はじめに
允恭紀に海藻のホンダワラの古語、ナノリソモについての起源説話が載っている。話は允恭天皇が衣通郎姫(そとほしのいらつめ)の暮らす河内の茅渟宮へ通った時、彼女が歌った歌が皇后を恨ませることにから他人に聞かれないようにという件の末で述べられている。皇后の「恨」みは、出産時に衣通郎姫のところへ行こうとしていた時、また、紀65~67番歌謡を聞いた時に起こっている。経験上、天皇は紀68番歌を皇后が聞いたら恨むだろうと思って口止めしている。衣通郎姫と天皇の歌によって皇后が恨んだところ以降を以下に掲げる。
八年の春二月に、藤原に幸す。密に衣通郎姫の消息を察たまふ。是夕、衣通郎姫、天皇を恋ひたてまつりて独り居り。其の天皇の臨せることを知らずして、歌して曰く、
我が背子が 来べき夕なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 今夕著しも(紀65)
といふ。天皇、是の歌を聆しめして、則ち感情 有します。而して歌して日はく、
ささらがた 錦の紐を 解き放けて 数多は寝ずに 唯一夜のみ(紀66)
とのたまふ。明旦に、天皇、井の傍の桜の華を見して、歌して曰はく、
花ぐはし 桜の芽出 同芽出ば 早くは愛でず 我が愛づる子ら(紀67)
とのたまふ。皇后、聞しめして、且大きに恨みたまふ。是に、衣通郎姫、奏して言さく、「妾、常に王宮に近きて、昼夜相続ぎて、陛下の威儀を視むと欲ふ。然れども皇后は、妾が姉なり。妾に因りて恒に陛下を恨みたまふ。亦妾が為に苦びたまふ。是を以て、糞はくは、王宮を離れて、遠く居らむと欲ふ。若し皇后の嫉みたまふ意少しく息まむか」とまをす。天皇、則ち更に宮室を河内の茅渟に興造てて、衣通郎姫を居らしめたまふ。此に因りて、屢日根野に遊猟したまふ。
九年の春二月に、茅渟宮に幸す。秋八月に、茅渟に幸す。冬十月に、茅渟に幸す。
十年の春正月に、茅渟に幸す。是に、皇后、奏して言したまはく、「妾、毫毛ばかりも、弟姫を嫉むに非ず。然れども恐るらくは、陛下、屢茅渟に幸すこと、是、百姓の苦ならむか。仰願はくは、車駕の数を除めたまへ」とまをしたまふ。是の後に、希有に幸す。
十一年の春三月の癸卯の朔丙午に、茅渟宮に幸す。衣通郎姫、歌して曰はく、
とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を(紀68)
時に天皇、衣通郎姫に謂りて曰はく、「是の歌、他人にな聆かせそ。皇后、聞きたまはば必ず大きに恨みたまはむ」とのたまふ。故、時の人、浜藻を号けて「奈能利曽毛」と謂へり。(允恭紀十一年三月)
「いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を」
とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を(紀68)
等虚辞陪邇 枳彌母阿閉椰毛 異舎儺等利 宇彌能波摩毛能 余留等枳等枳弘
すっかり安心して、いつも変わらずに、あなたにお逢いできるものではございません。海の浜藻の、浪のまにまに岸辺に近よりただようように稀にしか、お逢いいたしておりません。(大系本327頁)
いつもあなたは逢ってくださるわけではありません。〈いさなとり〉海の浜藻がたまたま岸に寄って来るように、まれであっても、せめてその時だけでも逢っていただきたいものです(新編全集本121頁)
常始終、君は(私に)お逢ひになるのでもない。あの海の浜藻の時々寄つて来るやうに、唯時々しか御逢ひにならないのであるものを(橋本1952.181頁、漢字の旧字体は改めた)
【こうして】いつまでも天皇は【私に】会ってなどいられましょうか。【ですから、せめて】(いさな取り)海の浜藻が【よく岸に流れ】寄るように、【ここへも】たびたびお尋ねを。(佐佐木2010.81頁)
大系本に、「何時と定めぬ不安を訴えた表現。」(327頁)、新編全集本に、「せめてそのたまの時だけでも逢ってください、という内容。トコシヘニとトキトキとの時間的対照、イサナ(鯨)とハマモ(浜藻)との大小の対比による技法。」(121頁)と解説されている。「時々」については、日葡辞書に、「Toqidoqi.トキドキ(時々) 副詞.時々,あるいは,折々.」(662頁)、「Toqi toqi.トキトキ(時々) それぞれの時.¶ また,何か物事をするのに定まっている時刻,または,時期.」(663頁)の2解が載る。時代別国語大辞典は、「それを遡らせるならば、……[紀68の]「等枳等枳」もときたまの意ではなく、月に一度とか、日を決めて逢うことを願ったものと解した方がよいかもしれない。」(489頁)としている(注1)。
吉野2005.は、「「海の浜藻が時たま寄るように、ほんの時たま」といった意味では、この歌に続けて本文に[述べられる]……皇后の嫉妬を起こさせるとは思われない。しかし、「月に一度とか、日を決めて逢うことを願ったもの」とも思われない。」、「『日葡辞書』の「それぞれの時」の意味の方を参考にして、「海の浜藻が寄ってくるその時その時をいう」(新編日本古典文学全集)と理解したい。すなわち、一首は、
いつもあなたは逢ってくださるわけではありません。(したがって)海の浜藻がたまたま寄って来るように、まれに寄っていらっしゃったその時その時を…。
といった意味であって、言外に、
恋ひ恋ひて逢へる時だに愛しき言つくしてよ長くと思はば(4・六六一)
うたて異に心いぶせし事はかり良くせ吾が背子逢へる時だに(2・二九四九)
などのような、「久しぶりに逢えた時には優しいお言葉などぞんぶんに聞かせてください」といったような意味が込められているものとみたい。そうであれば皇后の嫉妬を恐れた天皇の言葉が納得いく。」(193~194頁)としている。
允恭紀歌謡においてはすでに、紀66歌謡の、「数多は寝ずに 唯一夜のみ」という似通った言い回しがあった。日常的な皇后との夜のお勤めは退屈な労働に化しており、一晩限りの衣通郎姫との逢瀬のような楽しい活動ではなかったと理解される。「時々」の義は、日葡辞書の説明を受けてもいずれ常時ではないことに変わりがない(注2)。皇后との「数多」の営みは生物学的に子孫をもうける必要からある意味やむを得ないものであったが、衣通郎姫との「一夜」は夢のような世界で喜びの渦中にあったと考える。この対照関係が紀68番歌謡にどのように反映しているかについては後述する。滅多に逢えるわけではないからこその楽しさというものである。高揚感を生む源は、実は限られた逢瀬にこそあったのである。そのとき人は、旅にあるかのように浮ついている。「旅(たび)」と「度・遍(たび)」はともにビは甲類で、同根の語であるとも考えられている(注3)。それが「度」重ねて間がなくなり常時ということになると、マンネリ化をもたらし、特別なものであった「旅」の光彩は失われる。「旅」には賞味期限がある。
そのことはすでに地の文に説明されている。固有名詞に「茅渟宮(ちぬのみや)」とある。チヌは黒鯛のことである。タヒ(鯛、ヒは甲類)とタビ(旅・度)との洒落から、地名が設定されている。節会に口にできる高級魚で、たまにしか食べられないからおいしさが際立つのである。口承文芸ならではのわかりやすさである。
とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を(紀68)
「とこしへに 君も逢へやも」(いさなとり)海の浜藻が寄って来るその時その時のようにお会いいたして、その時その時を大切にいたしましょう。
塩が満ち引きするように時々に逢うから逢瀬という。非日常の逢瀬の高揚感と所帯じみた日常の気持ちの沈滞感は対照的である。それを端から決めてかかっている言明は、皇后が耳にすれば気に入らないであろう。そこで天皇は、「是歌不レ可レ聆二他人一。皇后聞必大恨。」と諭している。皇后に伝われば、またぞろ皇后は「大恨」するだろうからと言っている。天皇は、皇后に「恨」の心を抱かせる理由を悟っており、それは衣通郎姫の考えるような「嫉」ではないと理解しているのである。
では、上句はどのように考えればいいのであろうか。「とこしへに 君も逢へやも」については次の二点で検討が必要である。「とこしへに」の意味と、「已然形+やも」の構文の文法的理解である。
「とこしへに」
初句の「とこしへに」については万葉集に2例見られ、紀68番歌謡の解釈の際に必ずと言っていいほど引かれている。
とこしへに〔常之倍尓〕 夏冬行けや 裘 扇放たぬ 山に住む人(万1682)(注4)
…… 朝夕に 笑みみ笑まずも うち嘆き 語りけまくは とこしへに〔等己之部尓〕 かくしもあらめや 天地の 神言寄せて ……(万4106)
用例が少ないため不詳のところが多い。ずっと、いつまでも、永遠に、しばらくの間、など何とでも解されるとも考えられている。そうしないと紀68番歌謡の理解にかなわないところが生じるからである。しかし、これまでの理解で皇后が聞いて恨むに値する歌意は見出されていない。「とこしへに」には次のような例も見られる。
古沙の山に登りて共に磐石の上に居り。時に百済の王盟(か)ひて曰(う)さく、「若し草を敷きて坐(き )とせば、恐るらくは火に焼かれむことを。また木を取りて坐とせば、恐るらくは水の為に流されむことを。故、磐石(しへ)に居て盟ふことは、長遠(しへ)にして朽つまじといふことを示す。是を以て、今より以後、千秋万歳に絶ゆること無く窮まること無けむ。」(神功紀摂政四十九年三月、岩波古語辞典909頁)
この訓は古訓によるものではなく、大野晋氏によるものと思われる。百済王が恭順を示すに当たり、「磐石」に盟うから「長遠」に破られないのだという主張は、論理の組み立てとしてもっともなことである。偉大な先学の慧眼に従いたい。
紀68番歌謡の「とこしへに」も、この「磐石」のニュアンスを含むものと考えられる。姉妹の間柄で姉を磐に擬すことは言い伝えのなかに伝えられている。イハナガヒメとコノハナノサクヤビメの話である。
時に皇孫、因りて宮殿を立てて、是に遊息みます。後に海浜に遊幸して、一の美人を見す。皇孫問ひて曰はく、「汝は是誰が子ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「妾は是大山祇神の子、名は神吾田鹿葦津姫、亦の名は木花開耶姫」とまをす。因りて白さく、「亦吾が姉磐長姫在り」とまをす。皇孫の曰はく、「吾汝を以て妻とせむと欲ふ、如之何」とのたまふ。対へて曰さく、「妾が父大山祇神在り。請はくは垂問ひたまへ」とまをす。皇孫、因りて大山祇神に謂りて曰はく、「吾、汝が女子を見す。以て妻とせむと欲ふ」とのたまふ。是に、大山祇神、乃ち二の女をして、百机飲食を持たしめて奉進る。時に皇孫、姉は醜しと謂して、御さずして罷けたまふ。妹は有国色として、引して幸しつ。則ち一夜に有身みぬ。故、磐長姫、大きに慙ぢて詛ひて曰く、「仮使天孫、妾を斥けたまはずして御さましかば、生めらむ児は寿永くして、磐石の有如<rtあまひ>に常存らまし。今既に然らずして、唯弟をのみ見御せり。故、其の生むらむ児は、必ず木の花の如に、移落ちなむ」といふ。一に云はく、磐長姫恥ぢ恨みて、唾き泣ちて曰く、「顕見蒼生は、木の花の如に、俄に遷転ひて衰去へなむ」といふ。此世人の短折き縁なりといふ。(神代紀第九段一書第二)
つまり、允恭天皇代にあって、皇后はイハナガヒメに当たり、衣通郎姫はコノハナノサクヤビメに当たっている。この対応関係が見据えられているから、紀65番歌謡の「蜘蛛」や紀66番歌謡の「一夜」、紀67番歌謡であだ花の「桜」がキーワードとして使われている。そして反対に、神代紀の訓み方も定められる。「海浜」はさすらう感じのするウミヘタ(注5)よりもウミノハマと訓むのが紀68番歌謡の「海の浜藻」にかよっていて適切である。「磐石の有如に常存らまし。(有二‐如磐石一之常存)」の「有如」字は古事記にしたがってアマヒと訓むことでよいが、「磐石」、「常存」はともにトコシヘで、「磐石の有如に常存ならまし。」と訓むのが簡にして要を得ている(注6)。
すなわち、「とこしへに 君も逢へやも」について、これまで「君」=天皇が「逢ふ」相手は衣通郎姫のことと考えていたことは誤りで、「磐石」なる皇后に「長遠」に「逢ふ」のか、そんなことはない、と言っているのである。「君も逢へやも」の「君も」の「も」は、承ける語を不確実なものとして提示する助詞である。あなたさまともあろうお方がまさか、といったニュアンスを示している。
「君も逢へやも」
「已然形+やも」の構文については佐佐木隆氏の論考により明瞭となっている。まとめを示す。
Ⅰ[已然形+や][已然形+やも]が文末に位置し、そこでひとまず終止した文が明瞭な反語になるもの。
Ⅱ[已然形+や][已然形+やも]が文中に位置し、それ以下に、表現主体にとって信じがたい事態や現象が現実・事実として描写されるもの。
Ⅲ[已然形+や][已然形+やも]が文中に位置し、それ以下に、表現主体にとって不本意な事態や意外な事態が詠嘆・推量のかたちで提示されるもの。
三種の構文に含まれる[已然形+や][已然形+やも]という結合は、社会常識に反する事態や表現主体にとって意外な事態などを、「…するはずはない。/…であるはずはない。」(Ⅰ)、「…するはずはないのに…/…であるはずはないのに…」(ⅡⅢ)というように、反語によって否定的に提示するのを原則とする。したがって、結果的にそこに強い意外性や驚きのニュアンスがこもることになる……。(佐佐木2016.211頁)
紀68番歌謡はⅠの形をとっている。佐佐木2003.は、Ⅰの形を示す27例のうち、9例が下に別の文がつづくものとしている。そして、それらの特徴を見てとって文の性質を捉えている。
とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を(紀68)
君が代も 我が代も知れや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな(万10)
…… そこ故に せむすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 思ひ行かむ ……(万196)
…… 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天の如 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 恐くありとも(万199)
うつたへに 籬の姿 見まく欲り 行かむと言へや 君を見にこそ(万778)
焱り干す 人もあれやも 濡れ衣を 家には遣らな 旅のしるしに(万1688)
…… 大夫の 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと ……(万1809)
…… おほろかに 情尽して 思ふらむ その子なれやも 大夫や 空しくあるべき ……(万4164)
……男のみ父の名負ひて女はいはれぬ物にあれや、立ち双び仕へ奉るし理なりとなも念す。(詔13)
「……共通する特徴……[の]第一点は、[動詞已然形+や/やも]の後に来るその別の文は、意志・願望・義務などの、これから実現されるべき事態をあらわすものだということである。第二点は、第一点と連動することであるが、その別の文はどのようなニュアンスで直前の反語表現をうけてもよいというのではなく、「…だろうか、そうではない。だから…」という順接的な関係で直前の表現をうけるということである。……その動詞は動作や作用ではなく状態をあらわすものである。しかも、その状態は恒常的な状態や現在の状態であり、その状態を反語表現をもちいて否定的に提示したうえで、これから実現されるべきことを意志・願望・義務のかたちで「だから…」というニュアンスでのべるというのが、この種の反語終止文の原則だったようである【……第三の特徴である】。しかも、この種の文は、……一般的な社会常識に反することがらを提示してそれを「…する道理がない/…というものではない」と反語で否定するというような用法であったらしい【……第四の特徴である】。」(佐佐木2003.393・405頁)
佐佐木氏は、第三の特徴にひきずられる形で、この箇所の「逢ふ」を「逢ふ」という行為やそのくり返しではなく、「逢って、一緒にいる」という状態、時間的な幅をもつものと想定している(406頁)。同じく「逢ふ」を用いている万1809番歌の「逢ふべくあれや」の例では、結婚する、夫婦関係を結ぶ、の意である。すると、紀68番歌謡の「とこしへに 君も逢へやも」は、「磐石」なる皇后に「長遠」に、天皇さまともあろうお方がまさか結婚しつづけていらっしゃるのだろうか、そんなはずはない、と言っているものと定められる。離婚を迫っているのではなく、からかっているものと思われる。
とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を(紀68)
まるでイハナガヒメのように磐石的な容貌の皇后に長遠に、天皇さまともあろうお方がまさか結婚しつづけていらっしゃるのでしょうか、そんなはずはありますまい、(いさな取り)海の浜藻がよく岸に流れ寄るように、ここへたびたびお尋ねください。
このように解釈することによって、紀68番歌謡が皇后の耳に入れば恨むことになるであろうと天皇が見てとっていた理由ははじめて確かめられる。
「なのりそも」譚
允恭紀における天皇と皇后と衣通郎姫の、歌謡を伴う逸話はこれをもってほぼ決着している。そして、「故、時人号二浜藻一謂二奈能利曽毛一也。」という謂れとする譚に収斂している。「奈能利曽毛(なのりそも)」とは「勿(な)告(の)りそ藻(も)」の意とされている。ホンダワラのことで、「莫告藻(なのりそ)」(万946・1167)、「莫告(なのりそ)」(万509)などと書かれ、「莫鳴菜 本朝式に莫鳴菜〈奈々利曽(ななりそ)〉と云ふ。楊氏漢語抄に神馬藻〈奈能利曽(なのりそ)、今案ふるに本文は未だ詳(つばひら)かならず。但し神馬は莫(な)騎(の)りその義なり〉と云ふ。」(和名抄)とも記されている。説話の終結を地名や諺などの名称譚として終えるスタイルに収めていて、文章構成力が高いと評価されよう。この話はこれをもって終わりである。
左:ホンダワラ類(Sargassum、https://en.wikipedia.org/wiki/Sargassum)、右:名づけのイメージ
この「なのりそも」という呼び名の提示法については、佐佐木2003.が突っ込んだ議論をしている。
これ[允恭紀十一年三月条]は、「(人に)告げてはいけない」という意味の禁止表現である「勿告りそ」が「浜藻」の呼び名になった、という説明である。「なのりそも」の末尾の「も」が「浜藻」の「藻」と同じ語であることは、改めて言うまでもない。
右の記事の内容について、いささか気になることがある。それは、「なのりそも」という呼び名が、允恭天皇が衣通郎姫に「他人にな聆かせそ」と言ったことに由来するのであれば、それは「なのりそも」ではなく「なきかせそも」という呼び名になるのが自然ではないか、ということである。このように言うと、些末なことを問題にすると思われるかも知れないが、実はそうではない。「な聆かせそ」はほかならぬ天皇の発言であり、それかそのまま「海の浜藻」の呼び名になったのだと語る方が、起源伝承としてずっと重みを持つはずである。天皇の「な聆かせそ」という表現を、これとほぼ同意の「勿告りそ」に言い換え、その「なのりそ」の方に説明を加えることは、それを受けとめる側にちぐはぐな話だという印象を与えるだけでなく、起源伝承としての価値をひどく減じることでしかないのである。
実際の呼び名と右の記事との間に見られるこのずれは、既に存在していた「なのりそ」という呼び名を説明するために、あえて古い伝承に擬して後次的に右のような話を作り上げた、ということを物語る。このように後次的に話を作り上げることは、地名の起源を説明しようとする場合に最も多く採用される、ごく一般的な手法である。(384~385頁、注のルビは省いた)
この解説はわかるようでわからない。地名の起源を説明しようと後から付け加えているからちぐはぐな感じがするが、そういうことはよく行われたものであるとしている。決めてかかられ、上っ面な解説となっている(注7)。
「不可聆他人」を、書陵部本古訓にあるように「他人にな聆かせそ」と訓んでいる。ナキカセソとナノリソとが似ているからということで話の構成が成り立っていると考えている。しかし、「不可聆他人」とある文章をふつうに訓めば、「他人に聆かすべからず」となる。そういう訓み方は早くから行われている(注8)。
「な……そ」という言い方は、日本書紀では「請ふ、な視ましそ(請勿視之)」(神代紀第五段一書第六)、「此よりな過ぎそ(自此莫過)」(神代紀第五段一書第六)などと、「勿」や「莫」字を以て書かれている。「不可」と書いた場合、日本書紀ではベカラズ、ベカラジなどと訓まれる例が非常に多い。それ以外の訓み方の例をあげる。
ヨカラズ
「可からず、可からじ・可くもあらず(不可)」(神代紀第十段一書第三・垂仁紀三十二年七月・雄略紀五年二月・雄略紀二十年冬・推古紀八年二月・斉明紀四年十一月)
アシキコト等
「不可(不可)」(天武紀六年六月是月)
エ……ズ(ジ)の形
「え勝つまじ(不可勝)」(景行紀十二年十月)、「え渡らず(不可渡)」(景行紀四十年是歳)、「え勝ちまつるまじきこと(不可勝)」(景行紀四十年是歳・神功前紀仲哀九年十一月)
ズ
「摧き毀らず(不可摧毀)」(敏達紀十三年是歳)
「違ひまつらじ(不可違)」(神代紀第九段本文)
マジ
「諫むること得まじ(不可得諫)(垂仁紀四年九月)(注9)
アタラズ
「不可(不可)」(顕宗紀二年八月・欽明紀十五年十二月)
マナ
「緩らむこと不可(不可緩)」(舒明前紀)
ナ……ソ
「慎、不可怠(慎不可怠)」(天武前紀元年六月)
ナ……ソの形で訓んでいるのは、天武前紀の例の兼右本訓によるものである。「慎」字をもってユメと訓むと、「不可怠」もナ……ソ形で訓みたくなるわけである。似た形は、「慎之莫怠也」(景行紀四十年十月)とあり、「慎め、な怠りそ。」と訓んでいる。「莫」字をもって書かれているのでこの訓みは正解のように感じられる。そこでは「慎」はツツシムという動詞に当てている。日本書紀の「慎」字は、固有名詞の「粛慎」にあてる以外、動詞のツツシムを表すのが多いなか、「努力慎歟」(神武前紀戊午年九月)(注10)、「慎矣慎矣」(皇極紀四年四月)とも訓まれている。語気を強くした物言いから助字を加えて使っているように思われる。ユメは、万葉集では、「勤」(10例)、「謹」(4例)、「忌」(1例)のほか、「由米」(9例)、「湯目」(6例)、「由眼」(1例)の仮名書きがある。
「不可怠」も「莫怠也」も同じような言い回しを表記したものと思われる。そこで古訓にナオコタリソとある。ここから、允恭紀の「不可聆他人」も、「他人にな聆かせそ」と訓むことが通説化している。とはいえ、「他人に聆かすべからず」、「他人に聆かすこと不可」、「他人に聆かすこと可からず」などと訓んではいけない理由はない。
そしてまた、佐佐木氏の考えにあるように、起源伝承の価値を高めるために「他人に勿告りそ」と天皇に発言させてみると、全体の話構成はちぐはぐなものとなってしまう。衣通郎姫は歌を歌っている。歌は「告る」ものではない。女性が名を聞かれてみだりに答えず、OKであるときばかり名告るように、「告る」とはきちんと相手に伝えること、聞かせることを目途としている。漏れ聞こえるように聞かれる場合、それをもって「告る」とは言わない。「不可聆他人」は、他人に聞かれないように注意しろという意味である。ナキカセソ→ナノリソと意味変換してナノリソモという名の海藻の起源話にしているとする見方は誤りだと理解されよう。
紀68番歌謡を皇后に聞かれて恨まれるであろう理由は、皇后の容貌について、イハナガヒメにように醜いと、婉曲的にではあるが伝承を典故として重々しく陳述している点である。こういった歌を歌っている衣通郎姫に対して発言を戒めるには、「な聆かせそ」よりも、「聆かすべからず」、「聆かすこと可からず」のほうが適格ではある。天皇は衣通郎姫と人格的に同列にあったのではなく、少し引いて言っている。皇后が問題にして「恨」むこととなったのは、皇后の出産時に衣通郎姫のところへ行こうとしていたため、また、紀67番歌謡で自分と衣通郎姫の関係をイハナガヒメとコノハナノサクヤビメになぞらえたことを聞いたためであった。天皇が茅渟宮の衣通郎姫のところへ何度も行ったことについては、「妾、如二毫毛一、非レ嫉二弟姫一。然恐陛下屢幸二於茅渟一。是百姓之苦歟。仰願宜除二車駕之数一也。」と言って諫めているばかりである。美貌な衣通郎姫のことを「嫉」んでいても仕方がないと割り切れているが、伝承のイハナガヒメとコノハナノサクヤビメになぞらえてからかわれては、「磐長姫恥恨」(神代紀第九段一書第二)同様に「恨」み骨髄になるというのである。容姿に関して当事者の美人が悪口を言っていつまでもさげすむのを聞かされては興ざめするところがある。この名称譚で話が終わることは、二人の関係も終わることを暗示しているのであろう。
したがって、浜藻のことを「なのりそも」と呼んだ理由は、「勿告りそ藻」ではなく、「勿似りそ藻」の意であるとわかる。絶世の美人だから他に似ていないけれど、遠くに留め置かれてお召しもままならない、そんなふうになってはいけないから「勿似りそ」であるし、自分の美貌を誇って姉であり、皇后にもなっている人に対してさげすむようなことを歌にまでして歌って憚らない、そんなふうになってはいけないから「勿似りそ」なのであろう。そういう話に素材として持ち上げられているのが浜藻である。今日、ホンダワラと呼ばれる海藻で、気泡を持ち、岩礁に生えて大きく成長し、また、流れ藻になることもある。ゆでるとしゃきしゃきした歯ごたえで歯切れがよく、美味である。気胞がプチプチするところは大きな海ブドウのようである。吸い物や酢の物、サラダにして食べている。他の海藻とは類を異にした味わいで、「勿似りそ藻」と称していて間違いない。
おわりに
本稿では、允恭紀にある衣通郎姫の「とこしへに……」(紀68)歌謡と、それにつづく海藻のホンダワラの古語、ナノリソモの起源説話について考察した。これまでの解説では整合性が得られていなかったが、その誤謬を正すことができた。記紀に所載の説話はヤマトコトバで伝えられている。ヤマトコトバに考えて、ヤマトコトバに理解されるものだから、ヤマトコトバの言葉自体を念入りに検証することでのみ納得がいくものである。記紀に生きた人々は、記紀に伝えられた言い伝えをヤマトコトバの体系として受け入れていた人たちであり、新しい説話はそれ以前から伝えられている言い伝えを基にして組み立てられた。神々の伝承を信じていて典故に活用していたのである。無文字時代のヤマトコトバ“語族”の人たちは、その一つの閉じた系のなかでトートロジカルに思考をくり広げ、くり返していたのであった。
(注)
(注1)契沖・厚顔抄に、「帰時々ヲナリ浜藻ノイツトナク来依ルコトク常ニ我方ニ依リ来テ逢タマヘトナリ」(国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001746/viewer/118)とあって、そのような捉え方も行われていた。内藤1997.は、「稀有の行幸に対する嘆き、激しい嫉妬で自分を天皇から遠ざけようとする皇后への思い、そうした様々な郎姫の想念が歌謡に集約されていると考えねばならない。」(2頁)、「海の浜藻が寄るように天皇の心が郎姫の方に寄ろうとしているに違いないという確信と、皇后の嫉妬により稀有に逢うことしか出来ぬ現実、そうした狭間の中で、ひたすら天皇のお出ましを持[ママ]つ郎姫の嘆きが見事に歌に込められているのである。」(8頁)としている。
橘守部・稜威言別に、「一首の意は、行末長く見すて給はず、君もあひ給へかし。此ノ茅渟の海に西ふきて、稀に浜藻のより来る如く、あまりに滋からずただをりふしごとに、となり。」、「 抑衣通姫の、然か詔ひしは、自身弟として、姉ノ皇后の御念を痛めては、姉妹の間にして、あるまじき事とおもほして、和泉ノ国まで遠ぞき給ひたるに、猶あまり屡問ヒ給ふが、うたてさに、如此しげしげは、問せたまはすな、海の浜藻の、たまさかに依来る如くに、只時々に訪ヒ来給ひて、皇后の御恨を休め、長く常しくに、相変らず逢給へと、詔るにて、今ノ俗言に、ほそく長く、逢給へと云ほどの、意にこそあれ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1069688/166、漢字の旧字体は改めた)とあって、常に逢うのか時々逢うのかという撞着を巧みに解消したともみられた。ただし、それでは、この歌が皇后の耳に入っても「恨」ことにはつながらない。
佐佐木2010.は、「海の浜藻が寄って来るように、たびたび(のお出ましを)。……ここは、(海の藻が常に浜辺に流れ寄るように)たびたびお尋ね下さい、の意に解すべきもの。文末に位置する「已然形+やも」のあとには、これから実現すべきことを提示するのが原則。……「時時」は、「ときどき」という連濁形ではなく、「ときとき」という不連濁形。その時その時に・事に触れてなどの意。」(81頁)とする。
(注2)常時のときは「時なく」という。
(注3)時代別国語大辞典に、「【考】度(タビ)は旅(タビ)の意より転じたものではなかったかという。南フランスで voyage が度の意に用いられ、旅を意味するドイツ語 Reise も低地ドイツ語では度に用いられるということは、その推定の傍証となるだろう。」(437頁)とある。
(注4)万1682番歌は、通説では仙人が描かれている絵を見ての歌とされているが誤りである。コウモリのことを詠んだ歌である。拙稿「万1682番歌の「仙人」=コウモリ説」参照。
(注5)神代紀第十段にヒコホホデミノミコトが「行きつつ海畔に吟ひたまふ。」(本文)、「行きつつ海浜に至りて、彷徨み嗟嘆きます。」(一書第一)、「海浜に往きて、低れ佪りて愁へ吟ふ。」(一書第三)、「愁へ吟ひて海浜に在す。」(一書第四)とある。
(注6)拙稿「コノハナノサクヤビメについて」にアマヒという語について検討を加えた。今回の“発見”によって前後の訓み方にも配慮が必要であると知った。後日を期す。
なお、記には、「是に、天津日高日子番能邇々芸能命、笠紗の御前に、麗しき美人に遇ひたまひき。爾くして問ひたまはく、「誰が女ぞ」ととひたまふに、答へて白さく、大山津見神の女、名は神阿多都比売、亦の名は、木花之佐久夜毘売と謂ふ」とまをす。又、問ひたまはく、「汝が兄弟有りや」ととひたまふに、答へて白さく、「我が姉、石長比売在り」とまをす。爾くして、詔りたまはく、「吾、汝と目合はむと欲ふ。奈何に」とのりたまふに、答へて白さく、「僕は白すこと得ず。僕が父、大山津見神、白さむ」とまをす。故、其の父大山津見神に乞ひ遣す時に、大きに歓喜びて、其の姉石長比売を副へ、百取の机代の物を持たしめて奉り出づ。故、爾くして、其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送り、唯に其の弟木花之佐久夜毘売のみ留めて、一宿に婚<rubyを>為
允恭紀に海藻のホンダワラの古語、ナノリソモについての起源説話が載っている。話は允恭天皇が衣通郎姫(そとほしのいらつめ)の暮らす河内の茅渟宮へ通った時、彼女が歌った歌が皇后を恨ませることにから他人に聞かれないようにという件の末で述べられている。皇后の「恨」みは、出産時に衣通郎姫のところへ行こうとしていた時、また、紀65~67番歌謡を聞いた時に起こっている。経験上、天皇は紀68番歌を皇后が聞いたら恨むだろうと思って口止めしている。衣通郎姫と天皇の歌によって皇后が恨んだところ以降を以下に掲げる。
八年の春二月に、藤原に幸す。密に衣通郎姫の消息を察たまふ。是夕、衣通郎姫、天皇を恋ひたてまつりて独り居り。其の天皇の臨せることを知らずして、歌して曰く、
我が背子が 来べき夕なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 今夕著しも(紀65)
といふ。天皇、是の歌を聆しめして、則ち感情 有します。而して歌して日はく、
ささらがた 錦の紐を 解き放けて 数多は寝ずに 唯一夜のみ(紀66)
とのたまふ。明旦に、天皇、井の傍の桜の華を見して、歌して曰はく、
花ぐはし 桜の芽出 同芽出ば 早くは愛でず 我が愛づる子ら(紀67)
とのたまふ。皇后、聞しめして、且大きに恨みたまふ。是に、衣通郎姫、奏して言さく、「妾、常に王宮に近きて、昼夜相続ぎて、陛下の威儀を視むと欲ふ。然れども皇后は、妾が姉なり。妾に因りて恒に陛下を恨みたまふ。亦妾が為に苦びたまふ。是を以て、糞はくは、王宮を離れて、遠く居らむと欲ふ。若し皇后の嫉みたまふ意少しく息まむか」とまをす。天皇、則ち更に宮室を河内の茅渟に興造てて、衣通郎姫を居らしめたまふ。此に因りて、屢日根野に遊猟したまふ。
九年の春二月に、茅渟宮に幸す。秋八月に、茅渟に幸す。冬十月に、茅渟に幸す。
十年の春正月に、茅渟に幸す。是に、皇后、奏して言したまはく、「妾、毫毛ばかりも、弟姫を嫉むに非ず。然れども恐るらくは、陛下、屢茅渟に幸すこと、是、百姓の苦ならむか。仰願はくは、車駕の数を除めたまへ」とまをしたまふ。是の後に、希有に幸す。
十一年の春三月の癸卯の朔丙午に、茅渟宮に幸す。衣通郎姫、歌して曰はく、
とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を(紀68)
時に天皇、衣通郎姫に謂りて曰はく、「是の歌、他人にな聆かせそ。皇后、聞きたまはば必ず大きに恨みたまはむ」とのたまふ。故、時の人、浜藻を号けて「奈能利曽毛」と謂へり。(允恭紀十一年三月)
「いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を」
とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を(紀68)
等虚辞陪邇 枳彌母阿閉椰毛 異舎儺等利 宇彌能波摩毛能 余留等枳等枳弘
すっかり安心して、いつも変わらずに、あなたにお逢いできるものではございません。海の浜藻の、浪のまにまに岸辺に近よりただようように稀にしか、お逢いいたしておりません。(大系本327頁)
いつもあなたは逢ってくださるわけではありません。〈いさなとり〉海の浜藻がたまたま岸に寄って来るように、まれであっても、せめてその時だけでも逢っていただきたいものです(新編全集本121頁)
常始終、君は(私に)お逢ひになるのでもない。あの海の浜藻の時々寄つて来るやうに、唯時々しか御逢ひにならないのであるものを(橋本1952.181頁、漢字の旧字体は改めた)
【こうして】いつまでも天皇は【私に】会ってなどいられましょうか。【ですから、せめて】(いさな取り)海の浜藻が【よく岸に流れ】寄るように、【ここへも】たびたびお尋ねを。(佐佐木2010.81頁)
大系本に、「何時と定めぬ不安を訴えた表現。」(327頁)、新編全集本に、「せめてそのたまの時だけでも逢ってください、という内容。トコシヘニとトキトキとの時間的対照、イサナ(鯨)とハマモ(浜藻)との大小の対比による技法。」(121頁)と解説されている。「時々」については、日葡辞書に、「Toqidoqi.トキドキ(時々) 副詞.時々,あるいは,折々.」(662頁)、「Toqi toqi.トキトキ(時々) それぞれの時.¶ また,何か物事をするのに定まっている時刻,または,時期.」(663頁)の2解が載る。時代別国語大辞典は、「それを遡らせるならば、……[紀68の]「等枳等枳」もときたまの意ではなく、月に一度とか、日を決めて逢うことを願ったものと解した方がよいかもしれない。」(489頁)としている(注1)。
吉野2005.は、「「海の浜藻が時たま寄るように、ほんの時たま」といった意味では、この歌に続けて本文に[述べられる]……皇后の嫉妬を起こさせるとは思われない。しかし、「月に一度とか、日を決めて逢うことを願ったもの」とも思われない。」、「『日葡辞書』の「それぞれの時」の意味の方を参考にして、「海の浜藻が寄ってくるその時その時をいう」(新編日本古典文学全集)と理解したい。すなわち、一首は、
いつもあなたは逢ってくださるわけではありません。(したがって)海の浜藻がたまたま寄って来るように、まれに寄っていらっしゃったその時その時を…。
といった意味であって、言外に、
恋ひ恋ひて逢へる時だに愛しき言つくしてよ長くと思はば(4・六六一)
うたて異に心いぶせし事はかり良くせ吾が背子逢へる時だに(2・二九四九)
などのような、「久しぶりに逢えた時には優しいお言葉などぞんぶんに聞かせてください」といったような意味が込められているものとみたい。そうであれば皇后の嫉妬を恐れた天皇の言葉が納得いく。」(193~194頁)としている。
允恭紀歌謡においてはすでに、紀66歌謡の、「数多は寝ずに 唯一夜のみ」という似通った言い回しがあった。日常的な皇后との夜のお勤めは退屈な労働に化しており、一晩限りの衣通郎姫との逢瀬のような楽しい活動ではなかったと理解される。「時々」の義は、日葡辞書の説明を受けてもいずれ常時ではないことに変わりがない(注2)。皇后との「数多」の営みは生物学的に子孫をもうける必要からある意味やむを得ないものであったが、衣通郎姫との「一夜」は夢のような世界で喜びの渦中にあったと考える。この対照関係が紀68番歌謡にどのように反映しているかについては後述する。滅多に逢えるわけではないからこその楽しさというものである。高揚感を生む源は、実は限られた逢瀬にこそあったのである。そのとき人は、旅にあるかのように浮ついている。「旅(たび)」と「度・遍(たび)」はともにビは甲類で、同根の語であるとも考えられている(注3)。それが「度」重ねて間がなくなり常時ということになると、マンネリ化をもたらし、特別なものであった「旅」の光彩は失われる。「旅」には賞味期限がある。
そのことはすでに地の文に説明されている。固有名詞に「茅渟宮(ちぬのみや)」とある。チヌは黒鯛のことである。タヒ(鯛、ヒは甲類)とタビ(旅・度)との洒落から、地名が設定されている。節会に口にできる高級魚で、たまにしか食べられないからおいしさが際立つのである。口承文芸ならではのわかりやすさである。
とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を(紀68)
「とこしへに 君も逢へやも」(いさなとり)海の浜藻が寄って来るその時その時のようにお会いいたして、その時その時を大切にいたしましょう。
塩が満ち引きするように時々に逢うから逢瀬という。非日常の逢瀬の高揚感と所帯じみた日常の気持ちの沈滞感は対照的である。それを端から決めてかかっている言明は、皇后が耳にすれば気に入らないであろう。そこで天皇は、「是歌不レ可レ聆二他人一。皇后聞必大恨。」と諭している。皇后に伝われば、またぞろ皇后は「大恨」するだろうからと言っている。天皇は、皇后に「恨」の心を抱かせる理由を悟っており、それは衣通郎姫の考えるような「嫉」ではないと理解しているのである。
では、上句はどのように考えればいいのであろうか。「とこしへに 君も逢へやも」については次の二点で検討が必要である。「とこしへに」の意味と、「已然形+やも」の構文の文法的理解である。
「とこしへに」
初句の「とこしへに」については万葉集に2例見られ、紀68番歌謡の解釈の際に必ずと言っていいほど引かれている。
とこしへに〔常之倍尓〕 夏冬行けや 裘 扇放たぬ 山に住む人(万1682)(注4)
…… 朝夕に 笑みみ笑まずも うち嘆き 語りけまくは とこしへに〔等己之部尓〕 かくしもあらめや 天地の 神言寄せて ……(万4106)
用例が少ないため不詳のところが多い。ずっと、いつまでも、永遠に、しばらくの間、など何とでも解されるとも考えられている。そうしないと紀68番歌謡の理解にかなわないところが生じるからである。しかし、これまでの理解で皇后が聞いて恨むに値する歌意は見出されていない。「とこしへに」には次のような例も見られる。
古沙の山に登りて共に磐石の上に居り。時に百済の王盟(か)ひて曰(う)さく、「若し草を敷きて坐(き )とせば、恐るらくは火に焼かれむことを。また木を取りて坐とせば、恐るらくは水の為に流されむことを。故、磐石(しへ)に居て盟ふことは、長遠(しへ)にして朽つまじといふことを示す。是を以て、今より以後、千秋万歳に絶ゆること無く窮まること無けむ。」(神功紀摂政四十九年三月、岩波古語辞典909頁)
この訓は古訓によるものではなく、大野晋氏によるものと思われる。百済王が恭順を示すに当たり、「磐石」に盟うから「長遠」に破られないのだという主張は、論理の組み立てとしてもっともなことである。偉大な先学の慧眼に従いたい。
紀68番歌謡の「とこしへに」も、この「磐石」のニュアンスを含むものと考えられる。姉妹の間柄で姉を磐に擬すことは言い伝えのなかに伝えられている。イハナガヒメとコノハナノサクヤビメの話である。
時に皇孫、因りて宮殿を立てて、是に遊息みます。後に海浜に遊幸して、一の美人を見す。皇孫問ひて曰はく、「汝は是誰が子ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「妾は是大山祇神の子、名は神吾田鹿葦津姫、亦の名は木花開耶姫」とまをす。因りて白さく、「亦吾が姉磐長姫在り」とまをす。皇孫の曰はく、「吾汝を以て妻とせむと欲ふ、如之何」とのたまふ。対へて曰さく、「妾が父大山祇神在り。請はくは垂問ひたまへ」とまをす。皇孫、因りて大山祇神に謂りて曰はく、「吾、汝が女子を見す。以て妻とせむと欲ふ」とのたまふ。是に、大山祇神、乃ち二の女をして、百机飲食を持たしめて奉進る。時に皇孫、姉は醜しと謂して、御さずして罷けたまふ。妹は有国色として、引して幸しつ。則ち一夜に有身みぬ。故、磐長姫、大きに慙ぢて詛ひて曰く、「仮使天孫、妾を斥けたまはずして御さましかば、生めらむ児は寿永くして、磐石の有如<rtあまひ>に常存らまし。今既に然らずして、唯弟をのみ見御せり。故、其の生むらむ児は、必ず木の花の如に、移落ちなむ」といふ。一に云はく、磐長姫恥ぢ恨みて、唾き泣ちて曰く、「顕見蒼生は、木の花の如に、俄に遷転ひて衰去へなむ」といふ。此世人の短折き縁なりといふ。(神代紀第九段一書第二)
つまり、允恭天皇代にあって、皇后はイハナガヒメに当たり、衣通郎姫はコノハナノサクヤビメに当たっている。この対応関係が見据えられているから、紀65番歌謡の「蜘蛛」や紀66番歌謡の「一夜」、紀67番歌謡であだ花の「桜」がキーワードとして使われている。そして反対に、神代紀の訓み方も定められる。「海浜」はさすらう感じのするウミヘタ(注5)よりもウミノハマと訓むのが紀68番歌謡の「海の浜藻」にかよっていて適切である。「磐石の有如に常存らまし。(有二‐如磐石一之常存)」の「有如」字は古事記にしたがってアマヒと訓むことでよいが、「磐石」、「常存」はともにトコシヘで、「磐石の有如に常存ならまし。」と訓むのが簡にして要を得ている(注6)。
すなわち、「とこしへに 君も逢へやも」について、これまで「君」=天皇が「逢ふ」相手は衣通郎姫のことと考えていたことは誤りで、「磐石」なる皇后に「長遠」に「逢ふ」のか、そんなことはない、と言っているのである。「君も逢へやも」の「君も」の「も」は、承ける語を不確実なものとして提示する助詞である。あなたさまともあろうお方がまさか、といったニュアンスを示している。
「君も逢へやも」
「已然形+やも」の構文については佐佐木隆氏の論考により明瞭となっている。まとめを示す。
Ⅰ[已然形+や][已然形+やも]が文末に位置し、そこでひとまず終止した文が明瞭な反語になるもの。
Ⅱ[已然形+や][已然形+やも]が文中に位置し、それ以下に、表現主体にとって信じがたい事態や現象が現実・事実として描写されるもの。
Ⅲ[已然形+や][已然形+やも]が文中に位置し、それ以下に、表現主体にとって不本意な事態や意外な事態が詠嘆・推量のかたちで提示されるもの。
三種の構文に含まれる[已然形+や][已然形+やも]という結合は、社会常識に反する事態や表現主体にとって意外な事態などを、「…するはずはない。/…であるはずはない。」(Ⅰ)、「…するはずはないのに…/…であるはずはないのに…」(ⅡⅢ)というように、反語によって否定的に提示するのを原則とする。したがって、結果的にそこに強い意外性や驚きのニュアンスがこもることになる……。(佐佐木2016.211頁)
紀68番歌謡はⅠの形をとっている。佐佐木2003.は、Ⅰの形を示す27例のうち、9例が下に別の文がつづくものとしている。そして、それらの特徴を見てとって文の性質を捉えている。
とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を(紀68)
君が代も 我が代も知れや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな(万10)
…… そこ故に せむすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 思ひ行かむ ……(万196)
…… 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天の如 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 恐くありとも(万199)
うつたへに 籬の姿 見まく欲り 行かむと言へや 君を見にこそ(万778)
焱り干す 人もあれやも 濡れ衣を 家には遣らな 旅のしるしに(万1688)
…… 大夫の 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと ……(万1809)
…… おほろかに 情尽して 思ふらむ その子なれやも 大夫や 空しくあるべき ……(万4164)
……男のみ父の名負ひて女はいはれぬ物にあれや、立ち双び仕へ奉るし理なりとなも念す。(詔13)
「……共通する特徴……[の]第一点は、[動詞已然形+や/やも]の後に来るその別の文は、意志・願望・義務などの、これから実現されるべき事態をあらわすものだということである。第二点は、第一点と連動することであるが、その別の文はどのようなニュアンスで直前の反語表現をうけてもよいというのではなく、「…だろうか、そうではない。だから…」という順接的な関係で直前の表現をうけるということである。……その動詞は動作や作用ではなく状態をあらわすものである。しかも、その状態は恒常的な状態や現在の状態であり、その状態を反語表現をもちいて否定的に提示したうえで、これから実現されるべきことを意志・願望・義務のかたちで「だから…」というニュアンスでのべるというのが、この種の反語終止文の原則だったようである【……第三の特徴である】。しかも、この種の文は、……一般的な社会常識に反することがらを提示してそれを「…する道理がない/…というものではない」と反語で否定するというような用法であったらしい【……第四の特徴である】。」(佐佐木2003.393・405頁)
佐佐木氏は、第三の特徴にひきずられる形で、この箇所の「逢ふ」を「逢ふ」という行為やそのくり返しではなく、「逢って、一緒にいる」という状態、時間的な幅をもつものと想定している(406頁)。同じく「逢ふ」を用いている万1809番歌の「逢ふべくあれや」の例では、結婚する、夫婦関係を結ぶ、の意である。すると、紀68番歌謡の「とこしへに 君も逢へやも」は、「磐石」なる皇后に「長遠」に、天皇さまともあろうお方がまさか結婚しつづけていらっしゃるのだろうか、そんなはずはない、と言っているものと定められる。離婚を迫っているのではなく、からかっているものと思われる。
とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を(紀68)
まるでイハナガヒメのように磐石的な容貌の皇后に長遠に、天皇さまともあろうお方がまさか結婚しつづけていらっしゃるのでしょうか、そんなはずはありますまい、(いさな取り)海の浜藻がよく岸に流れ寄るように、ここへたびたびお尋ねください。
このように解釈することによって、紀68番歌謡が皇后の耳に入れば恨むことになるであろうと天皇が見てとっていた理由ははじめて確かめられる。
「なのりそも」譚
允恭紀における天皇と皇后と衣通郎姫の、歌謡を伴う逸話はこれをもってほぼ決着している。そして、「故、時人号二浜藻一謂二奈能利曽毛一也。」という謂れとする譚に収斂している。「奈能利曽毛(なのりそも)」とは「勿(な)告(の)りそ藻(も)」の意とされている。ホンダワラのことで、「莫告藻(なのりそ)」(万946・1167)、「莫告(なのりそ)」(万509)などと書かれ、「莫鳴菜 本朝式に莫鳴菜〈奈々利曽(ななりそ)〉と云ふ。楊氏漢語抄に神馬藻〈奈能利曽(なのりそ)、今案ふるに本文は未だ詳(つばひら)かならず。但し神馬は莫(な)騎(の)りその義なり〉と云ふ。」(和名抄)とも記されている。説話の終結を地名や諺などの名称譚として終えるスタイルに収めていて、文章構成力が高いと評価されよう。この話はこれをもって終わりである。
左:ホンダワラ類(Sargassum、https://en.wikipedia.org/wiki/Sargassum)、右:名づけのイメージ
この「なのりそも」という呼び名の提示法については、佐佐木2003.が突っ込んだ議論をしている。
これ[允恭紀十一年三月条]は、「(人に)告げてはいけない」という意味の禁止表現である「勿告りそ」が「浜藻」の呼び名になった、という説明である。「なのりそも」の末尾の「も」が「浜藻」の「藻」と同じ語であることは、改めて言うまでもない。
右の記事の内容について、いささか気になることがある。それは、「なのりそも」という呼び名が、允恭天皇が衣通郎姫に「他人にな聆かせそ」と言ったことに由来するのであれば、それは「なのりそも」ではなく「なきかせそも」という呼び名になるのが自然ではないか、ということである。このように言うと、些末なことを問題にすると思われるかも知れないが、実はそうではない。「な聆かせそ」はほかならぬ天皇の発言であり、それかそのまま「海の浜藻」の呼び名になったのだと語る方が、起源伝承としてずっと重みを持つはずである。天皇の「な聆かせそ」という表現を、これとほぼ同意の「勿告りそ」に言い換え、その「なのりそ」の方に説明を加えることは、それを受けとめる側にちぐはぐな話だという印象を与えるだけでなく、起源伝承としての価値をひどく減じることでしかないのである。
実際の呼び名と右の記事との間に見られるこのずれは、既に存在していた「なのりそ」という呼び名を説明するために、あえて古い伝承に擬して後次的に右のような話を作り上げた、ということを物語る。このように後次的に話を作り上げることは、地名の起源を説明しようとする場合に最も多く採用される、ごく一般的な手法である。(384~385頁、注のルビは省いた)
この解説はわかるようでわからない。地名の起源を説明しようと後から付け加えているからちぐはぐな感じがするが、そういうことはよく行われたものであるとしている。決めてかかられ、上っ面な解説となっている(注7)。
「不可聆他人」を、書陵部本古訓にあるように「他人にな聆かせそ」と訓んでいる。ナキカセソとナノリソとが似ているからということで話の構成が成り立っていると考えている。しかし、「不可聆他人」とある文章をふつうに訓めば、「他人に聆かすべからず」となる。そういう訓み方は早くから行われている(注8)。
「な……そ」という言い方は、日本書紀では「請ふ、な視ましそ(請勿視之)」(神代紀第五段一書第六)、「此よりな過ぎそ(自此莫過)」(神代紀第五段一書第六)などと、「勿」や「莫」字を以て書かれている。「不可」と書いた場合、日本書紀ではベカラズ、ベカラジなどと訓まれる例が非常に多い。それ以外の訓み方の例をあげる。
ヨカラズ
「可からず、可からじ・可くもあらず(不可)」(神代紀第十段一書第三・垂仁紀三十二年七月・雄略紀五年二月・雄略紀二十年冬・推古紀八年二月・斉明紀四年十一月)
アシキコト等
「不可(不可)」(天武紀六年六月是月)
エ……ズ(ジ)の形
「え勝つまじ(不可勝)」(景行紀十二年十月)、「え渡らず(不可渡)」(景行紀四十年是歳)、「え勝ちまつるまじきこと(不可勝)」(景行紀四十年是歳・神功前紀仲哀九年十一月)
ズ
「摧き毀らず(不可摧毀)」(敏達紀十三年是歳)
「違ひまつらじ(不可違)」(神代紀第九段本文)
マジ
「諫むること得まじ(不可得諫)(垂仁紀四年九月)(注9)
アタラズ
「不可(不可)」(顕宗紀二年八月・欽明紀十五年十二月)
マナ
「緩らむこと不可(不可緩)」(舒明前紀)
ナ……ソ
「慎、不可怠(慎不可怠)」(天武前紀元年六月)
ナ……ソの形で訓んでいるのは、天武前紀の例の兼右本訓によるものである。「慎」字をもってユメと訓むと、「不可怠」もナ……ソ形で訓みたくなるわけである。似た形は、「慎之莫怠也」(景行紀四十年十月)とあり、「慎め、な怠りそ。」と訓んでいる。「莫」字をもって書かれているのでこの訓みは正解のように感じられる。そこでは「慎」はツツシムという動詞に当てている。日本書紀の「慎」字は、固有名詞の「粛慎」にあてる以外、動詞のツツシムを表すのが多いなか、「努力慎歟」(神武前紀戊午年九月)(注10)、「慎矣慎矣」(皇極紀四年四月)とも訓まれている。語気を強くした物言いから助字を加えて使っているように思われる。ユメは、万葉集では、「勤」(10例)、「謹」(4例)、「忌」(1例)のほか、「由米」(9例)、「湯目」(6例)、「由眼」(1例)の仮名書きがある。
「不可怠」も「莫怠也」も同じような言い回しを表記したものと思われる。そこで古訓にナオコタリソとある。ここから、允恭紀の「不可聆他人」も、「他人にな聆かせそ」と訓むことが通説化している。とはいえ、「他人に聆かすべからず」、「他人に聆かすこと不可」、「他人に聆かすこと可からず」などと訓んではいけない理由はない。
そしてまた、佐佐木氏の考えにあるように、起源伝承の価値を高めるために「他人に勿告りそ」と天皇に発言させてみると、全体の話構成はちぐはぐなものとなってしまう。衣通郎姫は歌を歌っている。歌は「告る」ものではない。女性が名を聞かれてみだりに答えず、OKであるときばかり名告るように、「告る」とはきちんと相手に伝えること、聞かせることを目途としている。漏れ聞こえるように聞かれる場合、それをもって「告る」とは言わない。「不可聆他人」は、他人に聞かれないように注意しろという意味である。ナキカセソ→ナノリソと意味変換してナノリソモという名の海藻の起源話にしているとする見方は誤りだと理解されよう。
紀68番歌謡を皇后に聞かれて恨まれるであろう理由は、皇后の容貌について、イハナガヒメにように醜いと、婉曲的にではあるが伝承を典故として重々しく陳述している点である。こういった歌を歌っている衣通郎姫に対して発言を戒めるには、「な聆かせそ」よりも、「聆かすべからず」、「聆かすこと可からず」のほうが適格ではある。天皇は衣通郎姫と人格的に同列にあったのではなく、少し引いて言っている。皇后が問題にして「恨」むこととなったのは、皇后の出産時に衣通郎姫のところへ行こうとしていたため、また、紀67番歌謡で自分と衣通郎姫の関係をイハナガヒメとコノハナノサクヤビメになぞらえたことを聞いたためであった。天皇が茅渟宮の衣通郎姫のところへ何度も行ったことについては、「妾、如二毫毛一、非レ嫉二弟姫一。然恐陛下屢幸二於茅渟一。是百姓之苦歟。仰願宜除二車駕之数一也。」と言って諫めているばかりである。美貌な衣通郎姫のことを「嫉」んでいても仕方がないと割り切れているが、伝承のイハナガヒメとコノハナノサクヤビメになぞらえてからかわれては、「磐長姫恥恨」(神代紀第九段一書第二)同様に「恨」み骨髄になるというのである。容姿に関して当事者の美人が悪口を言っていつまでもさげすむのを聞かされては興ざめするところがある。この名称譚で話が終わることは、二人の関係も終わることを暗示しているのであろう。
したがって、浜藻のことを「なのりそも」と呼んだ理由は、「勿告りそ藻」ではなく、「勿似りそ藻」の意であるとわかる。絶世の美人だから他に似ていないけれど、遠くに留め置かれてお召しもままならない、そんなふうになってはいけないから「勿似りそ」であるし、自分の美貌を誇って姉であり、皇后にもなっている人に対してさげすむようなことを歌にまでして歌って憚らない、そんなふうになってはいけないから「勿似りそ」なのであろう。そういう話に素材として持ち上げられているのが浜藻である。今日、ホンダワラと呼ばれる海藻で、気泡を持ち、岩礁に生えて大きく成長し、また、流れ藻になることもある。ゆでるとしゃきしゃきした歯ごたえで歯切れがよく、美味である。気胞がプチプチするところは大きな海ブドウのようである。吸い物や酢の物、サラダにして食べている。他の海藻とは類を異にした味わいで、「勿似りそ藻」と称していて間違いない。
おわりに
本稿では、允恭紀にある衣通郎姫の「とこしへに……」(紀68)歌謡と、それにつづく海藻のホンダワラの古語、ナノリソモの起源説話について考察した。これまでの解説では整合性が得られていなかったが、その誤謬を正すことができた。記紀に所載の説話はヤマトコトバで伝えられている。ヤマトコトバに考えて、ヤマトコトバに理解されるものだから、ヤマトコトバの言葉自体を念入りに検証することでのみ納得がいくものである。記紀に生きた人々は、記紀に伝えられた言い伝えをヤマトコトバの体系として受け入れていた人たちであり、新しい説話はそれ以前から伝えられている言い伝えを基にして組み立てられた。神々の伝承を信じていて典故に活用していたのである。無文字時代のヤマトコトバ“語族”の人たちは、その一つの閉じた系のなかでトートロジカルに思考をくり広げ、くり返していたのであった。
(注)
(注1)契沖・厚顔抄に、「帰時々ヲナリ浜藻ノイツトナク来依ルコトク常ニ我方ニ依リ来テ逢タマヘトナリ」(国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001746/viewer/118)とあって、そのような捉え方も行われていた。内藤1997.は、「稀有の行幸に対する嘆き、激しい嫉妬で自分を天皇から遠ざけようとする皇后への思い、そうした様々な郎姫の想念が歌謡に集約されていると考えねばならない。」(2頁)、「海の浜藻が寄るように天皇の心が郎姫の方に寄ろうとしているに違いないという確信と、皇后の嫉妬により稀有に逢うことしか出来ぬ現実、そうした狭間の中で、ひたすら天皇のお出ましを持[ママ]つ郎姫の嘆きが見事に歌に込められているのである。」(8頁)としている。
橘守部・稜威言別に、「一首の意は、行末長く見すて給はず、君もあひ給へかし。此ノ茅渟の海に西ふきて、稀に浜藻のより来る如く、あまりに滋からずただをりふしごとに、となり。」、「 抑衣通姫の、然か詔ひしは、自身弟として、姉ノ皇后の御念を痛めては、姉妹の間にして、あるまじき事とおもほして、和泉ノ国まで遠ぞき給ひたるに、猶あまり屡問ヒ給ふが、うたてさに、如此しげしげは、問せたまはすな、海の浜藻の、たまさかに依来る如くに、只時々に訪ヒ来給ひて、皇后の御恨を休め、長く常しくに、相変らず逢給へと、詔るにて、今ノ俗言に、ほそく長く、逢給へと云ほどの、意にこそあれ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1069688/166、漢字の旧字体は改めた)とあって、常に逢うのか時々逢うのかという撞着を巧みに解消したともみられた。ただし、それでは、この歌が皇后の耳に入っても「恨」ことにはつながらない。
佐佐木2010.は、「海の浜藻が寄って来るように、たびたび(のお出ましを)。……ここは、(海の藻が常に浜辺に流れ寄るように)たびたびお尋ね下さい、の意に解すべきもの。文末に位置する「已然形+やも」のあとには、これから実現すべきことを提示するのが原則。……「時時」は、「ときどき」という連濁形ではなく、「ときとき」という不連濁形。その時その時に・事に触れてなどの意。」(81頁)とする。
(注2)常時のときは「時なく」という。
(注3)時代別国語大辞典に、「【考】度(タビ)は旅(タビ)の意より転じたものではなかったかという。南フランスで voyage が度の意に用いられ、旅を意味するドイツ語 Reise も低地ドイツ語では度に用いられるということは、その推定の傍証となるだろう。」(437頁)とある。
(注4)万1682番歌は、通説では仙人が描かれている絵を見ての歌とされているが誤りである。コウモリのことを詠んだ歌である。拙稿「万1682番歌の「仙人」=コウモリ説」参照。
(注5)神代紀第十段にヒコホホデミノミコトが「行きつつ海畔に吟ひたまふ。」(本文)、「行きつつ海浜に至りて、彷徨み嗟嘆きます。」(一書第一)、「海浜に往きて、低れ佪りて愁へ吟ふ。」(一書第三)、「愁へ吟ひて海浜に在す。」(一書第四)とある。
(注6)拙稿「コノハナノサクヤビメについて」にアマヒという語について検討を加えた。今回の“発見”によって前後の訓み方にも配慮が必要であると知った。後日を期す。
なお、記には、「是に、天津日高日子番能邇々芸能命、笠紗の御前に、麗しき美人に遇ひたまひき。爾くして問ひたまはく、「誰が女ぞ」ととひたまふに、答へて白さく、大山津見神の女、名は神阿多都比売、亦の名は、木花之佐久夜毘売と謂ふ」とまをす。又、問ひたまはく、「汝が兄弟有りや」ととひたまふに、答へて白さく、「我が姉、石長比売在り」とまをす。爾くして、詔りたまはく、「吾、汝と目合はむと欲ふ。奈何に」とのりたまふに、答へて白さく、「僕は白すこと得ず。僕が父、大山津見神、白さむ」とまをす。故、其の父大山津見神に乞ひ遣す時に、大きに歓喜びて、其の姉石長比売を副へ、百取の机代の物を持たしめて奉り出づ。故、爾くして、其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送り、唯に其の弟木花之佐久夜毘売のみ留めて、一宿に婚<rubyを>為