもの振舞いが、今夜は特別に目に立ちますもの(新編全集本119頁)

 「ささがねの」について、古典大系本では笹の根元のことをいうとし、新編全集本では「蜘蛛」を導く枕詞であるとする説をとっている。「笹蟹の」と受け取られて古今集に歌われているため、その古形であるとも考えられている。また、小蟹(ささがに)の意の可能性もあるという。大意としては、蜘蛛が巣を張るのが待ち人の来る予兆であるとする俗信により、今夜はきっと来てくれるだろうと捉えられている。朝蜘蛛を見ると待ち人が来るという迷信が今日まで残る。中国に、蜘蛛が来て人の衣につくと親客が来訪するという俗信があったとされている(注3)。しかし、この歌に適用するのは誤りである。
 歌に、「蜘蛛の行ひ・・」とある。岩波古語辞典に、名詞の「行ひ」は、「段取りのきまった動き。」(216頁)、動詞では、「儀式や勤行〈やう ごんぎ〉など、同じ形式や調子で進行する行為。」(215~216頁)とある。すなわち、「蜘蛛の行ひ」とは、蜘蛛が巣を張る際の決まったやり方を言っている。よく知られ代表的とされるクモの巣の張り方は、最初にY字形に糸を張っておいて、その後、ただ単調にぐるぐると渦巻きに張っていく。そのぐるぐると渦を巻いていく単純作業を「蜘蛛の行ひ」と呼んでいる。それがどうして人が来ることの予兆と感じられるのか。それは、客人が来た時にもてなす時、まず座布団をすすめることにある。当時の座布団は、わろうど、古語に藁蓋(わらふた)、円座である。和名抄に、「円座 孫愐に曰く、䕆〈徒口反、上声の重、俗に円座と云ひ、一に和良布太わらふたと云ふ〉は円き草のしとねなりといふ。」とある。縄をぐるぐる巻いていきつつ伸ばしながらつなぎとめていって円形の敷物を作る。決まりきったやり方を続けて行ってできあがる。まったく蜘蛛が巣を張っていく様に等しい。それを歌に詠んでいる。
 したがって、「ささがねの」という言葉も、その円座を巻き作ること、蜘蛛が巣を螺旋状に掛けていくことと関係のある語であると考えられる。ササという語義に、ぐるぐると螺旋状であることを示す語義があったようである。栄螺(さざえ)という語に残っている。和名抄に、「栄螺子 崔禹食経に云はく、栄螺子〈佐左江(さざえ)〉は蛤に似て円き者なりといふ。」とある。古くササエと呼んでいた可能性もある。ガネは、材料のことを指す。「おそひがね」(記67)は、「おそひ」という、幅が2倍あるオーバーコートの材料にする布地のことを指す。「ささがね」とは、ぐるぐる螺旋に巻く材料、また、その、ぐるぐる螺旋状に巻いていく製作当事者のことを言っている。
左:クモの編の張り方(円網)(日本自然保護協会「自然観察会・環境教育」【配布資料】今日からはじめる自然観察「網を張るクモを観察しよう」https://www.nacsj.or.jp/archive/2012/08/1180/、新海明1997.より)、右:円座の作り方(蒔絵師源三郎ほか・人倫訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592441/18をトリミング)

 我が背子せこが べきよひなり ささがねの 蜘蛛のおこなひ 今夕こよひしるしも(紀65)
 私のいい人が訪れるはずの夕方です。円座をこしらえるようにぐるぐると螺旋に巻いて蜘蛛が巣を張って行っている、それは今宵訪れる兆候なのでしょう。

 この歌が歌として機能しているのは、藤原の別殿屋が新室よりも施設装備的に粗末であったことによる。板敷の上に円座を敷いて座った。一方、宮廷に作った後宮、新室には畳がある。部屋のすべてを敷き詰めるものではなく、置畳であったと考えられるものの、天皇を円座に着座させるものではなかったと考えられる。偉い人の座席は御座(ござ)であり、茣蓙(ござ)の類である薄縁とも呼ばれた現在の畳表に当たる畳が広げられていたことを前提に語られたものであろう。「後宮」の傍訓に「キサキノミヤ」(図書寮本、書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430003/ff3835455be04c60bc29a03c678d0c2d(20/33)の16行目)とあるのと同じく「皇后」の傍訓に「キサ(イノ)ミヤ(きさきのみや)」(北野本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142364/12の4行目)とある。御座=茣蓙同様に、皇后のいる後宮のことと皇后自身のことを指す言葉として使われている。関心の的は居ること、居る場所、座布団にある。養老令に、職員令・大蔵省の「掃部司かにもりのつかさ」のほか、宮内省の「内掃部司」ばかりでなく、後宮職員令にも「掃司かにもりのつかさ」の条項がある。そこには、「尚掃かにもりのつかさ一人。掌らむこと、牀席、灑掃、舗設に供奉せむ事。典掃かにもりのすけ二人。掌らむこと尚掃に同じ。女孺十人。」とあって、敷物を製作していたことが記されている。カニモリノツカサ条に、薦(こも)、席(むしろ)、牀(とこ)、簀(すのこ)、苫(とま)、簾(すだれ)、狭畳(たたみ)という記述は載るが、円座(藁蓋)は見られない。
 


 ささらがた 錦の紐を 解きけて 数多あまたは寝ずに ただ一夜ひとよのみ(紀66)
 佐瑳羅餓多 邇之枳能臂毛弘 等枳舎気帝 阿麻哆絆泥受邇 多儾比等用能未
 ささらの模様の錦の紐を解き放って、さあ、幾夜もとは言わず、ただ一夜だけ共寝しよう。(大系本333頁)
 細かい模様の錦のひもを解き開いて、幾晩でも寝たいが、そうもできず、ただ一夜だけ寝よう(新編全集本119頁)

 「数多は寝ずに 唯一夜のみ」について、山路1973.に、「幾夜もは逗留出来ず、唯今夜一夜だけの共寝だ」(352頁)ともあるように、ようやく会えた衣通郎姫と、たくさんの夜をともにはしないで、の意と解されている。「度数多くは寝ずして……寝たのは一夜だけだ。着物の紐をといてゆっくりとしたのだのに、ねたのは、ただ一夜だけだった。」(武田1956.287~288頁)、「幾晩も寝たのではなくて、唯一晩寝ただけである。」(相磯1962.430頁)、「幾夜も寝ずに、【これまで】ただ一夜【共寝をした】だけだった。」(佐佐木2010.79頁)と、過去形か完了形に捉える説もある。詠嘆のニュアンスをこめ、残念がったり衣通郎姫を気の毒がったりしているともされている。
 せっかく会えた相手に、「数多は寝ずに 唯一夜のみ」と歌うのは不自然であると感じられてきた(注4)。どうにか落ち着かせようと解釈を捻っているのであるが、これらは、考える際の設定が誤っている。允恭紀の皇統譜に、「二年春二月丙申朔己酉、立忍坂大中姫皇后、是日、為皇后刑部。皇后生木梨軽皇子・名形大娘皇女・境黒彦皇子・穴穂天皇・軽大娘皇女・八釣白彦皇子・大泊瀬稚武天皇・但馬橘大娘皇女・酒見皇女。」とばかりある。天皇が、幾人かの女性と交渉して子を設けることは不自然なことではない(注5)。令制によって呼称は定まってゆき、正妻を皇后、内親王の妻を妃、それ以外を夫人、嬪としている。紀の表記では、皇后(きさき)、妃(みめ)、嬪(みめ)、夫人(おほとじ)などとある。他にも天皇が手をつけて皇子・皇女を生んだこともあり、皇統譜に「采女うねめ」(舒明二年正月)、「宮人めしおみな」(天智紀七年二月)などとある。一夫一婦制を基準に物事を考えているわけではない。
 允恭天皇は皇后との間ばかりに、五男四女を設けている。レアケースである。この点を考えれば、「数多は寝ずに」とある「数多」「寝」る相手は、皇后のことを言っていると理解すれば筋が通る。皇后とたくさんの夜を共にしているけれどその常とは違い、そんなマンネリとは違って、今宵一夜、燃える夜をすごす、と言っている。宣言しているのであって、「誘った歌」(大系本333頁)ではなく、「「ただ一夜」と惜しむ」(内田1992.304頁)ものでもない(注6)。歌の題詞に当たる地の文に、「天皇聆是歌、則有感情而歌之曰、」と書いてある。「是歌」は紀65歌謡のことであり、「来べき夕なり」、「今夕」とあるのは、まさにその「唯一夜のみ」に当たる。天皇が後宮に入ることは当然のこととされ、皇后は当然のこととして夜の営みを行う。そんな日常にときめきはない。対して、よくいらっしゃいましたと三つ指ついて迎え、お待ちしておりました、まあお掛けなさいと円座を差し出され、歓待されて嬉しくなっている。「艶色徹衣」ほどの色仕掛けの女なのである。
 この解釈が正しそうなことは、物語を最初からたどってくればわかる。発端は、七年十二月の「讌于新室」での「皇后起儛」後の「奉娘子」の逡巡に始まる。どうして皇后は「奉娘子」をためらっていたのか。おかしな話である。わざわざ「新室」を作っているのだから、天皇は新たに側室を呼ぶつもりである。式次第風に則って進めたらしく、「儛」を舞い、それが終わって、さて誰を推挙するかという時点で皇后は黙まりを決め込んでいる。「時人」が「衣通郎姫」と名づけているほどであることを噂話に聞いていて、「天皇之志存于衣通郎姫。」だったから、「宴会」の「儛」の後の「礼事」をさせるように仕組んでいる。皇后は全部お見通しで容易には従わなかった。これを嫉妬であるとする見方もできるが、「嫉」という発言は衣通郎姫の口からしか発せられていない。「礼事」にかこつけるなど気に入らないやり方だと感じたのであろう。
 登場人物は天皇、皇后、衣通郎姫の3人ばかりである。衣通郎姫(弟姫)は、姉の皇后の感情を畏怖して参内しなかった。天皇は舎人の中臣烏賊津使主という策士を派遣して連れて来させた。彼は、来てくれなければ死ぬと言って断食するふりをした。それに負けて衣通郎姫は上京してくる。だまして連れてきている。天皇はとても歓んで、その使者役を寵遇している。途端に皇后は「色不平」になっている。これを嫉妬とする見方もできなくはないが、やり方が汚いことに対して不平の色を浮かべたということではないか。皇后に不平があるようだからと、衣通郎姫は「勿宮中、則別構殿屋於藤原而居也。」ということになっている。これでは何のために税金を使って「新室」を建てたのかわからなくなってくる。
 衣通郎姫(そとほしのいらつめ)が意識していたのは、その美しさが外からでも見えるという点である。後宮に入りたがらなかったのは、上述の「掃司かにもりのつかさ」の舗設が関係しているのであろう。部屋を外から見えなくするために、カーテンとなる「簾」をしつらえている。「かまあしすだれ」(職員令・大蔵省・掃部司)とある。衣通郎姫が負っている名は、そのスクリーンを認めない。「」は「」と同根の語だから、麻製のカーテン、あるいは衣桁にかけた衣によって目隠しとしていなければならない。そして、その美しさがうっすら透けて見える程度が望まれている。それが証拠に、在所の近江の坂田から連れ出してきた使者は、「烏賊津使主いかつのおみ」なる人物であった。当時、都でイカはどのように食べられたか。冷蔵技術はないから干物である。イカを干すには胴を割いてはらわたを出し、串に刺して広げる。衣桁に掛けた薄手の服のソトホシ(衣通、ソは甲類、トは乙類)(注7)の様に酷似している。ソ(衣、ソは甲類)+ト(助詞、トは乙類)+ホシ(干)するためには、皴になってはいけないから伸子針を使って張るのであるが、スルメを作るためにイカを干す場合も、串を通して張っておかないと丸まってしまってうまく乾燥させることができない。イカには水分が多く、身が透き通っている。すなわち、そういう環境に合わないから、彼女は「宮中」に近づきたがらず、皇后も自分がキサキノミヤという存在だから、後宮(キサキノミヤ)を独占してやまないのである。結果、「別構殿屋」するに至っている。話の構成として見事である。
イカ干し(スマイル@ヒロ様「イカあります」『四季彩写真館』ブログhttp://shikiphoto.blog67.fc2.com/blog-entry-516.html)
 そして、こともあろうに天皇は、皇后がお産の時に、衣通郎姫のところへ通おうとした。長年連れ添っているのに、今、お産に際して生死もままならないとき夜這いに行くのかと言い、産殿ごと火に巻かれて死のうとした(注8)。天皇は反省して皇后の気持ちを慰めすかすことをしている。「慰喩やすめこしらふ」こととは、自動詞形の「やすむ」は、「物事の成行きについて、気を楽にして、事の進行を一応止める意」(岩波古語辞典1307頁)、「こしらふ」は、「こちらにすでに出来ている構図におさまるように相手をなだめ、とりなす意。」(岩波古語辞典491頁)である。天皇の描いていた構図とは、立派な後宮のしつらえ(畳や簾)と簡素な殿屋のそれ(円座と粗末な麻衣を掛けてカーテン代わりにしたもの)との違いを説くことであったろう。後宮=皇后(きさきのみや)はすばらしいではないかということで、皇后をおさめることになっている(注9)。

 ささらがた 錦の紐を 解きけて 数多あまたは寝ずに ただ一夜ひとよのみ(紀66)
 ささらの模様の錦の紐を解き放って、毎日のようにくり返されてうんざりする子作りエッチではなくて、一夜限りなのだから精いっぱい好みの相手と燃え上がろう。



 花ぐはし 桜ので こと愛でば 早くは愛でず 我が愛づる子ら(紀67)
 波那具波辞 佐区羅能梅涅 許等梅涅麼 波椰区波梅涅孺 和我梅豆留古羅
 花のこまかく美しい桜の見事さ。同じ愛するなら(もっと早く愛すべきだったのに)、早くは賞美せずに惜しいことをした。わが愛する衣通郎姫もそうだ。(大系本333頁)
 〈花ぐはし〉桜のめでたさよ。同じ愛するなら早くから愛すればよかったが、早くは愛さずにいたことよ。我がいとしい姫よ(新編全集本119頁)

 歌の中のメデについて、今日の解説ではすべて「愛(め)で」とされている(注10)。早く松岡1932.に、「さくらのめで 桜の芽出即ち発芽の意。……観賞の意のメデ(愛)と解したものもあるが、其は他動詞であるから桜メデといふことは許されず、守部説のやうに此ノを「のやうに」の意(即ち副詞的表示)とすれば、後続語は述語なることを要し、メデといふ名詞形は用ひられぬ筈であるから、此メデ(芽出)は開花と同時に新葉の芽ぐんで居ることを云ふものとせねばならぬ。山桜のやうに花よりも先に葉が出るものすらあるのであるから、嫩葉に言及したとしても少しも怪しむに足らぬのである。」、「はやくはめでず 此メデは「芽出」に「愛」(賞)をいひかけたので、第二句のメデ以下は早クハ賞(愛)デズといはんが為の序とみるべきである。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223671/18~19、漢字の旧字体は改めた。)と指摘がある。
 桜の花は、ソメイヨシノに見慣れて、花が先に咲いて後から葉が出てくると思われているが、それは母体となったエドヒガンの特徴を受け継いだものである。野生種としては例外的で、葉と花が同時に出るもの(ヤマザクラ、オオヤマザクラ、オオシマザクラ)のほうが一般的である。つまり、三句目の「許等梅涅麼」は、「こと芽出ば」、同じ時期に目が出ているから花が目立たなかったという意と捉えられる(注11)。皇后を「葉」、衣通郎姫を「花」に見立てて歌にしている。彼女の特徴は、「其艶色徹衣而晃之。」であった。昨今、肌色という言い方は慎まれているが、そんなピンク色をしているのがサクラの花である。たまたま肌の色と同じ色をサクラの花に認めたから持ち出して歌っているのであり、桜の花を賞美する風習は上代にはなかった。
ヤマザクラの花と若葉(ウィキペディア「ヤマザクラ」あおもりくま様撮影https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤマザクラ)
 「花ぐはし」については、「桜」にかかる枕詞であるとする見解のほかに、「花ぐはし 葦垣あしかきしに ただ一目 相見しゆゑ 千遍ちたび嘆きつ」(万2565)とあり、その場合は形容詞の終止形で「葦」の連体修飾語であるとする説がある。クハシという形容詞は、「朝日・夕日・山・湖・花・女など主として自然の造化物の美しさを表現した。」(岩波古語辞典411頁)とあるように、すぐれてうつくしいことを言っている。ヤマザクラの花がすぐれて美しいとは言えないことは、花見文化に乏しく、しかも、サクラがその対象となったのは後世のことであるから、いま少し検討が必要である。
 「くはし花」とはなく、「花ぐはし」と、ことさらに言葉が玩弄されている点は注意しなければならない。枕詞の様相が顕著である。「花ぐはし」が「桜」にかかるのは、サクラという言葉が、サク(咲・開)という音をとっている点にある。ハナ(花)という語はハナツ(放)・ハナル(離)の語幹に当たり、咲いては散るものの謂いと受け取ることができる。語源的にそうであったということでなく、上代の人がそのように戯れに解釈していたということである。葉が出ていてあまり気づかないまま咲いてはすぐ散る花の代表格がサクラ(桜)である。そこに造化物の真髄を諧謔しえたから、特段に「花ぐはし」はサク(ラ)の枕詞たりえている。言葉(音)の洒落である。万葉歌を再掲する。

 花ぐはし 葦垣あしかきしに ただ一目 相見しゆゑ 千遍ちたび嘆きつ(万2565)

 この歌の「葦垣」も同様である。葦で作った粗末な垣はじきに崩壊する。昨日までは垣であったものが、夜に吹いた風などで散り散りになり姿を失っている。あるのは地面に散らばった葦の残骸である。生えていた葦が台風一過こんなに無残に根こそぎもぎとられて散らばっているのだろうか、と思わせる。途中の人間の行為、刈り取ってきて編んだ作業について、とぼけて忘却してみせている。よって、「花ぐはし」は「葦垣」の枕詞である。思いをつのらせていた一部始終は葉に隠れて人にはほとんど知られないまま咲いては散っていくようであると、表現して余りある枕詞なのである。

 花ぐはし 桜の こと芽出ば 早くは愛でず 我が愛づる子ら(紀67)
 (花ぐはし)桜の芽が出て、花と同時に芽が出ているので、花を早く見つけて愛でることがなかった、いま私の愛でている子、衣通郎姫よ。

 これは、「衣通郎姫」という名にもよく表されている。桜の花が葉に隠れていたけれど、よくよく見ると葉の囲みを通して花の美しいことが見えてくる。腹からの姉妹は出自が同じである。同じ枝先からほぼ同じ時期に出てきている。茂る葉に包まれて気づかなかったが、花があったというのである。姉妹の間柄の二者を、見た目の違いばかりで比較している。皇后は、自分のことを多産のイヌやブタ扱いしてかかるような歌を歌われ、再び「大恨」を起こしている。衣通郎姫のほうは、美貌にうぬぼれて自分の考え方の難点に気づかないから、距離を取るのが一番だと思うことになる。そして、「冀離王居而欲遠居。」と願い出ている。皇后がキサキノミヤと呼ばれるから、宮から遠ざかれば解消できると考えている。彼女の名は、ソトホシ、つまり、ソ(追馬、ソは甲類)+トホシ(遠、トは乙類)という手段を持っていたということである。馬を追う声を表す擬声語がソ(甲類)である。「はそとはじ」(万3451)とあり、また戯書の仮名に、「追馬」(万3645・3324)とある。ソと馬を追っているのは、厩へ馬を入れようとしているからである。ウマヤとは、ウム(産)+ヤ(屋)、産屋のことである。皇后は9人も産んでいる。そんな産屋尽くしの王居から遠ざかりたいというわけである。「遠し」は、「関係が切れてしまうほど相手との間に距離がある意。空間的にも時間的にも、心理的関係などにも用いる。」(岩波古語辞典923頁)。衣通郎姫に子はない。
 これらの歌は、七年十二月の出産時の浮気事件での「恨」からわずか2か月後、八年二月の出来事である。藤原宮へ行き、わざわざ自分と妹の衣通郎姫とを天秤にかけるような歌が歌われている。姉(いろね)の皇后に色はないからたくさん寝てようやくのこと、妹(いろど)の衣通郎姫には色があるから一晩だけでよく染みつくということか。皇后の感情は「色不平」から「恨」、「大恨」に進んでいる。それは、いわゆる嫉妬、ねたみというのとは異なるように思われる。実際、皇后の「恨」はお産の時に夜這いに行こうとしたことや、歌謡を耳にしたことで生じたものである。衣通郎姫を河内の茅渟に宮を作ってそこに住まわせ、天皇は狩猟と称して1年の間に4回行幸したときには皇后はねたむのではないと言い、「迎願宜車駕之数也。」と言って諫めている。それを天皇は聞いて「是後希有之幸焉。」と収まっている。トホシ(遠)であることを悟っている。そんななか十一年三月に茅渟宮へ行幸したときの衣通郎姫の歌、紀68番歌謡がつづき、それを皇后が聞いたら「恨」むだろうから他人に聞かれないようにと天皇は注意している。天皇は皇后の意向を汲んで「恨」を起こさせないように“停戦合意”し、それに沿って行動しようとつとめていたのである。



 紀68番歌謡については、議論が多岐にわたるため別稿に述べる(注12)。その際、允恭天皇と衣通郎姫の歌いあいにおいて、神代のこととして知られるイハナガヒメとコノハナノサクヤビメの関係をなぞらえたものであることを述べる。すでに見た紀65~67番歌謡においても、その言い伝えを踏まえて詠まれたものであった。コノハナノサクヤビメの名義は、木+の(助詞)+花+の(助詞)+咲く+や(助詞)+姫、であり、助詞が多用されて接続している語である。木の花が咲いていると言えばそのとおり咲いていると言えるのだがなあ姫、という意と解せられる。取り立てて言うほどにそんなふうに見えるものとしては、あだ花にたとえて見られるような、葉に隠れて人知れず咲いては散ってゆく桜や、花と見紛うのではないかと思える、木に張っている蜘蛛の巣のことがあげられる。この点から、紀65番歌謡の「蜘蛛」や紀66番歌謡の「一夜」、紀67番歌謡の「桜」といったキーワードが使われている。
 允恭紀の衣通郎姫の説話については、これまで、皇后の嫉妬のためにうまくいかない生涯を送ったものとして見定めようとされていた。しかし、衣通郎姫は、流される存在ではなく、名に負いながら皇后に対抗してかかっている。歌謡を含んだこの長い話が日本書紀に所載されている理由はいったい何なのか。筆者は常々、“ヤマトコトバ中心主義”で記紀万葉を捉えている。記紀の説話は、捉え返せば、ヤマトコトバの辞書に付された例文であるかのような役割を果たしている。この衣通郎姫説話も、ヤマトコトバの語彙を伝えるからくりとして構築されたものではないか。皇后(後宮)をキサキノミヤといい、ソトホシノイラツメという名についても馬追いの声と絡めて考えられることをみた。為政者が色仕掛けで政治を誤ることは、傾城の伝として知られる。ここでも、そうなりそうでそうならなかったことを語っているのではないかと感じられる。衣通郎姫の名の由来は、「其艶色徹衣而晃之。」であった。色香が透けて見えるというのである。スク(スキ、キは甲類)存在として衣通郎姫はいた。
 スク(透・隙)とスク(鋤・漉・梳)という語は同根であると考えられている。互いに間が空いてその間を光などが通るようになることと、土塊や粒子や繊維をほぐして整えることとである。網の目を整えることから、転じて網を編むことにも使われている。「皇軍みいくさかづらの網をきて、掩襲おそひ殺しつ。」(神武前紀己未年二月)とある。紀65歌謡に、「蜘蛛の行ひ」が焦点となって引き出されているもともとの鉱脈はそこにある。衣通郎姫は、皇后である忍坂大中姫命の「いろど」、すなわち、その母親にとっては後に続く娘である。次につづくもののことをスキという。「次、此には須岐すきと云ふ。」(天武紀五年九月)とある。また、近江の坂田から連れてくる話のなかで、烏賊津使主の小道具に「ほしひ」が出てくる。ソトホシ・・の名から連想されたものであろうが、旅路においても、「到倭春日、食于櫟井。」とある。井戸近くで食事をしたのは、携行している食事が糒、乾飯の類だからである。水にふやかして口にするもので、流し込むような食べ方になる。上代語では特にスクと言っている。「子麻呂等、水を以て送飯いひすき、恐りて反吐たまひつ。」(皇極紀四年六月)とある(注13)。そして、上代に確例はないものの、「く」という語が絡んでいるものと思われる。気に入ったものに心がひた走りに走ることをいう(注14)。一途になって我を忘れるということで、なかでも色恋はその最たるものである。「昔の若人は、さるすける物思ひをなんしける。」(伊勢物語・四〇)、「をのこのすきといふ物は、あやしき物にはべりければ、おほけなき心の侍て、身をもほろぼして侍にこそあれ。」(宇津保物語・国譲下)、「かやすき程こそ、好かまほしくは、いとよく好きぬべき世にはべりけれ。」(源氏物語・橋姫)などとある。傾城の危険はそこにある。騒動に、天皇が藤原へ夜這いに行こうとする件があるが、そのとき皇后は産後すぐのことであり、産殿から出て産殿に火を放ち、産んだ子ともども死のうとしている。子どもを置いて出てきているのであり、やろうとしていることは襁褓をしないと宣言しているのである。襁褓のことは、古語にスキという。新撰字鏡に「襁 九合反、上、小児を束ぬる背帯也。須支すき」とある。皇后は、傾城のリスキー・ファクター、スキ(隙)が広がらないようにしていたということであろう(注15)

(注)
(注1)近年の論考を示す。小野2019.に、「当該物語は従来、忍坂大中姫皇后の嫉妬物語であると評されてきた。しかしその見方には再検討の必要があろう。なぜなら、允恭紀の全体を通して皇后から天皇への恋情は明示されず、嫉妬の表現とされる「嫉」は弟姫による認識としてのみ描かれるからである。皇后は弟姫のもとへ赴く天皇を咎める際に、長年天皇に仕えてきた皇后たる自身の出産と時を同じくすることを咎め、あるいは度重なる行幸によって民の負担が重くなることを慮るなど、公的な立場から理を以て天皇を説得するかたちをとる。理を重んずる皇后と、相愛の恋情を中心に描かれる天皇・弟姫との間には、人物像に大きな格差が見て取れる。その格差は、允恭天皇が父仁徳からは天下を治めることはできないと評され、兄である履中・反正両天皇から軽んぜられていたという『日本書紀』独自の允恭天皇像と関わるものと考える。結論を先に言えば、允恭天皇の天皇としての欠陥を言葉で直接的に示すのではなく、賢后・忍坂大中姫との対比によって描出するのが、当該物語であったと考えるのである。」とある。疑問である。
(注2)允恭記に載る「衣通郎女」は允恭天皇の皇女で、軽大郎女(かるのおほいらつめ)の別名を「衣通郎女」といい、「御名みなに衣通王と負ふ所以は、其の身の光のより通り出づればぞ。」(允恭記)と注記されている。別人として書いてあると考えられ、訓み方をソトホとする解説書もある。
(注3)諸研究に引かれるように、詩経・豳風・東山の「蠨蛸」の注、荊楚歳時記「七月七日」、芸文類聚「蜘蛛」の項に、中国で蜘蛛にまつわって何かの予兆とする考えがあった。その考え方が古代に伝来していたか、似た考え方が本邦にもともとあったか、究明されることのないまま雰囲気としてそれらしいと定めてしまっている。早く契沖・厚顔抄に、爾雅・釈虫以下さまざまに引いている(国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001746/viewer/116)。歌意としては、釈日本紀に、「凡ソ歌ノ意、奉天皇ヲ之処ニ蜘蛛下ル檐ヲ間、為臨幸シ玉瑞ト之由占ヒ合スルナリ。」(国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200005069/viewer/521、漢字の旧字体を改め、句読点を施した)の域を出るものではない。
(注4)山路1973.に、「屈折した男の気持ち」(353頁)などと解して納得しようとしている。土居2019.に、「この一首は、允恭天皇の衣通郎姫に対する御製である。嫉妬深い妻を何とか遣り過ごし、やっと逢うことの出来た愛しい女との逢瀬の歌であるのだが、「ただ」が「せめて」の意味で使われているのならばともかく、「ただ一夜のみ寝よう」などという気持ちを歌にするだろうか。この歌には、萬葉集の七夕歌にみる「佐宿者さぬらくは 年之度尓としのわたりに 直一夜耳ただひとよのみ」と同様の思いが込められているのではないだろうか。「幾夜も逢いたいが、それも叶わず、愛しい君との逢瀬はただ一夜」という切なさや、この一夜の重みを詠んでいるとして、「あまたは寝ずに(寝るのは)ただ一夜のみ」というように、例えば「佐宿者さぬらくは」などを補うものとすると、日本書紀歌謡にみる「多儾比等用能未」の「ノミ」は、萬葉集歌にみる文末「ノミ」の表現と同様に述語に下接する形である。」(117頁)とある。
(注5)先例として応神天皇の場合を見ると、仲姫(なかつひめ)を皇后とし、3人子を設けているが、即位前にその姉の高城入姫(たかきのいりびめ)を妃としていて5人子を設けている。これは死別したのであろう。また、皇后の妹の弟姫(おとひめ)を妃として3人子を設けている。姉妹をどんどん後宮に迎え入れていて憚るところがない。ほかに、妃5人(子は3+1+1+1+2人)を記している。そのうち2人は、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)とその妹の小甂媛(をなべひめ)である。日本書紀が編纂され始めた天武天皇も、菟野皇女(うののひめみこ)を皇后とし、1人子を設けているが、即位前にその姉の大田皇女(おほたのひめみこ)を妃として2人子を設けている。これも死別のようである。ほかに、妃2人(子は2+1人)、夫人3人(子は1+1+3人)、それ以外に3人(子は1+1+4人)との関係を記録している。夫人の3人のうちの2人は、氷上娘(ひかみのいらつめ)とその妹の五百重娘(いほへのいらつめ)である。
(注6)谷川士清・日本書紀通証に、「言、雖一夜ト亦尽歓也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917894/65、漢字の旧字体を改め、句読点を施した。)とある点は顧みるに足る指摘である。
(注7)この「」がソ甲類である点については、拙稿「上代語「衣(そ)」の上代特殊仮名遣い、甲乙の異同について」参照。
(注8)言い伝えのうちによく知られていた対抗措置として「焼産殿而将死。」をしている。皇孫が一夜いとなんだだけで妊娠したことに疑いをはさんだときに同じである。伝承どおりでパターン化された行動である。この話では、イハナガヒメとコノハナノサクヤビメの姉妹関係と、皇后と衣通郎姫のそれとを対照させて言い伝えをよみがえらせている。そして、伝承に則った歌を天皇と衣通郎姫とが交わして皇后に当てつけている。(注12)参照。
(注9)新編全集本では「慰喩」に「なぐさめさとす」と新訓を与え、「相手を慰めて合点するように諭し、自分なりに納得する意。」(118頁)と解されているが、意を尽くしていない。
(注10)武田1956.に「桜を譬喩に使ったのは美しい。記紀の歌謡には、歴史物語に挿入されるものである性質上、自然美に及んだものはすくないが、これは譬喩ではあるが、めずらしいものの一つで、桜の美をたたえている。桜を歌った歌として最古のものである。」(288頁)とあり、少なからずその解釈が通行している。葉っぱが茂って花が見えなかったよ、と言わんがためにサクラの開花の性質を譬喩に用いているのであって、サクラの花をことさらに賞美するものではない。
(注11)佐佐木2010.に、「この句から次句への続きかたは順当でなく、かなり屈折している。あるいは、ここが句切れか。「同…ば」は、「同じ…ならば」の意。」(79~80頁)とあるのは、メデを「愛で」の意に解しているゆえである。大館2008.に、「コト~バは「どうせ~なら」の意を表す。『万』に「こと放けば」(7・一四〇二)、「こと降らば」(10・二三一七)などの例がある。」(243頁)とするのは、コト(同)の義を忘れ、文脈の否定的見解に寄せた解釈である。
(注12)拙稿「「なのりそも」起源譚について」参照。
(注13)拙稿「古事記の天之日矛の説話について─牛を中心に─」参照。
(注14)允恭紀では「天皇之志、存于衣通郎姫。」とあり、「く」と訓んでいる。
(注15)今日の研究者には、天皇代の継続として記紀の説話を位置づけてゆこうとする流派があるが、それぞれの説話が持つ主題は、史実の連なりでも全体の構想の下で据えられたパーツでもない。それぞれ一話完結的に、当時の人にとって大事なことを伝え残そうと、事柄を言葉にしておいたものである。記紀に記される歌謡は、その説話、逸話をブラシュアップさせる効果を担っており、とりあげた允恭紀歌謡のように、歌われていることをもって言葉の意義を深めて言葉に理解することが行われている。歌を聞いて聞いた人が恨むとは、人の気持ちが動かされるということである。理の当然のこととして、歌は政治性を帯びかねないものであった。

(引用・参考文献)
相磯1962. 相磯貞三『記紀歌謡全註釈』有精堂出版、昭和37年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
内田1992. 内田賢徳『万葉の知─成立と以前─』塙書房、1992年。
大館2008. 大館真晴「九 允恭記①」大久間喜一郎・居駒永幸編『日本書紀[歌]全注釈』笠間書院、平成20年。
小野2019. 小野諒巳「『日本書紀』允恭天皇条における人物造形─衣通郎姫の物語と歌を中心に─」上代文学会、令和元(2019)年度上代文学会秋季大会(令和元年11月24日、明治大学中野キャンパス)研究発表会発表要旨。上代文学会サイトhttp://jodaibungakukai.org/11_past.html
佐佐木2010. 佐佐木隆校注『日本書紀歌謡 簡注』おうふう、平成22年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新編全集本 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
武田1956. 武田祐吉『記紀歌謡集全講』明治書院、昭和31年。
土居2019. 土居美幸「上代における文末「ノミ」という表現」毛利正守監修『上代学論叢』和泉書院、令和元年。
松岡1932. 松岡静雄『紀記論究外篇─古代歌謡(下)─』同文館、昭和7年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223671
山路1973. 山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、1973年。

※本稿は、2021年4月稿の誤りを2022年5月に正したもので、紀68番歌謡については別稿「「なのりそも」起源譚について」にまとめた。

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